共有資産

2016年09月12日 | 日記

アニメ評論家の藤津亮太氏、2ch系まとめブログにWeb連載記事の全文を無断転載され抗議へ(Togetterまとめ)
2ch記者「Webに公開された情報は利用者全員の共有資産です。そんなに見られて恥ずかしい文章ならパスワードかけて会員限定記事にして下さい」(Togetterまとめ)


「ばっかでー」の一言で済ませてもいい話ではあるんだけど、件の人物が草創期から今までずっと2chをネット上の活動の主拠点にしていたらしいと聞いて、何だか胸の奥にざわっとした感触を覚えるところもある。
 例の“2ch記者”が2chを活動拠点(というのも大げさな表現だけど)として利用し始めたらしい15~6年前は、まだまだインターネットの商用利用が本格的に始まるよりずっと前の時代であり、ネット全体が善かれ悪しかれ有志的(ボランタリー)に運用されていた時期と言っていいだろう。当時もやはり、厳密に捉えれば著作権問題やその他の法的問題に引っ掛かるような書き込みは2ch上に多数存在していたが、利用者の絶対数の少なさ故にネット経由の情報拡散がまだ大きな力を持っていなかったことや、ネットの商用利用が拡大・普及する前で権利上の利害の衝突が(現在に比べたら)比較的大きな問題になりにくかったこと等の要因で、同種の問題がほぼ看過されがちであった。
 そうした空間で自らのネット上の作法を作り上げただけでなく、その後のネット利用の普及と商用利用の一般化という環境の変化に適応することなく(その必要性を感じることなく)今日までやってこれたのは、果たして“2ch記者”にとっては幸福だったのか不幸だったのか。“誰にも縛られたくないと逃げ込んだこの夜に 自由になれた気がした15の夜”なんて歌もあるけれど、彼にとってはそんな気分のまま居続けられたであろうネット上の空間こそがニライカナイ(琉球神話の「常世の国」)そのものだったのかもしれない。


 ところで、僕がこの話題に、冒頭で書いたようなざわっとした感触を覚えたのは、恐らく例の人物が2chに出入りし始めた時期からそれほど遠からぬ頃、外部テキストのコピペのような直接著作権問題に絡む話ではないものの、精神性(?)においてどこか似通った2ch上の流行に乗っかっていたことがあるからだ。
 平たく言えば、AA系の板における「虐」ネタのことだ。当初は散発的なレスの一部に過ぎなかった虐AAは、だいたい2002年に入った頃から急速に板全体に拡大して、あちこちで自治議論なども交わされたが、その中で何となくコンセンサスとして定着したのが、明らかなコピペ以外は管理者削除対象にならないというものだった。このコンセンサス自体は今考えても妥当なものだろうとは思うが、当時の虐ネタには元々虐ネタではないものを虐ネタに改造したものなどもあり、これは削除対象となる「コピペ」には含まれなかった。これは文字テキストの組み合わせにより手軽に製作・複製・改造が可能であり、それ故キャラクター自体の独自意匠が曖昧であるというAAキャラの特性に即した方針であるが、結果的にはあらゆるものが虐ネタ化していくという流れの一助にもなったように思う。
 このコンセンサスの根底にあった基本的な考え方は、僕なりに表現するなら、AAキャラは特定の個人によって使用が独占されない共有の資産であり、それ故に単純コピペ以外の表現については共有資産の正当な使用の一環として、掲示板の運営の妨害と見なされるべきではない、といった感じだろうか。その発想からのつながりで、そんなに虐ネタ改造されるのが嫌なら自前の個人サイトにでも引きこもってろ、2chにAAを描くからには自分の望まぬ方向に改造されるリスクくらい覚悟しておけ、といった趣旨のレスもたまに見かけたように思う。
 先ほどの「ざわっとした感触」は、当時しぃやちびギコを純粋にかわいい愛玩キャラとして愛でていた人たちからは間違いなく“虐殺厨”として見られていたであろう、あの頃の僕自身のやや形を変えた鏡像を見たような気がしたからなのかもしれない。


保守

2016年09月08日 | 日記

「保守」という言葉は人により意味するところが大きく違いすぎるので、複数のテキストにまたがって同じ「保守」という単語が使われていても、それらが全て同一の意義・指示内容を示しているとは限らない(その他のあらゆる言葉にも言えることだけど)。
 ただ、歴史を遡って、「保守(主義)Conservativism」ないしそれに類する思想がある程度まとまった形で提起されている文脈を参照すると、元々「保守」はそれ自体として自立的・自生的に産み出された概念装置ではなく、世界に対する人間の認識や働きかけを人為的かつ計画的にコントロールしていこうとする発想に対するカウンター概念として提起されたものであり、人こそ違えど提唱者の根底に共通して存在したのは、今様に表現するなら「バタフライエフェクトへの畏れ」の感覚だったのではないか、と思える。具体的には、デカルトの普遍主義に対するジャンバティスタ・ヴィーコの批判や、フランス革命とそれを支えた近代啓蒙主義に対するエドマンド・バークの批判あたりを念頭に置いているのだが。
 そういう「保守」イメージを僕は持っているため、社会の現勢態を変更しようと考えて、その変更後のビジョンの原型として現勢態よりも時系列的に古く、今は現存しない社会構造等を参照する発想は、その原型が時系列的に古かろうが、僕の目には「保守」ではなくむしろ「革新」「革命」の発想に見える。


言外のニュアンス

2016年09月07日 | 日記

SF作家山本弘氏、映画「君の名は。」の天文学的描写ミスを指摘する(ネタバレ無し)(Togetterまとめ)


 元の話は別に作品全体を批判してるんじゃなくて、全体的にはいい作品だけどここはちょっと、くらいの話なんだよね。ただ、その「ここはちょっと」の部分の語気(?)が非常に強いせいで、なんだかコメントが余計な紛糾の嵐の中へ突入している。
 で、そんなコメント欄を眺めながら、本筋とは関係ないところでつらつらと思ったこと。


 語られている内容とその語り口の語気やニュアンスには直接の論理的繋がりなんてないんだから気になるならスルーしろ、って言い方も成立しないわけじゃないけど、実際のコミュニケーション実践においては発言の意味論的な内容とその表現様態が必ずしもきっちり切り分けられるとは限らない。こうしたことは、なにもコミュニケーション構造を細かく分析したことがなくても、日常的にはほぼ全ての人が漠然と認識し、また自分でも実践しているはずだ。
 細かな語気の強弱で相手の感情のありかを推し測り、それと発言内容とを総合して、相手はこの発言によってどのような意図を伝えようとしているのかを解釈していくのは、日常的なコミュニケーションの場ではありふれたことであり、「言葉の意味内容だけからみればAだけど、言葉の分量や語気から推測される語りのウェイトの置き所を勘案すると、恐らくBという発言意図なのではないか」という推量などよくあることだ。「よろしく」という、言葉尻だけを見れば単なる挨拶言葉だって、被告側暴力団員が裁判員に対して言ったとなれば、発言者と聞く側が今社会的にどういう立場にあるかという、言葉の意味論的内容に含まれない発言を巡る周辺状況を勘案して、たちまち脅迫的意味を含んだ“声かけ”事案という扱いになる。それを「相手が言っていないことを勝手に読み取るマン」扱いにするのは、コミュニケーションの実践的な有り様を理解していないか、あるいは理解していてもニュアンス解釈を無視した方が自分にとって都合がいいのでわざと「言葉の意味内容だけを見ろ、他は見るな」と主張しているかのどちらかだろう。
 この種の言外のニュアンスを利用した応用技(?)として、言語に現れる表面的な意味内容以外のところでのみ、相手に自分の意志を伝達するというコミュニケーション様態もあって、例えば「腹芸」のように、言質を取られないような形で意志を伝えるというものもある。こうしたコミュニケーション様態は、メッセージの送り手が「受け手は語句の表面的な意味内容に現れてない“真意”を解読してくれるだろう」と期待する時に発せられる。受け手がその解釈を見誤る可能性だってないわけではないが、それは言語解釈そのものにだって多かれ少なかれ付きまとうものだ。
 先ほどから悪い例ばかり出しているが、もっぱら言語外のニュアンス等にのみ依拠したコミュニケーションは、形を変えれば映画などで時折見かけるような、具体的な言葉に出さずに相手に愛情などを伝える“粋”な意志疏通につながることもある。「何でもかんでも台詞で説明しようとするんじゃねえ! 特に邦画のあれとかこれとか!」みたいなことは宇多丸師匠の映画評などでも時々聞かれる言葉だ。
 人間のコミュニケーションなんて、語句の意味内容にのみ現れる部分では収まらない多面的要素をいくらでもはらんでいるし、明確に意識しているか否かは別として、僕たちの日常的なコミュニケーションの中にもその多面的要素はごく普通に入り込んでいる。その要素を分析的に切り分けること自体には意義があっても、「言葉の上で明示されていないのでその言語外ニュアンスは無かったものと見なす」という判断は、あるいは「そのように見なすべきだ」という規範的判断は、少なくともコミュニケーションの実践的側面について考える場合には非現実的かな、とは思う。


仮面ライダーカブト

2016年08月31日 | 日記

 劇場版仮面ライダーカブト「GOD SPEED LOVE」公開から丸十年と聞いて、久々に見返していた。平成ライダー映画の中でははっきり言って下から数えたほうが圧倒的に早いような人気の無さだけど、僕は妙に気に入っているんだよなぁ。確かにいろいろ出来の良くない部分もあるし、TV本編の前日譚を目指しつつ結果的にTV本編と話が直接つながらなくなった等の問題もあるけど、カブトにおける“ヒーロー性”がどのあたりに置かれているのかはわかりやすい(TV本編だけだと多少わかりにくい)。
 主人公・天道総司の傲岸不遜なキャラの印象が強すぎるのであまりピンと来ない感じもあるけれど、カブトにおけるヒーロー像って決して「目立ってなんぼ」のものではなく、むしろ人目につかないところで万人が生きていける基盤(インフラ)を整備・維持するタイプのヒーローとして作中世界では位置付けられている。この点はTVでも劇場版でも基本的に共通していて、ワームとのメインバトルが誰の目にも止まらないクロックアップ状態の中で行われていることに加えて、劇場版では「天道が7年前の大破局から世界を救ったことを知る者は誰もいない」というプロットの根幹部分に現れている。そしてTV版では、天道がしばしば強調する「天の道」が、作中では実際にどうやって、どういう方向に向けて追求されているのかを追っていけば、「天の道」とは実際には共存のために人目につかないところで行われる「地ならし」のようなものであると、なんとなくわかるようにはなっている。


追体験

2016年08月28日 | 日記

 ここのところ、デヴィッド・ボウイやクイーンといったあたりの昔の曲を好んで聴くことが多い。世代的にはリアルタイムで接していてもおかしくはないけれど、当時はそれほど興味がなかったのでまったく聴き馴染んでいない曲ばかりだ。例え世間的には有名な曲であっても、そうした音楽は僕にとっては“新しい曲”そのものだ。でも、僕と同世代の他の人にとっては、きっと遠い記憶の中に霞みつつある“懐メロ”になるのだろう。
 以前、見たことがない昔の地方CM動画をしばしば好んで眺めていたことがあるのも、恐らくこれと似たようなものだろう。あの頃、自分が生きていた空間とは違うところで、同じ時代に繰り広げられていた別の人生・別の世界・別の文化を、遅かりし今になって少しでも垣間見たくなるという欲望。
 もちろん、今からそうした文物を追体験したところで、同時代にリアルタイムで同じ文物を体験した人と同じ人生を、今から得られるわけではない。その文物が当時世間的にヒットしていたものであればあるほど余計に、そうしたものを摂取した時の感慨を、今の僕は他の誰とも分かち合うことが出来ず、たった一人で自分の中に消化していかなければならない。その奇妙な孤独感が、何故かほんの少しだけ心地よくも感じられる。

David Bowie/Pat Metheny - This Is Not America (Promo Clip)