このまま家に帰らなければ、ちなるはどうなっちゃうんだろうって、ほんとはどうなっちゃうのかあたしにもわかってたけどアパートのドアを閉めたしゅんかん、忘れちゃうことにした。きっとだれかがちなるを見つけて保護してくれるって思うことにして、あたし、灰色の鉄のドアをしめた。
散文の形で詩は始まる。「ちなる」と、その母であろう「あたし」を軸として。
「ドアをしめた」後、続く二連には「殺されたこどもたち」-飢えて亡くなった六人の名前がひとりひとり改行され、墓標のように佇む。苫小牧、厚木、三郷、大阪、柏。生きていたこどもたちの実名は重く、途切れた先の余白はひたすらに静かだ。
三連は「ひと月して帰ってみたら、ちなるはもう」。絶命し腐敗した姿が綴られる。凄惨な描写は悪夢のようだが、現実に起こった苫小牧の幼児死体遺棄事件をベースにしていることがわかる。なお、「ちなる」という存在はおそらくフィクションである。ノンフィクションの器といえるかもしれない。そう、この作品は、既に起こってしまった事実と、まだ起こってはいない「事実」を接続していると考えられる。
非常にデリケートな題材であるため中盤の引用は控えるが、これ以降も、報道された事件の内容や、インターネット上で発見され話題となった容疑者の言葉を継ぎながら進む。漢字の少なさや「ぢ」「ぅ」の用法から「あたし」の幼さを感じる。また、感情を喪失した(あるいは予め稀薄であった)ような、他人事めいた口調が印象に残る。
「ねむるように逝ったとおもいたかった」と、子への僅かな想いを垣間見せた次の瞬間「あのひとに早く逢いたい。」という。この飛躍は「あたし」に届かなかったこどもたちの叫びや、「家」と「きれいな青空」の断絶を表しているかのようだ。
「あたし」が「あのひとにまたメールを送る送る送る。」というリフレイン、つまり返事がないのだろう。助けを求めても孤独を埋めたくても応えてくれるものがない。あったとしても結びつかなかったのかもしれないし、「あたし」の望むものではなく目に入らなかったのかもしれない。「❤︎」を多用するメールはしあわせを装いつつもどこか痛切で、こんなにも強く縋りついているのに、彼女はまた閉ざされる。
最終連、全文を引用する。
青空 ちゃん
理玖くん
健太くん
桜子ちゃん
殺されたこどもたちの名前を
呼んでみる
このまま
家を出てしまえば
母はどうなってしまうのか
ほんとうはどうなってしまうのか
あたしにもわかっていたけれど
ドアを開けた瞬間
きれいな青空が見えて
楓ちゃん
蒼志くん
ちなるちゃん
あたしは灰色の
家のドアを閉める
一連の繰り返しのように見えるがそうではない。それだけではない。こどもたちの名前の最後に「ちなるちゃん」が加わり、更新されている。そして、「母はどうなってしまうのか」。ここで初めて「母」という単語が現れる(「あたし」の「母」と、世の「母」なる者たちが重なる)。この「あたし」は冒頭からの「あたし」とは別の人物なのだ。
「ほんとはどうなっちゃうのかあたしにもわかってたけど」「ちなる」「しめた」(一連)、「ほんとうはどうなってしまうのか/あたしにもわかっていたけれど」「ちなるちゃん」「閉める」(最終連)と、口調が異なっている。さらにいえば、最終連の「あたし」の方が、冷静で理性的な感触がある。それでも「あたし」は、「家を出て」「ドアを閉める」。ドアを閉ざしたとき、詩はループする。
ここは自由詩を取り上げる場なので、児童虐待や餓死問題の実態や予防の取り組みについて掘り下げることはしない。道徳じみたこともいわない。この作品自体も、それをしていない。ただ、読者であるわたしやあなたも「ほんとうはどうなってしまうのか」わかっているのに、「このまま」この作品から「出てしまえば」、「きれいな青空が見えて」しまうのだろうと聴こえてくる。
最終二行、「灰色の/家のドアを閉める」。「灰色」は「ドア」ではなく「家」だろう。社会から断絶されたグレーな空間に、こどもを置き去りにする「母」を置き去りにして「あたし」たちが「ドアを閉める」ならば、そこには「ちなるちゃん」の次のこどもがいるのだろう。
「ドアを閉めたしゅんかん、忘れちゃうことにした。きっとだれかが【あの子】を見つけて保護してくれるって思うことにして」。
散文の形で詩は始まる。「ちなる」と、その母であろう「あたし」を軸として。
「ドアをしめた」後、続く二連には「殺されたこどもたち」-飢えて亡くなった六人の名前がひとりひとり改行され、墓標のように佇む。苫小牧、厚木、三郷、大阪、柏。生きていたこどもたちの実名は重く、途切れた先の余白はひたすらに静かだ。
三連は「ひと月して帰ってみたら、ちなるはもう」。絶命し腐敗した姿が綴られる。凄惨な描写は悪夢のようだが、現実に起こった苫小牧の幼児死体遺棄事件をベースにしていることがわかる。なお、「ちなる」という存在はおそらくフィクションである。ノンフィクションの器といえるかもしれない。そう、この作品は、既に起こってしまった事実と、まだ起こってはいない「事実」を接続していると考えられる。
非常にデリケートな題材であるため中盤の引用は控えるが、これ以降も、報道された事件の内容や、インターネット上で発見され話題となった容疑者の言葉を継ぎながら進む。漢字の少なさや「ぢ」「ぅ」の用法から「あたし」の幼さを感じる。また、感情を喪失した(あるいは予め稀薄であった)ような、他人事めいた口調が印象に残る。
「ねむるように逝ったとおもいたかった」と、子への僅かな想いを垣間見せた次の瞬間「あのひとに早く逢いたい。」という。この飛躍は「あたし」に届かなかったこどもたちの叫びや、「家」と「きれいな青空」の断絶を表しているかのようだ。
「あたし」が「あのひとにまたメールを送る送る送る。」というリフレイン、つまり返事がないのだろう。助けを求めても孤独を埋めたくても応えてくれるものがない。あったとしても結びつかなかったのかもしれないし、「あたし」の望むものではなく目に入らなかったのかもしれない。「❤︎」を多用するメールはしあわせを装いつつもどこか痛切で、こんなにも強く縋りついているのに、彼女はまた閉ざされる。
最終連、全文を引用する。
理玖くん
健太くん
桜子ちゃん
殺されたこどもたちの名前を
呼んでみる
このまま
家を出てしまえば
母はどうなってしまうのか
ほんとうはどうなってしまうのか
あたしにもわかっていたけれど
ドアを開けた瞬間
きれいな青空が見えて
楓ちゃん
蒼志くん
ちなるちゃん
あたしは灰色の
家のドアを閉める
一連の繰り返しのように見えるがそうではない。それだけではない。こどもたちの名前の最後に「ちなるちゃん」が加わり、更新されている。そして、「母はどうなってしまうのか」。ここで初めて「母」という単語が現れる(「あたし」の「母」と、世の「母」なる者たちが重なる)。この「あたし」は冒頭からの「あたし」とは別の人物なのだ。
「ほんとはどうなっちゃうのかあたしにもわかってたけど」「ちなる」「しめた」(一連)、「ほんとうはどうなってしまうのか/あたしにもわかっていたけれど」「ちなるちゃん」「閉める」(最終連)と、口調が異なっている。さらにいえば、最終連の「あたし」の方が、冷静で理性的な感触がある。それでも「あたし」は、「家を出て」「ドアを閉める」。ドアを閉ざしたとき、詩はループする。
ここは自由詩を取り上げる場なので、児童虐待や餓死問題の実態や予防の取り組みについて掘り下げることはしない。道徳じみたこともいわない。この作品自体も、それをしていない。ただ、読者であるわたしやあなたも「ほんとうはどうなってしまうのか」わかっているのに、「このまま」この作品から「出てしまえば」、「きれいな青空が見えて」しまうのだろうと聴こえてくる。
最終二行、「灰色の/家のドアを閉める」。「灰色」は「ドア」ではなく「家」だろう。社会から断絶されたグレーな空間に、こどもを置き去りにする「母」を置き去りにして「あたし」たちが「ドアを閉める」ならば、そこには「ちなるちゃん」の次のこどもがいるのだろう。
「ドアを閉めたしゅんかん、忘れちゃうことにした。きっとだれかが【あの子】を見つけて保護してくれるって思うことにして」。
(詩誌「Down Beat」No.11より)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます