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Sioigawaの馬房

馬についてもっと知りたいと思いませんか?あんがい普段は覗かない馬房の中にすごい秘密があるかも・・(笑)

有馬記念は・福岡県久留米市が盛り上げろ

2007-11-04 14:15:18 | sioigawa の馬日記
有馬頼寧

旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京に生まれる。学習院中等科、学習院高等科を経て東京帝国大学農科(現農学部)を卒業後、農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭をとった。夜間学校の開校、女子教育、農民の救済や解放運動、震災義捐などの社会活動に広く活躍し、農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。小松宮妃頼子の甥でもある。

1924年に立憲政友会から衆議院に出馬して当選。任期中に有馬家を継いで伯爵に叙爵、華族の互選による貴族院議員に挙げられ、1932年に斎藤内閣で農林政務次官、1937年に第1次近衛内閣の農林大臣となった。日中戦争が拡大する中で近衛の側近として大政翼賛会の設立に関わり、1940年に翼賛会初代事務局長に就任するが、翌年の翼賛会の改組により辞任、これを機に公職を退いた。

第二次世界大戦(大東亜戦争)の終戦後、GHQよりA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに拘置されるが無罪と認められ釈放、その後は引退生活を送った。

1955年に農林省に招請されて安田伊左衛門の後任として日本中央競馬会第2代理事長に就任、有馬特例法の公布、中央競馬運営方策要綱案の着手、中山競馬場をはじめとする競馬施設改築、競馬国際協定加入、競馬実況中継放送の強化など、競馬の発展や大衆化に尽力した。

1957年に急性肺炎のため逝去した。


ウィキ・ペディアより

馬の耳

2007-10-07 10:23:07 | sioigawa の馬日記
馬が威嚇や攻撃の感情を持つと両耳を後ろに伏せる。激しい威嚇の際には正面から耳が見えないほどの状態になる。放牧されている馬たちを観察していると、こうした耳の動きが馬同士のコミュニケーションの役割をはたしていることがよく理解できる。社会的順位の高い馬が、自分より劣位の馬を追い払おうとしたときには、耳を伏せて相手のほうにぱっと振り向くだけでよい。その表情を見た劣位の個体は、そそくさとその場を去っていくのである