文鮮明先生の御言葉選集 8 - 2.最後の問題は父と私 (1959年10月29日)
最後の問題は父と私
1959年10月29日(木)、ソウル市西大門区
私たちは、親の心情を持って地や万民に接することができる人にならなければなりません。 神様がアダムとエバに接するように、アダムとエバもその心情の前に感謝することができれば、神様はその上に新しいものを加えてくださったはずです。 しかし、神様は彼らが堕落したことによって、それを中断せざるを得なかったのです。そのため、人間を復帰させるために今日まで6千年の間、心血を注いで来られたのです。 悲劇の糸口が子供たちのせいではなく、サタンのせいだとみなされ、悔しくて悲しい条件はサタンに帰し、嬉しい条件だけを持って子供たちに接して来られたのです。
神様は無形の心が願うことを実体的に成し遂げてくださいます。私たちは死に、死に、また死んでも、神様が望まれた御心を成就させなければなりません。 もしそうでなければ、神様の悲しみを取り除くことができません。
聞くことも見ることもできない皆さんをこの基準まで引き上げるために、神様がどれほど苦労されたか分かりません。 ですから、私たちは父のために呼ばれ、また生まれたことを実感しなければなりません。
私たちの始祖が天使長に近く、父に近づけなかったことが堕落の原因でした。復帰をするのも、どの民族や人類のためというよりも、父のためであることを肝に銘記しなければなりません。 ですから、どんな難境でも感謝しながら民族や国家のために働かなければなりません。 そうすれば、神の息子にはなれなくとも、国家の忠臣にはなれるでしょう。
私たちはどのような困難と憤りと恨みにぶつかっても、父の歴史を思い出して「当たり前です。神様はそのような人に手を挙げて祝福してくださいます。 摂理の御旨の前には無限の苦しみ、無限の悲しみ、無限の十字架があります。神様は自分の不足に身を任せる人を探しておられます。どうか今後は、自分のせいで嘆く人にならないでください。私たちはサタンの反旗を避けたり、その前に疲れ果てて倒れてはいけません。
最後の問題は「父と私」です。父の蕩減成就がどのようなものであるかを知れば、私たちにはどんな言い訳もできません。 このような心情で伝道してこそ、真の息子・娘を見つけることができます。問題は、父の心情を知り、解怨聖事することに参加することです。 栄光の座も何もかも捨てて、「どんな仕事も、伝道も私がやります。 もう父の十字架を私に任せてください」と言えるようにならなければならないということです。
この最後の峠を越えるためには、親に対する愛の心情を持たなければなりません。父だけが願いの全体であり、価値の全体であることを知って受け止めなければなりません。さらに、「私が父の息子になるなんて」と感無量に思えるようにならなければなりません。 イエス様を死からよみがえらせた神の愛は、父と息子の関係から生まれたものです。 ですから、私たちも「父は6千年の間、労苦と悲しみと傷を受けましたが、私が労苦と傷を受け、悲しみを受けたとしても、父のそれに比べられるはずがない」という心情を持っていれば、サタンは引きずり出すことができません。
子どもを失って悲しまれた神様を考えるなら、哀れな人類を抱いて嘆くことができなければなりませんし、歴史的な悲しみを受けられた神様を抱いて嘆くことができなければなりません。たとえ私個人は全人口の27億分の1に該当しますが、神の御心に加わるという心情を持たなければなりません。 今、私たちは親の愛を受けるだけでなく、親の代わりにならなければなりません。
私が眠っている瞬間にも、父はどこかで苦労しています。哀れな人を見るとき、自分の立場で接するのではなく、彼にも彼をひどく愛する妻や夫、親と子、あるいは兄弟がいることを知って、そのような立場で接するべきです。親に十字架があるなら、心情的な十字架以上の十字架はありません。 道を通った時、かわいそうな事情を持った村人を見た時、あるいは民族がかわいそうな境遇に直面した時、父に代わって「心配しないでください。私がいますよ」という心情で生きていれば、彼は天の友人であり、兄弟であり、息子であり、娘なのです。 両親はいつも心情的な十字架を背負って、犠牲になった十字架の道を歩んでいます。
ノアより、モーセより、イエス様より、イエス様よりご苦労された方は神様です。どの個人、どの民族、または先生より、もっとご苦労された方は神様です。この時代にいけにえの立場におられる方が神様です。父がそうなので、私もいけにえの道を歩まなければならないということです。 私たちが父の前に立つ道はそれしかありません。 ですから、どの国、どの機関に接するにしても、「これは父のもの、つまり私のものです。そこで労苦する者は父の仕事をしているのだから、私の仕事をしているのだ」と考えなければなりません。 仕事場で労苦している農民を見たら、ポケットマネーでも渡して慰めることができなければなりませんし、また、「私の息子や娘があそこで働いているんだな」と祝福してあげなければ、父の息子や娘になることはできません。
草一本を見ても、「父のために育ったんだな」と涙を流すことができなければなりません。第3イスラエルの人は、そのような心情で動き、どこへ行っても「私の土地、私の仕事だ」という思いを持たなければなりません。 これから先生が目指すのは、親の心情を持ち、父の代わりに主人の役割を果たすことができる皆さんを作ることです。
この地の青年男女に望むのはこれですから、何よりもまず、父を所有する者にならなければなりません。 自分の心がこれだから、父の心情はどうだろうと考えることができるようにならなければなりません。 高く大きく見つめておられる父、また、先生も皆さんをそのように見つめておられます。
ですから、皆さんは十字架と供え物の立場を負う者にならなければなりません。 そのような心で伝道し、勉強し、働く人は滅びることができません。 裸足の供え物になることを自負してください。供物は曲ネがある時に祈ります。その立場は楽な立場ではありません。
供え物の立場に立つと良いとか悪いとかよく言われますが、皆さんはどこへ行ってもその地域のいけにえにならなければなりません。いけにえは殺しても抗議できませんが、頭を下げたいけにえは生きた権威を持って現れます。神様がそうして歩んでこられ、先生が、そして統一教会教徒がそうして歩んできました。
私たちには、自分自身の道と供え物になる道があります。自分の道を行く間は、伝道はできません。 しかし、供え物の道を3年以上6年まで行くようになれば、誰でもその前に屈服しないわけにはいきません。 私は金持ちの息子、神の息子という立場ですべてのことに対処してください。そのような心情で復帰の峠を越えれば、神様はすべてを任せてくださるでしょう。
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神様は無形の心が願うことを実体的に成し遂げてくださいます。私たちは死に、死に、また死んでも、神様が望まれた御心を成就させなければなりません。 もしそうでなければ、神様の悲しみを取り除くことができません。
聞くことも見ることもできない皆さんをこの基準まで引き上げるために、神様がどれほど苦労されたか分かりません。 ですから、私たちは父のために呼ばれ、また生まれたことを実感しなければなりません。
私たちの始祖が天使長に近く、父に近づけなかったことが堕落の原因でした。復帰をするのも、どの民族や人類のためというよりも、父のためであることを肝に銘記しなければなりません。 ですから、どんな難境でも感謝しながら民族や国家のために働かなければなりません。 そうすれば、神の息子にはなれなくとも、国家の忠臣にはなれるでしょう。
私たちはどのような困難と憤りと恨みにぶつかっても、父の歴史を思い出して「当たり前です。神様はそのような人に手を挙げて祝福してくださいます。 摂理の御旨の前には無限の苦しみ、無限の悲しみ、無限の十字架があります。神様は自分の不足に身を任せる人を探しておられます。どうか今後は、自分のせいで嘆く人にならないでください。私たちはサタンの反旗を避けたり、その前に疲れ果てて倒れてはいけません。
最後の問題は「父と私」です。父の蕩減成就がどのようなものであるかを知れば、私たちにはどんな言い訳もできません。 このような心情で伝道してこそ、真の息子・娘を見つけることができます。問題は、父の心情を知り、解怨聖事することに参加することです。 栄光の座も何もかも捨てて、「どんな仕事も、伝道も私がやります。 もう父の十字架を私に任せてください」と言えるようにならなければならないということです。
この最後の峠を越えるためには、親に対する愛の心情を持たなければなりません。父だけが願いの全体であり、価値の全体であることを知って受け止めなければなりません。さらに、「私が父の息子になるなんて」と感無量に思えるようにならなければなりません。 イエス様を死からよみがえらせた神の愛は、父と息子の関係から生まれたものです。 ですから、私たちも「父は6千年の間、労苦と悲しみと傷を受けましたが、私が労苦と傷を受け、悲しみを受けたとしても、父のそれに比べられるはずがない」という心情を持っていれば、サタンは引きずり出すことができません。
子どもを失って悲しまれた神様を考えるなら、哀れな人類を抱いて嘆くことができなければなりませんし、歴史的な悲しみを受けられた神様を抱いて嘆くことができなければなりません。たとえ私個人は全人口の27億分の1に該当しますが、神の御心に加わるという心情を持たなければなりません。 今、私たちは親の愛を受けるだけでなく、親の代わりにならなければなりません。
私が眠っている瞬間にも、父はどこかで苦労しています。哀れな人を見るとき、自分の立場で接するのではなく、彼にも彼をひどく愛する妻や夫、親と子、あるいは兄弟がいることを知って、そのような立場で接するべきです。親に十字架があるなら、心情的な十字架以上の十字架はありません。 道を通った時、かわいそうな事情を持った村人を見た時、あるいは民族がかわいそうな境遇に直面した時、父に代わって「心配しないでください。私がいますよ」という心情で生きていれば、彼は天の友人であり、兄弟であり、息子であり、娘なのです。 両親はいつも心情的な十字架を背負って、犠牲になった十字架の道を歩んでいます。
ノアより、モーセより、イエス様より、イエス様よりご苦労された方は神様です。どの個人、どの民族、または先生より、もっとご苦労された方は神様です。この時代にいけにえの立場におられる方が神様です。父がそうなので、私もいけにえの道を歩まなければならないということです。 私たちが父の前に立つ道はそれしかありません。 ですから、どの国、どの機関に接するにしても、「これは父のもの、つまり私のものです。そこで労苦する者は父の仕事をしているのだから、私の仕事をしているのだ」と考えなければなりません。 仕事場で労苦している農民を見たら、ポケットマネーでも渡して慰めることができなければなりませんし、また、「私の息子や娘があそこで働いているんだな」と祝福してあげなければ、父の息子や娘になることはできません。
草一本を見ても、「父のために育ったんだな」と涙を流すことができなければなりません。第3イスラエルの人は、そのような心情で動き、どこへ行っても「私の土地、私の仕事だ」という思いを持たなければなりません。 これから先生が目指すのは、親の心情を持ち、父の代わりに主人の役割を果たすことができる皆さんを作ることです。
この地の青年男女に望むのはこれですから、何よりもまず、父を所有する者にならなければなりません。 自分の心がこれだから、父の心情はどうだろうと考えることができるようにならなければなりません。 高く大きく見つめておられる父、また、先生も皆さんをそのように見つめておられます。
ですから、皆さんは十字架と供え物の立場を負う者にならなければなりません。 そのような心で伝道し、勉強し、働く人は滅びることができません。 裸足の供え物になることを自負してください。供物は曲ネがある時に祈ります。その立場は楽な立場ではありません。
供え物の立場に立つと良いとか悪いとかよく言われますが、皆さんはどこへ行ってもその地域のいけにえにならなければなりません。いけにえは殺しても抗議できませんが、頭を下げたいけにえは生きた権威を持って現れます。神様がそうして歩んでこられ、先生が、そして統一教会教徒がそうして歩んできました。
私たちには、自分自身の道と供え物になる道があります。自分の道を行く間は、伝道はできません。 しかし、供え物の道を3年以上6年まで行くようになれば、誰でもその前に屈服しないわけにはいきません。 私は金持ちの息子、神の息子という立場ですべてのことに対処してください。そのような心情で復帰の峠を越えれば、神様はすべてを任せてくださるでしょう。
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