神話でなかった古事記

日本の歴史を知るために、いろいろ考えてきました。古事記に残されていることから、思いついた事を書いてみようと思います。

イザナギとイザナミの国生み(20)  小豆島

2014-12-31 04:10:21 | 古事記
太安万侶は古事記に置いて「国を生んだ」と記しています。八島が最初に生成されたため、日本を大八島国(おおやしまのくに)というと書いています。誰が生んだのかと云いますと、イザナギとイザナミが二人で生んだと書いています。そして、二神は続けて6島を生むだと記します。
 6党の名前を上げていますが、その二番目の島の名前が小豆島です。
 前回は、「両児島」という名前の島は、現在は有りませんので、笠岡市の高島と神島の二つの島であることを提案しました。
 小豆島は、同じ表記で「しょうどしま」と読む島は有ります。この小豆島が、古事記に書いてある小豆島と一緒かどうかを調べてみようと思います。
 
 インターネットで調べますと、小豆島のことは、記紀に「阿」
阿豆枳と阿須疑の謎 http://www.gozasoro.co.jp/azukikobore/a158.html
 小豆島のことは、記紀に「阿豆枳」と書かれてある様に書いてありますが、わたしが持っている古事記と日本書紀の翻訳本では、
 古事記では、国生みの所では、「小豆島」。応神天皇紀には小豆島は有りません。
 日本書紀では、応神天皇紀に置いて、「阿豆枳辭摩」があります。

 阿波旎辭摩 異椰敷多那羅弭 阿豆枳辭摩 異椰敷多那羅弭 豫呂辭枳辭摩之魔 儾伽多佐例阿羅智之 吉備那流伊慕塢 阿比瀰菟流慕能秋九月辛巳朔丙戌、天皇狩于淡路嶋。是嶋者横海、在難波之西、峯巖紛錯、陵谷相續、芳草薈蔚、長瀾潺湲。亦麋鹿・.


 瀬戸内海の小豆島は、淡路に次いで、二番目に大きい島らしいです。従いまして、太安万侶が、国生みの所に、書いた可能性は有ります。ただ、「阿豆枳」と記紀に書いてありますと書かれていますが、見付かりませんでした。所が、小豆島のことを検索しますと、小豆島には、「阿豆枳神社」があります。 これは「しょうどしまじんじゃ」と読む人はおられないでしょう。「アズキじんじゃ」と読むのでしょう。「阿豆枳神社」はいつから小豆島に鎮座するかが判りません。

 皆さんも、小豆島が、「両児島」が神武天皇と関係があったことを導いた様に、天皇家と関係がある島かどうか、調べてください。
 

イザナギとイザナミの国生み(19)  両児島(5) 高島

2014-12-29 07:19:19 | 古事記
前回、神武天皇が、吉備を攻撃する時に、8年間を要したのですが、その時の天皇の御在所が「高島」に有ったと云われています。 ネット上では、三ヶ所と云われていますが、
 私は、笠岡市の高島まではと考えています。
 ここに、王泊という地名が残っているからです。
http://www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/15takashima/index.html

滋賀県の近江八幡には、「白王」という地名が残っています。
http://www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/15takashima/index.html
 ここは、天皇ではありませんが、「王」が付いています。前に「白」が付いています。これは、イザナギを表していると思います。
 蒜山高原の高天原に居たイザナギとイザナミが、中国人の進出に対処するために、ここへ移動したと推理しています。

地図をご覧ください。周りは、最近、干拓された事が判ります。
大嶋奥津嶋神社があります。神社名は一つですが、二つの神社からなっています。
http://www.genbu.net/data/oumi/oosima_title.htm
奥津嶋神社は祭神が大国主神で、 名神大社です。 この辺りは、琵琶湖の幸がありそうですが、貧しい村であったことが、近江八幡市の島学区の神社誌を読みますと分ります。

この島には、天之御中主神を祀った天之御中主尊神社があります。 次に地図がありますから、ご覧ください。
http://tukinohikari.jp/jinja-siga/oumihachi-amenominakanushi/index.html

 大嶋奥津嶋神社も天之御中主尊神社も、式内社であると云うことは、何時の頃からか分りませんが、この辺り一帯は、藤原氏の支配を受けた事が判ります。天之御中主尊の「尊」は日本書紀に書かれているから解ります。古事記では、「尊」ではなくて、「神」です。
 藤原氏の支配下になってからは、養蚕が始められたと理解しています。そして、村は、裕福になったと推理しています。

 しかし、このような話は、700年前後のことではないでしょうか。所が、地名(白王)は、2000年前から存在したと考えています。なぜなら、イザナギとイザナミの子供(?)アマテラスが、苗族を此の辺りにも、入植させたと考えているからです。

 話は前後になりましたが、地名は、遺跡などから得られる資料と同じ位に、昔のことを教えてくれます。
2000年まえは、地図がありませんでしたから、東西南北に、目印となるものを決めて、その場所に、神武天皇等の関連施設を作ったと推理しています。
 神武天皇の神武天皇東征のd(4a'h 終着の場所は、「柏原宮」です。

歴史各論 牽牛子古墳(6) 大字 越(4)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2011-01-31 神武天皇は実在しただけではなくて、

〔柏原〕に住んでおられて、神武天皇社の前に、本馬という小高い丘(10m)があります。神武天皇はこの丘の上に御所を作ったと考えています。
 ここに、「神武天皇社」という変な神社がありますか、是非一度訪れてください。
 沢山の神社をめぐられた方ですと、こんなおかしな神社は無かったと思われるでしょう。(変な神社と書けば、氏子の方に叱られるかもしれませんが、こうして守ってこられたから、「神武天皇社」が残ったことになります。そうでなければ、日本書紀にかかれているとおり、橿原神宮のところが、神武天皇の皇居という歴史が、正しいと信じられることになります。しかし、これは間違いだと言える歴史家はおられないとおもいます)
 後の世になって、御所があった本馬丘が見える位置に、神社はたてていますが、この近くの人に、声をかけられれば解ります。どなたも、そのような話は知りませんと云われると思います。柏原の集落を丁寧に、一軒ずつ、表札を見ながら回られますと、私の考える以外に、なにか発見できるかも知れません。
 タイトルにかきました、「高島」も、一泊でゆっくり過ごしますと、王泊の海岸では、別の発想が生まれるかもしれません。

イザナギとイザナミの国生み(18)  両児島(4)

2014-12-25 07:22:46 | 古事記
 笠岡市の福浦は、紀元前後に海岸で有ったことが判ります。
 それだけではありません。神武天皇は、苗族の人を全国に広めました。日本海側に並ぶ福浦は、河口に点在します。日本海側では、この当時、「潟」を形成していたらしく、自然の港として利用されていたと思われます。河口であると云うことは、土砂が堆積して、浅くなりますが、浚渫する度に、その技術は向上したと思われます。それはユダヤ人から教わったのではないでしょうか。
 このようにして、全国に、福浦、福良地名が残ったと思われます。

①福島県 郡山市湖南町福良  猪苗代湖近く
②栃木県小山市大字福良  結城の北
③愛知県 蒲郡市清田町福良   
④兵庫県 南あわじ市福良乙  港
⑤山口県 山口市大字黒川   港から少し離れる
⑥徳島県海部郡海南町浅川字福良  港
⑦高知県須崎市浦ノ内福良     港
⑧高知県宿毛市小筑紫町福良    港
⑨大分県大分市大字福良    少し内陸
⑩大分県臼杵市大字福良    少し内陸
⑪宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良  山の中・椎葉の近く
⑫鹿児島県指宿市東方中福良   港
⑬鹿児島県薩摩川内市中福良町
 
 では、笠岡市の神島は、ユダヤ人と関係があるのかと云いますと、島の名前に「神」が付いているだけで、ユダヤ人が援助したと考えています。

 突拍子も無い話と思われるかもしれませんが、古事記に書かれていることが本当のことであると考えますと、高天原は蒜山高原にあることも説明できます。この蒜山高原に、最高峰の1218mの毛無山があります。この毛無山の真北に宮内(神武の御所)があり、真南に高島と神島があり高島には、高島神社があります。そして、祭神は、神武天皇です。確認してください。神島には、神島神社があり、神武天皇が祀られています。
又、神島は淡路島の伊弉諾(イザナギ)神社と御所市の本馬丘と同一緯度にあります。このような位置関係にある場所を設定するということは、緯度の測定ができ、地図を持たなかった古代人の知恵だと思います。
 
 神島は、淡路島の多賀だけではなくて、柏原の本馬丘と朝熊山と同一緯度です。そして伊勢神宮と同じ緯度です。このような事から、神武天皇の住まわれた所は、柏原の本馬丘辺りに有る筈ですが、日本書紀に橿原と書いてあるので、そこに橿原神宮が建てられて、確定しています。前記しました高島はこの様に考えますと、神武東征の折、天皇が待機していた高島と考えています。

これまでに書いてきました事から、両児島は、神島と高島の二つの島のことになります。
福浦のところは、神武東征の前に、苗族の人が入植した所になります。



次の資料は、「新しい日本の歴史」http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jpに置いて、「福浦」をキーワードにして検索してヒットしたものの一部です。

歴史各論 三角縁神獣鏡(48)  卑弥呼が貰った鏡(16) 苗族の住む所(3)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-14

歴史各論 牽牛子古墳(12)  柏原の地は都だった(4) 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2011-02-11


No752神武東征(201)  神武天皇(144) 東の高天原(4)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2010-04-09  軍備

No738神武東征(187)  神武天皇(130) 日本書紀と古事記(5) 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2010-03-20

No178 渡来人がやってきた証拠 福浦
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-10-05

古事記を読む  地名—福の字がつく地名
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/09/post_155a.html

No84 三重県の神島
 http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/01/no84_0f2b.html

No303 伊勢神宮の位置(2)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-02-16

イザナギとイザナミの国生み(17)  両児島(3)

2014-12-22 03:27:53 | 古事記
国生みの話は如何ですか。 まだまだ続きます。
 少しぐらい、古事記には神話ではなくて、天皇家の歴史が書いてあると思われましたか。

太安万侶は、天皇家のカタリベが記憶していることを聞いたのだと思います。本当ならば、カタリベは、天皇以外の人には、語ってはいけないのですが、聞いたと考えませんと、あの様な、古事記を書くことは出来ないと思います。

 私は現在でも、どこかに、天皇家の語り部が、居られるのだと思っています。
もし、それが判ってしまいますと、殺されて、天皇家の歴史は、消滅することになります。

 このようなことを書くわけにはいきませんから、太安万侶は、稗田阿礼というカタリヘを古事記に登場させたのだと思います。

 本当の稗田阿礼は、天武天皇亡きあとも、天皇家の足跡を訪ね歩いたと思います。そして、多くの神社から聞きとった神の名前や、その土地の伝承を阿つるめたのだと推理しています。

では、本当に天皇家のカタリベが居たのかと云いますと、それは、根拠がありません。

そこで、次の文章を紹介します。
司馬遼太郎著『歴史の中の日本』の最初のページに、「生きている出雲王朝」のタイトルがあります。

司馬遼太郎 、「カタリベというものがある。いまも生きていると知ったとき、私のおどろきは、生物学者がアフリカ海岸で化石魚を発見したときのそれに似ていた」
という文章で書き始めています。軽いタッチで書きはじめ、「出雲民族の屈辱の歴史は、この稲佐ノ浜の屈辱からはじまるのである。出雲人の県会狷介な性格もこの屈辱の歴史が造った」と、
語り部である友人が言ったと書いています。

稲佐ノ浜の屈辱とは、大国主神が、稲佐ノ浜で天照大神によって、国を譲らされたことですが、その後、2000年以上、その屈辱を背負って生きている人がいるのだということを書いておられます。
 語り部である友人は「出雲は簒奪されているのです」と語ったとも書いておられます。だれに簒奪されたのかと言いますと、司馬遼太郎氏は、稲佐ノ浜に天照大神が派遣した使者である天穂日命の子孫が国造として今も形而上的に支配しているとしておられます。
 語り部がかたらなくても、太安万侶は、天穂日命の子孫が国造であるとかいて、間接的に、みなさん注意してくださいと書きました。

 この後は、ご自分で全部読んでください。
所が、この文章は、問題になったことが、次の文章から分ります。

小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【9】
http://0845.boo.jp/times/archives/001459.shtml

私の話は、これでお仕舞いです。

これらの文章を読んで以後、多くのカタリベが、今でもおられるのではと思っています。

カタリベではありませんが、小椋一葉著『継体天皇とうすずみ桜』があります。
この本に接したときに、大筋では、書いてあることが正しいのではないかと思いました。背表紙に書いてある地図の始め(播磨国)から、福井県(越前国)までを数回に分けて、車で走ってきました。

著者が書いて居られる通り、「これが史実ならば、謎の世紀は、ベールを脱ぎ捨て、驚くべき相貌を白日の下にさらすことになるだろう」だと思いました。

イザナギとイザナミの国生み(16)  両児島(2)

2014-12-18 03:07:35 | 古事記
福浦薬師は見付かりましたか。見付からない場合は、
福浦薬師 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M12001/33205/BS3300995/ で探してください。

 福浦薬師は、地名ではなくて、バスの停留所の名前の様です。
 福浦薬師より北は、埋立地ではないかと推察します。昔は、神島(こうのしま)と云って、この道路は、海岸線を走っていたと思われます。福浦薬師のところは、少し、窪んだ入り江だった筈です。そして、港があったと思います。昔から有る道路は、曲っています。

 昔とは、いつ頃かと云いますと、神武天皇の時代ですから、2000年以前のことです。

チベットの苗族の人は、勝手に日本へやってきたのではなくて、アマテラスと神武天皇によって、連れて来られたのではないかと、推理しています。チベットでは、この頃は、文字を使用していませんでしたから、資料としては残っていませんが、殆ど間違いないことだと考えています。

  この話は、田村誠一氏が云われました。 その一部を記しますと、

 天照大御神の時の苗族は雲南出身で昆明がある滇池から西江を下って広州に出ました。ここの秦の時代の造船所跡の船の大きさは30mもありました。(羅其湘、飯野孝宥著 『徐福』)
 ここから大きな船に乗り換えて黒潮に乗って新羅まで来て待機します。春先に日本海沿岸の雪解けがはじまると春の彼岸に一斉に偏西風に乗って出雲大社の灯台を目標に進みます。 
 福が付く地名は苗族に独特で閩越は現在の福建省でここの海岸に福鼎、福州、福寧、福安があります。日本海側には下関の彦島、益田、温泉津、島根半島、隠岐に福浦があります。更に能登、十三湊に福浦があり、津軽平野に苗族が多数入植出来たのは途中に補給港やサポートする人々が配置されていたからです。
 下北半島や津軽海峡を越えて相馬にも福浦があります。天竜川河口の遠賀川土器が集中して出土し、田が付く地名が多くて天照大御神を祀る神明宮が多数あるこしは苗族は津軽海峡を越えて入植したことです。
 日本海を航行していると遠方から円錐形の山が見え海岸に近づくと福浦の地名が見つかり鳥居が白く光って見えます。この鳥居が後に神社の鳥居に発展しました。

 
詳しくは、次の記事の前後をお読みください。
No181 雲南から渡来した苗族
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-10-08

アマテラスが入植させた時は、紀元前200年頃になります。
 
 神武天皇がお世話をした時は、その人達の子孫が、神武天皇を祭神にして、現在でも、お祭りして居られます。
 全てではありませんが、次の資料の近くにある「福浦」は、神武天皇之時に出来た福浦だと推理します。
 
神武天皇を祭った神社
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html
 
 熊本県は、神武天皇の時代に、最初に上陸した所だと思います。