テレビや新聞を見聞きする限り、昨今のカルト規制論議は薄っぺらで内容がなく、政治家も識者も認識不足をさらけ出しているだけのように見える。
基本的なことだが、カルトとは何かという点から筆を起こさざるを得ないのは不幸なことだ。
宗教社会学的な立場から見れば、要するにカルトとは「カリスマ的な指導者に率いられた小集団」であって、価値評価とは無関係である。
言ってみれば、すべての既存宗教といえども出発点においてはみな「カルト」だったわけ。
キリスト教もイスラム教も、仏教すら例外たりえない。
しかも語源にさかのぼって考えれば、カルトとは要するに耕すことだ。
知的活動を耕すとカルチャー(文化)になり、畑を耕すとアグリカルチャー(農業)になる。悪い意味など全くない。
それなのにカルト宗教のイメージが悪いのは、オウムにせよ統一教会にせよ、独裁的かつ独善的なリーダーが突っ走って、既存の価値観に逆らった反社会的な行動を構成員に強いることになるその構造にある。信者は言われたことはしなければならないと思い込む。
だから何かこれを規制するような法案を作るのであれば、細心の注意を払って、自由な宗教活動を妨げることのないよう配慮しなければならない。
しかし一般の人に普通のカルトと悪いカルトの区別ができるのだろうか。
カルトのイメージは国や地域によって全く異なる。
①米国の場合は、キリスト教の基本的な教理の中で、そこから少しでも外れるとカルトとみなされることが多い。
三位一体の教理や、聖典が聖書にとどまらずプラスアルファの部分があると、そうみなされるが、だからといって悪だとは言わない。ただの分派だ。
②しかし欧州では少し印象が異なり、既存宗教の枠からはみだした異端や、新興宗教(歴史が100年程度)すべてが、カルト法案の対象になっているらしいとの話もある。
だから、ワールドカップのサッカー日本代表チームのフランス人監督が、創価学会の選手はカルトだから使わないなどというひどい話が過去にはあった。日本人ならそんな無茶なと感じることでも、その監督は権限内のこととして押し切った。
すべては定義と法案の内容にかかっているのだから、きちんと協議すべきだろう。
一般的なイメージに流されて、大衆迎合的な雑駁な規制を行うと、治安維持法の二の舞になる恐れすらある。
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