日々諸々

西日庵雑記・洗足ベース通信

団塊消費考

2006-05-19 10:01:20 | 日々程々
辰巳渚氏の、退職後の団塊の世代は売り手が期待するほどのマーケットではないという説を読んで団塊の一員として意見を。

団塊の世代が育った時代は、まだ日本の消費経済が成熟していなかったため、彼らはものを消費することによって精神的満足を得ることに不慣れである。人が買うから、人がやるから自分もといった消費行動はするが、自分自身の幸せの実現のためにものを買うということはしない。だから手にした退職金も、その後の生活のために抱え込んだままなのではないか、というのだが。

大学生のとき、生まれて始めての海外旅行でアメリカに行ったが、そのときの印象は「なんてものが豊かな国なんだろう」ということだった。品揃えの豊富さと、その絶対量。こんなもの誰が買うんだろうといったものもたくさんあり圧倒されたものだ。

今の日本はそのときうけた印象以上にものの豊かな国だと思う。が、私自身は、ものはいっぱいになったが以前にも増して欲しいものが減ったというのが実感だ。

辰巳氏は新しく出来たイケアを訪ねたときを例に、イケアは安い値段で趣味のいいものを提供する店で、若い人たちは素直にいいと反応するのだが、団塊の世代は商品の前で反応できず戸惑っている。団塊の世代は自分自身の満足や幸せのためにものを選び取る訓練が出来てないのではないかというのだが・・・

団塊の世代としてでなく、私個人の考えから弁明させてもらうと、イケアの商品は値段は安く趣味はいいが上手く作られたマスプロ品という感覚で、職人が念入りに作った本物とはまったく違う。味が感じられないので心底買いたいとは思えない(辰巳氏はイケアに50代過ぎの夫婦が似つかわしいのかと書いておられたが、問題はまさにその点なのだ)

つまりイケアの商品を喜んで買う層というのは、私が始めてアメリカにいって驚いた感覚の消費者なのではないか。そこそこの値段の趣味のよい商品を身の回りに置き、楽しく満足しながら生活する消費者。飽きれば安いので捨てて別の新しいものに取り替える。まさにものを消費していく人たち。

それはよいものをいとおしみながら使い、傷んだら直しながら使い続ける生活ではない。なぜなら団塊以降の消費していく人たちが育った時代に、そういったかつてのよいものはもうなかったから。

私自身は消費によって幸せを得るのが苦手なのではなく、消費することが嫌いなのだと思う。ものを大切にし維持していくことに幸せを感じるのだ。私は消費者ではなく保持者なのだ。しかし時代は否応なしに消費を迫る。ロハスだのなんだのと、まことしやかなことをいいながら。

しかし団塊の世代でもこのように考える人たちは少数派のようだ。そして保持者ではない団塊の世代の人々の現実は、辰巳氏のいわれるように、幸せのために消費する体験があまりに少ない(この点で、私は辰巳氏同様、安直な団塊市場期待論を疑問視する)

結局、安くてセンスのいいことは認めるがイケアはディテールが雑でいやだという私のようなアンチ消費族を除き、老後の生活のため節約し消費をひかえる、イケアって何?って人たちか、評判を聞いてイケアショップにきてはみたものの商品の前で戸惑う50代が団塊の世代ってことになるのかなぁ。

想像力の欠如

2006-05-14 21:20:04 | 日々程々
先日、昼食に中目黒でカレーを食べました。
行ったのは昼休みも終わりに近い12時40分でしたが、そのカレー専門店は満席で、私の前にも1名空席待ちしている方がいました。

少々お待ち下さいといわれて、座って待ちながら店内を見回すと。
すぐ前の席にいる4人組は食事が終わって冷たいラッシーを飲んでいました(4人のうち3人は男性で2人は飲み終わり、他の男女も半分くらい残っているだけになっていました)

この席は2人用テーブルをくっつけていたので「しめしめ、もうすぐひとりずつ掛けられるな」と思ったのですが・・・

飲み終わっていたひとりは上司とおぼしき男性で、話に熱中しており、帰ろうといいだす気配はありません。当然彼の話に付き合っている若い人たちも席をたつ気配はありません。

そのうち彼らのすぐ隣の席が空き、奥の席も空き、待っていた私たちはそれぞれ着席出来ました。午後1時をまわると徐々に帰る人たちがふえ、空いたテーブルも出始めましたが、とっくに食べ終わり飲み終わっている彼らはまだ話をしています。

そうなると私の興味はこの4人組がいつ席を立つかという点になりました。

結局彼らが帰ったのは、私がカレーを注文し、しばらくして出たキャベツの酢漬けの皿を食べ始めたころで1時を10分くらい過ぎた頃でした。

子供の頃、待っている人がいると、既に食べ終わっていた両親は私に早く食べ終わり席を立つように促したものです。それは我が家に限ったことではなく、どこの家でも行われていた躾でした。

サラリーマンもバブル崩壊以後は河岸を変えてお茶するのもままならなくなったせいか、結構長居するようになりましたが、かつて男たちは昼食が終わるとすぐ席を譲ったものです。自分の食事が終われば仲間をおいてでも店を出て喫茶店に行くのが普通だったと思います。急いで食べてゆっくりお茶する(こう書くと怒られるかもしれませんが、女性たちはそうでない人たちが多かったようですけど)

しかるにこのカレー屋で見た光景では、かつて率先して席を立ったような壮年のオジサンが傍目を気にせず話に夢中になり長居をする。まあ、ゆとりといえばゆとりなんだろうけど、もうちょっと他人を気遣ってもいいんじゃないかと私は思いました。

いや、気遣いなんていう偽善的なものではなく「もし自分が逆の立場だったらどうか」と想像してみればすぐわかることだろうと思うんですが。

待っている人がいるのに食べ終わっても平気で席を占領して話に熱中しているなど、なんか、傍若無人な人が昔に比べて増えたような気がします。

話は飛躍しますが、電車の席にひざまずいて外を見ている子の靴を脱がさない親(年代的には団塊ジュニアたちと思われる)なんてのも増えたような気がします。その親の親(恥ずかしながら我らの世代だ!)の子に対する躾がなってなかったからなんでしょうか。

確かに団塊ジュニアは団塊世代に十分躾られなかった子供たちだったかもしれないが、私には、やはりそういった他人に迷惑をかけて平気な(っていうより正しくは、迷惑かけているってことに気づかない。だから注意すれば素直に従ったりするんだよね)メンタリティってやつは、当人の想像力の欠如としか思えないんだなー。

私はもう老いぼれるだけだけど、これからのこの国は大変だろうなぁ。







お客さんの身になって考える

2006-05-06 12:04:36 | 日々程々
お休みでのんびり出来たのでちょっと書き物を。

銀座にはものすごい数の飲食店があります。
しかし仕事に入る前に夕食をとろうとすると、適当なお店がなくていつも困っています。

この場合<適当な>とはどんな要件を満たしていればいいのかと考えると
  1)17:00に営業していでちゃんとした食事が出来る
  2)1000円前後で満腹になる
  3)お酒を飲まなくてもよい
  4)ひとりで食べていても肩身が狭くない
  5)そこそこに美味しい
といったことでしょうか。

そうすると大抵ラーメン屋さんになっちゃうんだよね。
で、昨日は連休なのでちょっと気ばって、近所のイタリアンというかピッツェリアというか、に行ったのですが

案内され、着席し、差し出されたメニューを見ると
開かれていたのは最後のページで、お酒のメニューなんですね。
「うーん、これって」と思いつつ「まあいいか」とグラスワインを注文し、ピッツァだけをたのむと・・・

「前菜はいかがですか」という。
「結構です」と答えると
「焼き上がるまで15分くらいかかりますがよろしいですか」という。

これまた、結構ですといったんですが。ねぇ。
なんか「なんだケチくせなー」と思われているようで。

確かに焼き上がるまで時間はかかり、手持ち無沙汰でした。

待つ間に思ったんですね。なんでお酒のページ開けてメニュー差し出すんだ! とか、薪釜ならもっと早く焼けるんじゃないか! とか、このクラスのお店でグラスワイン900円も取るならもっと量を出せ! とか。

勘定すると2300円ちょっと。前述の適当な要件なんかほとんど満たしていない。
夕食に行くとこないって気持ちがわかるでしょ。

従業員の対応はマニュアル通りで悪いわけではないんだろうけど。
だとすればお店の商売っ気が目立ちすぎて、なんかいやらしいんだよねぇー。

売上あげたいのはわかるけど、ここは食事のお店で飲み屋じゃないんだから、いきなり飲み物(それもお酒)の注文なんて訊くなよ。メニューの1ページ目ならともかく最後のページ開けて。

「お酒をたのんだら前菜を薦めろ」ってマニュアルにあるのかどうか知らないが、断った途端に時間がかかるとは嫌がらせみたいじゃないか。急いで作りますが時間がかかるので何か召し上がりながらお待ちになられたほうがよろしいですよ、っていうアプローチは出来ないのか。

<売らんかな>といったお店の都合でなく、お客さんの要望を伺った上で「だったらこうすれば、もっと豊かな時間が、新しい楽しみがうまれますよ」と別の選択肢を提案出来るのが本当のサービスだと思うのだが。

こんなこというばっかりで、当店はなーんもしてないんだけどね。ははは。





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本日休業

2006-05-06 11:28:44 | 業務連絡
本日は日曜日を含んで3連休になりますが
既にお知らせの通り
今年より営業日を月、火、木、金曜日とさせていただきましたので
休業いたします。

近々2、3種類ワインが新入荷します。
連休明けのご来店をお待ちしています!

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コーヒー観念論 ワイン唯物論

2006-05-06 10:43:22 | 日々程々
家でのコーヒーは、ネスプレッソという専用マシン+専用ポッドで淹れたものを飲んでいるのだが、ポッドのコーヒーは20数種類あるというということで、マシンを借りた直後、何回かに分けて全種類買い、試してみたことがある。

数ヶ月後に「結局これが美味しい」ということで、レギュラーコーヒーを飲む家内と彼女の妹が2種類、エスプレッソを飲むデュークと息子が2種類と、合計4種類の銘柄を決め、今ではそれを飲んでいるのだが・・・

最近聞いた話だが、実はこの4種類だけ値段が高いのだそうだ。

「うちの人ったちってー」と家内はいっていたが、当然、試しに飲んでいたときは値段は知らされていない。ただ好みの味と香りで選んだだけなのだ。

これは家人とデュークの自慢話だが、逆に考えると、価格や産地ブレンドなどの情報を一切知らないまま、よいと思った(あくまでも我が家の基準に照らしてだが)商品に高い値を付けるネッスルもさすがであると思った。

しかし、おそらくそれは、単に豆の原価が高いからという理由によるのであろう。

コーヒー豆の値段は世界のマーケットの需給関係で決まるとすれば、世界の消費者は、やはり美味いものは美味いと誰もが思っているということになる。

かつて私は、誰もが美味しいというワインについて考えたとき、花の美しさなんてものはなく、ただ美しい花があるだけだという結論に思い至ったのだが・・・

シェイファーのテイスティングに行ったときのこと

2006-05-03 02:56:31 | 日々程々
ワインをコメントしたのはソムリエのSさんで
ワインはヒルサイドセレクトの(Sさんは終始ヒルサイドテラスといっていたが)92 94 97 01。皆よい年といわれているものであった。

で、彼のコメントで納得できなかったのは92と94を比較して
94に比べ92が若いというコメント。

色だのなんだのと具体例をあげていうのだが、自分はどうもそうとは思えない。94は明らかに92より若いのだ。

で、そのとき思った。94は涼しい年で雨のせいか、そんな年のシェイファーの造りのせいかはわからないが、カリフォルニアにしては果実味が少なくかすかに不潔っぽさがあり、かえってそれが年とともにフランスのワインにあるような香りになって、いい感じであったのを熟成といったのだろうと。

92はおきまりのクリーンなカリフォルニアのカベルネで、果実味豊かでフランスワインのような熟成香は感じられなかった。だから若く感じたのではないか。でも、おそらくこのワインはいくら置いておいても94のような香りにはならないだろうし、2年前も現在の94の香りはしなかったと思う。

フランスワインの経験を基準に考えたSさんは、フランスウィンの熟成香から判断してそういったのではないかと思った。で、隣席のHさんに「そう思う?」と訊くとSさんと同じ意見だと。うーん。

納得いかなかったので、その数日後、お会いした主催者のIさんに伺うと・・・

「あれは瓶差だよ。ダグも驚いていた」と。たまたま壇上の彼らのところのワインがそうだったのだろう。何本出したのと訊くと5本出した、と。そりゃ、瓶差かも知れないな。

でも、Sさんのコメントを隣席で肯定してたHさん。うーん、どうなんだろう。壇上の人々に注がれたものと瓶は違うのに。
ワインのテイスティングは難しい。