노래 norae

 노래(歌)
 発音は「ノレ」
 英語で song ですね

 かろやかに歌うように
 一日をはじめたい

『判決、ふたつの希望』

2018年09月20日 | 観た映画の感想など



自動車修理工場を営むトニーはキリスト教徒。一方パレスチナ難民でイスラム教徒のヤーセルは工事現場の監督。
アパートの修繕工事をきっかけに起こった両者の憎しみ合いの口論は裁判沙汰となり、やがて国全体を揺るがす一大事に
発展していく。実話に基づいた映画だ。

レバノン人のトニーが投げつけた悪態はヤーセルの猛烈な怒りを買い、ヤーセルもまたトニーのタブーに触れる。

トニーが漏らした一言にヤーセルは人としての尊厳を深く傷つけられる。

トニーが吐いた「おまえたちなんかシャロンに皆殺しにしてりゃよかったんだよ!」
パレスチナ難民のヤーセルにとって到底許されないヘイトスピーチなのだ。
そして、ヤーセルはトニーに肋骨を折るという暴力に訴える。



先般公開された映画『否定と肯定』では、ホロコーストという「絶対悪」が徹底的に問われた映画だった。
ホロコーストを否定するロジックという物を、映画を観る者側に対して一切の妥協なく批判にさらす。



この映画では、少し観点がちがって「言論の自由」という物がどこまで許容されるべきなのかを問われている気がした。

この映画で連想したのは、韓国映画『JSA』だ。双方に敵対する属性を視点として描いているように見えて
実は、人間対人間の心の動静が基本となっている。それがその属性に翻弄され対属性として描かれる。



言論は大きな暴力になりうる。自己の信条の表出する自由は他者に暴力をふるっていいという事を担保されるものではない。
「言論の自由」にはそれに伴う責任を背負わなくてはならない。

少し救われたのはこの映画の邦題が言うところの「ふたつの希望」なのかもしれない。




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1923年9月1日 東京の路上でジェノサイドがあった

2018年09月01日 | 在日コリアン

 1923年9月1日
 その日の朝刊にも「怪鮮人3名捕はる/陰謀団の一味か」(東京朝日新聞)の見出しが躍っていた。
 そして昼間の震災発生。
 そのとき、4年にわたって育てられてきた朝鮮人への恐怖は、東京のど真ん中での白昼堂々たる
 「朝鮮人皆殺し」に帰結した―
         『九月、東京の路上で』本文より 加藤直樹著 ころから





  黙祷
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♪あんなこと~こんなこと~あったでしょ

2018年08月31日 | 【阪神・淡路大震災 私の記憶と記録】
少し前、三宮で映画を観た帰り本屋で書籍を物色していたら肩を〝とんとん゛とたたかれた。
振り向くと懐かしい笑顔があった。

「よかったぁ。もし人間違いだったらどうしようかと思った」
「あまり変わってないなぁ。元気にしてる?」
「元気よ。でも、つい最近離婚しちゃった」
「時間ある?懐かしいからちょっとビールでも飲んでお話ししない?」
「少しくらいならいいよ」



彼女は神戸の地震の時長田区で被災した。火事で自宅のすべてを焼きつくした。
消防が追いつかなくてすべて燃えつくしたのだ。

地震からしばらくたち、友人から彼女が避難所にいると聞いたので訪ねた事があった。
「ぜんぶ灰になってん・・・」
子供たちの成長をつづった思い出のアルバムや数々の品々。家族がすごしてきた歴史。
ご夫婦の各々の子供のころからの思い出・・・すべて燃えつくしたのだ。

彼女の為何かできないか考えた。そして思いついたのが『思い出』を少しでもかき集めることだ。
翌日からご夫婦にゆかりのある方たちに連絡を入れた。
「ご自分のアルバムに○○さんが写り込んだ写真ありませんか?もしあればコピーして提供してもらえませんか?」

地震から約1年後、集めた写真をクリエーターの友人に編集を依頼し、そこにみんなの寄せ書きを添えて
薄いけどきれいなアルバムが出来上がった。写真はなんの脈絡もなく、またそんなに多くはないが少しだけでも
思い出を取り戻してくれたかなぁって思っていた。

「あの時、あなたがみんなに連絡してアルバム作ってくれたでしょ。あれ本当にうれしかったよ。
あれ貰ったとき元ダンと二人で大泣きした。避難所生活が長くなって仮設住宅の不便さが身体になじんできたころ
お互いのストレスからかいさかいが絶えなくて・・・あの時、本当に『死んでしまいたい。なんで私が生き残ったんやろ?』
って真剣に考えていたとき、あなたからアルバム届いたの。あの時、私たち夫婦をつなぎとめたのはあなたと思ってる。
いまでも大事に持ってるよ。あの時は『みんなやさしい友達や』って言いながら夫婦ふたりで乗り越えたのにね・・・」

すこし照れてしまった。でもうれしかった。

これも一つのボランティアかもしれないな。この夏水害にあった中国地方のニュースをみて考えた。

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ひぐらし

2018年08月05日 | おもいつくまま
お盆に予定があって行けないので少し早めに亡き父の墓前に一人で行った。

ふとヒグラシの鳴き声に足を止めた。子供の頃ヒグラシの鳴き声が聞こえると寂しくなったのを思い出す。
夏の終わりを予感させた。帰って調べてみるとヒグラシは夏を通して鳴くらしい。
夏休みの終わり頃夕暮れ時に耳にした記憶しかない。思い込みなのか。

あの日、夏の終わりに友達のけんちゃんと二人で虫捕りに行って、気がついたら辺りは暗くなり、
帰り道がわからなくなって泣きべそかきながら歩いた土手道思い出した。

あの日もヒグラシ鳴いてたよな・・・けんちゃん

『かみしばいとけんちゃん』2017年05月17日 ブログから
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「蘇州夜曲」を口ずさみながら

2018年07月17日 | 在日コリアン
 1959年から25年間にわたって行われた在日朝鮮人の「北朝鮮帰国事業」それは93,000人余り(日本国籍者約7,000人を含む)が北の祖国に渡った。

 この93,000人は、いったいどのような 生を送ったのだろうか?

差別と貧困にあえぐ在日朝鮮人を祖国に帰す人道事業「慶事」として、在日朝鮮人と日本人が共同して推し進めた。
いわば、日本社会全体で93,000人の背中を押して北朝鮮に送り出したと言える。


北朝鮮に向け新潟港を出港する船上で、泣きながら手を振る帰還者=1971年5月

 先日、広島に生まれ24歳で「北朝鮮帰還事業」で北朝鮮に渡り40年の歳月をその地で過ごした女性とそのお嬢さんに出あった。
お二人はお互いに手を取り合い飢餓からの脱出と自由を求め、命を落とす覚悟で鴨緑江を渡ったという。
注)鴨緑江とは北朝鮮と中国間を流れる河川。中朝国境の役目をはたしている

運よく脱北に成功したお二人は、現在ソウル市内でつつましく生活されている。
穏やかだな表情の裏に気高かさとそして力強さを感じた。

 あいにく記録的な豪雨の降り続く神戸の街だったが、傘を差しつつ元町にお連れして南京町で饅頭を食べ歩き、
北野坂の異人館通りを案内した。




 コーヒーテラスで雨に煙る神戸港を眺めながら、穏やかな表情で淡々と唇が動いた。
「私が北韓(北朝鮮)にいたころ、日本から朝鮮総連の代表団や学生などが、キム親子の巨大な銅像にひれ伏し忠誠を誓い
祖国を美辞麗句で讃え涙して、冷たい巨像に向かって『マンセー!マンセー!(万歳)』と叫ぶ姿を見て不思議に思いました。
『そこまで指導者を敬いこの国を讃え羨むなら、なぜこのままここに残るか移住しないのか?』
両腕いっぱいにお土産抱えて日本へ帰る姿を見てほんとうに羨ましかったです。羨む態度やましてやそれを口にすると
酷い叱責や時には暴力を振るわれることが待っていることを、この人たちは知る由もなく信じることもないのだろうなって
思うと本当に悲しかった・・・私たちにとって在日同胞はまるで宇宙から来た人のようでした」



 雨がひどく降って港も見えないくらい真っ白になってきた。

 80の齢を重ねた老婆は埠頭に浮かぶ貨物船を見つめながら、そして口からふと

♪君がみ胸に だかれて聴くは・・・

 私は残りの歌詞を笑顔で涙をこらえながら一緒に唄った。

 この人たちに幸せあれ

Ann Sally(安佐里) - 蘇州夜曲



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『トイレ貸してくれ』

2018年07月11日 | おもいつくまま
 昨日、職場でのこと。

 高校生くらいのめちゃくちゃヤンキーな少年がやってきていきなり
「トイレ貸してもらえへんか?」
といって、少しもじもじしながら¥100玉をおもむろにカウンターに置いた。

「お金なんかいらんからはよトイレ行っといで」

 人にお願いするにはすこし態度が横柄なのでムッっとしたが、切羽詰まってそうで貸してあげた。

 スッとした顔で出てきた彼は「ありがとうな。今度なんかでお返しする」

 笑いがこみ上げてきたけど「わかった。またいつでもおいで」


その後トイレに入ったらペーパーホルダーを見て、もう一度笑いがこみ上げてきた。


かわいいなぁ(笑)

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在日帰国者は北朝鮮でどう生きたか?― 北から逃れた人々を迎えて ―

2018年07月05日 | おしらせ
 お知らせです。



1959年から25年間にわたって行われた在日朝鮮人の北朝 鮮帰国事業では、93,000人余り(日本国籍者約7,000人を含 む)が、北の祖国に渡りました。当時の「在日」人口の実に6.5 人に1人にあたります。この93,000人は、いったいどのような 生を送ったのか? それは在日朝鮮人史の中に刻まれるべきですが、詳細な記録はなく、今もそのページは空白のままです。帰 国事業は、差別と貧困にあえぐ在日朝鮮人を祖国に帰す人道事業「慶事」として、在日朝鮮人と日本人が共同して推し進めま した。いわば、日本社会全体で93,000人の背中を押して北朝鮮に送り出したと言えます。帰国事業開始から60年が経とうとしている今、「在日」が北朝鮮で生きた記憶を残す作業を、在日朝鮮人と日本人が協働・共同して担う事業を始めることにしました。
 
現在、脱北して日本と韓国に渡った帰国者は推定500人。このうち、日本生まれの「帰国一世」は、200人程度だと思われますが、その多くが高齢です。聞き取りする時間的猶予はもうありません。事業を始めるにあたり、北朝鮮を離れた二人の帰国者をお迎えし、体験をじっくり聞く機会を設けました。多くの方のご参加をお待ちします。

■プログラム  
基調説明とトーク:「今、帰国者の生き様を再び検証する意味と意義」
帰国者の証言を聞く①: 24歳で中国地方から帰国した女性。脱北して韓国在住  
帰国者の証言を聞く②:関西在住の帰国者の男性

【エル大阪 6階大会議室】
京阪・地下鉄谷町線「天満橋駅」より西へ300m
京阪・地下鉄堺筋線「北浜駅」より東へ500m
http://www.l-osaka.or.jp/pages/access.html
資料代 1000円

問い合わせ/連絡先 :1959kikoku@gmail.com
北朝鮮帰国者の記憶を記録する会設立準備会
※内容は予告なく変更される場合があります。

呼びかけ人:金時鐘(詩人) 文京洙(立命館大教員) 辛淑玉(のりこえネット共同代表) ヤンヨンヒ(映画監督) 石丸次郎(ジャーナリスト) 郭辰雄(コリアNGOセンター代表理事) 林範夫(弁護士) 宋在伍(医療・福祉従事者)

賛同人:朴正鎮(津田塾大教員) 金敬黙(早稲田大教員) パクジョンナム(翻訳家)田月仙(オペラ歌手) 合田創(自由ジャーナリストクラブ理事) 洪敬義(人権活動家) 金明秀(関西学院大教員) 魁生由美子(愛媛大教員)三浦小太郎(評論家)  (2018年7月4日現在)
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『軍中楽園』

2018年06月06日 | 観た映画の感想など


急に仕事が休みになって手持ちぶさたに自分のFacebookに「何して過ごそうか?」って書くと、数名の人からお誘いを
受けたのだが、なかに「心斎橋シネマートでいい台湾映画やってますが観に行ってみては?」というアドバイスをいただいた。

外を見ると雨がザザぶりで、自宅で撮りだめした映画でも観ようか読みかけの本でも読もうか悩んだけど、
今年に入って映画館に足を運ぶペースが鈍っているので重い腰をあげて空模様を見ながら出かけることにする。



「大阪アジアン映画祭2015」で日本公開された台湾映画『軍中楽園』



第二次世界大戦終結直後から1970年代にかけて、中華人民共和国(中国)と中華民国(台湾)で戦争状態にあった最中
約2Kmの海峡を挟んだ金門島(台湾領)がその最前線で激戦が繰り広げられていた。

1950年代に中華民国政府が設置した兵士のための娼館があり、そこで繰り広げられる男女の機微や国家に人生を翻弄された
人たちの悲哀が展開される。主人公の青年、ルオは兵役で金門島のエリート部隊に配属されたが、水泳の訓練で落ちこぼれ
配置転属を言い渡される。新たな配属先は兵士たちのために軍が設置した娼館(慰安所)なのだ。その娼館を維持運営する。
そこは厳しい訓練と命の危険にさらされる前線に送られる軍の中ではそこへの配置は、彼らの間で「軍中楽園」と
言われていた。



映画を通して全体にセピアがかかった様な、なんとも言えない独特のトーンで覆われている。娼館の部屋におかれている
小さな化粧瓶や小物。窓から吹き込む風にかすかに揺れる一重のカーテン。娼婦のニーニーが、かつてマリリン・モンロー
が歌った『帰らる河』をギターを手に、主人公ルオにせつなく歌い聞かせるシーンは、二人がたどってきたここに至るまでの
過去を想像させた。特に老張の故郷や母への想いだったり、その老張が思いを寄せた娼婦に私は女性としての切なさや
理不尽さが切々と伝わってきた。




いつの時代も「性」が権力の手によって消費の道具とされ人権を蹂躙されることにもやもやする。
そんな時代に翻弄された人々の悲哀が観る者の心に響いてくる映画でした。
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光州にて

2018年05月12日 | 訪れたところ
 今年のGW前半は仲のいい友人3名と各々パートナーを連れ立って、6名で韓国旅行に行った。

 プサンでワゴン車と運転手を請い道中運転手付きのちょっと贅沢な旅行となった。

プサンで海鮮料理に舌鼓をうち




慶尚南道陜川郡にある世界遺産 名刹「海印寺」


 

ピビンバで有名な全州




映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」の舞台になった、韓国民主化運動の象徴的な「光州事件」があった光州市 
 

世界5大沿岸湿地の1つ「順天湾自然生態公園」のある順天という旅程。


道中笑いっぱなしで思い出に残るにぎやかな旅行だった。


光州で・・・ 


一般市民、学生をはじめとして死者2,000名とも3,000名とも。現代韓国でもっとも悲惨な事件と言われ
韓国民主化運動の象徴的な「光州事件」
現在日本公開中の、実話に基づいた映画『タクシー運転手~約束は海を越えて』の舞台となった。

光州事件の際、市民が収容されていた営倉と法廷がある「5・18자유공원(5.18自由公園)」でのこと。

私たちは公園の主旨をわからずウロチョロしていたところ、ちょうど教師に引率された広州市内の小学生の集団に出くわした。
どうも授業の一環で社会見学に来ていたらしい。
ボランティアの解説員が子供たちに話を聞かせていたので、そこに近寄り「日本から来た在日韓国人ですが
一緒にお話聞かせていただいていいですか?」「皆さんは韓国語は理解できますか?」「はい」

収容所跡で解説していたボランティアの女性は1980.5.18戒厳軍に連行され、拷問を受け収容されていたそうだ。

「この狭い部屋に150名が何日も詰め込まれ、過酷な拷問と虐待で精神の限界にありました。奴ら(戒厳軍)は人間じゃない。
私たちを犬や豚のような扱いをした」と言いその時の様子を寸劇で再現されていた。

帰り際、その女性に質問してみた。

「当時、戒厳軍の人たちは今も生存しています。そういう人たちに対して今を生きるあなたは何を思いますか?」

「そういう人たちの中には今はその贖罪に苛まれ懺悔を乞う人も多くいます。しかし『そんなことはなかった』という人も『軍人として命令に従うのは当然でなんら悪いことをしたと思っていない』『韓国に於いて 빨갱이(赤野郎)は排除しなければならない』という人もいます。私はそういう人たちに対して怨念もありません。それは世界中の人たちが私たちの行為を『現代韓国に民主化をもたらした勇気ある行為』として称賛を受けているからです。そしてそういう人たちは歴史がどんどん暴いていってます」

彼女の言葉に胸が震えた。
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『タクシー運転手 約束は海を越えて』

2018年04月25日 | 観た映画の感想など



昨年の夏、息子とプサンを訪ねた時この映画がちょうど公開された直後だった。
時間的にスケジュールが合わず後ろ髪引かれる思いで観ずに帰ってきた。待ちに待ったこの映画、日本公開日朝一番で観てきた。

この映画の背景となっている『光州事件』とは、前大統領朴槿恵の実父、軍事独裁者朴正煕大統領暗殺後、民主化の機運が高まった韓国で再びクーデターにより全斗煥軍事政権が誕生した。そしてまた韓国に暗い雲が立ちこみ始めた。その最中民主主義政治家であり市民運動家でもあった金大中が逮捕され、これを契機に1980年5月18日から27日にかけて韓国の光州市を中心として、民衆たちが民主化を求め立ち上がった。韓国民主化運動の象徴的なこの事件は、死者170名(戒厳令軍発表)とされているが2000名とも3000名とも言われている。




韓国映画界最高の俳優ソン・ガンホが主演というだけで、観る前から心ときめかせた。
クリント・イーストウッド、スピルバーグと同じでハズレはあり得ないのだ。



このフライヤーの抜けるような笑顔が、この作品に笑いとともに当時の韓国民衆の民主化への渇望がリアルに伝わってくる。
そして、事件の残忍さや悲劇がひしひしと観る者の心に沁みてくる。

冴えない男ヤモメのタクシー運転手マンソプ(ソンガンホ)は4か月分の家賃を滞納するくらい、とにかくお金がなくて
成長期の一人娘に運動靴も大きいのを買ってあげられない。その貧困さをあの笑顔で乗り切ろうとするのだがうまくいかない。
「光州まで外国人を送迎すると大金が入る」という話を昼食時にタクシー同僚が話しているのを小耳にはさむ。
ちゃっかり出し抜いてその仕事を横取りしてしまう。ズルいのだ。サウジの出稼ぎで覚えた(?)という英語もほんとにテキトー
なんだけれどもどれもチャーミングでどこか憎めない。ソンガンホの上手さはこういうところにも出てる。
簡単な仕事だと思い、ドイツ人の男を乗せ光州に向かうのだが、そこはマスコミが一切報道していない地獄だった。

作中、催涙弾の煙のむこうから現れるガスマスクで顔を覆った戒厳軍の兵士が無差別に市民を銃殺する。目を覆いたくなる
シーンなのだが、彼らは何を思ってそして2018年の今何を感じているのだろう。彼らの中にもこの映画を観た元兵士も
多くいるに違いない。

タクシー運転手マンソプは年齢から推察するに朝鮮戦争をリアルに体験しているだろうし、戦後最貧の状態の韓国社会を
経ているだろう。マンソプは反体制とかデモをしている人を憎む。「政府の言うことを黙って聞いていればいいじゃねえか。
親のすねをかじって大学に行かせてもらってるボンボンが政府に逆らって左翼のどうしようもない北朝鮮のスパイだな!」
「国民の敵だ!」とか思っている。当時の戒厳軍も同じように思っていたのかもしれない。
「北のスパイは殺されて当然だ!」「国民の敵を殺す自分は愛国者」・・・はては「軍の命令に従っているだけで職務を
遂行しているだけ」と思っていたかもしれない。まさしくハンナアーレントの言う「悪の凡庸さ」がうかぶ。
ここでふと連想したのが、今から70年前、韓国済州島であった大惨事「4・3済州島事件」だ。
あの戒厳軍のメンタル・・・それは当時の南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察などが私の脳裏をかすめた。
『済州島四・三事件』Wikipedia参照

「高地戦」「義兄弟」「映画は映画だ」を撮ったチャンフン監督の映画は題材やシナリオ、出演者の演技の上手さに助けられて
いい映画が多いのだが、この映画も含めて正直あまり評価していない。この映画もソンガンホの名演技と実話に基づいたシナリオ
「光州事件」という現代韓国を語るに決して忘れることが出来ない悲劇がこの映画を魅せているのだと思う。


自身も光州事件経験者である文在寅大統領は「文在寅政府は光州民主化運動の延長線上に立っています。」
「新政府は5.18民主化運動とろうそく革命の精神を仰ぎ、この地の民主主義を完全に復元します。
光州の英霊たちが心安らかに休めるよう成熟した民主主義の花を咲かせます。」と語る。



また文在寅大統領は選挙活動中、憲法前文に光州事件の民主化運動の精神を盛り込むことを公約している。

公開中の映画でこれ以上書くとネタバレになるので書かないが、この映画はぜひ観てほしい。

2017年8月、ドイツ人記者故ユルゲン・ヒンツペーターの妻はソウルを訪問し、
亡夫の実話に基づいた『タクシー運転手』をその家族に加え文在寅大統領とともに鑑賞した。
鑑賞後ムン大統領は『光州事件の真相は完全には解明されていない。これは我々が解決すべき課題であり、
私はこの映画がその助けになると信じている。』と語った。

もうすぐ光州事件38周年。5月18日を前に来週、私の親友たちとこの地を訪問します。
崇高な精神の犠牲者に큰절あげてきます。


「큰절 」とは
ひざまづくお辞儀、最も丁寧なお辞儀
큰(大きい)+절(お辞儀)。韓国で最も丁寧なお辞儀のこと


#映映画
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『朝鮮大学校物語』ここは日本ではありません

2018年04月20日 | 書籍など


海外で数々の賞を獲得した映画『かぞくのくに』を撮った、映画監督ヤン・ヨンヒ氏の初の小説『朝鮮大学校物語』を読んだ。
フィクションではあるが、かなりの部分で自身の経験に基づいた書き下ろし小説だ。

「ここは日本ではありません」全寮制、日本語禁止、日々の無意味な総和(総括)、読む書籍まで「資本主義的なもの」として
制限され見つかれば廃棄させられ反省を強要される。典型的な在日コリアンのコミュニティーで育ち、大阪の朝鮮学校を卒業した
ミヨンが出会った「朝鮮大学校」は、高い塀に囲まれた日本の中に存在する北朝鮮だった。

何事にも周囲に左右されず自由奔放に生きたいミヨンは、その異常ともいえる環境に足掻きながら、それに葛藤を抱きながら・・・しかし、それを飲み込みながら学生生活を送る。「ここは日本ではありません」という教師の叱責が、小学校から朝鮮総連傘下の教育を受け、朝鮮総連の活動家を養成する「大学校」という名をまとった機関の中でミヨンのあきらめと従順さが不文律に描かれている。


私は、朝鮮総連の内情や北朝鮮の異常ともいえる非人権的な思想統制をある程度知っている。正直、東京都小平に実存する
小説の中の「朝鮮大学校」は著者ヤンヨンヒ氏が、あくまでもフィクションとしてデフォルメされているかもしれない。
しかし、読み進めながら強烈な嫌悪とともに思わず頷いてしまう。

作中、実姉が住む北朝鮮を大学の一行事として訪問する。
私自身も「祖国帰還事業」で北に渡った大叔父と彼の地で数度で会った。
ミヨンの情景を読みながら、当時の事がデジャブのように頭をよぎりやるせない気持ちになった。
眼をふさがれ、耳をふさがれ、口をふさがれた者の痛みがひしひしと伝わった。

物語は一人の少女が異常な環境の中でそれに足掻きながら、恋をし大人になっていく過程が切なく書かれている。
その中でミヨンと美大生で日本人の恋人との確執が描かれている。マイノリティーであるが故いつも説明責任を
負わされるような理不尽さと、愛する人にさえ理解しあえないもやもやがミヨンの心をゆする。そしてそれを誠意をもって
理解しようとする恋人のひたむきさに読み進めながら、かゆいところに手が届かないような気持ちになる。その気持ちは
凄く理解できる。いま大人になった自分なら簡単に超えることが出来るのになぁ。民族や国籍にだぶらせたのは
すこし違和感を覚えたが、私自身思春期の頃恋愛に対して、人を好きになる前にそれが立ちふさがり恋をする前から
あきらめや喪失感があった。なんだか今思い出すと笑ってしまう。



短い文章に多くの物語を詰め込みすぎた感がありテーマが少しぼやけたように思えた。
また、もう少し登場人物を丁寧に描写してほしかった気がする。

『ジニのパズル』とは視点が違って相対しようと試みたがテーマが似通っているだけで相対しえない物語だった。

良書です。ヤンヨンヒ氏の今後の創作に期待したい。
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ちょっとさびしい

2018年03月22日 | おもいつくまま
ちょっとさびしいな。




『お嫁に行きました』って言葉は嫌いで使いたくないけど・・・


どうか、どうかしあわせになってください。
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ふるさとのなまりなつかし(プサンまで)③

2018年03月02日 | 訪れたところ
 早朝目が覚めた。窓を開けるとまだ薄暗い。時計を見ると6時手前を指している。

神戸より西に位置している事が実感できた。前日のアルコールが若干残った重だるい頭を目覚めさせるため、熱いシャワーを浴びた。
ここで、濃いめのコーヒーがあれば最高なのだが、テーブルの上にはスティック状のインスタントコーヒーしかない。
身支度を整え早速、宿を引き払うことにする。スーツケースを転がしながら30㎝四方の小さい窓に向かってチェックアウトを告げた。
フロントの中から昨日のアジュンマが寝ぼけ眼で「네~잘가세요~(はぁ~~い、気を付けて)」と言いながら玄関まで送り出してくれた。
大通りに面したビルの一角に「スターバックス・コーヒー」を見つける。取りあえず熱いコーヒーにありついた。

今回の旅行の目的である、祖父の故郷へ向かうための行程を地図と時刻表で再度確認する。バスターミナルでチケットを買い出発時刻を確認した。
出発まで40分、所要時間は2時間半なので到着予想は正午前になる。コンビニでミネラルウォーターと朝食用のサンドウィッチを買った。
バスは古いタイプだが客席は空いていたので余裕を持って座ることが出来た。車窓から眺める韓国の農村風景は、映画や写真で見たものと同じだ。
韓国に来たことが実感として湧く。


 私の本籍地は、あの韓国の民主化運動の象徴的事件“光州学生蜂起”で多くの学生や市民を死に追いやった、
元韓国大統領、전두환(全斗煥)の出身地だ。プサンから北西に約120kmに位置する。バスターミナルに降り立った。
そこから本籍地までどう行けばいいのか全く分からない。

バスターミナルのチケット売り場で目的地を告げ行程を聞いてみた。驚いた。バスが出ているのだが一日2本しか出ていない。
次の出発は午後4時半だ。あと5時間以上ある。タクシー乗り場に行った。客待ちタクシーの運転手に聞いてみた。
ここから約30km以上あるらしい。

その日の宿は決めていなかったが、事前の情報で近くに韓国きっての名刹、あの世界遺産『高麗八萬大蔵経』がある伽耶山海印寺
があると聞いていたので今日はそこで泊まるつもりでいた。運転手に聞くと全く逆方向に30kmほど行かなくてはいけないらしい。
行って帰ってまた行くとトータル90km以上の移動になる。

しばし考えた。運転手の車と交渉した。「100,000ウォンで今日一日雇いたいのだが」運転手は二言返事で「よろこんで~~!」と
居酒屋のアルバイト店員よろしく、ニコッと笑い僕のスーツケースをトランクに詰め込んだ。

タクシーに乗り、約10km程過ぎた頃、運転手が「お客さんは韓国映画『태극기 휘날리며』を観られましたか?」と聞かれた。
韓国映画の名作『태극기 휘날리며』は邦題『ブラザーフット』として、チャンドンゴン、ウォンビンの共演で日本でもヒットした作品だ。

「あぁ、日本でもロングランヒットしたよ。良い映画だったね。」
「でも日本人にあの映画が理解できたのでしょうかね?」
「うぅ~~~ん、どうだろうね。在日ですら今の若い世代ではあの、6.25(朝鮮戦争)が朝鮮民族に与えた苦難を理解できないだろうし、
ましてやこの僕ですら本当に何処まで理解できているのか疑問だね。」
「っで、お客さんはその映画をどう観ました?」
「涙でスクリーンが直視できなかったよ(笑)」・・・




「この先に、その映画のロケ現場があり、セットがそのまま残されて展示されているところがありますが、行ってみます?」
瓢箪から駒とはこれか。ロケ現場にはチャンドンゴンとウォンビンが徴兵され乗せられた列車が車両ごとそのままあった。
二人がアイスキャンディーを食べた当時のソウルの街並みや、戦闘状態のピョンヤンの街並み、
北の捕虜が夕食を掛けて殴り合わされるシーンで掘られた穴もそのまま残されていた。
(この旅行の最終日ソウルでカメラを無くし、今ここに写真が無いことがあらためて悔やまれる)
しばし、ウォンビンになりきった自分にサヨナラし、ロケ現場を後にする。

 メモに書かれた住所を頼りに本籍地に近づくと、タクシーの運転手が人を見つけては詳細な場所を聞きまわってくれた。

日本を出発する以前から、この日をシュミレーションしていた。祖父が若い頃、貧しさゆえふるさとを捨てて旅立ったこの地を、
僕が韓国人としての「根拠」であろうこの地を・・・僕はどんな思いで臨むのだろう。
見たこともない故郷の土を握りしめ感極まり涙むせぶのだろうか?
プサンから逆にたどったであろう祖父が歩んだ道のりを、バスに揺られながら眺めているとき、何かに脅迫されるかのような感情になった。

 それは突然やってきた。タクシーから降りた運転手が地元の人に住所地のメモを見せたずねると、振り向きざまに笑顔で僕に叫んだ。
「선생님! 여기가 선생님의 고향 땅이에요!(お客さん!ここがお客さんのふるさとですよ!)」
タクシーから降り周囲を見渡した。遠くに岩肌が露出した山並みが見え、日本の農村風景とさほど変わらぬ田園が連なっていた。
 
この地が私の「ルーツ」の地なのだ。若い頃からあこがれ続けていた土地なのだ。恋焦がれていたはずなのだ。
 瞳は濡れていなかった。逆に淡々とした自分の感情を確認していた。
僕にとって「ふるさと」とは、本能的な感情なのか?それとも学習なのだろうか?

 本当に小さな村なのだ。30分もあれば充分一周出来るほどの農村だ。村を散策した。
朽ち果てかけた古い庵の軒先で将棋を指している老人と、それを取り囲む数名の人たちが見えた。
明らかによそ者の風体をした私に視線がいっせいに注がれた。決して怪しい者でもなく、私がここに来た理由を皆に伝えた。
村の人たちはその理由を聞き快く迎え入れてくれた。

 一人の初老が私に言った。「니밥뭇나?우리집에와 밥뭇고가거라.」(お前飯食ったか?わが家で飯食ってけ。)
学生時代に亡くなった祖母の顔がまぶたに浮かんだ。決してソウルのような上品な韓国語ではない。
懐かしい祖母の「ふるさとなまり」に出会えた。ここに来てはじめて鼻の奥がツンとした。(完)


「ふるさとのなまり懐かし停車場の人ごみの中にそを聴きに行く」石川啄木


ふるさとのなまりなつかし(プサンまで)①

ふるさとのなまりなつかし(プサンまで)②

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ふるさとのなまりなつかし(プサンまで)②

2018年03月01日 | 訪れたところ

 少し遅めの昼食を摂るため裏路地をうろつく。入り口のドアに大きく「면(麺)」とシールが貼られている店を見つけた。
プサン名物밀면(小麦の冷麺 プサンの郷土料理)の専門店らしい。席に座っても一向にオーダーを取りに来ない。
厨房では大きな釜に機械で麺が押し出され湯がかれている。手打ちには違いないようだ。

大きな声で厨房に向かって叫んだ。「맥주1병과 물면 주시구나~!(ビールと冷麺ひとつくださいな!)」
奥から「네~~~~(はぁ~~~い)」



 
 冷たいビールが運ばれてきた。そして、数品のおかずも運ばれた。これが嬉しい。

ビールを飲んでいると、60歳がらみのオッサンが私に向かって「どこから来たのだ?」と聞かれた。
私の韓国語はいくら頑張ってみたところで、日本語のイントネーションは抜けないのだろう。すぐにネイティブでないことを見破られた。

「日本からだ。」「日本人か?」「いや、在日韓国人だ。」「日本で生まれたのか?」「そうだ、三世だ」「それにしては韓国語が上手いの。」

そらきた、おきまりの台詞だ。この会話はモーテルの女主人とも同じ会話をした。
もし僕が、20歳代だったらショックだったかも知れない。しかし、もうそんな青臭くないオッサンなのだ。
その60歳がらみのオッサンから焼酎をご馳走になった。ありがたく受けた。冷麺は非常にうまかった。

ビール3000ウォン+冷麺3500ウォン=6500ウォン。日本円に計算すると¥650くらいか。



 ロッテホテルの裏通りを歩いていると、後ろから今度は日本語で声を掛けられた。
それも聞き覚えのある声だ。振り向くと日本に住む叔母と叔父が立っていた。
「ななな・・・何でここにいるの?」叔母は「お前こそ何でここにいるのだ?」

 叔母夫婦は叔父の親戚の法要で来韓したらしい。こんな偶然もある物だ。聞くとどうも飛行便も同じだったようだ。
飛行機で会えなかった理由はハッキリした。叔父はビジネスで成功しているのでビジネスクラスに乗っていたらしく、
エコノミーの私と顔を合わせるチャンスは少ないのは当然のこと。その夜は、叔母のおごりで新鮮な魚介類にありつけることが出来た。




 叔母夫婦と別れを告げ、一風呂浴びたくなったのでサウナを探した。サウナでも、案の定オッサン達と例の会話をひとしきりした。
エンドレステープでも持ってくれば良かった。帰りに道端の포장마차(屋台)で一杯やってホテルに戻る。(つづく)

ふるさとのなまりなつかし(プサンまで)①

ふるさとのなまりなつかし(プサンまで)③
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ふるさとのなまりなつかし(プサンまで)①

2018年02月28日 | 訪れたところ
 私は、元北朝鮮柔道代表選手だったこともあり、国家から勲章を受けていた関係で韓国へは入国を拒否されていた。
今から11年前、はじめて韓国への入国が許可された。

1920年代後半に祖父が日本へ渡ってきて、父が大阪で生を受け私は在日コリアン3世になる。
韓国の本籍地にいるはずの僕の本家筋は、あの朝鮮戦争で焼け出され事実上離散状態になっており韓国国内に親戚は居ない。
しかし、私の外国人登録証には「本籍地」が記載されており、そこが僕のルーツになる土地である事にはちがいなく、
アレックス・ヘイリーよろしく、自分の「ルーツ」を訪ねてみたいとかねがね思っていた。

約10年前、はじめて韓国の地に立ちルーツを探しに行ってきた。数回に分けて連載とする。


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 在日コリアン3世として日本に生まれ、もう一つの祖国は何度も行った。
かつて、北朝鮮の柔道国家代表という関係で韓国には入国できなかった。やっと、臨時ビザではあるが韓国へ入国できるようになった。
僕の外国人登録証に記載されている「本籍地」を訪ねてみようと思う。そこには僕の知らない祖父や曾祖父の墓があるらしい。
할배(祖父)達と一献盃交わしてこよう。何代続いたのか知らないが、僕が知らない僕のルーツがそこにあるらしい。




 関西空港を午前に発ち僅か一時間少しでプサンに降り立った。飛行機の窓からプサンの岸部が見えたとき、
学生時代に読んだ「対馬まで」キムタルス(金達寿)著を思いだした。
 対馬に行けば、山頂から望遠鏡でプサンが見えるらしいという話を聞いた三人の登場人物は、
東京からはるばる対馬に渡り着く。早朝、山に登りプサンを眺める。対馬からプサンは目と鼻の先。
中の1人はプサンに住む弟に電話をして、弟は同時に対馬を眺めるという。
翼があれば、飛んでかえることのできる故郷。祖国の分断は1世達にとって何だったのだろうか?
その恋しい故郷に胸を焦がした在日コリアン1世を思い浮かべながら、まだ見ぬ先祖の地を
在日コリアン3世の私は飛行機の中から想像していた。




 はじめて韓国の地に立った。プサン空港からバスに乗り市街地へ向かう。

プサンの中心街、西面(ソミョン)で取りあえず今日の宿を探す。スーツケースをガラガラと転がしながら、
すえた臭いがする繁華街の裏路地を徘徊する。一軒のモーテルを見つけた。
日本でモーテルと言えばいかがわしいところを想像するのだが、韓国ではそうとは限らないらしい。
そうであるのかそうでないのかは本人の自己責任に委ねられるらしい。
入り口の自動ドアが開く。一歩足を踏み入れた途端、いかがわしい雰囲気が漂ってくる。
それは、長年の経験が私の感覚器を鋭敏にさせたのか。すぐに、踵を返し外に出る。

すると、二階の窓から女性の大声が聞こえた。「오빠! 어디러 가시냐!!(ちょいとお兄さん!何処へ行くの!)」
明らかに私に向かって言っている。普通なら無視して次の宿を探しに行くのだが、不覚にも振り向いてしまった。

振り向かせた根拠は明らかに「オッパ!・・・」という最初の一言だ。

韓国をよく知っている男性なら「오빠(オッパ)」という言葉の魅力は分かるだろう。
韓国では女性が男性に対しての呼称で「オッパ(兄さん)」と「アジョシ(おじさん)」の違いは
場末のスナックと北新地の高級クラブほどの差があるのだ。

 結局「オッパ」の一言でそのいかにもいかがわしいモーテルに泊まることとなった。
ちなみにそのモーテルの名は「モーモー・モーテル」味のある名前だ。

しかし、その「オッパ」と叫んだ女性、間近で見ると思った。『もし、あんたが俺をアジョシと呼んでいたら殺意を覚えただろう。』


 かくして、故郷訪問はプサンから始まった。



(つづく)

ふるさとのなまりなつかし(プサンまで)②

ふるさとのなまりなつかし(プサンまで)③

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