「今から20年前の話になる。当時、私は父親が経営していた進士の会社に入社して駆け
出しの頃だった。まだろくに仕事も出来ないというのに社長の息子ということで周りから
はいやに丁寧に扱われていたよ。自分が望んだわけじゃない扱われ方に仕事における充実
感は損なわれていた」
きっと隼人くんもそのうち経験するよ、と言った。
「そんな毎日だったが、一つだけ生きがいを会社で感じることができたんだ。私は会社の
受付をしていた女性に恋をした。言ってしまうと、今の妻になる。私はさりげなく彼女に
近づいていき、交流をもつようにした。ただ、彼女の笑顔はその意味を思い描くには悩ま
された。私が社長の息子だということでの営業的なものだとも思えたからね。だから、人
づてに彼女の気持ちを探ってもらった。結果は最高だった。私はすぐに彼女を誘った」
だが思いもよらない展開が待っていた、と真人は息をついた。
「一緒に食事をしたのだが、そこで決定的なことを言われたんだ。彼女には家族があった
んだ。夫だけでなく、小さな娘までいた。私は大きな溜め息をついた。終わった、と諦め
たんだ。彼女の笑顔は営業もので、受付という立場から仕方なく食事へ来たのだろうと」
隼人も結愛も真人の話を真剣に聞いていた。それ以外の雑音など意識に入らず、ただ真
人の言葉から様々な想像を繰り返していく。
「しかし、私はその日に女性と一夜を共にした。彼女の方から誘ってきて、私も拒むこと
をしなかった。幸せだった、毎日の喧騒の中にこんな幸福な世界があったんだと感動した」
「異変は次の日に起こった。受付にいる彼女が口元に傷を負っていた。理由を考えるのは
難しくない、彼女の夫がやったことなのだろうとすぐに分かった。話をしたくてまた食事
に誘ったが、彼女は何も言わずに食べることだけを続けた。そして、その日も一夜を共に
したんだ。彼女の方から誘ってきて、私は当然にそれを拒んだ。それでも彼女は譲らなく、
体を重ねたが初めての時にくらべれば幸福感は大してなかった」
「その日の夜中、隣で眠りにつく彼女から言葉を投げ掛けられた。今の夫と別れたい、と
泣き出したんだ。夫とは衝突が絶えずに日々逃げ出したくてたまらなかったらしい。そん
な中で私と知り合い、彼女の決意は固まった。今の生活から抜け、あなたと新しいスター
トを切りたい、と。私は大きく悩んだ。が、奥底にある思いは陰らなかった。私も彼女と
一緒になりたかった。自分の立場だとか、そんなものは関係なく」
立て続けに話し、真人は息をつく。
話は最も重要な部分へ足を踏み入れていく。
「夜のうちに彼女は家に帰り、私は彼女を送ったまま車で外に待機していた。夜中に差し
掛かったあたりだったと思う。彼女がこっそりと自宅を抜けて来て、私に向かい頷いた」
それが合図だった、と真人は言う。
「合図って・・・・・・一体、何の?」
真人は言葉に少しためらう。隼人と結愛に目を配らせた。
「・・・・・・私は持っていたライターで紙を燃やし、それを彼女の家に捨てた」
隼人と結愛の瞳が開く。それがどういうことか、話の流れから充分に推測できた。
「分かってるよ、君たちの言いたいことは」
それでも、と真人は話を続ける。
「それでも、私は彼女との生活を望んだ。燃え盛る炎を眺めながら、これは罪ではない、
これは彼女を救うためだ、と何度も自分に言い聞かせた」
「その時だった。燃えゆく家の中から逃げようとすると、彼女が立ち止まった。どうした
んだと思ったら、先にある階段に子供がいるのが見えたんだ。子供は、お母さん、と炎に
包まれていく中で言っていた。彼女は涙を流しながら立ち竦んでいた。私は動けない彼女
を連れて外へと逃れた」
結愛の瞳から涙が流れていた。もう、彼女は理解をしていた。
「火は次から次にと移っていき、私たちはそれを家の外から眺めていた。すると、彼女は
導かれるように燃えている自宅の方へ歩き出したんだ。必死に止めに入った私を振り払い、
彼女は家の中へ進んでいった。まさか心中するつもりではないか、と思ったが、彼女は再
び外へと出て来た。体を黒くしながら、同じように黒くなっている子供を抱えていた」
「・・・・・・それって」
遮るように言った結愛へ向かって、真人は言う。
「あぁ、君のことだよ」
結愛の話と真人の話が繋がった。
「彼女は娘である君を見殺しにすることが出来なかった。気を失っている君に、ごめんね、
と何度も言っていた」
結愛の涙は止まることなく止めることもなく流れていた。
「私たちはそのまま車を走らせた。出来るだけ遠くへ、という思いで走り続けた先はとあ
る施設だった。私と彼女が新しいスタートを切る上で、子供は共にいてはならなかったん
だ。私の家柄のことや何より前の夫との関係のあるものは一切を切り離したかった。だか
ら、君を捨てることを選択したんだ」
「でも・・・・・・福治美月が目を覚ましてから全てを話してしまえば」
「確かにそうだ。だが、そこは大丈夫だった。子供は車で移動している時に一度目を覚ま
したんだ。その時、君に障害の兆候があることは分かった。君は何も覚えていなかった。
火事はおろか母親のことも、何もかも」
「じゃあ、彼女が全て覚えていたら」
「そうだな・・・・・・そのまま、駆け落ちでもしたんじゃないかな」
「ノーベルマン」HP
http://www.musictvprogram.com/novel.html