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「詩客」エッセー 第2週 

毎月第2土曜日に、遠野真さんの連載エッセー全13回、藤原龍一郎さん、北大路翼のエッセーを各1回掲載いたします。

エッセー 「思ひ出の抜け道」の思ひ出 北大路 翼

2017-02-25 15:52:40 | 日記
 5、6年前の皐月のことだつたか。新宿の僕の根城である「砂の城」の近くに、寿司屋ができた。腕と気風のいい職人で城の界隈ではすぐ評判になつた。職人の名前をそのまま店名にしたのだらう。提灯には若園浩二のしつかりとした字が揺れてゐる。オープン当時は子供の日に合はせて鯉が泳いでゐた。
  夜を抜けて若園浩二の吹き流し
 僕は14日が誕生日だつたので、意中の女をその前後の日には誘はうと企んでゐた。
 粋な職人のことだ、ご近所のふりをすればサービスもしてもらへるだらう。いい店は常連のフリしてゐればそれに合はせてくれる。そして何よりもありがたいのは近いことだ。飲んで喰つたあとはすぐに自分の城に連れて帰ればいい。貝類はあとから食へるから店ではいらないな、なんて妄想が止まらない。
 20時に待ち合はせをして僕たちは店へ向かつた。20時といふ遅くも早くもない時間が本気である。
 「ここおいしいんだよねー」
 入つたこともないのに、さも常連のやうに振る舞ふ僕。ところが、店の提灯は消えたままである。ガラス越しにうすぼんやりと見えるカウンターにも誰もゐない。
 「あれ?まだ早いのかな」
 さも絶妙なデート時間を選んだはずの僕の心が一瞬曇る。
 「軽く一杯飲んでからまた来よう」
 ここでジタバタしてはいけない。僕は常連なのだ。店の都合ぐらゐなんでも知つていなければならない。幸ひ歌舞伎町には軽く時間を潰すぐらゐの飲み屋はいくらでもある。まあ安い店で小腹を満たしておけば、あとあと高い寿司にそれほど金を使はなくてもよい。一石二鳥といふことにしておかう。
 彼女の機嫌を損なはないやうなるべく近くの店を選んで乾杯。かういふときはあまり歩かせないのが鉄則。失敗のあとは会話も弾まないし、はやく酒を入れて気分を変へた方がいい。
 2、3杯飲んで寿司屋に戻ると今度はカウンターに誰かゐる。
 「ほらね、歌舞伎町はやつぱりスタートが遅いんだよ」
 何が「ほらね」だ。僕も酒が入りいささか調子よくなつてゐる。ところが良く見ると様子が変だ。ガサガサとしてゐるが仕込みをやつてゐるやうには見えない。電気も心なしが薄暗い。
 「やつてますか~」
 恐る恐る店内に入ると、カウンターの男はこちらを睨んだ。
 「なんだ、お前。あいつの知り合ひか」
 知り合ひ??まあ常連のフリはしてましたが、本当は話したこともないです。僕は慌てて首を横に振つた。
 「あの野郎、逃げやがつた」
 どうやら男は店のオーナーで、気風のいいはずの職人は夜逃げしたらしい。奇しくもその日は母の日だつた。
 任侠映画のやうな設定である。僕の頭にすぐさま一句浮かんだ。
  母の日の若園浩二夜逃げせり
 続けて
  母の日やたつた一人が愛せない
 ができた。すべてを棄てて逃げる男。一か所にも留まれず、一人の愛する人のために生きることもできない。
 驚いてすつかり酔ひが覚めた僕たちはあつけなくその場で解散となつた。「たつた一人が愛せない…」の語が自分にも返つてくる。
 まあでも僕の場合は母親ぢやないな。言ひ訳のやうに句を弄り出すと、彼女と飲んだ酒が食道を這ひ上がつて来た。ひでえ焼酎だな。
 かうしてできたのがかの
  ウーロンハイたつた一人が愛せない
であります。ちやんちやん。

エッセー タクシードライバー20XX  藤原 龍一郎

2017-02-06 21:05:59 | 日記
 久しぶりに読んでいて興奮と共感をおぼえることができる歌集と出会った。高山邦男歌 集『インソムニア』(ながらみ書房刊)である。高山邦男は「心の花」所属。歌歴はすでに 三十年を超えるだろう。年齢も五十代であり、現在の歌壇の状況からみれば、かなり遅い第一歌集の出版ということになる。
 歌集のタイトルのインソムニアというのは不眠症のこと。高山邦男の職業がタクシードライバーであり、深夜も眠らずに仕事をしていることから、この題名を選んだという。高山自身があとがきで、次のように書いている。
 
 「インソムニアとは眠れない人々とか不眠症といった意味で、主に世の中の夜の部分を歌ってきたぼくの歌にはぴったりなタイトルだと思いました。三十歳後半から夜の仕事をし てきたぼくは昼間の仕事の人とは別の世界を生きてきました。さらに言えば、昼間の世界の人たちの夜の顔を見ることになったり、夜を眠れない人たちからの少しひび割れた心の通 信があったりしました。そうした事から、人間の影の部分も含めて「夜」という切り口がこの歌集の一つのテーマであると思っています。だからでしょうが、このタイトルに出会った時に歌集を出すべき時期が来たと直感しました。
 
 率直な感慨であるだろうし、自分が詠ってきた表現世界への自負も感じられる。若書きではなく、自分は何を書きたいかということを意識して短歌表現をつづけて、その成就に一つ の手応えを感じたからこそ、この歌集上梓の決断をしたということでもある。そこに私は信頼感をおぼえたし、作品そのものも、他者とはまぎれようもない、はっきりとした個性を獲得していた。
 具体的に作品を読んでみよう。
 
墓を掘る姿に見ゆる<工事中>看板の中の黒き作業者
夜が更け首都高速道黙々と作業する者工兵の裔
何時間続けるのだらう歩行者を誘導してゐる娘明るし
深夜番コンビニ店員李さんはいつも含羞みながらレジ打つ
満身に照明を浴び夜の窓をパントマイムのごとく拭く人
真夜中の店舗のガラスを鏡としStreet Dance繰り返す人
観客のゐない未明を蛇行してバイク煙らす新聞配達人

 
 まさに深夜の東京に眠れずに働き、動いている人々のスケッチである。最初の三首は工事現場だろう。「工事中」の看板の向こう側、地面に掘られた穴の中で作業する人たちを「墓を掘る姿」と見て、また彼らを「工兵の裔」ととらえる視線。「墓を掘る姿」という想像はできなくもないが、「工兵の裔」という認識はきわめてユニークではないか。深夜の首都高速の路上は戦場であり、彼らは工兵、自分は輸送兵という思いがあるいは浮かんだのかもしれない。一種の同志意識というべきか。そう思える。「歩行者を誘導してゐる娘」の姿は夜 ではなく昼間の可能性もあるが、「娘明るし」という結句にはやさしさがある。こういう女性誘導員の姿は、最近、しばしば見かけるので、読者としても共感しやすい。
 コンビニの李さんは韓国人か朝鮮人か。今のコンビニで働く人たちは必ず名札をつけているので、名前もわかるわけだ。窓を拭く作業も深夜におこなわれている。満身に照明を浴びているのは、彼がパントマイムのパフォーマーだからではなく、もちろん、危険防止のためにちがいない。次のストリートダンスを繰り返す人は、本当の芸人なのかもしれない。スタジオでの練習の反復を真夜中の街のウインドウを鏡としておこなっている。こういう人も確かに居るのだろうなと思わせる。そして夜明けになれば、新聞配達人がバイクを走らせ始める。商店街や住宅街のまだ人の気配のない路上を蛇行するバイク。道の右や左の新聞受けに配達するために蛇行しているのか、道がすいているからわざと蛇行しているのか、いずれにせよ、「煙らす」というリアルな観察が心にしみる。
 どの作品にも、タクシーの運転台からの視線が生動している。
 
厚き頬傾けながら沈みゆく月は寂しき街区の家族 
湾岸の巨大煙突大巨人焼くがごとくにたなびく煙
湾岸の開発いきいき語りたる土建屋の夢の跡のお台場
店のロゴMとPだけ見えてゐて裸木の向かう深夜の明かり
零時にておしまひサッポロ一番の看板が消え屋上は闇
元基地は昭和の名を持つ公園となりて真夏の日差しは消えず
バッティング・センターに響く打撃音深夜に聞けば街の呟き
誰ひとり頼らず生きし浮浪者の死して駅前お供へ絶へず
二番目となりて夜景に柔らかく東京タワーが灯せる心
満月の滴る巨きな雲の下地虫のやうに群れるタクシー

 
 こちらは夜更けの人々ではなく、光景。一首目の下の句「月は寂しき街区の家族」とい 措辞から、私は崔洋一監督の映画「月はどっちに出ている」を思い出した。あの映画では、方向音痴のタクシードライバー岸谷五郎が、帰り道の方向を知るために、月の位置を確認する行為が繰り返し出てくる。掲出歌に限らず、この歌集の歌には月がしばしば出てくる。それだけ、タクシードライバーと月とは親しいものなのかもしれない。「寂しき街区の家族」という認識には、自分自身もまた月とともに寂しい家族の一員なのだとの思いがこもっているように思える。そう思えばこの一首をいっそう切なく感受できる。
 次の二首は東京の湾岸の歌。東京湾の西側、品川地区から川崎にかけては確かに巨大な工場群が並び、まさに巨人の火葬のように排煙をたなびかせている。J・G・バラードの「溺れた巨人」を連想させるような虚無的光景といえなくもない。次のお台場の歌は、まさに夢のはじけたあと。おそらく、東京都市博覧会が青島幸男都知事の公約どおり中止になったことから、土建屋の一獲千金の夢が文字通りバブルのようにはじけて消えたということか。
 次の二首も夜を走るタクシードライバーならではの視点が効果をあげている。大規模店舗のロゴのMとPだけが見えている光景、裸木の向こうという視線の位置がリアル。商品広告の巨大なネオンがかがやいているところは私たちもたびたび目にすることがある。しかし、それが消えるところを見ることはない。午前零時に「サッポロ一番」のネオンが消える ことを知っているのは都市生活者の中でも限られた人だけなのである。そしてそれが一種の時計にもなっているのではないかと推察する。
 新宿や池袋には二十四時間営業のバッティングセンターがある。路上からは、中の人の姿は見えないが、打撃音だけは闇に響いている。その鈍い響きを「街の呟き」ととらえてみせる。「街の呟き」とは抽象的な比喩表現だが、この歌集の中で出会うと妙にリアルだ。
 街の戦死者としての浮浪者の死。その死者を悼む駅前の路上の花や供え物。それに気づくタクシードライバーの視線。ここにも同志意識があるような気がする。  東京タワーは東京スカイツリーに抜かれて二番目になった。長い間のトップの重責から解放されて、その電飾も心なしかやわらいでいるように見える。これも、毎日のように東京タワーを見ているからこそ気づくわけだ。こういう感性は高山邦男ならではのものだろう。
 最後の一首は自己認識の歌といってよいのだろうか。例によって月、それも満月が出てくる。「満月の滴る巨きな雲の下」という設定も凄い。ちょっと短歌に出てくるレトリックとしては異質である。その雲の下で「地虫のやうに群れる」というタクシー。自虐的でありつつ、どこか不敵な感じもはらんでいる。
 このように『インソムニア』の中から好きな歌をあげていけばきりはない。最後にどうしても挙げておきたい三首を引用する。
 
真夜中に白光灯すバス停は闇より至るバス待ちをらむ
赤や青繰り返し点る夜の街のどこにもゐない点燈夫たち
昨夜猫を轢き殺したるわれにして人の規則に許され働く

 
 深夜の闇の中で白く光るバスの停留所。そこへは何処からバスが来るのか。闇より至るバスとはどんなバスか。「となりのトトロ」の猫バスのように、楽しいバスであるわけはない。
都市の暗部、東京の暗闇からやってくるバスは、タクシードライバーだけにしか見えない、感受できない都市伝説のバスにちがいない。
 二首目は一転してロマンを感じさせる歌。かつて銀座の街灯がガス燈だった頃には、夕方になると、点燈夫がガス燈に火を点して回っていたのだそうだ。しかし、今は点燈夫はいない。夜の街は日が沈むと赤や青の灯火が点るけれども、それは点燈夫が点すわけではない。闇のバスを見る眼が、この歌では幻影の点燈夫を幻視しているのだ。
 そして最後の一首のぎりぎり感。猫を轢き殺してしまっても、自分は猫の規則に従うわけではないので、刑罰を受けることはない。「人の規則に許され」そして「働く」という究極のニヒリズム。こういう思いを誰が抱くのか。「働く」という動詞が、これほど非情に使われた例を私は知らない。
 私自身、東京、眼前の現在というテーマをつねに意識して作歌をつづけてきたのだが、歌人・高山邦男の存在を知って、とても頼もしく思う。視点の座標は私と高山邦男とではもちろん異なるが、対象である東京、そしてこの目の前にある時代を表現しようとの意志は同じだと思う。同志を発見した思いでもある。マーティン・スコセッシ監督の映画『タクシードライバー』では、ロバート・デ・ニーロ扮するベトナム戦争帰りのトラヴィスが、時代との異和に軋み、最後に暴力を爆発させるが、この時代を生きる高山邦男ははるかにしたたかであるだろう。運転席という定点から見える時代や東京の正体をさらに鋭く詠ってみせてほしい。

いちばん美味しい星の食べかた 第13回 ポッピンQとナマの記号 遠野 真

2017-01-08 11:39:47 | 日記
 アニメの視聴には決まり形をなぞる気持ちよさがある。乙女ゲームが何百もの作品に渡って、ある共通したキャラカテゴリを生み出してきたように、萌えキャラが髪の色で分類されるように、別の人(作品)が代わる代わるそこを押してくれる限り、同じツボを何度押されても快感が尽きないということにアニメの良さの一つはある。とはいえ、ツボさえ押さえてくれればそれでよくて、脚本や絵の出来栄えを気にしない視聴者がたくさん存在することもおそらく事実で、今のテレビアニメは、荒唐無稽なツボの押し合いということもできる。
 受け手と作り手の共犯関係のなかで、ツボという記号は氾濫し、オリジナルを失し、独り歩きをはじめた。それら氾濫した記号のどれを選び、どう調理するかということに、動かしがたい「良さ」の基準はある。
 さて、最近のアニメ業界だが、円盤バブル崩壊後の不況や、原作の弾切れに並行するマンネリの深刻化、放送落ち・過酷な制作環境の周知などネガティブな話題に包まれていたようだ。
 記号は氾濫期を終えた。既存の形態で作られ、放送されるテレビアニメはもうやり尽くされた。かねてからの疑念が事実に変わりつつあった2016年の最後に、問題作「ポッピンQ」は出てきた。
 ストーリーを概観すると、女子中学生が異世界に連れ去られて、同い年の女子5人とダンスで異世界を救いつつ、それぞれの失敗や弱さを乗り越えるという王道をゆくものだ。だが、そこはそれ東映60周年記念作品、侮るなかれ、今のアニメを分解してすし詰めに再構築したようなツボ連打ぶりがすごいのだ。いちど視聴してみてほしい。このアニメを楽しめるかどうか、どのように楽しむかで、なんとなく創作物と自分の立ち位置や関係性が見えてくるのだ。
 主人公以外のヒロイン四人は、見た目と性格と、乗り越える葛藤以外の情報は削がれているし、尺もほとんど用意されていない。でも、楽しめてしまう。他作品や実人生でつちかわれた補完能力が、いかに価値判断から筋書きのよしあしを置き去りにしてしまうのだ。
 個人的には、これも記号化されたキャラクターである「謎の小さい生物」が、「同位体」という、「女子中学生がダンスで世界を救う!」にはそぐわない、ラノベの設定資料がそのまま顔を出したような固い名前で呼ばれていることがいちばん面白かった(けなしているのではない)。
 他にも様々、主人公がおばあちゃんにされたり、文字通り「クスッ」と笑うメガネ男子が出てきたり、友情が異世界にいる間だけだったり、娘の心情をメタってくるお母さんのちょっとしたセリフが妙に同時代的だったり、語るネタが押し寄せてくる90分だった。打率をあげようとするのは作る側の努力だけれど、見る側の気分はまるでストライクゾーン全部を覆えるバットでぶっ飛ばされた硬球のようだ。(人によってはピンポン玉くらいかもしれない。)
 ともあれ、自分を試すアニメ体験を、ぜひ味わってみてほしい。
 うろ覚えだが、劇中のセリフを引いてみる。
「人はまばたきをするくらいの時間しか生きられない。僕は君たちに成長してほしいんだ」

いちばん美味しい星の食べかた 第12回 桑子真帆としあわせの両立 遠野 真

2016-12-08 19:33:19 | 日記
 彼女がいて恋愛が幸せなとき、漫画を読まなくなる、ということを不思議がっている間に十代が過ぎた。

 桑子真帆の顔を見ないとちゃんと眠れない。
 録画は味気ない。生で夜中に動く桑子真帆を見るまで寝たくはないのだ。

 他の重大な幸福が、僕から漫画やゲームを奪ったように、幸せはいつでも自設定かつ自達成だ。もし幸福に個人的な尺度がないのなら、すなおに両取りを目指せばいい。
 だのにどうして僕は漫画やアニメやエロゲーから離れてしまったのだろう。
 どうしていつか十一時の桑子真帆に合わせて飲み会を抜け出さなくなるのだろう。
 そうしないのは怠惰だけのせいじゃない。生きていく流れのなかで幸福が効率化し、絶対量は減っていく。当たり前のことだけれど。
 ちいさなしあわせを過剰に飾り立てて、言葉にしたいとはおもわない。

 初めて言葉で何かを表現する人になりたいと思ったのは小学3年生のとき、授業中の妄想だった。小説家がいいけど、小説ほど長いものが書ける自信はないし、じゃあ詩人になればいいじゃん、と考えるのは人情で、所詮は人情だから、そのあと、詩人になるにはどうしたらいいのか調べるようなことはしなかった。
 幸福の理論値の周辺にほかの幸福はない。しかし、理論値的な幸福を阻むことは幸福の否定でもある。

 桑子真帆が笑んでいる。
 桑子真帆の笑顔は動作でなく状態なのがいい。
 最高かよ、というネットスラングのことを少し考える。

いちばん美味しい星の食べかた 第11回 しずか系 遠野 真

2016-11-06 12:32:59 | 日記
 知り合いの女の子二人が僕の目の前でこんな会話をしていた。
「でもしずか系だと思われちゃったみたいで……」
「あの人ならそれでもいいんじゃない?」
 静かな人だと思われると、恋愛では不利らしい。そりゃあ人間にはいろいろ属性があって、たしかに、くっつきそうな者どうしがくっつくことはあるし、魅力的な人はしばしば社交的でうるさい。
 いやいやその程度の誤解は問題ないよともう片方は言っているし、男性が静かな女性に惹かれる、つまりコミュニケーションの「場」に積極的な役割を負わないことが、かえってその人をもっと知りたいと思わせることはある。
 けど、単純な数字の比だと、これが男女逆だったらどうなるだろう。誤解とその修正への望みはあと三周りくらい下がるかもしれない。
 人物の評価には直接「人」を見ようとする方法と、コミュニケーションの「場」への刺激から逆算してその人を考えるという方法があって、場を見るか人を見るかの比重ではおそらく女性のほうが前者に敏感なのだ。それは生得的にそうなのかもしれないし、社会の規範がそうさせているのかもしれない。わからないから経験でしか語れないけれど、「場」への影響力で人物を評価する人が女性には多かった。もちろん「場」への影響力は包括的な「その人」の一部で、そのうちのどこを重視するかの問題だから、それ自体は変えようがない。
 彼女が恐れているのは「場」から逆算された自己像としての「しずか系」なんだろう。だって本当は違うから。大切な人に自分を誤解されたら、悔しいのはわかる。
その二人のことはもうそれ以上踏み込めないけれど、疑問は残る。
しずか系は、あるいはそれ同士はどうくっついたらいいんだろう?
 くっつけないから恐れてるとも言えるけれど、せめてもの抵抗を一しずか系として考えだしてみようと電車に乗ってるあいだ頭を働かせたけれど、結局思い浮かぶのは彼女と同様「誤解の視線をずらす」ことだけだ。
 たしかに、しずかであることはしばしば「場」におけるチャンスを潰しているのかもしれない。「場」を大事にする人からすれば、そのチャンスを掴むことのない静かな人間はどうでもいい人間だろう。でも彼ら彼女らは本当に静かなんだろうか。
 「場」に大して静かになる理由は人それぞれだけれど、それはしばしば全然静かじゃないところから始まり、とてもうるさい過程を経て、そうなっていることに気づくと、とたんに「しずか系」は静かじゃなくなる。「場」以上に「人」が面白くなってくる。「場に出されたその人」と、「場に出る以前のその人」を比べてもしょうがないかもしれないけれど、後者を重視する基準では「非しずか系」の人のほうが静かだということを僕は知っている……けれど、どんあんいそれた正しくても、これは負け惜しみにしかならない。だって共有できないし。
 普段から「場」をシャットアウトしてでも「人」に辿り着こうとしていると、相応のリスクを負うし、そんなリスクをとる理由はたぶんどこにもない。
ないので、この話は失敗だ。
 「場」より「人」をとる人にとっての「場」は一体どこなんだろう。
 わからん。


  普通って言われてる子はかわいいし男は前髪きったほうがいい 伊舎堂仁