花を咲かそう

ビックカメラ 池袋本店

2010-07-15 00:13:39 | Weblog
梅雨の晴れ間の夕方、
二人で
ビックカメラ池袋本店へ
でかけた。

クーラーを
一台キャンセル、その手続きだった。
4台だったので、割引率がよかったが、キャンセルしたことから
他の単価が若干値上がってしまった。

キャンセルした本人は、いまころは、パリ祭に浸っているころだろう。

エコの手続きをすると、驚いた。
なんと、一泊できるほどのお金が 支払われるとのこと。
すいませんね、ビックさんにこんなにもサービスをしてもらって・・・と 挨拶すると、
いえ、此れは 政府がだしてくださいます。
消費者も メーカーもたすかり
環境によいのであれば、ズウーっと、続けてくれるといいですね、
いや、間もなくエコはおわりです。
それにしても
お金持ちになった気分になり、
サンシャイン60階のレストランへ・・・
星のまち東京を眼下に眺めながら
久し振りの ごちそうをたべてきた。


巨星 梅棹忠夫さんを悼む

2010-07-08 09:36:08 | Weblog
梅棹忠夫さんのご冥福をお祈りもうしあげます。


私は先生の訃報を昨日、2010年7月7日に知った。
巨星、微塵に宇宙の彼方に流れゆくか、
そのような感慨をもった。

私は、現代日本の地域力、地域文化の衰退を哀しくみてきた。なんとか、改善できないか
との問題意識から、研究してゆくと 梅棹忠夫さんのお著書にであった。

私の研究の一端を以下に掲載し、
梅棹忠夫先生を偲びたいとおもう。



町内会/自治会

日本では、住民組織で大きな影響力をもつのはやはり、町内会や自治会である。
先生は、次のように指摘されておられた。

〔日本の都市は「町」という単位で構成される。私たちがある場所に居を構えれば、ほぼ自動的に町内会に加入する資格があるとされ、また加入することにゆるいプレッシャーがかかる。この会員は一般に世帯主とされるから、「町」から住まいへ、そして一人の個人へという「入子」が構成されているのである。それは一つ一つの匣であるわけだから、貴賎を分けへだてているわけにはいかない。まるごと一体性なのである。この「入子」のなかの重要な匣の一つとして小学校が介在している。〕【守屋毅・梅棹忠夫編『都市化の文明学』1985、103~104頁】

私は、アメリカのゲーテット・コミュニティに若干ふれた。背景に人種差別があるかないかが、日本との大きな差異であったとおもう。日本ではコミュニティに入れるかどうかを、人種の違いで選別することはない。

〔現代アメリカにおける都市問題の根底には、黒人問題など少数民族に対する差別的偏見が横たわっており、「アメリカの都市問題は、人種問題である」とさえ、いわれている。そのひとつの典型とは、大都市圏の郊外部における黒人「締め出し」という現象であろう。〕【渡辺俊一著『アメリカ都市計画とコミュニティ理念』1979、7頁】 

日本は町内会のエリアに住み世帯主であれば、町内会に入会できるのである。

〔町内会がもつ多機能的という特質については、それがこのような過程から生じたものであるとすれば、時代の変化に取り残された前近代的集団であるからではなく、むしろ都市生活の変化に対応したことによると考えなければならないことになる。・・・
中略・・・確かに現在にみられる特質は前近代的集団の規定に合致するとみられるのであるが、しかし、ここにのべたようにそれは閉鎖的集団から開放的集団に転化し同時に都市的生活の変化に対応したことによるものであれば、それでも町内会を前近代的集団と分類してよいのであろうか。〕【倉沢進、秋元律郎編『町内会と地域集団』1990、76頁】

町内会とは街区の丁目単位、または字(アザ)単位ごとに住民の世帯ごとに自動的に加入する組織である。町会組織はところによっては歴史的な氏子組織に準じた単位で町会が継承されている場合もある。それは、戦前からの歴史を復活させている町会である。それに比べて団地型集合住宅の町内会こと、自治会は戦後の民主主義を標榜して結成されている。
自治会の自治は民主制と同義であると理解する。
団地地域コミュニティにおいて、自治がおこなわれているかどうか、ということより、自治の精神を追求して出発した、といえるのではないか。つまり、地域集団における役割は世帯ごとの参加であっても、それぞれの世帯主の個々の意思が民主的に地域でそだってゆくことを求めていることである。運営面では、独裁は通らず、多数決を基本とする組織運営である。これは民主制の地域版といえよう。

町内会は戦前と戦後では、まったくうまれかわった。

〔町内会などと呼ばれる近隣組織が行政組織の末端組織として制度的に位置づけられるのは、太平洋戦争突入前夜の昭和十五年(1940)のことである。内務省訓令第十七号で「近隣団結ノ精神ニ基キ市町村内住民ヲ組織結合シ万民翼賛の本旨ニ則リ地方共同ノ任務ヲ遂行セシムル」ため、町内会は行政指導で強化されることになった。〕
【梅棹忠夫・守屋毅編『都市化の文明学』1985、87頁】

戦勝国アメリカ進駐軍のマッカーサー司令長官は日本の町内会組織を解散させた。

たしかに解散させられる‘罪状’はあった。町内会は国家の末端の組織として働いた歴史があった。一方では、人々の和をつむぐ役割もあった。物事にはかならず、プラスとマイナス。メリットとデメリットがあるということではないだろうか。

新生町会を主体的に運営してゆくのは主権者となった国民である。
歴史から学べば、町内会といえども時の権力に支配された時代があった。「諸刃の剣」であったのである。敗戦の国民は廃墟からたちなおらねばならなかった。国の再建のために町内会は一役も二役もかうことになった。

日本人に民主制、自治意識を根づかせ訓練してゆくには町内会活動、自治会活動はもっとも身近な組織として、とても大事な組織となった。

それでも、文化人類学者の梅棹忠夫は町内会にきびしいまなざしをむける。戦前を生きてこられた人にとっては、当時の町内会、隣組の役割は侵略戦争に協力し先兵役を忘れられぬのである。当然、それへの反発、嫌悪感がある。
〔たしかに、現代の都市のなかにみられる連帯という名による束縛のほうを私は恐れ
ます。名前は「コミュニティー」とハイカラになっても、実状において、戦時中の隣組のわずらわしさ、いまわしさを完全にさけられるかどうか、私は疑問におもうのであります。〕【梅棹忠夫著『梅棹忠夫著作集第21巻 あたらしい都市像』1995、180頁】

町内会または自治会は大きな組織であればあるほど、行政への圧力団体にもなっている。行政機関から下ろされる伝達事項、連絡事項などは、回覧板で町内会、自治会の会員宅へ回覧されてゆく。
防犯、防火、衛生のことでは、警察、消防、保健所(保健所はこのところの構造改革で影が薄くなった)の下請け的役割で町内会が動いた。赤い羽根募金もまた例外ではない。これらお役所からの下達を呑んで応じて、あたかも連携プレイのようにみえる。この「協力」があればこそ、町内会が行政に物申すこと、圧力団体としての威力も発揮できることになるのである。

・・・地上げ屋暗躍・・・まちが ふるさとが壊れてゆく
バブル景気という時代があった。〔バブル景気とは日本の経済史上で1980年代後半~1990年代初頭にかけてみられた好景気である。〕
              【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より】

このバブル期には、全国的規模で、土地買占めがすすみ、東京では下町の不忍通りでも、高値で手放す者も現れた。その後、不忍通りのマンションラッシュとなった。
これら札びらによる土地収奪の動きを憂える作家がいた。
以下は司馬遼太郎の発言である。
〔宮沢さんもそれから土地公有論にちかい論旨のパンフレットをお書きになって、それが自民党内で袋だたきになった、という記事をどこかで読みました。袋だたきにした人たちは、土地の気違い的な投機現象とその根っこが資本主義的だと錯覚しているか、それとも土地を抱き込んいる人でしょうけど、そういう人はカチカチ山のタヌキみたいに、いずれ土地という泥舟といっしょに沈んでしまうでしょうけど、その泥舟に私ども日本中の人間が乗っているのだから、やりきれないですね。まあわれわれ人間は、人間の社会的生存に対するいたわりさえあれば、土地はもう公有にしなきゃしょうがないというところまできていることが非常にわかると思うんですよね。〕 【司馬遼太郎対談集『土地と日本人』1987、144頁】
対談での「宮沢さん」のお名前は、首相も務めた宮沢喜一を指している。

地上げ屋暗躍による土地買占め騒乱はこころある人に、これでいいのか日本、と問題を突きつけることになった。低層住宅地の下町・谷中や根津界隈でも、‘下町崩壊か’、と危機感をつのらせた。

私が聞いた谷中の人の声に、不忍通り沿いのビル現象を評して、「不忍キャニオンです」といわせた。まさに、渓谷のごときコンクリートの谷景観である。
不忍通りの高層マンション林立は、まちを、ふるさとを、こわしつつあるといってもいいすぎではない。それは、コミュニティ崩壊に繋がってゆくからだ。
では、地上げ屋だけがまちを壊しているか、と問えば、それだけではなさそうだ。
〔都心のマンションの半数近くは住民登録しないといわれるように、はじめから「入子」に入ることを拒否する住民も増えている。このことは日本人がいまだ経験をしていない都市的状況を生み出すことになるかもしれない。〕
           【守屋毅・梅棹忠夫編『都市化の文明学』1985、106頁】

これらマンションに関する住まい方、生活変化、影響について、「集合住宅の実体調査」をTokyoの特別区でおこなっているところは、残念ながらまだ五指をかぞえるほどの行政区でしかない、と私はみている。私は飯田橋駅近くの区政会館四階・特別区自治体情報交流センターへ9回ほど通って調べてきたが、そのような感想をもっている。
最近、ワンルームマンションの規制にのりだした自治体もある。が、これも23区中、まだ十数区でしかない。

私は集合住宅を敵視するつもりはさらさらない。都市に、都市圏にどっと人が集まれば、一戸建てのスペースはなくなるのは必然。日本人口が大正14年(1925年)の人口5973.7万人ほどになれば、一戸建て住宅の可能性はでてこようが、1億2700万を超える人口の日本で、都市集中化の収容先は中高層の集合住宅となるしかない。これは必然である。

マンションが増えることで、各世帯に内風呂ができ、銭湯へ通う人は減少。またひとつふたつと銭湯は消える。「銭湯文化」は先き細りになっている。
風呂場は、まち人の触れ合いの場であり、情報交換の場であった。江戸時代は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた。火事が多かったのである。幕府は防火のために庶民の内風呂を禁止した。銭湯に向わせたことで、社交はひろがった。
現代は、各世帯ごとに内風呂を備えることで、銭湯はギブアップしてしまう。そのようなわけで、裸で集うところがすくなくなり、まちは閉鎖性を助長することになった。
私が谷中の「はつね湯」で取材したところによれば、「夜10時をすぎて、お客様がどっとこられたものでした。稼ぎどきでした。そういうことは、まったくなくなってしまった」。夜10時をすぎて混み合ったのは十年も昔になるという。さんざき通りの「朝日湯」では、今年の八月には女湯を開放して、第一回篠笛コンサートを開催した。筆者も‘混浴’で拝聴した。聴衆に学生三人がいた。私は若い彼らからもアンケートがほしくなり、話しかけた。すると東京理科大の千葉キャンパスからでかけてきた建築科専攻の学生。記入してもらうことは諦めたが話していると、院生もいた。彼らは朝日湯のホームページを見て、やってきたとのことであった。銭湯は情報化時代にしっかり乗って、宣伝をしていたのである。彼らの担当准教授は私の合唱仲間Iさんのお嬢さんであった。東大の香山寿夫研究室出身の先生である。建築科の渡辺俊一先生からはソウルからご返事をいただいたと私が話をすると、驚き、親近感をもった様であった。彼らもまた下町研究で、はるばるやってきたのであった。
当日は銭湯とはちがう女湯の使い方で、開放性を発揮、ゆくゆくは銭湯客をひろげる涙ぐましい努力の例である。この朝日湯で筆者は「番台」前に立って、最近はフロントというのだそうだが、フロント前で四回ほどアンケート収集活動をさせてもらった。文京区千駄木から越境して台東の湯にやってくるお年寄りの姿は忘れがたい。地元のお年寄りも入浴福祉券持参でやってくるのである。

・・・・東京から長屋が消える、路地が消える、縁側が消える

 落語といえば長屋に住まう熊さん、八っぁんの噺は有名である。日本の伝統芸能のひとつ、落語は長屋が消えてゆくことで、これらの噺は理解が難しくなるのかもしれない。
東京から、長屋が縁側が勝手口が消えつつあるのは事実である。国勢調査でも年を追うごとに長屋すまい、間借りすまいは減少している。
谷中ですら長屋がつぶされて、三軒長屋は一戸建ての二軒に建替えられていた。現代人のニーズは、プライバシーを確保したいことから、大家さんは建替えたといわれている。
長屋住まいには、必ずといっていいほど、路地がついてまわった。日本の住まいの歴史、住まいの文化を考察すると、木造の家や長屋は、コミュニティで大きな役割をはたしてきた。
一戸建ての木造家屋には縁側があり勝手口がある。路地や縁側は、近隣の人々の交流の場、開放性の空間であった。それがなくなることは、人と人が気楽に交流をする場が難しくなるということになろう。
縁側の果たした‘役割’に、こどもが落ちてタンコブをつくることもあった。
マンションから落ちれば、タンコブ程度ではすまされぬ。死にいたる。そういう点で、タンコブという若干の痛みをあじわうことで、痛み、他人の痛みにも思い至る、認識させられていたのではなかったかと思う。筆者は「タンコブ文化」と捉えている所以である。現代の都会の子はタンコブもできない環境なのではなかろうか。

さて、谷中、根津界隈を歩いてみると、まだ路地はたくさん残っていた。否、路地を守ってきたといえよう。永井荷風の文をみてみよう。

〔表通りを歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは一層私をしてその陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである。路地はどうかすると横町同様人力車の通れるほど広いものもあれば、土蔵または人家の狭間になって人一人やっと通れるかどうか、危ぶまれるものもある。もちろんその住民の階級職業によって路地は種々異なった体裁をなしている。・・・・中略・・・・ 路地は公然市政によって経営されてきたのではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響きに午睡の夢を驚かさるる恐れなく、夏の夕は格子戸の外に裸体で涼む自由あり、冬の夜は置炬燵の隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買わずとも世間の噂は金棒引きの女房によって仔細に伝えられ、喘息持ちのご縁居が咳漱は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくのごとく路地は一種云いがたき生活の悲哀の中に自ずから又深刻なる滑稽の情趣を伴わせた小説的世界である。〕【永井荷風著『永井荷風全集「日和下駄」』1992,242~245頁】

                           以上・・・ あとは 省略 

 
 梅棹忠夫先生のお仕事は北斗七星のごとき存在でございました。

戦争責任の問題から、先生は町内会組織にもきびしい分析をされておられたと思います。
集合住宅のくらし方でも、先生は、慎重そのものでした。

私は、そのコミュニテイ論では異見をもっておりますが、
先生は二度と侵略戦争を始めさせない社会構築のご研究ではなかったかとも、
思っております。

先生のご遺志をまもってゆくことでは、
いままでも平和憲法をまもってきましたように、
賢明な現代日本人なら、梅棹先生の精神を引き継いでゆけるのではと信じております。

政権交代がすすみますと
町内会も 大きな試練をうけるでしょうし、
ゆくゆくは
地殻変動をおこしてゆくことでしょう。

私も微力ながら、梅棹忠夫先生の精神を尊び
努力したいとおもいます。

梅棹忠夫先生、
ありがとうございました。