人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集3(5,6)

2024年02月03日 15時34分52秒 | 学習
文鮮明先生の言葉集 3 - 5. 捨てられたイエスを探して立てる花嫁になろう (1957年10月4日)

1957年10月4日(金曜日)、礼拝、前本部教会。

聖書拝読:ヨハネによる福音書12:44-50


<祈祷>
 父なる神様、これまで私たちを守ってくださったお父様の前に、心から感謝いたします。特に今日は私たちが覚えておくべき日であることを知っております。
 愛のお父様! 過ぎ去った日を思い出し、その時の敬意と感情を振り返りながら、今日の私自身がどこにいるか、また先週、お父様の前にどれだけの栄光をささげたかを反省できるように、この時間を私に許してくださいと心から願っています。
 多くの人々の中で私たちを最初に呼んでくださり、哀れな国民の中で私たちを最初に見つけ立ててくださったお父様に、心から感謝いたします。私たちが負うべき責任が重いことを知り、愛するお父様、どうかそれを許してくださいと切に願っています。
 私たちの目指す目標は地上の物事ではなく、私たちが追い求めるものは地上の欲望のためではなく、天運に結びついたお父様の意志を解き放つためであることをお父様がご存知ですから、その意志を捨て、後退する者にならないように導いてください。
 さらに、お父様の勝利の旗を高く掲げ、三千万の民族をお父様の愛の前に導き、同志になり得る子供たちになることを許してくださいと切に願います。
そして、三千里半島がお父様の愛の腕に抱かれることを許し、聖霊が宿ることができる場所になるように許してください。
 愛するお父様! 今日は私たちはあなたの前により一層近づきたいという気持ちで集まっています。自分の不足をお父様の前で懺悔し、自分の正しくないすべてをお父様の前で清算し、お父様の命じる命令に従って進んでいけるよう、私たちが許されるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
これまで私を中心に据えて行ったことについて、何かございますでしょうか? 自分を主張するために生きてきた何かがありますでしょうか? もしもそのようなものが私たちにあるのであれば、お父様、この時を清算してください。そして、私たち自身がお父様の前に主張できる条件は何もないことを知るようにしてください。
 それによって私たちの持つすべてをお父様に託し、頼り、望むこの一時を許してください。ただし、お父様の許された恵みと、お父様の導かれる歴史だけが現れるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
 お父様、ここに集まった家族を統一的な恵みとしてこの時を主宰してください。そして、今夜も地方に散らばる孤独な家族が父の前に伏し、国のために祈っていることを知っています。お父様、彼らの心にも統一的な恵みを共有し、愛の聖霊が彼らの未来を保護し、また喜びの恵みがこの時に彼らの心を満たすように許してください。
 愛のお父様、ここに参加できなかった家族もいますし、試練と逆境の中で孤独を経験している家族もいます。お父様、彼らを守ってください。
今まで耐えてこられた心情、お父様の悲しい心情を、お父様、この一時に解放してください。私たちがお父様の前に献身する代わりに、お父様の実在する子供として現れることができるその日が早く来るように許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
 この時点以降のすべての手続きをお父様に託しましたので、愛で保護してください。そして、私たちがお父様の愛を感じることのできる時間に導いてください。切に願い求めながら、すべての言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。



<御言葉>
 今日のこの時は、「捨てられたイエスのものを探して立てる花嫁になろう」と題してお話しいたします。
人々が今まで信じてきたイエス様、または今の時代において、キリストと呼び、主と呼ぶイエス様は、当時地上においでになって栄光を受けなかったことは皆さんもよくご存じです。
 今日信じている私たち自身もそうですが、当時の人々の中にはイエス様が残していかれた言葉を天の言葉と信じた人はおらず、その言葉を自分の命を代わりに捧げる言葉と信じた人も一人もいなかったということです。
このようにして地上に降り立ったイエス様でしたが、地上の人々からは歓迎されなかったということです。個人を代わりに彼を真に歓迎した人は誰もおらず、家族を代わりに彼を歓迎した人も一人もいなかったことを皆さんは理解すべきです。
 イエス様は30年間、ヨセフとマリアの家族で生活しましたが、その家族では誰もがイエス様が抱く心、イエス様の望み、イエス様の生活とやるべきことについて無知でした。さらに、イエス様の言葉の深い意味を理解し、イエス様をキリストとして迎える者は誰もいませんでした。むしろ、イエス様を信じずに拒絶する立場を取っていたのがイエス様の家族でした。
家庭で見いだすべき義務があり、個人に対して見いだすべき使命があり、また生活を通して、仕事を通して見いだすべき使命がイエス様にはありましたが、その当時のユダヤ人たちの中にはそのようなイエス様の使命を自分のものと感じる人は一人もいなかったということです。
 イエス様が見、聞き、語り、行い、働くすべての生活が無知な地上にあったとしても、その生涯は地上の人々のためだけではなく、人々が知らない新しい神の意志のために生きていたのです。したがって、こうして新しい天命のために生きたイエス様には、まさに人知れぬ背後の悲しみが言葉や信念、行動や生活に表れていたことを皆さんは知るべきです。
 さらに、イエス様は家庭で自分の意志を立てることができなくなると、社会を通じてまたは教団を通じて自分の意志が知れ渡ることを望んでいました。しかし、イエス様はユダヤ教の前にまたはイスラエルの民族の前にも歓迎されず、拒絶されたのでした。
 こうしてイエス様の一進が拒絶されただけでなく、さらにはイエス様が述べられた言葉も拒絶され、イエス様の生活とイエス様が成し遂げようとしたその一切がすべて拒絶されたことを皆さんは知るべきです。
 ですから皆さんは、そうして拒絶を受けたイエス様の心情、拒絶を受ける時の孤独さ、心に刻まれたその苦しみがどれほど大きかったかを考えなければなりません。もしもそのようなイエス様の苦しみを知らない者になると、皆さんは4000年の歴史を背負ったイエス様の生涯、彼の信念、彼の生活、彼の業績、そして彼の言葉を知る者として、決して現れることはできません。
 今日私たちは、イエス様のそうした事情が表れている聖書の言葉を通じて少しは知っているかもしれませんが、それもあくまで頭で知っている程度であり、また耳で聞いて知っている程度です。しかし、それだけでは駄目だということです。
昔のイスラエルのユダヤ人たちに対して、イエス様が語りかけたときでも、彼らはただ耳で聞いて頭で理解するだけでした。現実の生活で感じ取れず、耳で聞いて頭で理解するだけだったため、逆に彼らはイエス様を十字架の道に進むようにさせたのです。だからこそ、言葉を頭で理解し、耳で聞いてだけではだめだということを皆さんは明確に理解しなければなりません。
 では、今日私たちはどうすれば良いのでしょうか?  聞いた言葉を頭で知るだけでなく、心で理解し、行動できるようにならなければなりません。しかし、当時、イエス様が十字架の死の道を歩むまで、このように言葉を頭で知るだけでなく、心で理解し、行動する人は一人も現れませんでした。
 イスラエルの民族、ユダヤ教、そしてイエス様が3年間にわたって共に過ごし教えた弟子たちの中でも、そのような人は一人も現れず、全員が不信の立場に追い込まれ、拒絶する結果となりました。
 イエス様は熱心に教え、夢を通じて神の計画を知り、また神の摂理に無知な彼らに「私を見た者は神を見た者だ」と語りかけ、熱心に彼らを覚醒させました。しかし、当時のイエス様の愛する弟子たちは、このようなイエス様の背後の事情をまったく理解していませんでした。聞こえる言葉や見る目、知る頭でなく、言葉を頭で理解し、心で感じ、身体で行動した人は一人もいませんでした。
 それでは、今日、歴史的な終末の時代を迎えるにあたって、私たちの責任は何でしょうか? 失われたイエス様のすべての信念を回復し、この地上のすべての邪悪と戦って勝利し、天国の世界を築き上げ、イエス様を花嫁として迎え入れる資格を持たねばなりません。
 単にイエス様の事情を聞いて知る程度でなく、自分の頭で理解するだけでなく、心で感じ、身体で感じ取れることが必要です。したがって、皆さんはイエス様が語られた言葉の中に、当時の人々の前で父の意志をすべて打ち明けられなかった事情、天命の秘密を全て明らかにし、語られなかった無限の苦悩があったことを理解しなければなりません。
 もしも皆さんが、そのようなイエス様の事情や心情を知らなければ、イエス様の言葉を真に理解することはできません。また、イエス様が言葉を立てるために生活された事情も理解できませんし、地上の諸民族を救うために努力されたイエス様のその使命も理解できません。
 当時のイエス様の心情と、彼に対する人々の心情は無限の差がありました。イエス様は自分の深い心に秘められた言葉を述べることなく、無知な一般の人々を覚醒させるための忠告の言葉だけを述べていたのです。
 それでは、当時のイエス様が話された内容はどのようなものでしょうか? それはサタンの支配する世界、邪悪な地上、敵対者たちの世界に住んでいるが、天の子となることを望む者たちの前で述べた忠告の言葉でした。サタンの支配する世界で試練を受けずに勝利できる手段を提示した言葉でした。言い換えれば、イエス様は人々がサタンの支配下であっても、あなたの言葉を守り、あなたの心情を代わりに生きることができる足場を残していったということです。
ですから、イエス様は私たちに対してどのような最後の言葉を残されたでしょうか? それは「あなたたちは私の花嫁である」という言葉です。当時のイエス様は、このように愛する弟子たちに対しても直接的に話すことができず、後日を約束する立場から話さざるを得なかったということです。このようなイエス様の心情を皆さんは理解する必要があります。
 天が託してくださった意志を抱えて、イエス様はあなた方の弟子やイスラエル民族、ユダヤ教を愛する心に変わりはありませんでした。しかし、無知な民、無知な教団、無知な弟子であったため、イエス様はサタンと戦う先鋒として、一人であらゆる矢を受け、彼らに人生の道を開いてやるために苦難の道を歩まれました。
 つまり、自分の心の奥深くに隠された感情、天の花嫁の信念を告白し、話せる環境を持たなかった悲しいイエス様であったということを、今日の皆さんは確かに知っておかなければなりません。それでは、イエス様が行かれる中で、この地の我々が喜びの一日を迎えることができる希望の兆しとして、「あなた方はわたしの花嫁」と言われた言葉はどうだったでしょうか? 今日、その花嫁の信念はどうなっているのでしょうか? まだ何千年もの歴史の過程を経て、サタンとの激しい戦いに勝利し、イエス様の花嫁の立場に入った者がいなかったということです。
 ですから、今日の皆さんは、2000年前に天から選ばれ、立てられたイスラエルが築けず、愛する弟子たちが築けなかった、イエス様が望まれる花嫁の信念を代わりに築いていかなければなりません。そして皆さん自身がイエス様の心情に立ち向かうことができる人間にならなければなりません。
 それでは、イエス様が話された言葉はどのような立場から話されたものでしょうか? 花嫁の信念を完成させていない立場を置いて話された言葉なのです。彼の言葉は花嫁が信じる人々が真に花嫁の資格を持ち、イエス様の熱意なる事情を通じて進むことができるようにするために残された言葉でした。
 ですから、今日の私たちはイエス様が授けられた言葉の真意を実現し、イエス様が求める花嫁として、花婿の言葉で立ち上げなければなりません。そして、その当時のイエス様が感じられた内面的な心情に感情移入できる立場まで進まなければなりません。もしもこのような立場まで進む者がいなければ、イエス様が30年以上にわたって語られたその言葉の目的は達成されないことを皆さんは知っておかなければなりません。
 それでは、イエス様がこの地上で言葉を伝えた時の状況はどうだったでしょうか? 万民がイエス様の言葉を歓迎せず、むしろ反論し、さらには迫害まで行ったことです。ですから今日の皆さんは、イエス様がそのような状況でも逆に迫害される彼らのために語られた内面的な心情を把握できる人にならなければなりませんし、全人類の花嫁となられたイエス様のその心を感じ取る人にならなければなりません。
 また、皆さんはイエス様が2000年以上前に語られたその内面的な心情が今日の自分の胸と体と頭を震わせている感覚を持っていなければならず、さらにはイエス様を慰められる人にならなければなりません。その上で当時却下されていた言葉を歓迎し、イエス様の言葉の目的をこの地上で確実に果たす聖徒にならなければなりません。
 こうして花嫁となられたイエス様の言葉はこれまで数多くの歴史の難所を越えて私たちに伝えられてきましたが、終末の時を迎えた今日において、その言葉にはどのように対処すべきか? 皆さんはその言葉を頭で理解するだけでなく、心で理解し、身体で理解しなければなりません。
 そして皆さんはイエス様の言葉が却下されたと同時に、イエス様が30年以上にわたって捧げた生涯の節目も却下されたことを理解しなければなりません。つまり、イエス様の言葉が却下されただけでなく、イエス様自身も却下され、またイエス様自身が却下されたことによって、自身の30年以上の生涯も却下されることになったことを理解しなければなりません。
 では、花嫁とならなければならない今日の皆さんは、これから何をすべきでしょうか? イエス様があのように却下された30年以上の生涯の節目を皆さんの一忍で受け入れることができなければなりません。
 イエス様は30年もヨセフの家庭で生活していましたが、彼がしていることを誰もが歓迎したことはありませんでした。また、イエス様はどこでも自由に行ける環境で生活できなかったことを理解しなければなりません。
 イエス様の意向と言葉は、彼がしている生活とは非常に顕著な違いがありました。自分の事情を打ち明けることのできる存在を見つけられなかったため、イエス様は自分が言いたいことを言えず、黙って大工の仕事をしていました。
また、イエス様は神が数多くの預言者を送って成し遂げようとされたその意向を実現できる主役でした。つまり、その時、イエス様は国の中心であり、教団の中心であり、さらには個人の中心だけでなく、全体を代表する中心でした。
しかし、イエス様は自分がこのように地上のすべてを代わりにする主であると同時に、霊的な領域まで支配しなければならないことを理解していました。これらのすべての事実が逆らわれることで、彼はますます苦しい生活をしていきました。
 こうしてイエスの生活を捨てさせた責任は、古代のイスラエル民族だけでなく、ユダヤ教団、ヨセフの家庭、バプテスマのヨハネ、そしてイエス様の愛する弟子たちにもあるという事実です。
 それでは、このような事実に対処するにはどうすればよいでしょうか? 皆さんは再び世界と国を代表して来られるイエス様を、花婿としての希望として慰める存在となり、多くの教団を代表して慰め、今日の多くの家庭を代表して慰め、イエス様の愛する弟子を代表して慰める存在にならなければなりません。
また、神様はイエス様が生きていた時に骨と肉に触れるほど感じた辛い心情を、今日の一信者が感じるためにもがく存在が現れることを望まれて、これまで地上で歴史を支配していることと、また聖霊を通して歴史を支配していることを知らなければなりません。
 イエス様は新しい福音を語るために行く先々で不信を受け、動くたびに迫害されながらも、イスラエルの民族の悩みや難題を引き受けられました。しかし当時、こんなにも一人で全ての人間の悩みを引き受けたイエス様の仕事と言葉を、自分の仕事と言葉として受け入れ、共に努力した者は一人もいなかったのです。
 したがって、今日の皆さんは当時ユダヤ民族がイエス様の言葉を捨て、世界を捨て、イエス様の仕事を捨てたそのすべての誤りと悪を清算し、イエス様の理念をこの地に立て直さなければなりません。
 また、皆さんはイエス様が天の意志を代わりにして創造主となる友になろうとしたそのような理念を見つけ、立て直さなければなりません。そして今日、私たちが聖書の視点から見ると、イエス様は地上に来て当時のユダヤ民族の不信心のために、神の永遠の理想全体を十分に示すことができずに去って行かれました。
 それでは、そのようなイエス様の理想は一体何だったのでしょうか? 彼の理想は天と地を合わせて一つの国、一つの世界、一つの理想郷を築くためでした。しかし、これは簡単なことではないと私たちは知らなければなりません。
一つの国が存在すれば、その国には一つの国家イデオロギーが存在します。また、その国を統治するための政治機関が生まれ、そこには必ず何らかの政策があり、更にはその政策を立てる一つの政党が存在するということです。そのため、国民はそれぞれが一つの政党を中心に据え、個々に異なる方法で生活していることを私たちは知っています。
 一つの国が国家イデオロギーを築くためには、このような複雑なプロセスを経なければ、本来の目的を達成することはできません。そして更には、天の意志を達成するために、人間一人ひとりにイエス様の言葉や生活、仕事を見つけて築く責任があるということを理解する必要があります。
 しかしながら、今までにその責任を果たした人がいないため、イエス様の理念は未だに地上に現れず、神の前で大きな悲しみをもたらしていることを確実に理解する必要があります。
 また、皆さんはイエス様がこの地に新しい天国、つまり楽園を築こうとして天に対して誠実であったその誠実を手本にしていく存在にならなければなりません。イエス様が愛する弟子たちに対して述べた言葉の中で最も重要なものは、「あなたたちは私の花嫁である」という言葉でした。つまり、イエス様はこの地に来て花婿と花嫁の理念を築き、去られたのです。
 したがって、今日の皆さんは花婿と花嫁の位置を経て、家庭を超えて社会や国家、そして世界と結びつき、天の理念である造物主である父と一体化する位置まで進まなければなりません。
 皆さんが進む中で足りない点があるとすれば、それはイエス様がそこに比例するだけの悲しみをもたらすことを理解しておくべきです。したがって、今日の終わりに直面する聖徒たちはどうすべきでしょうか?イエス様と同じ心情を通じて戻ると同時に、生活の理念を戻し、彼の仕事を戻すべきだということです。
 それによって家庭を超えて社会を通り、国家や世界、宇宙全体に通じる人にならなければなりません。イエス様は天国の理念を確立するために呼ばれ、神はイエス様をこの地に立て、この地上に天国を築くための新しい理念を紹介されたからです。
 イエス様はこの使命を引き継ぐために、自分の一生のすべてを捨て去り、一つの宗教を代わりにし、神を代わりにする道を歩まなければなりませんでした。その結果、彼は孤独な道を歩まれ、人類に対する嘆きと祈りの言葉を残して去られたことを、今日の皆さんは忘れてはいけません。
 したがって、現代に生きる皆さんがイエス様の使命を回復し、この地上に天国を築くためには、ますます何を求めなければならないでしょうか?まず、イエス様の思想である御言葉を最初に見つけることが重要です。生活を通して、イエス様の思想を確立していく必要があります。今では捨てられているイエス様の使命を、今後は日常生活の中で見つけ、実践していくことが求められています。
 このようにして、個人を通じて家庭の形を経て、宗教の形を経て、国家や世界にまで進んでいく過程で、神が動くとイエスも動き、イエスが動くとこの地も動く、そのような一体的な関係を築く人にならなければなりません。なぜなら、そのような関係はイエス様と聖霊の力だけで成り立つものではないからです。
 したがって、イエス様の言葉は邪悪な世界、すなわちサタンの侵略を受ける環境で、その苦難を防ぐことができる言葉なのです。では、今、皆さんが理解すべきことは何でしょうか?イエス様がこの地に来て全ての人々に語るべき言葉を果たさないまま、神の計画を果たさないまま、やるべきことをやり尽くさないまま、人々に対して命じずに去られたという事実を理解する必要があります。このように、イエス様がこの地に来て全く達成せずに去られたのは、この内面的で哀れな悲しみの状況を感じることができる人になるためです。
 花嫁として花婿を迎える花嫁は、花婿の希望を自分の希望とし、花婿の生活が自分の生活となり、花婿の言葉も自分の言葉となり、花婿の行動も自分の行動となる絶え間ない関係を永遠に築いていくべきです。同様に、今日の皆さんもイエス様の花婿となるためには、このような花嫁の資格を備える場に立たなければなりません。
 ですから、今日の皆さんは、イエス様が歩まれたその道を皆さんの実生活で感じ、思いやりを持たなければならず、さらには不信仰の群れの前でもイエス様の言葉と御心を伝えなければなりません。また、皆さんが神の御心に対するイエス様の心情が切実であるほど、またイエス様と一体になればなるほど、より謙虚な立場で兄弟と一体となりながら進んでいく必要があります。
 そうしたとき、皆さんはこれまでに人間が歩むべき道、人生の真の道に向かって歩んできた宗教の主人公たちを理解できるでしょう。では、イエス様が今日の終わりの聖徒たちに対して望まれていることは何でしょうか?イエス様はあなたがたがなりうる花嫁となることを望んでいます。
 しかし、その花嫁とはどのような花嫁でしょうか? 単に家庭にとどまる花嫁だけではなく、またはユダヤ教界にとどまる花嫁でもなく、選ばれしイスラエルの民とその国を代表でき、また世界を代表できる花嫁であると同時に、天国地上を代表して神の業を代わりに担いで果たせる花嫁であり、神の意志を実現するために義の法則に従い共に協議できる花嫁であることを望まれ、またそのような花嫁を求めておられるのです。
 今、皆さんは自分が信仰生活をしながらどれだけイエス様が望む花嫁の資格を持っているかを反省する必要があります。皆さんは生活において本当にイエス様の業を見つけていますか?本当にイエス様の思想を実践するために努力していますか?つまり、言葉においても行動においても、皆さんはイエス様の言葉と行いを代わりにしようと努力していますか?これについて皆さんは反省しなければならないということです。
 そして、皆さんは自分の生活が当時のイエス様の思想に関連し、当時のイエス様の業と関連する行動をするべきであり、また天国を代表してこの地に来て全てを失ってしまったあなたのイエス様の内面的な悲しみをすべて引き受けなければならず、さらにはその悲しみを解消できるようにならなければなりません。これらの使命が皆さん一人ひとりに与えられていることをはっきりと理解しなければなりません。
 それでは、今度は皆さんは、イエス様がこの地に来られて花嫁一人を見つけるために努力されていた、その悲しい心情を持ち、あらゆる人間やすべての教団を見ることができなければなりません。つまり、神の御心を達成せずに悲しい悲しみの心情を抱えて死んでいかれたイエス様の心情を理解し、真の勇気を持って戦って進むことができる人にならなければなりません。
 つまり、サタンの前で一人で立ち、十字架の死さえも恐れず、むしろその十字架を踏み越えて天国の前で栄光を讃えられたイエス様の実践的な生活を手本にする人にならなければなりません。そして、皆さんはイエス様の実践的な生活を手本にするだけでなく、ある日サタンと戦って勝利したとしても満足するべきではなく、この宇宙がイエス様の思想によって永遠に支配され、天国の栄光がイエス様の栄光、または皆さんの栄光として現れる場所まで満足すべきではありません。つまり、皆さん自身が天を感動させ、イエス様を感動させ、父を喜ばせて全宇宙が喜べる日を実現することで満足する必要があります。
 天を感動させつつ得るべきなのは何か?最初に皆さんはイエス様の四方を代わった皆さん一人一人を見つけるべきです。そして、皆さん一人一人がかつての12部族を代わった個々の姿にならなければならず、12部族を代表して立てたキリストおよびその12部族とはどのような関係にあるかを明確に知る必要があります。そして、どんな環境でもイエス様と共に歩み、彼の思想をこの地上で成し遂げる天国の主人公にならなければなりません。
 また、皆さんは家庭を代表していたイエス様の悲しみを知り、教会を代表して悲しんでいたその事情を知り、皆さん自身も集まり、最後の使命を引き継がなければなりません。そして、当時のイスラエルとユダヤ教を代われる私たちの教団を作らなければならず、使徒たちが天国を代わってサタンの前で成し遂げなければならなかったすべてを成し遂げる人にならなければなりません。
 もし当時の使徒たちが人間を代わる一人の個人を作り、全イスラエルを代わる一つの民族を作り、また世界を作ったなら、イエス様はもう何も語っていたでしょうか?また、イエス様の言葉に従うべきであり、彼の行動を真似るべきであり、一度でもサタンと戦って勝利しただけで満足すべきではなく、今日の皆さんはこれらすべてを再び見つけて築き直せる人にならなければなりません。
 それでは、今度は皆さんが地上においでになり、お生まれになり、戦い抜かれ、地上においでになりながらも、生涯であなたが求めた意志を一つも見つけることなく、生涯の終焉を迎えたことを知ったとき、単にイエス様のおられた道をたどることで満足するだけではありません。皆さんは、イエス様がおられた内面的な悲しみを感じることのできる人にならなければなりません。なぜなら、イエス様は弟子たちを死の道、死の道に追いやるしかなかった花嫁であり、そしてイエス様の内なる悲しみを知り、花嫁を一人にし、十字架に向かわせた歴史的な誤りを心に留め、希望の日を見つめ、戦い続ける人にならなければなりません。つまり、イエス様の根本的な思想を理解し、彼が抱えられた内なる怨みを解き放ち、彼が残された仕事を成し遂げなければなりません。
 さて、終末に直面している聖徒たちはどうすればよいでしょうか? 6千年の歴史の中で結ばれた神の怨みと、イエス様の怨みを解消する存在にならなければならず、十字架の道であり、茨の道であるとしても、その道を乗り越えて死ぬ覚悟をし、命を捧げてこの地上に神の国、天国を築くために進んでいく天国の英雄にならなければなりません。
 神様は4千年の歴史の中でイスラエル民族を立て、彼らにメシアを送ってくださるという約束どおりに、イエス様をこの地に送ってくださった。しかし、イスラエル民族と使徒たちが不信仰により、イエス様はイスラエル民族に対して話すことができなかったし、弟子たちにも話すことができませんでした。私たちはイエス様にはそのような内面の悲しみがあったことを知るべきです。
また、皆さんはそのような悲しみの怨みが今もなおこの地上に残っていることを知り、この時間も皆さんの胸に響いていることを感じるべきです。
 そして、皆さんはイエス様が失った言葉、失った生活の思想、失った天倫の思想を再び見つけ出さなければならず、今まで逆境の中で苦労してきたこの国の事情を知る人にならなければなりません。
 さらに皆さんは、神と対峙するサタンをイエス様が引き受けたことと同様に、イエス様と戦い、今日の地上の多くの命を担当し、立ち上がることのできる人にならなければなりません。
 したがって、現代の信仰の課題はどこにあるのでしょうか?イエス様が現れることができなかった内なる悲しみと、当時の人々のために努力した場所を引き継ぐための、ひとつの条件をどのように設定できるか、それが問題です。
こういったことを考えると、終末に立つ皆さんが失ったイエス様の言葉を再び見つけるには、どんな試練や迫害にもくじけず、イエス様の代わりに必ず神の御心を果たす決然とした覚悟と決意がなければなりません。
 そして、昔のイエス様を殺そうとし、イエス様の生活を捨てさせようとしたサタンたちがいたように、今日の皆さんがイエス様の御心を代わりに生かそうとするときにも、同じような状況が訪れることを知らなければなりません。つまり、当時イエス様の仕事を家庭が捨て、教団が捨て、国家が捨てた状況が皆さんにも訪れるということです。
 そのような状況にあったイエス様を敵に売り、十字架に渡して自分たちは快適な場所にいようとした者は誰でしょうか。それはイエス様の弟子であり、イエス様が神に選ばれて立てたメシアであることを知らずに不信仰で迫害したイスラエル民族でした。また、その不信仰のために神に対する怨みを引き起こした後、今もなおサタンの歴史が終わらないため、今日の皆さんの信仰の課題においても、イエス様の生涯を捨て、イエス様の言葉を捨て、イエス様の仕事を捨てさせたことと同じく、同じような出来事が現れることを知らなければなりません。
 したがって、今日のサタンは皆さんが個人的な限界を超えられないようにします。イエス様の御心は皆さん個人を通じ、家庭を通じ、社会・国家・世界まで通るものであり、サタンは生活環境で皆さんが個人的な限界を越えられないように妨害しているということです。ですから、皆さんはイエス様当時と同じ生活環境に直面したとき、自らの命をかけ、その環境を乗り越えるために戦わなければなりません。
 イエス様の言葉を代わりにし、サタンに立ち向かおうとするとき、誰もが予測できない厳しい状況に直面することが避けられない立場になることを皆さんは理解すべきです。そして、それに直面しても、イエス様の生涯を代わりにするための直接的な条件を設定し、それを越えて進む覚悟を持つ必要があります。
 ですので、これまで新婦の理念を見据え、信仰生活を進んできた皆さんは、どのようにすればよいでしょうか?イエス様が一生を通じて語った前生涯の理念、つまり宇宙全体の希望の理念をイエス様の代わりに成し遂げることができるようにならなければなりません。その時にイエス様の花嫁の位置に進むことができるということを確実に知らなければなりません。
 今日の皆さんはどこに滞在していますか? 皆さんは自分の個体に固執してため息をつく環境に滞在してはなりません。皆さんはそのような環境を超える人物になるべきです。愛する両親、愛する兄弟はもちろん、愛する人々が反対しても、その反対を無視して歩まれたイエス様の後を追いかけることができる皆さんでなければなりません。そうでなければ、元の人間に戻ることはできず、今日の統一教会は存在価値を失います。
 皆さんがこのような原理原則に基づく神託歴史が展開されている事実を理解するならば、皆さんはそのような道に入るべきであり、またそういった道に入っても個人の欲望を満たすために努力するのではなく、全体のために努力しなければなりません。
 そして、皆さんは失われたイエス様の言葉を代わりにできる言葉を見つけなければなりませんし、イエス様一代の生活を代わりにできる生活をしなければなりません。イエス様は神様が自分に約束された天地の全ての権勢を自分の一信者に許可していただけたその意志が実現しなかったでしょうが、皆さんはそのようなイエス様の人格を学ばなければなりません。
 したがって、今日の皆さんは前進してきたイエス様の足跡を常に追い、常に花嫁となられたイエス様を迎え入れることのできる人物であるか、今の自分はどのような環境に住んでいて、どの山を越えているかについてよく反省しなければなりません。そして、皆さんはいずれも聖徒が進むべき血を流す道を越えて、再び訪れる主様を迎え入れるべきだということです。
 それでは、再び来る主様が神の栄光の中に現れるとき、皆さんはどのようにすればよいでしょうか?再び来る主様を皆さんが迎え入れるならば、その喜びが個人で終わってはならないはずです。永遠を代表し、または無限の天国の理念を代表する喜びとして表現できる人にならなければなりません。
 ですので、一時的な喜びを感じたとしても、そこに満足せず、むしろサタンと戦い、永遠の喜び、神の永遠の愛に満ちたこのような喜びを感じなければなりません。また、恵みを感じる際にも、想像できないほどの驚異的な恵みをイエス様が感じたように、皆さんもそのような恵みを感じなければなりません。
それでは、イエス様がどのような過程を通じてそのような恵みを感じることができたのでしょうか? それはイエス様が自分の生涯で万事を断ち切り、唯一神の御心だけを考えたからです。また、イエス様が復活の栄光を見ることができたのは何故でしょうか? イエス様は天地の栄光と、天地の誠実、地上のどの人間も持たなかった理念すらもすべてが断たれても、自分は変わらず神のために尽くすことができたからです。そして、イエス様は神の直接的な栄光の中に入り、この地上の人間と関係を結ぶ立場になったのです。
 では、今日の皆さんが感じているその喜びは何でしょうか? その喜びは決して皆さん個人のためのものではありません。その喜びはこの地上のサタンの支配と戦う力を吹き込む恵みなのです。ですから、皆さんは自分に喜びを与えてくださった父に感謝しながら、サタンとの戦いで勝利し、これまで地上に結ばれてきた6000年の恨みを解消した歓喜の盃をあげ、父と永遠に一体となり、喜びをもって臨む覚悟を持たなければなりません。
したがって、皆さんが一時的な喜びを感じたとしても、そこに満足せず、むしろサタンとの闘いで勝ち取った永遠の喜び、神の永遠の愛を感じるべきです。また、神の恵みを感じる際には、まるでイエス様が感じたような想像もできないほどの非凡な恵みを感じるべきです。
それでは、イエス様がどのようなプロセスを経てそのような恵みを感じることができたのでしょうか?それはイエス様が自分の生涯で全てを断ち切り、ただ神のみ旨だけを心に留めたからです。また、イエス様が復活の栄光を見据えることができたのは何故でしょうか?それはイエス様が天の栄光や誠実さ、そして他の者が持たない理念まで全てを捨てても変わらずに神のために尽くせたからです。その結果、イエス様は神の栄光の領域に入り、この地上の人間との関係を築く立場に就くことができました。
それでは、今日の皆さんが感じているその喜びは何でしょうか?その喜びは決して個人のためだけのものではありません。その喜びはこの地上でサタンの支配と闘う力を与えてくれる恵みそのものなのです。そのため、皆さんは自分に喜びをもたらしてくださった父に感謝しつつ、サタンとの戦いで勝利し、これまで地上で繋がっていた6000年の怨みを取り除いた歓喜の歌を上げ、永遠に父と一体となり喜ぶ覚悟を持つべきです。
したがって、受けた神の恵みは自分だけのためではなく、むしろサタンとの戦いに挑み、サタンを屈服させるためのものです。
それゆえ、皆さんは与えられた神の恵みを自分の都合だけに利用せず、この地上のあらゆる悪とサタンの影響を取り除く方向に進むべきです。そして、皆さんがこの地上で神の創造目的を成し遂げた勝利の子、または帰還に必要な全ての条件を備えた者として現れるとき、サタンがどんなに妨げても無駄であることを理解するべきです。
さらに、そのような人物が現れる場合、彼はどこに行っても自由であり、彼の足跡には常に勝利の証が残ることを理解するべきです。
したがって、今日、皆さんがこの言葉を聞いて感じること、新たに悟ったこと、探し求めたこと、または統一教会に入り、原理を通じて学んだことがありますか?それが真理の言葉であるならば、皆さんはその言葉を頭で知るだけではいけません。
皆さんはその言葉を頭で知りながら同時に心で知り、心で知りながら身体で知り、また身体で知りながら心で知らなければならないのです。このように皆さんが言葉を頭で知り、心で知り、身体で知り、心で知ることで、皆さんはその言葉の目的を達成するために動かないわけにはいかず、サタンと戦わないわけにはいかなくなります。また、自分の口を開いて父を侮辱し、自分の考えを変えて天を背叛する場に出ようとしても出られないのです。
また、皆さんが言葉を頭で知り、心で知り、身体で知り、心で知る立場になると、周りから無数のサタンの矢が襲ってくることを感じるでしょう。それを感じるほど、皆さんは同じ立場の人々と結束しないわけにはいかなくなります。
したがって相手の事情を自分の事情とし、彼の怨みを自分の怨みとし、彼の怒りを自分の怒りとして相互に頼り合い、協力できる相互一体的な生活環境を整えて新天地を築き上げなければなりません。これが新天地の創設者であるところの人物です。
このように皆さんが受けた神の恩寵を日々の生活を通して実践的な面で示し、どんなサタンの矢もどんなサタンの中傷も防ぎ越える覚悟を持たなければなりません。また、皆さんがそのような心を持つと、どこに行こうと、どのような人に接しても、どのような孤独な場に置かれても、千軍千将が常に皆さんの命を取り巻き、支えるようになります。
イエス様も同様の心を持たれていたために、天にいる無数の聖徒たちが彼を取り巻き、支え、います。もしイエス様がそのような心を持たなければ、地上で歴史を刻むこともできず、千軍千将や父の意志の前に立つこともできないでしょう。
したがって、今日まで皆さんはそのような心を持って、天の栄光の恩寵に浸かって生きる環境をこの地上に作り上げられていないのです。そのために今まで神と天使が地上の人間たちがその栄光の恩寵に向かって進むように裏で協力していることを理解し、またまだ神は悲しい中におられるということを知らなければなりません。
イエス様はこうした神の悲しい心情を持たれていたために、新しい天倫の教えを持ち、それを条件にして地上の人間と永遠の理念の関係を結ぼうとされましたが、当時の人間たちの不信心からその意志を果たすことができず、悲しみ、不当に十字架にかけられたのでした。
では今日、同じように悲しまれたイエス様を探しに出た皆さんは、どのような状況に置かれていますか?今日も昔のようにイエス様の言葉を信じず、イエス様の働きを拒絶している状況が起きています。つまり今日の皆さんもこの地で迫害を受け、すべての人に捨てられて「他の人とは違う」という道を歩んでいるのです。
 したがって皆さんはそのような捨てられる悲しみを打ち破り、必ず天の栄光が喜ぶことができる勝利的な条件を築く努力をしなければなりません。また、私たちの集まりがそのような意志を達成していく集まりであるならば、すべて一心同体となってイエス様が歩まれた足跡を追いかけることができなければなりません。
 今日の皆さんが拒絶され、捨てられる悲しみ、または教会によって捨てられる悲しみを多く受けていますが、皆さんは堂々と帰還原則に従い、その悲しみを踏み越えて立ち上がらなければなりません。つまり統一教会のすべての家族は神の心情と意志を感じ、悲しむ者ではなく、追いかける者、好む者になり、前進し、足跡を追い越すべきであるということです。
 皆さんがイエス様がこの地上に成し遂げようとされていたその意志を代わりにし、歴史と宇宙を代わりにして責任を果たせば、人間の祖先アダムヘとを堕落させたサタンはこの地上から自然に消え去ることでしょう。そのため皆さんは人間がこの地上でサタンとの戦いの一局面を越えるとき、いつも天が共にしてくれると知らなければなりません。
 そしてイエス様が新郎新婦の理念権内にとどまり、世界を代表する中心的な立場にいらっしゃることを知らなければなりません。また、それに対してサタンが中傷できないことを知らなければなりません。
 ですから、今日の皆さんがイエス様の内面の心情を代わりにし、イエス様の国家思想・世界思想を経て、天の栄光に帰還する全体的な価値を自分から見出す主人公として現れるとき、イエス様が失ったすべてを回復し、経験したすべての悲しみを理解する者として、または勝利の価値を持つ者として立つことができることを心に留めなければなりません。


<祈祷>
 お父様!孤独な者を案じるお父様の心情を知らず、むしろ今まで私たちの悲しみをお父様の前に訴える不忠不孝の立場にいた私たちを許してください。
天の心情がこうして悲しいこと、これほど切ないことだと気づき、お父様の前で私たちの事情を嘆くことができないことを知らせてください。
 お父様、それだけでは足りませんので、お父様の悩み、お父様の心配を今日の私たちの一心によって解消できるように許可してください。そして、お父様の前にこの一時間、私たちのすべてを捧げることのできる子供たちになることを許してください。愛するお父様、熱心にお願いし、望みます。
 今日の私たちが天を向かって価値ある条件を実際の生活領域内で築くために努力しているので、お父様、共にしてください。
 私たちは天の全体的な価値の条件を築く上で、私たちの犠牲が喜ばれない不足していた姿でしたが、これからはお父様の前で無限に利用されながらも喜ぶことのできる心を持つ子供たちになりますので、お父様、許してください。
そのような私たちの足跡をサタンも妨げることはできないということを知っているので、今日も明日も私たちの心が変わらないように助けてください。愛するお父様、熱心にお願いし、望みます。
 お父様、私たちが新郎であるイエス様の花嫁になろうとする場合は、新郎が悩むなら私たちも悩み、新郎が戦うなら私たちも一緒に戦い、死ぬか生きるか新郎と共に動かなければならない立場に置かれている私たちであることを知らせてください。そして戦いの過程を経て解放の恩寵の中でお父様の栄光を歌う新郎の喜びを理解する花嫁の立場に立ててください。
 こうして失っていたすべてを見つけ、お父様の栄光を喜びとして奉納できる日が早くここに集まった一人ひとりの生涯の場に、それぞれの生活に、それぞれの心に現れることを許してください。私たちのすべての言葉をお祈りし、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。





文鮮明先生の御言葉集 3 - 6. 私たちは栄光の新しい国を占有しよう(1957年10月6日)

1957年10月6日(日曜日)、前本部教会。

聖書拝読:テサロニケの信徒への手紙5:1-11

もし人間が堕落していなかったなら、「栄光の新しい国」と呼ばれるこの希望の園は今日、私たちの生活領域で楽しむべき世界でした。しかし、人間の堕落により、今日私たちはこの希望の園との結びつきを持てていないことを皆さんはよくご存知でしょう。
 すべての力を尽くし、すべての心を傾け、私たちが持っているすべてを犠牲にしても、この栄光の新しい国を築かなければならない責任と義務が私たちにはあることを、皆さんは今一度考えなければなりません。
 神を中心において人間が完成していれば、人間の喜びは神の喜びであり、人間が享受する栄光は神の栄光となっていたはずです。しかし、人間が自らの喜びと栄光を神が望む基準から享受できなかった結果、人々には悲しみが始まったのです。
 そして罪を犯した人間として、その理念の園とはあまりにも遠くまで離れてきました。こうして離れた人々を再び見つけるための努力の歴史が「復帰摂理歴史」と呼ばれていることを皆さんはよく知っているでしょう。
 それでは、その摂理の園はどのような場所でしょうか? 創造主によって願われて建てられたすべての被造物が、その創造主の理念の中で統一的な栄光を楽しみながら生きている場所です。そのような目的を持った園でしたが、人間の堕落のために、私たち人間は統一された場所で統一の理念を持って神の栄光を歌うことができない場所に置かれてしまいました。
 そのため神は苦労の歴史を繰り返しながら、一つの統一された理念を確立するために長い歴史の過程を経て戦っていると私たちは理解すべきです。
 私たち人間自体を見ると、心と体が一つになり、一つの統一された自己を中心にして全人類が一つになるべきであり、同時に、人類が一つになった立場から自然の運行法則も統一し、さらには天運の法則も統一しなければならない責任があります。そして、私たちには天輪の運行法則と、天輪が動く運行率を一つにする重要な責任があるということです。
 私たちが栄光の新しいイデオロギーを達成し、栄光の新しい国を築くためには、自分の心と体を統一させなければなりません。そして、私を中心にして全体の人類が統一されるべきであり、さらにはこのすべての天地の運行法則と統一され、そして創造主が意志を経験する天輪とも一つにならなければなりません。
 そうでなければ、神の栄光はこの地、すなわち物質世界に現れることはありません。神の栄光が現れないならば、私たち人間は栄光の新しい国と呼ばれるものについてさえ考えることができないことを皆さんは知るべきです。
 このような栄光の新しい国を築くために、人類はどのような歴史の過程を経てきたかを考えると、長い間無限の闘争の歴史を経てきたことがわかります。
私たちは一つの立場で自然の運行法則と一体にならなければならず、同時には天の法則に合わせなければならない立場に置かれています。ですから、堕落した私たちには、闘争の歴史の中で自然の運行法則に合わせる必要があり、同時に天輪の法則に合わせる二つの分かれた責任が課せられています。そして、私たちの先祖がこの責任を果たすために努力したことを忘れてはなりません。
 歴史的なすべての進展過程、すなわち部族社会が部族から国家社会へ進展する段階では、必ずしも闇が支配していたことを皆さんは理解する必要があります。
 私たちが生きる上で直面するすべての死の権力に打ち勝ち、勝利した基盤の上でのみ生命を維持できるように、同様に歴史の進展過程、つまり部族から国家へ、国家から民族へと進展する段階では、必ずしも闇の力、すなわち反対の力が立ちはだかっていたことを理解する必要があります。
 それでは神は何を表現し、主宰されているのでしょうか? 堕落とは何かと言えば、統一性を失ったことです。心と体が分かれ、すべての自然の運行法則と天輪的な運行法則とイデオロギー全体が分かれ、千万の人々がすべて分かれたということです。これを統合するために、時代を通じて部族なら部族、または民族なら民族を中心にして、統一されたものを築き上げる歴史を、天はこれまでにしてきたことを理解しなければなりません。
 それゆえに、部族社会が部族から国家社会に変化し、いくつかの部族社会が集まって民族と国家を形成し、その後には連邦が形成されます。連邦とは、ある原則やイデオロギーを一つに結びつけ、統一的なイデオロギー領域を形成することです。こうして宇宙の運行秩序が維持されていました。
 皆さんは、この動く全宇宙の運行法則を自分の心で調和させると同時に、創造主が望むイデオロギーと法則との関係を築かなければなりません。そうでなければ、皆さんは最大の勝者にはなれず、最も人間らしい姿を持ち、全ての被造物の栄光の価値を代わりに担う資格を得ることができないことを理解する必要があります。
 神は多くの部族をまとめて部族を作り、部族をまとめて民族を作り、国家を連邦して一つの世界に統一していくが、このような摂理は創造の時に神が立てた男と女に結びついています。言い換えれば、始まりに神が人間に授けようとされた栄光の新しい国を築くために、神は帰還の摂理を行っているということを皆さんは知るべきです。
 それでは私たちの嘆きは何か?それは自分自身を中心にして全てが集中できる環境を持っていないことであり、自分が周囲の環境を集中させることができる自己として立てなかったことです。何がこれを作り出したのか?それは暗黒の力がこれを作り出したということです。隅々に線を引く心はあったとしても、この心を互いに通じ合わせることができなかったため、一つの部族または民族になり得る高い光、つまり朝の光や夕方の光といった存在を立て、これらの存在が夜の期間を通じての闘争の歴史の過程を経て現れるようになっています。
 今日、多くの使徒たちは現在の時期を終わりと言っています。今日、民主主義と共産主義の二つの陣営があり、そのうちのどちらか一方は朝を代替することができ、もう一方は夕方を代替することができるものです。これらの二つの陣営のどちらかが妨げられているものが何であるか、それを破る使命を皆さんが担わなければならないということです。
 世界のすべてが混沌として中心を掴むことができず、方向を定めることができない終末的な混沌の世界になりましたが、これを解消する責任が誰にあるかと言えば、それは神にあるわけではなく、自然にもあるわけでもなく、まさに私たち人間にあることを理解しなければなりません。
 神は人間に包括的な統一思想を達成する責任を与えた結果、人間たちは自然を研究する自然科学を一つの統一された形態に発展させており、宗教を通じて心の世界を統合しています。
 16世紀末には宗教と科学が分かれましたが、現代においては再び一つの目的を達成できる統一の段階に移行しています。ここで科学が最初に統一の形を取っているのは、アダムが完全な人間として創造されるまでに最初に体が作られ、後に生命が吹き込まれたように、創造の原則がそうであるからです。
 現代の科学の発展、つまり科学を中心とした現代文明は、統一的な外部のイデオロギーを達成しようとしています。それが世界的な統一のイデオロギー領域に至り、その次には内面的な側面で語り明かされる科学文明ではなく、心で明らかにされる宗教、つまり人間の本性と性格を明らかにする宗教と、全人類が一つになる内面の世界を築く使命を達成しなければなりません。
 今日、宗教と科学はお互いに対立している立場にあります。しかし、原則的にはそうではないということです。終わりには必ず体を持った後に生命を吹き込んで神に代わることができるアダムを創造されたことと同じく、この歴史の終末的な現象もそうして統一されなければならないということです。
 今日の外的な文明、20世紀の文明は、言葉と文字を通じて表現されてきました。神の希望である統一された理想の世界は、言葉で神のイデオロギーを実現するこの形態を備えた後に、心を代わりにする文明と相対的な中心を確立しておかなければなりません。そうでなければ、絶対に一つの世界に統一できないでしょう。
 それでは、どのようにして統一するのでしょうか?外的な文明と内的な文明を統一することができる統一的なイデオロギーがあるとしても、これは論理的には統一されず、ここでもこれを妨げる暗黒の力が存在することです。
 したがって、これを破壊する闘争の労力を先に経なければならないということです。だからこそ今日の世紀末的な二つの儀式がどちらか一つを担当しているのです。すなわち、一方は神の内面を担当しており、もう一方は神の外面を象徴的に担当しています。
 心の中心を代わりにする方が民主主義陣営であるならば、この民主陣営は外部の部分を代わりに担当する共産陣営が自動的に一つの意志を立て、一つの目標に向かって動くことを可能にする必要があります。それができるときが来ていない場合は、天運はどうしても動くことができないのです。
 このように見ると、今日の自然科学だけでなく、宗教的な分野でもこれ以上進むことができない段階に入っているということです。互いに手を触れ合うことができないこのような時に、命令を出しても従わない場合は壊してでも責任を取り、飛躍させる新しい何かが現れなければならない時が来たということです。これを皆さんは理解する必要があります。
 では、新しい国の栄光を持つ者はどのような人物でしょうか?どんなに新しい時代が訪れようとも、自分自身が心を中心にし、そして心と体を中心にして自分の生活環境を一つにするための指導的で主観的な役割を果たせなければならないということです。
 つまり、人倫全体を代表できる勝利的な実績を皆さん自身が見つけて立てれば、その発見は人倫だけでなく、天倫を代表して理路に通じる中心として立ち、人倫的な社会のすべてを代表して立ち上がり、自然のすべての運行法則を代わりに動かすことになります。そうでなければなりません。
 天はこれらの二つの陣営が互いにぶつかる戦いを展開しようとしています。そのため、皆さんはやはり暗黒を打破するための戦いの時期を避けて通ることはできません。このような世界的で宇宙的な戦いの時期が近づくこの時に、皆さんは個体個体もまた天倫の法則を外れることができない連合として、何も知らずにそのような恐怖に巻き込まれることを理解しなければなりません。
 そのような時にも、すべての暗黒の力が自分を巻き込むことを阻止し越える中心を立てなければなりません。今日の20世紀の科学文明が急激に飛躍しているように、皆さん自身もそれに支援を合わせて内面の人格を築かなければならないこの立場にある連合として、内面からも新しい革新的な基準を立て、すべてが巻き込まれようとも中心を押さえ、しっかりと進むことができなければなりません。
 このような中心を持たなければ、皆さんは人類の歴史の中で最後の勝者になりえず、結局は敗者となる怖い時がやってくることを理解しなければなりません。
 神の意志も進化的で革新的な過程を経て現れています。神は旧約時代以前には犠牲を通じて天倫との関係を築く歴史を創り出し、旧約時代には律法として秩序の歴史を展開してきました。
 もし律法が一つの統一的なイデオロギーとして現れ、それをまた天の意志として切望する存在が現れていれば、帰還の法則は言うまでもなく短縮されていたでしょう。しかし、そうならなかったため、律法で外的な条件を設けた後、イエスを送り、彼の肉体を外的な条件として、その霊的な存在を内的な条件として築いて現れたことを理解しなければなりません。
 今日までイエスは信仰の対象として現れていますが、それで止まれば神の法則は完成を見ることができません。この地上で統一のイデオロギーを築き上げ、その仕事を完成させるためには、イエスがその使命を完了できるようになるでしょう。
 外的な科学の発展とともに、内的な条件も一つの統一のイデオロギーとして現れる存在がいれば、既に神を中心とする統一国家が樹立されていたでしょう。
 皆さんがイエスを信仰の目標として持つことも良いでしょう。しかし、ますます皆さん自身がその信仰と信念の実体となり、生活の面でイエスのようにならなければならないことです。こうして自分自身が動く時、全ての自然が動き、全世界が喜べる存在とならなければなりません。そうでなければ新たな栄光の国とは無縁でしょう。新しい国にも指導者がいて、その民がいます。したがって、最初にはその民となり、その指導者を迎え、新しい国を築かなければなりません。
 そして、新しい国を築くことを妨げている闇の力を打ち倒すことができなければなりません。では、私たちの前にどのような戦いがあるでしょうか?イエスの前には血を流す戦いの試練がありました。つまり、イエスが壮大な使命を果たすためにはそのような困難な戦いの試練があったということです。今度は完成的な使命を果たすべく皆さんにも、それ以上の大きな戦いの試練が訪れることになるでしょう。
 皆さんはこれを再考しなければなりません。そうすれば、宇宙的な戦いで勝利し、外的な自然を自分の体とし、神の意志を統一の内的な心として採り入れなければなりません。こうして天倫を自分の心とし、その基盤の上に自分の体となった自然を統一しなければならないということです。
 皆さん一人ひとりにはそれぞれの運命があります。また国にも国としての運命があり、天にも天としての運命があるのです。したがって、個人の信念を国家の信念に、国家の信念を天上的な信念に統一していく必要があります。
堕落した人間には戦いの歴史が避けられません。今日の神様とイエス様は私に対して愛だけを与えておられるのではありません。愛の神、愛のイエス様は、私に対して試練と苦しみをもたらすさばきの神、さばきのイエス様でもあるということです。
 そのため、ここに集まる皆さんは、天に対して己を持って示せる何かを持っていますか?ない場合は、私自身が天に対して立てる条件を見つけなければなりません。
 終末の時代である今日、自己のイデオロギーを持ち、自分を持って立てることのできる人はいません。それが可能なのは唯一、天徳のイデオロギーを持つ人々だけです。それゆえに、人間には恐怖と不安と嘆きと心配があるのです。
こうしたときに人徳を保ち、天徳を保ち、自己を持って立つことのできる天敵的なイデオロギーを持つ人がいれば、その人は誰よりも最上の位置に立つでしょう。そうした人の前には、すべてが論理的に、自動的に歴史として現れるでしょう。
 人間が堕落したため、人間に大きなものを与えるためには、最初に大きな苦しみと試練を与えざるを得ない矛盾した歴史があるとされています。皆さんの中で己に迫るすべての試練を見て失望する人がいますか?そうした人は、天の悲しみを知らない人であり、地上で悲しみが消え去るとき、一緒に消え去ることでしょう。
 このような戦いの中で、神の代わりにサタンとの戦いを引き受け、天徳の前に自分を示した方がいました。それは天の使徒であるイエス様でした。
そのため、終末の時代に直面した今日の歴史も同様の形で現れるでしょう。皆さんは時代的なすべての戦いを制し、超えた立場から天徳との関係を結ぶべきです。
 いずれ闇の死の権力が世界的な罠として現れるでしょうから、我々はこれを破り、踏み越えなければなりません。これはどの良心やどの倫理でもできることではなく、ただ天徳のイデオロギーを見つけ、築かなければならないことです。
 それゆえ、終末には宗教であろうと科学であろうと哲学であろうと、どんなものであれ、このような天倫の理念との関係を結ぶことができないと言う者であれば、天はこれを天倫に従って粉砕するでしょう。イエスの前に現れたバプティスト・ヨハネは、知的な意味でイエスよりも高い位置にあったにもかかわらず、イエスは彼を見て従いなさいと言いました。それはヨハネが自己を中心に置いたが、イエスは永遠を持って自分に従える天倫の理念を持っていたからです。このような天倫の理念だけが終末に新しい楽園の新しい栄光との関係を築いてくれることを心に留めておくべきです。




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