心は秘密

仏心に住して菩薩のように語るブログ

「あれか、これか」の閑話

2020-06-15 10:47:23 | 読書
ちょっとした弾みで思い出したキルケゴールの「あれか、これか」。十代の終わり頃からニーチェやヤスパースなどと同時に読んでいたキルケゴール、今となっては「懐かしい」の一語に尽きる。


その「あれか、これか」の最初のところには、「結婚したまえ、君はそれを悔いるだろう。結婚しないでいたまえ、やっぱり君は悔いるだろう。結婚しても、しないでも、何れにしても君は悔いるのだ」というような例を幾つか並べている。


ここでキルケゴールが云わんとしている事柄を、別の形に買い換えてみると、「昨日私は〇〇へ出掛けて、〇〇して遊んだ」と人が語るとき、その「出掛けて遊んだ私」は「本当の私」ではないという話にもなる。ならばその人が「〇〇へ出掛けるのを止めて、出掛けなかった」とすればどうだろうか。勿論「出掛けなかった私」も「本当の私ではない」という話だ。これをキルケゴール風に云えば「その人は〇〇へ出掛けても、出掛けなくても、それを悔いるだろう」という表現になる。勿論「悔いるか悔いないか」という話になれば、悔いると決まったものではないけれど、隠された意味は、やはり「本当の自分か、そうではないか」という話なのである。


それ故にキルケゴールは続けて曰く、「私がスピノザのように、すべてを永遠の相と観るのは、或る特殊の瞬間だけではない。むしろ私こそは常に永遠の相である。多くの者は一を他に結び付けんとするとき、即ち此の矛盾を調和せんとしたとき、自分もやっぱり、それであると思う。しかしこれは誤解である。何故ならば、真の永遠の相は「あれか、これか」の後ろに従うものではなく、その前に行くものであるから。彼らの永遠の相は、だからまた苦痛な時間の連続である。というのは、それは二重の悔いに焼き尽くされるからである、云々」と。


これで示さんとする意味内容も尽くされていると思う。キルケゴールは時々、ヘーゲル批判をするのだが、この文章の中にも、その形跡が見て取れます。弁証法批判です。ここでは、弁証法で解決しようとすれば、二重の悔いに焼き尽くされると云っているのです。


ならばキルケゴールの解決策はどういうものか、というのが、この文章で明かされているように、宗教で開顕される神性覚(真我とか如来蔵などとも云われています)です。これが「本当の自分」だからです。キリスト教だろうと、仏教だろうと、或いは古代ギリシャ時代から延々と続く哲学者たちにとってだろうと、人間に普遍的で只一つの「本当の自分」と云えば、ここに示唆されている「本当の自分」以外では有り得ないのだと、そう確信してみると、ヘーゲルの論書を回想しつつ、ヘーゲルが弁証法を駆使して到達を目論んだ「絶対精神」って、「ありゃ一体何だ」と云わんばかりの有頂天気分を生じ、痛快な思いに浸ったことまでが、今またこうして思い出されるのです。


死魔に打ち勝つ道の話

2020-06-13 14:39:18 | 日記
人間として此の世に生まれてきたからには、死から逃れることができない。これは此の世の定めである。ならば人間という存在は、ハイデガーも云うように「人間は死に向かって生きている存在」という見解を以て決まりだろうか。もし「決まり」であるならば、人間の生き方はどのようになるのだろうか。やはり実存思想に倣って「死によって限定された時間枠の中で、一度きりの掛け替えのない人生を、精一杯生きよう」という考えに落ち着くのだろうか。


いや、選択肢はまだある。仏道を学べば、一切の衆生の苦しみは、身体有るが故である、という認識が得られよう。これは「身体が無ければ、心に苦しみは生じない」ということだ。そこで心が身体を放下する。つまり解脱をするのである。そんなことが可能なのか、と思うかもしれないが、やってみると意外と出来るものだ。勿論解脱できたという証しも自認できる。成就の時には、忽然と解脱の金剛身が現れたことも、心眼で確認できるからである。解脱のコツは、人それぞれの悟りの進展具合によって幾つかあるけれど、自分に似合った方法を見付けるとよいでしょう。


こうして成就した解脱身は、身体の生死の影響を受けない金剛身なので、そのまま「死魔に打ち勝った法身」とも云えるのです。また、この開かれた法身を基体として、森羅万象を尽く成仏に引き入れることも可能になります。もしそういうことになると、成仏者の心象の中では、森羅万象も尽く成仏するので、死魔も戦う相手がどこにも居なくなり、やむなく空中消滅という結果にもなりそうです。


不立文字

2020-06-08 13:52:16 | 日記
「不立文字」の意味に関する一つのヒントとして。


禅の本質を表す言葉の一つとされている「不立文字」。仮にこの四文字の意味を推考していると、「文字を立てず」は即ち「文字に依らず」であり、文字に依らないということは、取りも直さず「音声にも依らない」ことを意味するのだから、そのまま「何の意味にも依らず」であり、自ずから「無語の故に無音声」にして「能動も無く受動も無し」という「無の境地」に至り着くのではなかろうか。


では、ここで到達されたかに見える「無の境地」は、正当な覚りの境地だろうか、と検討してみると、確かに表面的には「法身は説法せず」と説かれている「如来の定の辺」に等しいかのようにも見える。しかしこの「無の境地」は、最初に提示された「不立文字」という四文字、即ち「文字に依存して考えられた境地」であって「文字から縁起した空想の境地」であるから、当然ながら行者の心には解脱も無いのであって、正当な悟りの境地とは無縁だということも分かる。


従って、この理が分かれば、単に無念無想の状態を自身で工夫したとしても、それで覚りの境地を体得したことにはならないということも分かってくるだろうから、それと同時に、禅が説く「不立文字」の本来の意味というか、秘められた仏心開悟の瞬間というものにも、少しは近付くことができるのではないだろうか。


コロナ禍に人生の縮図を見る

2020-05-31 11:58:26 | 日記
今、世界規模でのコロナ禍の蔓延に、人々は苦しめられています。緊急事態宣言で人民の外出自粛を要請すると、蔓延も少し治まるが、経済活動も悪化する。そこで緊急事態宣言を解除して経済活動を取り戻そうとすると、コロナ禍もまた復活する。これではまるで世界中がコロナウイルス相手に「だるまさんが転んだ」遊びを始めたようなもので、こんなことを繰り返していても埒が明かない。


このようにコロナ禍を観察していると、一枚の人生の縮図を見る思いがする。人は此の世に生まれてきた時点で既に、将来の死は避けられない宿命を背負わされている。此の世に生を受けて、死なない人は誰もいないということですね。従って「生者は常に死魔を伴って生きている」と。


今回のコロナ禍もまた、自由な生活活動を脅かして蔓延する。これは世界規模での死活問題に繋がりますから、生を蝕み、病苦を齎し、死苦で脅かして、まるで人々の生存を終始脅迫している死魔との縁とも同じように、コロナ禍もまた、彼の世に潜んでいた死魔が、突如現実世界に飛び出して来たかのように、人々の自由な生存活動の現場を脅かしている死魔の姿としても、見えてくるのです。


そういうことであれば、死魔を解脱する要領で、予めコロナからの解脱も決めてから、心置きなくコロナ対策に取り組むと致しましょう。


「悟りの杖」への質問に答える(3)

2020-05-30 12:23:13 | 日記
拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、このテーマで記事を書いています。それ故、この記事に関する質問などを頂けると、今後の参考にもなりますので、有り難く思います。


今回は「悟りの杖」を読んだ方から、「まったく歯が立たない」という批判を頂いた件について、少しばかり述べてみたいと思います。


先ずこの書が目指した内容について語りますと、「解脱の実践技を易しく説く」ということにありました。したがって「まったく歯が立たない」と評されれば、心も痛みますが、それはその方の理解力の問題ではなく、単に仏教経典の類いに接した経験が殆ど無かったから、ということでしょう。誰だって始めて目にする仏教用語を、辞書も引かずに妥当な意味で読み取ることは難しいからです。


しかもこの書は、「悟りを得る実践技を易しく説く」ものであって、「仏語の意味を説いて知識を与える」という一般的な学術書には属しないので、そういう書物だと思って読むなら、まったく当て外れになって、「えっ? この書、いったい何を学べるの?」ということにも成りかねないからです。


そこで、この書が「悟りを得る実践技を易しく説く」ために用いた仏語とは、どういうものかということを、簡単にお伝えしましょう。


この書で説く「悟り」は「解脱」に特化されています。解脱こそ悟りの要であり、解脱が無ければ悟りも無に等しいようなものだからです。


解脱は普通「心解脱」と「慧解脱」に分けて説かれています。この書で説くのは「心解脱」です。慧解脱よりも先に体得すべきものだと考えるからであり、解脱後に「よしっ! 解脱したぞ! これで煩悩の繋縛を解き放って無畏自在に成ったのだ! 常楽我浄に達したのだ!」という強い達成感が得られるのも、この解脱法であり、慧解脱の前に習得すべき解脱法だと考えるからです。


勿論「心解脱」を成就すれば、解脱身が見えるようになるので、少し瞑想のコツを覚えれば、程なく「慧解脱」も身に付けることができます。そうすれば真言密教で説く金剛界解脱輪をも成就して、最高の悟りに生きることも夢ではないのです。


という次第で、「悟りを得て仏に成りたい」という読者諸氏の夢を叶えられるような仏教書の作成を夢見つつ、拙著「悟りの杖」は執筆されたのです。