神話でなかった古事記

日本の歴史を知るために、いろいろ考えてきました。古事記に残されていることから、思いついた事を書いてみようと思います。

古事記における推古天皇の記述

2016-02-24 07:39:29 | 古事記
前回までは、日本書紀において、大津京に関連すると思われる語句を含む記事を16回に分けて見て頂きました。
 どの記事も、大津京と云うよりは、大津宮と関連する記事でした。
 別に、これだけあるということを確認することは、悪くは有りませんが、日本国の代表する歴史書に書かなければならないのかという事柄ばかりでした。
 この16個の記事は、林 博通氏がご自分の著書『大津京』に於いて、大津に大津京があった証拠として、書かれた文章から転記し、検討を加えました。
 私は、日本書紀の作者が、大津に都が有った様なことを匂わして、読者に、華やかな『京 みやこ』が有った様に細工をしたのではと考えました。
 これは、一杯書く事によって、日本書紀を読んだ人は、全員、騙されたのではと推理します。(それにしても、見事に日本人を騙したものですね。江戸時代以降だけでも、100%の人が騙されていたことになります)

 しかし、その逆のことも行われたのではと思われることが有ります。

沢山書いてあるから本当の様に思わせるのとは逆に、記事を少なくして、この天皇は、少ないので、このような天皇は、居なかったのだと思わせる細工です。
次のフレーズは、古事記の推古天皇の記述です。

原文 
妹、豐御食炊屋比賣命、坐小治田宮、治天下參拾漆歲。戊子年三月十五日癸丑日崩。御陵在大野岡上、後遷科長大陵也

翻訳
妹、豐御食炊屋比賣命、小治田宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳なりき。戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。御陵は在大野の岡の上にありしを、後に科長の大き陵に遷しき。 (倉野憲司校注)

僅か、これだけの記事です。ついでに、その前の崇峻天皇の記事もご覧ください。

原文
弟、長谷部若雀天皇、坐倉椅柴垣宮、治天下肆歲。壬子年十一月十三日崩也。御陵在倉椅岡上也。

 この余りにも少ない記述をどの様に考えるかです。

古事記が出来たのは、701年です。日本書紀は720年に出来ています。 これは、間違いで、古事記の方が、ずっと、後から出来たから、古事記を書いた太安万侶の捏造と見る人がおられます。

 私は、古事記の方が、先に完成したのではと考えています。その証拠は、有りません。古事記の序文に、序文を書いた月日が書いてありますから、これは正しいのではと思いますが、これも、ねつ造だと云われる方が居られます。

 私は捏造では無く、其の後にも書かれていた記事は、日本書紀の作者によって、削られたのではと推理しています。

 このようなお話どころではありません。神武天皇から9代天皇までは、無理矢理書いて、天皇が居られた様に書いたのだと云うことが、普通の古事記の解釈とされています。
 これらの天皇は、欠史10代と呼ばれています。
24. 仁賢天皇
25. 武烈天皇
26. 継体天皇
27. 安閑天皇
28. 宣化天皇
29. 欽明天皇
30. 敏達天皇
31. 用明天皇
32. 崇峻天皇
33. 推古天皇

日本書紀における天智天皇紀の記述---総括

2016-02-17 04:49:57 | 古事記
長い間、読んで頂きまして、有難うございました。
 このブログは、メインタイトルに「神話でなかった古事記」という訳の分らないものを掲げています。
そして、今回は、日本書紀のうち、天智天皇の所に書いてある16ヶ所に絞って、この箇所は、大津に「京 ミヤコ」があったように、思わせる為に、日本書紀を書いた人が、挿入した文章ではないかと考えました。

私はすこし、意地悪く考えを巡らせたのですが、そうではなくて、日本書紀に次の様に書いてあるから、大津に「大津京」が在ったのだと書かれた本が有りました。
それは、昭和59年9月に発行された 林 博通著 『大津京』でした。
この本は、アマゾンで1円でしたので、買いました。

もう一冊、タイトルに「大津京」の入った本が有りましたので、購入しました。この方は、林 博通氏の先輩と思われる方の様で、発掘の仕事もされていた様ですが、この方の本にも、林 博通と同様に、日本書紀に書かれてあった16個の記事を掲載されて、この事から「大津京」があった証拠の様に書いてありました。
お二人で、ご一緒に仕事をされて、16個の文章は、大津京が、大津にあったことを確信されて書かれたのだと思いました。
しかし、この本は、紛失し現在はありませんし、本の題名も記憶にありません。

唯、林 博通氏の著書も読んでいても、これが証拠だとは書いてありませんが、大津京は、今の段階では、確定ではないが、いつか見付かるのだと書いて居られます。大津京はあってほしいという気持ちが一杯の書物に成っています。
それに対して、前述の先輩の本は、大津京の存在は無理なような記述になっていました。

林 博通氏は、どのような方か存じませんでしたが、「林 博通 著書」で検索しましたら、凄い先生でした。
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E6%9E%97-%E5%8D%9A%E9%80%9A/s?ie=UTF8&page=1&rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E6%9E%97%20%E5%8D%9A%E9%80%9A
もっと、精しく知ろうと思い、『大津市歴史博物館 研究紀要 5』1997 を購入。
松浦 俊和氏外2人共著です。 論文 『近江大津宮新 「京域」』 ここでは、大津京という言葉を使わないで、
「京域」になっています。 この頃には 大津京とは呼ばれなくなっていたことが分りました。
昭和53年11月発行で、林 博通著 『さざなみの都  大津京』を購入しました。『大津京』の5年前の著書に成ります。 これもアマゾンで購入しましたが、500円位で、私の財布では、精一杯でした。本当は、どの様に発掘されたのかを知りたかったのですが、1~2万円を過ぎますので、諦めました。

このコーナーを書き始めましたが、
始めの内は、なかなか、私の考えるところをお伝えするのが、難しく、それでも、閲覧ページ数を紹介しますと、
109、130、183、110、84、102 と大勢の方に、読んで頂きました。しかし、7回目辺りからどんどん、減少し、40~50ページ隣り、人数では、減少するばかりでした。
でも、自分の為に書いているブログですので、16個、全てを書く事に成りました。
嬉しい事に、最後の日は、187ページの閲覧が有りました。

改めて、お礼申し上げます。

それにしても、こんな凄い先生が書かれた論文とは知らないで、大津のことをろくに知らないのに、大津京は無かったを証明すればいいと思いました。

何故かと云いますと、「大津京」は無かったどころか、天智天皇は、大津宮で、幽閉されていて、毒殺されたと書いてある本が有りました。 その著者は 田村誠一氏です。
この方が云われることは、どうやら、正しいように思われるのですが、錦織二丁目に大津宮が見付かった今となっては、天智天皇は大津に居られた事は確かだのに、幽閉されていたなどの証明は素人では無理だなと思っていました。

読んで頂きました通り、大津宮に居られたのは、天智天皇だけではなくて、林 博通氏
が思われた通り、殆どの都の人々が、生活していたことが、16個の記事から解りました。

 それでは、幽閉されていたことの証明はどうするのだと云うことに成ります。

 この前後に、日本書紀は、白村江の戦いと壬申の乱を書いています。
この二つが鍵になるかと思います。

「新しい日本の歴史」http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/に書くつもりをしています。 

 よろしかったら、こちらも読んで下さい。


参考・ブログ
幻の大津京
http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2013/10/post-3d99.html


日本書紀における天智天皇紀の記述 その15----大炊に八つの鼎有りて鳴る

2016-02-11 04:06:58 | 古事記
天智10年是歳

原文
己卯、新羅進調使沙飡金萬物等罷歸。是歲、讚岐國山田郡人家有雞子四足者。又大炊有八鼎鳴、或一鼎鳴、或二或三倶鳴、或八倶鳴。

翻訳 
新羅の調を奉る使いの沙飡金萬物らが木とについた。この年、讚岐國の山田郡の人の家に四本のヒヨコが生れた。また宮中の大炊寮に八鼎(釜)があり、それがひとりでに鳴った。ある時は一つ鳴り、ある時は二つ、ある時は三つ一緒に鳴った。またある時は八つ共一緒に鳴った。

大炊は、宮中にある名称ですから、天皇の宮殿を表現する一つの言葉ですが、これがあるからといって、大津京が存在した証拠にはなりません。

日本書紀における天智天皇紀の記述 その14---近江宮に崩りましぬ

2016-02-06 08:23:19 | 古事記
天智10年12月乙丑

 原文  近江宮は、前回(①)と今回の二ヶ所に見られます。
①丁巳、災近江宮、從大藏省第三倉出。壬戌、五臣奉大友皇子、盟天皇前。是日、賜新羅王、絹五十匹・絁五十匹・綿一千斤・韋一百枚。
②十二月癸亥朔乙丑、天皇崩于近江宮。癸酉、殯于新宮。于時、童謠曰、

②の翻訳
12月3日、天皇は近江宮で崩御された。11日、新宮で殯した。この時次のような童謡があった。

考察—林 博通氏の文章から受ける感触では、近江宮よりも、「新宮」の方が、大津京を表す様に思われたのかも知れません。 しかし、「その13」と「その14」と続けて、大津宮の言葉が出てきますから、やはり、日本書紀に「大津宮」という言葉が出てきますから、これは、大津京が存在したとみられたと思われます。

 しかし、私は重要視したいのは、「童謠」です。
 この言葉は、日本書紀に、次の3ヶ所に出現します。

▼日本書紀 巻第二十四 皇極天皇紀
而立古人大兄爲天皇。于時、有童謠曰、伊波能杯儞、古佐屢渠梅野倶、渠梅多儞母、多礙底騰裒囉栖、歌麻之々能烏膩。蘇我臣入鹿、深忌上宮王等威名振於天下、獨謨僭立。是月、茨田池水還。十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小巨勢太臣・大仁土師娑....→ このページで合計1件ヒット

▼日本書紀 巻第二十六 斉明天皇紀
蒼天。」或知救軍敗績之怪。有童謠曰、摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。甲辰、御船到于大伯海。時....→ このページで合計1件ヒット

▼日本書紀 巻第二十七 天智天皇紀
天下百姓不願遷都、諷諫者多、童謠亦衆、日々夜々失火處多。六月、葛野郡獻白䴏。秋七月己未朔己巳、耽羅遣佐平椽磨等貢獻。八月、皇太子幸倭京。冬十月。高麗大兄男生、出城巡國。於是、城內二弟、聞側助士大夫之惡言、拒而勿入。由是、男生、奔入....→ このページで合計4件ヒット
「童謠」とは、どのようなことを云うのでしょうか。
本当に、童らが、囃しながら、遊んだのでしょうか。

この表現は、日本書紀の作者が、天皇家の人は、こんな馬鹿げた事をしたのですよと、日本書紀に書き残したのだと考えています。

天下百姓不願遷都、諷諫者多、童謠亦衆、 遷都は、国民の皆が反対した様に記しました。

これは、中国人が、大津京を造ったことをカムフラージュするための、記事ではないかと推察しています。(造っただけではなくて、天皇一家を幽閉していたことを隠す為に、書いた記事ではないかと考えます)

日本書紀における天智天皇紀の記述 その13----大蔵省の第三倉より

2016-02-03 20:59:52 | 古事記
日本書紀における天智天皇紀の記述 その13----大蔵省の第三倉より
天智10年11月丁巳

原文
丁巳、災近江宮、從大藏省第三倉出。壬戌、五臣奉大友皇子、盟天皇前。是日、賜新羅王、絹五十匹・絁五十匹・綿一千斤・韋一百枚。

翻訳
11月24日  近江宮に火災があった。大蔵省の第三倉から出火したものである。
29日、五人の臣は大友皇子を奉じて天皇の前に誓った。この日、新羅王に、絹五十匹・絁五十匹・綿一千斤・韋一百枚を賜った。


考察---大蔵省は、政府の機関の一つですから、ここには、天皇だけではなくて、官僚太刀も居た証拠になります。しかも、その前に「近江宮」と記されていますから、「近江宮」即ち、「近江宮」と記されていますから、大津に近江宮は大津に存在したことになります。

 従いまして、大蔵省の第三倉の文章は、大津京があった証拠になりそうです。しかし、大蔵省は在りましたが、大津京が完全に機能していた事は、立証されたわけではありません。
①~⑬の中では、大蔵省は大津京の存在を示す証拠と思える言葉の様です。