前回までは、古事記の国生みに登場する「女島」がどこかを探ってきました。
太安万侶は、「女島」を入れたと云うことは、奈良県に住んでいても、神武東征の折には、神武天皇が、どの島を廻ったかは、知っていた事になります。
前回、紹介しました女島は、古事記に書かれている島ですが、島の名前だけ残っていたのかもしれません。
女島は、現在でも、全国に沢山有ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%B3%B6
しかし、九州以外は、検討もしませんでした。
その理由は、次の所に書いておきました。
イザナギとイザナミの国生み(26) 還ります時
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/770b95ec23f5b3647e5ab0
古事記には、「還ります時」にと書いてありますから、大島、女島、知訶島、天両屋が、
還ります時に、立ち寄った島になります。
では、どこへ行った帰りだったのかは、書いてありません。
古事記には、「岡田宮」で一年費やした事が書いてあります。と云うことは、ここを軍事拠点として、どこかへ戦をしに行ったのですが、勝ち戦ですから、書いてあっても良いのですが、書いてありません。
ここから、大島、女島、知訶島、天両屋へ立ち寄り、広島と岡山へ進軍したと思われます。(ひょっとすると、九州と広島の間には、一年ぐらい身体を休める時があったのかもしれません)
これはいつの頃か。戦争の相手は、誰だったのか。
①いつの頃か----岡田 1年。多祁理宮 7年。吉備 高島宮 8年。 移動日数はを入れなくて、16年かかっています。
樫原に宮城を構えたのが、西暦紀元元年ですから、大雑把に計算して、紀元前、20年に神武東征にかかったことになります。
②戦争の相手は、誰だった
だれであったかは判らないのですが、「吉野ヶ里」だったのではと推理しています。
まだ、確かな証拠はないのですが、推察を交えながら、 神武天皇の行動範囲を記しますと、
①宮内-------天皇は、鳥取県大山町宮内に住んで居られたのではないかと考えています。
②高千穂宮---古事記には、神倭伊波礼毘古命と兄の五瀬命は、「高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく、[何地に坐さば、平らけく天の下の政りを聞こしめさむ。なほ東に行かむ]とのりたまひて、すなはち日向より発たして筑紫に幸行でましき。
高千穂は鳥取県大栄町に有ります。
はじめは、東へ行こうと思ったが、いざ、計画を練りますと、奈良へ向いますと、後ろにあたる広島と岡山から攻められます。それどころか、九洲の吉野ヶ里からも、援軍を出されてしまいます。
①日向----鳥取県には、多く戦艦を停泊させることの出来る港は有りませんから、島根県の境港で準備をしました。境港の近くに「日向」があることを確かめてください。
③豊国の宇佐----何のために立ち寄ったのでしょう。水と食料の補給と、兵士の休養です。
一行は 二手に分れて、一つは陸路を、一手は、船で竺紫の岡田宮へ行きました。
太安万侶は、「筑紫」と「竺紫」と使い分けました。
と云うことは、筑紫の岡田宮ではなくて、竺紫の岡田宮と書きました。
④岡田宮から吉野ヶ里を攻撃したと考えているのですが、福岡県は、殆どが、中国からやって来た人で占められていたのではないかと考えています。
③の事から岡田宮では後ろから攻められることは、心配しなくて良い様にしたのではと想像しています。
吉野ヶ里が見付かった時は、ここは邪馬台国だと騒がれました。
遠かったですが、頑張って行ってきました。
この話は、次回にします。
太安万侶は、「女島」を入れたと云うことは、奈良県に住んでいても、神武東征の折には、神武天皇が、どの島を廻ったかは、知っていた事になります。
前回、紹介しました女島は、古事記に書かれている島ですが、島の名前だけ残っていたのかもしれません。
女島は、現在でも、全国に沢山有ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%B3%B6
しかし、九州以外は、検討もしませんでした。
その理由は、次の所に書いておきました。
イザナギとイザナミの国生み(26) 還ります時
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/770b95ec23f5b3647e5ab0
古事記には、「還ります時」にと書いてありますから、大島、女島、知訶島、天両屋が、
還ります時に、立ち寄った島になります。
では、どこへ行った帰りだったのかは、書いてありません。
古事記には、「岡田宮」で一年費やした事が書いてあります。と云うことは、ここを軍事拠点として、どこかへ戦をしに行ったのですが、勝ち戦ですから、書いてあっても良いのですが、書いてありません。
ここから、大島、女島、知訶島、天両屋へ立ち寄り、広島と岡山へ進軍したと思われます。(ひょっとすると、九州と広島の間には、一年ぐらい身体を休める時があったのかもしれません)
これはいつの頃か。戦争の相手は、誰だったのか。
①いつの頃か----岡田 1年。多祁理宮 7年。吉備 高島宮 8年。 移動日数はを入れなくて、16年かかっています。
樫原に宮城を構えたのが、西暦紀元元年ですから、大雑把に計算して、紀元前、20年に神武東征にかかったことになります。
②戦争の相手は、誰だった
だれであったかは判らないのですが、「吉野ヶ里」だったのではと推理しています。
まだ、確かな証拠はないのですが、推察を交えながら、 神武天皇の行動範囲を記しますと、
①宮内-------天皇は、鳥取県大山町宮内に住んで居られたのではないかと考えています。
②高千穂宮---古事記には、神倭伊波礼毘古命と兄の五瀬命は、「高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく、[何地に坐さば、平らけく天の下の政りを聞こしめさむ。なほ東に行かむ]とのりたまひて、すなはち日向より発たして筑紫に幸行でましき。
高千穂は鳥取県大栄町に有ります。
はじめは、東へ行こうと思ったが、いざ、計画を練りますと、奈良へ向いますと、後ろにあたる広島と岡山から攻められます。それどころか、九洲の吉野ヶ里からも、援軍を出されてしまいます。
①日向----鳥取県には、多く戦艦を停泊させることの出来る港は有りませんから、島根県の境港で準備をしました。境港の近くに「日向」があることを確かめてください。
③豊国の宇佐----何のために立ち寄ったのでしょう。水と食料の補給と、兵士の休養です。
一行は 二手に分れて、一つは陸路を、一手は、船で竺紫の岡田宮へ行きました。
太安万侶は、「筑紫」と「竺紫」と使い分けました。
と云うことは、筑紫の岡田宮ではなくて、竺紫の岡田宮と書きました。
④岡田宮から吉野ヶ里を攻撃したと考えているのですが、福岡県は、殆どが、中国からやって来た人で占められていたのではないかと考えています。
③の事から岡田宮では後ろから攻められることは、心配しなくて良い様にしたのではと想像しています。
吉野ヶ里が見付かった時は、ここは邪馬台国だと騒がれました。
遠かったですが、頑張って行ってきました。
この話は、次回にします。