広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより24年2月用(2/18開催予定)

「読む会」だより(24年2月用)文責IZ

(1月の議論など)

1月の読む会は14日に開かれ、第1巻第13章の4節「工場」と5節「労働者と機械との闘争」の部分を検討しました。
冒頭、チューターから前回の宿題となっていたミールについての資料(ウィキペディアからのもの)が出されました。
(12月の議論)の部分では、前回Dさんから出された『ゼロからの資本論』についてのまとめには特に意見は出ませんでした。
(説明)の第4節「工場」の部分では、チューターから、工場というとたとえば中国の古代王朝や日本の封建国家にあっても、陶磁器製造のための大規模な工房があったのではないかと言われるかもしれない。しかし、それは交易品などとして使用価値の取得を目的に行なわれたものであって、近代工場のようにそこから剰余価値を取得することを目的としたものではなかった、ということに注意してほしいと補足がありました。
ここでは、自動工場等々と言われているが、コンピュータ化された現代と違って当時は自動化といっても限定的だったのではないか、という意見が出されました。これに対しては、歴史的な程度はあるにしても道具の使用が人間の手ではなくて機械に任されるという、オートメーションの概念的な姿は確立されていたと考えてよいのではないか、という反論が出されました。
(説明)の第5節「労働者と機械との闘争」の部分では、チューターから、2項目目のタイトルを、「機械の資本主義的充用、すなわち機械による資本の自己増殖は、『労働力のより多くの搾取を基礎としている』」としたが、『』部分を『それを相対的剰余価値取得の手段とすることに基礎を置いている』と変更したい。理由は、労働手段である機械を、生産力を向上させるための手段として用いて、労働者の必要労働時間部分を低下させ、それによって労働手段を相対的剰余価値を増加させる手段として用いる、という資本主義の極めて特徴的な事柄を明確にするため、と説明しました。
ここでは、説明に対する直接の意見は出ませんでしたが、関連して、指導者と権力者は不可分ではないかという意見が出ました。チューターは、ミールの説明にあったように、共同体的関係のなかでも個々の共同体員への分配等をめぐって長老といった指導者は存在しただろうが、それは直接に支配といった権力関係とはつながらないのではないか。「マニュファクチュアの資本主義的性格」のところでも、機械が資本家の権力として現れるのはそれが資本家の私有物であるという階級関係のなかだからと指摘されていたように思うが、と答えましたが納得してもらえませんでした。この点については、参加者から指導者(権威)と権力者(特権)とは概念的に区別すべきだという意見が出ました。さらに、共同的、集団的に物事を行なうとどうしても標準化、一面化されたものになるのではないか、という意見が出されました。この点については参加者から、たとえば給食サービスが一律のセンター方式がいいのか個別の学校方式がいいのかといっても、それは具体的に評価すべき事柄で、機械的な評価とはなじまないのではないか、という意見が出ました。チューターの司会のまずさもあって、少し抽象的な議論になってしまったかと反省しています。


(説明)13章「大工業と機械」の6回目、第6、7,8節

今回は第13章の第6、7、8節を取り上げますが、進行の速度を上げるために7、8節については紹介程度にさせてもらいます(これまで通りに1節づつやっていくと、第1巻を終えるだけでもまだ数年もかかりそうなので)。第6節については、いわばこれまでの応用問題ですので項目立てはしませんでした。
第6節機械によって駆逐される労働者に関する補償説

第6節の課題は、機械への置き換えに伴う労働者の失業を弁護したブルジョア経済学者たちの主張に理論的に反撃することです。彼らは、ある工場またはある部門での機械の導入は労働者を駆逐するかもしれない、しかしその労働者たちの賃金のために資本(可変資本)として充用されていた部分も同時に、その工場や部門から“遊離”するのだ。この“遊離”した資本は別の部門でそのまま資本(可変資本)として充用されるほかないのだから、それらは再び別の場所で駆逐されたのと同じ数の労働者の雇用に用いられることになる。だから、労働者たちは一時的に街頭に投げ出されても心配することはない、と主張して機械への置き換えに伴う失業を弁護したのです。マルクスはまず資本が遊離するという彼らの主張をこう批判します。

・「多くのブルジョア経済学者、たとえばジェームズ・ミル、マカロック、トレンズ、シーニア、ジョン・スチュアート・ミル、等々の主張するところでは、労働者を駆逐する全ての機械設備は、つねにそれと同時に、また必然的に、それと同数の労働者を働かせるのに十分な資本を遊離させるということになる。
ある資本家が、例えば一つの壁紙工場で、1人1年30ポンド・スターリングで100人の労働者を充用すると仮定しよう。そうすれば、彼が1年間に支出する可変資本は3000ポンドである。彼は労働者50人を解雇して、残りの50人に1台の機械を付けるが、この機械に彼は1500ポンドをかけるとしよう。簡単にするために、建物や石炭などは問題にしないことにする。さらに、1年間に消費される原料にはこれまでと同じに3000ポンドかかると仮定する。@
この変態<経営様式の変更>によっていくらかでも資本が「遊離」されているだろうか? 旧い経営様式では投下総額6000ポンド・スターリングは、半分は不変資本、半分は可変資本から成っていた。それは今では4500ポンドの不変資本(原料に3000ポンド、機械設備に1500ポンド)と1500ポンドの可変資本から成っている。可変資本部分、すなわち生きている労働力に転換される部分は、総資本の半分ではなくなって、たった1/4である。この場合には資本の遊離が生ずるのではなく、もはや労働力とは交換されない形態での資本の拘束、すなわち可変資本から不変資本への転化が生ずるのである。6000ポンドの資本は、ほかの事情が変わらない限り、今ではもはや50人より多くの労働者を使用することはできない。@
機械が改良されるごとに、資本が使用する労働者は少なくなる。新たに採用される機械<の費用>には、それが駆逐する労働力や労働道具の総額よりも僅かしかかからないとすれば、たとえば<今度は>1500ポンドではなく1000ポンドしかかからないとすれば、<今度は>1000ポンドの可変資本が不変資本に転化または拘束されて、<1500ポンドのうちの>500ポンドの資本が遊離されることになるであろう。これは、同じ年間賃金<1500/50=30ポンド>を想定すれば、50人の労働者が解雇されているときに、<その>約16人<500/30人>の労働者の雇用財源になる<であろう>。いや、実はこの労働者数は16人よりもずっと少ない。というのは、この<遊離した>500ポンドが資本に転化されるためには、やはり一部分は<機械の他にも原料という>不変資本に転化されなければならないのだから、労働力には一部分しか転換されえないからである。」(全集版、P573~574)

労働者の機械への置き換えにおいて、駆逐された労働者の賃金のために支出されていた可変資本部分は、そのまま他の工場や部門へ流出して再び労働者を雇用する可変資本として機能する(つまり資本が遊離する)といったものではありません。たとえば壁紙の生産を継続するためには、駆逐された労働者のための可変資本部分はなによりもまず労働者と置き換えられる機械の購入のために当該資本によって支出されねばならないのです(この購入される機械の価値は、その生産部門でのc+v+mということになります)。当初には貨幣の姿をもっていた可変資本部分は、その資本から“遊離”するどころか、今では機械の姿に転換されて、その機械(生産資本)という姿以外には転換しえない価値として生産部面に“拘束”されているのです。これは同一資本内で可変資本部分が不変資本部分へと転化したということ、言いかえれば資本の有機的構成が変化したということであって、資本の遊離とは別の事柄です。
そしてすでに第6章「不変資本と可変資本」などで触れられてきたように、それらの機械は生産部面においてその労働手段としての使用価値・機能を発揮するばかりではなくて、価値としてもそれが持っている価値(c+v+m)をその使用価値が消費し尽くされるまでの間、その一部分ずつを生産物に移転していく(そこで支出される新たな労働量に加えて)という機能を果たすのです(蛇足ながらそうすることではじめて商品交換を規制する価値法則が貫徹され、個々バラバラに行われる商品生産においても、社会的生産つまり総労働の諸労働への分割と分配における統一性や均衡が図られるのです──まるで不安定な自転車でも動いている限りは転倒しないといった形ではあれ)。
しかしながらブルジョア経済学者は、価値と使用価値とを同一視するために、物事をこのようにとらえることができません。彼らは貨幣の姿をもっていた資本部分が機械(生産資本=物)の姿に転換されればそれはすでに価値ではないと錯覚し、また価値の源泉を、生産過程における労働力の支出ではなくて、機械(使用価値としての生産資本)の力能すなわち使用価値そのものであるかに錯覚するために、解雇された労働者の可変資本部分はそのまま元に残ったままで他の部面へ資本として投下しうるかに妄想するのです。
だから当該資本から“遊離”しうるのは、機械によって駆逐した労働力の価値とその機械の費用との差の部分のみということになります(この差があるからこそ機械は資本家によって採用されたのでした)。しかしながら、この差の部分も全てが再び別の場所で可変資本として利用できるわけではありません。というのは、それは労働力と結合されるべき機械やそこで利用されるべき原材料などの不変資本に対しても、その一部分(通常可変資本よりもより大きい割合でをもつ)が支払われなければ、実際に資本として機能することができないからです。結局のところ、駆逐された労働者に支払われていた可変資本は、その全てではなくてその一部分だけが“遊離しうるのであり、さらにそのまた一部分しか新たな可変資本として労働者の雇用に役立つことはできません。街頭に投げ出された労働者たちは別の場所でいつでも雇用が補償されているなどとは到底言えないのです。

マルクスは彼らの主張をこう断罪します。
・「実は、あの弁護論者たちも、このような資本の遊離<可変資本の不変資本への転化>のことを言っているのではないのである。彼らが言うのは、遊離された労働者の生活手段のことである。たとえば前記の例では、機械は、50人の労働者を遊離<駆逐>させ、したがって「自由に利用される<岩波文庫版……決まった仕事のない>」ようにするだけではなく、同時に彼らと1500ポンドの価値の生活手段との関連をなくし、こうしてこの生活手段を<労働者から>「遊離させる」のだということは、否定することはできない。つまり、機械は労働者を生活手段から遊離させる<失業により彼らの生活の唯一のすべである生活手段を購買するための賃金を失なう>という簡単な少しも新しくない事実が、経済学的には、機械は生活手段を労働者のために遊離させるとか、労働者を充用するための資本に転化させるとかいうように聞こえるのである<岩波文庫版……ということになる>。要するに<彼らにあっては>、全てはただ表現の仕方だけなのである。[ものも言いようで角が立たない]というわけである。
この説によれば、1500ポンドの価値の生活手段は、解雇された50人の壁紙労働者の労働によって価値増殖される<べき>資本だった。したがって、この資本は、50人が暇をもらえばたちまち用がなくなって、この50人が再びそれを生産的に消費することができるような新しい「投資」が見つかるまでは、落ち着くところもない。だから、遅かれ早かれ資本と労働とが再び一緒にならなければならないのであり、そしてそうなればそこに補償があるのである。こういうわけで、機械によって駆逐される労働者の苦悩もこの世の富と同じように一時的なのである<と、いわば“来世での祝福”を説いて慰めるのだ>。
<しかし可変資本がそれに置き換えられるべき>1500ポンドという金額の生活手段は<資本の外部に流通を介してそれと交換されるべき商品として存在していたのであり>、解雇された労働者たちに対して決して<彼らの労働を吸収する材料である>資本として対立しはしなかった。彼らに資本として対立したのは今では機械に転化している<不変資本に置き換わった>1500ポンドだった。@
もっと詳しく見れば、この<生活手段に置き換わるべき>1500ポンドは、解雇された50人の労働者が1年間に生産した壁紙の<価値=支出労働量の>ただ一部分<支払労働=必要労働部分のみ>を代表していただけで、彼らはこれを現物でではなく貨幣形態で自分たちの雇い主から賃金として受け取っていたのである。<すなわち>1500ポンド<の貨幣>に転化された壁紙で彼らは同じ金額の生活手段を買った。だから、この生活手段は彼らにとって資本としてではなく商品として存在していたのであり、そして彼ら自身もこの商品<生活手段>にとって賃金労働者としてではなく買い手として存在していたのである。@
機械が彼らを<失業させ>購買手段<である賃金>から「遊離させた」という事情は、彼らを買い手から買い手でないものに転化させる。だから、かの<生活手段>商品に対する需要が減ったのである。それだけのことである<言い換えれば労働者のための生活手段は、賃金と交換されるべき商品として存在しており、資本として存在していたのではなく、したがって資本として再び投下されねばならない必然性をもつものでもない>。@
もしこの<生活手段への>需要の減少が他の方面からの需要の増加によって埋め合わされなければ、これらの商品の市場価格は下がる。これが、いくらか長く続き、いくらか広範囲にわたれば、これらの商品の生産に従事している労働者たちの移動が起きる。それまで必要生活手段を生産していた資本の一部分は別の形態で再生産されるようになる。市場価格の低落と資本の移動が続いているあいだは、必要生活手段の生産に従事する労働者たちも彼らの賃金の一部分から「遊離させ」られる。@
だから<理論的に見れば>、かの弁護論者は、機械は労働者を生活手段から遊離させることによって同時にこの生活手段を労働者を充用するための資本に転化させるということを証明しているのではなくて、それとは反対に、極め付きの需要供給の法則を用いて、機械はただそれが採用される部門でだけではなく<生活手段の市場価格の低下を通じて>それが採用されない部門でも労働者を街頭に投げ出すということを証明しているのである。」(同、P574~576)

ブルジョア経済学者は、機械の採用によって労働者から遊離した生活手段は、もともと可変資本と交換されるべきものだったのだから資本の性格と持っているのだと強弁します。しかし交換(流通)を通じて手に入れることのできるものは商品であり、等価なものにすぎないのであって、交換から価値の増殖がつまり資本としての性格が生まれるものではありません(流通においては生産過程で増殖した価値が実現されるために、それだけ多い貨幣に置き換わるのみです)。彼らは、商品と資本との区別がつかないために、労働者から切り離された生活手段が可変資本と交換されるべきものであったということから、それらも資本だ言うのですが、それらは実際に労働力と結び付いて剰余価値の取得の条件になる限りで資本であっただけです。この結びつきを欠く限りそれらはただの商品にすぎず、需要が減れば価格が下がるだけであって、資本としてどこかに投資できるといったものではないのです。

さらにマルクスは機械によって駆逐された労働者の現実がどんなに経済学者の言うのと違っているのかを幾つかの事実をもって証明し、また弁護論者のいくつかの理論的誤りを批判します。
・「経済学的楽天主義に歪められた現実の事態は、次のようなものである。@
機械に駆逐される労働者は作業場から労働市場に投げ出されて、そこで、いつでも資本主義的搾取に利用されうる労働力の数を増加させる。第7篇<資本の蓄積過程>で明らかになるように、ここでは労働者階級のための補償として我々に示されているこのような機械の作用は、それとは反対に、最も恐ろしい鞭として労働者にあたるのである。@
ここではただ次のことだけを言っておこう。一つの産業部門から投げ出された労働者はもちろん別のどの部門かで職を求めることはできる。彼らが職を見つけて、彼らと一緒に遊離された生活手段と彼らの縁が再び結ばれるとしても、それは、投下を求める新しい追加資本<それは再び不変資本と可変資本に分割される>によって行なわれるのであって、決して、すでに以前から機能していて今では機械に転化している資本<旧可変資本部分>によって行なわれるのではない。そして、その場合にも彼らの前途はなんと見込みのないものであろうか! この哀れな連中は、分業のために片輪になっていて、彼の元の仕事の範囲から出ればほとんど値打ちがなくなるので、彼らが入れるのは、ただ僅かばかりの低級な、したがっていつでも<人で>溢れていて賃金の安い労働部門だけである。また、どの産業部門も年々新たな人間の流れを引き寄せ、この流れがその部門に規則的な補充や膨張のための人員を供給する。これまで一定の産業部門で働いていた労働者の一部分を機械が遊離させれば、この補充人員も新たに分割されて他の諸労働部門に吸収されるのであるが、最初の犠牲者たちは過渡期の間に大部分は落ちぶれて萎縮してしまうのである。」(同、P576~577)
すでに触れられたように、労働を吸収するための機械の姿に拘束されてしまった資本は、労働者に賃金として与えうる可変資本の姿に戻ることはできません。だから、機械によって駆逐された労働者が再び生産手段と結び付き、その賃金によって彼の生活手段と結び付くことができるのは、ただ新たに投下される(したがってすでにどこかで蓄積された)追加の資本の可変資本部分によってのみなのです。

・「生活手段からの労働者の「遊離」が機械そのものの責任でないということは疑いもない事実である。機械はそれがつかまえる部門の生産物を安くし増加させるのであって、他の産業部門で生産される生活手段量を直接に変化させはしないのである。だから、社会には機械が採用されてからもそれ以前と同量かまたはもっと多量の、排除された労働者のための生活手段があるのであって、年間生産物のうちの非労働者によって浪費される巨大な部分はまったく別としてもそうである。@
そして、これが経済学的弁護論の眼目なのである!<機械の資本的充用と機械そのものとの区別がつかない彼らには>機械の資本主義的充用と不可分な矛盾や敵対関係など<ただの外観であって>存在しないのである!@
なぜならば、そのようなものは機械そのものから生ずるのではなく、その資本主義的充用から生ずるのだからである!つまり、機械は、それ自体として見れば労働時間を短縮するが、資本主義的に充用されれば労働日を延長し、それ自体としては労働を軽くするが、資本主義的に充用されれば労働の強度を高くし、それ自体としては自然力にたいする人間の勝利であるが、資本主義的に充用されれば人間を自然力によって抑圧し、それ自体としては生産者の富を増やすが、資本主義的に充用されれば生産者を貧民化するなどの理由によって、ブルジョア経済学者は簡単に次のように断言する。@
それ自体の機械の考察が明確に示すように、すべてかの明白な矛盾は、日常の現実のただの外観であって、それ自体としては、したがってまた理論においては、全然存在しないのだ、と。そこで、彼はもはやこれ以上頭を悩ますことはやめにして、しかも自分の反対者に対しては、機械の資本主義的充用にではなく機械そのものに挑戦するという愚かさを責めるのである。……」(同、P577~578)
第5節で、機械は「資本の物質的存在様式」であると、あるいは「資本主義的生産様式の物質的基礎」(P559)であると述べられました。しかしもちろん、機械そのものが資本でないことは『賃労働と資本』などを参考に幾度か述べてきた通りです。機械は、生産手段(原料と労働手段)が社会の少数者によって独占される等々といった一定の社会関係の下ではじめて、それ(労働手段)が労働者から労働力を吸収し剰余価値を取得する(価値増殖をする)ための手段であるという、すなわち資本であるという“社会的な性格”を受け取るのです。第5節でも「機械が採用されてからはじめて労働者は労働手段そのものに、この資本の物質的存在様式に、挑戦するのである。彼は、資本主義的生産の物質的基礎としての、生産手段のこの特定の<歴史的>形態に対して、反逆するのである」、と述べられていたことに注意願います。
機械が“本来的には”生産者(資本家)に対して富を増大させる手段であるにもかかわらず、実際においては生産者(労働者)を貧民化させてしまうということは、社会の一部分が生産手段を独占する社会であるが故の現実の矛盾であって、またこの社会関係こそが機械に資本としての性格を与えるのです。だからこそ労働者は機械そのものと闘うのではなくて、その資本主義的充用に対して、すなわち機械を労働者の剰余労働を吸収するための手段とするような社会関係の変革を目指さなければならない、とこうマルクスは語るのです。

ブルジョア的弁護論がはびこった原因の一つには、機械の採用は労働者数を不変資本の大きさに対してはつねに相対的に減少させますが、労働者の絶対数は種々の要因(新たな社会的生産部門の誕生など)によって機械経営の発展期には増加するという事情があります。しかしこの労働者数の絶対的増加は、すでに述べられているように新たな追加資本の形成による新たな雇用の形成の結果であって、労働者との関係を断ち切られて宙に浮いてしまった可変資本部分が何か作用するといったものではありません。一部分だけを省略しながら引用しておきます。
・「機械は、それが採用される労働部門では必然的に労働者を駆逐するが、それにもかかわらず、他の労働部門<例えばその原材料や補助材料部門またその機械生産部門、つまりその生産手段となる部門>では雇用の増加を呼び起こすことがありうる。しかし、この作用には、いわゆる補償説と共通な点は何もない。……
こうして、ある一つの産業部門での機械経営の拡張に伴って、まず第一に、この部門にその生産手段を供給する他の諸部門での生産が増大する……<次いで>一つの新しい種類の労働者が機械と一緒にこの世に出てくる。すなわち、機械の生産者である。我々がすでに知っているように、機械経営はこの生産部門そのものをもますます大規模に取り入れてゆく。……
ある一つの労働対象がその最終形態に達するまでに通らなければならない前段階または中間段階を機械が捉えるならば、次にこの機械製品が入ってゆくまだ手工業的またはマニュファクチュア的に経営されている作業場では、労働材料と一緒に労働需要も増えてくる。……
機械経営が相対的にわずかな労働者によって供給する原料や半製品や労働用具などの量の増加に対応して、これらの原料や半製品の加工は無数の亜種に分かれてゆき、したがって社会的生産部門はますます多種多様になる。……
機械のもたらす直接の結果は、剰余価値を増加させると同時にそれを表わす生産物量をも増加させ、したがって、資本家階級とその付属物とを養っていく物資といっしょにこれらの社会層そのものを増大させるということである。……ますます多くの外国産嗜好品が国内生産物と交換されるだけではなく、ますます大量の外国産の原料や混合成分や半製品などが生産手段として国内産業に入ってくる。この世界市場的関係にともなって、運輸業での労働需要が大きくなり、運輸業も多数の新しい亜種に分かれる。……」(同、P579~584)


第7節機械経営の発展にともなう労働者の排出と吸引綿業恐慌

第6節で触れられたように、機械的経営の発展とともに労働者数は絶対的には増加します。しかし、労働者数が絶対的に増加するとはいってもこの増加は滑らかに行われるのではありません。それは突発的に熱病的な増加が起こると思えばこれまた突発的な熱病的な減少で終わるといった飛躍を伴って行われます。この恐慌を伴う資本主義的発展の循環性について詳しく述べることは、ここではまだ理論的な前提が足りませんが、マルクスはこの労働者の生活への影響を労働者の排出と吸引(岩波文庫訳では「反発と牽引」)と呼んで、この節ではその事実的な特徴などが示されます。ここでは引用を一つだけ挙げておきましょう。

・「工場制度の巨大な突発的な拡張可能性と、その世界市場への依存性とは、必然的に、熱病的な生産とそれに続く市場の過充とを生みだし、市場が収縮すれば麻痺状態が現われる。産業の生活は、中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化する。機械経営が労働者の就業に、したがってまた生活状態に与える不確実と不安定は、このような産業循環の諸時期の移り変わりに伴う正常事となる。……
このように、工場労働者数の増大は、工場に投ぜられる総資本がそれよりもずっと速い割合で増大することを条件とする。しかし、この過程は産業循環の干潮期と満潮期との交替のなかでしか実現されない。しかも、それは、ときには可能的に労働者の代わりをしときには実際に労働者を駆逐する技術的進歩によって、たえず中断される。機械経営におけるこの<技術的基礎の>質的変化は、たえず労働者を工場から遠ざけ、あるいは新兵の流入にたいして門戸を閉ざすのであるが、他方、諸工場の単に量的な拡張は、投げ出された労働者のほかに新しい補充兵をも飲み込むのである。こうして、労働者たちはたえずはじき出されては引き寄せられ、あちこちに振り回され、しかもそのさい召集される者の性別や年齢や熟練度はたえず変わるのである。……だがこれらの一切よりももっと特徴的だったのは、生産過程の変革<機械経営への置き換え>が労働者の犠牲において行われたということである。……」(同、P592~596)


第8節大工業によるマニュファクチュア、手工業、家内労働の変革

この節では、「a手工業と分業に基づく協業の廃棄」、「bマニュファクチュアと家内労働とへの工場制度の反作用」、「c近代的マニュファクチュア」、「d近代的家内労働」、「e近代的マニュファクチュアと近代的家内労働との大工業への移行これらの経営様式への工場法の適用によるこの革命の推進」という5項目にわたって、大工業が手工業やマニュファクチュア、家内労働に及ぼした影響が詳しく触れられています。以前の第8章「労働日」においても、機械の採用がもたらす労働日の絶対的延長がどのように労働者の生活に影響するかが触れられました。この第13章においては、機械による必要労働時間部分の短縮がもたらす相対的過剰人口(産業予備軍)の形成が、どのように労働者の生活に影響を与えるかという側面から検討されています。ここでも一つだけe項目からの引用を挙げておきましょう。

・「社会的経営様式の変革、この生産手段の変化の必然的産物は、種々雑多な過渡形態の入り混じるなかで<岩波文庫版……「錯綜を通じて」>実現される。……しかし過渡形態の雑多なことによって、本来の工場経営への転化の傾向が隠されてしまうのではない。……ミシンに投ぜられる資本量はますます増大して、生産を刺激し、市場の停滞をひき起こすのであるが、この停滞は、家内労働者にミシンを売り払わせる合図の鐘になる。ミシンそのものの過剰生産は、販路に窮したミシン生産者たちに、週払いでミシンを賃貸しすることを強要し、こうして、小さなミシン所有者たちにとっては致命的な競争をつくり出す。さらに続くミシンの構造の変化と価格の低下とは、その前からあるミシンをも同様にたえず減価させて、それらは、もはや大量にまとめて捨て値で買われて大資本家の手で有利に利用されるよりほかはなくなる。最後に、蒸気機関が人間にとって代わって、それが、すべての同様な変革過程でそうであるように、ここでも決着をつける。蒸気力の応用は、最初は純粋に技術的な諸障害、たとえば機械の振動や機械の速度の調節の困難や比較的軽い機械の急速な破損などにぶつかるが、これらは皆、やがては経験がそれを克服することを教えるような障害ばかりである。一方では比較的大きいマニュファクチュアでの多数の作業機の集積が蒸気力の応用を促すとすれば、他方では蒸気と人間の筋力との競争が大工場での労働者と作業機との集積を速める。@
こうして、イギリスは今日広大な「衣料品」生産部面でも、そのほかのたいていの産業でと同じように、マニュファクチュアや手工業や家内労働の工場経営への変革を経験しているのであるが、すでにその前からすべてこれらの経営形態は大工業の影響のもとでまったく変形され、分解され、歪められて、もうとっくに工場制度のあらゆる奇怪事をその積極的な発展契機なしに再生産し、またそれ以上のことをやってもいたのである。」(同、P616~618)


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