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「詩客」エッセー 第2週 

毎月第2土曜日に、遠野真さんの連載エッセー全13回、藤原龍一郎さん、北大路翼のエッセーを各1回掲載いたします。

いちばん美味しい星の食べかた 第10回 悲しいってなんだよ 遠野 真

2016-09-28 16:13:15 | 日記
 別に恥ずかしいことではないと思うのだけれど、つい最近まで悲しいという気分がどんなものか知らなかった。
 ああ、これがそうなのねって体験をしたことがなかった。
 いまは二十六歳の秋だ。

 悲しみには実体がない。感情に実体があるってのも変だけど、怒りや喜びのようにそれ単体で生じる気持ちに比べると、悲しみは相対的にしか現れてこない気がするのだ。

  かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり 前登志夫

 この名歌に、首をぶんぶん振って同意したい。
 見方を変えれば、悲しいと言うことは、それだけの明るさがあるわけで。
 しかもわざわざそれを文字や音声にしようだなんて。
 様々なところで使われる「かなしい」に出会うたび、僕は「かなしみ」そのものの位置からかけ離れた所でポージングする誰かの存在を感じてしまう。
 もちろんそれは興ざめなことなのだ。
 興ざめは悲しくないけれど虚しい。
 「かなしい」は日本語話者のおもちゃなのかもしれない。
 
 そんなこって、僕はこの言葉を連発する人や作品に出会うと、斜に構えてしまう。
 それはポーズなんじゃないか? 
 ポーズなんだよね?
 じゃあなんでポーズだって言わないんだよ。
 でも、ポーズだとしてなにが不満なんだろうか。
 騙されそうでムカつくからか。
 かなしいをおもちゃにして自閉する他人が怖いのか。
 悲しみ初心者の自分には判別がつかない。

 とりあえず僕は未だに葬式が嫌いだ。

 さいきん悲しかったことは秘密にしなければならない。
 秘密にしないとこの文章が嘘になることに今気づいた。

  祈るとは立ち止まること明日われがなくても回る地球の上に 武田穂佳

 嘘かもしれない。
 嘘でもいい、ということを彼らはポーズで体現しているのかもしれない。

いちばん美味しい星の食べかた 第9回 邦題のとなりに 遠野 真

2016-08-31 00:48:23 | 日記
 さいきん海外のオーディション番組The Voiceにハマったせいで、洋楽を聴くことが増えた。昨シーズンまで審査員を務めていたファレル・ウィリアムスのウィキペディアを何の気なしに読んでいたら、
「ブラード・ラインズ~今夜はヘイ・ヘイ・ヘイ♪」
というタイトルが見つかった。彼が2013年にプロデュースしたロビン・シックの楽曲 ”Blurred Lines” の邦題である。
 今回は、これを読む皆さんが、このタイトルの波ダッシュ以降に何らかのヤバさを感じること前提で、ダサい邦題について書いてみる。

 好意的に読めば、波ダッシュ以降の言葉を付したのは、原題をそのまま横文字にしても意味が通じないから、という配慮なのかもしれない。しかし、その付け加えられた部分もよく考えると意味がわからない。
「~今夜は(呼びかけ)・(呼びかけ)・(呼びかけ・四分音符)」。
 今夜はヘイ・ヘイ・ヘイ、と発話することは日常生活ではありえないから、平常のテンションを離れた事態がこの曲の世界にはあるという遠回しなプレゼンなのかもしれない。ともすれば醒めた客観に覆われがちな現代社会の中にあって、ショービジネスという非日常の世界がまだ生きているというメッセージがこの放題には込められている……という評をする、かもしれない。もしこれが短歌だったら。
 ともあれ、いったい誰がこの冗句を考え、認可しているのだろう。映画や音楽でこの感じの邦題を見ると、無反省に「昭和」のラベルを貼ってしまうのだけれど、じゃあその世代が死んでしまったら、いずれは「この感じ」もなくなってしまうのだろうか。それはそれで寂しい気もするし、一刻も早く死に絶えてほしい気もする。
 でも、思うのだ。こういったダサいとすぐにわかる言葉遣いがあってこそ、「かっこいい」言葉が規定できると。悪いものなくして良いものはありえないし、ある表現を美しいと感じるとき、そのすぐ下には無数の「~今夜はヘイ・ヘイ・ヘイ♪」が蠢いている。たとえそのセンスが滅びても、人は新たな「~今夜はヘイ・ヘイ・ヘイ♪」を作り出すのだ。

 ところで、このタイトルから生じるヤバさは、日本の古典文学を「日本語」だと思って読んでいる時の感覚と似ている。「いとをかし」と「~今夜(略)」はどちらもある種の異言語だし、現代語からすればどちらもアブノーマルである。言葉の意味は通じるにしても、「~今夜はヘイ・ヘイ・ヘイ♪」語の話者はどこにもいない。どこにもいないけれど、僕達の日本語に刺ささったまま、つながっているのだ。何か書くということは、「~今夜はヘイ・ヘイ・ヘイ♪」と接続することだ。見方によっては詩もヘイ・ヘイ・ヘイも同じだし、仲間である。……仲間なのだ。
 実は、このタイトルを目にした時、ダサい、ない、とバカにしつつも、僕の心は温まってしまっていた。おぞましいことに、このタイトルをタイトルとして素直に喜んでいる自分がいるのだ。この上は、僕だけではなく、みなさんもそうであることを期待するしかない。
 
 締め方がわからなくなってしまったので、リンクを貼ってお茶を濁そう。邦題のセンスの酷さはしょっちゅうネタにされているけれど、モノに触れてからタイトルに戻ってみると、惨めさが倍増する。
(https://www.youtube.com/watch?v=yyDUC1LUXSU)

いちばん美味しい星の食べかた 第8回 占い 遠野 真

2016-07-31 13:15:53 | 日記
 占いの類が好きなので、パソコンを使い始めた十代の頃にネットの無料占いを片っ端から試したことがあった。今振り返ればかなりパンクな時間の使い方だが、全体を通してここに書けそうな話題は一つしか思いあたらない。

 ネットの無料占いにも色々あるが、占いの根拠があるかないかでざっくりと二分することができる。星座占いとか四柱推命とか動物占いみたいに、ちゃんと占ってくれるものもあれば、結果が日替わりのお気楽なものもある。当初はデータ入力や結果の文章がしっかりしていればしっかりしているほど楽しかった。でもそれは短い間の話で、だんだん腹が立ってくる。何に? 同じ名前を冠した占いが違う結果を言ってくることにだ。素人には比較や検討が不可能だと気づくともう、やればやるほど結果そのものへの情熱が冷めてくる。特にひどいのは画数占いで、同じ名前でも大吉と大凶がころころ変わる。結果を信じるのはかなりの苦行だ。
 そんな悪趣味のせいで勝手に信用を損ねていると、今度は名前を打ち込んでクリックするだけのワンクリック占いにハマりだした。そもそもは得体の知れない力で自分を見透かされる、という感覚にドキドキして好きになった占いだけれど、一日に百回もやっていると、いいかげんそのハリボテ性に気がつく。そうなってくるとかえって、ハリボテであることに開き直っている、ワンクリック占いが面白いのだ。もはや占われることより、自分でクリックした結果何らかのテキストが投げつけられるようなことだけが楽しかったのだ。それはキャッチボールの相手がいない時にする、壁当てと変わらない。
 クリックするだけの占いなんて朝のニュースの最後にやってるやつと大して変わらない、などと侮るなかれ、朝番組の占いみたいに、十分たてば忘れてしまう意味不明なラッキーアイテムは多くのワンクリック占いには存在しない。彼ら(管理人)は、結果がランダムなのをよいことに、下手な占いより占いぶった真面目なアドバイスをしてくるのだ。
 さて、これでやっと本題に入ることができるのだけれど、その当時、つまり十年くらい前、占いポータルサイトのリンクを上から順に消化していたところ、あるワンクリック占いでこんなことを言われた。「とおの、裁くような目つきで人を見るな」。結果はこの一文だけ。適当な太字の明朝体に、これまた適当なピンク色の背景。あとは妙に小さい「戻る」ボタンだけ。驚いたし、かなり怖かった。何回か繰り返しやってみたが同じ結果が出ない。一回目はビビってすぐに消してしまったのをもう一度やってみようとして、数回で諦めた。あとの数回はどれもつまらない結果で、あの一文が最初に出てきたということが奇跡的なのだとわかったし、その衝撃を鮮明なまま心に残しておきたかったのだ。
 それを境に僕の中の占いブームはしぼんでいった。あまりにクリティカルな指摘をされると、人間は向きを変えるのだ。あのあと試しに鏡を見たら、確かにそんな目つきをしていたし、実際自分はそういう目で人を見ていたな、と寝る前に自己嫌悪に捕まったりした。
 以来自分がそんな目つきをしていないかせめて自覚的であろうと気をつけながら生きていたけれど、よくよく観察していると、僕が生きていた社会には「人を裁くような目をしていない人」はどこにもいないことがわかった。理想的な目つきの手本を探そうとしているのだけれど、十年近く経った今でも見つかっていない。腹の裡で人を裁くことを陰湿さに分類するなら、ほんとうの意味で「明るい人」はもはや絶滅危惧種なのだ。もしほんとうの「明るい人」に出会ったら、完全に心を支配されてしまうだろうから、それはそれで恐ろしくもあるのだけれど。

 そんなもんで、もし人間の内面が技術の発展とともに変わってしまったのなら、占いだけ旧態依然というのはおかしいだろう。じゃなきゃ、あの一文に感じた奇跡はただのバーナム効果ということになってしまう。それは十代の貴重な思い出にケチがつくみたいで、少し嫌だ。なんとかして見方を変えれば、情報過多の現代人をちゃんと占えるのは、ワンクリック占いのハリボテ性と偶然性だけだと言えるかもしれない。そう考えると、妙にしっくりくるので、そういうことにしておきたい。

いちばん美味しい星の食べかた 第7回 詩が押し流されてゆく 遠野 真

2016-06-26 12:11:06 | 日記
 東日本大震災から半年くらい経った頃に、たまたま買って読んだ現代詩手帖が今も手元にある。
 何年かぶりに読んだ誌面は、詩も散文も、震災のことに終始していた。
 そこに、震災以外のことを挟みこむ余地は無かったように思う。
 それは、僕にとっては、津波みたいな力で詩が押し流されているということだった。

 詩というものは読むのも書くのもセカイ系、個人が社会をすっ飛ばして世界と対峙や同化をする際に副産物的に生まれるものだと思っていた。今も根本的にはそうだと思っている。社会に規定された自分の輪郭をほぐして、自由に自分を既定し直したり、世界と向き合ったりする時に生まれるもの、あるいは行為そのものとして、僕にとっての詩は存在する。そのことは短歌でも詩でも変わらない。
 ろくすっぽ詩を読んだことがないのに、一人でポエムらしきものを綴り始めたことが、自分にとっての詩の始まりだった。その時から、社会的な事柄ほど詩にとって無価値なものはなかった。今もない。当然、詩に対するときの自分にとって震災という社会的な事柄はどうでもよかった。今もどうでもいい。
 震災にくっついてくる大きな悲しみや虚しさには価値を感じるけれど、震災とそれにまつわる規範や公共性が、「詩の読み書き」という個人的でセカイ系な僕一人の行為にまで攻撃的な意思をもってかかってくるのが、気持ち悪かった。

 当時、詩から遠ざかっていた自分は、押し寄せてきた「震災という公共」に、何の抵抗もできずに潰されてしまった。読んだのは一冊の詩雑誌だけれど、そこにまつわる〈こうでなければならない〉という観念にのしかかられて、呼吸や身動きが禁じられるような恐怖を感じた。
 わざわざ自分から不快になりにいく理由もないし、その時は一冊を流し読みしてそれ以上考えるのをやめてしまってたのだけれど、そもそもその頃の自分には話す相手がいなかったし、そんなめんどくさい意思表示をネットですることには何の意味もなかった。
 でも、今は少し違う……という気がする。五年前と同じで自信はないけど、たぶん違う。本の整理をしているときに見つかったのをさっき読み直してみたけれど、多少嫌な感じこそすれ、それは当時の苦痛とは原因を異にするものだろうし、あの頃のような重さはもう感じなかった。その変化は、五年経った社会がその一員である僕に詩と関わりのない所でもたらしたものだ。
 そのおかげというと変な言い方だけれど、自分の考えを拙いなりにまとめることができた。
 少しだけ書いてみたい。
あの時(から)、震災が詩を塗りつぶしてしまうのを、当然だとして促す人、黙って見ている人、どうでもいい人、嫌悪する自分のような人……いろんな人が現れたり消えたりしたのだろうけど、それぞれが等分の一票を持っていると、今の僕は、明確にそう思っている。
 短歌には、社会詠という大きなジャンルがある。別にそれはそれでいいし、面白いと感じる歌はある。でも、詠まなきゃいけないという誰かの気持ちと、そんなことどうでもいいという僕の気持ちは、一人の心情という意味で等価なのだ。
 だからこそ、「○○以降、創作のあり方は変わってしまった」という言説を僕はまったく信じないし、僕の詩との接し方は震災の前後でなにも変わっていない。でも、変わった人が沢山いることは認める。自分のあり方と同じだけ認めたいし、認めている。
 だから、戦争や震災と関係のない所で詩と接続する自分に、震災や戦争との関わりに詩を模索する人と同じだけの意思があり得ていいと考えているし、これからもそのような考えで詩を続けていく。
 この先、どんな災厄が、社会の有様を作り変えるほどの災厄があったとしても、だ。

 わざわざこんなことを書いたのは、同じような感覚で詩に関わっている人や、震災に関わっている人に、安心してほしかったからだ。五年前感じたあの息苦しさがなくて済むならそのほうが良い。誰かが苦しんでいるからといって、自分も苦しまなければならないということはないし、その態度は良心の欠如を意味しない。
 苦しまないあなたに、苦しむ人と対等な一票があると、僕は信じている。

 あの日、僕は川崎のマンションの自室にいて、一人でゲームをしていた。
 夜通し続いた停電でごった返した駅前や、真っ暗になった自宅周辺を歩きまわったことを、今でも覚えている。

いちばん美味しい星の食べかた 第6回 個人戦はヒトの本領じゃない 遠野 真

2016-05-29 11:45:56 | 日記
 ついさっき、アトレティコが負けた。チャンピオンズリーグの話だ。

 レアル・マドリーとの決勝戦は九十分での決着がつかずの延長戦へ突入、消耗しきった両チームから脚を引きずる選手が続出したが、その頃には残った交代枠もなく、かといってピッチを出て休める状況でもないから、それぞれが痛みや悪化の恐怖を無視して走りまわっていた。選手とクラブこの試合に勝つためにサッカーをやっているようなものだから、毎年ここでしか見ることのできない熱がある。野蛮で必死だけど、熱くて美しいのだ。特に、戦術とモチベーションの両面で密に組織だてられ、ピッチを駆けずりまわるアトレティコの選手からは、宗教的な狂気すら感じられた。
 けど、それでも負ける。
 PK戦の末に泣き崩れたアトレティコの選手を見て思った。どうして、決着がつくというそれだけのことが人を、敗者をこんなに美しくするんだろう。どうしてこんなに感動してしまうんだろう。僕もこんなふうに美しい世界の一員になりたい。負けてもいいからなりたい。

 いま書きながら考えたことだけれど、たぶん彼らがそんなにも美しかったのは、彼らが限界近く力を発揮しようとしたからで、たぶん、人間の持てる能力は、規律の行き届いた集団がある特別なシチュエーションに置かれた時に最大限発揮されうるのだ。
 個人戦はヒトの本領じゃない。

 この決勝戦に比べてしまうと、どうにも文芸は行為や行為者そのものへの感動から遠くおもえてしまう。勝敗もなければ、作者の熱や必死さを直接見ることもできない。
 見える部分といえば、ピッチを走り回るかわりに近所を散歩することくらいである。そこに美しさや熱狂はない。あるとしても脳みその中だけで、そんなの誰も知ったことではない。
 書くことは個人戦の極地だから、勝敗を措くことが簡単にできてしまう。勝ち負けの符号を避け、さじ加減ひとつでどうとでも言える所への逃避を、選手である作者に許してしまう。
 たとえそれが文芸の本質だとしても、そうではない隅っこで、勝ち負けがつく何かがあればいいと願ってる。
 本が売れるということも考えたけど、それは人生の勝者なのであって、たくさんの作品が出会う一度きりの勝負形式ではない。何より本が売れること自体に勝負の熱狂はない。
 誰でも見ることが出来る、形式的な勝負の場があってほしい。
 書くことは自分を一人にする行為だから、勝負という基準から逃げることがいくらでもできでしまう。でも、それではいつまでたっても名誉ある勝者や、美しい敗者が生まれない。
 人を美しくする勝負が、文芸の世界にもあっていい。勝負の場自体が俗っぽくても一向に構わない。場の性質がどうだろうと、真剣な戦いさえあれば、それが人間の美しさの底を見せようとするから。
 新人賞でも、歌合わせでも、詩のボクシングのようなものでもいい。
 書くことや読むことを、もっと勝負の形式で、祭りのように楽しみたい。
 言葉で何かをあらわそうとするときに、内面に深く潜ることを誰だってするけれど、そのことと、書くということに興行として外から盛り上がりの要素がついてくることは、まったく 別のことだし、矛盾しないはずだ。
 僕は去年、ちいさな新人賞で勝った。
 次の受賞者も数ヶ月後には決まっている。
 その時には、文芸上では貴重な勝負の場として、勝者と敗者を見ていたい。

 ここまで書いて、一度勝ち取ってしまうともう出すことができないのは、変だなという気もしてきた。サッカーには連覇がある。将棋のような個人戦にも永世位がある。それが文芸にはない。新人という縛りを取り払って、過去の受賞者がもう一度出していいというルールの賞があっても面白い。
 とにかく僕は今朝のアトレティコのような、大勢の感情が渦巻いて異常な熱をなすような状況に、文芸の世界で出会ってみたいのだ。自分が参加者なら最高だけれど、立ち会えるならそれだけで幸せだから、傍観者でも結構だ。
 文芸が自分本位の物差しで満足できてしまうことに、僕はもう倦んでいるのだ。