サイレント

静かな夜の時間に

氷河期(9)

2006-11-15 00:33:03 | Weblog


このとき私は自宅にいた。
部屋の照明を落として薄明かりにした。
テレビもついてないし音楽も鳴っていない。
ソファーに体をまかせて両目を閉じた。

できるだけ全身の力を抜きリラックスする。
よけいなことを一切考えない。
ゆっくりと落ち着いて呼吸をする。

閉じたまぶたの裏側で、
視覚に頼らず脳内で見える広がりがある。
暗く静かで穏やかな空間。

遠くの正面の一点に小さな光が見える。
その光点が急速にこちらに接近し、大きな光になる。
目の前いっぱいが一転して明るすぎる世界に変わる。
このとき、私の意識は覚醒したまま睡眠に一歩近づく。

フッと、一瞬で再び静穏な暗黒に戻る。
また遠くから光点が近づいて眩いばかりに白くなる。
再び、私の意識は睡眠にまた一歩近づく。
しかしそれでも眠らずに起きている。

これを何度も繰り返す。
意識がどんどんと沈んでいくのがわかる。
繰り返すうちに、
それ以上意識が沈めないところまで到達する。
そこは、半眠半覚の不可思議な意識がただよう世界。


すべてが真白いところから、
目標とする相手を強く意識してみる。
真白い中から、別の情景が現れる。
どこだろう、何かの建物の廊下が見える。
そこに誰かがポツンと立っている。

それはきっと、
私の目指すターゲットのはずである。

最初はすごくボンヤリしていてはっきり見えない。
徐々にいろいろと見えてくる。
そしてそのうち、細部まで見えるようになってくる。

よく見えないときはボンヤリしたままだが、
よく見えるときは、
目覚めて肉眼で見るよりも細かく見える。
気味が悪いくらいに。
今夜はそのどちらでもない。その中間のような感じだ。


私は、自分自身のことを、
この手の裏家業の人間たちの中では、
かなり異色のタイプではないかと感じている。
私は基本的には「見えない人」なのだ。

私は生まれてこのかた見えるはずのないものを見たことは、
まったくない。
恐ろしく当たり前のことをいっているが、
そうとしか表現できない。

同業の人間にはいろいろと余計な何かが見える者がいる。
しかし私は、
師匠やカゲたちとはコンタクトはかろうじてできるが、
彼らの姿でさえ見ることはできない。
ましてやほかの何かなど全然見ることはできない。

それと、
師匠やカゲたち以外の者との意思疎通は、
原則としてできない。

例外はある。
私のことを強烈に意識して何かを伝えようとする者からは、
その何かを感じることはできる。


私がいままで知ることのできた同業者たちは、
私からみると驚くばかりの能力を有する者が多かった。

例えば、
見えるはずのないものが何でも見える者、
聞こえるはずのないものが何でも聞こえる者、
自分の霊体を飛ばしたいところに飛ばして自由に見れる者、
覚醒意識のまま異世界の有り様を見ることのできる者、
半眠半覚の意識状態にしてあらゆる異世界を闊歩できる者、
いろいろなタイプがいた。

生き霊を自在に飛ばして私の自室をのぞき、
お前のパソコンにはワードのソフトが入ってないとか、
PCのキーの隙間のホコリが多いなどと笑う者がいた。
これはネット上で、
レスのやり取りをしながら文字にされるわけだが、
はっきりいってとても腹が立つ。
このような者には、トイレや風呂やそれ以外も覗かれる。


私見ではあるが、あくまで認知能力に限っていえば、
覚醒した意識のままで、
つまりこの物質世界に意識を置きながら同時に、
異世界での自分や周囲の状況を見聞きして知る者こそが、
最も高等な能力者といえるのではないだろうか。

わけのわからない妙な技術をもっていなくても、
すべての人間は、
寝てる間に異世界にいったり、
覚醒している間でも自分の霊体を飛ばしたりしている...
と思う。

その自覚がないのは、ただ、
それらの出来事を覚醒した意識で覚えていないだけだ。
この世とあの世との意識が連続していないだけ、
ともいえる。

この世での意識とあの世での意識を連続させ、
同時並行させる者こそが、
本来は、最も驚くべき認知能力者...ではないか。


私はこの裏家業に入ったのは、
成人してずっと経ってからだった。
かなり遅い方ではないだろうか。
能力的にもできることよりできないことの方がたぶん多い。

私は、師匠にさんざん霊体離脱を早く覚えろといわれ、
練習不足なのか素質不足なのか、
あるいは意欲不足なのかよくわからないが、
覚えろといわれた時期に覚えなかった。
結局いまだにしっかりとは会得できないでいる。
上記の半眠半覚はいわば不完全な霊体離脱もどきといえる。

それと私は、瞑想を一切しない。
しようと思ったことさえない。
これはかなり変わっているらしい。
能力開花のきっかけが瞑想であるという者が、
どうも多いようなのだが。

これはひとつには、私が、
現実世界において誰も師を持ったことがないことと、
どの宗教にも関わったことがないことが、
大きく関係している。

ほとんどの者は、僧に瞑想を教わったり、
先輩の黒魔術師に手ほどきを受けたり、
高名な成書を読みふけったり、
教会に通って敬虔にお祈りをしたり、
とにかく既存の宗派ないし術派の影響を受けている。

私にはそれらが皆無なのだ。


師匠は一時期、
私のことを、こいつはモノにならない...と、
サジを投げたことがあったらしい。
それで仕方なく別の方法を私に教えた。
自分の分身をコピーしてたくさん増やして使ってみろ、と。
それで私はコツコツと自分のカゲを生み出すことにした。

最初はひとり、もうひとり、
5~6人、10人くらい、
それが20人になり、数十人になり、百人を越えていった。

私は自分が生んだカゲに、
それぞれの部下を必要なだけ生む権限を与え、
カゲがカゲを生んでいった。

私のカゲたちは、いつしか無数の膨大な数になり、
私は特性や能力ごとに専門部局制を導入し、組織を作った。
そして、それらのシステムと化したカゲたちを、
状況に応じて運用する方法を覚えた。

私は異世界での戦いにおいて、
カゲたちに矢継ぎ早に指示を出しているが、
異世界における敵の姿など見えてないし、
こちらの攻撃も相手の攻撃も特に目の当たりにはできない。
ただ、
実戦経験の蓄積に裏付けされたカンのみに頼って、
カゲたちに指示を出しているにすぎない。

現在の私のスタイルは、
私が能力的に不完全で足りないものばかりだったからこそ、
その欠点を補うために、
苦肉の策として編み出されたものだ。


さらにいえば、
高い認知能力を有するものには、ある落とし穴があった。
他人に見えないものが見えるがゆえの落とし穴だった。

異世界を自在に見えるものは、
見えるがゆえに、見えたものを信じてしまう。
だが、
異世界というのは、この世よりはるかに、
見た目のウソや偽りにあふれたところであって、
見えるがゆえにかえって騙されることも多いのだ。

私は意識しては見えない分、
それを洞察や推察や分析や予測などで補った。
私の場合、これがむしろ幸いした。

見える相手には、こちらからウソを見せてだます、
これは何度も使えたし、今後も有効なはずである。
例えば敵に私が重傷を負っている姿を見せておいて、
その隙に私は別のところで別の目的を果たしたりする。

見える者は見える情報を元に判断して動き、
自分が見えていないところでの出来事に意識が向きにくい。
それに対して私は、
見えないところのあらゆる見えないことを洞察し、
より広い思考野をもって動く。

考えてみれば、この世あの世を問わず、
見えることよりも圧倒的に見えないことの方が多いのだ。
いつしか見える能力者に対し、
私は先手を打てるようになった。
認識の広さが違うからこそそれが可能となった。


このように、
私は見えないことを逆にアドバンテージに変えてしまった。
とても逆説的だ。

私のカゲが私にたまにいう。
「能力的に障害があったのによくぞここまで...」
はっきりいって余計なお世話である。


この場を借りていいたい。
ハンディキャップ、つまり、
何らかの能力的ないし機能的な障害を持つ人たち、
何らかの深刻な欠点に悩む人たち、
他人の長所をうらやみ自分の凡才を恨む人たち、
それらすべてのあらゆる人たちにいいたい。

あきらめるな!

やり方次第では必ずや短所は長所になりうる。
欠点を補う創意工夫でいつしか周囲を凌駕することもある。
発想を変えればマイナス要因はプラス要因に転化できる。
絶望は気持ちを切り替えれば希望になりうる。


本来なら私よりも能力特性が上であるはずの者たちが、
この数年間、次々と私に狩られていった。
山ほどの自称最強や自称最高を私は制した。
彼ら彼女らは、おごった時点で結果的には終わっていた。
おごりゆえに想定できなかった負け方をしていった。

反対に私は、
毎日毎夜自分には足りないものがあると常に考え、
いかに現状の自分から脱皮できるか、工夫を重ねた。
なんとも皮肉なことだ。

「なぜわかった!」
ある者は倒されるときにいった。
「お前にわかるはずがない!」
これも余計なお世話である。

私はこの裏家業では「座頭市」のようなものだ。
相手が私を盲人であると侮った時点で、
すでに私は一本取っている。


話の脱線が長くなった。

私はしばらくの間、
目標とする相手がしっかり見えるようになるのを待った。
その間、その建物のその廊下の情景の中で
私以外のすべてが動かなかった。
相手はピクリともせず、
周囲の誰かも微動だにしなかった。
廊下の窓の外の風景も動かない。

毎回そうだ。
私は意識を眠りの少し前に潜らせたときはいつも、
私以外のすべてが絶対に動かない。
そこでは、私ひとりに自由がある。

ここから私は、さらに自分の特性を思い出すことになる。
相手の体が透けて見え、
全身の内部の血管や神経がはっきりとわかる。
あらゆる臓器もあらわになっている。
もちろん、
脳の構造や脳の血管もすべて...
それこそ手を伸ばせば触れるくらいに...

私は右手にあるものを持っている。
それは一本のメスである。


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