神話でなかった古事記

日本の歴史を知るために、いろいろ考えてきました。古事記に残されていることから、思いついた事を書いてみようと思います。

私市円山古墳と阿須々伎神社  神話でなかった古事記

2014-08-30 17:42:16 | 古事記
続けて二つ目の感違いしたことを書いてみます。

 綾部市は、昔の行政区分に置き変えますと、何鹿郡に相当します。其中で、私市円山古墳は、一番大きな古墳ですから、どうしても、誰のお墓であるかを考えますと、物部氏だろうと思いこんでいましたが、違いました。
 
 だれか分りませんが、絹を生産していた人という思いは有りました。

 それは、JR綾部駅は、北側に「グンゼ」という絹織物を作る大きな工場が有ります。絹織物の会社は、昭和38年頃は、元気でしたが、その後は、衰頽しました。
しかし、当時あった会社は、現在でも、大きな駅の近くに残っています。 従いまして、グンゼという会社は、綾部駅ができたと同時に、出来たと思いこんでいました。
しかも、古い会社だと思っていました。

 それどころか、日本に鉄道が出来た時は、イギリスからの援助で、明治五年頃には、どんどんと日本中に線路が敷設されたのではと思っていました。
 どうしてそう思ったかと云いますと、鳥取県の古い地図を見付けて購入した時に、その地図には、JRは記されていなかったように記憶します。その地図は昭和5年の制作だったように思います。確かめようと探しましたが見つかりません)

 と云うことで、グンゼが何時頃出来た会社かを調べることにしました。
インターネットから抜粋した資料を次に記します。

• 社名の「グンゼ」は創業時の社名「郡是製絲株式會社」に由来する。「郡の是」とは、国の方針である国是、会社の方針である社是のように、創業地の何鹿郡(現・京都府綾部市)の地場産業である蚕糸業を、郡(地域)を挙げて振興・推進していこうという趣旨に基づいている。
• 綾部駅北口一帯はグンゼの社有地で、研究所、工場のほか、1933年(昭和8年)築の本社、1917年(大正6年)築の旧本社(現グンゼ記念館)、大正初期築の繭蔵(現・グンゼ博物苑)、1917年(大正6年)築のグンゼ本工場正門、大正後期築の郡是製糸蚕事所本館など、グンゼの歴史的建造物が並ぶ。

一方、綾部駅の歴史は、
• 1904年(明治37年)11月3日 - 国有鉄道の駅として、福知山駅から新舞鶴駅(現 東舞鶴駅)間の開通と同時に開業し、即日阪鶴鉄道に貸与される。客貨取扱を開始する。
• 1907年(明治40年)8月1日 - 阪鶴鉄道が国有化される。
とされ、山陰本線よりもずっと、後の明治37年に出来た駅であることが分ります。
駅が1904年、グンゼが1917年ですから、13年ごに、グンゼが出来たことになります。
グンゼは、どうして急に絹織物を作ろうという気になったかは、創業時の社名「郡是製絲株式會社」に由来しますが、この織物の知識は、群馬県で勉強をしたようです。
 近代的な養蚕は、群馬県仕込みですが、元々、蚕糸は行われていたようです。
 その歴史の糸口を見つけるために、阿須々伎神社に行ってみようと思いました。
 神社のある所在地が、綾部市金河内町東谷だったからです。
私が気にしている私市円山古墳と由良川とは離れているのですが、地図をみますと、
http://www.its-mo.com/map/top_z/127388468_486911586_13//#osusume,1,,,

 山を越えたところは、舞鶴市ですが、「桑飼上」という地名が見えます。桑を買うというのはおかしいですが、大々的に桑の生産がおこなわれていたから付いた地名でしょう。

 この地図を左の方へ移動しますと、由良川が見えます。 私市円山古墳の上から眺めていた由良川は、福知山で、90度以上カーブをして、ここに流れています。
 
川にそって、地名を見て行きますと、天津、河守 など天皇家に関係のありそうな地名が現れます。
 
 地名の金河内町ですが、どう見ても、河内に位置しないのに、河内に金が付いています。

金河内はカネカワチではなくて、カネゴチと呼ばれています。



一向に古事記の話が出てきませんが、その内に、私の頭は、この神社の為に、ごちゃごちゃになります。
途中ですが、次回は、阿須々伎神社のタイトルで、どうして、この神社に行きたくなったかを書いてみます。国は、どうして、山陰鉄道と、舞鶴を結びたかったかなども考えながら・・・・。

私市円山古墳と物部村  神話でなかった古事記

2014-08-28 17:23:01 | 古事記
一泊で綾部市にある式内社をすべて、訪れる積りで。出かけました。
高速は、綾部でおりれば早かったのですが、この辺りの地理を自分の目で確かめるために、一つ手前の福知山インターで降りました。
 前日幾つかの神社を巡った後、宿泊する所が無かったので、福知山まで、戻って、宿泊しました。
 前回に行った時は、私市円山古墳に登り、上でお弁当を食べながら、ゆっくり由良川の流れを愉しみました。
 その時に、物部村を訪れ、資料館を訪れましたが、物部村は、物部氏と関係がないように云われました。その事は、前回に書きました。

 今回は、二日目は、一番に資料館を目指して走り、もう一度、物部町の神社に行くつもりでした。
 すると、私市円山古墳へは、左折との表示がありましたので、もう一度登ってみようと、訪れますと、駐車場に一台の車が止まっているだけでした。
 
しかし、車を止めて歩き初めますと、私市円山古墳の案内の表示板があり読んでいますと、ここから出た遺物は、資料館に保管されていますと書かれてあり、当日は、閉館日とありました。
 本日のメインの資料館が閉鎖ですから、がっかりしましたが、しかたが無いなともう一度、私市円山古墳を仰ぎ見ますと、先ほどよりも 一層高く見えました。
 亦、太陽の陽ざしは9時は半ですのに、暑く、これでは、途中で倒れるかも知れないなと・・・。
 
 それから、カーナビは「物部」の集落に設定しましたら、直ぐの筈が、車は、どんどん走ります。おかしいなと思いながら、走りました。

 私は、私市円山古墳の上から眺めると、葬られた人が住んでいた村は、古墳から見える範囲に有ると思っていましたのに、物部村は、どんどん離れて行きました。
 
 どんどん離れたのは、私市の村でした。
 私市は、由良川の近くに有り、どうやら、私市円山古墳の主は、私市に住んでいた人らしいと云うことが、家に帰ってから分りました。

 長い事書いてきましたが、なんのことかお分かり頂けましたか。

 何鹿郡で一番大きな古墳は、私市円山古墳ですが、では、葬られている人は、相当の権力があった筈なのに、誰かわからなくなりました。

 大阪に私市という所があります。
 この地名は、絶対、綾部市の私市から移動した人々だとかってに、想像して、これは簡単に分るだろうと思って調べ始めました。
 
 大阪の私市からは、物部氏の名前が出て来るようで、頭混乱です。

 興味のある方は、次に、私市円山古墳と地図を書いておきますから、眺めて、挑戦してください。


私市円山古墳
http://www.obs.ayabe.kyoto.jp/~a-museum/kohunkouen.html

京都府綾部市私市町円山8-2 
 地図  http://www.mapion.co.jp/address/26203/721/

綾部市と何鹿郡に付いて  神話で無かった古事記

2014-08-17 19:32:51 | 古事記
人は地球のどこに住むとしても、海の傍では住む事は出来ません。人間に必要な塩は豊富に有りますが、その前に必要な水は、辛すぎて飲めません。
 ではどこに住むかと云いますと、泉の湧いている所か、川の傍と云うことになります。

必要な塩分は、岩塩か、海水から生産することになります。
 では、綾部市に最初に住んだ人は、綾部市のどのあたりかと云いますと、どこを流れる川でも良いのですが、すべて、由良川に流れ込んだと思います。
 
 昔、『和名類聚抄』に見える郡の名前に、何鹿郡がありました。何鹿郡(いかるがぐん)は、京都府北部にあった郡。郡域は現在の綾部市全域と福知山市のごく一部に相当します。明治維新まで丹波国に含まれていたました。
 と云うことは、綾部市は、昔の何鹿郡の殆どを占めると云っても良いと思われます。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期931~938年に作られた辞書で、此の頃の綾部市は、何鹿郡が中心であったことになります。
 
何鹿郡は、郡という広範囲の所に付けられた名前ですから、住民が全員で考えたことになりますから、綾部市全体を表す言葉を選んだか、行政として付けられたものですから、綾部市のように、全体で絹を作っていたと云う様に、隣の郡の人にも分るように命名したと推察ですます。

 ところが、何鹿郡は、とても「いかるが」と読むことは出来ません。しかし、誰かが、「いかるが」と読むことを知っていたか、「いかるが」という所から、移動して来たと考えることになります。

「いかるが」と読む地名は、ほかにも有ります。有名なのは、奈良の「斑鳩」です。

 「斑鳩」もどうして、「いかるが」と読むのかは分からないのですが、殆どの人は読む事が出来ます。

 『いかるが』という名は、「日本書紀」用明紀元年の条に「斑鳩」の記事が見え「日本書紀通釈」には「斑鳩、鳥を以て名をせしなり。・・・」 とあり、この地にイカルという鳥が群れをなしていたことからだといわれています。
 こんなきじもありました。
 「いかる」は、漢字は解りませんが、鳥の種類に有るそうです。別名三光鳥の事らしいです。法隆寺の近くに、イカルがいっぱい居たからと云われていると書いてあるものがありましたから、調べましたが、少なくとも、野鳥を研究している人に、聞きましたが、そのような話は聞いたことが無いそうです。

このような事が話題になっていた時に、私達の歴史好きの仲間が、調べ会で発表しました。

大和・いかるが考  辻 保治
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page259.html

 少し文章が長いながいことと、難解な所がありますが、日本中に存在する「いかるが」と称する地名は、幾本かの川が合流している所にあると云っておられます。たとえば、「河合」との地名の時もあります。
 
 其中でも、良く氾濫した所に「いかるが」という地名があることを見付け、発表されたました。
 
 この研究発表の検証はしていませんから、正しいかどうか分りませんが、次回は、綾部市にも当はまるかどうか 検討しようと思います。


綾部市という名前  神話でなかった古事記

2014-08-07 04:15:59 | 古事記
綾部の「綾」は絹織物の事ですから、昔から絹織物の産地であったと、軽く考えていました。従いまして、綾部市のことを調べると歴史が分ると。

 そこで、先ずは「綾部市のホームページ」で教えて頂こうと検索しました。
http://www.city.ayabe.lg.jp/

 何時綾部市が誕生したか。どうして、綾部市と云う名前にしたかを知ろうとしましたが、一切書いてありません。
 ウィキペディアの助けを借りますと、

1950年(昭和25年)8月1日-何鹿郡綾部町・中筋村・吉美村・西八田村・東八田村・山家村・口上林村が合併し、市制施行。
 と書いてありますが、どうして、綾部市にしたかは書いてありません。
 
 「綾部」という地名はいつ頃から有るのかを調べましたら、地名は解りませんが、
「綾部藩は寛永10年(1633年)3月5日に立藩した2万石の外様の藩である。藩祖は戦国時代に織田信長に仕えて名を馳せた水軍の将・九鬼嘉隆の孫九鬼隆季である」とありますから、藩の名前としてはあったことになります。
 
 明治時代になって、この藩の名前から、綾部藩は綾部県となりましたが、・・・・このあたりまでしか良く分りません。

綾部は、江戸時代前は、漢部と書かれていたという文章も有りますが、漢部と綾部は、どちらも絹に関する漢字ですから、同じ意味をするのかも知れません。でも、どうして、、漢部から綾部にかえたのか、気になります。

 名前よりも、私の興味は、何鹿郡では、絹が作られていたかどうかです。

ホームページには、綾部市の歴史は、書かれていませんでしたが、「綾部市資料館」のページに、「綾部市史」が収められていました。

ここに、次の文書が収められていました。
 丹波の貢納物 一〇世紀のはじめころにできた『延喜式』に記されている丹波国の貢納物産は左の通りである。
 出挙正税公廨雑稲 正税廿三万束 公廨廿五万束 国分寺●(りょう)四万束 文珠会●二千束 圓成寺●一千束 雞園寺●一千束 修理池溝●三万束 救急●四万束 修理駅家●二万束 官舎●四万束 造院●一万束 (●は米偏に斤)
 交易雑物(きょうやくぞうもつ) 白絹十二疋 赤絹五百五十疋 糸七百五十絢

ここに書かれた絹が多いのか、少ないのか分りませんが、900年ころには、絹を作っていたことは確かの様です。

綾部市には、綾部の外に、物部、私市という地名が残っています。綾部もこれらと共通する部分があるのか、これから調べることになります。

私部(きさべ)、「きさいちベ」、これは皇后〈后、きさき)のため、いろいろな仕事をしたり、世話をしたりする役所のことであり、かつ、その世話をする人々を指していう言葉でもあるらしいです。大阪の交野にも有ります。

 日本書紀 巻第二十 淳中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)天皇(敏達天皇)の条に
日本書紀 巻第二十 淳中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)天皇(敏達天皇)の条に 五年春三月 巳卯朔戊子 有司請立皇后。詔立豊御食炊屋姫尊為皇后。
 ――中略―― 六年春二月 甲辰朔 詔置日祀部 私部 ――後略――
 とあります。

私市の町と、由良川が眼下に見える所に、私市円山古墳が有ります。
http://www.obs.ayabe.kyoto.jp/~a-museum/kohunkouen.html
 
この古墳は綾部市で、最大の円墳です。

 私市の町と、由良川が眼下に見えるということは、被葬者は、私市の町と、由良川を生活の基盤にしていた人ではないかと想像しています。
 
 遺跡の資料から、5世紀中頃の人のお墓であろうとされています。
敏達天皇は、崩御は、585年9月14日? とされていますから、少し、年代は、ずれていますが、大阪の私市と綾部市の私市と、関係があるのか、いろいろ胸に秘めながら、綾部市を訪れました。

 訪問した所から、古事記に関係有る部分を抜き出して、次回から書いてみます。