花を咲かそう

水俣病、最高裁 基準柔軟運用うながす

2013-04-17 08:50:18 | Weblog
原告の溝口秋生さん、
おふくろさまの
無念さを

水俣病訴訟で
ついに勝ち取りましたね。

ながかった
39年間もの裁判闘争、

勝利

おめでとうございます。

水俣病とおもわれる人たちへの

朗報です。

公害病をゆるさぬ
日本人に
永光あれ


ボストン・マラソンゴールでの卑劣な爆発・・ゆるせぬ行為

2013-04-17 07:58:59 | Weblog
泊まっているホテルで
ボストンマラソン爆発をしった。

数名が殺されたとのこと。

ああ、ひどい。

合掌。

庶民のたのしみのスポーツにまで
狙われたのだろうか。
暴発行為。

暴発をゆるしてはならない。
無差別
殺人をゆるしてはならぬ。

犯人をかならず挙げてほしい。

私のしりあいで、
幾人もが、ボストンマラソンを走した。
今回の事件は
完走寸前を妨害する卑劣な行為であった。

声援者を襲う爆発であった。

アメリカをねらった爆発であったのか。

ゆるせない行為だ。

宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に 新解釈の玄侑宗久氏 (2)

2013-04-12 08:13:25 | Weblog
宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に新解釈の玄侑宗久氏 (2)

 無名の宮沢賢治を高く評価し世に送り出されたのは、草野心平、高村光太郎の功績と伝えられる。照明を当てて頂いたことにいちファンとして、感謝の念でいっぱいです。

さて、その高村光太郎は、東京の駒込林町のアトリエを空襲で焼失。宮沢賢治の令弟宮沢清六宅の岩手県花巻町へ疎開した。
ところが、宮沢宅も1945年敗戦の8月に戦災にあった。花巻町の中心街はほとんど焼失したといわれる。賢治の書きかけの原稿の一部が焼け焦げもした空襲であった。

光太郎は、清六宅を出ざるをえなくなり、転々ののちに落ち着いた先は岩手県稗貫郡大田村山口(現在:花巻市太田山口)の鉱山小屋であった。このとき光太郎は63歳。その鉱山小屋で自炊農耕の独居生活を始めた。

自分を鞭打つかのような雪の吹き込む陋屋での小屋生活であった。
  
 光太郎は敗戦後、軍国主義に加担し若者を戦場に送ったことを悔い、自省から、みちのくの小屋に籠もり謹慎生活を選びとったとみられている。
その「謹慎」生活の日々のなかで、高村光太郎は賢治のナマ原稿の束に本格的に向き合うことになれたのではなかったかと思われる。それまでは、賢治の送りつけた詩集『心象スケッチ 春と修羅』のみの接点でしかなかった筈、と思う。では、その『春と修羅』には「雨ニモマケズ」が網羅されていたのであろうか。ノーである。

 国会図書館では宮澤賢治生誕100年(1996年)を記念して、「春と修羅」初版本の復刻出版がなされた。インターネットで『心象スケッチ 春と修羅』を検索なさるなら確認できましょう。

「雨ニモマケズ」は、賢治の死後、遺品片づけのおりに発見された、と伝えられる。ということから、私はノーであると述べた。

第一号の賢治碑の碑文選定作業のおりに、膨大なナマ原稿のなかから光太郎が選びとったとする話は、ありえないことであろう。このことは、年譜も検討しながら考察したい。  
和田文雄著の一章「椿説」によると、東京の光太郎宛へ碑文用作品を写し採って送った、とする話が披露されていた。では、誰が賢治の作品を選びとり、碑石のサイズ内に美的におさまる文字数はいくつまでなら妥当か、も検討された上で、揮毫をお願いしたのであろう。

高名な光太郎先生の手を煩わすことは最小限にとどめるのが礼儀であろう。そのためには作品を選び取って書き写し、お届けする案が、妥当な思慮ではないだろうか。

雨ニモマケズの全文を碑文とすると、文字は細字化し読み難くなる、そこで、碑石には、雨ニモマケズの後半のみの判断を決定した上で、揮毫をお願いしたのであろうと思われる。

ということで、和田文雄著『宮沢賢治のヒドリ――本当の百姓になる』に記述されている「椿説」は、光太郎が作品のなかから選びとり、その選んだ作品の文章を勝手に直したかのような断定的記述が紹介されていたかと思うが、はたして、そのようなことをする詩人光太郎であろうか。

揮毫を頼まれて、快諾された光太郎さんである。
〝改竄〟問題で犯人扱いされていると知ったならば、あの世で悲しまれておられよう。

イーハトーブの人々は、恩のある人を、そのような決めつけをなされるのであろうか。
されないだろうと私は思いたい。

パソコンで検索をしておると、岩手の地元のお人であろうか、先行して研究をされる御仁を発見した。ほっとした。以下のブログの発信者「みちのくの山野草」さんである。

《 1853 高村光太郎の名誉のために - みちのくの山野草『遺作(最後のノートから) 故宮澤賢治』(昭和9年9月21日付岩手日報)》 最近恩師 より『遠野物語と21世紀 東北日本の古層へ』(石井正己・遠野物語研究所編、三弥井 書店平成22年4月28日発行)という本を頂いた。 興味深く読ませてもらっ ..   blog.goo.ne.jp/.../e/796efb4528cfe48c0dc219bb1d7d9131 - ・・》。
みちのく山野草さま、感謝もうしあげます。ネーミングから 察しますに山登り、山野草を愛好の御仁さまとおみうけします。
私は、ひよっこですが、山がすきで、岩手山の頂上で出合った群生のコマクサは、それはそれは見事でした。未だに忘れられません。そして岩大山岳部のOGさんに教えられて岩手山鬼ヶ城コースを歩いたことも忘れられぬ思い出です。
早池峰山の蛇紋岩のあいだに咲く山野草も、格別の思い出です。

みちのく山野草さまに助けて頂きながら、引用もさせて頂きながら困難な「濡れ衣事件」をみてゆきたい。ねがわくば、賢治の精神理解にむけて努力できればと思っております。

みちのく山野草さまの応援を得て鬼に金棒となりました。私は繰り返し述べたい。

宮沢賢治の遺品の中から黒皮の手帳が見つかり、その手帳に「雨ニモマケズ」の書付があったことが真実ではなかったか。
とするなら、吾ブログ(1)で発信した「ささやき戦術」、と私はみるが、うわさ話的に撒き散らすことは、いかがなものであろうか。

姑息なことをやるイーハトーブの人々ではない、と信じる。
私は、宮沢賢治と高村光太郎の友情を信じるがゆえに、和田氏の「椿説」に憂慮する。

和田氏は歴史的な例証をあげられて立派な理論書「ヒドリ論」を公表された。そのご努力は、労作は賢治をさらに深く理解させ、おし進めたことである。
それゆえに、惜しまれる「椿説」の掲載ではなかろうか。

さて、高村光太郎には毀誉褒貶がついてまわるようだが、誰しも生きておれば、いろいろ云われることだ。己がお天道様に恥じない生き方をすればそれでよいのだがと思う。

高村光太郎は自分にきびしく生きられた。

岩手県の小屋に籠もった高村光太郎はすでに齢63であった。人生50年弱の時代にあって、生老病死を見詰める生活でもあっただろう。
この後、光太郎は自らの生涯を問う詩『暗愚小伝』を編んだ。題名からして、賢治がデクノボーと呼ばれたいと渇望したその信念の影響を強く受けてのタイトル『暗愚小伝』であるように思えてならない。

光太郎は65歳のときに、帝国芸術院会員に推挙されたが、辞退した。この辞退は光太郎の謹慎の表明ではないだろうか。謹慎を本物とする己に突きつけての辞退ではなかっただろうか。
光太郎71歳の時には、日本芸術院第二部会員に選ばれたが、また辞退をした。
誠実な光太郎ではないか、と私には感じられてならない。

その、光太郎が、賢治の雨ニモマケズの詩文を、替えた、と云われている。
日本の良識と尊敬する山折哲雄氏のご指摘もある。私は詩文を、替えた、といわれる本質は、改竄した、という意味にとらえた。改竄はゆゆしきことではないか。高村光太郎は、そのような人間であったのであろうか。――――――――――――次回の (3)へ続く。

宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に 新解釈の玄侑宗久氏 (1)

2013-04-11 00:03:17 | Weblog
 
玄侑宗久著『慈悲をめぐる心象スケッチ』講談社2006年刊は賢治ファンの度肝を抜いた。

2013年3月某日、私は慶応大学留学生のSさんを案内し、都内名所めぐりをしていた。
赤門は人気があり、その前に佇ち、眺めながら、近くの旅館には石川啄木が投宿した話をした。
するとSさんは「宮沢賢治が好きです」といわれた。
外人のSさんが賢治と啄木の関係をも熟知していたことは、驚きであった。

賢治といえば、雨ニモマケズ・・・の話になる。
私は書店JUNKUDOで、玄侑宗久著『慈悲をめぐる心象スケッチ』講談社版を購入。その心象スケッチに、流石、お坊さまの賢治諭であると思った。
読みすすんでゆくと、驚嘆する箇所がいくつもあり、その新説・解説・洞察力には度肝を抜かされた。特に〈雨ニモマケズ〉には、革命がおきたかとおもったほどに驚いた。

宮沢賢治ファンなら、見逃せぬ〝異論〟は、いままでの常識を覆していた。瞠目した。

我が家の書庫にもぐりこんで、賢治関係本を積み上げて調べてみた。
すべて、玄侑宗久氏のご指摘の箇所は、以下同文の替えられた詩文であった。つまり、原詩と違う表記で流布していた。

1995年9月1日発行の宮沢賢治特集『詩と思想』も、旧態を踏襲した雨ニモマケズの詩文であった。
この「雨ニモマケズ」や「永訣の朝」は、とかくに朗読会で読まれ、共感され、青年の人生に影響をあたえた作品である。ゆえに、今回の玄侑宗久著『慈悲をめぐる心象スケッチ』の指摘、新説は日本の文学史を塗り変えるほどの重さがあろう。

「雨ニモマケズ」が〝改竄〟されていたことは、
なぜ、そのような仕儀になったのであろうか。みてゆきたいと思った。

まずは、賢治を世におくりだされた功労者のお墓参りをしてから、みてゆきたいと思った。私は東京は巣鴨の染井墓地を訪ねた。案内板に 村光雲、光太郎、智惠子とあった。
墓前で手を合わせ、ぶつぶつとご挨拶を申し上げた。





私は、安達太良山の頂上で、2度、智恵子抄を朗読した。頂上には、宮沢賢治が所属した国柱会の師が発信したといわれる「八紘一宇」の碑が立っていた。下界から人間が担ぎあげてきたのか。相当の剛の者の仕業なのだろう。

智恵子抄のファンの私は、その安達太良山の碑を、想い出しつつ、光太郎夫妻にご挨拶をもうしあげた。光太郎さんにしか届かぬ声であった。
ボリウムをあげてみても、第三者に聞こえぬほどのかぼそい声であった筈・・・・。

 ヒディ話でございます。
 ヒドイ話でございます。

最近、以下の如き〝ささやき戦術〟がまかり通っておるようです。(出典:和田文雄著『宮沢賢治のヒドリ―――本当の百姓になる』50頁の「椿説」より引用)

肝煎 賢二さんの詩(す) いすさ刻(ほ)って 建てべと思ってるどもなんじょだんす。
老名 文句は 東京のせェんしェさ送って 見てもらったら、ええじゃねェすか。  
智者 そしたれば 東京のせェんしェから「雨ニモ・・・」の詩がえェとゆってきたから
   全部けいェで 送ったら ええじゃねェがとおもあんす。            

・・・・・・中略・・・・・・・

老者 清六さんがら てじょコかりで うづすべェ。

・ ・・・・・・中略・・・・

組頭 清六さん 困った困ったど ゆってらけェ  東京の言葉になってしまって
壮年 高村せェんしェが 文句 まぢがってらとゆわれて とんでもなェく くられだ。

・・・・・・・・以下略・・・・・・

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
私は「椿説」を読んでいて、ちがうちがうと声をあげたくなった。高村光太郎先生は
揮毫の依頼を引き受けはしたが、賢治の数ある作品の中から碑文用の作品選択を任されたのだろうか。否、と私は思う。

碑文を選び出すには、大変な労力、負担を先生におわすことになるのではないか。碑建立計画の花巻の人たちは、著名な光太郎先生との人間関係で、まだそこまでの仕事を頼める人間関係にあったとは思えないのです。

高村光太郎揮毫の碑文をみると、脱字があったことが認められましょう。このことは何を暗示しているのでしょうか。私の推察では、先生への懼れが働いて、書き直しを頼めなかったからだと思う。
宮沢清六氏も揮毫依頼者たちも先生への遠慮があった、と私は考察する。
雨ニモマケズの碑文の脱落文字は、敗戦後、行外に追刻された事実を深く考えてみたいものです。

                  ・・・・・・(2)に続く・・・・・・

孫文、魯迅、周恩来ゆかりのお店へ。後、池之端門で九州大学院生にあう。

2013-04-04 20:33:16 | Weblog
漢陽楼(カンヨウロウ)(神田小川町・創業1911年)   住所:千代田区神田小川町3-14-2
漢陽楼は孫文、魯迅、周恩来ゆかりのお店である。
今日4月4日は、朝からお天気が好かった。Ny公演、のち、美国にある慰安婦碑2箇所を訪問して先週かえったばかりの団員を慰労したかった。
初めて漢陽楼へでかけることにした。

私は周恩来が貧乏学生のときに食べたと伝えられる小龍包子がたべたかった。
周恩来揮毫の書を眺めながら、小龍包子を味わった。

感無量。






その後、神田界隈を散策。
もうひとつのお店、魯迅ゆかりのお店咸亨酒店(カンキョウシュテン )を探した。
「住所:東京都千代田区神田神保町2-2」にあった。

お店に入ることにした。一階は満席であった。店員に2時半までですが、それでよろしければ・・・と約束させられて、二階へ通された。紹興酒が飾ってあった。魯迅の名著「孔乙己)」を原書で読んだ日が思い出された。読後は、酒のつまみといえば空豆であった私。今日は車なので、無理だが、次回は「咸享酒店」で紹興酒を飲もうとおもった。
-
その後、東大の池之端門近くの花をみにいった。教授夫人に教えてもらった紫色の花だいこん。
帰途、東大構内を駐車場へむかって歩いてゆくと、二人の若者が立ちとまって地図をみながら、迷っている風であった。近道をして上野駅を目指してるにちがいないと私は直観した。
チョンゴレン?と声をかけた。
はい、と日本語でこたえた。
中国青年の手元の地図をみると、不忍池へ抜けようとしているようだ。
上野駅へ行きたいのですね?
やはりそうであった。
九州大学の大学院生であった。連れのもう一人は、今月から東大大学院へ上京してこられ、東京の住居もきまった由であった。
流体力学の研究で博士号をとっていた。
ふたりの留学生に私は、直近の東大池之端門を教えてあげた。

25日の広島高裁判決は桜が咲いた如し

2013-03-26 09:04:34 | Weblog
25日の広島高裁判決は桜が咲いた如く
あっぱれな判決であった。

昨年の衆院選を「無効」と判断した判決、よくぞ、だされた。

民主主義を日本に
根つかせるための勇気ある判決であったとおもう。

民意が切り捨てられる今の選挙制度は、問題ふくみできて、
断罪できないできたのではなかったか。

判決をくだされた裁判官に敬意を表します。


納税の義務は国民に等しく課されるが、
投票権は、
不平等であって当然では、
なさけない国であった。

早急に改善することだ。



慰安婦碑 アメリカにぞくぞく建立。日本の過去の歴史が問われている・・

2013-03-25 19:46:29 | Weblog
   

赤線で春をひさぐ慰安婦の話しではない。
古くて新しい問題の「従軍慰安婦」のことである。
日本軍に慰安婦にさせられた、人権を蹂躙された、と涙ながらに辛い体験を告白する女性たちの話しを元にして慰安婦碑は、アメリカにもぞくぞく建立されている。これからも建立されてゆくと伝えられる。
それを許している背景には、人権を尊重しようとする米国の度量の大きさがあろうか。

碑を続々建ててゆく韓国の人たちの怒りは本物なのだ。その代表格は、ソウル・鍾路区の駐韓日本大使館前に立つ慰安婦少女像ではないだろうか。

日本政府は、像の撤去を申し入れているとのことだが、その撤去の兆しは見えてこない。大使館の玄関口に像をたてられては、日本の恥さらしといえよう。韓国の怒りを見誤っていると、解決は遠のくばかりなのではないだろうか。

この慰安婦問題で日本は謝罪をしないことから、韓国の怒りはエスカレートしているようである。
「慰安婦」は韓国人だけで占めていたのであろうか。朝鮮の人、東南アジアの人、さらには南下した地の白人すらも慰安婦にさせられた、との話も聞こえてくるのはどうしたことなのだろうか。それらの声のきこえる地域は日本軍の進出地域と重なるようだ。
日本は、それらのことは無かったことだ、として黙殺していて済む問題なのであろうか。
韓国人の如くにしぶとく執拗に慰安婦像や慰安婦碑を建立し、宣伝を繰り広げてゆき、益々、先鋭化してゆくのであれば、日本の評価に響きはしないか。
慰安婦問題だけでなく、過去の加害の歴史を正視し謙虚に向き合ってきたのであろうか、が問われているのではないだろうか。

日本人は義務教育で教わらなかったから、知らなかったで済む問題なのであろうか。現政権も軍の強制はなかった、と主張している。それで、過去の歴史をうやむやにし、隣国と友好関係の促進ができると思っているのであろうか。

かつて、慰安婦問題では、1993年(平成5年)8月に、宮沢改造内閣の河野洋平内閣官房長官が「慰安婦談話」を発表した。ところが、現政権の安倍内閣は河野談話を批判し、否定しようとしているのではないだろうか。
その動きに敏感な韓国の日本軍慰安婦被害者ハルモニ(おばあさん)を記憶する人たちの心に、火に油の注ぐようにことになりはしなかったであろうか。

2013年1月29日のNY州議会において、人道に反する犯罪として“慰安婦”が決議採択された。このことは、日本批判は国際的になりつつあるのではないだろうか。

日本は隣国との歴史認識を共有する擦り合わせを急ぐべきではないだろうか。

日本軍の慰安婦にさせられたと告発する人の屈辱感は、民族の屈辱へと深化してきているのではないだろうか。
駐韓日本大使館前の少女像は、雨が降ればレインコートを着せ、寒い日にはマフラーを掛けられる。膝は毛布で覆う。素足には靴下も履かせられるとのことだ。
慰安婦へよせる韓国市民の愛が並ではないことを感じるのは私だけであろうか。この慈しむ市民の感情を、深く受け止めたいものである。

ところが、日本国内での慰安婦問題では、ある女性評論家は、文科省の国定教科書に慰安婦を掲載するのはいかがなものか、反対だ、と声を上げていたと思うし、有力な政治家は慰安婦は軍がやったことではない、証拠がでてこないじゃないか、とキャンペーンを張っていたかと思う。
そのような日本の状況下、
日本人が良識をしめすには、困難が付きまとう。最近、アメリカの慰安婦碑を訪問する日本人がいるとのニュースが飛び込んできた。


2013年3月下旬、その訪問団は合唱団の有志一行とのことである。御一行は慰安婦碑にオリツルを献じてきたいとの話しである。
有志一行は、バスを仕立てて、往復5時間をかけて、慰安婦碑を訪問してきたいとのこと。
折り鶴は訪米をしない団員たちも協力して折られたといわれている。
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計画書をみせてもらった。

①アイゼンハウアー公園
  JFK空港より東 ロングアイランド地域 野外公園で休園日なし
  お泊りのNY市内のHOTELから車で約45分 
  
②ニュージャージ・パリセイズパーク
  ホテルからは西側のハドソン川のリンカントンネルを
通って約40分~50分 就業曜日、時間は次の通り。 
   月~木 10:30~21:00
   金    10:30~17:00
   土    10:30~16:00
③ミニバス利用
  ①②どちらに該当されるか、わかりませんが料金は
   ●ミニバス利用なら10人乗りで往復300ドル 
   ●4人乗り車なら往復230ドル~280ドル 
   ●日系のリムジン会社 
   ●ただし客が多いので早目に問い合わせ予約が必要。
 以上。 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  
アメリカ国内には、現在、慰安婦碑は2箇所にあるようです。
ひとつは、2010年10月23日にニュージャージー州パリセイズパーク市の公立図書館に設置の慰安婦碑。
もうひとつは2012年6月16日、ニューヨーク州ナッソー郡のアイゼンハワーパーク内の退役軍人記念園に設置の慰安婦碑。

宮沢賢治が 国柱会に所属していたことの意味

2013-03-24 17:07:50 | Weblog
宮沢賢治は
国柱会に所属し、脱会をせずに、没した。

この意味はなにを意味しているだろうか。

国柱会の田中智学の発案で
「八紘一宇」が掲げられた。

「八紘一宇」の意味を知らない世代は多くなっているが、
日本史上、忘れてはならぬ言葉である。

日本をヒロシマ、ナガサキを滅亡に誘導した
スローガンではなかったか。

満州建国の際、
石原莞爾は国家神道を掲げただけではなく、
南無妙法蓮華経・日蓮主義の旗も
掲げたのではなかったか。

「満州」侵略の中心を担った石原莞爾も、
国柱会の会員ではなかったか。


五族協和の王道楽土を
信じさせようとしたのではなかったか。

南無妙法蓮華経・日蓮主義の国柱会と
軍部の
大陸進出の構想は、
路線上、
対立せずに、
同じ道をたどることになったのではなかったか。

宮沢賢治が、遺品の黒皮手帳に書きとめていた
雨ニモマケズの詩の最終章には
南無妙法蓮華経の文字をかきとめていた。
これもふくめて
雨ニモマケズの詩ではなかったかのではないか。

なぜ、その賢治にとって大切な経文を
詩文から
隠され続けてきたのであろうか。
賢治の
デクノボーになりたい願望は
読者につたえられてはいるが、南無妙法蓮華経の経文は
意図的につたえられていないのは
ナゼだろうか。

編集の段階で、その経文は外したほうが良い、との判断が働いたからであろうか。

デクノボーであるならば、敵を殺戮する兵役も勤まぬであろうし、
侵出した満州開拓の農民さえも、勤まらぬのではないだろうか。

満州国建国では、南無妙法蓮華経の大幡が掲げられたのである。
ゆえに、
敗戦後の日本人に受けるには
編集上、雨ニモマケズの詩から、
意図的に削除したのであろうか。

なぜ、宮沢賢治は
国柱会に所属し、脱会をせずに、没したのであろうか。

植物学者の牧野富太郎は
土佐時代、自由民権の壮士をし、入牢の体験もあったと伝えられる。
土佐の民権活動に脱会届をだして、上京、東京帝大で
下職につきながら、植物の研究に没頭され、大成された。

なぜ、宮沢賢治は
右翼的な国柱会に所属し、脱会をせずに、没したのであろうか。

私も宮沢賢治文学ファンであるが、
ここにきて
美化しているだけでは
賢治文学を知ることにはならぬのではないか、
と思うようになっている。

吉田司氏の賢治評論の影響がある。




追記:
五族とは
日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人を指す。

桜まつりに思う・・・ニューヨーク公演  2013年3月26日公演

2013-03-24 15:54:50 | Weblog
今日、ワシントンは桜祭りがはじまりました。
かつて東京市長が贈った・・・とNHKニュースは伝えていたが、
贈った尾崎行雄のお名前は、事情があるのか、誰かを憚ってか、
明らかにしなかった。

昨年はワシントンの桜、100周年の記念の年であった。
盛大な記念式典が行われ、
石原都知事は招待されたアメリカにおられた時に、尖閣諸島の爆弾宣言をされた。


尾崎行雄さんなら、日米友好だけでなく、日中問題でも、
チエをだされての行動をおこされたにちがいない。

日本が軍国主義でつっぱしるなか、
国会で戦争反対を主張された尾崎行雄さんであったのですから・・・。


日米友好の桜、返礼のハナミズキをおもいつつ、
私は
3日ほど前、尾崎行雄記念館を訪ねてきた。
行雄さんの産湯につかった井戸のまわりの桜は咲き始めていた。

記念館は建替えるお話しがおきているようであったが、
日本も核爆弾を持とう、という議員がふえるなか、で

尾崎行雄スピリットは大切である。発信を続けてほしいものだ。

さて本日、日本人の
110人を超える訪米団が成田、関西空港から出発する。
やはり、
ニューヨークから、発信することは肝心だろうということから、でかける。

ひとつは
核兵器の廃絶を訴える歌『この灯を永遠に』、
もうひとつは
日本の加害の歴史を忘れずに未来に向おうの歌『紫金草物語』である。





ニューヨーク公演の

会場は  Lincoln CenterのAlice Tully Hall  


ふたつの曲とも

指揮は安藤由布樹。

80名ほどがリンカーセンターの舞台に立つ。
『この灯を永遠に』は、 
(THE・PEACE LIGHT・MEMORIAL・CHOIR )。
安藤由布樹作詞作曲である。


もうひとつの歌は、
朗読構成組曲の紫金草物語の歌。
作詞構成:大門高子  作曲:大西進  編曲:山下和子 / 張勇
(FLOWER・OF・PEACE・MEMORIAL・CHOIR)である。

80名ほどがリンカーセンターの舞台に立つ。

あとは
大阪の花柳流の人たち30人ほどが
日舞を披露される。
(HANAYAGI ⅮANCING TEAM)

写真は諸葛菜:神奈川県相模市で2013年3月21日撮影。

諸葛菜の名は、吉川英治の小説に、孔明が飢えをしのぐために兵士に
諸葛菜をたべさせた、とあるが、
日本でいわれる「諸葛菜」が食べられものであるかは、
定かではない。


諸葛菜の歌で ニューヨーク公演    2013年3月26日公演

2013-03-23 22:51:57 | Weblog



2013年月3月24日
80人ほどが太平洋をこえて

ニューヨーク公演に向います。

会場は  Lincoln CenterのAlice Tully Hall  


ふたつの曲をうたいます。

ひとつは核廃絶を願う歌・・・・カンタータ『この灯を永遠に』。

ヒロシマの
原爆の火を懐炉におさめて九州の星の村に持ち帰った一兵士がおられた。
いまもともし続け、全国に、核廃絶の願いをこめて、原爆の火はひろがっている。
その事実を
カンタータ『この灯を永遠に』に作詞作曲した安藤由布樹氏が指揮をされる。

80名ほどがリンカーセンターの舞台に立つ。 
(THE・PEACE LIGHT・MEMORIAL・CHOIR )である。


もうひとつの歌は、南京大虐殺事件を考えてみましょう、という花物語の歌。

日本の中国、アジアへの加害の歴史を、ともに考えてほしいとねがう
朗読構成組曲の紫金草物語の歌。

作詞構成:大門高子  作曲:大西進  編曲:山下和子 / 張勇
指揮者:安藤由布樹

80名ほどがリンカーセンターの舞台に立つ。
(FLOWER・OF・PEACE・MEMORIAL・CHOIR)である。

あとは
大阪の花柳流の人たち30人ほどが
日舞を披露される。

(HANAYAGI ⅮANCING TEAM)

写真は諸葛菜:神奈川県相模市で2013年3月21日撮影。

諸葛菜の名は、吉川英治の小説で、孔明が飢えをしのぐために兵士に
諸葛菜をたべさせた、とあるが、
日本でいわれる「諸葛菜」が食べられものであるかは、
定かではない。