広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより4月用(4月17日開催予定)

「読む会」だより(22年4月用)文責IZ

(3月の議論)
3月20日に行われた読む会では、新しいたよりが準備できなかったために、IZが前回ブログに挙げた「価値移転の意味と生産物の価値規定について」という文章を検討してもらいました。
質問としては、「マルクスは労働の質と量の問題についてどう考えていたのか」という質問が出ました。チューターは、例えば単純労働と複雑(熟練)労働の違いについて、マルクスは複雑労働は単純労働を数倍または数10倍にしたものだと言っています。これは、同じ社会的労働としての質から見れば、両者の違いは量的なものだと言っているのだと思われます。ここでは、商品に含まれる労働として、つまり社会的分業の一環としての労働として労働は見られているのであって、例えばピカソでなければ描けない絵といったようなものは、ここでは捨象あるいは対象外とされています。久留間の言ではないのですが、労働の質と量と言っても、分析の課題とする内容によって、その質を何ととらえるかは変わってくるのではないだろうか、と答えました。


(説明)第6章「不変資本と可変資本」の2回目

21年12月用の「たより」で、第6章の1回目として以下の(1)(2)について触れました。今回の(3)(4)は、しばらく間が空いたこともあり、前回の説明と若干整合しないところもあるかもしれませんが、ご了承ください。
(1.第6章の課題について)
(2.労働者は、労働を付け加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。生産手段(原料と労働手段)は、労働が付け加えられることによってその価値を生産物のなかに移転し、保存する。)


(3.労働(生きた労働=活動的な労働)は、生産物の価値形成(生産手段の生産的消費)において新価値を創造すると同時に旧価値を保存する。一方の新価値の創造を媒介するのは、新たな社会的生産物を生産する労働(生きた労働)の抽象的・一般的性格である。これに対して、旧価値の保存を媒介するのは、生産手段の使用価値を消費する労働の合目的的な有用的性格である。ここでは労働が、その材料となっている生産手段の使用価値を消費し消滅させてしまうために、生産手段の価値が、生産物の必要労働時間の一部分=成分として移転・“再現”する。)

前回の最後に引用は、生産的消費の問題にとって重要ですので、再度挙げておきます。
・「価値は、価値章表でのたんに象徴的なその表示を別にすれば、ある使用価値、ある物のうちにしか存在しない。(……)だから、使用価値がなくなってしまえば、価値もなくなってしまう。@
生産手段は、<消費されて>その使用価値を失うのと同時にその価値をも失うのではない。というのは、生産手段が労働過程を通ってその使用価値の元の姿を失うのは、実は、ただ生産物において別の使用価値の姿を得るためでしかないからである。@
しかし、価値<すなわち抽象的人間労働=社会的労働>にとっては、何らかの使用価値のうちに存在するということは重要であるが、どんな使用価値のうちに存在するかは、商品の変態が示しているように、どうでもよいのである。@
このことからも明らかなように、労働過程で価値が生産手段から生産物に移るのは、ただ、生産手段がその独立の<固有の>使用価値と一緒にその交換価値をも失う限りでのことである。生産手段は、ただ生産手段として<生産的に消費されて>失う価値を生産物に引き渡すだけである。
しかし、労働過程のいろいろな対象的要因は、この点ではそれぞれ事情を異にしている。」(全集版、P265)

まずここで言われているように、生産手段の“生産的消費”においては──その使用価値の消失と同時にその価値(必要労働時間)も消滅するのではなくて──、生きた労働にとっての材料・対象となる生産手段は、新たな「生産物において別の使用価値の姿を得るため」に、「その使用価値の元の姿を失う」にすぎません。言い換えれば、ここでは元の生産手段の使用価値が消費されることが、新たな生産物の生産のために不可欠な生産条件となっているのです。だからこそ、元の生産手段に含まれている価値(必要労働量)は、その使用価値の消失と同時に消滅するのではなくて、新たな生産物の価値に含まれたものとして現われる(生産物に移転し、保存される)ほかはないのです。

少し後には、同じことが次のように説明されています。
・「生産的労働が<特定の使用価値をもつ>生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる。それ<生産手段の価値>は、消費された肉体から、新しく形づくられた肉体に移る。しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行われる。@
労働者は、<生産手段の>元の価値を保存することなしには、<その生産手段=使用価値に>新たな労働を付け加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできない。なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態で付け加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態で付け加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段<材料>とすることによってそれらの価値をその新たな生産物に移すことなしには、できないからである。@
だから、<新たな使用価値をもつ生産物に>価値<労働量>を付け加えながら<元の生産手段の>価値を保存する<すなわち新たな使用価値の価値=必要労働量に含める>ということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。@
そして、この天資は、労働者にとっては何の費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大な利益をもたらすのである。」(同、P269)

ここで問題になるのは、なぜ、新たな生産物の生産のために「労働を有用な形態で付け加えること」が、いろいろな生産物の「価値<必要労働量>をその新たな生産物に移すことなしには、できない」のか、ということと思われます。引用では、それは、「いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段<材料>とする」からだ、あるいは「生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変える」からだ、と説明されているように思われます。というのは、生産手段の価値が新たな生産物の労働量に含まれることなしには、それを労働材料とする有用労働は継続することができないからにほかなりません。だから、<新>価値を付け加えることで、同時に「<旧>価値を保存する」ということは、「生きた労働」の「無償の贈り物」だと言われているのです。またこのことは、その支出労働量にしたがって新価値を付加していく労働に付随する必然的な結果なのですから、生産手段の価値の生産物の価値への“転生”(“再現”)は、「現実の労働の“背後”で行われれる」と言われるのだと思われます。さて、大事なことはこのあとです。

労働による、新価値の創造と旧価値の保存との違いについて、マルクスは次のように語っています。
・「およそ生産手段として消費されるものは、その使用価値であって、これ<すなわち生産手段のもつ使用価値>の消費によって労働は生産物を形成するのである。生産手段の価値は実際は消費されるのではなく(※24)、したがってまた再生産されることもできないのである。それは保存されるが、しかし、労働過程で価値そのものに操作が加えられるので保存されるのではなく、価値が最初そのうちに存在していた使用価値が消失はするがしかしただ別の使用価値となってのみ消失するので保存されるのである。@
それゆえ、生産手段の価値は、生産物の価値のうちに再現はするが、しかし、正確に言えば、再生産されるのではない。生産されるものは、元の交換価値がそのうちに再現する新たな使用価値である。
労働過程の主体的な要因、活動しつつある労働力のほうは、そうではない。労働がその合目的的な形態によって生産手段の価値を生産物に移して保存するあいだに、その運動の各瞬間は<生産物の>追加価値を新価値を、形成する。@
仮に、労働者が自分の労働力の価値の等価を生産した点、たとえば6時間の労働によって3シリングの価値を付け加えた点で、生産過程が中断するとしよう。この<新価値をなす>価値は、生産物価値のうちの、生産手段の価値から来た成分を越える超過分をなしている。それは、この過程のなかで発生した唯一の本源的な価値であり、生産物価値のうちでこの過程そのものによって生産された唯一の<価値>部分である。@
もちろん、それは、ただ、資本家によって労働力の買い入れの時に前貸しされ労働者自身によって生活手段に支出された貨幣<価値>を補填するだけである。<資本家によって前貸しされ>支出された3シリングとの関係で見れば、<この新たに労働者が支出することで生み出された>3シリングという新価値はただ<前貸価値の>再生産として現れるだけである。@
しかし、それは現実に<すなわち新たに生産された使用価値のもつ価値として>再生産されているのであって、生産手段の価値のようにただ外観上再生産<すなわち移転・再現>されているだけではない。ある価値<たとえば前貸価値>の他の価値<たとえばそれによって発揮される労働力による生産物の価値>による補填<すなわち価値の再生産>は、ここでは新たな価値創造によって媒介されているのである。」(同、P271~272)

新価値の創造においては、新たな使用価値の生産のためにこの過程で支出された労働量は、そのまま必要労働時間と認められて生産物の価値の本源的成分となります。言い換えれば、新価値の創造を媒介するのは、新たな社会的生産物を生産する労働(生きた労働)の抽象的・一般的性格です。ここでは、新たな生産物(使用価値)の生産と同時に、その価値も新たに形成・創造されます。
これに対して旧価値(生産的に消費される生産手段の価値)の保存においては、労働が、その材料となっている生産手段の使用価値を消費し消滅させてしまうために、生産手段の価値が生産物の必要労働時間の一部分=成分として移転・“再現”するのにすぎません。つまり生産手段の価値は、それらの生産手段の生産過程において形成されたものであって、この過程のなかで生産されたわけではありません。言い換えれば、旧価値の保存を媒介するのは、生産手段の使用価値を消費する労働の合目的的な有用的性格なのです。このように労働のもつ抽象的性格と有用的性格との違いに応じて、それらの側面は生産物の価値形成で演ずる役割が異なるのです。
この点について、原注21では、「リカードもその前後のどの経済学者も労働の二つの面を正確に区別しておらず、したがって価値形成でこの二つの面が演ずる役割の相違などはなおさら分析していない」と述べられています。
原注24に挙げられているニューマンの言葉も参考になると思いますので紹介しておきます。「生産的消費、そこでは商品の消費は生産過程の一部分である。……これらの場合には価値の消費はない。」(S・P・ニューマン『経済学綱要』)

なおP262には、「労働のたんに量的な付加によって新たな価値が付け加えられ、付け加えられる労働の質によって生産手段の元の価値が生産物のうちに保存される」と述べられています。これも労働(生きた労働)の二面的な性格のそれぞれが、生産物の価値形成において果たす役割の相違を述べたものだと思われます。


(4.労働過程において、その客体的な要素である生産手段と主体的な要素である労働力として存在する資本の成分は、資本の価値増殖過程から見れば相異なる機能を持つ。前者の原料や労働手段などに転換される資本部分は、生産過程内でその価値量を変えることがなく、後者の労働力に転換される部分のみがその価値量を変える。したがって前者は不変資本、後者は可変資本として区別される。とはいえ最初の資本価値の立場から見れば、二つの労働要素への分解・転換は、ただ自らの価値増殖のための、すなわち労働力の価値を越える労働支出を生み出す生産条件を創出するための、自らの価値の形態転換にすぎない。)

先ほどの引用に続いてマルクスはこう述べます。
・「しかし、われわれがすでに知っているように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価が再生産されて労働対象に付け加えられる点を越えて、なお続行される。この点までは6時間で十分でも、それではすまないで、過程はたとえば12時間続く。だから<この超過の労働支出すなわち>、労働力の活動によってはただそれ自身の価値が再生産されるだけではなく、ある超過価値が生産される。@
この剰余価値は、生産物価値のうちの、消費された生産物形成者すなわち<使用価値としての>生産手段と労働力との<とがもっていた>価値を越える超過分<すなわち超過の労働支出>をなしているのである。」(同、P273)

そして(1)でも触れたように、マルクスは第6章をこう締めくくっています。
・「われわれは、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのである。@
生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額<すなわち生産手段と労働力との価値>を越える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。<労働過程と価値増殖過程とが融合した資本の価値増殖においては、>一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのである。
要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、<それがこの過程に入る前にもっていた価値を生産物に保存するだけであって>生産過程でその価値量を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単に、不変資本と呼ぶことにする。
これに反して、労働力に転換された資本部分<すなわち賃金に支出された部分>は、生産過程でその価値を変える。それは、それ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、<剰余労働の大きさにしたがって>より大きいこともより小さいこともありうる。資本のこの部分は、>一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化していく。それゆえ、私はこれを可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶ。@
労働過程<使用価値の生産>の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、<すなわち>生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本成分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのである。」(同、P273)

すでに(3)で触れたように、旧価値(生産的に消費される生産手段の価値)の保存においては、労働が、その材料となっている生産手段の使用価値を消費し消滅させてしまうために、生産手段の価値が、生産物の必要労働時間の一部分=成分として移転・“再現”するのにすぎません。だから、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、それがこの過程に入る前にもっていた価値を生産物に保存するだけであって、生産過程でその価値量を変えないのです。だからその部分は資本の価値増殖の立場からは、不変資本と呼ばれます。
他方、新価値の創造においては、新たな使用価値の生産のためにこの過程で支出された労働量は、そのまま必要労働時間と認められて生産物の価値の本源的成分となります。だから、労働力の価値を超える労働支出(剰余労働)の大きさにしたがって、労働力に転換された資本部分すなわち賃金に支出された部分は、生産過程でその価値を変えるのです。それは、それ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、剰余労働の大きさにしたがって剰余価値の大きさも変動することになります。だからその部分は、価値増殖の立場からは、可変資本と呼ばれます。
こうして、流通=商品交換を媒介とする資本のもとでの労働過程は、同時に価値増殖過程に転化し、したがってまた労働過程の諸要素は、同時に価値増殖過程における生産物価値の諸成分に転化するのです。
とはいえ、不変資本と可変資本との区別において決定的に重要なことは、旧価値の保存・再現、すなわち生産手段の価値が新たな生産物の価値(必要労働)に含まれるということは、その生産過程で価値が増殖される(増大する)ということを決して意味しないということです。言い換えれば、生産過程で価値が増殖するのは、ただその過程のなかで労働力の価値を越える労働力の使用が続くからにほかならないのです。
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