7月24日の夜、柳舘修子の頭。
乗りかえをした後の電車は人も比較的少なめで大概は座ることができる。いつもなら
そのまま寝てしまうんだけど、今日はそうはいかなかった。またあのもやもやが頭に出
てきてしまったから。
さっきの乗りかえの駅での靖司とのやりとりを思いだす。あまりのつたなさに自分で
浮かべておきながらすぐに消したくなる。自分のふがいなさに我ながらほとほと愛想を
つかす。
不意をつかれたのはもちろんだったけど、それでもそれはいいわけにしかならない。
というか、いいわけにはしたくない。あれは明らかに私がダメなだけだった。そう自ら
をいましめたい。
言いたいことはあったのに。昨日の夜もあんなに考えてたのに。電話で言うなら、メ
ールで送るなら、直接伝えるなら、いろんなシュミレーションもした。街中で急に会っ
たら、それもその中にはあった。なのに、私は・・・・・・。
昔はこんなんじゃなかった。もっと近い距離にいれたのに。少なくとも、こんな後悔
に苦しめられることになるなんて思いもしなかった。あの純白な世界がずっと続くんだ
と信じてやまなかった。
出会いは中学生のときだった。中1のときに靖司は父親の転勤で私のいた中学に転校
してきた。ほぼ一目惚れだった。靖司は気さくですぐにクラスの輪に入れたし、集中力
もあったから勉強も運動もそつなくこなしたし、顔もいい方だから寄りつく人は多かっ
た。男子には人望があったし、女子には人気があった。アニメやドラマの主人公のよう
に誰もがうらやむようなほどじゃないけれど、どれを取っても上中下の上のランクには
いた。私の知るかぎりでも数人は好意をもってたし、私もその中の一人だった。
初めは淡い片思いだった。恋っていうのをどこから正確なものとして区切っていいの
か分からないけど、あれがきっと初恋なんだと思う。幼稚園や小学校のときにも好意を
もってた男子はいたけれど、思春期というか男性として強く意識したってことでは意味
が違う。
毎日ドキドキしてた。授業中、教室の少し離れたところから後ろ姿を見てるだけなの
に気持ちが高ぶっていた。嬉しくて、たまに胸がキュッとなった。学校に行くことが楽
しくてしょうがなかった。
でも、その思いは表には出さずに胸にしまっていた。気持ちを素直に出すなんて初恋
のときにそんな器用にできるわけないし、告白なんてもってのほか。なにより、そっと
温めていくことが心地よかった。
ただ、幸いそのまま近くから眺めてるだけで卒業を迎えるってことはなかった。私も
タイプ的には靖司に似ていたから、私のいる女子グループと向こうのいる男子グループ
は接することが多かった。輪になって話したり、行動を共にしたり。集団で話してると
きにたまに靖司と会話になることもあったり、集団で移動してるときにたまに靖司と隣
で歩くこともあったりして、そんな日にはもう家に帰ってからも頭の中で何回も思いだ
しながらにやけてた。2人になることはなく、グループとしてだけど充分すぎる日々だ
った。
2年と3年ではクラスが別々になったけど、通学や校舎内で会ったときには気さくに
「おっす」と挨拶をしていた。物足りなさはあったけれど、もともと見ているだけで幸
せだったわけだから我慢の範疇だった。結ばれたらとはいくらでも考えたけど、今の状
態が続いてくれれば私は満足だった。
けど、そうもいかない状況が迫ってくる。3年も半ばになってくると高校受験が現実
味をおびてくる。どうしよう、どうしよう。自分の進路と同じぐらいに靖司のことが頭
の中を占めていた。
私の片思いを知ってる友達にさりげなく靖司の受ける高校とその中の本命をさぐって
もらった。靖司の本命は私のレベルよりワンランク上だった。自分の現実との距離を感
じずにはいられなかった。
でも、悩んでるヒマなんてない。私はそれまでの人生で経験のないぐらい勉強へ情熱
を燃やし、靖司の本命校を受験校の一つに入れた。周りには挑戦のつもりで受けるって
言ってたけど私は本命として受けた。
本命校の受験を終え、結果が出るまでのあいだにバレンタインデーがあった。1年と
2年のときは渡したいとは思ったけど自分の思いが伝わってしまうのをおそれてやめて
いた。私はこのままでいいと思ってたからヘタにがんばって関係がぎこちなくなるのは
嫌だったから。
ただ、このときは意味合いが違っていた。私が本命校を落ちた場合、春から靖司と離
ればなれになってしまう。今の関係はおそらく薄れてしまう。それはなにより嫌だ。な
んとかしないといけない。そして、それを後押ししてくれるのにはもってこいのバレン
タインだった。
正直、私自身は心がすくんでいた。自分の思いが向こうに伝わっちゃう、これまでの
関係でいられなくなる、どうせなら卒業式でもいいんじゃないか、そうありとあらゆる
逃げ腰な言葉を並べていた。それを友達が強めにはげましてくれた。伝えなきゃこのま
ま終わるんだよ、受験がダメだったらどのみち今の関係がなくなるんだよ、ここで逃げ
たら卒業式でも同じことになるよ、そう背中を押してくれた。
私は靖司に告白することを決めた。受験勉強もあるのに友達が作戦会議をしてくれて、
それを元に動くことにした。当日、「渡したいものがある」ってメールを送信。普通に
考えて、この日に渡すものなんてバカでも分かる。これを送信した時点でこっちの思い
の半分以上は伝わってるも同然。後は最後の勇気を振りしぼるのみ。待ち合わせ場所で
立っているあいだも完全に心ここにあらずになっている。昨日の会議で決めたシナリオ
をひたすら頭にリピートしていく。シナリオといってもごく普通の展開。なのに、そん
なことすらどっかに飛んでってしまいそうなくらいのド緊張。靖司が着くと、「勉強中
にごめんね」と言いそえる。「これっ」とチョコを渡すと、靖司は察しがついてたよう
で「あぁ・・・・・・ありがとう」とそこまでの驚きは見せなかった。靖司はチョコの
包みを開けようとしない。自然な流れはそこで途切れる。ここで余裕があるなら立ち話、
ないなら撤収っていうシナリオ。自分の余裕、なし。撤収。そこから二言三言を言いそ
えて、その場を後にしていく。同行してくれてた友達の待つファミレスに駆けこみ、よ
うやく緊張の糸が切れた。
結局、私も靖司も本命校に合格していた。険しかった道が開けてホッとする。よかっ
た、あと3年は一緒にいられる。
同時によくないかもしれないことが一つ。自分の気持ちはもう向こうに伝わってしま
っている。ここまではいいとしても、こっからどうすればいいんだ。私はすでに告白の
ゾーンに足を踏みいれてしまっているわけで。でも、これからのことを考えると答えを
聞くのは怖い。
登校日には目も合わせられず、そのまま卒業式を迎えた。友達とまた前もって作戦会
議があり、当日のシナリオをくんでもらった。私が事前準備がないと何もできない緊張
しいであるのは露呈されていたから。そこで決められたのは無理をしないこと。バレン
タインのときとは状況も変わったので、ここでフラれて高校生活に支障をきたさないよ
うにするのが第一になった。
式が終わってホームルームになるまでのあいだに靖司をメールで呼びだし、校舎裏に
スタンバイしてるとまたガチガチになってしまっていた。というより、式の途中からも
うなっていた。靖司が着くと、制服の第二ボタンをおねだりする。今日は答えを聞くん
じゃなくボタンをもらう名目、それでなんとか気を保てた。ただ、その後の展開が待っ
ていた。ボタンをもらってその場を去ろうとすると声をかけられる。「答えは言わない
で」と心でとなえると、言われたのは「今度、どっか行かない?」だった。その後どん
な言葉を言ったかは覚えてない。足が地についてない状態。心に花が咲いている状態。
簡単にいえば、訳がわからない状態。
それからは順調な関係が続いていった。学校では恥ずかしさもあって近づきすぎなか
ったけど、それでも周りのみんなが認識しているカップルだった。休日にはデートをし
て、そこでは少しずつ距離を近づけていった。こんな幸せがずっとこの先もあることを
うたがわなかった。
なのに、その思いは打ちくだかれた。同じ大学にもがんばって入れたけど学部は違う
ので、それまでよりも近くにいられる時間は減っていた。それでもなるべく機会は見つ
けて順調に付き合っていたつもりだった。
その中で、次第に靖司の感じが変わっていった。外から見てとれるものじゃなく、内
から来るもの。靖司から私に来る思いが薄くなっていってる気がした。でも、それを口
にはしなかった。口にすることで2人の間にそれが明確な意識とされてしまうのが怖か
ったから。
重なるようにして靖司に他の女性の影が立つようになった。靖司と同じ学部の子で、
私も目にしたことがある。そのときは数人の仲のいいグループの一人っていう様子だっ
たけど、友達から靖司がその子と一緒にカップルみたいに楽しげにしてたって報告をさ
れて頭の中が白くなった。よくよく考えると、その少し前あたりから会う回数が減って
いたし、こっちから誘ってもこばまれることもあった。今日中にレポートをやらないと
なんない、友達と遊びに行く約束をしちゃった、そういうしかたない理由だったから納
得していたのに。経験したことのない怒りと不安の織りまざった感情がふつふつと上が
ってきた。
私は靖司に直接問いつめた。このまま抱えこんでたら身がもたない。こんな心配した
ことがなかったし、することもないと思ってたから心構えがなかった。私と靖司のあい
だにはこれまでの絆があると信じてたから。もう、靖司のことをうたがってる自分でさ
え卑しい人間に思えてきて嫌になった。我慢は無理だった。だから、ちゃんと向かい合
ってたずねた。恋人に浮気の疑いをかけてる時点で2人の信頼関係は元にはなれないっ
ていう覚悟も決めて。それだけの強い気持ちで向かったせいで私は途中から涙を流して
いた。この状況の何もかもが嫌で。すると、最初は否定していた靖司の言葉が止まった。
やがて、「ごめん」と頭を下げられた。今まで築きあげられたものが音をたてて崩れて
いった。信じられなかったわけじゃなかったけど、目の前で起こっていることがなにか
自分に対して起こっているものじゃないようにぼんやりした感覚だった。裏切られた、
そう感じた。出来心でやってしまったこと、今とてつもなく後悔してること、私のこと
を好きな気持ちは変わらないこと、もう二度としないと誓うから許してほしいこと、靖
司がいくらでもと謝っている言葉の全てが私の中をふんわりとただよってポツポツと出
ていった。
私に靖司の謝罪を受けいれる余裕なんてなかった。中1で片思いして以来、私の初恋
だったし、私の青春だったし、私がしたたった一つの恋だったのに。そこを崩されて、
私に寄りかかるところなんてなかった。好きだから、離れたくないから泣く泣く許すな
んて選択肢はなかった。あるだけのわずかな力で「別れましょう」と言い去るのが精一
杯だった。
その後、靖司は大手商社に就職し、私はごく平凡な一般企業に就職した。向こうの情
報は学生時代の友達を通してたまに伝わってくる。順調に仕事してるらしく、いくつか
恋愛もしてるようだ。私も普通に仕事してるし、いくつか恋愛もした。ただ、どれも相
手から求められたもの。正直、こっちにそれほどの熱はない。
いや、そんな表現じゃ違う。熱が出ないのはこっちの心持ちのせいでしかない。まだ
この心の中に靖司への思いがある。振りほどこうと何度も思ったけれどうまくいってく
れない。一度の過ちを許せなかった自分さえ責めている。未練が続いている。確かなこ
とは靖司が好きだということ。
だとしても、関係を修復する術が見当たらない。あれから月日が経ちすぎてるし、浮
気をされた側から持ちかけるのは違うだろうし、裏切られた傷は今もまだこの胸の中に
あるから。
なら、このままでいいのか。それは嫌だ。あのなんてことない輝いた日々が忘れられ
ない。あのときに戻りたい。靖司と戻りたい。あそこが私にとって一番心地いい場所な
はずだから。
「ノーベルマン」HP
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