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TAMAの日記

叔父の一周忌と愛車「日産セドリック」の思い出(写真は借り物です)

3月22日(火)

こんばんは。

ブログ更新が滞っているので、今日も先ずは3月20日を振り返る。


3月20日(日)

午前10時から、叔父の一周忌法要が菩提寺で営まれた。

脳梗塞で倒れてからもう何年もの間、言葉を発することもなく、
ほぼ寝たきりのまま闘病していた叔父が息を引き取ってから、
もう一年。

月並みだが、本当に月日の経つのは早いものだと思う。

そして私達にも、あっという間に忌々しい、あの夏の日が
巡ってくるわけだ・・

叔父は長年縫製業を営み、特に高度成長期は大層羽振りが良くて
庶民にはまだ高嶺の花だった自家用車を、早くから所有していた。

当時、まだ関東に住んでいた私が、お袋の実家がある近江八幡に
帰省すると、叔父は自動車でいろんな所に連れて行ってくれるので、
それが本当に楽しみだった。

どこへ行ったのか、正直今となってはよく覚えていないのだが、
叔父に乗っけてもらった自動車だけは、鮮明に覚えている。

それが


(写真はウィキペディアより)
日産自動車の高級セダン

「セドリック」の第二世代。

何故これを覚えているかと言えば、このクルマは他車と違って
Cピラーが下にすぼんでいくような造形なので、それが子供心にも
気持ち悪くて嫌だったから(笑)

今ネットで調べたが、このセドリックのデザインは、あの

「ピニンファリーナ」

が担当したんだね・・・知らなかった。

帰省は大概夏休みだが、今のようにカーエアコンなど当たり前の
時代ではなく、当初は叔父のセドリックにも冷房が無かったので
とても暑い中でのドライブだったが、いつの頃からか、助手席に
小さなクーラーが付いた。

叔父は運転しながら

「これで夏も快適やでー」

と自慢していたが、何故かいつまで経ってもクーラーをつけないので

「叔父さん、暑いから早くクーラーつけてよ!」

「それがな・・・」

ようやくスイッチを入れるが、交差点で停止した時その理由が分かった。

「ぷすん・・」

停車中のアイドリング時に、クルマは呆気なくエンストした。

セドリックのエンジンと言えども、コンプレッサーを回す負担には
耐えられなかった訳だ。

今の時代エンストまでは考えられないが、実はエアコン作動時エンジンに
大きな負荷がかかっている事は、昔とそう大きく変わっていない。

アイドリングの状態で、エアコンをかけたまま長時間クルマを駐車させるのは、
エンジンに大きな負担をかけながら、ガソリンも垂れ流しているのと同じだ。



この型のセドリックは、当時タクシーでもよく見かけるぐらい走っていたと
思うが、もはや座間にある日産の展示施設のリストにも見当たらず、石川県
小松市にある「日本自動車博物館」まで行けば、現車を見られるもよう。


(写真は日本自動車博物館サイトより)



やがて、日本国内の縫製業を取り巻く環境が変わり、外国から安い衣類が
輸入されるようになると、仕事が激減して叔父の縫製業は一気に経営が
苦しくなった。

そして次第に借金も膨らみ、その返済にも窮するようになった叔父は、
とうとう縫製業を廃業する苦渋の決断を下し、私もよく遊びに行った
思い出多い家も手放して、叔父一家は京都へ転居していった。


叔父はその後、市内の老舗タクシー会社でドライバーとして働くように
なったが、元来自動車の運転が好きで、尚且つ縫製の仕事で京都の道も
知り尽くしていた叔父にとって、タクシードライバーは天職だった
ようだ。

どんなに道が混んでいても、叔父は裏道を駆使してどのドライバーよりも
早く目的地にお客様を運ぶので、叔父の熱烈なファンが増え、上得意様を
多く抱えて、ようやく叔父も第二の人生を順調に踏み出すかに見えた・・

そんな矢先の、突然の病だった。

叔父はさぞかし無念だったろうと思う。

しかし、その後の凄まじい闘病生活を思えば、今は

「お疲れ様でした、ゆっくり休んでください」

という気持ちしかない。


法要後、休暇村 近江八幡に場所を変え、にこやかに笑う叔父の写真に
献杯を捧げて、皆で楽しく会食した。


 
3月21日の事は次の記事で。

それでは💤



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