町田市立薬師池公園/総面積 7,700㎡。薬師池は「野津田薬師のほとりの池」の意味。公園内の野津田薬師と言われている薬師堂は天平年間(729~749)行基の開基と伝えられている。現存する薬師堂は明治16年(1883年)に再建したものらしい。
薬師池は、戦国時代は北條氏照の支配領域で、天正5年(1577年)に北条氏照の印判状が野津田の武藤半六郎(河井家祖先)にくだり、水田用水池として天正18年(1590年)まで開拓された。この年、小田原城は秀吉の軍に包囲されて落城、北條氏政、氏照は切腹している。
江戸時代には福王寺池(福王寺溜井)ともよばれいた。宝永4年(1707年)の富士山噴火による降灰ですっかり埋まってしまったが、その後3年掛けて浚い工事が行われた。文化14年(1817年)にも泥砂が溜まったので浚い工事が行われたらしい。周辺の七国山を含む「クヌギ、コナラの雑木林」は武蔵野の原風景だと言われている。

薬師堂を見て千年以上の悠久の時を感じるなんてことは、なかなか難しい。また、周辺の雑木林を見て、それが「武蔵野の原風景」だと言われてもこれまたピンと来ない。薬師池のすぐ横を鎌倉街道が走る。七国山には「鎌倉井戸」なんてものもある訳だから、この辺を散策すればその時代を少しは偲ぶことが出来るのかも知れない。
時は6月、薬師池の湖面にさざ波が立ち、そよぐ風も心地よい。
菖蒲はもう咲き終わり、次は紫陽花が出番を待っている。
薬師池は、戦国時代は北條氏照の支配領域で、天正5年(1577年)に北条氏照の印判状が野津田の武藤半六郎(河井家祖先)にくだり、水田用水池として天正18年(1590年)まで開拓された。この年、小田原城は秀吉の軍に包囲されて落城、北條氏政、氏照は切腹している。
江戸時代には福王寺池(福王寺溜井)ともよばれいた。宝永4年(1707年)の富士山噴火による降灰ですっかり埋まってしまったが、その後3年掛けて浚い工事が行われた。文化14年(1817年)にも泥砂が溜まったので浚い工事が行われたらしい。周辺の七国山を含む「クヌギ、コナラの雑木林」は武蔵野の原風景だと言われている。

薬師堂を見て千年以上の悠久の時を感じるなんてことは、なかなか難しい。また、周辺の雑木林を見て、それが「武蔵野の原風景」だと言われてもこれまたピンと来ない。薬師池のすぐ横を鎌倉街道が走る。七国山には「鎌倉井戸」なんてものもある訳だから、この辺を散策すればその時代を少しは偲ぶことが出来るのかも知れない。
時は6月、薬師池の湖面にさざ波が立ち、そよぐ風も心地よい。
菖蒲はもう咲き終わり、次は紫陽花が出番を待っている。
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