「詩客」今月の自由詩

毎月実行委員が担当し、その月に刊行された詩誌から1篇の自由詩を紹介します。

第35回 ―草間小鳥子「夏のにおい」― 借景に在るわたしたち 亜久津 歩

2020-06-19 01:08:43 | 日記


月刊ココア共和国・2020年4月創刊号(あきは詩書工房)掲載/草間小鳥子小詩集「蜃気楼の国」より

 この詩を読んですぐに、ああ、好きだ、と思った。わたしが作品の邪魔にならないよう、まずはゆったりと味わってほしい。


  夏の匂い 草間 小鳥子

  生きものが死ぬと
  甘いにおいがする
  夏になるとたくさん死ぬ
  だから空気はほのかに甘い
  心地よい
  とわたしたちは思う
  なつかしい
  と思うことも

  生き残ったものたちではじめる朝
  蝉がぎりぎりと鳴き
  鳥が目をみはり
  子どもは駆け出す
  たんなる晴れた日
  それは夏
  くさりかけた抜け殻をゆらし
  甘い風が借景をわたってゆく

  わたしたちはみな
  遠いところから来た


 何から話そう。まずは、形について。
 この作品は8行(1行)8行(1行)2行の全20行、3連構成の整然とした自由詩である。偶数音の行が多く、「におい」や「」のゆるやかに漂うイメージを感じ取ることができる。また3カ所ある5音の行は、引き締めとともによいアクセントになっている。
 一貫して、言葉が一般的・標準的な用法の輪郭からあふれるとき、ひらがなに開かれている。例えば「におい」は臭気ではなく、気配や空気のような何かだ。「もの」は者でも物でもある。「なつかしい」は具体的な記憶ではなく、「はじめる」は実際の行動ではなく、「くさりかけた」は物理的に腐ってはいない。

 中を見ていこう。第1連から。夏の宵の(または夜明けの)湿り気のある独特な空気は、確かに「甘いにおいがする」。言い切られ、妙に納得する。それは「」のにおいだというが、死臭や腐臭のような不快な刺激臭とは異なる、大いなる何かの存在感だろう。「夏になるとたくさん死ぬ」にも確信がある。道端に干上がる蝉や蚯蚓、お盆、戦争などを想起するせいか。命の数は冬の方が減りそうなものだが、祷りの質量ならば圧倒的に夏だ。日本の夏と死とは親和性が高い。「心地よい」は包み込まれるような感覚だろう。「なつかしい」は、生まれる前の記憶にない記憶の名残、細胞やたましいに連綿と刻み込まれた根源的な故郷と読んだ。

 第2連。「」は自然に訪れない。「生き残ったものたちではじめる」ことにより、やっと光が差してくる。「」は軋むように限界を叫ぶように「鳴き」、「」は恐れるように襲うように「目をみはる」。その切迫する世界を、ただ「子どもは駆け出」していく。新しい生命が切り拓くのだ。「たんなる晴れた日」は、そうして迎えられる。ここは画像を参照してほしい。鳥、子ども、単なるの3行を8音でたたみかけ、「それは夏」という体言止めの5音で受けている。「」に集約されていく構成が見事である。(a-)i-i-u-i-u-i-u(-a-a)という脚韻も心地よい。
 「くさりかけた抜け殻」は細胞を入れ替えながら老いていく「生き残ったものたち」の肉体。対する「甘い風」は死者のたましい。「ゆらし」て行けるほど近くを音もなく、においだけを残し、過ぎていく。「借景」とは造園技法の一つで「庭園外の山や樹木などの風景を、庭を形成する背景として取り入れたもの」(デジタル大辞泉)。前景の庭が生きものの時、世界だとして、後景である彼方のなんと限りないことか。

 第3連、冒頭の「わたしたちは みな」とは誰なのだろう。第1、2連の同じ位置に置かれている言葉がヒントになる。「生きものが死ぬと」「生き残ったもの」――死したものも生きているものも「わたしたち」なのだ。「遠いところ」は生まれる前と生きた後。「わたしたち」は死から来て、小さな庭を生き、やがて死に還るのである。

 夏は、生と死を渡す季節なのかもしれない。「夏のにおい」がすべてを繋ぎ、「甘い風」が吹き抜けてゆく。この死は〝終わり〟ではない、これは悲しい作品ではない。あたたかな死であり、詩だ。

(了)

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