広島・資本論を読む会ブログ

『資本論』第1巻第4章テキスト(大月書店全集版)

K・マルクス著 『資本論』 (全集版より)
【P191】 第2篇 貨幣の資本への転化
 第4章「貨幣の資本への転化」
 第1節 資本の一般的定式
 商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。世界貿易と世界市場とは、16世紀に資本の近代的生活史を開くのである。
 商品流通の素材的な内容やいろいろな使用価値の交換は別として、ただこの過程が生みだす経済的な諸形態だけを考察するならば、われわれはこの過程の最後の産物として貨幣を見いだす。この、商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態である。
 歴史的には、資本は、土地所有にたいして、どこでも最初はまず貨幣の形で、貨幣財産として、商人資本および高利資本として相対する(*1)。とはいえ、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧【P192】する必要はない。同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。どの新たな資本も、最初に舞台に現われるのは、すなわち市場に、商品市場や労働市場や貨幣市場に姿を現わすのは、やはり貨幣としてであり、一定の過程を経て資本に転化するべき貨幣としてである。
 (*1)人身的な隷属・支配関係を基礎とする土地所有の権力と貨幣の身的な権力との対立は、次のようなフランスの二つのことわざにはっきり言い表わされている。「領主のいない土地はない。」「貨幣に主人はない。」
 貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけである。
 商品流通の直接的形態は、W─G─W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G─W─Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのであり、資本になるのであって、すでにその使命から見れば資本なのである。
 流通G─W─Gをもっと詳しく見よう。それは、単純な商品流通と同じに、二つの反対の段階を通る。第一の段階、G─W、買いでは、貨幣が商品に転化される。第二の段階、W─G、売りでは、商品が貨幣に再転化される。しかし、二つの段階の統一は、貨幣を商品と交換して同じ商品を再び貨幣と交換するという、すなわち売るために商品を買うという総運動である。または、買いと売りという形態的な相違を無視すれば、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという、総運動である(*2)。この全過程が消えてしまっているその結果は、貨幣と貨幣との交換、G─Gである。私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、結局、私は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、【P193】貨幣を貨幣と交換したわけである。
 (*2) 「貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買う。」(…ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的秩序』…)
 ところで、もしも回り道をして同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとするのならば、流通過程G─W─Gはつまらない無内容なものだということは、まったく明白である。それよりも、自分の100ポンドを流通の危険にさらさないで固く握っている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、やはりずっと簡単で確実であろう。他方、商人が100ポンドで買った綿花を再び110ポンドで売ろうと、またはそれを100ポンドで、また場合によっては50ポンドでさえも手放さざるをえなくなろうと、どの場合にも彼の貨幣はひとつの特有な独自な運動を描いたのであり、その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の違うものである。そこで、まず循環G─W─GとW─G─Wとの形態的相違の特徴づけをしなければならない。そうすれば、同時に、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになるであろう。
 まず両方の形態に共通なものを見よう。
 どちらの循環も同じ二つの反対の段階、W─G、売りと、G─W、買いとに分かれる。二つの段階のどちらでも、商品と貨幣という同じ二つの物的要素が相対しており、また、買い手と売り手という同じ経済的仮面を付けた二人の人物が相対している。二つの循環のどちらも同じ反対の諸段階の統一である。そして、どちらの場合にも、この統一は三人の当事者の登場によって媒介され、そのうちの一人はただ売るだけであり、もう一人はただ買うだけであるが、第三の一人は買いと売りを交互に行なう。
 とはいえ、二つの循環W─G─WとG─W─Gとをはじめから区別するものは、同じ反対の流通段階の逆の順序【P193】である。単純な商品流通は売りで始まって買いで終わり、資本としての貨幣の流通は買いで始まって売りで終わる。前のほうでは商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点をなしている。第一の形態では貨幣が、他方の形態では逆に商品が、全過程を媒介している。
 流通W─G─Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつ。だから、貨幣は最終的に支出されている。これに反して、逆の形態G─W─Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。彼は商品を買うときには貨幣を流通に投ずるが、それは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためである。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほかならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである(*3)。
 (*3) 「ある物が再び売られるために買われる場合には、そのために用いられる金額は、前貸しされた貨幣だと呼ばれる。それが売られるためにではなく<たんに>買われる場合には、その金額は費やされると言ってよい。」(ジェームズ・スチュアート『著作集』、……)
 形態W─G─Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替える。売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまう。商品とひきかえに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品とひきかえに貨幣を手放すことで終わる。形態G─W─Gでは逆である。ここでは、二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品である。買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまう。単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。
 その出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかにはかかわりがない。この事情は、ただ還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られ【P195】さえすれば、つまり循環G─W─Gが完全に描かれさえすれば、起きるのである。要するに、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。
 ある商品の売りが貨幣をもってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W─G─Wは完全に終わっている。それでもなお、その出発点への貨幣の還流が起こるとすれば、それはただ全過程の更新または反復によって起きるだけである。もし私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣服を買うならば、この3ポンドは私にとっては決定的に支出されている。私はもはやその3ポンドとはなんの関係もない。それは衣服商人のものである。そこで私が第二の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第一の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。その貨幣は、私が第二の取引を終えて、また繰り返して買うならば、再び私から離れていく。だから、流通W─G─Wでは貨幣の支出はその還流となんの関係もないのである。これに反して、G─W─Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。というのは、過程の第二の段階、すなわち買いを補って最後のきまりをつける売りが欠けているかである。
 循環W─G─Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の目的である。これに反して、循環G─W─Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。
 単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。それはどちらも商品である。それらはまた同じ価値量の商品である。しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。生産物交換、<すなわち>社会的労働【P196】がそこに現われているいろいろな素材の変換が、ここでは運動の内容をなしている。@
流通G─W─Gではそうではない。この流通は一見無内容に見える。というのは同義反復的だからである。どちらの極も同じ経済的形態をもっている。それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。なぜならば、貨幣こそは諸商品の転化した姿であり、諸商品の使用価値が消え去っている姿だからである。まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える(*4)。およそある貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってである。それゆえ、過程G─W─Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。最後には、最初に流通に投げこまれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられるのである。たとえば、100ポンド・スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ポンドで再び売られる。それゆえ、この過程の完全な形態はG─W─G′であって、ここではG′=G+ΔGである。すなわちG′は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値と呼ぶ。それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するばかりではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言いかえれば自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。
 (*4)「貨幣を貨幣と交換するものはない」、…リヴィエールは重商主義者たちに向かってこう叫んでいる。(…)特に職業上から「商業」や「投機」を論じている一著作には次のように書かれてある。「すべての商業は、種類の違う諸物の交換である。そして、利益」(商人にとっての?)「はまさにこの種類の相違から生ずる。パン1ポンドをパン1ポンドと交換しても……なんの利益もないであろう。……それだから、商業と、ただ貨幣対貨【P197】幣の交換でしかない賭博との有益な対照……。」(T・コーベト…1841年…)コーベトは、G─Gすなわち貨幣を貨幣と交換することは、ただ商業資本だけのではなく、すべての資本の特徴的な流通形態だということがわかっていないとはいえ、少なくとも、この形態が商業の一種である投機と賭博とに共通だということは認めている。ところが、次にマカロックが現われて、売るために買うことは投機することであり、したがって投機と商業との相違はなくなってしまう、ということを見出すのである。「ある個人がある生産物を、再び売るために買うという取引は、すべて事実上は一つの投機である。」(マカロック『商業・……辞典』…1847年…)これよりもずっと素朴に、アムステルダム取引所のピンダロス[ギリシャの叙情詩人]であるピントは次のように言う。「商業は賭博であり」(この一句はロックから借用したもの)「そして、乞食からはなにももうけることはできない。もし長い間に皆のものからなにもかも巻き上げてしまったならば、あらためて賭博を始めるためには、穏やかに話し合って、もうけの大部分をもう一度返してやらなければならないであろう。」(ピント『流通・信用論』、…1771年…)
 もちろん、W─G─Wで両極のWとW、たとえば穀物と衣服とが、量的に違った価値量であるということもありうることである。農民が自分の穀物を価値よりも高く売ったり衣服をその価値より安く買ったりすることもありうる。また彼のほうが衣服商人にだまされることもありうる。とはいえ、このような価値の相違はこの流通形態そのものにとってはやはりまったく偶然である。この流通形態は、その両極、たとえば穀物と衣服とが互いに等価物であっても、けっして過程G─W─Gのように無意味になってしまいはしない。両極が等価だということは、ここではむしろ正常な過程の条件なのである。
 買うために売ることの反復または更新はこの過程そのものがそうであるように、限度と目標とを、過程の外にある最終目的としての消費に、すなわち特定の諸欲望の充足に、見いだす。これに反して、売りのための買いでは、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、すでにこのことによってもこの運動は無限である。たしかに、【P198】GはGプラスΔGになり、100ポンド・スターリングは100・プラス・10ポンドになっている。しかし、単に質的に見れば、110ポンドは100ポンドと同じもの、すなわち貨幣である。また量的に見ても、110ポンドは、100ポンドと同じに一つの限定された価値額である。もし110ポンドが貨幣として支出されるならば、それはその役割からはずれてしまうであろう。それは資本ではなくなるであろう。流通から引きあげられれば、それは蓄蔵貨幣に化石して世界の最後の日までしまっておいてもびた一文もふえはしない。つまり、ひとたび価値の増殖が問題となれば、増殖の欲求は110ポンドの場合も100ポンドの場合も同じことである。なぜならば、両方とも交換価値の限定された表現であり、したがって両方とも量の拡大によって富そのものに近づくという同じ使命をもっているからである。たしかに、はじめに前貸しされた価値100ポンドは、流通でそれに加わる10ポンドの剰余価値からは一瞬間区別されるに違いないが、しかしこの区別はすぐにまた消えてなくなる。過程の終わりには、一方の側に100ポンドの原価値が出てきて他方の側に10ポンドの剰余価値が出てくるのではない。出てくるものは、110ポンドという一つの価値であって、それは、最初の100ポンドとまったく同じに、価値増殖過程をはじめるのに適した形態にあるのである。貨幣は、運動の終わりには再び運動のはじめとして出てくるのである(*5)。それゆえ、売りのための買いが行なわれる各個の循環の終わりは、おのずから一つの新しい循環のはじめをなしているのである。単純な商品流通──買いのための売り──は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役だつ。これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかにだけ存在するのだからである。それだから、資本の運動には限度がないのである(*6)。
 (*5)「資本は……原資本と利得、すなわち資本の増殖分とに分かれる。……もっとも、実際はこの利得をすぐに再び資本につけ加えて、これといっしょに流れのなかに入れるのではあるが。」(エンゲルス『国民経済学批判大綱』…1844年…【P199】)
 (*6)アリストテレスは貨殖術に家政術を対立させている。彼は家政術から出発する。それが生計術であるかぎりでは、それは、生活のために必要で家や国にとって有用な財貨の調達に限られる。「真の富はこのような使用価値からなっている。なぜならば、快適な生活をするのに足りる程度のこの種類の財産は、限度のないものではないからである。ところが、生計術には第二の種類があって、それは特に、また当然、貨殖術と呼ばれ、これによれば富や財産の限界は存在しないように見える。商品取引」(言葉通りには小売商業を意味しており、アリストテレスがこの形態をとりあげるのは、そこでは使用価値がおもになっているからである)「は本来は貨殖術には属しない。というのは、商品取引では交換はただ彼ら自身」(買い手と売り手)「に必要なものだけに関して行われるからである。」彼はさらに次のように続ける。それだから、商品取引の元来の形態も物々交換だったのであるが、それが拡大されるにつれて必然的に貨幣が発生したのである。貨幣の発明とともに、物々交換は必然的にカペーリケーに、すなわち商品取引に発展せざるをえなかった。そして、商品取引は、その元来の傾向とは矛盾して、貨殖術に、貨幣を得る術に、成長してきた。いまや貨殖術は次のことによって家政術から区別される。「貨殖術にとっては、流通が富の源泉である。そして、貨殖術は貨幣と中心として回転しているように見える。というのは、貨幣こそはこの種の交換の始めであり終わりであるからである。それゆえ、貨殖術が追求する富にも限界はない。すなわち、<快適な生活という>目的のための手段を追求するだけの術は、目的そのものがそれに限界を設けるので、限界のないものではないが、その目標を手段ではなく最終目的としているような術は、すべてその目的に絶えず近づこうとしているので、その追求には限界がないのであって、それと同様に、この貨殖術にとってもその目標の限界はなく、その目標は絶対的な致富である。家政術は、貨殖術とは違って、ある限界をもっている。……前者は、貨幣そのものとは違うものを目的とし、他方は貨幣の増殖を目的とする。……互いに重なりあう面をもつこの二つの形態の混同は、ある人々に、無限に貨幣を保持し増殖することが家政術の最終目的だと考えさせている。」(アリストテレス『政治学』、……)
 【P200】この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。彼の一身、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通の客観的内容──価値の増殖──が彼の主観的目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識を与えられた資本として、機能するのである。だから、使用価値はけっして資本家の直接的目的として取り扱われるべきものではない(*7)。個々の利得もまたそうではなく、ただ利得することの無休の運動だけがそうなのである(*8)。この絶対的な致富衝動、この熱情的な価値追求(*9)は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は気の違った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者なのである。価値の無休の増殖、これを貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすることによって(*10)追求するのであるが、もっと利口な資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げこむことによって、それをなしとげるのである(*10a)。
 (*7)「商品(ここでは使用価値の意味でのそれ)は取引を営む資本家の最終目的ではない。……貨幣こそは彼の最終目的である。」(T・チャーマズ『経済学について』、…1832年…)
 (*8)「商人は、すでに得た利益を軽視しはしないにしても、彼の目はつねに将来の利得に向けられているのである。」(A・ジェノヴェーシ『市民経済学講義』、1765年……)
 (*9)「利得を求める押さえきれない熱情、金にたいする呪われた渇望は、つねに資本家を規定する。」(マカロック『経済学原理』…1830年…)もちろん、この見解は、マカロック自身やその同類が、理論的困惑に陥ったとき、たとえば過剰生産を論ずるにさいして、同じ資本家を一個の善良な市民にしてしまうことを妨げるものではない。そして、この善良な市民なるものは、ただ使用価値だけを問題にし、しかも長靴や帽子や卵や綿布などまったくありふれた種類の使用価値にたいしてまったく狼のような貪欲を示すのである。
 (*10)[救う]は、貨幣蓄蔵を表わすギリシャ人の特徴的な表現の一つである。同様に〈英語の救う〉にも、救うことと貯えることという二つの意味がある。
 【P201】(*10a)「無限なものを、諸物は前進ではもっていないが、循環ではもっている。」(ガリアーニ『貨幣について』、……)
 諸商品の価値が単純な流通のなかでとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。これに反して、流通G─W─Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである(*11)。価値は、この運動のなかで消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移ってゆき、そのようにして、一つの自動的な主体に転化する。自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとって行く特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である(*12)。しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分自身を突き放し、自分自身を増殖するのである。なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘な性質を受け取った。それは、生きている仔を生むか、または少なくとも金の卵を生むのである。
 (*11)「資本をなしているものは、素材ではなく、この素材の価値である。」(J・B・セー『経済学教科書』、…1817年…)
 (*12)「生産的目的のために使用される通貨(!)は資本である。」マクラウド『銀行業の理論と実際』…1855年…) 「資本は商品である。」(ジェームズ・ミル『経済学綱要』、…1821年…
 このような過程のなかで価値は貨幣形態と商品形態とを取ったり捨てたりしながらしかもこの変換のなかで自分【P202】を維持し自分を拡大するのであるが、このような過程の全面をおおう主体として価値はなによりもまず一つの独立な形態を必要とするのであって、この形態によって価値の自分自身との同一性が確認されなければならないのである。そして、このような形態を、価値はただ貨幣においてのみもっているのである。それだからこそ、貨幣は、どの価値増殖過程でもその出発点と終点とをなしているのである。それは100ポンド・スターリングだった、それは今では110ポンドである、等々。しかし、貨幣そのものはここではただ価値の一つの形態として認められるだけである。というのは、価値はその形態を二つもっているからである。商品形態を取ることなしには、貨幣は資本にはならない。だから、貨幣はここでは貨幣蓄蔵の場合のように商品にたいして対抗的な態度はとらないのである。資本家は、すべての商品が、たとえそれがどんなにみすぼらしく見えようと、どんなにいやな臭いがしようとも、内心と真実とにおいては貨幣であり、内的に割礼をうけたユダヤ人であり、しかも貨幣をより多くの貨幣にするための奇跡を行なう手段であるということを知っているのである。
 単純な流通では、商品の価値は、せいぜい商品の使用価値に対立して貨幣という独立の形態を受け取るだけであるが、その価値がここでは、突然、過程を進行しつつある、自分自身で運動する実体として現われるのであって、この実体にとっては商品や貨幣は両方ともただの形態でしかないのである。だが、それだけではない。いまや、価値は、諸商品の関係を表わしているのではなく、いわば自分自身にたいする私的な関係にはいるのである。それは、原価値としての自分を剰余価値としての自分自身から区別する。つまり父なる神としての自分を子なる神としての自分自身から区別するのであるが、父も子も同じ年なのであり、しかも、じつは両者は一身なのである。なぜならば、ただ10ポンド・スターリングという剰余価値によってのみ、前貸しした100ポンドは資本になるのであって、それが資本になるやいなや、すなわち子が生まれて子によって父が生まれるやいなや、両者の区別は再び消えてしまって、両者は一つのもの、110ポンドであるからである。
 【P203】つまり、価値は、課程を進みつつある価値、過程を進みつつある貨幣になるのであり、そしてこのようなものとして資本になるのである。それは、流通から出てきて、再び流通にはいって行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくるのであり、そしてこの同じ循環を絶えず繰り返してまた新しく始めるのである(*13)G─G′、貨幣を生む貨幣、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である。
 (*13)「資本……永久的な、何倍にもなる価値。」(シスモンディ『新経済学原理』…1819年…)
 売るための買うこと、または、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G─W─G′は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である。買いと売りとの中間で、すなわち流通部面の外で、行なわれるかもしれない行為は、この運動形態を少しも変えるものではない。最後に、利子生み資本では、流通G─W─G′は、短縮されて、媒介のないその結果として、いわば簡潔体で、G─G′として、より多くの貨幣に等しい貨幣、それ自身よりも大きい価値として、現われる。
 要するに、実際に、G─W─G′は、直接に流通部面に現われているとおりの資本の一般的な定式なのである。
 第2節 一般的定式の矛盾
 貨幣が繭を破って資本に成長する場合の流通形態は、商品や価値や貨幣や流通そのものの性質についての以前に【P204】展開されたすべての法則に矛盾している。この流通形態を単純な商品流通から区別するものは、同じ二つの反対の過程である売りと買いとの順序が逆になっていることである。では、どうして、このような純粋に形態的な相違がこれらの過程の性質を手品のように早変わりさせるのだろうか?
 それだけではない。このような逆転が存在するのは、互いに取引する3人の取引仲間のうちのただ一人だけにとってのことである。資本家としては私は商品をAから買ってそれをまたBに売るのであるが、ただの商品所持者としては、商品をBに売って次に商品をAから買うのである。。取引仲間のAとBとにとってはこのような相違は存在しない。彼らはただ商品の買い手かまたは売り手として姿を現わすだけである。私自身も、彼らにたいしてはそのつどただの貨幣所持者または商品所持者として、買い手または売り手として、相対するのであり、しかも、私は、どちらの順序でも、一方の人にはただ買い手として、他方の人にはただ売り手として、一方にはただ貨幣として、他方にはただ商品として、相対するだけであって、どちらの人にも資本または資本家として相対するのではない。すなわち、なにか貨幣や商品以上のものとか、貨幣や商品の作用以外の作用をすることができるようなものとかの代表者として相対するのではない。私にとっては、Aからの買いとBへの売りとは、一つの順序をなしている。しかし、この二つの行為の関連はただ私にとって存在するだけである。Aは私とBとの取引にはかかわりがないし、Bは私とAとの取引にはかかわりがない。もし私が彼らに向かって、順序の逆転によって私が立てる特別な功績を説明しようとでもすれば、彼らは私に向かって、私が順序そのものをまちがえているのだということ、この取引全体が買いで始まって売りで終わったのではなく逆に売りで始まって買いで終わったのだということを証明するであろう。実際、私の第一の行為である買いはAの立場からは売りだったのであり、私の第二の行為である売りはBの立場からは買いだったのである。これだけでは満足しないで、AとBは、この順序全体がよけいなものでごまかしだったのだ、と言うであろう。Aはその商品を直接にBに売るであろうし、Bはそれを直接にAから買うであ【P205】ろう。そうすれば、取引全体が普通の商品流通の一つの一面的な行為に縮まって、Aの立場からは単なる売り、Bの立場からは単なる買いになる。だから、われわれは順序の逆転によっては単純な商品流通の部面から抜け出てはいないのであって、むしろ、われわれは、流通にはいってくる価値の増殖したがってまた剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見きわめなければならないのである。
 流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合をとってみよう。二人の商品所持者が互いに商品を買い合って相互の貨幣請求権の差額を支払い日に決済するという場合は、つねにそれである。貨幣はこの場合には計算貨幣として商品の価値をその価格で表現するのに役だってはいるが、商品そのものに物として相対してはいない。使用価値に関するかぎりでは、交換者は両方とも利益を得ることができるということは、明らかである。両方とも、自分にとって使用価値としては無用な物を手放して、自分が使用するために必要な商品を手に入れるのである。しかも、これだけが唯一の利益ではないであろう。ぶどう酒を売って穀物を買うAは、おそらく、穀作農民Bが同じ労働時間で生産することができるよりも多くのぶどう酒を生産するであろう。また、穀作農民Bは、同じ時間でぶどう栽培者Aが生産することができるよりも多くの穀物を生産するであろう。だから、この二人のそれぞれが、交換なしで、ぶどう酒や穀物を自分自身で生産しなければならないような場合に比べれば、同じ交換価値とひきかえに、Aはより多くの穀物を、Bはより多くのぶどう酒を手に入れるのである。だから、使用価値に関しては、「交換は両方が得をする取引である(*14)」とも言えるのである。交換価値のほうはそうではない。
 「ぶどう酒はたくさんもっているが穀物はもっていない一人の男が、穀物はたくさんもっているがぶどう酒はもっていない一人の男と取引をして、彼らのあいだで50の価値の小麦がぶどう酒での50の価値と交換されるとする。この交換は、一方にとっても他方にとっても、少しも交換価値の増殖ではない。なぜならば、彼らはどちらも、この操作によって手に入れた価値と等しい価値をすでに交換以前にもっていたのだからである(*15)。」
 【P206】貨幣が流通手段として商品と商品とのあいだにはいり、買いと売りという行為が感覚的に分かれても、事態にはなんの変わりもない(*16)。商品の価値<の大きさ>は、商品が流通にはいる前に、その価格に表わされているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないのである(*17)。
 (*14)「交換とは不思議な取引であって、そこでは契約当事者が両方ともつねに(!)得をするのである。」(デステュット・ド・トラシ『意思および意思作用論』…1826年…)同じ著書は、『経済学論』としても刊行された。
 (*15)…ラ・リヴィエール『自然的および本質的秩序』……。
 (*16)「これら二つの価値の一方が貨幣であるか、それとも両方とも普通の商品であるかは、それ自体まったくどうでもよいのである。」(…ラ・リヴィエール、同前)
 (*17)「契約当事者たちが価値を決定するのではない。それは契約に先立って確定されているのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』……)
 抽象的に考察すれば、すなわち、単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこない諸事情を無視すれば、ある使用価値が他のある使用価値と取り替えられるということのほかに、単純な商品流通のなかで行なわれるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもない。同じ価値が、すなわち同じ量の対象化された社会的労働が、同じ商品所持者の手のなかに、最初は彼の商品の姿で、次にはこの商品が転化する貨幣の姿で、最後にはこの貨幣が再転化する商品の姿で、とどまっている。この形態変換は少しも価値量の変化を含んではいない。そして商品の価値そのものがこの過程で経験する変転は、その貨幣形態の変転に限られる。この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格として、次にはある貨幣額といってもすでに価格に表現されていた貨幣額として、最後にはある等価商品の価格として存在する。この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものでないことは、ちょうど5ポンド銀行券をソヴリン貨や半ソヴリン貨やシリング貨と両替する場合のようなものである。こうして、商【P207】品の流通がただ商品の価値の形態変換だけをひき起こすかぎりでは、商品の流通は、もし現象が純粋に進行するならば、等価物どうしの交換をひき起こすのである。それだから、価値がなんであるかには感づいてもいない俗流経済学でさえも、それなりの流儀で現象を純粋に考察しようとするときには、いつでも、需要と供給とが一致するということ、すなわちおよそそれらの作用がなくなるということを前提しているのである。だから、使用価値に関しては交換者が両方とも得をすることがありうるとしても、両方が交換価値で得をすることはありえないのである。ここでは、むしろ、「平等のあるところに利得はない(*18)」ということになるのである。もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる(*19)。その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのである(*20)。
 (*18)(ガリアーニ『貨幣について』、……)
 (*19)「もしもなにか外的な事情が価格を下げるか上げるかするならば、交換は両当事者の一方にとって不利になる。その場合には平等は侵害されるが、しかし、この侵害は、あの原因によってひき起こされるのであって、交換によってひき起こされるのではない。」(ル・トローヌ『社会的利益について』……)
 (*20)「交換は、その性質上、ある価値とそれに等しい価値とのあいだに成立する対等の契約である。だから、それは富をなす手段ではない。というのは、受け取るのと同じだけを与えるのだからである。」(ル・トローヌ同前、……)
 それだから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようとする試みの背後には、たいていは一つの取り違えが、つまり使用価値と交換価値との混同が、隠れているのである。たとえばコンディヤックの場合には次のようにである。
 「商品交換では等しい価値が等しい価値と交換されるということは、まちがいである。逆である。二人の契約【P208】当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである。……もしも実際につねに等しい価値どうしが交換されるのならば、どの契約当事者にとっても利益は得られないであろう。だが、両方とも得をしているか、またはとにかく得をするはずなのである。なぜか? 諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望にたいするそれらの物の関係にある。一方にとってより多く必要なものは、他方にとってはより少なく必要なのであり、またその逆である。……われわれが自分たちの消費に欠くことのできないものを売りに出すということは前提にならない。われわれは、自分に必要なものを手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多く必要なものとひきかえにより少なく必要なものを与えようとする。……交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった。……しかし、もう一つ別な考慮が加えられなければならない。われわれは、両方とも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということが問題になる(*21)。」
 これでもわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行なわれる社会とすりかえて、生産者が自分の生活手段を自分で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのである(*22)。それにもかかわらず、コンディヤックの議論はしばしば近代の経済学者たちによっても繰り返されている。ことに、商品交換の発展した姿である商業を剰余価値を生産するものとして説明しようとする場合がそれである。たとえば、次のように言う。
 「商業は生産物に価値をつけ加える。なぜならば、同じ生産物でも、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつことになるからである。したがって、商業は文字どおりに生産行為とみなされなければならない(*25)。」
 【P209】しかし、人々は商品に二重に、一度はその使用価値に、もう一度はその価値に、支払うのではない。また、もし商品の使用価値が売り手にとってよりも買い手にとってのほうがもっと有用だとすれば、その貨幣形態は買い手にとってよりも売り手にとってのほうがもっと有用である。そうでなければ、売り手がそれを売るはずがあろうか? また、それと同じように、買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおり一つの「生産行為」を行なうのだ、とも言えるであろう。
 (*21)コンディヤック『商業と政府』(1776年)……。
 (*22)それだから、ル・トローヌは彼の友人コンディヤックに次のように非常に正しく答えているのである。「発達した社会にはおよそ余分なものというものはないのである。」同時に彼は次のような皮肉でコンディヤックをからかっている。「もし交換当事者の両方が、同じだけより少ないものと引き換えに同じだけより多くのものを受け取るとすれば、彼らは両方とも同じだけを受け取るのだ。」コンディヤックは、交換価値の性質には少しも感づいていないからこそ、教授ヴィルエルム・ロッシャー氏にとっては氏自身の小児的概念の似合いの保証人なのである。ロッシャー氏の『国民経済学原理』……を見よ。
 (*23)S・P・ニューマン『経済学綱要』…1835年…。
 もし交換価値の等しい商品どうしが、または商品と貨幣とが、つまり等価物と等価物とが交換されるとすれば、明らかにだれも自分が流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出しはしない。そうすれば、剰余価値の形成は行なわれない。しかし、その純粋な形態では、商品の流通過程は等価物どうしの交換を条件とする。とはいえ、ものごとは現実には純粋には行なわれない<だから抽象の意義>。そこで、次に互いに等価でないものどうしの交換を想定してみよう。
 とにかく、商品市場ではただ商品所持者が商品所持者に相対するだけであり、これらの人々が互いに及ぼし合う力はただ彼らの商品の力だけである。いろいろな商品の素材的な相違は、交換の素材的な動機であり商品所持者【P210】たちを互いに相手に依存させる。というのは、彼らのうちだれも自分自身の欲望の対象はもっていないで、めいめいが他人の欲望の対象をもっているのだからである。このような、諸商品の使用価値の素材的な相違のほかには、諸商品のあいだにはもう一つの区別があるだけである。すなわち商品の現物形態と商品の転化した形態との区別、商品と貨幣との区別である。したがって、商品所持者たちは、ただ、一方は売り手すなわち商品の所持者として、他方は買い手すなわち貨幣の所持者として、区別されるだけである。
 そこで、なにかわけのわからない特権によって、売り手には、商品をその価値よりも高く売ること、たとえばその価値が100ならば110で、つまり名目上10%の値上げをして売ることが許されると仮定しよう。つまり、売り手は10という剰余価値を収めるわけである。しかし、彼は売り手だったあとでは買い手になる。こんどは第三の商品所持者が売り手として彼に出会い、この売り手もまた商品を10%高く売る特権をもっている。かの男は、売り手としては10の得をしたが、次に買い手としては10を損することになる(*24)。成り行きの全体は実際には次のようなことに帰着する。すべての商品所持者が互いに自分の商品を価値よりも10%高く売り合うので、それは、彼らが商品を価値どおりに売ったのとまったく同じことである。このような、諸商品の一般的な名目的な値上げは、ちょうど、商品価値がたとえば金の代わりに銀で評価されるような場合と同じ結果を生みだす。諸商品の貨幣名、すなわち価格は膨張するであろうが、諸商品の価値関係は変わらないであろう。
 (*24)「生産物の名目的価値の引き上げによっては……売り手は富を増すことにはならない。……というのは、彼らが売り手としてもうけるのとちょうど同じだけを、彼らは買い手の資格で出してしまうのだからである。」(〔ジョン・グレー〕『諸国民の富の主要原理』…1797年…)
 今度は、逆に、商品をその価値よりも安く買うことが買い手の特権だと仮定してみよう。ここでは、買い手が再び売り手になるということを思い出す必要さえもない。彼は買い手になる前にすでに売り手だったのである。彼【P211】は買い手として10%もうける前に、売り手としてすでに10%損をしていたのである(*25)。いっさいはやはり元のままである。
 (*25)「もし24リーブルの価値を表わす或る分量の生産物を18リーブルで売らざるをえないとすれば、同じ金額を買うために使えば、やはり24リーブルで得られるのと同じだけが18リーブルで得られるであろう。」(ル・トローヌ『社会的利益について』……)
 要するに、剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売ると言うことによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うということによっても、説明することはできないのである(*26)。
 (*26)「だから、どの売り手も、つねに自分の商品を値上げすることができるためには、自分もつねに他の売り手の商品により高く支払うことを承認せざるをえない。そして、同じ理由によって、どの消費者もつねによりやすく買い入れることができるためには、自分の売る商品も同様に値下げすることに同意せざるをえない。」(…ラ・リヴィエール『自然的および本質的秩序』……)
 そこで、問題外の諸関係をこっそりもちこんで、たとえばトレンズ大佐などといっしょに次のようなことを言ってみても、問題は少しも簡単にはならない。
 「有効需要とは、直接的交換によってであろうと間接的交換によってであろうと、商品と引き換えに、資本のすべての成分のうちの、その商品の生産に費やされるよりもいくらか大きい部分を与える、という消費者の能力と性向(!)とにある(*27)。」
 流通のなかでは生産者と消費者とはただ売り手と買い手として相対するだけである。生産者にとっての剰余価値は、消費者が商品に価値よりも高く支払うということから生ずる、と主張することは、商品所持者は売り手として【P212】高すぎる価格で売る特権をもっているという簡単な命題に仮面をつけるだけのことでしかない。売り手はその商品を自分で生産したか、またはその商品の生産者を代表しているか、どちらかである。だから、ここで相対するのは、生産者と生産者とである。彼らを区別するものは、一方は買い、他方は売る、ということである。商品所持者は生産者という名では商品をその価値よりも高く売り、消費者という名では商品に高すぎる価格を支払うのだ、と言ってみても、それは、われわれを一歩も前進させるものではない(*28)。
 (*27)R・トレンズ『富の生産に関する一論』…1821年…)
 (*28)「利潤は消費者によって支払われるという考えは、たしかにまったくおかしい。消費者とはだれのことか?」(G・ラムジ『富の分配に関する一論』…1836年…)
 それゆえ、剰余価値は名目上の値上げから生ずるとか、商品を高すぎる価格で売るという売り手の特権から生ずるとかいう幻想を徹底的に主張する人々は、売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級を想定しているのである。このような階級の存在は、われわれがこれまでに到達した立場すなわち単純流通の立場からはまだ説明のできないものである。しかし、ここでは先回りしてみることにしよう。このような階級が絶えずものを買うための貨幣は、交換なしで、無償で、任意の権原や強力原にもとづいて、商品所持者たち自身から絶えずこの階級に流れてこなければならない。この階級に商品を価値よりも高く売るということは、ただで引き渡した貨幣の一部を再びだまして取りもどすというだけのことである(*29)。たとえば、小アジアの諸都市は年々の貨幣貢租を古代ローマに支払った。この貨幣でローマはそれらの都市から商品を買い、しかもそれを高すぎる価格で買った。小アジア人はローマ人をだました。というのは、彼らは商業という方法で征服者から貢租の一部分を再びだまし取ったからである。しかし、それにもかかわらず、やはり小アジア人はだまさ【P213】れた人々であった。彼らの商品の代価は、相変わらず彼ら自身の貨幣で彼らに支払われたのである。こんなことはけっして致富または剰余価値形成の方法ではないのである。
 (*29)ある人にとって需要がないとき、マルサス氏はこの人の品物を買わせるために誰かほかの人に支払ってやることを、この人にすすめるのか?」リカード派の一人は憤慨してマルサスにこう尋ねるのであるが、このマルサスは、その弟子の坊主チャーマズと同じように、単なる買い手または消費者の階級を経済的に賛美しているのである。『近時マルサス氏の主張する……』…1821年…を見よ。
 そこで、われわれは、売り手は買い手であり買い手はまた売り手であるという商品交換の限界のなかにとどまることにしよう。われわれの当惑は、ことによると、われわれが登場人物を人格化された範疇としてとらえているだけで、個人としてとらえてはいないということからきているのかもしれない。
 商品所持者Aは非常にずるい男で、仲間のBやCをだますかもしれないが、BやCのほうはどうしても仕返しができないということにしよう。Aは40ポンド・スターリングという価値のあるぶどう酒をBに売って、それと引き換えに50ポンド・スターリングという価値のある穀物を手に入れるとしよう。Aは彼の40ポンドを50ポンドに転化させた。より少ない貨幣をより多くの貨幣にし、彼の商品を資本に転化させた。もう少し詳しく見てみよう。交換が行なわれる前には、Aの手には40ポンド・スターリングのぶどう酒があり、Bの手には50ポンド・スターリングの穀物があって、総価値は90ポンド・スターリングだった。交換のあとでも、総価値は同じく90ポンド・スターリングである。流通する価値は少しも大きくなっていないが、AとBとへのその配分は変わっている。一方で剰余価値として現われるものは他方では不足価値であり、一方でプラスとして現われるものは他方ではマイナスとして現われる。同じ変化は、Aが交換という仮装的な形態によらないでBから直接に10ポンドを盗んだとしても、起きたであろう。流通する価値の総額をその分配の変化によってふやすことはできないということは【P214】明らかであって、それは、ちょうど、あるユダヤ人がアン女王時代の1ファージング貨を1ギニーで売っても、それで一国の貴金属量をふやしたことにはならないようなものである。一国の資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできないのである(*30)
 (*30)デステュット・ド・トラシは、フランス学士院会員だったにもかかわらず──またおそらくそうだったからこそ──これとは反対の意見だった。彼は次のように言う。産業資本家たちは、「彼らがすべてのものをその生産にかかったよりも高く売る」ということによって、彼らの利潤をあげる。「では、だれに彼らは売るのか? まず第一に、互いに、である。」(『意思とその作用』)
 要するに、どんなに言いくるめようとしても、結局はやはり同じことなのである。等価物どうしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価物どうしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない(*31)。流通または商品交換は価値を創造しないのである(*32)
 (*31)「二つの等しい価値のあいだに行われる交換は、社会にある価値の量を増やしも減らしもしない。二つの等しくない価値の交換も……やはり社会の価値の総額を少しも変えはしない。といっても、それは、一方の財産から取り上げるものを他方の財産に加えるのではあるが。」(J・B・セー『経済学概論』……)セーは、もちろんこの命題の帰結がどうなるかにはおかまいなしに、これをほとんどその言葉通りに重農学派から借用している。その当時は世に知られていなかった重農学派の著作を彼が自分自身の「価値」の増殖のために利用したやり方は、次の例によってもわかるであろう。セー氏の「もっとも有名な」命題、「生産物は生産物でしか買えない」(同前……)は、重農学派の原文では、「生産物は生産物でしか支払われない」(ル・トローヌ『社会的利益について』……)となっている。
 (*32)「交換は生産物にどんな価値も与えない。」(F・ウェーランド『経済学綱要』…1843年…)
 こういうことからも、資本の基本形態、すなわち近代社会の経済組織を規定するものとしての資本の形態をわれ【P215】われが分析するにあたって、なぜ資本の普通に知られているいわば大洪水以前的な形態である商業資本と高利資本とをさしあたりはまったく考慮にいれないでおくのか、がわかるであろう。
 本来の商業資本では、形態G─W─G′、より高く売るために買う、が最も純粋に現われている。他方、商業資本の全運動は流通部面のなかで行なわれる。しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を流通そのものから説明するのは不可能なのだから、商業資本は、等価物どうしが交換されるようになれば(*33)、不可能なものとして現われ、したがって、ただ、買う商品生産者と売る商品生産者とのあいだに寄生的に割りこむ商人によってこれらの生産者が両方ともだまし取られるということからのみ導き出されるものとして現われる。この意味で、フランクリンは、「戦争は略奪であり、商業は詐取である(*34)」と言うのである。商業資本の価値増殖が単なる商品生産者の詐取からではなく説明されるべきだとすれば、そのためには長い列の中間項が必要なのであるが、それは、商品流通とその単純な諸契機とがわれわれの唯一の前提となっているここでは、まだまったく欠けているのである。
 (*33)「不変な等価物の支配のもとでは商業は不可能であろう。」(G・オブダイク『経済学に関する一論』(…1851年…) 「真実価値と交換価値との相違の根底には一つの事実がある──すなわち、あるものの価値は、商業でそのものと引き換えに与えられるいわゆる等価とは違うものだということ、すなわちこの等価は等価ではないと言うことがそれである。」(F・エンゲルス『国民経済学批判大綱』……)
 (*34)ベンジャミン・フランクリン『著作集』……。
 商業資本にあてはまることは、高利資本にはもっとよくあてはまる。商業資本では、その両極、すなわち市場に投ぜられた貨幣と、市場から引きあげられる増殖された貨幣とは、少なくとも買いと売りとによって、流通の運動【P216】によって、媒介されている。高利資本では、形態G─W─G′が、無媒介の両極G─G′に、より多くの貨幣と交換される貨幣に、貨幣の性質と矛盾しておりしたがって商品交換の立場からは説明することのできない形態に、短縮されている。それだからアリストテレスも次のように言うのである。
 「貨殖術は二重のものであって、一方は商業に属し、他方は家政術に属している。後者は必要のもので称賛に値するが、前者は流通にもとづいていて、当然非難される(というのは、それは自然にもとづいていないで相互の詐取にもとづいているからである)。それゆえ、高利が憎まれるのはまったく当然である。というのは、ここでは貨幣そのものが営利の源泉であって、それが発明された目的のために用いられるのではないからである。じっさい、貨幣は商品交換のために生じたのに、利子は貨幣をより多くの貨幣にするのである。その名称」(利子および生まれたもの)「もここからきている。なぜならば、生まれたものは、生んだものに似ているからである。しかし、利子は貨幣から生まれた貨幣であり、したがって、すべての営利部門のうちでこれが最も反自然的なものである(*35)。」
 (*35)アリストテレス『政治学』……。
 商業資本と同様に利子生み資本もわれわれの研究の途上で派生的な形態として見いだされるであろう。また同時に、なぜそれらが歴史的に資本の近代的な基本形態よりもさきに現われるかということもわかるであろう。
 これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならない(*36)。しかし、剰余価値は流通からでなければほかのどこから発生することができるだろうか? 流通は、商品所持者たちのすべての相互関係[第3、第4版では、商品関係]の総計である。流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけである。その商品の価値についていえば、関係は、その商品が彼自身の労働の一定の社会的法則に従って計られた量を含んでい【P217】るということに限られている。この労働の量は、彼の商品の価値量に表現される。そして、価値量は計算貨幣で表わされるのだから、かの労働量は、たとえば10ポンド・スターリングというような価格に表現される。しかし、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を越えるある超過分とで表わされるのではない。すなわち、同時に11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で表わされるのではない。商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってであり、たとえば革で長靴をつくることによってである。同じ素材外まではより多くの価値をもつというのは、それがより大きな労働量を含んでいるからである。それゆえ、長靴は革よりも多くの価値をもっているが、しかし革の価値は元のままである。革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身につけたのではない。つまり、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである。
 (*36)「市場の通常の状況のもとでは、利潤は交換によっては得られない。もしそれがこの取引より前になかったとすれば、そのあとにもありえないであろう。」(ラムジ『富の分配に関する一論』……)
 つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。
 こうして、二重の結果が生じた。
 貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる(*37)。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品を【P218】その価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げいれたよりも多くの価値を引きださなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!
 (*37)以上の説明によって、読者は、ここでは、ただ、資本形成は商品価格が商品価値に等しい場合にも可能でなければならないということが言われているだけだということを理解するであろう。資本形成は、商品価値からの商品価格の偏差によって説明することはできない。価格が価値から現実にずれているならば、まず価格を価値に還元して、すなわちこのような状態を偶然なものとして無視して、商品交換を基礎とする資本形成の現象を純粋な姿で眼前におき、その考察にさいしては本来の過程には関係のない攪乱的な付随的な事情に惑わされないようにしなければならない。なお、言うまでもなく、この還元はけっして単なる科学的な手続きではない。市場価格の絶え間ない振動、その上昇と低下は、互いに償い合い、相殺されて、おのずからその内的基準としての平均価格に還元されるのである。この基準は、たとえば、いくらか長い期間にわたるすべての企業で商人や産業家の導きの星となる。つまり、彼は、いくらか長い期間を全体として見れば、商品は現実にはその平均価格よりも安くも高くもなくその平均価格で売られるということを知っているのである。だから、かりに、利害関係を離れた考え方こそがおよそ彼の関心事なのだとすれば、彼は自分にたいして資本形成の問題を次のように提起しなければならないであろう。平均価格によって、すなわち結局は商品の価値によって、価格が規制される場合に、どのようにして資本は発生することができるのか? と。私が「結局は」と言うのは、平均価格はA・スミスやリカードなどが考えるように直接に商品の価値量と一致するものではないからである。

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