理維 cafe

南理維が気ままにおしゃべりしています

言葉の支え

2009-05-14 15:00:23 | Weblog
 人生の折り返し地点に近付いたあたりから、つくづく先哲の遺してくれた言葉を有り難いと思うようになった。ひと口に座右の銘といっても、おそらく人の数ほどもあるだろうし、聖書や般若心経のような一冊ものを心の拠りどころにしている人も多いことだろう。いずれにせよ、そういう支えとなる言葉を持っている人は、持っていて良かったという経験も併せ持っているのではなかろうか。
 私自身も「東照公御遺訓」にはずいぶんと救われてきた。まず「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し」と言いきってもらったことで、どれだけ気が楽になっただろう。失敗したときは「勝事ばかり知りてまくることをしらざれば害其身にいたる」目標に到達できなかったときは「及ばざるは過たるよりまされり」これらは、敗北と完勝未遂だらけの私の半生を支えてくれた言葉といっても過言ではない。
 自分の都合のいいように解釈をしていると言われてしまえばそれまでだが、いかに失笑を買おうと、私がこのご遺訓を信奉してやまないのは、これが家康晩年の言葉だからである。
 信玄、信長、秀吉、光秀から三成に至るまで、時の名将、英傑の生き様と死に様を全てかっきり見据えた家康が、最後に到達した境地がこれ、そう考えると、とてつもなく深い人生訓に思えてしまうのだ。
 一説によると、信長は15万、秀吉は40万の軍勢を動かせたという。それだけの天才を持ってしても、完全につかみきれなかった天下(手にはしたものの、子孫に手渡せなかった)を手中におさめた男の熟慮エキスとでも言おうか。「おのれを責て人をせむるな」なんて、部下の恨みを買って殺された信長が見たら、本当にヤな顔しそうなくだりだと思う。
「狸おやじ」と言われ、人気もないが、「本当に強いものは垢抜けて見えない」と思う私にとって、家康公はやっぱり特別な存在だ。たぶん、これからもずっと御遺訓を胸に刻んで生きていくと思う。 
コメント
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