「詩客」今月の自由詩

毎月実行委員が担当し、その月に刊行された詩誌から1篇の自由詩を紹介します。

第32回 ―関真奈美「【四角】」― カニエ・ナハ

2020-02-16 07:47:02 | 日記


動かない彫刻に、視線を身体を動かされる。たとえば青木野枝の彫刻を見るために、かがんで、座って、通りぬけて、見上げて、裏側に廻る。府中へ、京橋へ、馬喰町へ、豊島へ。府中で、境界のガラスをはさんで、頭上はるか髙く屹立する、青木野枝の彫刻と、地下深く(こちらは3メートルと明記されている、しかし見ることはできない)若林奮の彫刻があり、見上げたり、視線を見えない、地下へと潜らせる。思考を上昇させたり、潜伏させたりする。若林奮の彫刻と(/で)距離をはかるために、近づいたり離れたりする。通りぬけて、裏側に廻る。葉山へ、府中へ、浦和へ、最近だと乃木坂へ。【振動尺】とか【飛葉】といった若林の語彙が、完全には理解し得ぬまま、ときどきふいに飛来して、足を止める。二度見する。マンションである、家のベランダの前に大きな常緑樹がある。ベランダの手すりに衛星放送のパラボラアンテナを設置しているのだけど、雨の日になると、番組の画面がモザイク模様になり、ときどき静止したりする。水を湛えた葉っぱの角度が変わり、彼方からの電波を遮蔽している。なので雨の日に、見たい番組があると、葉っぱの領域に手をのばして、蒲団叩きをふりまわしたりして、葉っぱをふり落とす。落ちてきた2、3枚の葉っぱが、こちらの領域にやって来て、ベランダに着地する。色とりどりの葉っぱを抽象化したような、画面のモザイクが1枚、1枚、消えていく。昨年12月6日に彫刻書記展という展覧会を訪れた。四谷未確認スタジオというスペースに初めて訪れたのだけど、もともと銭湯だったらしい。もともと銭湯だったアートスペースといえば谷中のスカイザバスハウスがあるけれど、昔(いま調べたら2007年)初めてそこを訪れたとき、李禹煥の展示をやっていた。巨大な黒い、四角形のゴム板の上に、大きな石(あるいはちいさな岩)がひとつ、乗っている。もともと銭湯だった、天井のとても高いスペースの真ん中で。私は未だそういう彫刻を見たことがなかったので、そのスクエアな黒いゴム板の、石の(岩の)外周を、かがんだり、背伸びしたりしながら、飽きずに何分も何十分も、ぐるぐる廻りながら、歩きつづけた。願わくば触れてみたかったのだけど、その黒いゴム板のスクエアが境界であるように、そこには触れてはいけないようなので、視線で石に触れる以外にない。そのうちに石が溶け出してしまった。彫刻書記展では、彫刻家や批評家、キュレーターなど、十数名による、すべてA4紙に印字された彫刻にまつわるテキストたちが、かつて銭湯だったスペースに置かれた4つの長机の上に並べられていて、来場者は入口の受付で手渡される、ファイルにはさんでそれらのテキストを自由に持って帰ることができる。首を曲げたり、文字が小さいものは顔を近づけたりしながら、かつての銭湯の中を、机の外周をぐるぐる廻りながら、視線を走らせたり、手を伸ばしたりしていた。関真奈美さんの【四角】という文章を読んで、これはとても詩だとおもったが、本人は詩だとは思って書いてはいないかもしれない。林檎が出てくる。西脇順三郎『旅人かへらず』二十九段には「蒼白なるもの/セザンの林檎」の詩行があるけど、テキストの中で出会った林檎で、これ以来久し振りに真にはっとさせられた。関真奈美さんの【四角】はA4紙の上ではタイトル通り、スクエアにレイアウトされているけれど、ここではまっすぐな文章として引用する(剥いた林檎の皮を強引にピンと張るみたいに)。関真奈美さん【四角】。

例えば視線の代わりに、林檎の表面をナイフがスルスルなぞっていったとして。林檎の形に従って上手に回ればひとつながりの皮が剥ける。その皮を強引にピンと張ってみると、視線の道筋が展開した状態になる。視線が剥がされた後の、黄色くざらざらした果肉の方は一体なんだろうかと、一口齧ったあと四角形の白い皿に戻す。四角形というのは当然四つの角があるので、360°の眺めをひとまず4分割する事ができる。この四角というのは皿の90°の角が同様の角度を持つ机や部屋の端に対応するからすわりがよいということなのか。四角形の境界越しに外周を歩き続ける。バター。



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