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飯守泰次郎に会いたい

2023-08-21 06:40:45 | 日記

文化功労者である著名な指揮者・飯守泰次郎(1940~2023)が亡くなった。

82歳だからまずまず天寿を全うしたといってもいいだろう。

読響札響その他で活躍し、優秀な音楽家であることは間違いないが、その割に個人的なことを知っている人は多くはなさそうなので、ここに記しておく。

 

まず父方から。

父・飯守重任(1906~80)はかなり右寄りの検事で、1970年鹿児島地裁所長の時、過激な行動及び発言がもとで辞任したという人。

そりゃ終戦まで満州国の法務要職を務め(そこで泰次郎が生まれた)、戦後はシベリアや撫順戦犯管理所に抑留された組で、戦犯にもならず11年後よくぞ生きて帰ったというほどだから、反共は筋金入り。

ちなみに彼の実兄は最高裁長官にもなった田中耕太郎。

 

ついで母方。

母・飯守なな(旧姓日向)は1912年生まれ。

大浦事件で収監された衆議院議員(群馬県選出当選5回)日向輝武と、大正三美人で知られた日向きむ子の次女。

きむ子の実母が女義太夫の名人(竹本素行)で、弟は曾我廼家弁天や藤間林太郎(その息子が藤田まこと)だ。

さて日向輝武(1870~1918)はハワイへの移民事業で荒稼ぎし、帰国後は京浜銀行(移民の預金先)で星亨等先輩代議士の政治資金を管理していたといういかにも明治人なのだが、生地の藤岡時代にキリスト教に入信し、娘はミッションスクールに上げたという国際人でもある。

一方日向(旧姓真島)きむ子(1884~1967)は、料亭の女将に育て上げようとする養母(新橋の料亭・浜の家経営)の路線を嫌って、いかにもインテリ(に見えた)の輝武(料亭の顧客)の求婚を受け入れた。式は霊南坂教会だったという。

だが幸福な時代は長く続かず、無罪放免となったあと急死した夫の残した田端御殿(3000坪)を始末したきむ子は、6人の子を連れて薬剤師兼作詞家の林柳波(1892~1974)と再婚した。代表作は「海」。

きむ子は以後日本舞踊の新流派を立て、ななの妹が後を継いだ。

 

要するに飯守泰次郎は日向輝武と林きむ子の孫の一人で、優秀な芸術家なのである。


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