広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより21年2月用

「読む会」だより(21年2月用)文責IZ
(ご連絡)連絡が遅れましたが、2月8日より公民館に利用が可能となりましたので、21日(日)より「読む会」を再開しました。

(はじめに)チューターにはMMT理論(現代貨幣理論)を直接に取り上げる力量はありませんが、貨幣は商品ではなく、たんなる“計算単位”にすぎないというMMT派の主張を批判的に検討してみたいと思います。今回は、第一に、計算貨幣としての貨幣が単なる単位に見えるのは、そこでは貨幣の価値尺度機能が価格の度量基準に転化しているからであるということ、そして第二に、現実の貨幣が出動するのは、観念的な価格を実現する場合すなわち現物の価値物として出動しなければならない場合であるということの2点について取り上げたいと思います。(以下、引用の訳文、その他は前回同様です。)
(1.計算貨幣としての貨幣の機能は、単なる計算単位のように見える)
計算貨幣がどのようなものであるかは、マルクスが紹介・批評しているガルニエの次の文章が分かりやすいと思います。

・【122】「売り手による商品の値ぶみ、買い手による付け値、もろもろの計算、債権債務、利子賃料、棚卸し、等々、要するに、支払いという物質的な行為に伴いまたそれに先行する一切のものが、計算貨幣で表現されなければならない。現実の貨幣は、支払いを実現し、勘定を決済(清算)するためにのみ、介在するのである。
私が24リーブル12スーを支払わなければならないときには、計算貨幣は1種類の単位<リーブル>24個ともう一つの種類の単位<スー>12個とを提供するが、私が現実に支払うのは2個の物質的な貨幣片、すなわち24リーブルに値する1個の金貨と12スーに値する1個の銀貨であろう。@
現実の貨幣の総量は、流通の必要のうちに必然的な限界をもっている。計算貨幣は観念的な尺度であり、この尺度は表象以外には何の限界ももたない。@
交換価値の観点からだけ見る場合には、どんな種類の富でも、したがって国富、国家や個人の所得でも、これらを表現するために[計算貨幣が]用いられる。計算上の諸価値は、それらがどんな形態のもとに存在しようとも、同じ形態によって整理されてしまう。それだから、多量の消費物資のうちで、思考によって何回も貨幣に転化されたことのないような品目は、ただの一つも存在しない。他方、これらの[計算貨幣の]量と比較して実際の貨幣の総額は、たかだか1/10なのである。」(ガルニエ)(最後の比率はまずい。数百万分の一というほうが正しいだろう。いずれにせよ、これはまったく測定不可能なのだ。)

このように、計算貨幣としての貨幣は、頭のなかでの単なる計算単位のように見えます。
マルクスもまた計算貨幣について、例えば『経済学批判』において次のように語っています。

・【123】「頭のなかや、紙のうえや、言葉のうえでの、商品の計算貨幣への転化は、何らかの種類の富が交換価値の観点から固定されるときにはいつでも行われる。この転化のためには、金という材料が必要であるが、しかし表象された金として必要であるにすぎない。1000梱の綿花の価値を一定数のオンス<重量>の金で評価し、そしてこの一定数のオンスそのものをさらにオンスの<下位の重量>計算名で、つまりポンド、シリング、ペンスで表現するためには、現実の金の一片も必要ではない。」(『経済学批判』全集版、P56)


(2.計算貨幣としての貨幣が単なる単位に見えるのは、そこでは貨幣の価値尺度機能が価格の度量基準に転化しているからにすぎない)
なぜこのように計算貨幣としての貨幣は、単なる単位のように見えるのでしょうか。マルクスは『資本論』で次のように語っています。

・【98】「価格が規定されている商品は、すべて、a量の商品A=x量の金、b量の商品B=z量の金、c量の商品C=y量の金 等々という形態で現れる。ここでは、a、b、cはそれぞれ、商品種類A、B、Cの一定量を表わしており、x、y、zはそれぞれ、金の一定量を表わしている。それゆえ、商品価値はさまざまな大きさの表象された金分量に、つまり商品体が全く種々雑多であるにもかかわらず、同名の大きさに、すなわち金の大きさに、転化されているのである。@
このようなさまざまな金分量として、諸商品の価値は互いに比較され、計られるのであって、技術上、これらの金分量を、それらの度量単位としてのある固定された分量の金に関連させる必要が発生する。@
この度量単位そのものは、さらにいくつもの可除部分に分割されることによって、度量基準にまで発展させられていく。
金や銀や銅は、それらが貨幣になる以前に、すでにこのような<自然的な>度量基準をそれらの金属重量においてもっている。例えば、1重量ポンドは度量単位として役立ち、一方ではこれがさらに分割されてオンス、等々となり、他方では合計されてツェントナー、等々となるのである。それだから、どんな金属流通でも、前からあった、重量の度量基準の名称が、また貨幣の度量基準または価格の度量基準の最初の名称にもなっているのである。
価値の尺度として貨幣が果たす機能と価格の度量基準としてそれが果たす機能とは、二つの全く異なる機能である。@
貨幣が価値の尺度であるのは、人間的労働の社会的化身としてであり、価格の度量基準であるのは、固定された金属重量としてである。@
貨幣は、価値尺度としては、種々雑多な諸商品の価値を価格に、すなわち表象された金分量に転化するのに役立ち、価格の度量基準としては、この<転化された>金分量を計る。@
価値の尺度では価値としての諸商品が自らを計るのであるが、これに対して、価格の度量基準は、いろいろな金分量をある一つの金分量で計る<比較する>のであって、ある金分量の価値を他の金分量の重量で計るのではない。@
価格の度量基準のためには、一定の金重量が度量単位として固定されなければならない。この場合には、すべての他の同名の諸々の大きさの度量規定の場合と同様に、度量比率の固定性が決定的である。したがって、価格の度量基準は、同一の金部分が度量単位として役立つことが不変的であればあるほど、それだけよくその機能を果たすのである。@
価値<すなわち対象化された労働時間>の尺度として金が役立つことができるのは、ただ、金そのものが<諸商品と同じく>労働生産物であるから、つまり可能性からみて一つの可変的な価値であるからこそである。」(全集版、P129~)
・【124】「したがって価格、すなわち商品の価値が観念的に転化されている金分量<オンス等>は、いまでは金の度量基準の貨幣名または法律上有効な計算名<ポンド・スターリング、シリング等>で表現される。つまりイギリスでは、1クォーターの小麦は1オンスの金に等しい、と言う場合であれば、そのかわりに、それは3ポンド・スターリング17シリング10・1/2ペンスに等しいと言うであろう。このように諸商品は、それらの貨幣名で、それらがどれだけに値するかを互いに語り合うのであり、また貨幣は、ある物象を価値として、したがってまた貨幣形態で、固定しようというときにはいつでも計算貨幣として役立つのである。」(『資本論』全集版、P133)

要するに、諸商品が相互に──その現物である使用価値の形態から区別された──価値として比較しあい、関係しあうためには、まずは商品各々が自らを価値として、すなわち一般的等価物である金の大きさとして他商品と同名同質なものとして表現しなければならない。そしてこのためには、あらかじめ金が貨幣として一般的等価物として認められていなければならない。そしてその上で、諸商品は全てがある一定量の金として、すなわちある価格をもつものとして相互に比較・関連しあう。
ここで注意を要することは、このように諸商品が価格として、すなわち種々の金量としてその大きさを比較する場合には、貨幣・金は価値の尺度である対象化された人間労働としてではなくて、商品相互の価格すなわち観念的に等置された金量を比較するための単位・基準として、すなわち価格の度量基準へと転化されており、すなわち計算貨幣になっている、ということでしょう。そして、価格が諸商品と等置されている観念的な種々の金量であるのと同様に、この価格の度量基準である計算貨幣もまた観念的な一定量の金として存在しているだけです。
計算貨幣としての機能においては、貨幣は、種々の商品の価格をなしている種々の金量を相互に比較するための基準=“単位”となる一定量の金として現れ、それを基準として相互の価値の大きさを価格の違い(同じ金の相異なる量)として比較しあうのです。しかしこうした諸商品の価値を価格として比較しあうという操作が可能となるのは、あらかじめ金が貨幣として、すなわち人間労働の物質化(一般的等価物)として認められているからにすぎない。そしてそのことが前提される限りで、貨幣は、商品の価格の度量基準として、つまり貨幣名として機能する、ということだと思われます。

『批判要綱』では前出のガルニエからの引用の直前で、マルクスは次のように述べています
・「尺度としての貨幣ならびに価格としての商品というこの当面の規定は、現実の貨幣と計算貨幣との区別によって、最も簡単に明示される。尺度としては貨幣はつねに計算貨幣として役立ち、また価格としては商品はつねに、ただ観念的にのみ貨幣に転化されている。
…<ガルニエの引用>…
つまり、最初に貨幣が交換価値を表現するのにたいして、いまや商品は、価格として、つまり観念的に措定され、頭のなかで実現された交換価値として、貨幣の一定額を、すなわち一定比率での貨幣を表現するのである。価格としては、さまざまな形態にあるすべての商品が貨幣の代表者であるが、他方、以前には貨幣が、自立した交換価値として、すべての商品の代表者であった。貨幣が現実に商品として措定されたのちに、商品は観念的に貨幣として措定されるのである。」

繰り返しになりますが、諸商品が諸価格としてつまり諸金量として関係しあうからこそ、貨幣は商品にたいしてその価格を比較するための度量単位として、すなわち計算貨幣として機能するだけです。これにたいして諸商品は、自らを価値として表現するために、まず等価物商品を価値物(人間労働の結晶)に還元することで、貨幣を商品価値の共通な尺度とするのです。価値(対象化された人間労働)を共通な貨幣に表わすことで、はじめて諸商品はその観念的な同質性がいわば担保されることになるのです。

(3.現実の貨幣が出動するのは、貨幣が観念的な価格を実現する場合、すなわち現物の価値物として商品に並列して出動しなければならない場合である)

例えば『資本論』の初版では「【95】価格の確定されている商品は<この意味は、『批判』の言葉を借りれば、「金が価値の尺度となり、交換価値が価格となった過程を前提すれば、」という意味です>二重の形態をもっている。すなわち実在的な形態と表象されたまたは観念的な形態である。その商品の現実の姿は、使用対象の姿、具体的な有用的労働の生産物の姿、たとえば鉄である。その価値姿態、すなわち、一定分量の同種の人間的労働の物質化としてのその現象形態は、その価格であり、ある分量の金である。」と言ったように述べられているように、商品はその現物である使用価値の形態と、それと区別される他商品と観念的に等置された価値の形態とを同時にもっています。
なぜ価格といった価値の形態が観念的な形態であるのかと言えば、それは諸商品は自然的な現物(使用価値)として関係しあうのではなくて、ただ、一定の社会関係の中で同種の人間労働の対象化としての関係をもつにすぎないからです。こうした一定の歴史的な社会関係は、諸個人の頭の中でのみ消し去ることができると思えるだけのものです。

(うまくまとまらず中途半端になってしまいました。いましばらく勘弁願います。)
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