「詩客」今月の自由詩

毎月実行委員が担当し、その月に刊行された詩誌から1篇の自由詩を紹介します。

第11回 須賀敦子「(これほど空があをくて)」 野村 喜和夫

2018-04-18 20:23:03 | 日記
 「今月の自由詩」として、詩誌ではなく単行本詩集から作品を取り上げるのはルール違反かもしれないが、お許しを。須賀敦子詩集『主よ 一羽の鳩のために』(河出書房新社)が刊行され、読書界の静かな話題を呼んでいる。
 没後20年にして、未発表の詩稿の束が発見されたのだという。繙くと、ひらがな表記主体の、それも歴史的仮名遣いによる、一見きわめてシンプルな、場合によっては童謡ないしは童話的ともいえる作風。そして多くの場合、無題である。ただ、それぞれの作品には日付がついている。その、エッセイストとして活躍し始めるはるか以前の、1959年1月から同年12月までのほぼ一年間、須賀は集中的に詩を書き、そしてたちまち詩から離れていったことになる。
 詩集タイトルは編集者がつけたものだろうが、たしかに信仰(須賀はカトリックであった)のテーマが詩集を貫く主調音のひとつにはなっている。だが、私はといえば、とりわけつぎの一篇に出くわしたとき、いささかの驚きを禁じ得なかった。

  (これほど空があをくて)

  これほど空があをくて
  ミモザが
  黄のひかりを まきちらし
  くろい みどりの 葉のあいだに
  オレンヂが 紅く もえる朝は
  ただ 両手を
  まっすぐにさしあげて
  踊りくるふほか
  なんとも しかたないのだ──。
  ひくく たかく
  うたひながら
  いのりつづけるほか
  なんとも しかたないのだ──。


 賢治ではないか。つまり私の驚きとは、こんなところに賢治が、という驚きである。またべつのページには、「しかも空よ/おまへは/とほい うみなりのやうに/わたしを/よびつづけ/わたしも/おまへに溶けていってしまひたいと/日に何回かひどく誘惑されるのだけれど──//空よ/わたしはおまへの/無限のひろがりが/なによりも こはいのだ──」とあり、賢治を読んだ痕跡が濃密に感じられるこれらの詩句には、自然とのエロス的合一への希求と畏怖とが分ちがたく書きとめられている。このまま書きつづければ、同世代ではあまり類をみない「自然詩人」須賀敦子が誕生していたかもしれない。
 それにしても、須賀敦子と宮澤賢治の接点なんて、どう考えてもありえない。この稀代のエッセイストは本質的には詩人の魂の持ち主であった、というのでは接点でも何でもないし、まさか『銀河鉄道の夜』のジョバンニやカムパネルラがイタリアの男の子の名前であって、イタリア文学者須賀敦子の関心を引き寄せた、なんて与太を飛ばすわけにもいかない。
 いや、飛ぶのだ。詩の種子は飛ぶ。そして思わぬところに落ち、不思議な花を咲かせるのであろう。
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