神話でなかった古事記

日本の歴史を知るために、いろいろ考えてきました。古事記に残されていることから、思いついた事を書いてみようと思います。

イザナギとイザナミの国生み(41)  還ります時(15) 神武東征(8)吉野ヶ里

2015-02-28 04:38:01 | 古事記
前回までは、古事記の国生みに登場する「女島」がどこかを探ってきました。

 太安万侶は、「女島」を入れたと云うことは、奈良県に住んでいても、神武東征の折には、神武天皇が、どの島を廻ったかは、知っていた事になります。
 
 前回、紹介しました女島は、古事記に書かれている島ですが、島の名前だけ残っていたのかもしれません。

女島は、現在でも、全国に沢山有ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%B3%B6
 しかし、九州以外は、検討もしませんでした。

その理由は、次の所に書いておきました。
イザナギとイザナミの国生み(26)  還ります時
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/770b95ec23f5b3647e5ab0

 古事記には、「還ります時」にと書いてありますから、大島、女島、知訶島、天両屋が、
還ります時に、立ち寄った島になります。
 
では、どこへ行った帰りだったのかは、書いてありません。

 古事記には、「岡田宮」で一年費やした事が書いてあります。と云うことは、ここを軍事拠点として、どこかへ戦をしに行ったのですが、勝ち戦ですから、書いてあっても良いのですが、書いてありません。
 ここから、大島、女島、知訶島、天両屋へ立ち寄り、広島と岡山へ進軍したと思われます。(ひょっとすると、九州と広島の間には、一年ぐらい身体を休める時があったのかもしれません)

これはいつの頃か。戦争の相手は、誰だったのか。

①いつの頃か----岡田 1年。多祁理宮 7年。吉備 高島宮 8年。 移動日数はを入れなくて、16年かかっています。
 樫原に宮城を構えたのが、西暦紀元元年ですから、大雑把に計算して、紀元前、20年に神武東征にかかったことになります。 


②戦争の相手は、誰だった
 だれであったかは判らないのですが、「吉野ヶ里」だったのではと推理しています。
 

 まだ、確かな証拠はないのですが、推察を交えながら、 神武天皇の行動範囲を記しますと、
①宮内-------天皇は、鳥取県大山町宮内に住んで居られたのではないかと考えています。
②高千穂宮---古事記には、神倭伊波礼毘古命と兄の五瀬命は、「高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく、[何地に坐さば、平らけく天の下の政りを聞こしめさむ。なほ東に行かむ]とのりたまひて、すなはち日向より発たして筑紫に幸行でましき。
 
 高千穂は鳥取県大栄町に有ります。
 はじめは、東へ行こうと思ったが、いざ、計画を練りますと、奈良へ向いますと、後ろにあたる広島と岡山から攻められます。それどころか、九洲の吉野ヶ里からも、援軍を出されてしまいます。

①日向----鳥取県には、多く戦艦を停泊させることの出来る港は有りませんから、島根県の境港で準備をしました。境港の近くに「日向」があることを確かめてください。

③豊国の宇佐----何のために立ち寄ったのでしょう。水と食料の補給と、兵士の休養です。
 一行は 二手に分れて、一つは陸路を、一手は、船で竺紫の岡田宮へ行きました。
 
 太安万侶は、「筑紫」と「竺紫」と使い分けました。
 と云うことは、筑紫の岡田宮ではなくて、竺紫の岡田宮と書きました。

④岡田宮から吉野ヶ里を攻撃したと考えているのですが、福岡県は、殆どが、中国からやって来た人で占められていたのではないかと考えています。 

③の事から岡田宮では後ろから攻められることは、心配しなくて良い様にしたのではと想像しています。


 吉野ヶ里が見付かった時は、ここは邪馬台国だと騒がれました。
 遠かったですが、頑張って行ってきました。
 
 この話は、次回にします。

イザナギとイザナミの国生み(40)  還ります時(14) 神武東征(7)女島

2015-02-26 06:55:55 | 古事記
紀元前後の頃に、全国にどれほど女島があったかは、確かめようがありませんが、現在では、女島一覧 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%B3%B6
に掲載されています。
①女島 (長崎県) - 長崎県五島市にある男女群島を構成する島。*
 ここは、可能性は、強いですが、人口 - 0人 女島灯台があるだけの様です。
 http://src-hokudai-ac.jp/jibsn/report/131014_report.pdf
 
中国へ行き来する船が着く湊は無かったのではないでしょうか。

現在は 「めじま」言い、「ひめじま」とは云わないようです。

②大分県東国東郡姫島村の姫島 こちらは、「女島」ではなくて。「姫島 ひめじま」となっています。
 地図は https://www.google.co.jp/maps/@33.7282235,131.6662668,14z
です。
 現在の港は、南に見えます。北に眼を移しますと、大きな湾になっています。ここですと、船は着けることは出来そうです。

ウィキペディアでは、
国産み神話でイザナギとイザナミが産んだ島のひとつ。別名、天一根(あめひとつね)。大分県東国東郡姫島村の姫島に比定されると記し、古事記に書いてある〔女島〕に見えますが、昔から、言われている「女島」ですと、証拠はなくても、古事記の「ひめじま」と思いたいですが、後から名づけたような気がします。

 次の地図をご覧ください。
 https://www.google.co.jp/maps/@33.7282235,131.6662668,8z
 
この地図では、日向 と今の国東半島の北東に、白いものが見えます。拡大して、
大分県東国東郡姫島村の姫島であることを確かめてください。

西の方に、五島列島が見えます。ここには、知訶島があって、古事記に出て来る知訶島であることは間違いないでしょう。

もう一度、古事記に書いてある「還ります時」に戻りますと、やはり、帰りにぐるりと回ったと考えたいです。

 このことは、まだ、検証していないのですが、次回に書いてみようと思います。

イザナギとイザナミの国生み(39)  還ります時(13) 神武東征(6)

2015-02-22 04:57:59 | 古事記
神武東征の九州に於ける記述は、前回のことで、証拠は何も残っていないことになります。
 ただ、証拠らしきものは、次の所に書きました。
イザナギとイザナミの国生み(26)  還ります時
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/770b95ec23f5b3647e5ab0709d8c0cbd

 神武東征の記述の所には、なにも書いてありませんが、日本の国が、どのように生まれたかを書いた「国生み」の所に、書いてありました。

 大八島国を戦いで、手に入れた後、「然後、還坐之時」ぐるりと回りながら、帰る時に、吉備児島と小豆島と大島、女島、知訶島、天両屋を制覇したと記されています。
 
 神武天皇が、総てを制覇したのであれば、「ぐるりと回りながら」と考えた私が間違っていますが、
 もう少し、古事記の記事を前の方に、移動しますと、

【 筑紫国は、白日別と謂ふ。豊国は豊日別と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ・・・・】とあり、筑紫国への戦いは、白日別に任せたのではないでしょうか。

 このように考えますと、神武天皇は、吉備児島と小豆島と大島、女島、知訶島、天両屋を制覇したことになります。従いまして、此処では、神武天皇が居られた証拠が現在でも、残っていますと、この考えは、正しいことになります。

以前に、両児島の事を次の所に書いています。
イザナギとイザナミの国生み(18)  両児島(4)
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/c2401da446034002ce2b3f5e554d1822
 此処に、全国に福浦・福良、そして神の字が付く、地名は、ユダヤ人の援助で神武天皇が、移動した、又は、神武天皇の子孫が居た。その証拠に、神武天皇に関係ある人が、神武天皇を祀る神社を作ったと考えました。
 その他には、天照大御神も、入植させた可能性があることを見て頂きました。

両児島、男女群島ではなくて、次のところがスタートで、
①イザナギとイザナミの国生み(15)  両児島
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/59dbd4115ff181dd0b3d128aceb3659c

②イザナギとイザナミの国生み(16)  両児島(2)
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/4c90c3a0729188fc8a37d65219a35fd0

③イザナギとイザナミの国生み(17)  両児島(3)
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/2d43ba25866221415ff4263a81133cd0
⑤イザナギとイザナミの国生み(19)  両児島(5) 高島
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/d/20141229
 と 5回にわたって、書いています。

 このように、総てに、神武天皇の名前が見られる訳ではありませんが、何らかの関連有る事項を見ることが出来ます。

次回は、女島に挑戦です。
女島は、全国に沢山有ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%B3%B6

岡田宮を本陣にして、一年戦った帰りの事と考えますと、
 女島は、長崎にあると考えるのが、一番可能性がありますので、調べてみます。
みなさんも、ご自分で挑戦してください。

イザナギとイザナミの国生み(38)  還ります時(12) 神武東征(6)

2015-02-18 09:36:47 | 古事記
 神武東征の流れは、古事記と日本書紀で確かめてください。
 九州だけに注目しますと、

 古事記は、筑紫の岡田宮に一年坐しき。
 日本書紀は、11月9日、天皇は筑紫の国の岡水門(おかのみなと)につかれた。

古事記の方から、検討を加えますと、筑紫の何処だとは書いてありませんが、「岡田宮に一年坐しき」と書いてあると云うことは、ただ、岡田宮に行っただけではなくて、一年間、住まわれたと云うことです。文章は、前からの流れでは、東の方へ、戦をする為に行ったことになっていますから、岡田宮は地名ではなくて、本陣だったと考えるべきです。
 ここでの戦いは、神武天皇の勝利ですから、もう少し、戦の様子が、此の後に書いてないと、不自然です。
 実際には、書いてあったのに、消されたのではと推理しています。

今度は、日本書紀の方の考察です。
 速吸之門(豊子海峡)に着いたのが、10月5日です。そこから、椎根津彦に案内させて、筑紫の国の宇佐に着かれた。このときに、中臣の先祖の話が挿入されています。

11月9日、天皇は筑紫の国の岡水門(おかのみなと)につかれた。
 以上の事から、速吸之門から岡水門へ行くのに、34日を要したことになります。同じ筑紫の国の中のことですから、3日もあれば移動は可能かと思われます。

 後の一ヶ月を戦をしたのではなくて、古事記と同じ年としますと、10月5日以後、一年間戦ったことになります。
 日本書紀は、ここに見られるように、中臣氏を歴史の中に、組み込みました。そして、消されていた物部氏の名前も登場させようとしています。

 それにしても、天皇家の初代である神武東征の事は、徹底的に、書きたく無かったのではと、推理しています。
 それに対して、神武東征のことを記した古事記からは、後の世になってから、岡田宮以外のことは、削除したのではないでしょうか。

 では、岡田宮は、何処にあったかは、勿論、日本書紀は書いていませんが、現在の歴史家の方は、此処で有ると書いて居られます。


岡田宮 ウィキペデイアに拠りますと
 
岡田宮(おかだぐう)は福岡県北九州市八幡西区黒崎地区にある神社で、正式には岡田神社。 古事記に神武天皇が東征の折に逗留したと記載されている古社で、天・地・人の三ノ宮を有する。 毎年七月に岡田宮へ奉納する黒崎祇園山笠は北九州の風物詩として有名である。

【祭神】
 岡田宮:神日本磐余彦命(神武天皇)
熊手宮:大国主命、少名彦神、県主熊鰐命
八所宮:高皇産霊神、神皇産霊神、玉留産霊神、生産霊神、足産霊神、大宮売神、事代主神、御膳神

【歴史 】
かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が洞海菊竹ノ浜(貞元)に祖先神を祀ったのが始まりとされ、そのためにこの地域一帯を『熊手』と号したといわれる。後、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、この地に1年間逗留し八所神を祀ったとされ、神武東征にある岡田宮の候補地の一つである。
仲哀天皇の時代には恭順した崗県主熊鰐の案内によって、神功皇后が岡田宮の八所神を奉祭したとの記事が日本書紀に載る。
以下省略
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%AE%AE

イザナギとイザナミの国生み(37)  還ります時(11) 神武東征(5)

2015-02-16 01:47:48 | 古事記
前回の文章、間違いなかったですか。
 古事記に書いてある饒速日は、いつ頃の人でしょうか。

①天照大御神----②天忍穂耳命----③-邇邇芸能命(木花佐久夜毘売=神阿多都比売) ---④-火遠理命(豊玉毘売命-⑤鵜萱草葺不合命(玉依姫命)---⑥-神武天皇

-天忍穂耳命の   長男は、天火明命 、次男が(-邇邇芸能命)

①天照大御神---②-天忍穂耳命----③天火明命-④○○○○----⑤○○○○----⑥饒速日(登美夜毘売)-------宇摩志朝遅命

仮に、天照大御神から、同じ頃に、後継ぎが出来たと仮定しますと、饒速日と神武天皇は戦で顔を合わせたことになります。前後の者の間隔は、20年年ますと、100年経過しています。
饒速日と神武天皇が、100年振りに出会ったのであれば、本当に血統をついだものかどうか判りません。
 そこで伝え所持していた「天津瑞」を見せ合ったので、間違いなく邇邇芸能命は、天照大御神から正しく引継いで来たことが判りました。

 この後の饒速日のことは、古事記には書いてありませんが、太安万侶は、少し小さくした字で、「こは物部連、穂積臣、採臣の祖なり。」 と書きとめています。

ウマシマジ命 ウィキペディアによれば、
ウマシマジ命(-のみこと)は、物部氏の祖とされる人物。『日本書紀』では「可美真手命(うましまでのみこと)」と『古事記』では「宇摩志麻遅命」、『先代旧事本紀』では「味間見命(うましまみのみこと)」と表記する。饒速日命が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)[1]を娶って生んだ子で、天香山命(尾張氏の祖)が異母兄であるとする伝えがある(『旧事本紀』)。彦湯支命の父。


この話を続けますと、大変なことになります。なにが大変かといいますと、歴史から消えかけていた物部氏が、出てきたことになります。こじきからは消えているのに、『日本書紀』には書かれているのです。考え方によりますと、日本書紀は、物部氏を復活刺すために書いた面もあると云うことです。

太安万侶は、少し小さくした字で、「こは物部連、穂積臣、採臣の祖なり。」 このような書き方は、後の世の人のため、天皇家のために書いたことになります。

 という次第で、神武東征が、日本書紀では、九州ではなかったように書き、古事記だけに書かれていることに戻ろうと思います。