文鮮明先生 御言葉選集8-7 すべては善悪の戦いの場を越えなければならない(1959年12月6日)
1959年12月6日(日)、前本部教会にて
コリント人への第一の手紙 15章20-28節
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<祈祷>
お父様! 私たちを憐れんでくださいますように。歴史の路程においてお父様が願われた一人の人間が必要だったことを知っており、一つの家庭が必要であったことも知っており、一つの民族、一つの国家、一つの世界を目標として、お父様ご自身が直接摂理を進めてこられたことを存じております。しかし、この地上には、お父様の永遠なる愛と通じることのできる真なる一人の人間も存在せず、家庭も存在せず、民族も、国家も、世界も存在しておりません。
このようなものを見出すために今まで摂理してこられたお父様のご苦労に対して、この地はお望みであった環境の基盤とならず、実績を備えた人類にもなれなかったことを考えるとき、真に私たちはお父様の前に顔を上げることのできない罪悪の子孫であることを認めざるを得ません。
願わくは、この身と心があなたの望まれる一人の息子娘として立てられるその日が本当に待ち遠しく、一つの家庭を探し求められるお父様の前に、そのような立場に進み出たいと切に願う次第です。私たちがこのように思うならば、お父様のお心はいかばかりか、さらに切実でありましょうか。
お父様は、これまで望まれる一人の存在もいないまま、六千年という長い年月の間、天の前に憂いを残したこの人類を再び探し求めるために戦ってこられました。たとえ億千万年がかかろうとも、真の息子娘を探すために苦労を重ねなければならないお父様であることを思うとき、私たちはあまりにも天の前に不忠であったことを告白せざるを得ません。お父様、このような私たちをどうかお許しくださいませ。
地上には数多くの人類が生きていますが、あなたの息子と言える者が誰であり、あなたの娘と言える者が誰でありましょうか? あなたの息子娘のために造られたと言える万物があるでしょうか? 悔しくてやりきれないお父様、追いやられ、追い詰められ、悲しく孤独な立場にいらっしゃるお父様を、私たちだけでも理解することができるようお導きください。
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私たちがここに来たのは、地上のいかなる栄光を望んで来たのではなく、悲しみに満ちたお父様の息子娘となるためであり、不当な仕打ちを受けている天の家庭の家族となるためであります。ゆえに私たちが行く道は、悲しく、不当に扱われ、孤独な道であり、妨害され、追われる道であるとしても、お父様が歴史の路程をそのように歩んでこられたので、こうした道こそ、お父様の息子娘となる立場の私たちが当然行くべき復帰の路程であることを悟らせてくださいますようお願いいたします。
まず、お父様のものとしてお捧げできるその日、私たちに属するすべてをお父様のものとしてお捧げできるその日、私たちが生きているこの世界がお父様の世界へと変わるその日を、心から待ち望む私たちとなりますようお導きください。その一日まで私たちのすべてを犠牲にし、戦い続け、倒れてもまた立ち上がり、戦いの隊列に立ってお父様と共に耐え、戦い抜くことができる息子娘となれますよう、切に願い祈ります。
この日、何を申し上げればよろしいでしょうか。お父様、私たち自身では、お父様にお捧げできるものは何一つございません。お父様を仰ぐために備えたものが何もない恥知らずな私たちですが、私たちの周りに敵がいるゆえに、歯を食いしばってでもお父様を呼ばなければならない立場にある私たちを、どうか憐れんでくださいませ。この一日、お父様、新たな御言葉を許してくださり、励ましの御言葉をお与えください。そうしてこの一日に許された恩恵をつかみ取り、天の息子娘としての威信を立て、体面を保つことができるよう、お許しくださいますよう切に願い祈ります。
さらに、行くべき道を知らずに苦しんでいる数多くの人類を祝福してください。不幸な民族を祝福してください。不幸な教団を祝福してください。追い詰められた道で追われている孤独な家族を祝福してください。心情を通じてお父様の栄光を歌うことができ、お父様の事情を理解してサタンとの戦いの場に立てる息子娘が天地間に数多く現れるようお導きください。天もまた、このことのために絶え間なく協力されることを知っておりますので、天地が協調して勝利を収めることにより、復帰の一日を迎え、新たな天地を築くことができるようお許しくださいますよう願い、残されたすべてを主管してくださることを切に願い祈ります。
いま、御言葉を伝えようとしていますので、直接主管してください。伝える者と受ける者のすべてが、お父様の心情を通して結びつき、いかなる主義主張、いかなる観念、いかなる自我意識も中心とすることなく、天の前に立つよう導いてくださいませ。
幼い子供のような心で、本心から湧き上がる心情で、お父様が現れてくださることを歌い、現れるお父様を歓迎する心情の場となれますようお願いし、主の御名によって申し上げました。アーメン。
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<御言葉>
この時間には「すべてのものは善悪の戦場を越えねばならない」、言い換えるならば「すべての万物は善悪の戦いの場を越えなければならない」というタイトルでお話しいたします。
私たちは堕落した先祖の子孫であることを知っています。ここで「堕落した」ということを認めるならば、自分自身がいかなる栄光の条件や価値的な何らかの条件を持っているとしても、それもまた堕落圏内に属していることを知らなければなりません。私たち自身が心あるいは体で感じる幸福感、あるいは希望に満ちた望みを持っているとしても、それもまた堕落圏内の望みであり、堕落圏内の幸福であるということです。生活を営んでいる私たち自体も、やはり堕落圏内に留まっている存在であることを否定することはできません。私たちの生命がそうであり、私たちの理念や幸福の要素がこのような立場に置かれているため、この環境の中でそのまま存在していては、堕落の恨(ハン)を脱ぎ捨てたとは言えないのです。そのままの私自身をもって幸福な世界あるいは理想世界の「私」だと自称することはできないということです。これは明らかな事実です。
したがって人間は誰であろうと男女老若を問わず、さまよい、またさまよいながら歴史を紡いでいるのです。あるときはこのように追いやられ、あるときはあのように追いやられ、このように引き裂かれ、あのように踏みにじられながら、血で染まる悲惨な歴史の道程を歩んできました。
このようにしてでも歩み続ける人類の道筋、あるいは歴史の流れはどこに向かって流れているのか?一言で言えば、堕落に由来するこの恨多き歴史と世界を乗り越えるためなのです。
皆さんがどれほど幸福に暮らしていると自負していても、堕落圏内で生きています。本来の生命はそのように生きることを望んではいません。ゆえに、この世界に住む人間も被造万物も、「どうすればこの世界を超えられるだろうか?」と思い、この苦痛圏内で命を懸けて努力し、もがきながら進んでいるのです。これが今日の世界で起こっている現象であることを私たちははっきりと知らなければなりません。
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人間に幸福があり、何らかの理想があり、真なる生命の喜びがあるとすれば、それはいつ実現するのでしょうか?今日のこの堕落圏内の幸福や理想、あるいは喜びではなく、堕落圏を踏み越えて「私は果たして天と地の前に堂々とすることができる生命、永遠なる生命を得て、永遠なる幸福の園、永遠なる理想の園に立った。」と言えるその一日を迎えた後にこそ、真の幸福、真の理想世界が始まると、私たちは言わざるを得ないのです。
この堕落の淵を埋め、踏み越えなければならない運命に置かれている人間であるため、皆さんの心はこの瞬間も走っています。この瞬間、皆さんの家庭も走っており、この民族も走っており、今日私たちが住んでいるこの世界、さらには天宙までもが走っています。では、どこに向かって走っているのでしょうか?恨多き堕落圏を蹴り飛ばし、乗り越えるために走っている私たちであることを忘れてはなりません。
神様がおられるとすれば、神様の目的は何であり、善があるとすれば善の目的は何でしょうか?歴史上の善なる人々がこの地に来て犠牲を払っていった目的は何でしょうか?走っているこの人類がこの峠を早く越えられるようにするためであることを、私たちは否定できません。人間にその峠を越えさせるために、神様は善なる個人を送り、善なる環境を開拓させ、善なる理念を立てて善なる国家形態を整え、善なる世界へと導く摂理をされるのです。
このように見るとき、今日の世界は最終的に一つの判決を下して乗り越えなければならない運命にあります。世界がそうであり、この国がそうであり、私たちの家庭がそうであり、私たち自身がそうなのです。そして、これと共に天もまた再び越えなければならない運命のときを迎えていることを知らなければなりません。
では、乗り越えるにはどう乗り越えるのでしょうか?笑いながらは越えられません。絡み合った縄を切り離してこそ越えられるのです。それも一度に越えることはできません。一人ひとりが越えなければなりません。そのように乗り越えた者たちが集まり、群れをなし、一つの家庭、一つの民族、一つの国家形態、一つの世界を築かなければならないのです。これが結論です。
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ここに来られた皆さん、自分自身に誇れる何かがありますか?命を懸けて戦う何かを持っていますか?すべて堕落圏内のものである以上、自分が誇る価値が大きければ大きいほど、大きな十字架を背負わねばなりません。縛られたものが大きければ大きいほど、大きくつまずく立場になるのです。それゆえ、道を歩む人々はすべてを断ち切って進むのです。彼らの目的は国を救い、世界を救うことですが、なぜ彼らは個人を断ち切り、国家を断ち切り、世界を断ち切って行くのか?これが道を歩む人々の矛盾した道程です。しかし彼らは乗り越えなければならない時があることを知っているため、その目的のためだけに行くのです。
乗り越えるには打ち破って行かなければなりません。なぜか?この世は清算されなければならない世界であるため、善なる立場から打ち破らねばなりません。したがって、道の道程は打ち破りながら進む道です。
終末の日は目前に近づいています。最後の審判の日が近づいている今、その瞬間を迎える私たちはどのような立場に立つべきでしょうか?人間世界で誇っている愛、誇っている生命、誇っている理念に対して堂々と嘲笑いながら立つことができないならば、新しい勝利の勇士としてサタンの権勢を蹴り飛ばして乗り越えることはできません。歴史はそこに向かっています。ゆえに私たちもそれを越えなければならず、私たちの家庭も、社会も、国も、この世界も、さらには天上にいる無数の霊人たちも越えなければなりません。世の中だけが越えるのではなく、世の中が越えると同時に、神様もまた越えなければならないのです。
堕落した人間に対して摂理される神様は、人間が苦しみを受ければ共に苦しまれ、人間が悔しさを受ければ共に悔しがられます。立場と境遇は異なっても、内的な心情は同じであるため、天も超えていかなければならず、地も超えていかなければなりません。このような運命に置かれている人類と天が、これを乗り越えるために合同作戦で苦労しつつ出てきているのが今日の私たちの信仰の路程です。合同作戦を展開するための土台が今日の宗教です。したがって、今日の宗教人たちはこの作戦において勝利しなければならない責任を負っています。
では、アダムが堕落して以降、この終わりの日までの期間はどのような期間でしょうか? この期間は私たちが望んでいる期間ではありません。この期間を早く短縮し、解決しなければなりません。無駄な期間なのです。それゆえ、良心を持った人は誰であれ、真理を望む人は誰であれ、このような世界が一刻も早く過ぎ去ることを願っています。この暗黒の世界、恐怖に襲われて苦難の中でもがいているこの世界が、27億の人類すべてが一刻も早く過ぎ去ることを待ち望んでいます。人類だけでなく、天もそうです。天も待ち望み、人類も待ち望んでいるため、この世界を清算して乗り越えさせるのが「道(ド)」なのです。一刻も早く勝利して超えさせることが、今日の宗教が行わなければならないことであり、ここに妨害する何かがあるとすれば、宗教人はこれを攻撃し打ち倒すことを断行しなければならないのです。私たちはこのような責任を負っています。
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今日、私たちは五官を通してこの世界の万象を見て、私たちが生きている社会の現象を見るのですが、その目に見える万物を見る時、私たちは何を感じなければならないでしょうか?どんな存在であっても、それは善悪の戦いの場であるということを感じなければなりません。善と悪の戦いの路程を通過しなければならないことを感じなければなりません。
神様はこの地と天を取り戻すことを願われますが、この地はそのままでは取り戻せません。なぜか?一度徹底して清算しなければならないからです。この地上の人類は神様の前に一度に相続されたいのですが、そのままでは相続されません。なぜか?汚されてしまったからです。したがって清算が必要です。この地に生えている草一本でさえ、善悪の戦いの場であったことを知らなければなりません。また、皆さんが着ている一着の服にも、歴史的な善悪の戦いの痕跡が残っているのです。見て、聞いて、感じるすべてのもの、この地の小さな物品一つに至るまで、神様とサタンが対決するその日から、善悪の戦いの場で所有が左右されてきたということを、皆さんは知らなければなりません。
旧約時代に神様は供え物を通じて物質をかけて戦われました。その物質は万物を代表したものでした。万物が戦いの場になった日から、神様はその万物をつかんで、サタンからの讒訴(ざんそ)を受けない日を願われましたが、いまだその日を迎えておられません。その次には、人間を戦いの場に立てられました。その代表者が神の息子イエスでした。イエスをかけて神様はサタンと戦われました。そこから勝利してイエスを天の側に引き上げられるとき、神様はサタンの讒訴を受けざるを得ませんでした。このように万物から今日に至るまで、歴史を生きたすべての人類は善悪の戦いの場で左右されているということを私たちは知らなければなりません。
今日、私たちの体もそうであり、私たちの心も、私たちの心情も同様です。今どれほど良いものを持っているとしても、そこにはサタンが讒訴できる条件があります。私たち自身の体と心がいくら尊いとしても、それは今なおサタンが讒訴できる戦いの場に置かれているということを知らなければなりません。
ここに徹底した観点を立て、目に見える万象には、今この瞬間にも善悪の戦いが繰り広げられていることを知らなければなりません。私たちが手に取る一つの物品にも善悪の戦いの条件があり、今この瞬間にも戦いが続いているのです。
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では、神様の願いとは何でしょうか?創造された万物のすべてがこのような戦いの条件に引っかかっているため、この全体を超えさせ、サタンが讒訴できずに引き返すその一日を見られることなのです。これが神様が戦い続けてこられた目的ですが、神様はいまだその日を見られていないのです。
皆さんは地上で天を代表する責任を負っています。このような責任を背負った私たちはどうすべきでしょうか?善悪の条件に引っかかっている万物を引き寄せ、サタンの要素を追い払い、神様の前に返さなければなりません。人間復帰をする前に、万物復帰から行わなければなりません。神様は人間を創造される前に万物を先に創造されました。ゆえに、自分自身が立ち上がる前に、自分が持っているすべてをサタンの前に提示して戦いに勝利し、得た万物を神様の前に立てなければなりません。だから世界は物質を持って戦ってきているのです。
今日、道を信じキリスト教を中心としたすべての民主陣営は、サタンと戦い、この世界のすべての経済力を天側に取り戻さなければなりません。これが原則です。天の側に取り戻さなければなりません。そうしなければサタンから打たれます。サタンに引きずられます。では経済力を天の側に取り戻したら何をするのか?それを善なる人に分配しなければならないのです。
物質を神様の側に取り戻すためには、サタンが関与できるすべての条件を断ち切らなければなりません。その次には自分の体を取り戻さなければなりませんが、この体は心を中心としてこそ取り戻せます。この心が神様の心に似て、本然の心情と通じる基準に立たなければ体を取り戻せません。サタンが体をつかんでいるからです。したがって、心を中心に体を取り戻せる者とならなければなりません。
今日、人々は理念を中心として人を奪い合い、体を奪い合っています。この理念は精神を象徴し、心の世界を象徴するものです。皆さんには世界を抱きたい心があります。このような心、つまり理念を中心にして人を奪い合っているのです。
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こうした時に私たちがサタンから体を取り戻すためにはどうすればよいのか?サタンが持てない理念をもって現れなければなりません。変化する過程では、常にサタンの侵入を受けます。変化・発展し新しい形態を取ろうとするものは変化しうるため、サタンの干渉を受けるのです。変化する過程においては何でもサタンが侵入可能です。したがって永遠不変の理念を掴む必要があるのです。
もしも良心が慕う理念が天地が変わっても変わることのない理念であるならば、心はそこに帰ります。心は帰るのです。そのようになっています。
今日、人類が物質を天の側に引き寄せるためにはどうすればよいのでしょうか?民主陣営に変わることのない理念があって、世界がその理念を中心として動かなければ可能ではありません。そのとき、私たちの体も天の前に取り戻されることができます。
今までの人類は物質をかけて戦ってきました。体をかけては、天地を代表した良心を追求する人々が戦ってきました。次には変わることのない心を中心として、変わることのない神様の心情と通じることのできる心情を所有してこそ、最終的な決着がつきます。
物質を取り戻し、体を取り戻し、心を取り戻し、その次に心情を取り戻さなければ、この地上では何も解決されません。皆さんがいくら優れているとしても、そうした条件に間違いなく引っかかっています。
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したがって、世界を支配する主義が現れても、人間たちがその主義を中心として死の立場を体験し、心の世界まで左右する理念も支配できないような、心情が凝縮された一つの場所を備えていない限り、戦いは終わりません。善悪の戦いは終わらないのです。また、私たちはサタンから物質を奪って神様に返し、体を奪って返し、心を奪って返さなければなりませんが、この心を返すためには、どれほど変わらない理念があっても、それをただ好むだけではいけません。その理念に深く染み込んでいる心情問題に入り込み、心情が通じ合う立場に立ってこそ、神様が私であり、私が神様であり、神様のものが私のものであり、私のものが神様のものであると言えるのです。この心情が連結されるとき、これまで捧げてきた物質、体、心がすべて一つに統一されて神様の前に最高のものとして決定されるのです。そのために供え物を捧げるのです。
皆さんには敵があります。皆さんの前に見える物質が敵であり、皆さんの体が敵です。これらはサタンの供え物になる条件なのです。罪とは何でしょうか?それはサタンが侵入できる条件を提示することです。皆さんの心が揺れ動くのも敵です。一度善であれば、ずっと善でなければなりません。ところが悪の立場にいる人の心は何度も変わります。「行かなければならない」と思いつつも、一日に何回も変化します。
善と悪の区別は一瞬でつけられます。悪の立場にいると心は絶えずその場所を離れようとします。一日に何度も変わるのは悪なのです。変わらないのが善です。変化する世界の中で、それでも比較的変化の少ないものが天の前に近いのです。したがって、この変化する心、この敵を打ち破らなければなりません。変わり得る理念が現れれば、その理念も打ち破らなければなりません。
どのような種族を中心として、どのような民族を中心として、どのような宗教を中心として現れたとしても、それが本然の良心と心情を結集させ、天倫あるいは自然の軌道によって変わらない形で動けるその時に初めて、人類は理想世界に入ることができます。
言い換えれば、物質が敵です。この体が敵であり、この心が敵であり、この心情が敵なのです。なぜ子供が親を好むのでしょうか?子供に対する親の心が変わらないからです。死んでも変わらないから好むのです。天をなぜ好むのでしょうか?どのような事情があっても、天は変わらないから好むのです。変わらないものが最高のものとして現れます。宝物もそうではありませんか?したがって、変わり得ないもの、変わらないそのものが現れなければなりません。
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皆さんが持っているすべてのものは敵世界の利用道具です。そのため、道を求める人々は物質を打ち破り、体を打ち破り、自分の欲望を打ち破り、自分の心情を打ち破るのです。それが何か分からないままでも、ある時にはより大きな善なる物質、より大きな善なる体、より大きな善なる良心、より大きな善なる心情を見つけなければならないという目的があるために、道を求める人々はそれに向かって走っていくのです。これを私たちは蕩減復帰歴史と呼んでいます。
では、最後の日、終末と言われるこの時に、私たちはどのようにすべきでしょうか?清算すべきところに行かなければなりません。「物質よ、私の前に出て来てお前の権威を誇ってみろ。私と戦おう。」と、一気に打ち倒せる自分自身にならなければなりません。そのようにして初めて体を復帰できます。そのようにして初めて体が留まれます。この体が天地が変わっても変わらない理念に染み込んで、心の前に屈服しなければなりません。神様の心情と人類が持つ根本的な心情が通じ合うことのできる不変の心情の核心が現れたとき、サタンは荷物をまとめて去っていきます。荷物をまとめて去っていくということなのです。
実際、今すでに静的な出発地点が準備されています。しかし、本然の心情は天にあり、血統はサタンのものであるため、このサタンの血統を断つために天を訪ねて行くのです。そのようにしてどこに帰結するのか?心情に入って帰結します。理念が最終的に追求する目的とは何でしょうか?理念を立てた目的は何でしょうか?それは神様の愛を実践するためなのです。それゆえ、これが今日全世界にいる良心を持った人々や信仰を持つ人々が行かなければならない最後の決着をつける道です。
このような観点から神様を見るとき、神様は哀れです。6千年間戦ってこられましたが、今日、神様の心情を超えられる一人の人間がいるでしょうか?いません。神様は実に気の毒です。6千年間、ただ一つの体を探し求めてこられましたが、神様の心情を超えた体がどこにあるでしょうか?神様は本当に哀れなのです。理念を立てるために苦労されましたが、神様の心情を中心とした理念はありませんでした。それゆえ、今日この世界がこのような姿なのです。
理念と私たちの体と万物が神様の心情に接ぎ木され、整理されるその瞬間に、本然の位置は決定されます。したがって、物質を見るときは、「歴史上数多くの善なる人々の血を弄んだ物質よ!」と悲痛な心情を抱くべきです。自分の体を見るときは、「天を苦しめたこの体よ!」と、心の動きを見るときは、「神様の心情を無視した心よ!」と恨を感じなければなりません。今がまさにそのような時なのです。そのような場所が神様の最終目的地なので、ここでは二人の主人に仕えることはできません。
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これを認めるならば、ある理念圏内に入るときは、物質も死も問題ではないという理念圏に入らなければなりません。そのような理念が真の理念なのです。ある理想主義があるならば、その主義のために「物質は問題ではない。莫大な金銀財宝も問題ではない。この体一つ死ぬくらい何でもない。」と言える主義でなければなりません。
その理念のために死ぬとしても悔しがったり、無念がったりするのではなく、むしろ喜びながら「当然そうすべきだ」と言える理念、このような理念がこの地上に現れなければなりません。キリスト教が驚くべきなのはそのためです。彼らがイエスをつかんだ瞬間は、ただイエスだけです。他のことは何も気にしません。イエスをつかんで行く道においては、死さえも気にしません。問題ではないのです。
イエスが立てられた理想は、良心の理念です。しかし今は、この良心の理念を超えて心情の基準を立てなければなりません。そのためイエスは「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」と言われ、良心の橋をかけて心情の世界まで連結しようとなさったのです。
終末とはどのような時でしょうか?神様の息子イエスと人間の心情が連結される時です。それゆえ全世界の人類はイエスの心情に接ぎ木されなければなりません。そのようになればイエスは「あなたがたは神様の息子であり、私はあなたがたの花婿であり、あなたがたは私の花嫁だ」と言うことができます。それはなぜでしょうか?花嫁を探す時には、それが世界のどんなものよりも尊いからです。今日の理念は世界を抱くためのものですが、心情は神様と全体を抱くためのものです。理念というのは対象世界を抱くためのものであり、心情は主体と対象を共に抱くものです。したがって心情の世界で初めて統一が成されるのです。
このような観点から今日、私たちは道を結論づけて越えて行かなければなりません。歴史の流れを見て論理的に推理すれば必ずそうなりますが、その立場で全体を代表して現れたのがキリスト教です。それゆえキリスト教は世界的な宗教です。しかし、このキリスト教にはもう一段階革命を起こさなければならない問題があります。キリスト教が良心の理念の基準だけでもがくならば滅びます。崩れ去ります。キリスト教が神様の愛、神様の心情を掲げて動けないならば、今日民主陣営は道を失ってしまうでしょう。そのため私たち統一教会はそのような方向を志向して進んでいるのです。
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心情が通じる位置では、神様の前に全体が子女であり、全体が花婿・花嫁であり、全体が兄弟姉妹です。そのような圏内に入るとき、私たちは「食口(シック)」という名詞を立てることができます。その一人の食口には、どんな莫大な金銭を与えても替えられない価値があることを知らなければなりません。また、その価値を尊ぶことができなければなりません。今日のいかなる主義や莫大な金銀財宝とも交換できない価値だと知るべきです。
私たちはそうした価値を知る人を恋い慕って道の道程を歩んでいるのです。神様もそのような価値を知り、恋い慕いながら生きられる園をつくるために苦労されてきました。これが6千年の復帰歴史です。
私たちは嘆かなければなりません。私たちは天に対して「お父様!お父様が与えたいと願われる万物をください、お父様が与えたいと願われる体をください、お父様が与えたいと願われる心をください、お父様だけを慕える心情をください」と祈りますが、考えてみれば、お父様は与えてくださったのに、私たちはそれを失い、また失ってきました。これが堕落です。したがって、私たちは善なる物質を回復しなければならず、善なる理念を回復しなければならず、善なる心情を回復しなければなりません。これが人類が行うべき最後のことなのです。歴史は、善なる物質、善なる理念、善なる心情がある所を目指して進んでいます。数多くの民族が引き裂かれ、倒れることがあったとしても、民族を超え、国家を超えてその場所へと流れていきます。
現代を見ると、二つの理念がぶつかっていますが、その一方が崩れる日にはどうなるでしょうか?「この物質は私のものだ。この世界、人類は私のものだ。この理念は私のものだ。この心情は私のものだ」と言える主人公が現れなければなりません。これらすべてを自分のものとして所有する資格者、人類を弄んできたサタン、私たちの良心と体と物質を弄んだサタンに対し、「お前!」と叱責して審判できる人が現れなければなりません。そのような人はどんな人でしょうか?キリスト教でいう再臨時代に審判の席を免れる人であり、第一の復活に参加する栄光を得られる人です。皆さんにはそのような胆力がありますか?ここで言う胆力とは拳を振り回す胆力ではありません。歴史とともに過去、現在、未来を貫く摂理路程においてサタンが讒訴するすべての条件を蹴り飛ばして立てる権限を意味します。
神様は地上で「サタンに対しすべての物質を出せ!」と言える息子娘が出てくることを6千年間待ち望んでおられます。「未来世界は私たちのものだ、私のものだ」と言える群れが現れなければなりません。これはある人間の欲望ではなく、神様の願いです。万物を創造されたのは、「これは私のものだ」と言える観(価値観)が立った真の息子娘のためでした。したがって、私たちには宇宙観がなければなりません。生活観が必要であると同時に宇宙観も必要です。世界観が必要です。この世界観とは何でしょうか?「この世界が私の世界だ」という観点です。本来の人間はそうなっています。
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その観点で、人間は皆、本来世界主義者です。能力のない者も、優れた者もすべて「私の世界だ」と言えるのです。ただし、「私の世界だ」と主張する条件を備えていないために見つけられませんが、その条件を持って天に行って訴えればいくらでも見つけられます。この天地を私のものだと言える主義を皆さんは持つべきです。
その次に、この世界にいるすべての人類が一つの兄弟だという観点を持たなければなりません。一つの兄弟という観点が必要です。そのようになってこそ、神様が父として振る舞われることができます。兄弟という観念を持ち、「この地上の理念は我が家の理念だ、私たちの心情は父母の心情だ」と言えるなら世界は一つになります。民族を超越して一つになります。このような世界をつくらなければ、どんな政治や理念も役に立ちません。終末である今、すべて崩れていきます。
今日アメリカがいくら経済力を誇っても、見てください。彼らは荷物をまとめて全人類に分け与えなければなりません。天運がそのように動いていることを彼らは知りません。そのため、アメリカはそれをしなければなりません。神様の代わりに倉庫にあるものを分け与えるべきなのです。そのような心を持たなければ非難されます。アメリカは今そうなっています。
これらを考えるとき、この世はもう終わりです。しかしここから新たな道を経て一つに収める場所が必要です。その世界は、物質や民族を超え、五色人種を超え、「私のものであると同時にあなたのものだ」と言える世界です。そのような理念が動き始めてこそ世界は統一されます。その世界で私たちは一つの兄弟であり、一人の父を中心とする父子の関係を成すことができるのです。このような時が地上に到来するまで、すべての戦いは解決されません。
今日、私たち人間はどのような欲望を抱き、運命的な復帰の道を歩んでいるのでしょうか?全てを自分のものにするために歩んでいます。「この天地は私のものだ。この天地にいる人類は私の兄弟だ。地上の理念はまさに私の理念だ。ある主権者や企業家のものではなく、私のものだ」。さらには「神様も私のものだ」と言える立場を目指しています。それならば、皆さんの欲望はどこまで行って終わるでしょうか?神様さえも私のものだと言い、神様だけをつかんで何をするのでしょうか?神様の心の奥深くにある愛さえも「私のものだ」と言える位置まで進まなければ、すべては終わりません。
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皆さん!神様の愛がどんなものであるかご存知ですか?言葉で言っても素晴らしいですが、実際にもそうです。人間が万物の霊長になることができる権限は何でしょうか?「神様、早くいらしてください」と言ったら、「よし、行こう」と来てくださるように、神様を呼び出せる主人公になることです。これは神様の心情を自分のものにするならば可能です。「神様、行きましょう」と言ったら「よし、行こう」と言えるのは何故でしょうか?皆さん、そうではありませんか。心情が一つになって互いを恋しく思うときには、来ないでと言ってもついて来るのです。神様もまた人間をそのような基準で接し、探し求めて来られます。「地上に住む人間よ、数千年前から苦労してきたこの恨(ハン)を、お前たちが解いてくれることができるのは何か?私の心情の全てをお前たちが占めて、万物の主人となれる姿になったとき、私の積もった恨を全て忘れることができるだろう」と言われるのが神様の愛です。
聖書に「私は父の中におり、父は私の中におり、あなたがたが私の中におり、私があなたがたの中にいる」とありますが、これはどんな意味でしょうか?人間の欲望というのは、この地を自由にしてみても満足しないものです。今日のフルシチョフやアイゼンハワー大統領のような人々がこの世界を自分の膝元に置き、「おい、お前たちこれをしろ」と言ったら、「はい、いたします」と言わせるようになれば、気楽になると思いますか?そうではありません。人間は最後には神様から「よく戦った。そのようにしなさい」と言われてこそ喜べるように造られています。神様は私たちが神様の愛を独占する王子になることを望まれています。その位置に立てば、万事は解決します。私たちがその位置に入って、6千年もの恨を抱いてきた天に向かって「お父様!」と呼ぶ一言で、神様の6千年の恨はすべて解かれるのです。
そうなれば、キリスト教は新しい次元へと飛躍します。2千年前に来られたイエスは「物質を握って戦え、体を握って戦え」と言われませんでした。「それらすべてを捨てて私を信じなさい」と言われました。「あなたたちが私イエスの花嫁になったことを信じなさい」と言われたのは有難いことです。「情的な心情の縁を結んでいなさい」と言われたのです。そうすれば再び訪ねて来られるということです。またそうなると神様も人類を訪ねて来られるのです。
人間が神様を訪ねるにあたり、どのようにする人が善なる人なのでしょうか?大きなことを考えながら進む人です。愛国者であれば、自分の家庭を捨て、自分の体を犠牲にしてでも三千万民族を考えなければなりません。三千万の民族を自分の体や自分に属する何よりも大切に考える人が愛国者であり忠臣です。心情的にそのように考えなければなりません。忠臣、烈女、孝子、孝女はすべてこの道程を通過しなければなりません。
最後に、このすべてのサタン世界の条件までも清算できる唯一の基準は何でしょうか?どんな立派な人でも人格者でもありません。どんな権力を持った主権者もその基準にはなれません。神様でさえ動かざるを得ない愛です。その愛を持つ人が全体の中心であり、全歴史時代の中心であることを皆さんは知らなければなりません。
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今日、私たちは少なくとも三千万民族だと限定するのはやめましょう。百万信徒にも満たないキリスト教徒しか持たないと限定するのもやめましょう。世界には数多くのキリスト教徒がいて、天を愛する人がたくさんいるのに、統一教会の信徒が少ないと限定するのもやめましょう。
天が願う歴史的な心情を持ち、すべてのサタンの要素を処断できる人格者にまずならなければなりません。そして審判の基準を立て、それ以外は許すことができないと言い切る者となってこそ、6千年戦ってこられた神様の代わりに地上のことを処理する代表者として立てるのです。
神様はすべてを失われました。万物も失い、愛する息子娘も失い、切ない愛の心情も踏みにじられました。神様がそうであったのに、人間がどうしてその道を行かないことがあるでしょうか?ここでは誰かに打たれるのではなく、自分自身が打たねばなりません。「天を裏切ったこの体は捨てられて当然だ」と大胆に断ち切れる存在でなければ、敵圏内に因縁されたすべての恨を踏み越えることはできません。これができない人は主を迎えるなどとは言えません。ここで言っていることは間違いありません。事実そうなのです。
そのような心情を持って進み出る人には、心も体も物質も自動的について来ます。ですから、そうした心情を持った国家や民族があるならば、世界の物質は全て彼らによって動かされるようになります。世界の人類は彼らによって左右され、世界の主義も彼らによって判決され、世界の愛も彼らによって左右されるのです。事実がそうであるならば、一度やってみる価値があるでしょう?ここで語っている私自身もそれを知っているために、このようなことをしているのです。
それではその方法に入ったらどうすればよいのでしょうか?これが私たちのやるべきことです。私たちはサタンの条件物に弄ばれてきた自分自身であることを知らなければなりません。私たちが財布に数千万ウォンの大金を入れていても、それがサタンが付きまとえる餌であることを知らなければなりません。だからこそ…。
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これから私たちは団結しなければなりません。団結すべきです。神様は愛する息子娘の手を通してすべてが現れることを願われるでしょう。私の考えではそうです。そうだというのではなく、そうであろうということです。誤解してはいけません。サタンに弄ばれる万物をノアの方舟を通じて、神様が愛される聖別された物質として繁殖させようとされたのが神様のお心だったでしょう。
ですから私たちは、神様のものとして神様の情が通じる物質を作らねばなりません。神様の情が通じる万物の基盤を作らねばなりません。堕落した人間の嘆きは何でしょうか?万物の嘆きは何でしょうか?神様の情的感情を感じられない段階に置かれているため嘆くのです。この体が今サタン世界に置かれているため、神様の情的な感じに従って動けないのです。心もすべてがそうです。
そのため、私はこのような生活をしています。どのような食べ物を食べろと持ってこられても、むやみに食べません。皆さんは知らないでしょう?そこには必ず何か理由があります。イスラエル民族がカナンの地に入る時、万物の割礼を行い、体の割礼を行い、心の割礼を行いました。物質の割礼、体の割礼、心の割礼を行ったのですが、私はそこにさらに「心情の割礼」までしているのです。
皆さん、今日の人間世界の愛とは一体何でしょうか?神様を探し求めるために必要なことを、勇断をもって実行できないならば、主に出会うことはできません。絶対に出会えません。息子娘だとか何だとかいうことまで、自らの手で断ち切って進める人でなければ、その後に神様の愛は繋がってこないのです。このような観点で、皆さんの心がそのように動く場所があるならば、そこに行って掴まなければなりません。首を切られても離れてはなりません。離れれば自分だけが犠牲になるからです。そのため、必ずそのような覚悟をもって動かなければなりません。終末であるこの時代に、そうした動きが地球上に、世界上に現れなければなりません。
世の中でこれを模倣した動きが現れる前に、神様を中心として、理念を中心として、「食口(シック)」という名詞を立てなければなりません。統一教会の食口という言葉はそこから出てきたのです。分かりますか?ここで物質をもって食口の威信をもてあそんではなりません。自分一人の家庭の事情を中心として私たち食口との縁を蹂躙する人は不合格者であり、いかなる理念や思想観念、いかなる信仰観念を中心として私たちの理念を測る人も不合格者です。いかなる情的感情を中心として実践をためらう人も不合格者です。この言葉が正しいかどうか見てください。
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堕落以降、私たち人間には恨多き運命の道があることを知らなければなりません。愛する食口に会うためには、数千万の財産を一瞬にして失ったとしても「お前に会えてどれほど嬉しいか」という心を持たなければなりません。この体が疲れ、苦痛を受けることがあっても、「愛する兄弟一人を見つけるためなら、どこでも構わず行かなければならない」という心を持つべきです。このような理念を抱き、イエスのように地上で志を成し遂げられずに去るとしても、この理念だけのために進む人は必ず神様の愛に出会います。
理念を中心として物質を捨てる人は、神様の息子としての体を得ることができる権限を持ち、体を得ることができる理念でも地を中心とした理念であるならば、それを捨てていく人には神様の心情が待っています。このように一段階ずつ繋がりながら進んで行くのです。イエス様は万王の王としてこの地に来られましたが、理念も命さえもすべて捨てて行かれましたが、その上に心情があることを知っておられたため、神様を「お父様」と呼ぶことができました。私たちも同様です。
この観点から、私たちは今や判決を下さなければなりません。私はどのような立場に立っており、自分はどのような存在であり、どの程度の価値ある立場に立つのかということは自明な事実です。皆さん自身がこの道を進むにおいて、世の中のいかなる物質のためにためらったり、自分の家庭や自分の国家的立場のためにためらったり、今までの主義や理念、あるいは信仰的観念のためにためらってはなりません。それは問題になりません。さらには愛の問題、つまり情的な問題までも自信をもって勝ち抜いていかなければなりません。劇的に乗り越えられるような衝撃的なものを終末には必ず見つけ出さなければなりません。そうでなければ越えることはできません。これは事実です。
歴史の流れは不義を許容しません。それゆえ道は、良心を通して善となるよう教えています。善は命じます。「あなたの体を犠牲にし、あなたのすべてを他者に与えなさい。他者に頭を下げて仕えなさい。民族に仕え、世界人類に仕え、神様に仕えなさい。そしてあなたの体を神様に任せなさい」と。そうすれば最後はどうなるのでしょうか?最後には神様の愛をあなたに与えるというのです。善は目的もなく命令するでしょうか?そうするならば神様の愛を与えるというのです。これを知る者、これを感じる者にならなければなりません。
世の中がどれほど反旗を翻して立ち上がったとしても、神様の愛には侵入できません。神様の愛の世界は侵入できる場所がありません。サタン世界は侵入できても、神様の愛を中心とした場所は侵入できません。その場所が最終地点であり、永遠であり、不変の基準だからです。そのためその基準の上から出発できる真の息子娘、真の家庭、真の社会、真の世界、真の世界の万物にならなければなりません。そうしてこそ、全世界は善悪の戦いの場を越えることができます。
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それではその位置に進めない私たちはどうすべきでしょうか?私たちが見ることにも善と悪が戦い、聞くこと、食べること、話すこと、動くことすべてに善悪が対立して戦っています。そのため私たちは善悪を区別して「私はこのように進むべきだ」と、神様の心情に基づき、神様の不変の理念を通して「このように行くべきだ」という観点を立てなければなりません。そのような宇宙観を立て、心情を通して左右をかき分けて進めるとき、皆さんはその戦いの場を越えることができます。
ですから、イエスも神様の愛が染み込んだ十字架を担いで行かれました。神様の愛です。皆さん、故郷を訪ねる人が両親と争いに行くでしょうか?両親の愛を恋しく思って訪ねる人は喜びに満ち、希望に溢れます。イエスが十字架上で誰を恨んだり嘆いたりしたでしょうか?父の愛の懐に行く位置だったため、イエスは敵に対して祝福を祈れたのです。今日、皆さんはこのような位置を取り戻さなければなりません。したがって堕落した人類は復帰の過程を経なければなりません。そのためにはこうした条件を清算すべきですが、それができる自分になっているかどうか自問自答してください。
神様の願いとは何でしょうか?私たち人間が神様が心配されない位置で、神様のものとして尊ぶことができる物質を作り、神様が愛される体を作り、神様が愛される理念を持つことです。物質を復帰し、体を復帰し、理念を復帰して天の前に立つならば、神様はそれを受け取られるというのです。人類が理念を追求する理由がここにあります。
終末には、その場所が恋しくて恋しくて、行きたくて行きたくて仕方がなくなければなりません。莫大な富があっても問題ではありません。この地上の富貴栄華をすべて蹴って進ませるよう導く教団を人類は迎えなければなりません。万一、統一教会がその道を行けないなら、他の場所でも行かなければなりません。ここが最後ではありません。荷物をまとめて再び出発しなければなりません。
今日私たちが進む道はそのような道です。神様を私たちのものとし、神様の心情を私たちの心情として、この地と宇宙を私たちのものとしなければなりません。そのときに初めて、すべての悲惨な善悪の戦いは終わるのです。
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<祈 祷>
お父様!歴史の流れがどのようなものであるのか、私たちは知りませんでした。お父様と私たちがこのような曲折の道を歩んで来るにあたり、お父様の苦労がどれほど大きかったかを知るようになりました。アベルが供え物を準備するときも、それはアベル自身が準備したものではなく、お父様ご自身がなさったことであり、ノアが120年間排斥されながら耐え忍んできたのも、ノア自身が耐えたのではなく、人間に代わってお父様が耐えて来られたことを知りました。
アブラハム以降、イエス様が来られたのもこのことを終結するためであったことを知りました。この地に来られたイエス様は本当にかわいそうな方でありました。その方はまさに天の心情に通じる位置におられましたが、この地で一人の同志にも出会えず、一人の花嫁を慕われましたが出会えなかったことを知りました。その方はこの地を慕い、この地の万物と万民を恋しく思われましたが、万物に向かって「あなたたちが恋しくて訪ねて来た」と言える立場ではありませんでした。万民のために来られましたが、万民に向かって「あなたたちが恋しくて訪ねて来た」と心情を打ち明けることはできませんでした。
このように悲しく恨を残して行かれたイエス様の道程を歩んできた数多くの聖徒たちは、イエス様と同じようにこの地に血を流しながら、恨多く生きて露のように消えていったことを私たちは知っています。終末を迎えた私たちは、どのような立場にいるでしょうか?心を開き、心情に沁みて、6千年の恨を抱き、号泣しなければならない私たちですが、天を裏切ることを日常とし、変わることを繰り返してきました。
しかし、変わらない心情、変わらない姿で愛する息子娘を慕い、涙を流されるお父様であることを知りました。排斥する群れの後を追いながら涙を流され、あらゆる打撃を受けられた天のお立場を知ったので、今や私たちはこの道を進むことを誓います。すべてを奪われ失うことになったとしても進みます。血と肉を撒き散らし道端に倒れることがあっても進まなければなりません。これは私たちのためではなく、お父様のためです。私たち自身の欲望ではなく、大宇宙の主人であられるあなたの栄光のためです。お父様がこのように戦って来られ、お父様に向き合う道を歩んだ人々もこのように戦って来られたのに、ここに集まった私たちが何を誇れましょうか?朽ちてゆく物を握りしめて貴ぶでしょうか?それらによってお父様の恨をさらに重くする立場に立つことがないよう、主管してくださいますようお願いいたします。
今、私たちが誇れるのは、お父様を慕う心、お父様を愛したい心、お父様を恋しく思う心だけです。すべてを失うことになったとしても、その心を握りしめてあえぎ、お父様を慰められる切実な心情だけが私たちに深く沁み込むように許諾してください。私たちが進む道が、お父様がついてこられざるを得ない道となりますようにしてください。お父様が行かれる道を、私たちの血肉が落ちることになっても進むという心情を持つようにしてください。
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そのような位置で、お父様を中心として互いに「食口」と呼ぶ集いを備える教会を、どれほど慕われたでしょうか?お父様、そのような民族をどれほど慕われ、そのような世界の人類になることをどれほど待ち望まれたでしょうか?しかし今なお悲しい障壁の前で一筋の希望も持てない地上の人間に対し、恨を抱いておられるお父様のお立場を私たちは知っています。親不孝極まりない先祖たちをお許しください。不備で不忠だった事実をお許しくださいますよう、切に願います。
これほどまでに愛そうとされたお父様であり、これほどまでに栄光の座に立てようとされたお父様であることを私たちは知りませんでした。今は知りましたので、残されたすべてを自ら清算し、勝利の姿を整えることができるよう祝福してください。変わるものを持っては天の願いを成し遂げられないことを知りました。天は私たちが心と体と心情において変わらない基準を立てることを願っていることを悟るようにしてください。
ここで叫びたい私自身もその日を待ち望み、その姿を待ち望んでいます。今、私たちがその道を行かなければなりませんが、進むべきその道は迫害の道であり、悲しみの道であり、悔しい道であることを知りました。その道を進む私たちが、変わってしまっては嘆き、裏切ってしまっては怨むことを知りました。百回、千回、万回死ぬとしても変わらない心情を備え、倒れるとしてもお父様の手を握りしめて倒れ、お父様の恨を抱きしめて消えていくことができるよう導いてください。そうでなければ善悪の戦いの場を越えられないことを知りました。
今、私たちの前に敵が残っているとするならば、それはお父様に向かう私たちの心情を阻む物質でしょうか?肉体でしょうか?地上の欲望でしょうか?お父様に向かう私たちの心情を阻むいかなるものも一切容赦しない私たちとなるよう許諾してください。お父様に向かって一片丹心に燃える忠節の心は、天地が消えるとしても残るものであり、これが永遠に輝くお父様の栄光の基盤であることを知り、これを中心としてお父様と因縁を結び、栄光の姿で現れ、万物を抱き、万民を抱き、天を高め、天を誇り、天のために尽くすことのできる者たちになることをお父様が今まで待ち望んで来られたことを知っています。
すべてを主管してください。今日から新たな覚悟を持たなければならないことを感じさせてください。審判の日が来る前に、自ら審判できる自分となるべき事実を悟らせてください。審判をする主人公となるべきことを悟らせてください。
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前を阻むものを自らが知り、それを自ら解決できる信念を持ち、「お父様、できましたか、できませんでしたか?」と堂々と問える息子娘となるよう導いてください。すべての言葉を主の御名により祈りました。アーメン。
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1959年12月6日(日)、前本部教会にて
コリント人への第一の手紙 15章20-28節
1
<祈祷>
お父様! 私たちを憐れんでくださいますように。歴史の路程においてお父様が願われた一人の人間が必要だったことを知っており、一つの家庭が必要であったことも知っており、一つの民族、一つの国家、一つの世界を目標として、お父様ご自身が直接摂理を進めてこられたことを存じております。しかし、この地上には、お父様の永遠なる愛と通じることのできる真なる一人の人間も存在せず、家庭も存在せず、民族も、国家も、世界も存在しておりません。
このようなものを見出すために今まで摂理してこられたお父様のご苦労に対して、この地はお望みであった環境の基盤とならず、実績を備えた人類にもなれなかったことを考えるとき、真に私たちはお父様の前に顔を上げることのできない罪悪の子孫であることを認めざるを得ません。
願わくは、この身と心があなたの望まれる一人の息子娘として立てられるその日が本当に待ち遠しく、一つの家庭を探し求められるお父様の前に、そのような立場に進み出たいと切に願う次第です。私たちがこのように思うならば、お父様のお心はいかばかりか、さらに切実でありましょうか。
お父様は、これまで望まれる一人の存在もいないまま、六千年という長い年月の間、天の前に憂いを残したこの人類を再び探し求めるために戦ってこられました。たとえ億千万年がかかろうとも、真の息子娘を探すために苦労を重ねなければならないお父様であることを思うとき、私たちはあまりにも天の前に不忠であったことを告白せざるを得ません。お父様、このような私たちをどうかお許しくださいませ。
地上には数多くの人類が生きていますが、あなたの息子と言える者が誰であり、あなたの娘と言える者が誰でありましょうか? あなたの息子娘のために造られたと言える万物があるでしょうか? 悔しくてやりきれないお父様、追いやられ、追い詰められ、悲しく孤独な立場にいらっしゃるお父様を、私たちだけでも理解することができるようお導きください。
2
私たちがここに来たのは、地上のいかなる栄光を望んで来たのではなく、悲しみに満ちたお父様の息子娘となるためであり、不当な仕打ちを受けている天の家庭の家族となるためであります。ゆえに私たちが行く道は、悲しく、不当に扱われ、孤独な道であり、妨害され、追われる道であるとしても、お父様が歴史の路程をそのように歩んでこられたので、こうした道こそ、お父様の息子娘となる立場の私たちが当然行くべき復帰の路程であることを悟らせてくださいますようお願いいたします。
まず、お父様のものとしてお捧げできるその日、私たちに属するすべてをお父様のものとしてお捧げできるその日、私たちが生きているこの世界がお父様の世界へと変わるその日を、心から待ち望む私たちとなりますようお導きください。その一日まで私たちのすべてを犠牲にし、戦い続け、倒れてもまた立ち上がり、戦いの隊列に立ってお父様と共に耐え、戦い抜くことができる息子娘となれますよう、切に願い祈ります。
この日、何を申し上げればよろしいでしょうか。お父様、私たち自身では、お父様にお捧げできるものは何一つございません。お父様を仰ぐために備えたものが何もない恥知らずな私たちですが、私たちの周りに敵がいるゆえに、歯を食いしばってでもお父様を呼ばなければならない立場にある私たちを、どうか憐れんでくださいませ。この一日、お父様、新たな御言葉を許してくださり、励ましの御言葉をお与えください。そうしてこの一日に許された恩恵をつかみ取り、天の息子娘としての威信を立て、体面を保つことができるよう、お許しくださいますよう切に願い祈ります。
さらに、行くべき道を知らずに苦しんでいる数多くの人類を祝福してください。不幸な民族を祝福してください。不幸な教団を祝福してください。追い詰められた道で追われている孤独な家族を祝福してください。心情を通じてお父様の栄光を歌うことができ、お父様の事情を理解してサタンとの戦いの場に立てる息子娘が天地間に数多く現れるようお導きください。天もまた、このことのために絶え間なく協力されることを知っておりますので、天地が協調して勝利を収めることにより、復帰の一日を迎え、新たな天地を築くことができるようお許しくださいますよう願い、残されたすべてを主管してくださることを切に願い祈ります。
いま、御言葉を伝えようとしていますので、直接主管してください。伝える者と受ける者のすべてが、お父様の心情を通して結びつき、いかなる主義主張、いかなる観念、いかなる自我意識も中心とすることなく、天の前に立つよう導いてくださいませ。
幼い子供のような心で、本心から湧き上がる心情で、お父様が現れてくださることを歌い、現れるお父様を歓迎する心情の場となれますようお願いし、主の御名によって申し上げました。アーメン。
3
<御言葉>
この時間には「すべてのものは善悪の戦場を越えねばならない」、言い換えるならば「すべての万物は善悪の戦いの場を越えなければならない」というタイトルでお話しいたします。
私たちは堕落した先祖の子孫であることを知っています。ここで「堕落した」ということを認めるならば、自分自身がいかなる栄光の条件や価値的な何らかの条件を持っているとしても、それもまた堕落圏内に属していることを知らなければなりません。私たち自身が心あるいは体で感じる幸福感、あるいは希望に満ちた望みを持っているとしても、それもまた堕落圏内の望みであり、堕落圏内の幸福であるということです。生活を営んでいる私たち自体も、やはり堕落圏内に留まっている存在であることを否定することはできません。私たちの生命がそうであり、私たちの理念や幸福の要素がこのような立場に置かれているため、この環境の中でそのまま存在していては、堕落の恨(ハン)を脱ぎ捨てたとは言えないのです。そのままの私自身をもって幸福な世界あるいは理想世界の「私」だと自称することはできないということです。これは明らかな事実です。
したがって人間は誰であろうと男女老若を問わず、さまよい、またさまよいながら歴史を紡いでいるのです。あるときはこのように追いやられ、あるときはあのように追いやられ、このように引き裂かれ、あのように踏みにじられながら、血で染まる悲惨な歴史の道程を歩んできました。
このようにしてでも歩み続ける人類の道筋、あるいは歴史の流れはどこに向かって流れているのか?一言で言えば、堕落に由来するこの恨多き歴史と世界を乗り越えるためなのです。
皆さんがどれほど幸福に暮らしていると自負していても、堕落圏内で生きています。本来の生命はそのように生きることを望んではいません。ゆえに、この世界に住む人間も被造万物も、「どうすればこの世界を超えられるだろうか?」と思い、この苦痛圏内で命を懸けて努力し、もがきながら進んでいるのです。これが今日の世界で起こっている現象であることを私たちははっきりと知らなければなりません。
4
人間に幸福があり、何らかの理想があり、真なる生命の喜びがあるとすれば、それはいつ実現するのでしょうか?今日のこの堕落圏内の幸福や理想、あるいは喜びではなく、堕落圏を踏み越えて「私は果たして天と地の前に堂々とすることができる生命、永遠なる生命を得て、永遠なる幸福の園、永遠なる理想の園に立った。」と言えるその一日を迎えた後にこそ、真の幸福、真の理想世界が始まると、私たちは言わざるを得ないのです。
この堕落の淵を埋め、踏み越えなければならない運命に置かれている人間であるため、皆さんの心はこの瞬間も走っています。この瞬間、皆さんの家庭も走っており、この民族も走っており、今日私たちが住んでいるこの世界、さらには天宙までもが走っています。では、どこに向かって走っているのでしょうか?恨多き堕落圏を蹴り飛ばし、乗り越えるために走っている私たちであることを忘れてはなりません。
神様がおられるとすれば、神様の目的は何であり、善があるとすれば善の目的は何でしょうか?歴史上の善なる人々がこの地に来て犠牲を払っていった目的は何でしょうか?走っているこの人類がこの峠を早く越えられるようにするためであることを、私たちは否定できません。人間にその峠を越えさせるために、神様は善なる個人を送り、善なる環境を開拓させ、善なる理念を立てて善なる国家形態を整え、善なる世界へと導く摂理をされるのです。
このように見るとき、今日の世界は最終的に一つの判決を下して乗り越えなければならない運命にあります。世界がそうであり、この国がそうであり、私たちの家庭がそうであり、私たち自身がそうなのです。そして、これと共に天もまた再び越えなければならない運命のときを迎えていることを知らなければなりません。
では、乗り越えるにはどう乗り越えるのでしょうか?笑いながらは越えられません。絡み合った縄を切り離してこそ越えられるのです。それも一度に越えることはできません。一人ひとりが越えなければなりません。そのように乗り越えた者たちが集まり、群れをなし、一つの家庭、一つの民族、一つの国家形態、一つの世界を築かなければならないのです。これが結論です。
5
ここに来られた皆さん、自分自身に誇れる何かがありますか?命を懸けて戦う何かを持っていますか?すべて堕落圏内のものである以上、自分が誇る価値が大きければ大きいほど、大きな十字架を背負わねばなりません。縛られたものが大きければ大きいほど、大きくつまずく立場になるのです。それゆえ、道を歩む人々はすべてを断ち切って進むのです。彼らの目的は国を救い、世界を救うことですが、なぜ彼らは個人を断ち切り、国家を断ち切り、世界を断ち切って行くのか?これが道を歩む人々の矛盾した道程です。しかし彼らは乗り越えなければならない時があることを知っているため、その目的のためだけに行くのです。
乗り越えるには打ち破って行かなければなりません。なぜか?この世は清算されなければならない世界であるため、善なる立場から打ち破らねばなりません。したがって、道の道程は打ち破りながら進む道です。
終末の日は目前に近づいています。最後の審判の日が近づいている今、その瞬間を迎える私たちはどのような立場に立つべきでしょうか?人間世界で誇っている愛、誇っている生命、誇っている理念に対して堂々と嘲笑いながら立つことができないならば、新しい勝利の勇士としてサタンの権勢を蹴り飛ばして乗り越えることはできません。歴史はそこに向かっています。ゆえに私たちもそれを越えなければならず、私たちの家庭も、社会も、国も、この世界も、さらには天上にいる無数の霊人たちも越えなければなりません。世の中だけが越えるのではなく、世の中が越えると同時に、神様もまた越えなければならないのです。
堕落した人間に対して摂理される神様は、人間が苦しみを受ければ共に苦しまれ、人間が悔しさを受ければ共に悔しがられます。立場と境遇は異なっても、内的な心情は同じであるため、天も超えていかなければならず、地も超えていかなければなりません。このような運命に置かれている人類と天が、これを乗り越えるために合同作戦で苦労しつつ出てきているのが今日の私たちの信仰の路程です。合同作戦を展開するための土台が今日の宗教です。したがって、今日の宗教人たちはこの作戦において勝利しなければならない責任を負っています。
では、アダムが堕落して以降、この終わりの日までの期間はどのような期間でしょうか? この期間は私たちが望んでいる期間ではありません。この期間を早く短縮し、解決しなければなりません。無駄な期間なのです。それゆえ、良心を持った人は誰であれ、真理を望む人は誰であれ、このような世界が一刻も早く過ぎ去ることを願っています。この暗黒の世界、恐怖に襲われて苦難の中でもがいているこの世界が、27億の人類すべてが一刻も早く過ぎ去ることを待ち望んでいます。人類だけでなく、天もそうです。天も待ち望み、人類も待ち望んでいるため、この世界を清算して乗り越えさせるのが「道(ド)」なのです。一刻も早く勝利して超えさせることが、今日の宗教が行わなければならないことであり、ここに妨害する何かがあるとすれば、宗教人はこれを攻撃し打ち倒すことを断行しなければならないのです。私たちはこのような責任を負っています。
6
今日、私たちは五官を通してこの世界の万象を見て、私たちが生きている社会の現象を見るのですが、その目に見える万物を見る時、私たちは何を感じなければならないでしょうか?どんな存在であっても、それは善悪の戦いの場であるということを感じなければなりません。善と悪の戦いの路程を通過しなければならないことを感じなければなりません。
神様はこの地と天を取り戻すことを願われますが、この地はそのままでは取り戻せません。なぜか?一度徹底して清算しなければならないからです。この地上の人類は神様の前に一度に相続されたいのですが、そのままでは相続されません。なぜか?汚されてしまったからです。したがって清算が必要です。この地に生えている草一本でさえ、善悪の戦いの場であったことを知らなければなりません。また、皆さんが着ている一着の服にも、歴史的な善悪の戦いの痕跡が残っているのです。見て、聞いて、感じるすべてのもの、この地の小さな物品一つに至るまで、神様とサタンが対決するその日から、善悪の戦いの場で所有が左右されてきたということを、皆さんは知らなければなりません。
旧約時代に神様は供え物を通じて物質をかけて戦われました。その物質は万物を代表したものでした。万物が戦いの場になった日から、神様はその万物をつかんで、サタンからの讒訴(ざんそ)を受けない日を願われましたが、いまだその日を迎えておられません。その次には、人間を戦いの場に立てられました。その代表者が神の息子イエスでした。イエスをかけて神様はサタンと戦われました。そこから勝利してイエスを天の側に引き上げられるとき、神様はサタンの讒訴を受けざるを得ませんでした。このように万物から今日に至るまで、歴史を生きたすべての人類は善悪の戦いの場で左右されているということを私たちは知らなければなりません。
今日、私たちの体もそうであり、私たちの心も、私たちの心情も同様です。今どれほど良いものを持っているとしても、そこにはサタンが讒訴できる条件があります。私たち自身の体と心がいくら尊いとしても、それは今なおサタンが讒訴できる戦いの場に置かれているということを知らなければなりません。
ここに徹底した観点を立て、目に見える万象には、今この瞬間にも善悪の戦いが繰り広げられていることを知らなければなりません。私たちが手に取る一つの物品にも善悪の戦いの条件があり、今この瞬間にも戦いが続いているのです。
7
では、神様の願いとは何でしょうか?創造された万物のすべてがこのような戦いの条件に引っかかっているため、この全体を超えさせ、サタンが讒訴できずに引き返すその一日を見られることなのです。これが神様が戦い続けてこられた目的ですが、神様はいまだその日を見られていないのです。
皆さんは地上で天を代表する責任を負っています。このような責任を背負った私たちはどうすべきでしょうか?善悪の条件に引っかかっている万物を引き寄せ、サタンの要素を追い払い、神様の前に返さなければなりません。人間復帰をする前に、万物復帰から行わなければなりません。神様は人間を創造される前に万物を先に創造されました。ゆえに、自分自身が立ち上がる前に、自分が持っているすべてをサタンの前に提示して戦いに勝利し、得た万物を神様の前に立てなければなりません。だから世界は物質を持って戦ってきているのです。
今日、道を信じキリスト教を中心としたすべての民主陣営は、サタンと戦い、この世界のすべての経済力を天側に取り戻さなければなりません。これが原則です。天の側に取り戻さなければなりません。そうしなければサタンから打たれます。サタンに引きずられます。では経済力を天の側に取り戻したら何をするのか?それを善なる人に分配しなければならないのです。
物質を神様の側に取り戻すためには、サタンが関与できるすべての条件を断ち切らなければなりません。その次には自分の体を取り戻さなければなりませんが、この体は心を中心としてこそ取り戻せます。この心が神様の心に似て、本然の心情と通じる基準に立たなければ体を取り戻せません。サタンが体をつかんでいるからです。したがって、心を中心に体を取り戻せる者とならなければなりません。
今日、人々は理念を中心として人を奪い合い、体を奪い合っています。この理念は精神を象徴し、心の世界を象徴するものです。皆さんには世界を抱きたい心があります。このような心、つまり理念を中心にして人を奪い合っているのです。
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こうした時に私たちがサタンから体を取り戻すためにはどうすればよいのか?サタンが持てない理念をもって現れなければなりません。変化する過程では、常にサタンの侵入を受けます。変化・発展し新しい形態を取ろうとするものは変化しうるため、サタンの干渉を受けるのです。変化する過程においては何でもサタンが侵入可能です。したがって永遠不変の理念を掴む必要があるのです。
もしも良心が慕う理念が天地が変わっても変わることのない理念であるならば、心はそこに帰ります。心は帰るのです。そのようになっています。
今日、人類が物質を天の側に引き寄せるためにはどうすればよいのでしょうか?民主陣営に変わることのない理念があって、世界がその理念を中心として動かなければ可能ではありません。そのとき、私たちの体も天の前に取り戻されることができます。
今までの人類は物質をかけて戦ってきました。体をかけては、天地を代表した良心を追求する人々が戦ってきました。次には変わることのない心を中心として、変わることのない神様の心情と通じることのできる心情を所有してこそ、最終的な決着がつきます。
物質を取り戻し、体を取り戻し、心を取り戻し、その次に心情を取り戻さなければ、この地上では何も解決されません。皆さんがいくら優れているとしても、そうした条件に間違いなく引っかかっています。
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したがって、世界を支配する主義が現れても、人間たちがその主義を中心として死の立場を体験し、心の世界まで左右する理念も支配できないような、心情が凝縮された一つの場所を備えていない限り、戦いは終わりません。善悪の戦いは終わらないのです。また、私たちはサタンから物質を奪って神様に返し、体を奪って返し、心を奪って返さなければなりませんが、この心を返すためには、どれほど変わらない理念があっても、それをただ好むだけではいけません。その理念に深く染み込んでいる心情問題に入り込み、心情が通じ合う立場に立ってこそ、神様が私であり、私が神様であり、神様のものが私のものであり、私のものが神様のものであると言えるのです。この心情が連結されるとき、これまで捧げてきた物質、体、心がすべて一つに統一されて神様の前に最高のものとして決定されるのです。そのために供え物を捧げるのです。
皆さんには敵があります。皆さんの前に見える物質が敵であり、皆さんの体が敵です。これらはサタンの供え物になる条件なのです。罪とは何でしょうか?それはサタンが侵入できる条件を提示することです。皆さんの心が揺れ動くのも敵です。一度善であれば、ずっと善でなければなりません。ところが悪の立場にいる人の心は何度も変わります。「行かなければならない」と思いつつも、一日に何回も変化します。
善と悪の区別は一瞬でつけられます。悪の立場にいると心は絶えずその場所を離れようとします。一日に何度も変わるのは悪なのです。変わらないのが善です。変化する世界の中で、それでも比較的変化の少ないものが天の前に近いのです。したがって、この変化する心、この敵を打ち破らなければなりません。変わり得る理念が現れれば、その理念も打ち破らなければなりません。
どのような種族を中心として、どのような民族を中心として、どのような宗教を中心として現れたとしても、それが本然の良心と心情を結集させ、天倫あるいは自然の軌道によって変わらない形で動けるその時に初めて、人類は理想世界に入ることができます。
言い換えれば、物質が敵です。この体が敵であり、この心が敵であり、この心情が敵なのです。なぜ子供が親を好むのでしょうか?子供に対する親の心が変わらないからです。死んでも変わらないから好むのです。天をなぜ好むのでしょうか?どのような事情があっても、天は変わらないから好むのです。変わらないものが最高のものとして現れます。宝物もそうではありませんか?したがって、変わり得ないもの、変わらないそのものが現れなければなりません。
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皆さんが持っているすべてのものは敵世界の利用道具です。そのため、道を求める人々は物質を打ち破り、体を打ち破り、自分の欲望を打ち破り、自分の心情を打ち破るのです。それが何か分からないままでも、ある時にはより大きな善なる物質、より大きな善なる体、より大きな善なる良心、より大きな善なる心情を見つけなければならないという目的があるために、道を求める人々はそれに向かって走っていくのです。これを私たちは蕩減復帰歴史と呼んでいます。
では、最後の日、終末と言われるこの時に、私たちはどのようにすべきでしょうか?清算すべきところに行かなければなりません。「物質よ、私の前に出て来てお前の権威を誇ってみろ。私と戦おう。」と、一気に打ち倒せる自分自身にならなければなりません。そのようにして初めて体を復帰できます。そのようにして初めて体が留まれます。この体が天地が変わっても変わらない理念に染み込んで、心の前に屈服しなければなりません。神様の心情と人類が持つ根本的な心情が通じ合うことのできる不変の心情の核心が現れたとき、サタンは荷物をまとめて去っていきます。荷物をまとめて去っていくということなのです。
実際、今すでに静的な出発地点が準備されています。しかし、本然の心情は天にあり、血統はサタンのものであるため、このサタンの血統を断つために天を訪ねて行くのです。そのようにしてどこに帰結するのか?心情に入って帰結します。理念が最終的に追求する目的とは何でしょうか?理念を立てた目的は何でしょうか?それは神様の愛を実践するためなのです。それゆえ、これが今日全世界にいる良心を持った人々や信仰を持つ人々が行かなければならない最後の決着をつける道です。
このような観点から神様を見るとき、神様は哀れです。6千年間戦ってこられましたが、今日、神様の心情を超えられる一人の人間がいるでしょうか?いません。神様は実に気の毒です。6千年間、ただ一つの体を探し求めてこられましたが、神様の心情を超えた体がどこにあるでしょうか?神様は本当に哀れなのです。理念を立てるために苦労されましたが、神様の心情を中心とした理念はありませんでした。それゆえ、今日この世界がこのような姿なのです。
理念と私たちの体と万物が神様の心情に接ぎ木され、整理されるその瞬間に、本然の位置は決定されます。したがって、物質を見るときは、「歴史上数多くの善なる人々の血を弄んだ物質よ!」と悲痛な心情を抱くべきです。自分の体を見るときは、「天を苦しめたこの体よ!」と、心の動きを見るときは、「神様の心情を無視した心よ!」と恨を感じなければなりません。今がまさにそのような時なのです。そのような場所が神様の最終目的地なので、ここでは二人の主人に仕えることはできません。
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これを認めるならば、ある理念圏内に入るときは、物質も死も問題ではないという理念圏に入らなければなりません。そのような理念が真の理念なのです。ある理想主義があるならば、その主義のために「物質は問題ではない。莫大な金銀財宝も問題ではない。この体一つ死ぬくらい何でもない。」と言える主義でなければなりません。
その理念のために死ぬとしても悔しがったり、無念がったりするのではなく、むしろ喜びながら「当然そうすべきだ」と言える理念、このような理念がこの地上に現れなければなりません。キリスト教が驚くべきなのはそのためです。彼らがイエスをつかんだ瞬間は、ただイエスだけです。他のことは何も気にしません。イエスをつかんで行く道においては、死さえも気にしません。問題ではないのです。
イエスが立てられた理想は、良心の理念です。しかし今は、この良心の理念を超えて心情の基準を立てなければなりません。そのためイエスは「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」と言われ、良心の橋をかけて心情の世界まで連結しようとなさったのです。
終末とはどのような時でしょうか?神様の息子イエスと人間の心情が連結される時です。それゆえ全世界の人類はイエスの心情に接ぎ木されなければなりません。そのようになればイエスは「あなたがたは神様の息子であり、私はあなたがたの花婿であり、あなたがたは私の花嫁だ」と言うことができます。それはなぜでしょうか?花嫁を探す時には、それが世界のどんなものよりも尊いからです。今日の理念は世界を抱くためのものですが、心情は神様と全体を抱くためのものです。理念というのは対象世界を抱くためのものであり、心情は主体と対象を共に抱くものです。したがって心情の世界で初めて統一が成されるのです。
このような観点から今日、私たちは道を結論づけて越えて行かなければなりません。歴史の流れを見て論理的に推理すれば必ずそうなりますが、その立場で全体を代表して現れたのがキリスト教です。それゆえキリスト教は世界的な宗教です。しかし、このキリスト教にはもう一段階革命を起こさなければならない問題があります。キリスト教が良心の理念の基準だけでもがくならば滅びます。崩れ去ります。キリスト教が神様の愛、神様の心情を掲げて動けないならば、今日民主陣営は道を失ってしまうでしょう。そのため私たち統一教会はそのような方向を志向して進んでいるのです。
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心情が通じる位置では、神様の前に全体が子女であり、全体が花婿・花嫁であり、全体が兄弟姉妹です。そのような圏内に入るとき、私たちは「食口(シック)」という名詞を立てることができます。その一人の食口には、どんな莫大な金銭を与えても替えられない価値があることを知らなければなりません。また、その価値を尊ぶことができなければなりません。今日のいかなる主義や莫大な金銀財宝とも交換できない価値だと知るべきです。
私たちはそうした価値を知る人を恋い慕って道の道程を歩んでいるのです。神様もそのような価値を知り、恋い慕いながら生きられる園をつくるために苦労されてきました。これが6千年の復帰歴史です。
私たちは嘆かなければなりません。私たちは天に対して「お父様!お父様が与えたいと願われる万物をください、お父様が与えたいと願われる体をください、お父様が与えたいと願われる心をください、お父様だけを慕える心情をください」と祈りますが、考えてみれば、お父様は与えてくださったのに、私たちはそれを失い、また失ってきました。これが堕落です。したがって、私たちは善なる物質を回復しなければならず、善なる理念を回復しなければならず、善なる心情を回復しなければなりません。これが人類が行うべき最後のことなのです。歴史は、善なる物質、善なる理念、善なる心情がある所を目指して進んでいます。数多くの民族が引き裂かれ、倒れることがあったとしても、民族を超え、国家を超えてその場所へと流れていきます。
現代を見ると、二つの理念がぶつかっていますが、その一方が崩れる日にはどうなるでしょうか?「この物質は私のものだ。この世界、人類は私のものだ。この理念は私のものだ。この心情は私のものだ」と言える主人公が現れなければなりません。これらすべてを自分のものとして所有する資格者、人類を弄んできたサタン、私たちの良心と体と物質を弄んだサタンに対し、「お前!」と叱責して審判できる人が現れなければなりません。そのような人はどんな人でしょうか?キリスト教でいう再臨時代に審判の席を免れる人であり、第一の復活に参加する栄光を得られる人です。皆さんにはそのような胆力がありますか?ここで言う胆力とは拳を振り回す胆力ではありません。歴史とともに過去、現在、未来を貫く摂理路程においてサタンが讒訴するすべての条件を蹴り飛ばして立てる権限を意味します。
神様は地上で「サタンに対しすべての物質を出せ!」と言える息子娘が出てくることを6千年間待ち望んでおられます。「未来世界は私たちのものだ、私のものだ」と言える群れが現れなければなりません。これはある人間の欲望ではなく、神様の願いです。万物を創造されたのは、「これは私のものだ」と言える観(価値観)が立った真の息子娘のためでした。したがって、私たちには宇宙観がなければなりません。生活観が必要であると同時に宇宙観も必要です。世界観が必要です。この世界観とは何でしょうか?「この世界が私の世界だ」という観点です。本来の人間はそうなっています。
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その観点で、人間は皆、本来世界主義者です。能力のない者も、優れた者もすべて「私の世界だ」と言えるのです。ただし、「私の世界だ」と主張する条件を備えていないために見つけられませんが、その条件を持って天に行って訴えればいくらでも見つけられます。この天地を私のものだと言える主義を皆さんは持つべきです。
その次に、この世界にいるすべての人類が一つの兄弟だという観点を持たなければなりません。一つの兄弟という観点が必要です。そのようになってこそ、神様が父として振る舞われることができます。兄弟という観念を持ち、「この地上の理念は我が家の理念だ、私たちの心情は父母の心情だ」と言えるなら世界は一つになります。民族を超越して一つになります。このような世界をつくらなければ、どんな政治や理念も役に立ちません。終末である今、すべて崩れていきます。
今日アメリカがいくら経済力を誇っても、見てください。彼らは荷物をまとめて全人類に分け与えなければなりません。天運がそのように動いていることを彼らは知りません。そのため、アメリカはそれをしなければなりません。神様の代わりに倉庫にあるものを分け与えるべきなのです。そのような心を持たなければ非難されます。アメリカは今そうなっています。
これらを考えるとき、この世はもう終わりです。しかしここから新たな道を経て一つに収める場所が必要です。その世界は、物質や民族を超え、五色人種を超え、「私のものであると同時にあなたのものだ」と言える世界です。そのような理念が動き始めてこそ世界は統一されます。その世界で私たちは一つの兄弟であり、一人の父を中心とする父子の関係を成すことができるのです。このような時が地上に到来するまで、すべての戦いは解決されません。
今日、私たち人間はどのような欲望を抱き、運命的な復帰の道を歩んでいるのでしょうか?全てを自分のものにするために歩んでいます。「この天地は私のものだ。この天地にいる人類は私の兄弟だ。地上の理念はまさに私の理念だ。ある主権者や企業家のものではなく、私のものだ」。さらには「神様も私のものだ」と言える立場を目指しています。それならば、皆さんの欲望はどこまで行って終わるでしょうか?神様さえも私のものだと言い、神様だけをつかんで何をするのでしょうか?神様の心の奥深くにある愛さえも「私のものだ」と言える位置まで進まなければ、すべては終わりません。
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皆さん!神様の愛がどんなものであるかご存知ですか?言葉で言っても素晴らしいですが、実際にもそうです。人間が万物の霊長になることができる権限は何でしょうか?「神様、早くいらしてください」と言ったら、「よし、行こう」と来てくださるように、神様を呼び出せる主人公になることです。これは神様の心情を自分のものにするならば可能です。「神様、行きましょう」と言ったら「よし、行こう」と言えるのは何故でしょうか?皆さん、そうではありませんか。心情が一つになって互いを恋しく思うときには、来ないでと言ってもついて来るのです。神様もまた人間をそのような基準で接し、探し求めて来られます。「地上に住む人間よ、数千年前から苦労してきたこの恨(ハン)を、お前たちが解いてくれることができるのは何か?私の心情の全てをお前たちが占めて、万物の主人となれる姿になったとき、私の積もった恨を全て忘れることができるだろう」と言われるのが神様の愛です。
聖書に「私は父の中におり、父は私の中におり、あなたがたが私の中におり、私があなたがたの中にいる」とありますが、これはどんな意味でしょうか?人間の欲望というのは、この地を自由にしてみても満足しないものです。今日のフルシチョフやアイゼンハワー大統領のような人々がこの世界を自分の膝元に置き、「おい、お前たちこれをしろ」と言ったら、「はい、いたします」と言わせるようになれば、気楽になると思いますか?そうではありません。人間は最後には神様から「よく戦った。そのようにしなさい」と言われてこそ喜べるように造られています。神様は私たちが神様の愛を独占する王子になることを望まれています。その位置に立てば、万事は解決します。私たちがその位置に入って、6千年もの恨を抱いてきた天に向かって「お父様!」と呼ぶ一言で、神様の6千年の恨はすべて解かれるのです。
そうなれば、キリスト教は新しい次元へと飛躍します。2千年前に来られたイエスは「物質を握って戦え、体を握って戦え」と言われませんでした。「それらすべてを捨てて私を信じなさい」と言われました。「あなたたちが私イエスの花嫁になったことを信じなさい」と言われたのは有難いことです。「情的な心情の縁を結んでいなさい」と言われたのです。そうすれば再び訪ねて来られるということです。またそうなると神様も人類を訪ねて来られるのです。
人間が神様を訪ねるにあたり、どのようにする人が善なる人なのでしょうか?大きなことを考えながら進む人です。愛国者であれば、自分の家庭を捨て、自分の体を犠牲にしてでも三千万民族を考えなければなりません。三千万の民族を自分の体や自分に属する何よりも大切に考える人が愛国者であり忠臣です。心情的にそのように考えなければなりません。忠臣、烈女、孝子、孝女はすべてこの道程を通過しなければなりません。
最後に、このすべてのサタン世界の条件までも清算できる唯一の基準は何でしょうか?どんな立派な人でも人格者でもありません。どんな権力を持った主権者もその基準にはなれません。神様でさえ動かざるを得ない愛です。その愛を持つ人が全体の中心であり、全歴史時代の中心であることを皆さんは知らなければなりません。
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今日、私たちは少なくとも三千万民族だと限定するのはやめましょう。百万信徒にも満たないキリスト教徒しか持たないと限定するのもやめましょう。世界には数多くのキリスト教徒がいて、天を愛する人がたくさんいるのに、統一教会の信徒が少ないと限定するのもやめましょう。
天が願う歴史的な心情を持ち、すべてのサタンの要素を処断できる人格者にまずならなければなりません。そして審判の基準を立て、それ以外は許すことができないと言い切る者となってこそ、6千年戦ってこられた神様の代わりに地上のことを処理する代表者として立てるのです。
神様はすべてを失われました。万物も失い、愛する息子娘も失い、切ない愛の心情も踏みにじられました。神様がそうであったのに、人間がどうしてその道を行かないことがあるでしょうか?ここでは誰かに打たれるのではなく、自分自身が打たねばなりません。「天を裏切ったこの体は捨てられて当然だ」と大胆に断ち切れる存在でなければ、敵圏内に因縁されたすべての恨を踏み越えることはできません。これができない人は主を迎えるなどとは言えません。ここで言っていることは間違いありません。事実そうなのです。
そのような心情を持って進み出る人には、心も体も物質も自動的について来ます。ですから、そうした心情を持った国家や民族があるならば、世界の物質は全て彼らによって動かされるようになります。世界の人類は彼らによって左右され、世界の主義も彼らによって判決され、世界の愛も彼らによって左右されるのです。事実がそうであるならば、一度やってみる価値があるでしょう?ここで語っている私自身もそれを知っているために、このようなことをしているのです。
それではその方法に入ったらどうすればよいのでしょうか?これが私たちのやるべきことです。私たちはサタンの条件物に弄ばれてきた自分自身であることを知らなければなりません。私たちが財布に数千万ウォンの大金を入れていても、それがサタンが付きまとえる餌であることを知らなければなりません。だからこそ…。
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これから私たちは団結しなければなりません。団結すべきです。神様は愛する息子娘の手を通してすべてが現れることを願われるでしょう。私の考えではそうです。そうだというのではなく、そうであろうということです。誤解してはいけません。サタンに弄ばれる万物をノアの方舟を通じて、神様が愛される聖別された物質として繁殖させようとされたのが神様のお心だったでしょう。
ですから私たちは、神様のものとして神様の情が通じる物質を作らねばなりません。神様の情が通じる万物の基盤を作らねばなりません。堕落した人間の嘆きは何でしょうか?万物の嘆きは何でしょうか?神様の情的感情を感じられない段階に置かれているため嘆くのです。この体が今サタン世界に置かれているため、神様の情的な感じに従って動けないのです。心もすべてがそうです。
そのため、私はこのような生活をしています。どのような食べ物を食べろと持ってこられても、むやみに食べません。皆さんは知らないでしょう?そこには必ず何か理由があります。イスラエル民族がカナンの地に入る時、万物の割礼を行い、体の割礼を行い、心の割礼を行いました。物質の割礼、体の割礼、心の割礼を行ったのですが、私はそこにさらに「心情の割礼」までしているのです。
皆さん、今日の人間世界の愛とは一体何でしょうか?神様を探し求めるために必要なことを、勇断をもって実行できないならば、主に出会うことはできません。絶対に出会えません。息子娘だとか何だとかいうことまで、自らの手で断ち切って進める人でなければ、その後に神様の愛は繋がってこないのです。このような観点で、皆さんの心がそのように動く場所があるならば、そこに行って掴まなければなりません。首を切られても離れてはなりません。離れれば自分だけが犠牲になるからです。そのため、必ずそのような覚悟をもって動かなければなりません。終末であるこの時代に、そうした動きが地球上に、世界上に現れなければなりません。
世の中でこれを模倣した動きが現れる前に、神様を中心として、理念を中心として、「食口(シック)」という名詞を立てなければなりません。統一教会の食口という言葉はそこから出てきたのです。分かりますか?ここで物質をもって食口の威信をもてあそんではなりません。自分一人の家庭の事情を中心として私たち食口との縁を蹂躙する人は不合格者であり、いかなる理念や思想観念、いかなる信仰観念を中心として私たちの理念を測る人も不合格者です。いかなる情的感情を中心として実践をためらう人も不合格者です。この言葉が正しいかどうか見てください。
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堕落以降、私たち人間には恨多き運命の道があることを知らなければなりません。愛する食口に会うためには、数千万の財産を一瞬にして失ったとしても「お前に会えてどれほど嬉しいか」という心を持たなければなりません。この体が疲れ、苦痛を受けることがあっても、「愛する兄弟一人を見つけるためなら、どこでも構わず行かなければならない」という心を持つべきです。このような理念を抱き、イエスのように地上で志を成し遂げられずに去るとしても、この理念だけのために進む人は必ず神様の愛に出会います。
理念を中心として物質を捨てる人は、神様の息子としての体を得ることができる権限を持ち、体を得ることができる理念でも地を中心とした理念であるならば、それを捨てていく人には神様の心情が待っています。このように一段階ずつ繋がりながら進んで行くのです。イエス様は万王の王としてこの地に来られましたが、理念も命さえもすべて捨てて行かれましたが、その上に心情があることを知っておられたため、神様を「お父様」と呼ぶことができました。私たちも同様です。
この観点から、私たちは今や判決を下さなければなりません。私はどのような立場に立っており、自分はどのような存在であり、どの程度の価値ある立場に立つのかということは自明な事実です。皆さん自身がこの道を進むにおいて、世の中のいかなる物質のためにためらったり、自分の家庭や自分の国家的立場のためにためらったり、今までの主義や理念、あるいは信仰的観念のためにためらってはなりません。それは問題になりません。さらには愛の問題、つまり情的な問題までも自信をもって勝ち抜いていかなければなりません。劇的に乗り越えられるような衝撃的なものを終末には必ず見つけ出さなければなりません。そうでなければ越えることはできません。これは事実です。
歴史の流れは不義を許容しません。それゆえ道は、良心を通して善となるよう教えています。善は命じます。「あなたの体を犠牲にし、あなたのすべてを他者に与えなさい。他者に頭を下げて仕えなさい。民族に仕え、世界人類に仕え、神様に仕えなさい。そしてあなたの体を神様に任せなさい」と。そうすれば最後はどうなるのでしょうか?最後には神様の愛をあなたに与えるというのです。善は目的もなく命令するでしょうか?そうするならば神様の愛を与えるというのです。これを知る者、これを感じる者にならなければなりません。
世の中がどれほど反旗を翻して立ち上がったとしても、神様の愛には侵入できません。神様の愛の世界は侵入できる場所がありません。サタン世界は侵入できても、神様の愛を中心とした場所は侵入できません。その場所が最終地点であり、永遠であり、不変の基準だからです。そのためその基準の上から出発できる真の息子娘、真の家庭、真の社会、真の世界、真の世界の万物にならなければなりません。そうしてこそ、全世界は善悪の戦いの場を越えることができます。
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それではその位置に進めない私たちはどうすべきでしょうか?私たちが見ることにも善と悪が戦い、聞くこと、食べること、話すこと、動くことすべてに善悪が対立して戦っています。そのため私たちは善悪を区別して「私はこのように進むべきだ」と、神様の心情に基づき、神様の不変の理念を通して「このように行くべきだ」という観点を立てなければなりません。そのような宇宙観を立て、心情を通して左右をかき分けて進めるとき、皆さんはその戦いの場を越えることができます。
ですから、イエスも神様の愛が染み込んだ十字架を担いで行かれました。神様の愛です。皆さん、故郷を訪ねる人が両親と争いに行くでしょうか?両親の愛を恋しく思って訪ねる人は喜びに満ち、希望に溢れます。イエスが十字架上で誰を恨んだり嘆いたりしたでしょうか?父の愛の懐に行く位置だったため、イエスは敵に対して祝福を祈れたのです。今日、皆さんはこのような位置を取り戻さなければなりません。したがって堕落した人類は復帰の過程を経なければなりません。そのためにはこうした条件を清算すべきですが、それができる自分になっているかどうか自問自答してください。
神様の願いとは何でしょうか?私たち人間が神様が心配されない位置で、神様のものとして尊ぶことができる物質を作り、神様が愛される体を作り、神様が愛される理念を持つことです。物質を復帰し、体を復帰し、理念を復帰して天の前に立つならば、神様はそれを受け取られるというのです。人類が理念を追求する理由がここにあります。
終末には、その場所が恋しくて恋しくて、行きたくて行きたくて仕方がなくなければなりません。莫大な富があっても問題ではありません。この地上の富貴栄華をすべて蹴って進ませるよう導く教団を人類は迎えなければなりません。万一、統一教会がその道を行けないなら、他の場所でも行かなければなりません。ここが最後ではありません。荷物をまとめて再び出発しなければなりません。
今日私たちが進む道はそのような道です。神様を私たちのものとし、神様の心情を私たちの心情として、この地と宇宙を私たちのものとしなければなりません。そのときに初めて、すべての悲惨な善悪の戦いは終わるのです。
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<祈 祷>
お父様!歴史の流れがどのようなものであるのか、私たちは知りませんでした。お父様と私たちがこのような曲折の道を歩んで来るにあたり、お父様の苦労がどれほど大きかったかを知るようになりました。アベルが供え物を準備するときも、それはアベル自身が準備したものではなく、お父様ご自身がなさったことであり、ノアが120年間排斥されながら耐え忍んできたのも、ノア自身が耐えたのではなく、人間に代わってお父様が耐えて来られたことを知りました。
アブラハム以降、イエス様が来られたのもこのことを終結するためであったことを知りました。この地に来られたイエス様は本当にかわいそうな方でありました。その方はまさに天の心情に通じる位置におられましたが、この地で一人の同志にも出会えず、一人の花嫁を慕われましたが出会えなかったことを知りました。その方はこの地を慕い、この地の万物と万民を恋しく思われましたが、万物に向かって「あなたたちが恋しくて訪ねて来た」と言える立場ではありませんでした。万民のために来られましたが、万民に向かって「あなたたちが恋しくて訪ねて来た」と心情を打ち明けることはできませんでした。
このように悲しく恨を残して行かれたイエス様の道程を歩んできた数多くの聖徒たちは、イエス様と同じようにこの地に血を流しながら、恨多く生きて露のように消えていったことを私たちは知っています。終末を迎えた私たちは、どのような立場にいるでしょうか?心を開き、心情に沁みて、6千年の恨を抱き、号泣しなければならない私たちですが、天を裏切ることを日常とし、変わることを繰り返してきました。
しかし、変わらない心情、変わらない姿で愛する息子娘を慕い、涙を流されるお父様であることを知りました。排斥する群れの後を追いながら涙を流され、あらゆる打撃を受けられた天のお立場を知ったので、今や私たちはこの道を進むことを誓います。すべてを奪われ失うことになったとしても進みます。血と肉を撒き散らし道端に倒れることがあっても進まなければなりません。これは私たちのためではなく、お父様のためです。私たち自身の欲望ではなく、大宇宙の主人であられるあなたの栄光のためです。お父様がこのように戦って来られ、お父様に向き合う道を歩んだ人々もこのように戦って来られたのに、ここに集まった私たちが何を誇れましょうか?朽ちてゆく物を握りしめて貴ぶでしょうか?それらによってお父様の恨をさらに重くする立場に立つことがないよう、主管してくださいますようお願いいたします。
今、私たちが誇れるのは、お父様を慕う心、お父様を愛したい心、お父様を恋しく思う心だけです。すべてを失うことになったとしても、その心を握りしめてあえぎ、お父様を慰められる切実な心情だけが私たちに深く沁み込むように許諾してください。私たちが進む道が、お父様がついてこられざるを得ない道となりますようにしてください。お父様が行かれる道を、私たちの血肉が落ちることになっても進むという心情を持つようにしてください。
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そのような位置で、お父様を中心として互いに「食口」と呼ぶ集いを備える教会を、どれほど慕われたでしょうか?お父様、そのような民族をどれほど慕われ、そのような世界の人類になることをどれほど待ち望まれたでしょうか?しかし今なお悲しい障壁の前で一筋の希望も持てない地上の人間に対し、恨を抱いておられるお父様のお立場を私たちは知っています。親不孝極まりない先祖たちをお許しください。不備で不忠だった事実をお許しくださいますよう、切に願います。
これほどまでに愛そうとされたお父様であり、これほどまでに栄光の座に立てようとされたお父様であることを私たちは知りませんでした。今は知りましたので、残されたすべてを自ら清算し、勝利の姿を整えることができるよう祝福してください。変わるものを持っては天の願いを成し遂げられないことを知りました。天は私たちが心と体と心情において変わらない基準を立てることを願っていることを悟るようにしてください。
ここで叫びたい私自身もその日を待ち望み、その姿を待ち望んでいます。今、私たちがその道を行かなければなりませんが、進むべきその道は迫害の道であり、悲しみの道であり、悔しい道であることを知りました。その道を進む私たちが、変わってしまっては嘆き、裏切ってしまっては怨むことを知りました。百回、千回、万回死ぬとしても変わらない心情を備え、倒れるとしてもお父様の手を握りしめて倒れ、お父様の恨を抱きしめて消えていくことができるよう導いてください。そうでなければ善悪の戦いの場を越えられないことを知りました。
今、私たちの前に敵が残っているとするならば、それはお父様に向かう私たちの心情を阻む物質でしょうか?肉体でしょうか?地上の欲望でしょうか?お父様に向かう私たちの心情を阻むいかなるものも一切容赦しない私たちとなるよう許諾してください。お父様に向かって一片丹心に燃える忠節の心は、天地が消えるとしても残るものであり、これが永遠に輝くお父様の栄光の基盤であることを知り、これを中心としてお父様と因縁を結び、栄光の姿で現れ、万物を抱き、万民を抱き、天を高め、天を誇り、天のために尽くすことのできる者たちになることをお父様が今まで待ち望んで来られたことを知っています。
すべてを主管してください。今日から新たな覚悟を持たなければならないことを感じさせてください。審判の日が来る前に、自ら審判できる自分となるべき事実を悟らせてください。審判をする主人公となるべきことを悟らせてください。
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前を阻むものを自らが知り、それを自ら解決できる信念を持ち、「お父様、できましたか、できませんでしたか?」と堂々と問える息子娘となるよう導いてください。すべての言葉を主の御名により祈りました。アーメン。
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