노래 norae

 노래(歌)
 発音は「ノレ」
 英語で song ですね

 かろやかに歌うように
 一日をはじめたい

china・chinois・支那

2017年05月24日 | 少しだけ政治のことなど


かなり以前、ある知り合いの若い高校教師から相談された。

彼の学校でこういう話題が生徒の間で出たそうだ。

「欧米人が中国のことを『チャイナ・シノア』と呼称しても問題ないのに、
日本人が『支那』と呼称すると、同じ語源なのになぜ中国人は怒るのか?
逆差別的な反日感情では無いのか?」

彼は生徒の質問に答えられなかった。
まぁ、考えてみれば保守系陣営から語りつくされた雛形のような幼稚なロジックだ。



さて、人々が何かを語るとき意識していようがしてまようが、
また好むと好まざるにかかわらず言葉にはそこに政治的意図が含まれてしまう。
今を生きる日本人が語る『支那』はまさにそうなのだ。

っで「日本人が語る『支那』」に反発する中国人は果たして
逆差別的な反日感情なのだろうか?

英語で china(チャイナ)フランス語でchinois(シノア)と呼称しても問題ないが、
日本人が『支那』と呼称することに不快を感じる中国人の心理は、
正当であり当然の感覚なのであるとおもう。

それは『支那』と言う言葉が背負ってきた歴史的経緯が大いに関与してくるのではないだろうか。

『支那』と言う語彙そのものにはなんら差別的な意味を含むものではない。
しかし、多くの日本人はかつて『支那』と言う言葉で、
多くの中国人を侮蔑の文脈で語ってきた経緯がある。
言葉とは時代(時間)とともに政治性をおびる可能性を秘める。

つまり言葉に「手垢」がついてくるのだ。

ましてや今を生きる日本人が『支那』と言う言葉をわざわざ使用しなくとも、
そのオルタナティブはいくらでも存在する。
わざわざその言葉を使用しようとする、その意図は明らかに政治性を帯び、
その発話者の政治的主張が読み取れる。

メディアでお天気姉さんが「東シナ海に発生した台風〇〇号は・・・」
この文脈にお天気姉さんの政治的、思想的主張は存在しないが、
かつての東京都知事が「支那を中国と呼びかえる必要がどこにある」
と言った場合、その意図は明らかなのだ。

差別とは決して語彙に存在するのではなく文脈に存在する。



その教師に尋ねてみた。
「バカチョンカメラは差別語か?」



彼は「バカチョンのチョンは朝鮮人のことをさすと聞いている。
バカと同列に語るのは差別と言わざるを得ない。」と言う。

「バカでもチョンでも」は昔から日本で使われている言い回しなのである。
「うんともすんとも」「何でもかんでも」・・・同じような言い回しはいくらでもある。

しかし、かつて多くの日本人は「チョン」という言葉で
朝鮮人を差別し侮蔑してきたし今もその文脈で語られる。

異論は多いが、私は日本人が「バカチョンカメラ」と言う言葉を使用するなとは言いたくない。
「言葉狩り」になる可能性もある。

しかし、朝鮮人がその語彙で不愉快になる感情も与すべきだろう。

『差別』とはそれがどういう文脈の中で、その話者のどういう意図で語られるかが重要だろう。

その語彙を使う側にその感性と人間性が要求される。



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