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人生訓読 ブログ(日本語)(引越し中)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全世界の人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

文鮮明先生 御言葉選集 8-7

2025年04月19日 15時53分34秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集8-7 すべては善悪の戦いの場を越えなければならない(1959年12月6日)
1959年12月6日(日)、前本部教会にて
コリント人への第一の手紙 15章20-28節


1
<祈祷>


お父様! 私たちを憐れんでくださいますように。歴史の路程においてお父様が願われた一人の人間が必要だったことを知っており、一つの家庭が必要であったことも知っており、一つの民族、一つの国家、一つの世界を目標として、お父様ご自身が直接摂理を進めてこられたことを存じております。しかし、この地上には、お父様の永遠なる愛と通じることのできる真なる一人の人間も存在せず、家庭も存在せず、民族も、国家も、世界も存在しておりません。


このようなものを見出すために今まで摂理してこられたお父様のご苦労に対して、この地はお望みであった環境の基盤とならず、実績を備えた人類にもなれなかったことを考えるとき、真に私たちはお父様の前に顔を上げることのできない罪悪の子孫であることを認めざるを得ません。


願わくは、この身と心があなたの望まれる一人の息子娘として立てられるその日が本当に待ち遠しく、一つの家庭を探し求められるお父様の前に、そのような立場に進み出たいと切に願う次第です。私たちがこのように思うならば、お父様のお心はいかばかりか、さらに切実でありましょうか。


お父様は、これまで望まれる一人の存在もいないまま、六千年という長い年月の間、天の前に憂いを残したこの人類を再び探し求めるために戦ってこられました。たとえ億千万年がかかろうとも、真の息子娘を探すために苦労を重ねなければならないお父様であることを思うとき、私たちはあまりにも天の前に不忠であったことを告白せざるを得ません。お父様、このような私たちをどうかお許しくださいませ。


地上には数多くの人類が生きていますが、あなたの息子と言える者が誰であり、あなたの娘と言える者が誰でありましょうか? あなたの息子娘のために造られたと言える万物があるでしょうか? 悔しくてやりきれないお父様、追いやられ、追い詰められ、悲しく孤独な立場にいらっしゃるお父様を、私たちだけでも理解することができるようお導きください。


2


私たちがここに来たのは、地上のいかなる栄光を望んで来たのではなく、悲しみに満ちたお父様の息子娘となるためであり、不当な仕打ちを受けている天の家庭の家族となるためであります。ゆえに私たちが行く道は、悲しく、不当に扱われ、孤独な道であり、妨害され、追われる道であるとしても、お父様が歴史の路程をそのように歩んでこられたので、こうした道こそ、お父様の息子娘となる立場の私たちが当然行くべき復帰の路程であることを悟らせてくださいますようお願いいたします。


まず、お父様のものとしてお捧げできるその日、私たちに属するすべてをお父様のものとしてお捧げできるその日、私たちが生きているこの世界がお父様の世界へと変わるその日を、心から待ち望む私たちとなりますようお導きください。その一日まで私たちのすべてを犠牲にし、戦い続け、倒れてもまた立ち上がり、戦いの隊列に立ってお父様と共に耐え、戦い抜くことができる息子娘となれますよう、切に願い祈ります。


この日、何を申し上げればよろしいでしょうか。お父様、私たち自身では、お父様にお捧げできるものは何一つございません。お父様を仰ぐために備えたものが何もない恥知らずな私たちですが、私たちの周りに敵がいるゆえに、歯を食いしばってでもお父様を呼ばなければならない立場にある私たちを、どうか憐れんでくださいませ。この一日、お父様、新たな御言葉を許してくださり、励ましの御言葉をお与えください。そうしてこの一日に許された恩恵をつかみ取り、天の息子娘としての威信を立て、体面を保つことができるよう、お許しくださいますよう切に願い祈ります。


さらに、行くべき道を知らずに苦しんでいる数多くの人類を祝福してください。不幸な民族を祝福してください。不幸な教団を祝福してください。追い詰められた道で追われている孤独な家族を祝福してください。心情を通じてお父様の栄光を歌うことができ、お父様の事情を理解してサタンとの戦いの場に立てる息子娘が天地間に数多く現れるようお導きください。天もまた、このことのために絶え間なく協力されることを知っておりますので、天地が協調して勝利を収めることにより、復帰の一日を迎え、新たな天地を築くことができるようお許しくださいますよう願い、残されたすべてを主管してくださることを切に願い祈ります。


いま、御言葉を伝えようとしていますので、直接主管してください。伝える者と受ける者のすべてが、お父様の心情を通して結びつき、いかなる主義主張、いかなる観念、いかなる自我意識も中心とすることなく、天の前に立つよう導いてくださいませ。


幼い子供のような心で、本心から湧き上がる心情で、お父様が現れてくださることを歌い、現れるお父様を歓迎する心情の場となれますようお願いし、主の御名によって申し上げました。アーメン。




3


<御言葉>


この時間には「すべてのものは善悪の戦場を越えねばならない」、言い換えるならば「すべての万物は善悪の戦いの場を越えなければならない」というタイトルでお話しいたします。


私たちは堕落した先祖の子孫であることを知っています。ここで「堕落した」ということを認めるならば、自分自身がいかなる栄光の条件や価値的な何らかの条件を持っているとしても、それもまた堕落圏内に属していることを知らなければなりません。私たち自身が心あるいは体で感じる幸福感、あるいは希望に満ちた望みを持っているとしても、それもまた堕落圏内の望みであり、堕落圏内の幸福であるということです。生活を営んでいる私たち自体も、やはり堕落圏内に留まっている存在であることを否定することはできません。私たちの生命がそうであり、私たちの理念や幸福の要素がこのような立場に置かれているため、この環境の中でそのまま存在していては、堕落の恨(ハン)を脱ぎ捨てたとは言えないのです。そのままの私自身をもって幸福な世界あるいは理想世界の「私」だと自称することはできないということです。これは明らかな事実です。


したがって人間は誰であろうと男女老若を問わず、さまよい、またさまよいながら歴史を紡いでいるのです。あるときはこのように追いやられ、あるときはあのように追いやられ、このように引き裂かれ、あのように踏みにじられながら、血で染まる悲惨な歴史の道程を歩んできました。


このようにしてでも歩み続ける人類の道筋、あるいは歴史の流れはどこに向かって流れているのか?一言で言えば、堕落に由来するこの恨多き歴史と世界を乗り越えるためなのです。


皆さんがどれほど幸福に暮らしていると自負していても、堕落圏内で生きています。本来の生命はそのように生きることを望んではいません。ゆえに、この世界に住む人間も被造万物も、「どうすればこの世界を超えられるだろうか?」と思い、この苦痛圏内で命を懸けて努力し、もがきながら進んでいるのです。これが今日の世界で起こっている現象であることを私たちははっきりと知らなければなりません。


4


人間に幸福があり、何らかの理想があり、真なる生命の喜びがあるとすれば、それはいつ実現するのでしょうか?今日のこの堕落圏内の幸福や理想、あるいは喜びではなく、堕落圏を踏み越えて「私は果たして天と地の前に堂々とすることができる生命、永遠なる生命を得て、永遠なる幸福の園、永遠なる理想の園に立った。」と言えるその一日を迎えた後にこそ、真の幸福、真の理想世界が始まると、私たちは言わざるを得ないのです。


この堕落の淵を埋め、踏み越えなければならない運命に置かれている人間であるため、皆さんの心はこの瞬間も走っています。この瞬間、皆さんの家庭も走っており、この民族も走っており、今日私たちが住んでいるこの世界、さらには天宙までもが走っています。では、どこに向かって走っているのでしょうか?恨多き堕落圏を蹴り飛ばし、乗り越えるために走っている私たちであることを忘れてはなりません。


神様がおられるとすれば、神様の目的は何であり、善があるとすれば善の目的は何でしょうか?歴史上の善なる人々がこの地に来て犠牲を払っていった目的は何でしょうか?走っているこの人類がこの峠を早く越えられるようにするためであることを、私たちは否定できません。人間にその峠を越えさせるために、神様は善なる個人を送り、善なる環境を開拓させ、善なる理念を立てて善なる国家形態を整え、善なる世界へと導く摂理をされるのです。


このように見るとき、今日の世界は最終的に一つの判決を下して乗り越えなければならない運命にあります。世界がそうであり、この国がそうであり、私たちの家庭がそうであり、私たち自身がそうなのです。そして、これと共に天もまた再び越えなければならない運命のときを迎えていることを知らなければなりません。


では、乗り越えるにはどう乗り越えるのでしょうか?笑いながらは越えられません。絡み合った縄を切り離してこそ越えられるのです。それも一度に越えることはできません。一人ひとりが越えなければなりません。そのように乗り越えた者たちが集まり、群れをなし、一つの家庭、一つの民族、一つの国家形態、一つの世界を築かなければならないのです。これが結論です。


5


ここに来られた皆さん、自分自身に誇れる何かがありますか?命を懸けて戦う何かを持っていますか?すべて堕落圏内のものである以上、自分が誇る価値が大きければ大きいほど、大きな十字架を背負わねばなりません。縛られたものが大きければ大きいほど、大きくつまずく立場になるのです。それゆえ、道を歩む人々はすべてを断ち切って進むのです。彼らの目的は国を救い、世界を救うことですが、なぜ彼らは個人を断ち切り、国家を断ち切り、世界を断ち切って行くのか?これが道を歩む人々の矛盾した道程です。しかし彼らは乗り越えなければならない時があることを知っているため、その目的のためだけに行くのです。


乗り越えるには打ち破って行かなければなりません。なぜか?この世は清算されなければならない世界であるため、善なる立場から打ち破らねばなりません。したがって、道の道程は打ち破りながら進む道です。


終末の日は目前に近づいています。最後の審判の日が近づいている今、その瞬間を迎える私たちはどのような立場に立つべきでしょうか?人間世界で誇っている愛、誇っている生命、誇っている理念に対して堂々と嘲笑いながら立つことができないならば、新しい勝利の勇士としてサタンの権勢を蹴り飛ばして乗り越えることはできません。歴史はそこに向かっています。ゆえに私たちもそれを越えなければならず、私たちの家庭も、社会も、国も、この世界も、さらには天上にいる無数の霊人たちも越えなければなりません。世の中だけが越えるのではなく、世の中が越えると同時に、神様もまた越えなければならないのです。


堕落した人間に対して摂理される神様は、人間が苦しみを受ければ共に苦しまれ、人間が悔しさを受ければ共に悔しがられます。立場と境遇は異なっても、内的な心情は同じであるため、天も超えていかなければならず、地も超えていかなければなりません。このような運命に置かれている人類と天が、これを乗り越えるために合同作戦で苦労しつつ出てきているのが今日の私たちの信仰の路程です。合同作戦を展開するための土台が今日の宗教です。したがって、今日の宗教人たちはこの作戦において勝利しなければならない責任を負っています。


では、アダムが堕落して以降、この終わりの日までの期間はどのような期間でしょうか? この期間は私たちが望んでいる期間ではありません。この期間を早く短縮し、解決しなければなりません。無駄な期間なのです。それゆえ、良心を持った人は誰であれ、真理を望む人は誰であれ、このような世界が一刻も早く過ぎ去ることを願っています。この暗黒の世界、恐怖に襲われて苦難の中でもがいているこの世界が、27億の人類すべてが一刻も早く過ぎ去ることを待ち望んでいます。人類だけでなく、天もそうです。天も待ち望み、人類も待ち望んでいるため、この世界を清算して乗り越えさせるのが「道(ド)」なのです。一刻も早く勝利して超えさせることが、今日の宗教が行わなければならないことであり、ここに妨害する何かがあるとすれば、宗教人はこれを攻撃し打ち倒すことを断行しなければならないのです。私たちはこのような責任を負っています。


6


今日、私たちは五官を通してこの世界の万象を見て、私たちが生きている社会の現象を見るのですが、その目に見える万物を見る時、私たちは何を感じなければならないでしょうか?どんな存在であっても、それは善悪の戦いの場であるということを感じなければなりません。善と悪の戦いの路程を通過しなければならないことを感じなければなりません。


神様はこの地と天を取り戻すことを願われますが、この地はそのままでは取り戻せません。なぜか?一度徹底して清算しなければならないからです。この地上の人類は神様の前に一度に相続されたいのですが、そのままでは相続されません。なぜか?汚されてしまったからです。したがって清算が必要です。この地に生えている草一本でさえ、善悪の戦いの場であったことを知らなければなりません。また、皆さんが着ている一着の服にも、歴史的な善悪の戦いの痕跡が残っているのです。見て、聞いて、感じるすべてのもの、この地の小さな物品一つに至るまで、神様とサタンが対決するその日から、善悪の戦いの場で所有が左右されてきたということを、皆さんは知らなければなりません。


旧約時代に神様は供え物を通じて物質をかけて戦われました。その物質は万物を代表したものでした。万物が戦いの場になった日から、神様はその万物をつかんで、サタンからの讒訴(ざんそ)を受けない日を願われましたが、いまだその日を迎えておられません。その次には、人間を戦いの場に立てられました。その代表者が神の息子イエスでした。イエスをかけて神様はサタンと戦われました。そこから勝利してイエスを天の側に引き上げられるとき、神様はサタンの讒訴を受けざるを得ませんでした。このように万物から今日に至るまで、歴史を生きたすべての人類は善悪の戦いの場で左右されているということを私たちは知らなければなりません。


今日、私たちの体もそうであり、私たちの心も、私たちの心情も同様です。今どれほど良いものを持っているとしても、そこにはサタンが讒訴できる条件があります。私たち自身の体と心がいくら尊いとしても、それは今なおサタンが讒訴できる戦いの場に置かれているということを知らなければなりません。


ここに徹底した観点を立て、目に見える万象には、今この瞬間にも善悪の戦いが繰り広げられていることを知らなければなりません。私たちが手に取る一つの物品にも善悪の戦いの条件があり、今この瞬間にも戦いが続いているのです。


7


では、神様の願いとは何でしょうか?創造された万物のすべてがこのような戦いの条件に引っかかっているため、この全体を超えさせ、サタンが讒訴できずに引き返すその一日を見られることなのです。これが神様が戦い続けてこられた目的ですが、神様はいまだその日を見られていないのです。


皆さんは地上で天を代表する責任を負っています。このような責任を背負った私たちはどうすべきでしょうか?善悪の条件に引っかかっている万物を引き寄せ、サタンの要素を追い払い、神様の前に返さなければなりません。人間復帰をする前に、万物復帰から行わなければなりません。神様は人間を創造される前に万物を先に創造されました。ゆえに、自分自身が立ち上がる前に、自分が持っているすべてをサタンの前に提示して戦いに勝利し、得た万物を神様の前に立てなければなりません。だから世界は物質を持って戦ってきているのです。


今日、道を信じキリスト教を中心としたすべての民主陣営は、サタンと戦い、この世界のすべての経済力を天側に取り戻さなければなりません。これが原則です。天の側に取り戻さなければなりません。そうしなければサタンから打たれます。サタンに引きずられます。では経済力を天の側に取り戻したら何をするのか?それを善なる人に分配しなければならないのです。


物質を神様の側に取り戻すためには、サタンが関与できるすべての条件を断ち切らなければなりません。その次には自分の体を取り戻さなければなりませんが、この体は心を中心としてこそ取り戻せます。この心が神様の心に似て、本然の心情と通じる基準に立たなければ体を取り戻せません。サタンが体をつかんでいるからです。したがって、心を中心に体を取り戻せる者とならなければなりません。


今日、人々は理念を中心として人を奪い合い、体を奪い合っています。この理念は精神を象徴し、心の世界を象徴するものです。皆さんには世界を抱きたい心があります。このような心、つまり理念を中心にして人を奪い合っているのです。


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こうした時に私たちがサタンから体を取り戻すためにはどうすればよいのか?サタンが持てない理念をもって現れなければなりません。変化する過程では、常にサタンの侵入を受けます。変化・発展し新しい形態を取ろうとするものは変化しうるため、サタンの干渉を受けるのです。変化する過程においては何でもサタンが侵入可能です。したがって永遠不変の理念を掴む必要があるのです。


もしも良心が慕う理念が天地が変わっても変わることのない理念であるならば、心はそこに帰ります。心は帰るのです。そのようになっています。


今日、人類が物質を天の側に引き寄せるためにはどうすればよいのでしょうか?民主陣営に変わることのない理念があって、世界がその理念を中心として動かなければ可能ではありません。そのとき、私たちの体も天の前に取り戻されることができます。


今までの人類は物質をかけて戦ってきました。体をかけては、天地を代表した良心を追求する人々が戦ってきました。次には変わることのない心を中心として、変わることのない神様の心情と通じることのできる心情を所有してこそ、最終的な決着がつきます。


物質を取り戻し、体を取り戻し、心を取り戻し、その次に心情を取り戻さなければ、この地上では何も解決されません。皆さんがいくら優れているとしても、そうした条件に間違いなく引っかかっています。


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したがって、世界を支配する主義が現れても、人間たちがその主義を中心として死の立場を体験し、心の世界まで左右する理念も支配できないような、心情が凝縮された一つの場所を備えていない限り、戦いは終わりません。善悪の戦いは終わらないのです。また、私たちはサタンから物質を奪って神様に返し、体を奪って返し、心を奪って返さなければなりませんが、この心を返すためには、どれほど変わらない理念があっても、それをただ好むだけではいけません。その理念に深く染み込んでいる心情問題に入り込み、心情が通じ合う立場に立ってこそ、神様が私であり、私が神様であり、神様のものが私のものであり、私のものが神様のものであると言えるのです。この心情が連結されるとき、これまで捧げてきた物質、体、心がすべて一つに統一されて神様の前に最高のものとして決定されるのです。そのために供え物を捧げるのです。


皆さんには敵があります。皆さんの前に見える物質が敵であり、皆さんの体が敵です。これらはサタンの供え物になる条件なのです。罪とは何でしょうか?それはサタンが侵入できる条件を提示することです。皆さんの心が揺れ動くのも敵です。一度善であれば、ずっと善でなければなりません。ところが悪の立場にいる人の心は何度も変わります。「行かなければならない」と思いつつも、一日に何回も変化します。


善と悪の区別は一瞬でつけられます。悪の立場にいると心は絶えずその場所を離れようとします。一日に何度も変わるのは悪なのです。変わらないのが善です。変化する世界の中で、それでも比較的変化の少ないものが天の前に近いのです。したがって、この変化する心、この敵を打ち破らなければなりません。変わり得る理念が現れれば、その理念も打ち破らなければなりません。


どのような種族を中心として、どのような民族を中心として、どのような宗教を中心として現れたとしても、それが本然の良心と心情を結集させ、天倫あるいは自然の軌道によって変わらない形で動けるその時に初めて、人類は理想世界に入ることができます。


言い換えれば、物質が敵です。この体が敵であり、この心が敵であり、この心情が敵なのです。なぜ子供が親を好むのでしょうか?子供に対する親の心が変わらないからです。死んでも変わらないから好むのです。天をなぜ好むのでしょうか?どのような事情があっても、天は変わらないから好むのです。変わらないものが最高のものとして現れます。宝物もそうではありませんか?したがって、変わり得ないもの、変わらないそのものが現れなければなりません。


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皆さんが持っているすべてのものは敵世界の利用道具です。そのため、道を求める人々は物質を打ち破り、体を打ち破り、自分の欲望を打ち破り、自分の心情を打ち破るのです。それが何か分からないままでも、ある時にはより大きな善なる物質、より大きな善なる体、より大きな善なる良心、より大きな善なる心情を見つけなければならないという目的があるために、道を求める人々はそれに向かって走っていくのです。これを私たちは蕩減復帰歴史と呼んでいます。


では、最後の日、終末と言われるこの時に、私たちはどのようにすべきでしょうか?清算すべきところに行かなければなりません。「物質よ、私の前に出て来てお前の権威を誇ってみろ。私と戦おう。」と、一気に打ち倒せる自分自身にならなければなりません。そのようにして初めて体を復帰できます。そのようにして初めて体が留まれます。この体が天地が変わっても変わらない理念に染み込んで、心の前に屈服しなければなりません。神様の心情と人類が持つ根本的な心情が通じ合うことのできる不変の心情の核心が現れたとき、サタンは荷物をまとめて去っていきます。荷物をまとめて去っていくということなのです。


実際、今すでに静的な出発地点が準備されています。しかし、本然の心情は天にあり、血統はサタンのものであるため、このサタンの血統を断つために天を訪ねて行くのです。そのようにしてどこに帰結するのか?心情に入って帰結します。理念が最終的に追求する目的とは何でしょうか?理念を立てた目的は何でしょうか?それは神様の愛を実践するためなのです。それゆえ、これが今日全世界にいる良心を持った人々や信仰を持つ人々が行かなければならない最後の決着をつける道です。


このような観点から神様を見るとき、神様は哀れです。6千年間戦ってこられましたが、今日、神様の心情を超えられる一人の人間がいるでしょうか?いません。神様は実に気の毒です。6千年間、ただ一つの体を探し求めてこられましたが、神様の心情を超えた体がどこにあるでしょうか?神様は本当に哀れなのです。理念を立てるために苦労されましたが、神様の心情を中心とした理念はありませんでした。それゆえ、今日この世界がこのような姿なのです。


理念と私たちの体と万物が神様の心情に接ぎ木され、整理されるその瞬間に、本然の位置は決定されます。したがって、物質を見るときは、「歴史上数多くの善なる人々の血を弄んだ物質よ!」と悲痛な心情を抱くべきです。自分の体を見るときは、「天を苦しめたこの体よ!」と、心の動きを見るときは、「神様の心情を無視した心よ!」と恨を感じなければなりません。今がまさにそのような時なのです。そのような場所が神様の最終目的地なので、ここでは二人の主人に仕えることはできません。


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これを認めるならば、ある理念圏内に入るときは、物質も死も問題ではないという理念圏に入らなければなりません。そのような理念が真の理念なのです。ある理想主義があるならば、その主義のために「物質は問題ではない。莫大な金銀財宝も問題ではない。この体一つ死ぬくらい何でもない。」と言える主義でなければなりません。


その理念のために死ぬとしても悔しがったり、無念がったりするのではなく、むしろ喜びながら「当然そうすべきだ」と言える理念、このような理念がこの地上に現れなければなりません。キリスト教が驚くべきなのはそのためです。彼らがイエスをつかんだ瞬間は、ただイエスだけです。他のことは何も気にしません。イエスをつかんで行く道においては、死さえも気にしません。問題ではないのです。


イエスが立てられた理想は、良心の理念です。しかし今は、この良心の理念を超えて心情の基準を立てなければなりません。そのためイエスは「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」と言われ、良心の橋をかけて心情の世界まで連結しようとなさったのです。


終末とはどのような時でしょうか?神様の息子イエスと人間の心情が連結される時です。それゆえ全世界の人類はイエスの心情に接ぎ木されなければなりません。そのようになればイエスは「あなたがたは神様の息子であり、私はあなたがたの花婿であり、あなたがたは私の花嫁だ」と言うことができます。それはなぜでしょうか?花嫁を探す時には、それが世界のどんなものよりも尊いからです。今日の理念は世界を抱くためのものですが、心情は神様と全体を抱くためのものです。理念というのは対象世界を抱くためのものであり、心情は主体と対象を共に抱くものです。したがって心情の世界で初めて統一が成されるのです。


このような観点から今日、私たちは道を結論づけて越えて行かなければなりません。歴史の流れを見て論理的に推理すれば必ずそうなりますが、その立場で全体を代表して現れたのがキリスト教です。それゆえキリスト教は世界的な宗教です。しかし、このキリスト教にはもう一段階革命を起こさなければならない問題があります。キリスト教が良心の理念の基準だけでもがくならば滅びます。崩れ去ります。キリスト教が神様の愛、神様の心情を掲げて動けないならば、今日民主陣営は道を失ってしまうでしょう。そのため私たち統一教会はそのような方向を志向して進んでいるのです。


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心情が通じる位置では、神様の前に全体が子女であり、全体が花婿・花嫁であり、全体が兄弟姉妹です。そのような圏内に入るとき、私たちは「食口(シック)」という名詞を立てることができます。その一人の食口には、どんな莫大な金銭を与えても替えられない価値があることを知らなければなりません。また、その価値を尊ぶことができなければなりません。今日のいかなる主義や莫大な金銀財宝とも交換できない価値だと知るべきです。


私たちはそうした価値を知る人を恋い慕って道の道程を歩んでいるのです。神様もそのような価値を知り、恋い慕いながら生きられる園をつくるために苦労されてきました。これが6千年の復帰歴史です。


私たちは嘆かなければなりません。私たちは天に対して「お父様!お父様が与えたいと願われる万物をください、お父様が与えたいと願われる体をください、お父様が与えたいと願われる心をください、お父様だけを慕える心情をください」と祈りますが、考えてみれば、お父様は与えてくださったのに、私たちはそれを失い、また失ってきました。これが堕落です。したがって、私たちは善なる物質を回復しなければならず、善なる理念を回復しなければならず、善なる心情を回復しなければなりません。これが人類が行うべき最後のことなのです。歴史は、善なる物質、善なる理念、善なる心情がある所を目指して進んでいます。数多くの民族が引き裂かれ、倒れることがあったとしても、民族を超え、国家を超えてその場所へと流れていきます。


現代を見ると、二つの理念がぶつかっていますが、その一方が崩れる日にはどうなるでしょうか?「この物質は私のものだ。この世界、人類は私のものだ。この理念は私のものだ。この心情は私のものだ」と言える主人公が現れなければなりません。これらすべてを自分のものとして所有する資格者、人類を弄んできたサタン、私たちの良心と体と物質を弄んだサタンに対し、「お前!」と叱責して審判できる人が現れなければなりません。そのような人はどんな人でしょうか?キリスト教でいう再臨時代に審判の席を免れる人であり、第一の復活に参加する栄光を得られる人です。皆さんにはそのような胆力がありますか?ここで言う胆力とは拳を振り回す胆力ではありません。歴史とともに過去、現在、未来を貫く摂理路程においてサタンが讒訴するすべての条件を蹴り飛ばして立てる権限を意味します。


神様は地上で「サタンに対しすべての物質を出せ!」と言える息子娘が出てくることを6千年間待ち望んでおられます。「未来世界は私たちのものだ、私のものだ」と言える群れが現れなければなりません。これはある人間の欲望ではなく、神様の願いです。万物を創造されたのは、「これは私のものだ」と言える観(価値観)が立った真の息子娘のためでした。したがって、私たちには宇宙観がなければなりません。生活観が必要であると同時に宇宙観も必要です。世界観が必要です。この世界観とは何でしょうか?「この世界が私の世界だ」という観点です。本来の人間はそうなっています。


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その観点で、人間は皆、本来世界主義者です。能力のない者も、優れた者もすべて「私の世界だ」と言えるのです。ただし、「私の世界だ」と主張する条件を備えていないために見つけられませんが、その条件を持って天に行って訴えればいくらでも見つけられます。この天地を私のものだと言える主義を皆さんは持つべきです。


その次に、この世界にいるすべての人類が一つの兄弟だという観点を持たなければなりません。一つの兄弟という観点が必要です。そのようになってこそ、神様が父として振る舞われることができます。兄弟という観念を持ち、「この地上の理念は我が家の理念だ、私たちの心情は父母の心情だ」と言えるなら世界は一つになります。民族を超越して一つになります。このような世界をつくらなければ、どんな政治や理念も役に立ちません。終末である今、すべて崩れていきます。


今日アメリカがいくら経済力を誇っても、見てください。彼らは荷物をまとめて全人類に分け与えなければなりません。天運がそのように動いていることを彼らは知りません。そのため、アメリカはそれをしなければなりません。神様の代わりに倉庫にあるものを分け与えるべきなのです。そのような心を持たなければ非難されます。アメリカは今そうなっています。


これらを考えるとき、この世はもう終わりです。しかしここから新たな道を経て一つに収める場所が必要です。その世界は、物質や民族を超え、五色人種を超え、「私のものであると同時にあなたのものだ」と言える世界です。そのような理念が動き始めてこそ世界は統一されます。その世界で私たちは一つの兄弟であり、一人の父を中心とする父子の関係を成すことができるのです。このような時が地上に到来するまで、すべての戦いは解決されません。


今日、私たち人間はどのような欲望を抱き、運命的な復帰の道を歩んでいるのでしょうか?全てを自分のものにするために歩んでいます。「この天地は私のものだ。この天地にいる人類は私の兄弟だ。地上の理念はまさに私の理念だ。ある主権者や企業家のものではなく、私のものだ」。さらには「神様も私のものだ」と言える立場を目指しています。それならば、皆さんの欲望はどこまで行って終わるでしょうか?神様さえも私のものだと言い、神様だけをつかんで何をするのでしょうか?神様の心の奥深くにある愛さえも「私のものだ」と言える位置まで進まなければ、すべては終わりません。


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皆さん!神様の愛がどんなものであるかご存知ですか?言葉で言っても素晴らしいですが、実際にもそうです。人間が万物の霊長になることができる権限は何でしょうか?「神様、早くいらしてください」と言ったら、「よし、行こう」と来てくださるように、神様を呼び出せる主人公になることです。これは神様の心情を自分のものにするならば可能です。「神様、行きましょう」と言ったら「よし、行こう」と言えるのは何故でしょうか?皆さん、そうではありませんか。心情が一つになって互いを恋しく思うときには、来ないでと言ってもついて来るのです。神様もまた人間をそのような基準で接し、探し求めて来られます。「地上に住む人間よ、数千年前から苦労してきたこの恨(ハン)を、お前たちが解いてくれることができるのは何か?私の心情の全てをお前たちが占めて、万物の主人となれる姿になったとき、私の積もった恨を全て忘れることができるだろう」と言われるのが神様の愛です。


聖書に「私は父の中におり、父は私の中におり、あなたがたが私の中におり、私があなたがたの中にいる」とありますが、これはどんな意味でしょうか?人間の欲望というのは、この地を自由にしてみても満足しないものです。今日のフルシチョフやアイゼンハワー大統領のような人々がこの世界を自分の膝元に置き、「おい、お前たちこれをしろ」と言ったら、「はい、いたします」と言わせるようになれば、気楽になると思いますか?そうではありません。人間は最後には神様から「よく戦った。そのようにしなさい」と言われてこそ喜べるように造られています。神様は私たちが神様の愛を独占する王子になることを望まれています。その位置に立てば、万事は解決します。私たちがその位置に入って、6千年もの恨を抱いてきた天に向かって「お父様!」と呼ぶ一言で、神様の6千年の恨はすべて解かれるのです。


そうなれば、キリスト教は新しい次元へと飛躍します。2千年前に来られたイエスは「物質を握って戦え、体を握って戦え」と言われませんでした。「それらすべてを捨てて私を信じなさい」と言われました。「あなたたちが私イエスの花嫁になったことを信じなさい」と言われたのは有難いことです。「情的な心情の縁を結んでいなさい」と言われたのです。そうすれば再び訪ねて来られるということです。またそうなると神様も人類を訪ねて来られるのです。


人間が神様を訪ねるにあたり、どのようにする人が善なる人なのでしょうか?大きなことを考えながら進む人です。愛国者であれば、自分の家庭を捨て、自分の体を犠牲にしてでも三千万民族を考えなければなりません。三千万の民族を自分の体や自分に属する何よりも大切に考える人が愛国者であり忠臣です。心情的にそのように考えなければなりません。忠臣、烈女、孝子、孝女はすべてこの道程を通過しなければなりません。


最後に、このすべてのサタン世界の条件までも清算できる唯一の基準は何でしょうか?どんな立派な人でも人格者でもありません。どんな権力を持った主権者もその基準にはなれません。神様でさえ動かざるを得ない愛です。その愛を持つ人が全体の中心であり、全歴史時代の中心であることを皆さんは知らなければなりません。


15


今日、私たちは少なくとも三千万民族だと限定するのはやめましょう。百万信徒にも満たないキリスト教徒しか持たないと限定するのもやめましょう。世界には数多くのキリスト教徒がいて、天を愛する人がたくさんいるのに、統一教会の信徒が少ないと限定するのもやめましょう。


天が願う歴史的な心情を持ち、すべてのサタンの要素を処断できる人格者にまずならなければなりません。そして審判の基準を立て、それ以外は許すことができないと言い切る者となってこそ、6千年戦ってこられた神様の代わりに地上のことを処理する代表者として立てるのです。


神様はすべてを失われました。万物も失い、愛する息子娘も失い、切ない愛の心情も踏みにじられました。神様がそうであったのに、人間がどうしてその道を行かないことがあるでしょうか?ここでは誰かに打たれるのではなく、自分自身が打たねばなりません。「天を裏切ったこの体は捨てられて当然だ」と大胆に断ち切れる存在でなければ、敵圏内に因縁されたすべての恨を踏み越えることはできません。これができない人は主を迎えるなどとは言えません。ここで言っていることは間違いありません。事実そうなのです。


そのような心情を持って進み出る人には、心も体も物質も自動的について来ます。ですから、そうした心情を持った国家や民族があるならば、世界の物質は全て彼らによって動かされるようになります。世界の人類は彼らによって左右され、世界の主義も彼らによって判決され、世界の愛も彼らによって左右されるのです。事実がそうであるならば、一度やってみる価値があるでしょう?ここで語っている私自身もそれを知っているために、このようなことをしているのです。


それではその方法に入ったらどうすればよいのでしょうか?これが私たちのやるべきことです。私たちはサタンの条件物に弄ばれてきた自分自身であることを知らなければなりません。私たちが財布に数千万ウォンの大金を入れていても、それがサタンが付きまとえる餌であることを知らなければなりません。だからこそ…。


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これから私たちは団結しなければなりません。団結すべきです。神様は愛する息子娘の手を通してすべてが現れることを願われるでしょう。私の考えではそうです。そうだというのではなく、そうであろうということです。誤解してはいけません。サタンに弄ばれる万物をノアの方舟を通じて、神様が愛される聖別された物質として繁殖させようとされたのが神様のお心だったでしょう。


ですから私たちは、神様のものとして神様の情が通じる物質を作らねばなりません。神様の情が通じる万物の基盤を作らねばなりません。堕落した人間の嘆きは何でしょうか?万物の嘆きは何でしょうか?神様の情的感情を感じられない段階に置かれているため嘆くのです。この体が今サタン世界に置かれているため、神様の情的な感じに従って動けないのです。心もすべてがそうです。


そのため、私はこのような生活をしています。どのような食べ物を食べろと持ってこられても、むやみに食べません。皆さんは知らないでしょう?そこには必ず何か理由があります。イスラエル民族がカナンの地に入る時、万物の割礼を行い、体の割礼を行い、心の割礼を行いました。物質の割礼、体の割礼、心の割礼を行ったのですが、私はそこにさらに「心情の割礼」までしているのです。


皆さん、今日の人間世界の愛とは一体何でしょうか?神様を探し求めるために必要なことを、勇断をもって実行できないならば、主に出会うことはできません。絶対に出会えません。息子娘だとか何だとかいうことまで、自らの手で断ち切って進める人でなければ、その後に神様の愛は繋がってこないのです。このような観点で、皆さんの心がそのように動く場所があるならば、そこに行って掴まなければなりません。首を切られても離れてはなりません。離れれば自分だけが犠牲になるからです。そのため、必ずそのような覚悟をもって動かなければなりません。終末であるこの時代に、そうした動きが地球上に、世界上に現れなければなりません。


世の中でこれを模倣した動きが現れる前に、神様を中心として、理念を中心として、「食口(シック)」という名詞を立てなければなりません。統一教会の食口という言葉はそこから出てきたのです。分かりますか?ここで物質をもって食口の威信をもてあそんではなりません。自分一人の家庭の事情を中心として私たち食口との縁を蹂躙する人は不合格者であり、いかなる理念や思想観念、いかなる信仰観念を中心として私たちの理念を測る人も不合格者です。いかなる情的感情を中心として実践をためらう人も不合格者です。この言葉が正しいかどうか見てください。


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堕落以降、私たち人間には恨多き運命の道があることを知らなければなりません。愛する食口に会うためには、数千万の財産を一瞬にして失ったとしても「お前に会えてどれほど嬉しいか」という心を持たなければなりません。この体が疲れ、苦痛を受けることがあっても、「愛する兄弟一人を見つけるためなら、どこでも構わず行かなければならない」という心を持つべきです。このような理念を抱き、イエスのように地上で志を成し遂げられずに去るとしても、この理念だけのために進む人は必ず神様の愛に出会います。


理念を中心として物質を捨てる人は、神様の息子としての体を得ることができる権限を持ち、体を得ることができる理念でも地を中心とした理念であるならば、それを捨てていく人には神様の心情が待っています。このように一段階ずつ繋がりながら進んで行くのです。イエス様は万王の王としてこの地に来られましたが、理念も命さえもすべて捨てて行かれましたが、その上に心情があることを知っておられたため、神様を「お父様」と呼ぶことができました。私たちも同様です。


この観点から、私たちは今や判決を下さなければなりません。私はどのような立場に立っており、自分はどのような存在であり、どの程度の価値ある立場に立つのかということは自明な事実です。皆さん自身がこの道を進むにおいて、世の中のいかなる物質のためにためらったり、自分の家庭や自分の国家的立場のためにためらったり、今までの主義や理念、あるいは信仰的観念のためにためらってはなりません。それは問題になりません。さらには愛の問題、つまり情的な問題までも自信をもって勝ち抜いていかなければなりません。劇的に乗り越えられるような衝撃的なものを終末には必ず見つけ出さなければなりません。そうでなければ越えることはできません。これは事実です。


歴史の流れは不義を許容しません。それゆえ道は、良心を通して善となるよう教えています。善は命じます。「あなたの体を犠牲にし、あなたのすべてを他者に与えなさい。他者に頭を下げて仕えなさい。民族に仕え、世界人類に仕え、神様に仕えなさい。そしてあなたの体を神様に任せなさい」と。そうすれば最後はどうなるのでしょうか?最後には神様の愛をあなたに与えるというのです。善は目的もなく命令するでしょうか?そうするならば神様の愛を与えるというのです。これを知る者、これを感じる者にならなければなりません。


世の中がどれほど反旗を翻して立ち上がったとしても、神様の愛には侵入できません。神様の愛の世界は侵入できる場所がありません。サタン世界は侵入できても、神様の愛を中心とした場所は侵入できません。その場所が最終地点であり、永遠であり、不変の基準だからです。そのためその基準の上から出発できる真の息子娘、真の家庭、真の社会、真の世界、真の世界の万物にならなければなりません。そうしてこそ、全世界は善悪の戦いの場を越えることができます。


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それではその位置に進めない私たちはどうすべきでしょうか?私たちが見ることにも善と悪が戦い、聞くこと、食べること、話すこと、動くことすべてに善悪が対立して戦っています。そのため私たちは善悪を区別して「私はこのように進むべきだ」と、神様の心情に基づき、神様の不変の理念を通して「このように行くべきだ」という観点を立てなければなりません。そのような宇宙観を立て、心情を通して左右をかき分けて進めるとき、皆さんはその戦いの場を越えることができます。


ですから、イエスも神様の愛が染み込んだ十字架を担いで行かれました。神様の愛です。皆さん、故郷を訪ねる人が両親と争いに行くでしょうか?両親の愛を恋しく思って訪ねる人は喜びに満ち、希望に溢れます。イエスが十字架上で誰を恨んだり嘆いたりしたでしょうか?父の愛の懐に行く位置だったため、イエスは敵に対して祝福を祈れたのです。今日、皆さんはこのような位置を取り戻さなければなりません。したがって堕落した人類は復帰の過程を経なければなりません。そのためにはこうした条件を清算すべきですが、それができる自分になっているかどうか自問自答してください。


神様の願いとは何でしょうか?私たち人間が神様が心配されない位置で、神様のものとして尊ぶことができる物質を作り、神様が愛される体を作り、神様が愛される理念を持つことです。物質を復帰し、体を復帰し、理念を復帰して天の前に立つならば、神様はそれを受け取られるというのです。人類が理念を追求する理由がここにあります。


終末には、その場所が恋しくて恋しくて、行きたくて行きたくて仕方がなくなければなりません。莫大な富があっても問題ではありません。この地上の富貴栄華をすべて蹴って進ませるよう導く教団を人類は迎えなければなりません。万一、統一教会がその道を行けないなら、他の場所でも行かなければなりません。ここが最後ではありません。荷物をまとめて再び出発しなければなりません。


今日私たちが進む道はそのような道です。神様を私たちのものとし、神様の心情を私たちの心情として、この地と宇宙を私たちのものとしなければなりません。そのときに初めて、すべての悲惨な善悪の戦いは終わるのです。


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<祈 祷>


お父様!歴史の流れがどのようなものであるのか、私たちは知りませんでした。お父様と私たちがこのような曲折の道を歩んで来るにあたり、お父様の苦労がどれほど大きかったかを知るようになりました。アベルが供え物を準備するときも、それはアベル自身が準備したものではなく、お父様ご自身がなさったことであり、ノアが120年間排斥されながら耐え忍んできたのも、ノア自身が耐えたのではなく、人間に代わってお父様が耐えて来られたことを知りました。


アブラハム以降、イエス様が来られたのもこのことを終結するためであったことを知りました。この地に来られたイエス様は本当にかわいそうな方でありました。その方はまさに天の心情に通じる位置におられましたが、この地で一人の同志にも出会えず、一人の花嫁を慕われましたが出会えなかったことを知りました。その方はこの地を慕い、この地の万物と万民を恋しく思われましたが、万物に向かって「あなたたちが恋しくて訪ねて来た」と言える立場ではありませんでした。万民のために来られましたが、万民に向かって「あなたたちが恋しくて訪ねて来た」と心情を打ち明けることはできませんでした。


このように悲しく恨を残して行かれたイエス様の道程を歩んできた数多くの聖徒たちは、イエス様と同じようにこの地に血を流しながら、恨多く生きて露のように消えていったことを私たちは知っています。終末を迎えた私たちは、どのような立場にいるでしょうか?心を開き、心情に沁みて、6千年の恨を抱き、号泣しなければならない私たちですが、天を裏切ることを日常とし、変わることを繰り返してきました。


しかし、変わらない心情、変わらない姿で愛する息子娘を慕い、涙を流されるお父様であることを知りました。排斥する群れの後を追いながら涙を流され、あらゆる打撃を受けられた天のお立場を知ったので、今や私たちはこの道を進むことを誓います。すべてを奪われ失うことになったとしても進みます。血と肉を撒き散らし道端に倒れることがあっても進まなければなりません。これは私たちのためではなく、お父様のためです。私たち自身の欲望ではなく、大宇宙の主人であられるあなたの栄光のためです。お父様がこのように戦って来られ、お父様に向き合う道を歩んだ人々もこのように戦って来られたのに、ここに集まった私たちが何を誇れましょうか?朽ちてゆく物を握りしめて貴ぶでしょうか?それらによってお父様の恨をさらに重くする立場に立つことがないよう、主管してくださいますようお願いいたします。


今、私たちが誇れるのは、お父様を慕う心、お父様を愛したい心、お父様を恋しく思う心だけです。すべてを失うことになったとしても、その心を握りしめてあえぎ、お父様を慰められる切実な心情だけが私たちに深く沁み込むように許諾してください。私たちが進む道が、お父様がついてこられざるを得ない道となりますようにしてください。お父様が行かれる道を、私たちの血肉が落ちることになっても進むという心情を持つようにしてください。


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そのような位置で、お父様を中心として互いに「食口」と呼ぶ集いを備える教会を、どれほど慕われたでしょうか?お父様、そのような民族をどれほど慕われ、そのような世界の人類になることをどれほど待ち望まれたでしょうか?しかし今なお悲しい障壁の前で一筋の希望も持てない地上の人間に対し、恨を抱いておられるお父様のお立場を私たちは知っています。親不孝極まりない先祖たちをお許しください。不備で不忠だった事実をお許しくださいますよう、切に願います。


これほどまでに愛そうとされたお父様であり、これほどまでに栄光の座に立てようとされたお父様であることを私たちは知りませんでした。今は知りましたので、残されたすべてを自ら清算し、勝利の姿を整えることができるよう祝福してください。変わるものを持っては天の願いを成し遂げられないことを知りました。天は私たちが心と体と心情において変わらない基準を立てることを願っていることを悟るようにしてください。


ここで叫びたい私自身もその日を待ち望み、その姿を待ち望んでいます。今、私たちがその道を行かなければなりませんが、進むべきその道は迫害の道であり、悲しみの道であり、悔しい道であることを知りました。その道を進む私たちが、変わってしまっては嘆き、裏切ってしまっては怨むことを知りました。百回、千回、万回死ぬとしても変わらない心情を備え、倒れるとしてもお父様の手を握りしめて倒れ、お父様の恨を抱きしめて消えていくことができるよう導いてください。そうでなければ善悪の戦いの場を越えられないことを知りました。


今、私たちの前に敵が残っているとするならば、それはお父様に向かう私たちの心情を阻む物質でしょうか?肉体でしょうか?地上の欲望でしょうか?お父様に向かう私たちの心情を阻むいかなるものも一切容赦しない私たちとなるよう許諾してください。お父様に向かって一片丹心に燃える忠節の心は、天地が消えるとしても残るものであり、これが永遠に輝くお父様の栄光の基盤であることを知り、これを中心としてお父様と因縁を結び、栄光の姿で現れ、万物を抱き、万民を抱き、天を高め、天を誇り、天のために尽くすことのできる者たちになることをお父様が今まで待ち望んで来られたことを知っています。


すべてを主管してください。今日から新たな覚悟を持たなければならないことを感じさせてください。審判の日が来る前に、自ら審判できる自分となるべき事実を悟らせてください。審判をする主人公となるべきことを悟らせてください。


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前を阻むものを自らが知り、それを自ら解決できる信念を持ち、「お父様、できましたか、できませんでしたか?」と堂々と問える息子娘となるよう導いてください。すべての言葉を主の御名により祈りました。アーメン。


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文鮮明先生 御言葉選集 8-6

2025年04月12日 14時55分46秒 | 学習
『文鮮明先生 御言葉選集 8 - 6. すべての存在物は父に仕えるために存在する(1959年11月29日)』
1959年11月29日(日)、前本部教会。
ヨハネの福音書14章1-20節



1
<御言葉>
今日、皆さんの前でお話ししたい内容は、「すべての存在物はお父様に仕えるために存在する」です。「すべての存在物はお父様に仕えるために存在する」という題目でお話しいたします。


私たちは天があることを知り、地があることを知っています。 天と地が存在する中に「私」という存在があり、人類があります。


では、天と地と私の根本とは何でしょうか?この問題を追求するにあたり、人類は未だにこの問題を完全に解決できないまま苦悩し続けています。


もし、天と地と私の主人となる神様がおられるとするならば、現在その神様は天と地と私とどのような関係を持っておられるでしょうか?これが人生において解決されるべき重大な問題です。また、その主人は私の心と身体、そして私の心情とどのように関係されているでしょうか?私を中心として縁を結んでいるこの世界と万物とは、どのような関係に置かれているのでしょうか?これがすべての宗教や哲学が追求している究極の目標です。


私たちは、天地万物を創造された神様がいらっしゃることを知っています。また、その神様がエデンの園に私たちの先祖を創造されたことを知っています。そこにおいて私たちの先祖は、天と永遠であり唯一であり変わらない何らかの因縁(縁)を持っていたに違いありません。もし、永遠で唯一で不変な何らかの因縁を中心として創造されたことが確かであるならば、どうして私たちは神様を知らない立場に置かれるようになったのでしょうか?これを考えるとき、人間が堕落したことを否定することはできません。


2


天地を創造された神様が万物の主人公として人間を立てられ、切っても切れない因縁を結ばれたとしたら、人間の何と因縁を結ばれたのでしょうか?それは「心情」と因縁を結ばれたのです。理想的な本質と因縁を結ばれたに違いありません。ですから、私たちの不変で唯一で永遠な生命と、不変で唯一で永遠な心情に触れる(touchする)ことができる唯一の主人は、私たちを創造された創造主でなければならないということを、常識的にも推測することができます。


人類の前には、永遠のある理念が残っており、探し求める不変の何かが残っており、唯一の価値を得られていない何かが残っています。私たち人間を創造された永遠で不変で唯一のその本体が、主体の立場で私たちと永遠の関係が成立していたとすれば、天が苦痛を受ければ私たちも苦痛を感じるはずです。天が喜べば私たちも喜ぶはずであり、天が幸福であれば私たちも幸福であるはずです。しかし、現在そのようになっていないのは、堕落のためなのです。


では、神様は何をするために、どのような形を作り出すために堕落した人類をつかまえて今まで苦労して来られたのでしょうか?それは創造主として人類の祖先に祝福してくださった基準、すなわち心情的な世界においても、生命的な世界においても、理想的な本質においても、永遠で唯一で不変なその基準に合わせるためなのです。もし神様がそのような摂理をされないとするならば、神様は愛であるなどと論じることはできないでしょう。


神様は私たち人類の祖先であるアダムとエバに、すべての万物を主管するようにと祝福されました。主管するにはどのような立場で主管しなければならないでしょうか?生命が不安で、環境が不安で、心情が不安な立場で主管するのではなく、心情と生命のすべてが安息できる立場で主管しなければなりません。今日この地上のすべてのものは人間によって主管されていますが、本来主管されるべき立場で主管されていません。それゆえ、ある時点で清算されなければならない世界であることを語らざるを得ないのです。


神様は人間祖先アダムとエバを創造し、主人となりなさいと仰いました。何の主人でしょうか?愛の主人になりなさい、生命の主人になりなさい、理念の主人になりなさい、権限の主人になりなさいと仰ったのです。もし人間の祖先が愛と生命と理念と権限を、神様と人間の祖先が共に暮らす立場において成し遂げていたならば、今日の人類はこのような悲嘆すべき世界で暮らすことはなかったでしょう。さらには、神様と私はどのような関係なのでしょうか?愛の主人であり、生命の主人であり、理念の主人であり、権限の主人である神様と私はどのような関係であったでしょうか?どのような立場だったでしょうか?それは父と子(父子)の関係だったのです。


3


神様は私たちを愛しておられます。しかし漠然と愛するのではありません。どのような心情を持って愛するのでしょうか?唯一で不変で永遠な親の心情を持って私たちを愛してくださるということを知らなければなりません。堕落した私たち人類が天を数千万回裏切ったとしても、天は絶えず私たちをつかまえ導いてくださっています。堕落した私たち人間であっても、死をものともせず子を愛する心情がありますが、その心情はどこから生まれたのでしょうか?それは、天的な心情を中心として天によって造られた人間だからこそ、そのような心情が動いているのです。


人間の堕落とは何でしょうか? 愛を失ったことであり、生命を失ったことであり、理念を失ったことであり、主権を失ったことです。


神様の救援摂理とは何でしょうか? 人間がこの地を主管できるようにするための「主権回復運動」です。


次には、失われた理念を回復するための運動であり、生命を回復するための運動であり、愛を回復するための運動です。


堕落した私たちは「復帰の恨(ハン)」を抱いています。そのため、アダムとエバが堕落したその日から歴史は何を目指して走り続けてきたのでしょうか? お父様を求めて走り続けています。それ以外の目的はありません。


4


人類は歴史の過程でなぜ苦悩し、紆余曲折の道を歩んできたのでしょうか? 真実の愛のお父様、真実の生命のお父様、真実の理念のお父様、真実の権限のお父様を知るその時を待ち望み、そのお父様と因縁を結ぶために苦悩してきました。それこそが人類が苦しみながら歩んできた目的です。


過去の預言者や聖賢たちがその目的を成し遂げるために血と汗を流したのなら、私たちもそうすることが当然なのです。人間はお父様の代身として存在し、お父様の愛を受け、お父様の生命を受け、お父様の理念と父の権限を受けるべき存在でしたが、サタンによってそれを失ってしまいました。そのためサタンを打ち破り、神様が人間に許された自由の理想を回復し、自由の生命を回復し、愛に酔いながら生きることのできるその場所を探し求めていくことが、摂理路程であることをはっきりと知らなければなりません。


そのようになれなかった人間を、そのような場所へと引き上げなければなりません。復帰させなければなりません。そのためにまず心情的に引き上げ、創造の法度(法則)に基づいて整理しつつ進めていきます。それは「再創造」の歴史過程を経ていくものであることを知らなければなりません。


それゆえ最初は、人間の前に供え物、すなわち万物を中心として関係を結んできました。その次は、御言葉を立てて、息子を中心として関係を結んできました。言い換えれば、旧約時代は供え物(祭物)を中心にお父様を目指した時代であり、新約時代は息子を通じてお父様を求めてきた時代です。それでは最後の時代(終末)はどのような時でしょうか?それは「お父様が来られる時」であり、「お父様に出会う時」です。失われた歴史的な父を取り戻す日なのです。人生の目的はまさにここにあります。このような目的に向かって進む歴史路程の中で、天を憂いさせ、天を悲しませてきたのが私たちであることを知らなければなりません。


お父様を求めていく私たちは、どのようにすべきでしょうか?歴史的なお父様を求めるために、橋を架けてきましたが、それはどのような過程を経たのでしょうか?


5


過去の旧約時代は「使いの時代」(召使いの時代)であり、新約時代は「息子が来て養子を作る期間」でした。歴史は逆に遡っていくのです。旧約時代においてアブラハムは、使いの立場でした。つまり、その時代は天が天使たちを遣わして歴史を導き、新約時代には息子を送って歴史を導きました。そして今後の成約時代は、父ご自身が直接来られて歴史を導き、息子・娘を愛する時代となるのです。


アブラハムは天を代身し、歴史を代身して、天的な責任を負って立ち上がりました。そして歴史的な父と相まみえることができる土台を築きました。アブラハムのその精神は、いつまで続けられなければならなかったのでしょうか?それはイエス様が来られる時まででした。アブラハムが献祭で失敗したため、その責任はヤコブの時代まで延長され、その次に民族の指導者としてモーセが立てられました。アブラハムは一代でその責任を果たせませんでしたが、アブラハムが立てた天的基準はイエス様まで連結されていったことを知らなければなりません。その間、預言者を送って引き上げようとしましたが、何度も失敗を繰り返しながらも、時代に従い個人から家庭へ、家庭から民族へ、そして民族から国家を中心に主権を回復し、世界を動かせる時まで摂理を進めてこられたのです。息子・娘の復帰よりも先に主権の復帰をしなければならないのです。


アブラハム以降の二千年間、民族を導きながら天は無限に苦労されました。そしてイエス様を立てられました。それでは、イエス様を中心として何をしなければならなかったのでしょうか?それは「戦わなければならない」ということです。イエス様が来られた目的は、皆さんにただ信じさせ、安らかにするためではありませんでした。イエスを信じて何をすべきでしょうか?サタン世界と戦って決着をつけなければならないのです。


この世界はサタンが支配しているため、サタンを屈服させ、アダムとエバに万物を主管しなさいと仰ったその祝福を成就しなければならないのです。イエス様が目指したのはまさにそれです。その祝福を成し遂げなければならないということです。


イエス様が目指したその第一の目的は、イスラエル民族を糾合し、ユダヤ教を糾合して、大ローマ帝国と戦うことにありました。その戦いが終わって初めて、天国の理想を与えることができ、天国の生命を与えることができ、天国の愛を与えることができるということなのです。


6


天的な愛と天的な生命と天的な理念を奉ずることのできる土地が準備されていないため、天は主権を回復するために闘いを展開してこられました。


歴史の観点から見ると、終わりの日が近づいています。なぜ終わりの日が近づいていると言えるのでしょうか?一つの主義が近づいてくるので、終わりの日なのです。一つの理念を中心として天的な主権を回復できる時が目前に迫っています。主権を回復するためには、どのようにしなければならないのでしょうか?天的な愛と天的な生命と天的な理念を回復しない限り、天的な主権を回復することはできません。


異口同音に今の時代は終わりの日であると言っています。歴史も宗教も哲学も、人間の根本問題を解決できない時代となっています。そのため、今日の全世界の人類に必要なものは何でしょうか?それは永遠の理想と理念の主体です。また、この問題を解決するには、どこから始めなければならないでしょうか?神の愛から始まり、神の生命と神の理念を経た後でなければ、主権を回復することはできません。そのため歴史は逆方向に進むのです。その主権は心情が通じることのできる息子・娘に与えるものです。生命を持つ息子・娘、永遠なる神の創造理念を楽しみながら歌うことのできる息子・娘を立て、その主権を委ねることが歴史の流れであり、その目的なのです。


このような環境の中で、私たちが心配すべきことは何でしょうか?このような原則に基づいて摂理をされるなら、問題は何でしょうか?この世のものをもってしては到底処理することはできません。処理できる完全なものは、不変の神の愛であり、不変の神の生命であり、不変の神の理念です。これらがなければ、不変の主権を回復することはできません。皆さんはこれを明確に知らなければなりません。


真の宗教者や道を追求する人々は、これまで一度も出世できませんでした。踏みにじられ、蹂躙され、追いやられ、迫害され、苦しみを受けてきました。天に近い息子・娘たちは歴史的な受難の道を歩んできたのです。


7


キリスト教の歴史を見てください。殉教の歴史です。それはなぜでしょうか?この世界を神の愛の圏内に復帰させるために、主権を取り戻さなければならなかったからです。それを行うことができる人はどのような人でしょうか?それは、悪魔世界から攻撃を受ける人です。言い換えれば、ある地域を獲得するには、必ずその地域に相応するだけの打撃を受けてこそ取り戻すことができるというのです。それが天の作戦方法なのです。打たれて奪い取るのです。人類の歴史を振り返ってみても、天の意志を抱いて来られた預言者や先人たちが、その時代に歓迎されたでしょうか?されませんでした。彼らが亡くなった後にようやく評価されました。苦難を受けるその人こそが、その時代を責任もって導く存在であることを知らずに、軽率に扱ってきたのが私たちの先祖たちだったのです。


では今、終末時代を迎えた全世界の人類は何をすべきでしょうか?これまで数多くの預言者や先人たちは何をしてきたのでしょうか?皆さんは神様に対して、「神様は永遠なるお父様であり、不変なるお父様であり、唯一なるお父様である」と感じなければなりません。そのように感じられない限り、神様の息子・娘になることはできません。


お父様の心情、それは何をもってしても止めることのできない生命力であり、たとえ巨大な山(泰山)が立ちはだかっても突き破っていくことのできる抑えられない生命力です。世の中には様々な主義や思想がありますが、人間はその心情と生命力を持たなければならないのです。どれほど賢く有能な人であっても、それを持っていなければなりません。


イエス様はこの地上にどのような方として来られたのでしょうか?それは「実体の神」として来られました。「実体の神」、すなわち「実体のお父様」として来られたということです。お父様にも、実体のお父様がおられると同時に、無形のお父様もおられます。それは私たちの愛と同じです。身体があると同時に心があります。無形の神の姿を象(かたど)り、実体を身にまとって来られた方がイエス様なのです。それは私の心の実体が身体であるのと同じことです。


この地上の人間には二つの「私」が存在します。皆さん自身は一つではありません。二つあります。私とは「心の私」と「身体の私」から成り立っています。宇宙を代身した私がそのようになっているのを見ると、私たちのお父様もまたそうだということです。実体の父と無形の父、この二つを一つとして愛さなければならない人類であるため、人類は真のお父様を求めていくのです。そのお父様を求めていくためには、「真の使い(真のしもべ)」、すなわち真の僕から真の養子へ、真の養子から真の息子へと進んでいくのです。今日の教会で責任を持つ人々は、自分を「神のしもべ」と言いますが、人間の本来の位置はそのようなところに留まってはいけません。したがって、それは良い言葉ではありません。そういう言葉を言う人々をこれ以上追いかけてはいけません。


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イエス様はどのような方として来られたのでしょうか?それは「神様の息子」として来られました。神様の息子として来られたので、神様の代身者であり、人類の真のお父様なのです。堕落によって真のお父様を失ったため、真のお父様の代わりの存在として来られた方がイエス様なのです。皆さんはお父様を失いました。どれほど優れているとしても、堕落した子孫であることに違いはないため、本然の真のお父様を失った者なのです。孤児なのです。頼るところもなく、もがき苦しむ孤児なのです。心の世界においては孤児と同じであるため、苦しまずにはいられないのです。


本郷(本来の故郷)のお父様、そのお父様がおられる場所は、私の心の本郷であり、安息所です。お父様がおられるその場所は、永遠なる安息の地です。そのお父様と私が父子の因縁を結んだ立場でお父様の家に来ているとすれば、お父様が私に出ていけと言うでしょうか?


イエス様が地上に来られて、「あなたはまさしくお父様の生命を持った者だ。あなたはまさしくお父様の理念を持った者だ。あなたはまさしくお父様の愛を持った者だ。おお、私の息子よ、娘よ!」と抱きしめ、愛することができたでしょうか?それはできませんでした。


イエス様の墓を探し求めていたマグダラのマリアが、復活したイエス様を見て「ああ、主よ!」と呼びかけたとき、イエス様が「あなたと私はまだ距離があることが分からないのか?再び民族に勧告しなければならないのだ」と言われたその理由はどこにあるのでしょうか?それは天の実体として天に代わり、抱きしめて愛することができなかったからです。天の主権を代身する方であり、天の理念と天の生命を代身する方でありましたが、その立場には至りませんでした。イエス様ご自身がその立場に立つことができなかったのです。なぜでしょうか?万物を主管しなさいという権限を地上で持つことができなかったからです。


イエス様はこの地上に来られましたが、恨(ハン)を残して去られました。どのような恨でしょうか?それは歴史的な恨、時代的な恨、未来的な恨を私たちに残して行かれました。キリスト教徒たちは、イエス様がゴルゴタの丘に引かれて行き、十字架で亡くなられたことで、すべてを成し遂げられたと思っていますが、まだ進まなければならない道が残っています。亡くなった後でも行かなければならない道があることを知らなければなりません。なぜ死ななければ超えられなかったのでしょうか?歴史を代身し、時代を代身できる基盤を持つことができなかったからです。


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4千年の歴史を持つユダヤ教と選ばれ立てられたイスラエル民族が不信仰でした。過去と現在がなければ未来はありません。そのため、過去の心情、時代的な心情、未来的な心情を解怨(解放)できないまま、十字架に掛かって亡くなられたのです。それゆえ、再びそれを乗り越えなければならないイエス様の立場を、私たちは理解しなければなりません。そのためイエス様は霊界に行かれてまでも祈っておられるというのです。心が安らかだから祈るのでしょうか?まだ進むべき道が残っているから祈るのです。アダムとエバが失った本然の主権を回復し、不変の愛と不変の生命と不変の理念を備えることができなかったため、イエス様はその目標を成就する時を待ち望みながら、2千年間闘い続けておられるということです。


私たちは十字架で亡くなられたイエス様を信じています。十字架で亡くなられたイエス様を知っています。それは誰もが知っている事実です。しかし、私たちは歴史を代身したイエス様、時代を代身したイエス様、未来を代身したイエス様であることを知らなければなりません。聖書にはこのようなイエス様に対する内容は書かれていません。私たちは神様を信じるにしても、「歴史的な神様」、「時代的な神様」、「未来的な神様」を信じなければなりません。そのような神様を信じなければならないのです。


しかしイエス様が来て去られた後、2千年の歴史が流れましたが、「歴史的な神」を信じる人は誰でしょうか? 時間を通じて歴史を築いてきましたが、歴史的な神を信じ、その神を慰める者がいないのです。時代的な神の心情を理解し、慰める者もおらず、未来的な神の心情を理解し、慰める者もいないのです。


イエス様もこの地に来られて「私は歴史的な神の心情を慰めるために来たのだ」と説明したかったのですが、そのような説明をすることができませんでした。歴史的な神の心情を解明し、それを現実に示さなければならなかったのですが、それを表すことができる環境が整っていませんでした。それゆえイエス様は、歴史的な神の心情を理解していましたが、旧約を信じるユダヤ教徒たちに教えることができないまま去られました。


ですから、歴史的であり、時代的であり、未来的であるイエス様を信じ、さらには歴史的な神の心情、時代的な神の心情、未来的な神の心情を理解し、それを実現することができる者が地上に再び現れない限り、この地は滅亡するでしょう。


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今日、外的な主権の形態を回復するだけでも6千年がかかりました。それが成就されない限り、理念を立てるための戦いに何千年かかるか分かりません。生命を探す戦いに何千年かかるか分からず、心情を探す戦いに何千年かかるか分かりません。しかし、ありがたいことにイエス様はこの地上に来られ、最も重要な問題を解決してくださいました。


お父様の愛と因縁を結ぶにはどうすればよいのでしょうか? 堕落した人間は逆の道を辿って上っていかなければなりません。堕落したため逆方向に上っていく必要があるのです。お父様の愛を受けられず堕落の血統を受けて落ちてしまったため、逆の道を上っていくのです。復帰は反対の経路を辿ります。


皆さんが最初に恩恵を受けるとき、どうなりますか? 胎児が母の腹の中から世の中に出てくるのと同じで、未知の世界が現れ、光り輝く新天地を見るようになり、喜びます。そのような過程を経た後には、イエスを新郎として迎えなければなりません。イエス様に会いたくて恋しくて涙を流すようにならなければなりません。


旧約時代を通じて約束がなされていたため、イエス様は地上に来られました。何を持って? 愛をもってです。イエス様は神の独り子として来られました。神の独生子として来られて、この全世界を自由に主管しなければなりませんでしたが、それができないまま去られました。神の息子の境遇がそのようになりました。独生子の権限はどこにありましたか? 独生子の権限を持ちながらも、それを行使することができなかったのです。


息子になるためにはどうすればよいでしょうか? 新郎新婦を整えて「お父様、祝福してください」と言えるようにならなければなりません。エデンの園において、堕落しなかったアダムとエバが完成すべきだった基準、天が喜んで「あなたは私の息子、娘だ」と祝福できるその基準を復帰しなければならないということです。


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イエス様は神を「お父様」としてお迎えできる立場まで行けませんでした。初めて来た人には理解しづらいでしょう。お父様の直接的な愛を受けられる立場に入れなかったのです。なぜでしょうか? 新郎新婦を整えて現れなければ、神を直接的に迎えることができない仕組みになっているからです。


だからイエス様は、その時を願って2千年間祈っておられます。どのような祈りをされるのでしょうか? 「天が私と共に祝福できる新婦を立ててください」と祈っているということです。


新郎新婦を立てて何をするのでしょうか? その新郎新婦が神を「お父様」と呼ぶようにするためです。神は新郎の父でもあり、新婦の父でもなければなりません。イエス様は新郎として現れましたが、新婦はいませんでした。したがって、新婦が現れなければなりません。ヨハネの黙示録22章17節には「御霊と花嫁とが言う、『来たりませ』。これを聞く者もまた、『来たりませ』と言いなさい。渇く者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに受けなさい」と書かれています。この言葉は新婦の言葉が出てこなければならないという意味です。


この地上の人間は新郎であるイエス様を信じています。しかしイエス様は、新婦と共に父をお迎えできなかったため、必ずその新婦が現れなければならないのです。新郎と新婦が共に頭を下げて「お父様、失われた息子・娘に代わり、見出された姿ですから、祝福してください」と言ってこそ、神の願いが成就するということです。


皆さん、このような話を聞いたことがありますか? 皆さんはイエス様を信じますが、イエス様を信じ、イエス様に出会ったその次の目的は何でしょうか? イエス様を掴んで幸せに暮らすことが目的ではありません。私はそうは考えません。イエス様に出会った後には、イエス様と共に父の祝福を受けなければなりません。イエス様がすべてをしてくれると思いますか? イエス様は今まで愛の権限を行使することができませんでした。新郎新婦の権限は終わりの日に残されているため、その条件が整うまでは新郎新婦として神の前で愛を受けることができないということです。新郎新婦と呼ばれる人がまだ人類社会に現れていません。


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皆さんはお父様をお迎えできない子どもたちです。皆さんは自分が養子なのか、使いなのか、僕なのか知っていますか? 僕であっても主人が悲しめば涙を流します。養子であっても養父母が悔しい思いをすれば共に泣くでしょう。新郎新婦と自称する人々がイエス様の立場を知らず、神様が悲しんでいるのか喜んでいるのかを知らないまま、お父様と呼ぶのは大変不当なことです。心情が通じなければなりません。


歴史を支配できるのは何でしょうか? 真理ではありません。思想でもありません。「心情」です。歴史の背後には天の6千年の心情があります。これが地上に実体と共に、御言葉と共に現れる時、歴史的な問題は必ず解決されるでしょう。そうではないでしょうか?


イエス様を信じる目的は、主としてではなく「お父様」として迎えることです。イエス様はこの地に来て新郎新婦の過程を経て何をすべきでしょうか? 失われた真の父母を復帰し、人類の真のお父様としての役割をしなければなりません。逆の経路を通じて復帰しなければならないということです。


イエス様も神様をお迎えするにあたっては、新婦と共にお迎えしなければならないということです。皆さんはこのことをはっきり理解しなければなりません。しかし、イエス様は霊界に行かれてからも、神様をお迎えし共に暮らし、相談できる立場に立てず、今なお祈り続けておられるというのです。この祈りの壁を打ち破り、永遠なる天国で神様と共に、一つの天国家庭として安息するためには、イエス様は新婦を整えなければなりません。それがなければ、天的使命を完了させることはできないのです。


今まで神様の摂理の目的や事情については通じることができましたが、永遠の生命を通わせる愛は通じませんでした。摂理の目的や事情は理解できても、心情を通わせる境地には入れなかったのです。なぜでしょうか?心情を通わせるためには新郎と新婦が決定されなければならないからです。ですからイエス様もその分野については知らないと仰いました。これは知らない問題です。そのため、イエス様は神様を永遠の生命、愛、理念を中心として「お父様」としてお迎えできなかったのです。事実がそうなのです。皆さん、そのような観点で聖書をよく見てみてください。新郎新婦を整えなければ霊界でも外されます。この人の言うことが「そうかもしれない」ではなく、「そうだ」ということです。事実がそうなのです。


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私たちはイエス様と神様の抱えている恨(ハン)を解いて差し上げる責任があることを知らなければなりません。これまで6千年の間、天地を悲しませたのは私たちの先祖であり、私たち自身です。終わりの日に生きる私たちは、この恨を解放するために立ち上がらなければなりません。そのためにはどうすればよいのでしょうか?「この天地は私のものだ」と言える何かを持たなければなりません。


どれほどサタンの将軍が来て「違う」と主張しても、「こうこうだから天地は私のものだ」と証明できる資料を持っていなければなりません。それを持たない限り、天の主権時代は来ません。


今の時代は世界的な時代です。一つの世界を目指していますが、「天地は永遠に私のものだ」と主張できる人物が現れなければなりません。そのような主張を持って来られる方が「再臨のイエス様」です。その方をお迎えしなければなりません。


では、その再臨のイエス様に出会って何をするのでしょうか?この天地だけが私のものなのではなく、「お父様の愛とお父様の生命とお父様の理念が私のものだ」と言えるようにならなければなりません。つまり、神様の愛と神様の生命と神様の理念が自分のものになって初めて、世界は安定し運営されるというのです。


皆さんが「私はイエスを信じます」と言ったとして、6千年もの間、神様とイエス様と戦い続けてきたサタンが震えて逃げていくと思いますか?そんなことは絶対にありえません。神様とイエス様に対抗して戦っているサタンが、皆さんがイエスを信じるというだけで逃げるでしょうか?イエス様の心情を通じ、神様の心情を通じて初めて逃げるのです。いくらイエスを信じても意味がありません。


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「この天地は私のものだ」という信念を起こさせるものがなければ、さらに探さなければなりません。統一教会になければ、また別の場所で探さなければなりません。ある教団がそのような信念を持たせられず、確かな基準を打ち立てられないのであれば、その教団やその場所を蹴飛ばして乗り越えなければなりません。それが原則です。天地を「私のものだ」と言える内容を持つ天の息子・娘がいなければ、この世界は滅亡するということです。


歴史的に讒訴した悪魔、アブラハムを蹂躙した悪魔、モーセを中心とした60万の民を虐殺した悪魔、イエス以降今日までキリスト教徒たちを虐殺した悪魔を神の前に引きずり出し、審判しなければなりません。悪魔に引きずられて神の前で審判を受けるのではなく、悪魔を引きずり出して「神様、なぜこの悪魔を今まで生かしておかれましたか?この悪魔を人類の歴史から引き抜いてしまいましょう!」と言える息子・娘が現れるとき、神様は涙を流しながら、「そうだ、わが息子よ、娘よ!」と言われるのです。


私たちの先祖が悪魔に讒訴されて蹂躙され、虐殺の犠牲となったその恨を解かなければならないのがキリスト教信徒であり、真理を追求する人々です。彼らはこの悪魔の正体を明らかにしなければならず、歴史的な神の心情、時代的な神の心情、未来を案じられる神の心情を知らなければなりません。そして神様が涙を流されながら「おお、わが息子・娘よ!」と言われる時に初めて、この世界が動くのだということです。


そのような立場で「この世界は私のものだ、私たちのものだ」と言える群れがどこにいるでしょうか?人間は一度たりとも天地を主管したことがありません。終末が近づき一つの世界を志向する今、アダムとエバに祝福したその目的を実現する時が来ました。そのため両者が戦うのです。これは最高の時代が到来したためです。これからあらゆることが解決される新時代が来ます。その時代は争いのない時代です。


そのとき、この天地も私のものであり、この山河も私のものだから、草一本にも愛を注ぐことができなければなりません。木一本を愛することができなければなりません。土一握りにも「どれほど悲しんだのか」と言いながら愛せなければなりません。神様とイエス様はどれほど哀れでしょうか?また人類はどれほど哀れでしょうか?天地の全ての存在をまとめ、全宇宙を代身して神様を慰められる人でなければ、イエス様が探し求めている新婦にはなれないということです。


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次には、天地だけが自分のものであるばかりか、「神の愛、神の生命、神の理念までも自分のものである」と言える位置まで進まなければなりません。そうなってこそ、この地を取り戻すために数多くの苦労をされた神様の心情を理解することができます。そのような人が現れるならば、この地の主人を復帰するために理念に飢え、心情に飢え、生命に傷を負われた神様も喜ばれるというのです。


一人の人間を失ったので、一人の人間を探さなければなりません。歴史的な新しい主義は、多くの人が集まってできたものでしょうか?歴史がそうでしたか?多くの人々が協力して「私たちはこのような主義をつくろう」と決めて立てた主張が歴史を支配したことがありますか?新しい主義は常に一人の人間から出発します。


では、神様の願いは何でしょうか?エデンに私たちの祖先を万物の主人として立て、一つの心情、一つの愛、一つの理念、一つの生命を備えた神様の不変の対象として立てようとされたのです。それが創造目的であったことを皆さんは知っています。


そのような一人を選ぶため、「独生子」となります。独生子は二人いることはありません。私たち人類の祖先がそのような一つの対象になれなかったため、神様の心は引き裂かれてしまったのです。これをすべて整理して一つにまとめ、「お父様、歴史的なお父様のすべての心情を知り、私がこのような立場に立ちました」と言える、父の代身となる存在が現れなければなりません。失ったのも一人からでしたので、取り戻すのも一人から始まるのです。これが歴史なのです。


そのため、終末に生きる私たちは、このような観点から世界を観察し、歴史の流れを見ていかなければなりません。歴史を振り返ってみると、過去は国家主義時代であり、土地中心の時代でした。一つの国家や民族が国土を中心に争った時代でした。しかし、今の時代は思想主義の時代です。これからは心情主義の時代です。歴史はこのように進展しています。


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復帰の歴史であるため、過去には土地(身体)を奪う争いをしましたが、今は心を奪うための争い、すなわち思想主義・精神主義の時代です。その次には、心と身体が一つになり一斉にぶつかり合う心情主義の時代が来ます。歴史はその時代を目指して進んでいます。


道を信じる人々はまだ世界的な運動に登場していません。全ての国家が動員され、すべての思想や主義が動員されて世界を動かしていますが、まだ道を追求する人々は登場していません。道の世界の人々が登場する時が来ますが、その時には神様の心情を掴んで登場するということです。心情を中心に運行する時代が来るのです。心は行ったり来たりするでしょう?心は左右に揺れるので「左右の世界」です。しかし心情は二つではなく一つです。その一つの心情を対象として歴史を導かれる神様なので、愛を架け橋としてのみ神様のもとに行けるのです。この橋を繋ぐ人が道を行く人であり、その道を行く人の中でもイエス様なのです。そのためイエス様は「私は独生子であり、新郎であり、あなたがたは新婦であり、神は私の父である」と言われました。そのように語られた意味は他にあるわけではありません。


私たちは自分の心が揺れ動く矛盾の世界から抜け出したくても抜け出せず、動こうとしても動けない状態にあります。しかし私たちは、歴史を代表し、時代を代表し、未来を代表してサタンを告発できる「検事」にならなければなりません。「神様、恨を解いてください」と言える存在にならなければなりません。探し求めてこられた神様をお迎えできる存在にならなければならないのです。「神様をお迎えできる存在」です。


すべての被造万物が願っているのは、このような主人が現れることで、その主人を中心として神様と縦的な関係を結ぶことです。その縦的関係を中心として、神様の生命が連結され、神様の理念が連結され、神様の愛が連結された天的統一宇宙が完成するとき、サタンが主管してきた世界は終わりを迎えるのです。


神様と共に心情の安息所を持ち、神様と共に生命の安息所を持ち、神様と共に理念の安息所を持ち、神様のために権限を行使するべき被造物であるため、すべての万物はその日を目指して動いているのです。すなわち、「すべての存在物は神様をお迎えするために走り続けてきた」ということです。


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過去から走り続けてきたそれを受け継いで走る誰かの預言者が現れると、拍手をしながら「よく走ってくれ」と願っているのが霊界です。過去にアブラハムがすべてを走り切ったのでしょうか?違います。アブラハムが走った後、残りの部分を私たち自身が走らなければなりません。お父様を目指して走らなければなりません。走る途中で敵によって倒されることもあります。そうではありませんか、皆さん?そのような戦いなのです。


さらに言えば、これを受け継いだ人がよく走れるように拍手を送らなければなりません。霊界に行っている多くの善なる人々はその日を切実に望んでいます。皆さんの心もまたその日を目指して動いているため、「善の世界が来たらどれほど素晴らしいだろうか」という心を抱いているのです。


4千年間走り続けてきて、イエス様が神の息子として走りました。イエス様が走っているとき、その民たちは「よく走ってください、よく走ってください」と言いましたか?霊界にいる数多くの預言者たちは「よく走ってください」と激励しましたが、地上の選ばれた民は槍を手にして、走っているイエス様のわき腹を突き刺しました。それにもかかわらず彼らはよくやったと称賛します。イエス様が死ぬために来られたというのですか?


倒れられたイエス様は、自分の代わりに聖霊を送り、「私の代わりに走ってほしい」と言われます。歴代の預言者や神様もまた、「聖霊よ、責任を負って走ってほしい」と言われます。それはいつまででしょうか?お父様に出会うときまでです。走り続ける聖霊の後ろ姿を見ながら、イエス様は嘆き悲しんでおられます。


万全の準備を整え、無限に走ることができる天の息子・娘が現れるべき時が終わりの日です。皆さんは、聖霊の声をしっかりと掴んで目標に向かって走れる信念が立っているでしょうか?問題はここにあります。いかがでしょうか?「お父様よ、どんなことがあっても私は走ります」と言わなければなりません。これが実情なのです。この道を歩む人が何を望むことがあるでしょうか?たとえ足が折れようとも、その基準に向かって走らなければなりません。神の愛と連結して歴史的な走路を終結させることが天地の願いなのです。


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キリスト教が2千年間苦労したことは有難いことですが、キリスト教を代身し、聖霊を代身して走る者はどこにいるでしょうか?聖霊が哀れではないですか?イエス様を代身して走る者はどこにいるでしょうか?神を代身して走る者はどこにいるでしょうか?もしそのような者が現れれば、神様は「この罰当たりめ、この愚かな子よ」とは決して言われないでしょう。聖霊を代身し、イエス様を代身し、歴史と時代と未来を代身して走り抜くことのできる天の精兵が現れることを、神様はどれほど待ち望んでおられるかを知らなければなりません。


私たちは最後のゴールを目指して走らなければならない群れです。韓国民族がたとえ卑しく哀れな立場に置かれていても、天の心情を知り、天を代身して走られるイエス様と聖霊の心情を受け継ぎ、先頭に立って走るならば、その人を通して世界を支配することができます。間違いありません。


数の多さや少なさが問題ではありません。見物人の数も問題ではありません。競技場に数億万の観衆がいたとしても、観衆はそれを見ていません。自分の側で走っているその一人だけを見ているということです。神様も同じです。


神様は霊界で観戦している数多くの人々よりも、地上で走る一人を見つめておられるということです。どんなに多くの人がいても、見物人であれば何の意味がありますか?見物人のような信者が多いのです。そのような人々はすべて散らばってしまいます。安息所とは関係なく、祝福や報いとも関係がありません。一人の方のために心情を注ぎ、心を焦がし、血潮が躍動するそのような群れを神様は求めておられます。その人が喜べば、天も共に喜びます。世の中でもそうでしょう?


歴史の流れの中には「宗教的オリンピック大会」があるということを知らなければなりません。真理や御言葉は無限に天にあります。神様の心の中に真理が不足していると心配されていると思いますか?真理は無尽蔵です。ただ一つの実体がないことが問題なのです。神様の心情を持った一つの実体が現れ、「お父様」と呼ぶとき、「そうだ、我が息子よ、娘よ」と言えるようにならなければなりません。


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歴史の恨(ハン)を代身して悲しみ、新しい国の出発を喜び、「お父様、ご苦労様でした」と言うとき、「そうだ、よくやった」と言える人々が地上に現れない限り、この地の問題は解決されないということです。


今日の良心的であり、道を信じる人々がそのような群れを擁護し協力しているでしょうか?敵の側ではそのような人々を銃剣で刺そうとし、誰であろうと倒そうとします。悲しく孤独な天の競走において、この地上ではたった一人だけが走りました。サタンの競走には数億万の群衆が走りましたが、天の競走を走ったのはただ一人でした。一人だったのです。同志もいませんでした。踏み倒され倒れながらも、一人で走ったのです。それを見つめる霊界は悔しく悲痛な思いを抱きました。この地上に積もったこの恨を解き放ち、敵からの厳しい矢を受けながらも、この道を走り切り、神様を中心としてゴールに入る一人の主人公が現れなければなりません。その人を通じて神様の本然の愛、神様の本然の生命、神様の本然の理念、神様の本然の主権が地上に確立されるということです。


皆さんは、この地を自分のものだと思っていますか?そう考えていないならば、皆さんは天の逆賊です。この地は民主主義のものでもなく、共産主義のものでもありません。「私のもの」です。「私のお父様のもの」です。


世界の人類の心は、幸福の園を目指して動いています。その心は愛を中心に安息したい、生命を中心に安息したい、理念を中心に安息したい、主権を中心に安息したいのです。しかし今、そのようなものを中心として安息していますか?いつ誰がそれを奪い取るか分からないという状況です。自分の生命をいつ誰が奪うか分からないため、祈らざるを得ないのです。私たちはそれほど哀れな存在なのです。


人々はどんなに立派でも、権限・理念・生命・心情に対する恐れを抱いています。これは堕落の結果です。これを取り除き、天の心情・生命・理念を中心とした主権時代が訪れるでしょう。その時代が来る前に、私たちはその基準を整えなければなりません。


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終わりの日に、そのような群れが地上のどこかに必ずいるでしょう。そのような人々が終末に集まることによって初めて天地は神様をお迎えし、安息の地に入ることができるのです。


<祈祷>


いかがいたしましょうか?不信の地を復帰するために、どれほど苦労なさいましたか。不信の地を見つめてどれほど嘆かれたことでしょうか。背いた人々に向かわれるたびに、どれほど無念であられたことでしょうか。あえて知ることができるようになりました。


天の深いご性相を仰ぎ見ることができない私たちが、踏みにじられ、血の涙に濡れながら歩んだとしても、どうして恨めしいことがありましょうか?


罪があるとするならば、それはお父様を知ってしまった罪であり、人知れず父と因縁を結んでしまったことが罪でしょう。天が望まれる道ゆえに落胆することもできず、不満を抱くこともできない事情であることを、お父様、よく存じております。歴史路程がそのようであったという事実を知り、感謝いたします。歴史的なお父様がそのようなお方であることを教えてくださり感謝いたします。時代的なお父様がこのようなお方であることを知ることができ、感謝いたします。未来を案じられるお父様を知ることができ感謝いたします。


お父様をお迎えするための歴史の道程であり、お父様をお迎えするための被造万物であることを、人間は理解していません。お父様をお迎えし、唯一なるお父様の愛と共に、不変なるお父様の愛と共に、永遠なるお父様の生命と理念と主権を称えることのできる日が、天地の間に訪れることをどれほど待ち望まれたことでしょうか?


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私もまたこの道を知ったゆえに、この道を歩んでおりますが、この道を歩む私の後を追う人々は本当に哀れな者たちでございます。このような私たちを誰が慰めてくれましょうか?誰が励ましてくれましょうか?私たちの周囲には、一人として私たちの味方になってくれる人がいません。孤独であるとすれば、私たちほど孤独な者がどこにいるでしょうか?天がなく、お父様がおられないとすれば、私たちほど無念な者がどこにいるでしょうか?言いたいことがあっても言えず、悔しくても表現できない天の心情を知りながら、今日この時まで歩んできた私たちを、時と時期を超えて永遠に放置されることがないことを存じております。


今日この道を歩む人々の中に、疲れ果てた者がおりますか?残されたわずかな時間を力強く越えられるように許諾してください。もがき苦しむ者がおりますか?遠くない将来、お父様の御声が聞こえる日が来ることを知らせてください。私たちは過去、お父様の前にあまりにも不忠でした。神様を掴んで泣きながら死んだとしても、どうして悔いがありましょうか?御旨のために踏みにじられ、血と肉が裂かれ、血の涙を流すとしても、どうして恨めしいことがありましょうか?すでに覚悟を決めた身ですから、お父様の御旨を成すためならば、できないことがどこにあり、行けない道がどこにありましょうか?


今日ここに集まったあなたの息子・娘たちが、この一つの願いを成し遂げるために、生きるにせよ死ぬにせよ、自らを捧げる供え物となり、「お父様、生命をお返しします」と申し上げる、天の真の息子・娘になれるよう許諾してください。偽物があまりにも多いこの地上で、真実な息子・娘になれるよう許諾してくださることを、お父様、切に願い申し上げます。


残された十字架の峠を越える力が不足するならば、お父様を先頭に立てて走ることのできる天の精兵になれるように許諾してください。


私たちは行くべき道をすでに知っており、天の真の愛と生命と理念と主権が、私たちのために往来したことを知っています。その道を行くことが人類が生きる道であり、歴史的に私たちの先祖が歩んだ道であり、時代的に私たちの同志たちが歩むべき道であり、未来の私たちの子孫が行くべき道です。その道を行くことが祝福の源泉であるとすれば、悪魔に対して勇敢に、堂々と進軍する父の息子・娘になれるよう許諾してくださることを、切に願い申し上げながら、すべての御言葉を主の御名によりお祈り申し上げます。アーメン。


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文鮮明先生 御言葉選集8-5

2025年04月05日 16時06分56秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 8-5「神様が共にいたい場所」(1959年11月22日)
1959年11月22日(日)、前本部教会
コリント人への第一の手紙13章1-13節、マタイによる福音書22章34-40節




1


<祈祷>


この時間、私たちは父の心を動かすことのできる群れとなることを願います。たとえどれほどお父様の御名を呼び、自らを息子・娘だと称しても、父の心の中に覚えられなければ、私たちは父の子女となることができないことを知っております。


お父様、長い歳月の中で、本当に天を見上げることのできる息子娘がどれほどいたでしょうか。あなたが心から「わが息子だ」「わが娘だ」と呼ぶことのできる子女が、どれほどいたでしょうか。無念であられるお父様、孤独であられるお父様を呼び求める私たちの心も、悲しく孤独にしてください。限りない寂しさに浸らせてください。お父様の事情を私たち自身の事情として感じ、お父様の立場を私たち自身の立場として知り、お父様の悲しみを私たち自身の悲しみとして感じ、お父様の悔しさと苦痛を、私たち自身の悔しさと苦痛として感じさせてください。


私たちは天より大きな恩賜を数えきれないほど受けました。天は悲しみの中でも私たちに恩賜を与えてくださいましたが、私たちはその恩賜を受けて喜ぶばかりでした。自己中心的に栄光を望んだ過去のすべての過ちをお許しください。


天が私たちに恩賜を与えてくださったのは、天の悲しみを共に分かち合うためであり、天の苦難を代わりに背負わせるためであり、天の悲しみを抱き、十字架を負って天に代わり戦うためであるのに、この地上の私たちはそれを知らずにいます。


天の祝福を受けた者がいるとするならば、その祝福を受ける以前に、血みどろの戦いを経る苦難の歴史があったことを、私たちが決して忘れないようにしてください。また、天の祝福を受けた家庭があるとすれば、その家庭が祝福を受ける以前に、天の悲しみと共に苦痛と悔しさと嘆きの歴史があったことを、私たちが悟ることができますように。


2


個人や家庭がそうであるように、民族や国家もまた同様であることを知っておりますゆえ、お父様、この日、この三千里の山河に住む三千万の民族をどうか憐れんでください。この民族は果たして祝福を受けた民族でしょうか。もし祝福を受けた民族だというならば、天が経験された苦難と悲しみと逆境の道を歩んできた、あなたの隠れた息子娘が多くいるはずであることを存じております。このような歴史の道のりで、天のために闘ってきた人々がいるとするならば、たとえ血統や理念が異なっても、善を目指すという点においては、彼らは私たちにとって父母であり、兄弟であり、家族であることを悟らせてください。


お父様、恨み多き六千年の復帰歴史路程の中で、志を抱いて現れ去っていった多くの預言者たちがいたことを知っております。処刑場の露と消えながらも、天の貴い志を抱いていった多くの預言者・先烈がいたことを存じておりますゆえ、私たちも自身の悲しみより天の悲しみをより深く感じ取ることのできる、善なる群れとなることを心より願い求めます。


命を懸けて天に向かって走り、死の峠を何度も越えていった多くの人々の苦労が、決して無駄ではないことを悟らせてください。そして、この邪悪な民族の中で頼るところなく立っているあなたの息子娘たちを通じて、安息の日を建てようとされるお父様がいらっしゃることを悟らせてください。


今日ここに集った私たちは、誰かのために集まったのではなく、自分自身のために集まりました。私たちはいったい誰のために理念を持っているのでしょうか。天のためでもなく、民族のためでもなく、自分自身のためであることを、はっきりと悟らせてください。


この民族が不信の状態にあるのは、私たち自身が不信を抱いたからであり、不信の環境が形成されたのもまた、私たち自身の不信によるものであることを悟らせてください。今や、自らが責任を果たさなければならない時でありますゆえ、困難で辛いことも、自ら責任を持って清算していける私たちとなることを、お父様、切に願い求めます。


3


今、この人々がここに集いましたので、どうか祝福してください。お父様、天の恩賜を願って至聖所で香を焚いた大祭司たちの心情を私たちが感じ取り、お父様のご心配されるお気持ちを知り、命じられるお父様のみ言葉に従順に従うよう導いてください。表されたみ言葉を聞く中で、お父様の心情に深く通じる息子娘となることを、お父様、切に願い求めます。


今は晩秋の季節であります。このような時を迎えて世界を眺めると、六千年の終末期、すなわち収穫の時を過ぎて、冬の季節が間近に迫っていることを感じます。このような時にあって、お父様、私たちの心が枯葉のように散り落ちることのないように、心情が寂しく、凍りつくことのないように守ってください。


寒ければ寒いほど、時が移り変われば変わるほど、私たちは勝利の姿となり、お父様の栄光を歌うことができるようにならなければなりません。それでこそ、新しい春の日を迎え、春の園を主管する資格ある者になれることを存じておりますので、お父様、そのような姿でこの時間、私たちを受け止めてくださり、信じてくださることを心より願い求めます。


お父様、これまで許してくださった恩賜に心より感謝申し上げます。これまで私たちに与えてくださったみ言葉はあまりにも多くありますが、そのみ言葉を伝えた者は伝えた後に借りを背負い、受けた者は受けた後にまた借りを背負うことになったことを悟りました。お父様、互いに天の前で面目なくおりますことをどうかお許しください。しかしながら、生きるべき人間として新しいみ言葉を求めざるを得ませんので、お父様、この時間、共にいてください。


伝える者の心と受ける者の心が二つに分かれることのないように働いてくださり、心情で感じ取ることができる私たちとなるようにしてください。この時間、心情を通じてお父様と縁を結ぶことができますように。お父様は私たちと永遠に共に生きるべき父であり、ここに集った者たちは互いに永遠に共に生きるべき天の家族であることを感じ、その心情が通じ合うように導いてくださることを切に願い求めます。


4


この日もまた、孤独な立場で切実な心情を訴える数多くの息子娘がおりますゆえ、彼らと共にいてくださり、同じ恩賜で保護してくださることを切に願い求めつつ、これらすべてのことを主の御名によってお祈りいたしました。アーメン。




<御言葉>


本日、皆さんにお伝えする説教のタイトルは、「お父様が共にいたいと願われるところ」です。「お父様が共にいたいと願われるところ」、このような主題でお話しいたします。


私たちは心の中で慕い求める、一つの場所があることを知っています。人間の心というものは、切実にある場所を慕い求めています。そして、その場所が永遠に消え去ることのないよう願っています。堕落した私たち人間でさえそうであるならば、世界と人間を創造され、目的を立てて摂理を進めてこられた神様にも、必ず慕い求められる何かがあるに違いありません。その何かがあるがゆえに、神様ご自身のため、そして人類のために歴史を摂理されてきたのだと言えるのです。


神様が人間をお造りになった後、心の中で何かを望み、慕い求められたとしたら、いったい誰を望み、慕い求められたのでしょうか。それは神様ご自身のためでもなく、この地上のいかなる物でもなく、ただ人間をひたすら慕い求めてこられたということを、この時間、私たちはもう一度深く感じなければなりません。神様が人間のゆえに悲しまれ、人間のゆえに苦しみ、人間から背かれながらも、それでもなお人間を離さずに摂理を進めてこられた理由はどこにあるのでしょうか。それは慕い求めずにはいられない人間であり、希望をかけずにはいられない人間だからなのです。さらに私たちは、神様が歴史の中で悲しい峠を越え、戦いの歴史を紡いでこられたことを感じ取らなければなりません。


ではなぜ神様が私たち人間を慕い求められ、人間に対する希望をもって戦い続けてこられたのでしょうか。何ゆえ神様は人間を慕い求める立場に立ち、歴史を通じて戦わざるを得なくなったのでしょうか。その理由は人間の堕落にあります。まさに堕落のゆえなのです。もし人間が堕落しなかったならば、神様は、ご自身が切に慕い求められた人間と共に生きることができたでしょう。すなわち、人間への願いを成就され、人間と永遠に共に暮らすことができたのです。しかし人間が堕落したために、神様は人類に対して深い慕情と希望を抱きながら、今日まで戦ってこられたのです。希望と慕情の対象である人類であるがゆえに、個人を経て家庭・民族・国家・世界を経て、今日まで戦ってこられました。


5


神様は個人を限りなく慕い、家庭を慕い、民族を慕い、国家を慕い、さらにはこの世界全体をも慕い求められる方であることを知らなければなりません。人類に対する慕情と希望を抱かれ、私たちの先祖に悲しみがあるたびに、その悲しみを神様ご自身が引き受け、彼らの悲しみの代わりに新たな希望を与えるため、苦労を重ねてこられた神様であることを、私たちは知らなければなりません。もし地上にそのような友がいるならば、これ以上に貴い友はいないでしょう。そのような父母や兄弟、そのような方がいるならば、これ以上に尊く、高めて差し上げるべき方はいないでしょう。


それでは私たちは、生涯のある一瞬、一時期にでも、「私を慕い求めてくださる天よ、私たちの家庭を慕い求めてくださる天よ、私たちの社会、国家、民族を慕い求めてくださる天よ、今日私たちが生きているこの地を慕い求めてくださる天よ」と、天を慰めて差し上げたことがあったでしょうか。悲しみと慕情の心情をもって戦い抜いてこられた神様の心情を真に理解した人が、歴史の中にどれほどいたでしょうか。そのような家庭はどれほど存在したでしょうか。そのような民族や国家は、いったいどれほど存在したでしょうか。はっきりと申し上げるならば、なかったと言わざるを得ないのです。


神様の懐かしい心は、人間が堕落する前からありました。神様はアダムとエバを造っておかれ、(彼らが)希望の人格者になることを極めて懐かしく思われましたが、そのアダムとエバが堕落してしまったのです。堕落前から抱いてこられた懐かしい心情、堕落前から抱いてこられた希望の心情を、人類の祖先アダムとエバが裏切ったことによって、神様の心には深い悲しみが染み渡ったのです。そのような懐かしさと希望の心情をもって人類を訪ねて来られるたびに、私たちの先祖たちは訪ねて来られる神様を歓迎できず、裏切ってきた歴史を、私たちはよく知っています。


アダム家庭に対して神様は、悲しみの心情、悔しさの心情を抑えながら、懐かしい心を再び取り戻そうとカインとアベルを立てられましたが、その希望を叶えてもらえず、彼らはかえって神様に悲しみばかり与えたという事実を皆さんは考えなければなりません。その後、1600年という歳月を経て再びノアを立てられましたが、結果は同じでした。そこからまた400年を経てアブラハムを立てられましたが、やはり同じでした。懐かしく思われる一人の人間に出会い、心情を分かち合おうとされましたが、アブラハムもまた、神様が抱いておられた懐かしい心情を完全には迎え入れられませんでした。そのようにして3代を経て、数千年間抱いてこられた懐かしい心情を悟らせるためにヤコブ家庭を立てられましたが、その家庭を中心としても完全に目的を果たせませんでした。


イスラエル民族を立てられた後も、このような懐かしい心情を打ち明けて話すこともできず、教えることもできず、支配することもできない立場で、彼らの後について行かなければならなかった神様の事情を私たちは知らなければなりません。


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懐かしく思われた一つの民族の形を地上に立てられましたが、その民族が苦難に陥るたびに、天は懐かしむ心ほど、それに比例して苦痛を感じられ、悲しまれ、困難を受けられたという事実を、私たちは知らなければなりません。このように導かれた民族、モーセに従っていたイスラエル民族が懐かしい心情を知ることができなかったとき、荒野でその民族を打ち倒さざるを得なかった神様の心情を皆さん考えてみてください。


個人から家庭を経て、民族を探して立てようとされる神様の懐かしい心情は、時が近づくにつれて大きくなったにもかかわらず、個人的なアブラハム時代よりも神にさらに近づくべき家庭的なヤコブ時代は、そうではありませんでした。家庭を経て民族的なモーセ時代には、家庭的な時代よりさらに神に近づかなければならなかったはずなのに、むしろ家庭的な時代の方が神に近く、家庭的な時代より個人的な時代がさらに神に近かったのです。終末が近づくほど、世界に散らばる人類は神様が懐かしむ心情の基準にさらに近づかなければならないのに、逆比例しているというのです。これを考えるとき、私たちは天の悲しみが私たちによって、私たちが生きているこの環境によって左右されるということを知らなければなりません。


私たちが歴史をたどってみれば、どの時代であっても、御言葉を掴んで生きた人の中で、天の心情を代弁した善なる人を懐かしく思わなかった人はいませんでした。


天は長い歴史の道程を経てくる間に、懐かしい心情を私たちの心に植えつけ、歴史に植えつけ、世界に植えつけるために戦ってこられました。それゆえ、私たちが接する一つ一つの物にも、神様の懐かしさが染み込んでいるということを知らなければなりません。私たちが接する家族にも、歴史的な神様の懐かしさが染み込んでいるということを知らなければなりません。私たちが生きているこの国、この世界にも神様の懐かしさが染み込んでいるのです。


それゆえ私たちが目を上げて、神様が造られた万象を見るとき、その万象が天の切実な懐かしさの対象であることを感じなければなりません。万物もそうであるのならば、万物の霊長である人間はどうでしょうか?たとえ悪い姿ではあっても、天は必ずある一つの基準を立てて懐かしんでこられたという事実を、皆さんが感じるとき、天の前に真に感謝を捧げなければなりません。


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それでは神様はどのような場所におられたいのか? 天はどのような場所にいようとされるのか? 懐かしい人が住むところにいようとされます。天は、この地上を中心として6千年という長い歳月の間、摂理を進めてこられました。そのような創造主である神様が、天の玉座におられようとされるのではなく、人間が住むこの地上で暮らしてみたいと思われるのは、当然の理でしょう。しかし、神様が住みたいと願われるこの地上は、今まで神様がお住まいになれる環境ではありませんでした。神様がお住まいになれる家庭も国も世界もありません。世界もさておき、国家や民族もさておき、家庭さえもさておき、私一人だけでも神様が共におられる立場にいるのかと尋ねられれば、そうではない私たちなのです。


天が今まで戦ってこられた目的は何でしょうか? 懐かしい人々を集め、手を取り合い、愛することができる一日を迎えることが神様の創造目的であることを、私たちは知っています。それならば神様はどこにおられるのか? イエス様はこの地上に来られて、神様が天におられるとは言われませんでした。「神様はあなたの中におられる」と言われ、天国を紹介されるときも、「あなたの心の中にある」と言われました。あなたの心の中にあると。問題はここから始まります。


神様の悲しみはどこにあるのか? もちろん世界にもあり、国家にもあり、民族や家庭にもあります。しかし神様の悲しみは、「私自身」に染み込んでいるということを知らなければなりません。それならば天の喜びはどこにあるべきでしょうか? それもまた「私自身」にあるべきです。私自身がある一つの基準になっていない限り、神様が懐かしむことができる人間にはなれません。神様が「あなたでなければ私は生きていけない」と言える私、つまりそのような私にならない限り、神様の新しい歴史は始まることができないのです。神様はそのような人間を懐かしく思われます。


神様の創造目的とは何でしょうか? 一人の主人公を中心として家庭を成し、社会、国家、世界を成して地上に天国を実現することが、神様の創造目的です。しかし、この世界には神様が懐かしく思われることができる基準が一つも築かれていません。これを私たちは明確に知らなければなりません。


堕落前の人間に対して、神様の希望は、懐かしい心情を通じて生きられる個人と家庭、そして民族と世界になることでした。しかし、人間が堕落したことによって、そのような世界にはなれませんでした。それゆえ神様は、この世界を堕落前の世界へ再び復帰されるために、懐かしい心情を抱き、悲しく苦しい十字架の道を苦しまれながら人類を掴んで転がりながら歩んでこられたということを、私たちは知らなければなりません。


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皆さんは、神様が皆さん自身、つまり「私」を懐かしく思われているという事実を知っていますか? 懐かしさの峠を越えて、「私」を掴んで共に生きようとされるという事実を知っていますか? これを知らなければなりません。「私が神様を知っている」「私がイエス様を知っている」「私が聖霊を知っている」というよりも、神様が、イエス様が、聖霊が、「私があなたを知っている。あなたでなければだめだ」と言えるようでなければなりません。そのような人間が地上にいますか? いません。神様が6千年間摂理をなさってきた目的は、そのような人を立てることであり、そのような人が生きる家庭、そのような人々が集まった教会、そのような人々が治める国家を立てるためです。神様は、そのような人々を中心として全世界が天の前に賛美を捧げることを願われます。そのような世界を実現することが神様の創造目的なのです。しかし、そのような国家も、そのような民も、そのような家庭も、そのような個人も、見つけることができていないことを、皆さんは知らなければなりません。


懐かしい民、懐かしい民族、懐かしい家庭を探し、その次に天地を動かしていくことに責任を持てる一人の主人公を探すことが、神様の摂理の歴史であることを知らなければなりません。その主人公として来られる方が再臨主です。


その主人公はどのような存在であろうか?神様の懐かしさを解いて差し上げるために来られる方であり、その方はこの地と天のすべてを与えても交換できない存在です。神様にとって二人といない存在なのです。


私たち人間が行きたいところがあるとすれば、そのような方がおられる所でしょう。その場所とは、「私」を愛してくださる方がおられる所です。どのような曲折を越え、死さえも越えて「私」を愛してくださる方がおられる所です。それでは、その場所には誰がおられるでしょうか?父母がおられます。「私」を責任持ってくださり、「私」を懐かしみ、死さえも厭わず「私」を探そうと努められる方が父母なのです。だから人が父母のいる所を懐かしがるのは当然です。


次に懐かしい所はどこでしょうか?互いに真に愛し合う夫婦が留まる所です。その次は子女がいる所であり、その次は兄弟がいる所です。結局、人間が懐かしがる所とは、父母を中心として夫婦、子女、兄弟がいる所、すなわち家族がいる所です。


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故郷の山川をなぜ懐かしがるのか?いつでも自分の心情を吐き出して休むことができる場だからです。これは子供の立場の者だけがそうなのではありません。懐かしさというものは地域や距離を超えるものであり、子供が懐かしがる以上に父母も懐かしがるのです。夫婦同士も同じであり、兄弟同士も同じです。私たちの心が懐かしがる場所はどこでしょうか?心の懐かしさを歌うことができ、互いを切に思いやることができる場所、懐かしい家族がいる所です。


堕落した人間でさえそのような場所を懐かしがるのに、神様が懐かしがられる所はどのような場所でしょうか?天の主権が立てられ、その主権を中心に国家が成され、そこに天を代表できる民と家庭と個人がいる所、すなわち神様が共に暮らせる天の家族がいる所です。人間は心情を中心として互いにために生き、互いを高め合う場所にいたいと思うのです。私たちがいたいその場所とは家庭です。神様に似て造られ、神様の姿どおりに生まれた人間であるならば、そのような心はどこから出てきたでしょうか?天から受けた心です。つまり神様がそうであるというのです。神様がそのような方だというのです。


それならば、そのような神様がこの地上にメシヤとして送られた一人の主人公がいるとすれば、その方はどのような存在でしょうか?神様が懐かしがられるのが天の家庭であるため、家庭を代表し家庭を収拾できる主人公です。そのような責任を担うために来られた方がイエス様です。その方はこの地上に来られて、「私は神の独り子である」と語られました。その時まで数多くの聖賢、賢者が来て去り、多くの人類が来て去りましたが、神様の懐かしい心情、懐かしさの心を持って現れた愛の息子は一人もいませんでしたが、「私は神の愛を受けることができ、神が懐かしがることができる存在だ」という自負心を持って語られた方が独り子イエス・キリストでした。


神様がイエスを送られた目的は、この地上に神様が懐かしがられる一つの天の家庭を成すためでした。それゆえ、そのイエス様を中心としない限り、天の家族になることはできません。これは鉄則です。天の家庭はイエス様一人を中心として成されるようになっているのです。私たちがイエス様を信じる目的は何でしょうか?救いを受けて天国へ行くことが目的ではありません。救い以上の神様の家族にならなければなりません、神様の家族。イエス様がこの地上で福音を宣べ伝えられた目的は何でしょうか?神様の息子として天の花嫁を選んで立て、天の家庭を成すためでした。家庭を成せば、その家庭を中心に民族を、その民族を中心に国家を、その国家を中心に世界を成そうとされたのです。


イエス様はどのような存在だったのでしょうか?彼は4千年もの間、神様が懐かしがってこられた神の独り子として来られた方でした。懐かしんだ実体を目にされた神様の心は、どれほど喜ばれたでしょうか?イエス様が馬小屋で誕生されたその日、天の天軍天使たちも彼を歓迎し賛美を捧げました。異邦の東方博士たちも彼に礼拝し、贈り物を捧げ、羊飼いも彼に礼拝しました。それはなぜでしょうか?イエス様が横たわった場所は、たとえ馬小屋であったとしても、4千年ぶりにようやく神様が愛することのできる息子であったため、彼らはそのようにイエス様に接したのです。


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幼い赤子イエスを彼らがそのように扱ってくれるのをご覧になる神様は嬉しかったのですが、成長するイエスに対するヨセフ家庭をご覧になるときは、そうではありませんでした。赤子のイエスの前で礼拝し贈り物を捧げた東方博士のような真心で、マリアとヨセフ家庭もイエスを扱うべきだったのですが、そうできませんでした。


神様は希望が成されるその日を待ち焦がれ、イエスが成長すればするほど、その成長する姿をご覧になりながら、イエス様をもっと懐かしく思われ、もっと愛されました。しかし、生まれたそのときには、天も地上の人々もイエスを歓迎しましたが、成長する間はそのような環境で育つことができませんでした。4千年もの間、懐かしく思われてついに送られた息子を困難な場所に寝かせ、孤独な場所に寝かせなければならなかった天の心情を、私たちは知らなければなりません。


皆さんが知っているように、イエスは聖霊によって身ごもりました。ですから、ヨセフにとっては義理の子です。それゆえヨセフの息子である弟たちさえもイエスを嘲笑いました。またヨセフもマリアもイエスの意図を理解できませんでした。イエスを身ごもったときは、天使の命令を受けて「主のはしためですので、お望みどおりになさってください」と言いましたが、イエスを産んだ後、抱きしめて乳を与える時と、成長する時に扱う態度が違ったのです。聖書には記録されていませんが、イエスには計り知れない悲しみがあったのです。神の息子として地上に来たイエスは、神様が懐かしく思われるものを解放して差し上げなければならない責任を感じ、自分一人を悲惨な立場に置いて懐かしく思われる神様の前に、頭を上げることができないほど心苦しさを感じたということです。


4千年の間、選んで導いてきたイスラエル民族がイエスを認めることができなかったことが神様の悲しみとなりました。神様を懐かしがり、主を懐かしがっていたイスラエル民族が、懐かしがらなければならないイエスを懐かしむことを知らない民族になったことが、何よりも天の無限な悲しみでした。神様が懐かしく思われたイエスを、神を信じるユダヤ民族が反対して出てくるとき、神様の悔しさは言葉で言い尽くせないほど大きかったのです。そうではないでしょうか?


イエス様は憂いと曲折に包まれて成長しました。なぜでしょうか? 他人とは生活の感情が違い、世界観が違ったからです。踏み出す足取りも、世界を見る尺度も違いました。ヨセフ家庭で暮らした彼は、ある一日でも大きく笑って喜んだことがありませんでした。なぜでしょうか? 彼は世界や両親、そして家庭というものがどのようであるべきかを知っていたからです。彼は、自分が生きているヨセフ家庭が理想的な家庭ではないことを知っていました。


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神様が懐かしく思われるのは天の家庭だと知っていたイエス、そのような家庭を成さなければならない使命と責任を持って来られたイエスは、死ぬことがあってもその使命を果たしていくという鉄のような心情を持っていましたから、両親が裏切っても、民族が裏切っても、立てておいたユダヤ教が裏切っても変わることはありませんでした。懐かしく思われる神様の前に、懐かしさの心情を持って進むべき立場だったため、イエスは環境が変わり行く道が塞がれても、死を覚悟してその道を行かれました。十字架の血潮を信じる私たちは、十字架にかけられたその瞬間のイエス様の心情を知らなければなりません。イエス様は30数年を生き、望まない生涯の終わりを迎えるその瞬間にも、父に会いたい心が先立ちました。会いたいその父を愛する心が先立ったため、死の峠を越えることができたのです。


息子として立てておき、懐かしんでおられる神様の心情を考えるとき、神様がイエス自身を立てられた目的は、天の家庭を探すためであり、天の民族と天の国家、天の世界を成すためであることを知っていたので、十字架を背負っても、「父よ! 彼らを見捨てないでください」と言うことができました。個人的には反対するユダヤ人たちが敵でしたが、自分を立てて天が願われるのはこの世界であり、この人類であることを知っており、懐かしくまた懐かしがらなければならないこの地であることを知っていたので、自分が死んだ後も再び天が懐かしがらなければならないこの世界であることを知って、イエスは天を抱きながら「父よ、彼らの罪をお許しください」と祈ることができたのです。


神様が地にイエスを送られた目的は、地でイエスを中心として生きるためでした。ところが地ではイエス自身を排斥して死の場に追いやったため、神様の願いを成し遂げて差し上げることができずに行くイエスは、「再び来る」という言葉を残さずにはいられませんでした。ですから「再び来る」という言葉を残されたのです。キリスト教はその契約を信じて今日に至っています。


再び来られる主は、誰をお連れして来られるのでしょうか? 一人で来られることはないでしょう。「父の栄光で来られる」と言われた以上、一人では来られないのです。御子だけとして来られることはできません。父をお連れして来なければならない主であることを、私たちは知らなければなりません。


イエスが「私は新郎であり、あなたがたは新婦だ」と言われた以上、私たちは天の父母をお迎えして新郎新婦を成さなければなりません。ところが今日のキリスト教徒は、イエスの愛で終わると思っています。しかしイエスを信じ、イエスを新郎としてお迎えする目的は、神様を父としてお迎えするためです。天地万物を創造された父が人間を造られ、祝福して「私が住める家」と言われました。私たちは神様がお住まいになれる家とならなければなりません。


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神様がおられたい場所、イエスがおられたい場所は天の玉座ではありません。イエスも祈られたと言いました。祈る場所は安息の場、すなわち住み処ではありません。祈る理由は、まだ清算しなければならない条件が残っているからです。そして神様もそのような祈りを受け取らなければならない立場にあります。なぜなら、いまだに神様の懐かしさの心情が清算されていないからです。その懐かしさを解くために地上に送られたイエスが使命を果たせず、神様が懐かしく思われる実体を地上に立てることができなかったため、それを解決するまで、天は祈りを受け取らなければならず、イエスは祈らなければならない責任があるのです。こうして2千年という長い歳月が過ぎました。


皆さん、冷静に考えてみてください。神様がおられたい場所、神様はさておき、イエス様がおられたい場所、イエス様はさておき、聖霊がおられたい場所、聖霊はさておき、この地のよく信じる聖徒たちがいたいと願う場所でも、皆さんはそれを用意しましたか? 神様はそのような場所におられるために、6千年間、その一つの場所を懐かしく思われ、希望され、戦って来られたのです。


世界を動かす人になろうとするなら、誰よりも世界的な理念を懐かしがらなければなりません。ある国家を治める真の主人公になろうとするなら、どんな民族よりも、どんな民よりも、もっと懐かしく思い、もっと愛することのできる心を持たなければなりません。家庭でも同じです。家族を懐かしく思う人には、その家族すべてがついてくるのです。


堕落した人間がなぜ神様にすがるのか? 神様が人間を懐かしく思われる因縁があるからです。神様が人間を懐かしんでおられるからです。それではこの懐かしさはどこから生まれたのか? 人間が堕落したことによって生まれたのです。この懐かしさが解かれるためには、その懐かしさの内容を清算できる何らかの基準が地上に立てられなければなりません。だからこそ、この基準を立てるために来られる方が再臨主です。その再臨主が来られるときが、再臨の時なのです。神様が6千年間懐かしがって来られた息子娘を見つけて「お前たちが一つの家庭を成したのだな。今や私はお前たちと共に永遠に住むことができる」とおっしゃることができる一つの基準を地上に立てなければならないというのです。皆さん、そのような場所に行ってみたことがありますか? 行ったことがないのなら、そのような世界を成すために誠を尽くして準備しなければなりません。


神様が懐かしんでおられる場所は、堕落した世界の家庭ではなく、宇宙的な理念と価値を持った家庭です。宇宙的な家庭、その家庭は宇宙的な真の父母が住まわれる家庭です。宇宙的な新郎新婦が住む家庭であり、宇宙的な息子娘が住む家庭です。宇宙的な兄弟が住む家庭です。


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私たちの心は、神様をお迎えし、主をお迎えして生きられる一つの場所を探し求めてさまよっています。私もそうであるし、イエス様もそうであり、神様もそうです。歴史の路程において人間をつかんであえぎながら進んでこられた神様も私たちと同じです。同じ運命に置かれているのです。だから目的も同じです。


イエス様がそのような神様的な宇宙観を中心として生を切り拓いて行かれるために語られたのが福音です。イエス様が来られた目的と福音の御言葉を語られた目的は何か? 天の家族が三位一体の神をお迎えして喜びのうちに生きることができる天の家庭を、この地上に築くためでした。ゆえに、イエス様は万人の救い主です。救い主とは何か? 慕わしく、懐かしく思い、愛してあげたいという心を持つ救い主なのです。


私を産んでくれた親は、私だけを愛することは知っていても、隣にいる人を愛することは知りません。夫婦も自分たち同士だけを抱き合って好むのであって、万人の前に栄光を現し、神様の前にその栄光をお返ししようという考えすらしません。また、自分の子どもだけを愛します。それは本来、神様の創造目的ではありません。


皆さんは、両親を愛するにも全世界の人類を代表して私たちの両親を愛するという観(かん)がなければなりません。そうしてこそ、皆さんの両親を神様が愛することができるのです。夫婦が互いに愛するにも、天地にいるすべての男性と女性を代表して、神様を中心として愛さなければなりません。子女を愛するにも、一世代の因縁を広げて、宇宙的に、平面的でなく立体的に愛することのできる人にならなければなりません。


だからこそイエス様は、「誰よりも私をもっと愛しなさい」と言われたのです。ところが家庭を成して暮らしている人間たちは、このような愛の観を忘れてしまいましたが、イエス様はこのような宇宙的心情を抱いて人類を愛して来られたので、救い主なのです。彼が神様が懐かしく思われる家族を探しに出たとき、彼の母と兄弟たちが訪ねて来ると、「私の母、私の兄弟とは、父の御心を行う者たちだ」と言われました。またその母に対しては、「女よ、私とあなたが何の関係がありますか」と言われました。当然そう言える立場だったのです。


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神様が願われる一つの家庭も成すことができなかった人間たち、天の御心も果たせなかった人間たち、神様の子女となり、天の民となるべき人間たちが、互い同士だけで喜ぶことができるでしょうか? だからこそ、道人たちは独身生活をするのです。神様が懐かしんでおられる家庭を見つけられていないのに、喜ぶことができるでしょうか? そのため、高い基準を持つ道(どう)は独身生活を主張するのです。なぜなら、天倫の前に顔向けできない人間たちだからです。私一人だけでも、天の前に歴史的に積み上げた罪だけでも許されることができないのに、そのような私が天が願われる家庭の形を成すというのだから、天はこれを受け入れることができないのです。順序が逆になっているからです。


天が真に懐かしく思われる家庭を成す使命を責任として持って来られたイエスが、その使命を完全に終えて家庭を成した後に、私たちは彼の子女にならなければならない、という話です。


イエス様が成そうとされた家庭とは、皆さんが今暮らしているそのような家庭ではありません。決して違います。よく調べてみると、そうではありません。皆さんが天の前に行くときには、東西南北にすべて分かれていきます。死んで行くときに、「この人は私の妻なので、父よ、連れて来ました」と言えますか?「あそこに私の息子娘がいるので、私が天国に行くなら一緒に連れて行ってください」と言えますか? できません。堂々と「父よ、血統的な因縁のあるこの者たちを、天を代表して愛する自信があります」と言える息子娘、または男や女を、天は今まで一度も見たことがないというのです。それが神様の恨みです。


イエス様はこの問題を解決するために来られました。天の家庭を探し求めてさまよわれたイエス様だったのです。その観点から、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)とおっしゃったのです。彼をどれほど楽で良い所にお迎えしたとしても、その場所は天が懐かしく思われる所とは天と地ほども違うというのです。道に寝て眠っても、そこに天が共におられるならば、イエス様にとってはそこが安らぎの場であったのです。


4千年間準備してきたイスラエル民族が、イエスが地上に来られて神様が共におられることのできる家庭を成されるとき、その家庭を中心として一致していたならば、間違いなく祭司の国になっていたはずです。天の血族として、天の家庭として、この世を統治することができたはずです。ところがイエスが亡くなったことによって、天の血族が断たれてしまったのです。そのイエスが最後に残されたものが、「新郎・新婦」という名詞です。新郎新婦、真の夫婦。真の夫婦であり同時に真の父母の立場で、神様が最初のアダムとエバに許された本然の基準を、4千年ぶりに再び立てて成さなければならなかったのがイエス様でした。ところが、イエス様が亡くなられたことによって、その願いを終わらせることができなかったために、今日まであえいでいるのです。


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人倫(人としての倫理)は、親を愛し、夫婦同士で愛し合い、子どもを愛するように教えます。皆さんは、誰のために親を愛すべきか考えたことがありますか? 誰のために夫婦が愛し合い、誰のために子どもを愛すべきなのか考えたことがありますか?


愛することを責任をもってくださる主人公を失ったのが人間です。神様は無限の愛を語られました。「最後に残るのは愛である」とおっしゃいました。その愛は神様の愛です。皆さんは、懐かしむ目的を知らなければなりません。愛するにも目的が必要です。誰のために愛するのですか? 神様のためです。神様のために愛さなければなりません。自分のために愛する者よ、死んでみなさい、どこへ行くか。


皆さんが子を産んで乳を与えてかわいいと言いますが、誰のためにかわいいと思うのですか? それは天地を代わってかわいがるべきなのです。この国、この世界のために、神様のためにかわいがるべきなのです。神様の愛による天倫の運勢は、世界を越えて天地を抱擁するために動いています。ところがその因縁を通して生まれた子を、自分のために愛するならば、それは許されることではありません。子を抱き、乳を与えるお母さんたちは、天地を代わって神様の愛する息子娘を抱いているという切なる心情で、自分の子を抱くべきです。


神様が希望されるエデンで暮らせる息子娘は、宇宙性を備えた息子娘でなければなりません。「万物を主管せよ」と言われたので、主管者としての資格を備えた存在でなければならないということです。


これまでの人間たちは、自分の子どもを産んで教育する目的を、自分の家庭がうまくいくことに置いてきました。逆さまなのです。今日の時代は「逆さま時代」です。天が良くて、世界が良くて、国が良くて、社会が良くなった後に、自分が良いと思えるのです。これが本来の原則なのに、堕落して逆さまになってしまったのです。自分が先に良くて、その次に我が家が良くなり、その次に我が社会が良くなるようにしようという主張です。逆さまなのです。


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天はそのような観点でこの地を眺められるため、そのような人間たちを打ち砕き、「逆さま時代」を終わらせていかれるのです。「復帰の道は打つ道である。お前の体を打て」とおっしゃいます。キリスト教はそのような道の道を行くので、個人としても迫害され、家庭としても迫害され、民族としても、世界としても迫害される道を通らざるを得ないのです。そうして今日、キリスト教は名実共に世界的宗教となったのです。


人間たちは人倫を立て、自分の一家を中心として、親に孝行し、夫婦がお互いに思いやり、子どもを愛するように教えています。しかし、天倫はそれよりも範囲が広いのです。人倫は自分を中心として教えますが、天倫は天を中心として教えます。愛するにも「神のように愛せ」と言います。「私(天)が懐かしさの主人公であり、私が懐かしんでいるこの地、この世界なのだから、これらすべてを抱いてもなお余りある心情を持って愛しなさい」とおっしゃいます。それが天倫です。天倫の帰着点はそこなのです。人倫の帰着点は一つの家庭にすぎませんが、天倫の帰着点は終末に現れる宇宙的な家庭です。そのような家庭を必ず成し遂げなければならないのです。そのような家庭で称えられる人格者は、個人的な人格者ではありません。天が称えることのできる人格者です。その日が来てこそ、天地の恨(ハン)が解かれるでしょう。


私たちはこれまでの歴史的悲劇を知っています。皆さんが好んで生きているその家庭が、歴史的な悲劇を生んだ場です。家庭とは、歴史を滅ぼすこともできる場でありながら、歴史を鏡として理想を成し遂げることもできる場でもあります。歴史の興亡が、皆さんの家庭の静的な基盤によって左右されるということを知らなければなりません。


ここで家庭は二つの道に分かれてきました。人倫の前に善なる家庭と、そうでない家庭とに分かれてきたのです。「道(どう)」はこの中間から出てきます。その「道」はまだこの地に完全に足を据えていない状態で出てきています。まるで他人の家で間借りしているかのようです。だから神様も思いのままに主管することができないのです。そのため、イエス様がこの地に来られて30余年を生きられましたが、間借りの生活をして帰って行かれたのです。私たちはこのような歴史的な恨(ハン)を知り、その恨を解いて差し上げ、イエス様を殺したユダヤの民の罪を蕩減しなければならないのです。


天倫が抱こうとする情の足場とは、どのような場所でしょうか?それは天的な家庭です。人倫が抱こうとする情の足場とは、人間的な家庭です。人倫は天倫によって動かされなければならないため、イエス様は家庭を無視されたのです。だからといって、皆さんも家庭を無視しなさいということではありません。原則がそうだということです。


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皆さんが家庭で子どもを育てるとき、その子どもが自分の家庭を中心に自分を愛してくれる息子娘になるだろうと思ってはなりません。統一教会の食口であるならば、赤ん坊に乳を与えるときにも、その赤ん坊が天と地のために生きるようにと考えられなければなりません。その息子娘との因縁をたどっていけば、堕落前にアダムとエバを創造しようとされた神様の心情にまでつながっています。したがって、皆さんが産んだ子どもたちは、歴史的な再創造を代わる存在たちなのです。にもかかわらず、子どもたちを抱いてただ「自分の息子」「自分の娘」だと言っています。


皆さんがなぜ子どもを大切にするのか分かりますか? 自分の情熱をすべて注ぎ込み、死の道を越えてでも、なぜそこまで愛したくなるのか分かりますか? それほどまでに偉大な存在だからです。天と地を代わって現れた存在だからです。このように見るとき、果たして天が住みたくなる場所、天が懐かしがる場所はどこでしょうか? 天はまさにこのような息子娘と共に暮らせる家庭を懐かしがってこられたということです。イエス様もそのような家庭を成すために、今日まで2千年間、サタンとの血闘をやめることなく続けてこられているということを知らなければなりません。


このような希望の国、このような希望の主人公、このような希望の場を懐かしんでいる私たちであるならば、私たちはどうすべきでしょうか? 今や民族を中心とする時代は過ぎ去り、一つの世界を志向する時代が私たちの目の前に迫ってきています。このときに、神様が抱いて喜ばれることのできる足場がどこにあるでしょうか? 神様が「お前は私の愛する息子娘だ。私はお前と共に暮らしたい」とおっしゃることのできる人が、地上に必ず現れなければなりません。そうでなければ、天も何もありません。それが目的だからこそ、そのような息子娘が出てこなければならないということです。


そのような息子娘にならなければならないのに、「自分の息子娘」「自分の母」「自分の父」などと言っていては到底及びません。到底及ばないのです。いまだに「自分の父母」「自分の子女」と言っている血族の基準を越えることができなければ、皆さんは神様が希望され、成そうとされている天の家庭とは因縁がないのです。皆さんが今までのそのような家庭環境で生きてきて、天国に行けると思いますか? とんでもない話です。そうであれば皆、天国に行けるということになります。今は私たちが悪口を言われ、迫害されているとしても、戦って倒れるとしても、ただ一つ持たなければならない節義があるのです。それは何かというと、「神様が共におられたがり、神様が懐かしがられる息子娘として持つべき節義」なのです。


ですから、私たち統一教会の食口は、子どもを育てるときにもその子を高く扱えるようでなければなりません。親だからといって「このろくでもない子はどうだこうだ」などと言ってはならないのです。そうではないのです。皆さんに希望があるとすれば、その希望はその子たちを通して継承されるのです。子どもを通してであれ、夫婦を通してであれ、親を通してであれ、どのような道を通してでもつながっていくのです。人間に残された希望が天が与える希望であるとすれば、それは天倫の道を通してのみ連絡されるのです。


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皆さん、心が一つでない者とは、相談すらしたくないし、何かを共にしたくないと思うでしょう? 永遠の生活理念、永遠の理想的思想があるとすれば、それは神様が経綸される世界です。その世界にただ「イエスさえ信じていれば行けるだろう」と思って生きていれば、入れると思いますか? 絶対にできません。


ここに集まっている皆さん、今こそ恨(ハン)があるならば、天の前に忠誠を尽くさなければなりません。これまで共に暮らしてきた夫や妻、すなわち夫婦はどのような存在でしょうか? 天と地を代わる供え物です。縦的には天と地を接続させるための代表的存在であり、横的には歴史が始まって以来、今までの女性を代表した存在であり、男性を代表した存在です。このようなことを感じたことがありますか? 天と地が接し、全人類が和合できる祭壇なのです。いつか先生(文鮮明)は「女性を愛しなさい」と言いました。この家庭の愛は、創造以前から永遠に守られるべき基準なのです。しかしこの基準で繁殖された息子娘が地上にはいないのです。そのような基準で、神様が「よし、お前は真の私の息子であり、私の娘だ」と認められた人がいるでしょうか? いないのです。いないために、もう一度最初から探し求めなければなりません。親がいるとして、その親はこの地上の数多くの親を代わる親です。その親は自分の子だけを愛してはなりません。自分の家庭を越えて、世界の他人の子までも一緒に抱ける心を持って愛する者にならなければなりません。子どもが親を愛することも同じです。


道の生活とは何でしょうか? これから神様の前に立つことができる、天の家庭で暮らす資格者とはどのような人でしょうか? 宇宙的な人格者です。他のことはさておき、心情の問題に入って、心情によって父母をお迎えすることができる者です。では皆さんは、天と地を代わる真の父母をお迎えしたことがありますか? 私たちの父母は、天が公認し、地が公認し、天上が公認する真の父母です。神様も、天使たちも、この地の被造万物も「そのとおりです」と認める真の父母です。今は、真の父母として公認を受けて現れた方をお迎えしなければならない時です。そのような方が誰であったかといえば、それがイエス様でした。そして、来られる主です。来られる主です。


では、イエス様とはどのような方でしょうか? エデンの園でアダムとエバが堕落したことによって真の父母になれず、偽りの父母となり、偽りの子孫を産んだので、それを復帰するための真の父母として来られた方です。アダムとエバは真の父母になれなかったと同時に、真の夫婦にもなれず、真の夫婦になれなかったので真の子女にもなれませんでした。ですから、イエス様を完全に信じてイエスと一つになれば、真の子女の復帰、真の夫婦の復帰、真の父母の復帰ができるのです。だからこそ、イエス様を最も愛しなさいと言われたのです。皆さん、それを知らなければなりません。


堕落した人間が今後歩んでいかなければならない道とはどのような道でしょうか? この恨(ハン)に満ちた歴史を蹴り上げて「ハレルヤ、アーメン!」と叫び、勝利の勇士として現れて、天の父母をお迎えする立場を通らなければなりません。その次には、天地的な新郎新婦の基準を讃える立場を通り、その次には、天地的な子女を愛する立場を通っていかなければなりません。これが堕落した人間が通るべき三大の道です。国境が問題ではありません。東洋と西洋が問題ではありません。心情を持った人であるならば、そのような父母の前には皆が頭を下げ、そのような夫婦に対しては皆が祝福し、そのような子女の前には全体が頭を下げ、敬うでしょう。そのような時が来なければなりません。そのような場所とはどこか? これから来られる主がいらっしゃる場所です。そのような群れが行く場所が、これからの天の御座です。「14万4千の群れ」が何か知っていますか? そのような群れです。


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この観点から、キリスト教信者たちを一度分析してみてください。皆さん、自分の親以上に他人の親を愛することができなければなりません。自分の子ども以上に他人の子どもを愛することができなければなりません。なぜなら、神様がそのような方だからです。神様が自分だけを愛する方ですか?


天を懐かしみ、天のために集まった食口であるならば、離れようとしても離れられないという感覚を持たなければなりません。彼の悲しみを自分の悲しみとし、彼の困難を自分の困難として感じなければなりません。このような感情が地上に生きている堕落した人間の中に湧き上がらなければなりません。自分の民族を越え、国家を越え、すべてを超えることのできる感情が地上の人間の中に湧き上がらない限り、平和の園は実現しないでしょう。また、そのような平和の園が実現しないのであれば、神様がいらっしゃるというならば、その神様は失敗した方です。さらには、神様はいらっしゃらないとまで結論を下すことができます。


地上の人間ですら懐かしさを求めてさまよっているのに、愛の神様はどうでしょうか? 今まで無限の苦痛を受けながらも人間を手放すことができなかった天の事情とは何でしょうか? それほどまでに人間を懐かしがられる原因は何でしょうか? 一緒に暮らすためです。一緒に暮らそうとする目的は何でしょうか? 愛するためです。だからこそ、皆さんが恵みの場に入れば、子どもを親のように敬うようになります。皆さんが霊的な立場に入れば、何にも縛られません。今日の人間たちは神様を厳粛な方、厳しい権威のある方だと考えていますが、まったく違います。皆さんが子どもに接するとき、愛したいという気持ちが自然に湧いてきますよね? その気持ちが誰から与えられたか分かりますか? 神様が与えた心です。神様がそのような方なのです、神様が。


人間が堕落してから今まで6千年の歴史が流れましたが、神様が共に暮らせる人、神様が愛することのできる人を一人も見つけられていません。神様はそのような人にいまだかつて出会ったことがないのです。皆さんは子どもを愛したことがありますよね? 家庭を中心に生きたこともあるでしょう? しかしその家庭は堕落した家庭です。どれほど優れていて、どれほど素晴らしくても、裁きの場では祝福することのできない家庭だというのです。ですから、私たちは祝福されることのできる家庭を作らなければなりません。自分がそのような人になれなかったのであれば、そのような人にならなければならず、そのような家庭を築かなければならず、そのような社会を、そのような世界を作らなければなりません。これが全世界のキリスト教徒がすべきことです。ところがそのようなことはせず、自分の教派、自分の教会ばかりを求めています。これでうまくいくと思いますか?


神様の心情を代わる人、どんな民族でも抱き、兄弟でない兄弟を兄弟とし、親でない親を地上の何よりも貴く思える存在にならない限り、天とは何の関係もありません。聖書には「あなたの心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くして、あなたの主なる神を愛せよ。これが第一の戒めである」(マタイ22:37)と書かれています。では、心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くし、誠を尽くすという基準はどのような基準でしょうか? 世の中の人間がするような、かすのような愛を天が望まれるでしょうか? 天がそのような場に入られるでしょうか? 万に一つもあり得ません。「尽くす」という程度はどのくらいかというと、27億人類を抱き、彼らが持っているものすべてを分け与えても、なお足りないと感じなければなりません。「私はこれだけしたから、もう十分だ」と言えることはありません。体ではできないので、心情で全体を代弁できなければなりません。心情は天と地を代わることができ、全体を代わることができます。そうではありませんか? だからこそ、最高の心情ひとつを捧げれば、父も私たちに「すべてを尽くした」と認めてくださいます。


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では、その心情の基準はどれほどでなければならないか? 自分の息子娘を愛するその基準以下、夫婦同士で愛するその基準以下、自分の親に孝行するその基準以下、地上のどの存在に流れる情的心情基準以下の基準では、天の前に立つことはできません。その基準以上でなければなりません。人間がそのような基準を持って天の前に立っていたならば、すでに神の国は実現していたはずです。この地上の人を愛する心情基準以下では駄目なので、イエス様は「誰よりも私をもっと愛しなさい」と言われたのです。地上の誰かを愛する以上の心情基準を持たなければならないということです。「道(ドウ)」のために子どもを捨て、「道」のためにすべてを捨て、最後には自分の命までも捨てて、それでもなお「恐れ多いことです」と言えるようでなければなりません。その以上の心情基準を持たなければならないのです。


イエス様はこのような意味でそのようにおっしゃったのです。考えてみてください。悪口を言われたがる人がどこにいて、迫害されて追われたがる人がどこにいるでしょうか? しかし、彼が感じた世界が民族よりも重要であり、迫害を受けながらも行かなければならない世界だったからこそ、イエスはその道を行かれたのです。そのような心情を抱いて出て行くイエスには、友がいませんでした。いたとすれば、ただ一人、神様だけでした。数多くの聖賢が来ては去っていきましたが、その境地に到達した人はイエス様ただ一人でした。彼は歴史上初めて心情世界と因縁を結んだ責任者として現れたので、イエスは心情を中心として見てもメシヤだったのです。


では、皆さんは神様をどのように迎えますか? 神様は心を尽くし、思いを尽くし、性質を尽くされました。すべてを尽くされたのです。見てください。千万回死んで当然の罪の群れの前に、天は数多くの預言者たちを送られました。しかし人間は彼らをすべて殺してしまいました。彼らが死ぬとき、天の心情はいかばかりだったでしょうか? 死んでいく彼ら以上に、何千万倍もの苦痛を感じられ、天におられる千万の聖徒たちと共に慟哭されたのです。私たちは、このような惨憺たる歴史の骨の山が、歴史の道を穢したということを知らなければなりません。このように善なる群れが倒れるたびに、神様は涙の峠を越えなければならなかったことも、また知らなければなりません。


今日、キリスト教徒がこの程度残ったのは、この地で祈る人たちがいたからではありません。決して違います。今日この国がこれほどの形を整えているのは、この時代に生きている人々が立派だったからだと思いますか? 違います。私たちが知らない間に、天の前に肥料となっていった人々がいたからこそ、今日この姿だけでも残っているのです。


このようなことを考えるとき、皆さんは「尽くしきった心情」を知らなければなりません。神様は人間に対してなすべきことをすべて尽くされたのです。すべて尽くされたのです。見てください、どれほど切に願ってこられたのか。モーセを立てて摂理してこられることに、どれほど切に思ってこられたのか。できそこないのイスラエル民族を連れて歩まれることに、どれほどご苦労されたのか。しかし彼らは挨拶もなしに裏切ってしまいました。報告もせずに裏切ったのです。相談もなく裏切った先祖たちであったということを、私たちは知らなければなりません。人間と相談することもできず、人間の報告も受けられない立場にいらっしゃる天が、どれほどお辛かったか。それでも人間を手放すことはできません。なぜなら、父母の立場であり、人間を創られた責任があるからです。


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皆さん、神様が心を尽くし、思いを尽くし、性質を尽くされたその苦労に対して、皆さんはその代価を支払うことができるでしょうか? できません。できないのです。皆さんの身体を供え物として焼いたとしても、その代価を支払うことはできないというのです。今日までの摂理の路程において、数多くの先祖たちが犠牲になったけれども、それでも成し遂げられなかったことを見ると、それは容易なことではないということです。


だからこそ、天の心情を抱いたある存在が必ず人間の前に現れなければならないということを、私たちは切実に感じなければなりません。そのような時が来たというのです。


では、私たちはどうすべきか? 神様は人間の前に心を尽くし、誠を尽くし、思いを尽くして来られましたが、何一つしたことのない私たちはどうすべきでしょうか? 頭を下げて父なる神を思う時、胸が張り裂け、涙が目を覆うようなその心情ひとつあればよいのです。「父の命令であれば、何でもできます」と言えるような心情を持った者になってこそ、懐かしんで訪ねて来られる神様の前で顔を上げてお会いすることができるのです。


世の中にも、自分の息子娘が死んでいく時に正気を失う人が多いでしょう。天もそのような過程を通ってこられました。ですから、天を懐かしみ、自分のすべてを失うことがあっても天に向かって進むことができ、天を懐かしんであえぐ人がいるならば、その人は滅びることはないでしょう。絶対に滅びないのです。


しかし今は、懐かしんでも会えない時です。なぜなら、約束の日が来る前に裁きの日が来ると言われているからです。だから神様はその日を待ち望みながら人類を抱いて摂理されているのです。天はこのように6千年という長い歳月の間、摂理してこられたのに、いまだ懐かしむ人間を抱いて生活してみたことがありません。「私は父の息子娘であり、また私たちに祝福を下さるので感謝します。神様、いつも共にいてくださり感謝します」と言いますが、それは万に一つも通用しない言葉です。神様は歴史の中で、懐かしむ息子娘を集めて共に暮らしたことが一度もないのです。だから、その胸に多くの苦しみを抱えながらも、息子娘を探して、その息子娘を中心に天地万物が喜び動けるその一時を見つめながら忍耐して来られたのが、神様の6千年の摂理歴史なのです。6千年の摂理歴史。


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皆さん、祈ってみてください。祈れば祈るほど涙が前を遮ります。父の前に近づけば近づくほど、悲しみと慟哭が起こるのです。このような段階を越えて、父を思うだけで踊り出したくなるほどにならなければならないのに、まだそうなってはいません。だから皆さんは、いまだ神様が懐かしまれる歴史的条件に引っかかっており、時代的条件にも引っかかっているのです。ですから、希望の条件を持たない皆さんは、今こそ天と私との間にある「懐かしみの条件」を清算しなければならない時が来たということを知らなければなりません。そしてそのあとは、何をすべきか? 天の家族として入籍できる日を懐かしむべきです。懐かしむことにおいて、皆さん一人だけが懐かしんでいてはなりません。全世界人類が懐かしまなければなりません。全世界人類が懐かしむべきです、全世界人類が。


ここに集まった皆さん、皆さん自身が貴い以上に他の人も貴いのです。皆さんは何かの因縁があって互いに出会ったのです。その因縁は自分を中心にした因縁ではありません。ある因縁によって出会った私たちは、今日ここにとどまっていてはなりません。この因縁を広げて広げて、世界にまでつなげ、神様が懐かしんでおられるものを実現させ、神様がこの世界と共に生きられる基準にまでつなげなければなりません。そのような責任が私たちにあるのです。だからこそ、皆さんは自分のために生きてはなりません。今は世界のために生きる時であり、神様のために生きる時なのです。自分のために生きる時ではありません。


神様が願われるのは、失われたエデンの真の家庭です。その真の家庭に立てられる真の父母、真の父母の前に立てられる真の夫婦、真の夫婦が愛することのできる真の子女がいる家庭が、神様が共にありたいと願われる天の家庭であるということを、皆さんは知らなければなりません。このような家庭が現れれば、その時にはイエスも兄弟のように共に喜ぶことができるでしょう。そのような家庭が現れなければなりません。


ですから私たちは、そのような場所に向かって進んでいるのです。したがって皆さん一人ひとりが、民族のために、世界のために、天のために、天の心情に対して心を尽くし、思いを尽くし、誠を尽くしてきたかを考えてみなければなりません。心を尽くし、思いを尽くし、誠を尽くしたか、これが最も大きな問題です。天はそうしてこられました。子を愛する以上に、自分を愛する以上に天のために尽くす人は天国に行くと言われました。そこで何を見せようとされたか分かりますか? 神様が人間を創られた時に感じられた感情を、二次的に人間が実体的な刺激を受けて「おお、創造された父が私たちをこのように愛してくださったのだな」と認識できるようにするためです。


今日の私たちは、宇宙的な愛のために生まれたのであって、個人的な愛のために生まれたのではありません。皆さんが好きなものには、どうにかしてでも神様を介入させ、好きなものにはどうにかしてでも世界を介入させなければなりません。皆さんが出世しようとするのも、自分に世界を介入させるためであり、自分に神様を介入させるためなのです。そうではありませんか? 私たちの家庭に世界を介入させ、神様が「良い」と言われることができれば、それ以上望むことがありますか? ありません。神様が「あなたと共に住もう」と言われるなら、それは最大の勝利です。


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神様が私の父であり、私がその父の息子娘になれば、天地宇宙がすべて私のものになるのであって、特別なことは何もありません。それが人間の最高の欲望です。そのようにするためには、心情的な世界の因縁を経なければなりません。そうしなければ絶対にできません。神様はそのような目的の下、6千年の間、人類を見守りながら「いつになれば真の人間になるのか、いつになれば天の家族になるのか、いつになれば天の民族となり、いつになれば天の世界を築くのか」と懐かしみながら来られたのです。こうして神様がキリスト教を基盤として全人類と共に生きられる日が来ることを望まれてきたことが、これまで戦い抜いてこられた目的であり、それが神様が歴史を通して歩まれた目的であるということを、私たちははっきりと知らなければなりません。




<祈祷>


道端に倒れた一人の乞食の死体を見て、その乞食にもかつては彼を産み、愛した親がいたということを悟らせてください。また、何かの因縁の中で、誰かの慕う対象でもあり、あるいは子の立場から懐かしむ対象でもあっただろうという思いを持って、その人を見ることができるようにさせてください。


私たちが行くすべての場所で、留まるすべての場所で、向き合うすべての場所で、そのような心情を持って行動するとするならば、そのような心情によって混乱したこの世界が、神様が共におられることができる場所であると知ることができるように許してください。


自分を中心として「知っている」という立場に立つのではなく、何であれ天との因縁を中心として「知っている」と言える心を持った息子娘となるよう導いてくださいますように、父なる神様、心から願い求めます。


父なる神様が共におられたいと願われる場所は、心情によって結ばれ、兄弟でない者を兄弟以上に愛し、親でない者を親として迎えて親以上の孝行をし、責任者でない者を責任者として迎えて誰よりも敬うそのような場所であることを私たちは知っておりますので、そのような標準のもとで生活し、行動し、そのような理念に燃えて目的地に向かって開拓の勇士として、戦いの代表者として、今日も明日も休まず進んでいける天の息子娘たちとなるようにしてくださいますよう、心より願い求めます。


24


いまや私たちは知りましたので、父の息子娘になろうとする心情を持ち、誰にも負けないという心を抱き、民族を愛し、国家を愛し、世界を愛し、世界のために働いておられる天の聖三位一体と、その下にある千万の聖徒、天軍・天使に至るまで愛する心が燃え上がるように御働きください。それによって彼らと共に歌い、彼らと共に応じ、調和できる天の息子娘たちを、父はどれほど懐かしく思っておられるかを知ることができるように許してください。


今日この者たちが心で感じたものがあるとするならば、そのような標準のもとで天と因縁を結ばせてくださり、この地上にそのような勝利の一つの足場を築くために、すべてを深刻に分析して立ち上がることができるように許してください。そしてそれのために努力するようにしてくださいますよう、心から願い求めます。


お父様、すべてをお引き受けください。主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。


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文鮮明先生 御言葉選集 8-4

2025年03月29日 17時03分50秒 | 学習
文鮮明先生御言選集 8 - 4. 神様のものを作ろう (1959年11月8日)
1959年11月8日(日曜日)、前本部教会。
エペソ人への手紙 4:1-6

1
<祈祷>
今日、私たちは再び父なる神の憐れみを願いながら、ここにひざまずいておりますが、天の前には誇るべきものが何一つない、足りない姿でありますので、どうかお許しくださいませ。


願わくば、この一時間、私たちが自らの命を中心として、過去と現在と未来において、天の前に認められる勝利の条件を立てることができるように、どうか働きかけてくださいませ。父なる神ご自身が私たちの中に臨まれ、私たちを父のものとして信じられるような、この時間となるようお許しくださいませ。ここに集まったそれぞれの心情や事情は異なるかもしれませんが、同じ理念を目指して進むべき運命であることを私たちは知っております。過去と現在の状況は違っても、天を対する立場は同じであることを私たちは知っております。


死の線を越えて、本来の命の世界を探し求めなければならない私たちでありますゆえ、ここには誇れる者もなく、お父様の前に自慢できる者もいないことを私たちは知っております。未だに勝利の基盤を整えられていない不足な私たちでありますから、ただ父の憐れみを願います。どうかこの時間に働きかけてくださいますよう、切に願い望みます。


お父様、二千年前にこの地に来られたイエス様は、ご自身の胸を開いて弟子たちを愛したいと願われましたが、そうすることができずに去っていかれました。誰に対しても父の心情を詳しく打ち明けることができず、天の事情を十分に語り尽くせないまま行かれたことを私たちは知っております。「あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、今は耐えられないだろう」と憂慮されたイエス様の心情を、私たちに悟らせてくださいませ。もし私たちが天を仰ぎ、その国の栄光を望む心があるならば、それよりも大切なのは、イエスの心情を自らのものとし、イエスの体に代わって前に立つことであります。


悲しみがあるとすれば、それは天の心を代弁できる人がいないこと、天の体に代わり悪なる世界と戦える人がいないことを私たちは知っております。お父様、今日この時間まで、私たちの体と心は父を知らずに過ごしてまいりましたが、そのような状態では御旨を成就することはできませんので、父よ、私たちの心を根本的に屈服させてくださいませ。私たちの体を打ってでも、私たちの心が天の性質と調和するようにしてくださり、本然の心情を持って来られたイエスの心に似ることができますように許してくださいませ。本然の心情の前にへりくだり、恨(ハン)多き十字架の道を越えていかれたイエス様のように、私たちもすべてを捨てて天に従っていけるよう、導いてくださいますよう、切に願い望みます。


2


私たちの心は天のためだと語ってきましたし、私たちの体も天に仕えると言ってきましたが、本当に父なる神が愛することができ、神が掴んで共に暮らせる時間をどれほど持てたのかを考えるときに、足りない私たちであることを認めざるを得ません。父なる神の恨(ハン)を私たちが心深く悟り、罪悪の鎖を断ち切って勝利した姿で父の前に栄光をお返しできる、あなたの息子娘として生まれ変わらせてくださいますよう切に願い、また望みます。


歴史が衰退し、時代が滅んでいくとしても、神様は御言葉をもって人の心を通して人生の問題を解決するように訓戒されてきたことを私たちは知っております。このような本心に向き合おうとする心を持つ人がいるならば、その人は天心を備えて天倫の御旨を受け継ぎ、人類に生命の基盤を残さなければならないことを知っております。これまで感じてきたどのような観念や主義、あるいは自己中心のものや、どのような固執した基準も持たないようにお許しくださり、すべてを捧げますので、父よ、御旨のままになさってくださいませ。


お父様、いま何の言葉を申し上げましょうか。多くの言葉を語ってまいりました。ここにいる人々も多くの言葉を聞き、多くを知っています。この人々は天の深いところまで体験しております。今、この人々が切実に待ち望むことは何でしょうか。最後の決定的な闘いに勝利することだけが問題ですので、この時間、勝利の息子娘として導いてくださることを切に願い、また望みます。


伝える者の心と受ける者の心に隔たりがないようにしてくださいませ。天が動けば私たちも動き、天が静まれば私たちも静まり、天が悲しまれるなら私たちも悲しみ、本然の心情に到達できる、この一時間となることを切に願い、また望みます。孤独な心情を抱いて祈る息子娘たちと共にいてくださり、一律の恩恵で守ってくださいませ。


すべてを委ねますので、最後まで主管してくださいませ。主の御名によってお祈りいたしました。アーメン。




3


<御言葉>


私たちは、それぞれ異なる事情を抱えています。また、それぞれ状況も違い、お互いに異なった生活をしています。そのようにしながら、それぞれが自分自身をより尊重しながら過去を整理し、現在を切り拓いています。「私」という存在は、過去と現在、さらに未来において新しい何かの中心になるための意図のもとで動いているということを、皆さんは今までの人生路程の中でよく体験してきたことと思います。


自分を尊重する心が高ければ高いほど、より高い段階である社会を眺めるようになり、国家を眺めるようになり、さらには世界を眺めるようになるのです。自分を高めようとする心が大きければ大きいほど、より広い範囲に拡大してその価値を打ち立てるために苦労し、また今まで苦労してきたという事実を否定することはできません。


私たちが目を開いて見るならば、万物があり、国家があり、社会があり、兄弟や親戚がいます。ここで自分の価値を確定し、部分から全体に至るまでその縁の中心になろうとするならば、自分を迎え入れようとする天地があることを知らなければなりません。皆さんはよくわかっていませんが、自分を迎え入れようとするこの民族、この国家があり、さらに進んでは世界があるということを知らなければなりません。しかし人々はよく自分を中心として、この国家が自分を迎えてくれることを願い、この世界が自分を迎えてくれることを願い、天地が自分を迎えてくれることを願っています。それこそが、天を裏切った堕落の子孫、天倫を背いた背反者の子孫が向かう方向なのです。しかし天倫はそれとは逆になっています。


歴史路程に現れては去ったすべての聖賢たちは、その時代のために生きて去ったのではなく、来るべき時代のために生きて去りました。このことを私たちは否定することができません。どのような哲人や道の主であれ、その時代だけのために生きた人はいないということです。心に何か計画や願望や理念を持っている人がいるでしょうか。良いでしょう。そうであれば自分が持っているそれを全体の前に現そうとする欲望を持って動いたとしても、それが現実にそのまま実現されるのかということです。その願望や理念は自分自身が責任を持って解決し、成就しなければなりません。その場所こそが皆さんが留まるべき場所であり、縁を結ぶべき場所であり、見つめるべき場所なのです。願望の園はそのようなところですが、その願望と理念は私のものではないということを私たちは知らなければなりません。それを自分のものだと考えて動く者は歴史が立てないでしょう。自分のものだと言って争う者は、ある時に嘆きながら倒れるでしょう。


民族のために志を抱いた者、民族と共に志を成した者は、その民族が滅びる時に共に滅びるでしょう。また、何らかの思想や主義を主張する者も同じです。自分の理念が成就され、その時代が来たと喜ぶことができるかもしれませんが、天倫の新しい何かが現れる時には、その前で折れてしまいます。これが歴史の姿であることを知らなければなりません。私たちはこのような路程を歩んできて、また歩んでいるのです。そうであるならば、このような環境に置かれた私たちは、どのようにすべきでしょうか。驚くべき何かを提示し主張する人がいるとしても、天倫のすべてを包含し享受できる何か、自分自身を実証できる何かを持っていないとすれば、大声で語ることはできないということをまず知っておくべきです。それは運命的とも言えるでしょうし、寂しい立場とも言えるでしょうが、そのようになってきたのです。


4


では、なぜそのようになってきたのでしょうか。今まで、この地上の存在物は目的の位置に立つことができなかったからです。この地上に存在するすべてのものと天地が一致して、その価値が正しいと認める人、またそのように認められた人がいないということです。そのような存在物がいないということを私たちは知らなければなりません。


言い換えれば、この存在物を創った主人公(神様)でさえ、歴史以来今日まで、これを自分のものだと言われたことがないということです。人間の堕落によって、創造主ご自身が造られた万物さえも、自分のものとして扱うことができなくなりました。そのために万物が嘆いているのです。人間が堕落したことによって、人間自身も嘆いています。人間が嘆いているのはもちろん、万物が嘆いており、さらには創造の主人公である、すなわち善の主体としておられるその本体(神様)さえも、悲しんでおられるという事実を私たちは知っています。


このように、悲しみを抱えた地であり、悲しみを抱えざるを得ない人間であり、悲しい心情を感じざるを得ない天(神様)であります。このような悲しみの立場で計画したその計画が、天上を突き抜けて、果たして天を喜ばせることができるでしょうか。したがって、人間が天に捧げる喜びの動機を起こすことができる供え物を持たない限り、悲しみの歴史は続くのです。


いまだに理念の主体であられる神様を見いだせていないため、歴史上どのような主義や理念であっても、「人類はこういう路程を行くべきだ」と、確実に提示できなかったということです。そうではありませんか?ですから、人類は神様を見いだすその日まで苦労しながら進んでいるのです。どんなに優れていようとも、どのようであろうとも、その日が来るまで、人間は繰り返し、また繰り返し回り続けるのです。


それゆえ天は漠然と「人は自分自身のために生きるな」と教えられました。自分のために生きるのではなく、民族のために、国家のために、人類のために生きよと教えてくださったのです。思想の流れが変化するにつれて、現代に至っては「この地球のために生きよ」という倫理道徳まで現れました。しかし、それで完結するのではなく、さらに別の何かが現れなければならないのです。


5


善を説き教えてきた指導者、あるいは良心家たちは、天倫との縁を結ぶための道を人間の前に示してきました。また、神様を仰ぎ見て出てきました。その神様に向かう道においては、権力をはじめとする一切のものを断ち切って出てきたのです。これがキリスト教の精神であり、あらゆる道の精神となっています。そのため道を進む人々は人生の路程において落伍者のように歩んできました。踏みにじられ、押され、追われながら20世紀までやってきたのです。


このように追いやられてきた人々に対して、天は解放の日、一時の喜びを与えることができないまま、人間は今もなお、その日を目指して進んでいる過程に留まっているということを私たちは否定できません。なぜそうでしょうか?それは、天が地上で万物を前にし、この地上の歴史を前にし、未来を前にし、天上界を前にして「私のものだ」と言える一人の人を、まだ見つけられていないからです。その一人を中心として世界を「私のものだ」と言え、その人を中心として霊界を「私のものだ」と言え、その人を中心として地上と全ての万物を「私のものだ」と言える神様になれていないためだということを、皆さんは知らなければなりません。現状はそのようになっているのです。


そのため、どんなに優秀な人であっても、その理念が目指す最高の目的地には至っていません。皆さんは、その理念の目的や価値的な縁を結べていないのです。その目的が果たされる日こそが、人間が喜ぶことができる日なのです。


では、その目的と価値を成し遂げる存在とはどのような存在でしょうか?生命の源泉である神様が永遠であられるように、全体の中心として地上に立つことのできる存在であることに間違いありません。しかし、そのような存在が歴史以来現れていないということです。そのため、多くの先祖たちから今日の私たちに至るまで、そのような存在を探し求めて動いているということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。


皆さん、自ら条件を立てて、もう一度自分自身を批判してみてください。最高の善の主体である天がいるとしたならば、その善の主体が、皆さんが良いと思っている物を見て「おお、これは本当に良いものだ」と言えるでしょうか?言えません。「お父様!」と呼ぶとき、「そうだ、愛する息子よ、娘よ。お前たちは真に愛する私の息子であり娘である」と言える立場になっていないということです。地上の人間がいくら豪華絢爛な立場で誇ったとしても、「そうだ、実に良い」と言える縁を、一度も結べていない神様であることを皆さんは知らなければなりません。


6


人間が願う善、平和、自由、そのすべてが、天が永遠に喜べる善であり、平和であり、自由なのかと問い詰めるならば、皆さんが計画していること、皆さんが享受している平和も、ある時には蹂躙されなければならないということをはっきりと知らなければなりません。そのような理由から、どれほど良い理念があるとしても、その理念が本当に天から来たものなのかが問題になるのです。


時代を代表する理念は過ぎ去ります。一世紀を代表する主義も過ぎ去ります。しかし、天倫的なものは残ります。このように天倫は循環しています。世界を動かしたどんな偉大な革命家がいたとしても、その人はその時代と共に去ってしまうのです。


それでは、太陽系をはじめとする大宇宙の歴史が始まって以来、天がその理念と共に動き、その理念と共にすべてを抱擁することのできる一時はいつ訪れるのでしょうか?そのような時が必ず来なければなりません。人間もそのような時を願っており、天もまたそのような時を願っておられます。そのような時を迎えなければならない人間であるため、天は法を立てて導いて来られ、その一時を約束してこられたのです。その一時こそが終わりの日であり、審判の日なのです。


その時になれば、私が持っている善の理念も流れ去るでしょうし、私が暮らしている環境も踏みにじられるでしょう。今日私が持っている観念やすべてのものは、天上から認められないでしょう。このような立場であるがゆえに、道の世界は現実を否定して立ち上がっているのです。


それゆえに、志を抱いた者たちの中で、世の中とともに享楽を味わいながらその志を成そうとした人はいません。彼らは家庭で追われ、国家から追われ、社会から追われ、その時代の思想から追われ、ついにはその土地に生きる人々によって死の場にまで追いやられました。彼らはそのように露のように消えていきましたが、彼らが生き、彼らが守り、彼らが主張した天倫は残りました。その天倫が歴史を整理し導いてきたため、時代が過ぎ去った後にもその人々は尊ばれるのです。


7


神様は口で語り、頭で考えることができる愛を善そのものとして地上に立てましたが、人間が善でない立場に堕落したため、かえって悲しむようになったのです。神様が人間をエデンの園に創られ、「極めて良かった」と言われました。しかし、皆さんの身体は現在善でしょうか?善に向かって動こうとする皆さんの心でさえ、善ではない立場に落ちています。理念を中心として成り立った家庭が善でしょうか?違います。家庭を中心として成り立った国家、国家を中心として成り立った世界が善でしょうか?そうではありません。それは皆さんもよく分かっています。望んでいる宇宙を開拓すべき私自身は、どのように進むべきでしょうか?これは非常に大きく、重大な問題です。志を抱く者は命をかけてこの問題と闘わなければなりません。


人間がこの地上に自分の名を残し、何か絶対的な価値や縁を結ぼうとする目的は何でしょうか?私たちは自分のものを探しています。私が楽しんで生きられる世界、私が安息できる国、すべてを忘れて歌えるその日を待ち望んでいるのに、「私の姿はなぜこのようなのか?」と嘆くしかない立場です。私たちは大宇宙と共に価値あるものを歌いたく、困難を取り除き楽しみたいと思っています。その理念が実現される日が来るのか、それともこのまま終わるのかということが大きな問題です。希望と理念が高ければ高いほど、その価値が環境的にも高くなることを人間は願っています。


滅びることを望む個人がどこにいますか?どの家庭、どの社会、どの国家が滅びを望むでしょうか?滅びゆく国家があれば、天を仰いで「神様、この国家を救ってください」と祈らない民族がどこにありますか?地を叩いて訴える人がいたとしても、なぜ天はそれを認めてくださらないのでしょうか?それは天が認めることができる地になっていないからです。


天の前に精誠を捧げれば、私が滅びたいと思っても滅びない理由はどこにあるでしょうか?神様はご自分のために存在するのではなく、世界と天地のために存在しておられる方だからです。天地に神様の理念が成就するその一時を基準として歴史を導いてこられたため、個人や民族にどのような曲折があったとしても、その曲折を認めず乗り越え、今日の世界的基準まで導いてこられたのです。


今や民主主義と共産主義が対決しています。この中で本当に神を信じる人がいるとするならば、その人は「神様よ!私たちを供え物としてお使いください」と叫ぶでしょう。神を知らない人であったとしても、良心を持った人ならば「この志を成就させてください」と何かを願っています。いつかはその志が成就されるでしょう。私たちは神様が全知全能であることを知っています。神様は、人間が計画するどのような計画、人間が構想するどのような構想、そのすべてを超越して、ご自分のペースを崩さず堂々と処理してこられると見るのです。


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それでは、今日この地上に存在する主義や思想が、果たして天性(天倫)と通じているかどうかが問題です。この世界に天と地を包含できる何かが現れるならば、天と地は通じ合い、天と地と私たちの心が結合できるでしょう。そのような全体の価値と全体の目的を繋ぎ、心に一大革命を起こすことができる内容とは何でしょうか?私たちは、今までの歴史の中でそれを見出すことができませんでした。このような立場に置かれている今日、この時代の青年男女は総決起すべきなのです。


神様は全能であるのに、なぜこのように悪く流れている地上を見ているだけなのでしょうか?ここには深い事情があります。皆さんが創造原理で学んで知っている通り、自分が創造しなかったものは主管できず、たとえ自分が創造したとしても、理想的な完成の基準を立てるまでは直接干渉することはできないのです。この世界を人間同士で解決しようとしていますが、「人間同士では無理ですから、天よ助けてください!」と叫ぶ時が来るというのです。


今日、共産主義がどうこう言いながら、天はいないと言ってきましたが、億万年そうしてみなさいというのです。すべてが自分たちの思い通りになると思っていますが、そうはいきません。「人間の力ではどうにもなりませんので、天よ助けてください!」と言わざるを得ない歴史的な瞬間が必ずやって来るのです。そのような時が来るため、国家的な形態も、民族的な形態も、家庭的な形態も、個人的な形態も、そのようになるのです。


どんな主義や思想を主張する人も、生きてみれば悲しみばかりです。どれほど良く信じ、どれほど素晴らしいとしても、誇れるものは何もありません。そのような世界が皆さんの目前に迫っていることを知らなければなりません。これからやって来る世界、「天よ、聞いてください!」という時を私たちは決して避けられません。その時はいつでしょうか?個人として、教団として、また国家として苦痛を受ける世界が次第に目前に迫っています。「天よ、私たちを助けてください」と叫ぶその時では、すでに遅いのです。


もし天が存在するならば、この歴史を新たな方向へと追い込み、物質主義の最先端に立つ人類を追いやって、すべてを分裂させるでしょう。見てください。互いが互いを信じられない世の中です。自分の家庭さえも信じられない世の中です。個人主義の極みに立っているのです。外的な環境は良さそうに見えても、自分一人を自分の思う通りにできません。そうした環境でぶつかりながら進もうとするのですから、先が見えません。そのような時が訪れるだろうと私は見ています。


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だから心の自由がありません。これが善だと思いますが、実際は善ではありません。安息の場ではないのです。「ああ、これが幸福の場所だな」と言えるものがありません。また、自分の心情を理解できるものがありません。昔の聖徒たちが死を前にして嘆いたように、「おお天よ、私を守ってください!」と叫ぶ時がやって来ます。そのような時が必ず訪れるのです。世界はそのような時を迎えます。しかしその時には既に遅いのです。私がどれほど行きたくても行けない時が訪れます。当然私がやらなければならないことでもできなくなる時が来ます。その時はもう遅いのです。


なぜそうなのか?天は人間が生まれる以前から存在され、人間が生まれたその日から人間との縁を結ばなかった時はありませんでした。悪い人間は悪い人間によって処断させ、悪い民族は悪い民族によって処断させてきました。人類が誕生してから今まで、神様が縁を結ばなかった時はないのです。それゆえに、神様が一大事を行うときには、その縁を否定したり、縁を無視したりしては絶対に働かれません。単なる堕落した人間たちですら新しいことを行うときには過去の縁を尊重し、それを清算して動くのに、ましてや人間と深い縁を結び、その縁の主体となられる神様が、人間を無視して働かれることがあるでしょうか?


そのために、神様は先祖を通じて、時代ごとに多くの人々を犠牲の供え物として捧げてこられました。人間は縁を裏切ることはあっても、天はその縁を条件として、先知者(預言者)をその時代の前に立てられました。追放され殺されても、また新たに立てられて、その働きを継続してこられました。そのようにして個人から家庭を経て、民族を経て世界まで導かれてきました。世界的な終末が近づけば近づくほど、天と最大の縁を結ばなければならない時が近づいてくるのは間違いありません。


では、そのような時が来るとき、私たちはどうすればよいのでしょうか? 天的な縁とは何であるかを深く探求し、分別できる人にならなければなりません。私が神様のものとなり、私が世界のものとなり、私によって神様が喜び、私によって世界が喜び、私が喜ぶことにより天が喜び、天と地が一体となって応えるその喜び、それこそが目的なのです。皆さんの目的もそうでしょう?


野望を抱いた人は、世界を自分の手に収めて揺り動かしたいと思います。ある立派な政治家がいるならば、その人を捕まえて望みを尋ねるとき、この世界を自分の思うままに揺さぶり、世界が自分の手の中で動き、神様さえも動かし、天と地のすべてが自分の望むまま動いてほしいと願うでしょう。このような欲望を実現した人は、これまでにはいませんでしたが、将来的には現れるでしょう。思考では可能かもしれませんが、実際に世界を完全に掌握し支配した人はまだいません。なぜなら世界は心によって支配されるからです。どんなに尊い人であっても、人の心の世界までは支配できません。


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人間は天が喜び、被造世界全体が喜ぶことのできる何かになりたいのです。外的な面ではそのような欲望を成就できたとしても、心の世界は支配できません。ですから物質文明の最先端にいる今日であっても、人生の根本的な問題は解決されていないという結論になるのです。そのため、宗教を立てて人間の内的な問題を収拾してきましたし、科学を立てて外的な問題を収拾してきました。このように宗教、哲学、科学がそれぞれの分野に分かれてきましたが、いつかは一つに出会わなければならないのです。その出会いのためには、主人(神様)を中心として出会わなければならないということなのです。


そのため、これから偉大な哲学者が現れるとすれば、天と地を代表して神様を証明することができなければならず、どんな科学者が現れるとしても、神様がなぜ私たちの心を支配できていないのかを科学的に説明できなければならず、宗教家がいるならば心情的に天と地を動かし、さらには霊界までも動かせなければならないのです。このことが実証され、正しいと認められるその時が来れば、世界はすべてが通じるようになるのです。そうではないでしょうか?


神様がいらっしゃるとするならば、その理念とは一体何でしょうか? 今まではそれを知ることができなかったのです。これまでの人間の欲望は何だったのでしょうか? この世界を自分の手に握り、自分の思いのままに操ってみたい、自由な世界を旅行しながら素晴らしく生きたいというのが、地上に生きる大多数の人間の理想でした。しかし、その立場に立ってみてください。心はさらに高い何かを再び願うようになるでしょう。


人間が生活しているこの世界を否定することはできず、また心的な基準を否定できないがゆえに、歴史の過程で宗教が多くの貢献をしてきました。わかりますか?そのような理由で、最後には私を中心として宗教と哲学と科学が神様と相まみえ、「私たちは一つの目的であり、一つの存在だったのですね」と互いに手を握り合って泣けるような日が、この地上に必ず訪れなければならないのです。私の心と体、そして心情で、私たちは神様の兄弟であり、神様の息子娘であるという事実を感じられるその瞬間を迎えることができたならば、それを基盤として、人間世界には最大の安息の園が実現されることを論理的に考えることができます。


このように考えるとき、皆さん、天倫(天の法則)があるとしても人間がいなければ何の意味もありません。宗教があるとしても人間がいなければ何の意味もありません。いかに世界主義があるとしても人間がいなければ何の意味もありません。人間の目的とは何でしょうか?それは私の価値を認めてもらうことです。その認められるというのは、世界からだけでもなく、天地からだけでもありません。神様にまで認めてもらわなければなりません。それでは、神様の何によって認められるべきでしょうか?神様の言葉によって認められるのではなく、神様の愛によって認められなければならないのです。これが人間の最大の願いなのです。


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私たちが最大の価値だと思っているそれが、実は真に価値あるものではありません。天の前で愛によって認められるその一つの姿を、私たちの心が切望しているがゆえに、そのようにならない限りは何の意味もないのです。ですから天は人間を愛してこられたのです。誰かがこの地を支配するとしても、最終的には神様の願われる圏内に入らなければなりません。最後には神様と相まみえ、その心情の中に入り、「おお、神なる父よ! 神様と私は切っても切れない父子の関係です」と言えるようにならなければならないのです。そのような天国を見いだすその日まで、人間が苦しみながらさまようことは間違いありません。


今日の唯物論者たちは難関に直面しています。理念や意識だけでは世界をひっくり返すことはできないのです。この世界を動かすためには意識だけでなく、心の革命がなされなければなりません。さらには天の心情に通じなければなりません。皆さん、それこそが人生の目的地です。だからこそ天を見いだすその日まで苦労し続けなければならないのです。


それでは、私たちが「道」を求めるならば、どのような道を求めるべきでしょうか?それは論理的な道や良心的な道を超えて、心情的な道を求めるべきです。キリスト教はまさにこれを携えて現れました。イエス様は「私は神の子である」と言われ、「父は私の中におられ、私は父の中にいる」と言われました。これは親と子の関係を語られたのです。それこそが目的なのです。天地万物を主管してこられたその父の前に息子娘として認められ、天上天下にその名前が公認されることこそが、人間が願う最高の目的なのです。それが人類の目的なのです。


それでは、その日をどのように見いだしていくべきでしょうか? 自分一人だけの力では見いだすことができないのです。なぜでしょうか?それは人間が堕落してしまったからです。皆さん、そのことを知らなければなりません。全知全能で愛なる神様が、なぜ長い歴史の過程で愛の心情をもって現れることができなかったのでしょうか?皆さんは原理で再創造の歴史を学んだことでしょう。元の状態に戻って来られます。失ってしまったので、失ったものを再び取り戻さなければならないのです。


人間を小宇宙だと表現しました。体は地を象徴し、心は理念を象徴し、霊は天を象徴します。失われた人間を取り戻すための今日までの闘争の歴史は、まず体を象徴する「土地」を奪い合う戦いでした。次に心を象徴する「思想」を奪い合う争いでした。そのようにしてきました。では、残るものは何でしょうか?それは「心情」を奪い合う歴史です。これが宗教戦争なのです。皆さん、はっきり知らなければなりません。それが本当にそうなるかどうかをよく見ていてください。


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このようにして心情の基準が立てば、心の世界と物質の世界は自動的に解決されます。愛の心情を持った親は、心が子供に向かっているため、自然と万物を愛するようになるのです。理解できますか? いくら与えてはいけないと言われても、心が与えてしまうのです。どんなに惜しい物であっても、息子のためには売り払います。「息子は後回しで、まず自分が生きなければ」とは言いません。そのような基準が人間一人一人の心情に浸透し、愛の心情でこの世界を眺められるようになれば、万物は自ずと頭を下げるようになるのです。親を失い、親の愛を知らなかった人が親の懐に抱かれ、親の愛を知ったその瞬間には、誰もが頭を下げざるを得ないのではないでしょうか? 万物もまた人間と共同の運命を背負い、その目的に向かって共に歩んできたのです。


ここに集まった皆さんも、それぞれ事情や縁が異なるとしても、その目的のために共に動いているということを知らなければなりません。


人間の最終的な目的は何でしょうか? 神様の前に美しく立ち、「おお、あなたは私の愛する息子よ。あなたの家庭は私が愛する家庭だ。あなたが持っている物は私が愛する物だ。あなたが暮らす土地は私が愛すべき土地だ。あなたが眺めている天地は私が愛すべき天地である」と祝福を受けることです。この問題が解決するその日にこそ、神様も安息されるのです。


今日まで人間たちは知りませんでした。天に負っている負債を知りませんでした。皆さんはこの地に生まれ、何十年かを生きている間、心から感謝したことがどれほどありましたか?ありましたか?「お父さん、お母さん、ありがとうございます。この国よ、ありがとうございます。この時間よ、ありがとうございます。この世界を動かしている天よ、ありがとうございます」と言えなければなりません。もしそのように言えないならば、神様は可哀想な神様になります。これほどまでに与えても知ることができない人間たちなのです。知ることができないならばまだ良いのですが、天を批判し、天倫を批判する群れであり、このような歴史の過程を経てきた人間であるということです。


私たちは負債を負った者です。どのような負債でしょうか?それは物質的な負債や土地の負債ではありません。神様の心を引き裂き、溶かしてしまった心の負債を負っているのです。さらには、神様の深い心情の負債を負った者たちなのです。ところが今日の人間たちは、このことを知らず、ただイエスを信じて天国へ行こうとしています。そして、「おお神様、私の悲しみをすべて受け止めてください」と言います。なんと厚かましいことでしょう。天は、厚かましさゆえに祈りもしない人を、千回祈る人よりもさらに尊く見ることでしょう。そのような心情を感じ取らなければなりません。


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天は終わりの日に私たちを訪ねてこられます。何をするために来られるのでしょうか?人間の歴史的なすべての負債を清算するために来られるのです。その清算の代価として何を望まれるのでしょうか?金銀財宝ではありません。朽ちていくこの肉体でもありません。永遠不滅の霊、すなわち内なる人(内的人間)を中心とした永遠の「私」を探し求めて来られるということを皆さんは明確に知らなければなりません。永遠なる霊的存在はもちろん、さらには堕落したこの肉体までも清算して再び祝福し、それを掴んで「そうだ、私の愛する息子よ、娘よ」と言えるその時を望んで、今日まで来られたのです。


これまで申し上げた通り、神様のものを成すために、あるいは神様のものになるために私たち信仰者は信じて歩んできました。それでは、神様はどこで私たちと出会おうとされるのでしょうか?聖書には「身体は神の聖殿である」と記されています。神様が創造された人間が万物を主管するという祝福を実現したその位置で出会おうとされることこそ、神様の創造目的だったのです。しかし、人間が堕落したため、この地上はすべて崩れ去ってしまいました。土地がすべて壊れてしまったのに、どこで出会えるでしょうか?私が神様でもそうするでしょう。


この肉体は、神様が全身全霊を込めて土くれを収め、永遠なる理念をもつ生命体、すなわち霊人体が成長できるようにつくられました。芸術品としてもこれ以上の芸術品はありません。ただ単に神様が「起き上がれ」と言われただけで作られたのではありません。最大の情熱を注いでつくられたこの肉体です。そこに霊人体を吹き込み、一人の人間を創られました。神様が主管される有形無形の世界で永遠に存在することのできるそのような形象を作って祝福されたにもかかわらず、人間は堕落してしまったのです。アダムとエバが万物を主管する祝福を成し、万物がその愛の心情の前に頭を下げることを望まれましたが、そのような位置に立つこともできず、万物まで破壊してしまったのですから、その神様は失敗の神様でなくて何でしょうか?


神様は人間を訪ねて来られます。訪ねて来られては失敗し、また訪ねて来られても会うことができず、また訪ねて来られては時を逃すという悲しい事実を皆さんは知っています。個人を訪ねて来られましたが個人を失い、家庭を希望として歴史を導いてこられました。


歴史が流れていくのは原則であるため、神様は個人を失い、家庭的な摂理をするためにどれほど苦労されたでしょうか?そうして家庭を立てて祝福しようとされましたが、それも壊れてしまい、家庭を諦めて民族を立てて歴史を導いて来られました。しかしその民族も滅びたため国家を立てました。その国家が滅びると世界を立てる必要がありましたが、今までどの時代においても、神様が「私のものだ」と言える立場を持てなかったことを知らなければなりません。


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イスラエル民族の前にイエス様を送って世界を立てようとされましたが、彼らがイエスを殺してしまったため、その国も滅び、世界も混乱に陥りました。それゆえ再び天上と地上を繋ぐ目的で来られる方が再臨主です。人間は堕落しましたが、万物を主管せよという祝福を受けているため、外的には世界全体が人間の主管下で動く形態を備えてきました。しかし人間は肉体だけで成り立っているのではなく、心と霊もあるため、この心と霊を支配できる一人の主人公がいなければなりません。その方こそ、私たちが侍るべき理念の主人公なのです。


外的にいくら立派に整えられていても、理念がなければ滅びてしまいます。外的なものには理念が結びついていなければなりません。心が世界を支配する基準でつながらなければなりません。世界の問題を解決しようとされる神様がおられるとすれば、そのような作戦を展開されるのではないでしょうか? 神様は妄想や空想のように曖昧に物事を処理されません。ひとつの微粒子さえ分析すれば、そこには無秩序なものはありません。伝統を持たないものがどこにあり、原因と内容と目的から外れているものがどこにあるでしょうか?


罪深い私たちを誰が訪ねてこられるでしょうか? 私を産んだ父ではなく、天地万物を創造された大宇宙の主体である父が訪ねてこられるのです。このことを知り、「恐れ多いことです」と感じる心情が生まれるその日から、正常な信仰の道が始まるのです。どんなにイエスをよく信じ、旧約・新約聖書に通じているとしても、訪ねてこられたその方に対し、「至らないこの子を探し求めるために、どれほど苦労されたでしょうか?」という心情を抱かなければならないのです。


個人的に訪ねてこられた神様の前でアブラハムは失敗し、民族的に訪ねてこられた神様をイスラエル民族は裏切りました。今残された問題は、世界的に再び訪ねて来られる主を、今日の私たちがどのように迎えるのかということです。訪ねて来られる主の前で、「あなたは私の願いを知っておられるので、私の願いを叶えてください」と祈る人や、「神様がどうであれ、自分さえ楽ならよい」と考える心を持つ人は、天の前で盗人であり強盗です。神様の喜びを奪い去りながらそのような信仰をする今日の信仰者たちこそ、まさにイエスを失った信仰者であり、地獄の権勢を持つ者たちです。そのような者たちは命ある群れではありません。


それでは、皆さん、私たちはどのような群れになるべきでしょうか?それは簡単です。訪ねて来られる父の前で涙を浮かべ、「恐れ多いことです」と言える群れになることです。自分に良いものがあれば、「父よ、これをお受けください。歴史の過程で悲しまれた先祖の悲しみを私が代わりに背負います」と言える人、自分の身に良い条件があるならば、「この条件を父にお捧げします。私の一生のすべても、この民族のすべても父に捧げますので、お受けください」と言って進み出ることができる人、信頼できる群れ、信頼できる民族があるならば、神様はその中に臨まざるを得ないのです。世の中の親も、優秀であれ劣っていようと、親の心情に共感し、親の悲しみを先に感じて悲しむ息子娘がいるとしたら、その子たちの前で親は骨の髄まで溶けてしまうのです。


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私たちの民族は哀れな民族です。死の海がこの民族を踏み越えて行くこの時に、私たちは何をすべきでしょうか?歴史の足跡と共に訪ねてこられる神様がいることを知り、世間との縁を断ち切り、他人から狂人と呼ばれようとも、父をお迎えすることができなければなりません。そのような心情が心の底まで染みわたらなければなりません。「自分はない」という基準を立て、父の前で恐れ多い心情で膝を屈め、涙で備えるそのような民族は、将来必ず救いを受けるのです。


神様は私たちをどれほど恋い慕われたことでしょうか? 野原に育つ一本の草を見ても、「おお草よ、お前はいつの日か、私が愛する息子のものとなり、その息子の愛を受けるだろうか」と思われたことでしょう。皆さん、世間の親たちも愛する息子を亡くし、その息子を再び愛することができなくなったとき、息子が生きていた時に持っていたすべての物を目にするたびに、どれほど深く悲しむでしょうか?死んだ人間を再び生かそうとするのが復帰の道程であり、復活の道程であり、再創造の道程なのです。


天は、この地をどれほど恋い慕われたことでしょうか。一本の草を見るだけでも「おお、草よ、お前には天の涙の跡が残っているのだな」と思われ、地を見ても「聖徒たちの血の涙が染み込んでいる地よ。血の峠を越えながら恋い慕う神の心情が宿っている地よ」と感じる心情、さらには、神が恋い慕われる万物、神が恋い慕われる人間を恋しく思い、抑えきれないほどの爆発的な心情を持つ人がいるとすれば、その人は神の息子であるに違いありません。天は、そのような人を立てて世界を救おうとされるのです。


六千年の歴史路程を経ながら、篤信の者たちを頼りにされてきた哀れな神様を感じる私たちになることができれば、私たちは神様の友となるでしょう。友の中でも、最も親しい友とはどのような友でしょうか?それは、その心の奥深くに秘められた哀れな事情や悔しくて悲しい孤独な事情を理解してあげられる人こそが、本当の友なのです。さらに加えて、人間は神の子供だと言われているのですから、子供とは、その孤独な事情を理解するだけでなく、親が死にゆくその立場までも引き受ける後継者となることを意味します。


よくよく考えてみれば、神様こそが本当に哀れな方です。最大の理念と理想を立てて万物を創造されましたが、今もなお創造目的を成し遂げられず、嘆きの心情でおられるのです。人間世界で最も哀れなのは何でしょうか?堕落した私たちの祖先でもなく、刑場で無念に殺された人でもありません。歴史上のどのような惨事で犠牲となった人でもありません。滅びてしまった国家でもありません。うねり狂う悲痛な神の心情を抱いて歩んできた人々こそが、最も哀れなのです。


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世間の人々でさえも、愛する人がいれば、その人と数ヶ月でも一緒に暮らしたいと思い、その人のためには死ぬこともいといません。ましてや私たちのお父様はどれほどであったでしょうか。神様は六千年もの間、私たちを探すために茨の道も顧みず、世間の視線も気にせず、首を斬られることさえ恐れず、個人から家庭、社会、民族、国家、世界に至るまで犠牲を払ってこられました。私たちはそのような神様を探し求める息子娘にならなければなりません。神様は、そのような歓喜の日が天地に現れることをどれほど待ち焦がれてこられたでしょうか? 神様を知り、「お父様」と呼べる一人の息子娘を、どれほど待ち焦がれておられたでしょうか? もし皆さんの中にそのような息子娘になろうとする心情がないのであれば、ここには来ないでください。


イエス様が歩まれた道は、神様を探し最大限にお迎えした道でした。ご自身が悲しみに遭う時も、かえって神様を慰めて差し上げた息子でした。世間から追われるイエス様は、過去の祖先たちから追いやられた神様がどれほど悲しまれたかを思いました。イエス様が接していた家庭から追い出される時には、「神様はどれほど悲しまれましたか。その心情をわずかでも理解いたします」と思われました。民族に追われ、十二使徒と七十門徒に裏切られたイエス様は、「私を信じて従った人々以上に、天を信じて従っていた過去の預言者たちが天を裏切った時のその心情を、あえて理解いたします。また、志を抱いて死に際しても節操を守った祖先たちの心情も理解いたします」と言われました。


しかし今日、信仰する聖徒の中に、イエス様の友となり、イエス様の相手になれる人がいるでしょうか? 神様は地上に対して六千年間も苦労して来られましたが、その苦労の報いを受けられませんでした。万物を恋い慕われ、人間を恋い慕われ、人間に祝福を与えたかったのです。愛する息子を抱いて愛したいと願われたのに、そのような日を一度たりとも迎えられなかった神様であることを、皆さんは知らなければなりません。


私たちは何をするために生まれてきたのでしょうか? 過去には知らなかったためできませんでしたが、今は知った以上、すべてを収めて神様のものとして差し上げなければなりません。「すべては父のものです」と言えるようにならなければなりません。その後で初めて、自分自身を探す運動に入るべきです。天の威信を代弁する父の息子娘であるならば、たとえ千万回死ぬことがあっても、恨(ハン)に満ちた父の心情を再び踏みにじってはならないのです。


神様の創造目的は何でしょうか? また、人類の目的は何でしょうか? それは善の主権を打ち立てて万民を統治し、個人の価値を万宇宙の価値よりもさらに尊く扱うことができる世界を建設することでした。しかし、そのような世界にはなっていません。私たちは神様のものが一つもないこの地上に暮らしています。天地がどんなに広くても、神様のものは一つもありません。ですからこの地上には信頼できるものがないのです。もし神様が真に愛せる土地が一坪でもあるならば、その土地に入る人は生きるでしょう。しかし、その一坪の土地すらありません。万物がどれほど豊かであっても、それが神様のものになっていないならば、どうすればよいのでしょうか?


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私たちが歯を食いしばって伝道する目的は、神様の息子娘、神様の所有物を作るためです。万物を神様のものにしなければなりません。しかし、世界を動かさなければならない今日のキリスト教が、このような天の最高の理念を知らずにいるのです。神様がイスラエル民族を選んで祝福されましたが、イスラエル民族はこれを避けたため滅びました。カナンの地に入ったならば何をすべきだったのでしょうか?万物に割礼を施すべきでした。三年間すべての土地を耕さず、万物を割礼する期間、つまり聖別する期間を持つべきでした。皆さんは聖書を見て知っているでしょう?サタン世界に踏みにじられた土地を清算するために塩をまいたという、そのことです。


神様のものにしようとしたカナンの地はどこに行ったのでしょうか? また、そのカナンの地に生きるべきイスラエル民族はどこへ行ったのでしょうか? 時を逃したイスラエル民族は世界を流浪することになりました。当然の結果です。


国家の三大要素とは何でしょうか? 主権と領土と国民です。ところが、神様の主権がありますか? 神様の土地がありますか?神様の民がいますか?ありません。


今や万王の王であり、万宇宙の主人である神様がこのように悲しんでおられることを知った以上、私たちはお父様をお迎えするため、自分が持っている所有物をしっかりと神様のものとして保護しなければなりません。統一の勇士たちは、それをサタンに奪われないという覚悟と節操を持たなければなりません。皆さんが持っている物を聖別してお父様のものとして扱わなければならないという意味です。皆さんの中にそのようにした人がいますか?「父よ、たとえ私が小さくても、この歴史、この世界を代表する最後の供え物としてお使いください。」このような心情で私たちに属するすべてのものをお父様のものとして立てなければなりません。そのようにした人だけが、父が訪ねて来られ、主が訪ねて来られるその日に祝福を受けるのです。


たとえサタン世界に生きているとしても、天に対する節操と志操は守らなければなりません。皆さんは、自分が育てている息子娘をお父様の子供として考えてきましたか?さらに進んで、自分や自分の相対(配偶者)を父のものと考えたことがありますか?自分の親、自分の先祖、自分の民族、自分の国をそのように考えたことがありますか? 無知な地上の人間は、天がこのような基準に向かって動いているという事実を知らずにいるのです。静かに考えてみてください。嘘でしょうか、本当でしょうか?よく考えてみれば、それが事実なのです。


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心臓から若い血潮が湧き、生きる力に溢れる青年がいるとするならば、その人は歴史の恨みを解かなければなりません。終わりの日には、この世界をお父様のものとして、この万物を父のものとして、天と地を父の善なる主権内に帰属させることができるような、何らかの民族主義あるいは世界主義、さらには天宙主義が現れなければなりません。


「神様、私に力をください。あなたの恨みを私が解いて差し上げますから、私に力をください」と、六千年の悲痛な歴史を背負い、この天宙をお父様のものとして打ち立てるために祈る息子娘がいるとするならば、神様は「こら、お前は罰を受けるぞ」と言われるでしょうか?むしろ喜ばれるでしょう。そのため、民族を超え、国境を超えて、世界に広がる二十七億の人類を父の民として立てるために、骨の髄が溶けるその日まで闘わなければなりません。数多くのサタンまでもが自然に父の前に屈服する日まで、私たちは闘わなければならないのです。そのような息子娘になるために、私たちはここに集まったということを知らなければなりません。


私たちは父の悲しみを解放するために呼ばれました。お父様の目的の世界を成就するために私たちは生まれました。お父様が誇れる私自身の価値を立てるために生まれました。悲痛なこの民族の一員として生まれたことは哀れなことかもしれませんが、歴史的に見て、天から祝福される立場に立ったならば、私とこの民族は世界を支配することになるでしょう。この地はお父様の地であり、天の涙が宿っている地です。この民族には天の涙が宿っています。私たちは自分自身の哀れな境遇と環境を忘れ、自分自身に降りかかる苦痛を忘れ、代表的な祭壇となり、先鋒者の責任を果たす天の勇士にならなければなりません。そのような人が必要なのです。


私たちに属するすべてのものをお父様のものとして引き渡し、「私たちのすべてはお父様のものであり、私にある息子もお父様の息子でありますから、お父様よ、祝福してください!」という運動が地上に現れるでしょう。すべてを父のものとして取り戻すべき責任が私たちにあるということをはっきりと知らなければなりません。


ですから、皆さんが大切にしているその身体も本来は父のものなのです。しかし、実際にそうなっているかどうか、自問してみてください。この肉体は、天の聖徒たちを迫害した肉体であり、神の手に血を流させた肉体であり、歴史の苦い根が深く刺さった肉体なのです。さらに、霊魂から心、身体、生活環境、社会、世界までがすべてそのようになっています。問いかけてみてください。皆さんのものだと本当に言えるものがどこにありますか?決して誇ってはいけません。したがって、私たちの外的なすべて、私個人のすべて、理念のすべてが、父のものにならなければなりません。


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今日、私たちが叫んでいるこの自由はお父様のものではありません。今日、人々が叫んでいる幸福もお父様のものではありません。聖書の御言葉を叫ぶ教会さえもお父様のものではありません。それゆえに、審判がなされなければなりません。すべてを清算しなければならないのです。神様が摂理される最高の目標とはそれです。それこそ理にかなっているではありませんか?


今や、私の歩みもお父様のものであり、この体もお父様のものであり、私に属するすべてがお父様のものでなければなりません。したがって私たちは、いつ、どこであっても、父が使おうとされる時にお返しできる保管者にならなければなりません。まだ主人が来ておられないため、主人が来られる時まで私たちは保管者になっていなければならないのです。今後、民主主義が天の前に立つためには、このような保管者の立場に立たなければなりません。そして、時が来たならばすべてを分け与えなければなりません。分け与えなければ滅びます。滅びるのです。


したがって、私たちはそのような目的観を持ち、神様の愛を中心として自分の価値を歌うことができなければならず、神様の愛が自分自身の心を通じ、体を通じ、生活を通じて溢れ出るような人間にならなければなりません。イエス様は、「天国はあなたの心の中にある」と言われました。心の中の天国から実体天国へ、実体天国から理想天国へと展開されなければなりません。




<祈祷>


お父様! 私たちが天の心情を失うようになったならば、私たちを恨(ハン)多きこの地から取り去ってくださいませ。私たちが天情を裏切る者になったならば、私たちをこの地上から取り去ってくださいませ。幾千万回死ぬことがあろうとも、天の御旨を踏みにじる者にはならないようにしてくださいませ。


私たちはイエス様の心情がどのようなものであったかを、わずかながら察知しました。また、聖霊の心情がどのようなものであるかを知り、お父様の心情がどのようなものであるかも知りました。恨多き父、恨多きイエス様と聖霊、恨多き天地、これらを抱きしめて泣く者がどこにおり、これらを抱きしめて血の祭壇を築く者がどこにいるでしょうか?この民族の中に、そのような心情を抱き、天に向かって訴える息子娘が多く現れるようにしてくださいませ。


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お父様、ここに集まった者たちは、あなたが来なさいと言われたために集まりました。あなたの高く深い御旨はどこにあるのでしょうか?あなたが語られた通り、お父様のものとなるために参りました。御言葉によって父のものとなるだけでなく、愛によって父のものとなるために参りましたので、永遠に共にいてくださいませ。その心情が通じる基準において、私のすべてを父のものであると言うことができ、お父様の目的と理念を喜びながらお父様を慰める息子娘となるためにここへ参りましたので、お父様、そのような息子娘となれるよう許諾してくださいませ。


この時間に参加した息子娘たちに、価値ある人生の意義を悟らせてくださいませ。この御言葉をもって生命の源泉を動かし、私たちを革新し、心情の世界を爆発させて勝利の息子娘となるようにしてくださいませ。そして再創造の歴史を起こしてくださいませ。父よ、切に願い望みます。すべてのことに感謝を捧げつつ、主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。

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想定で認定された裁判判決

2025年03月27日 00時44分17秒 | 学習
 判断の結果を見たがまるで友達の相談を受けて、「そうだろうね、だから解散ね」と事実の確認もしないで出した手抜き判決の見本の様だね。

仕事してない。

この裁判はそんな軽い気持ちで行なわれて、人権も軽んじられている状態が良く見て取れる。

先ず宗教審議会の決定から問題があるし、非公開裁判で責任の重さを軽んじた感は否め無い。
既に此処から相手の罠に嵌められて来ている。

次に大きく判断ルールを変えた問題が有る。但しこれに対応していかないといけない事では有るが、民事もあり、更に過去に遡って取り扱われるなら、拉致監禁を推進した全国弁連への訴求も考えないといけない。しかも和解も犯罪の判断になるなら其れも踏まえないといけない。(しかしこの判断は明らかにおかしな判断だと思う)

更に捏造された証拠の確認も怠っている怠慢な状況が窺える。

こう言った余りにも杜撰な判断による、家庭連合側の言い分が無視された結果の判定で、裁判ってこんな良い加減なんだって思われても仕方ないね。

公務員ならちゃんと仕事をして欲しい。ましてや司法で国民の権利を守る責任が有るだろうに、友達の相談じゃあ無い。



文鮮明先生 御言葉選集 8-3

2025年03月23日 15時36分57秒 | 学習
文鮮明先生の御言葉選集 8 - 3.私たちは何のために生きるのか(1959年11月1日)
1959年11月1日(日)、元本部教会。
マタイによる福音書6:16-34

1
<祈祷>


お父様、お父様を慕う私たちがお父様に会い、お父様を拝見し、お父様をお迎えし、お父様と共に話し合うことができることを期待して、不足を 4サ・牀集まりましたので、見捨てないでください。

お父様! 私たちの心と共に和解し、私たちの体と共に縁を結んでください。お父様の切実な心情の流れがお父様のものだけに留まらず、実在される御自体の生命の流れが私たちの心の中に深く浸透することができるこの時間になりますように。


千千万の聖徒を指揮される父の聖像を眺めながら、無限大の父の愛の抱擁に抱かれることができ、憧れに浸ることができる私たちであることを許してください。 自然の安らぎの巣にいることを天の前に感謝することができ、自ら頭を下げたその心と体で父を呼ぶことができるこの時間であることを許してください。


父よ、私たちは、戦いの路程で私たちを呼び寄せて下さり、心配して訪ねて下さる父である前に、静寂の中で心の奥底から、感じなければ感じられず、感じなければ感じられず、考えなければ考えられない父であることを知っており、父が私たちを息子と呼ぶことができ、私たちも父を父と呼ぶことができる縁が、私たちの生涯で必然的に結ばれなければならないことを知っております。


私たちは、ある日、秘密の中で父と話し合ったことがありますか。 ある日、父の優しい声と父の栄光に酔いしれ、自分たちが体の中にいるのか、体の外にいるのかわからず、頭を下げて父の前に礼拝を捧げたことがありますか。 信仰の道のりには、そのような時間が必ず必要であることを私たちは知っています。また、そのような時間を私たちに授けるために、父が今日までご苦労されたこともわかりましたので、今、この体と心が自然の父を楽しみに、本性の父を楽しみに、本質の父を楽しみに、本質の父を楽しみにお仕えすることができるこの時間となるように、お許しください。


2


どんな条件を掲げて接する父ではなく、心の流れに沿って共に流れ、心の動きに沿って共に動かされる父であるため、本然の感じ、本然の感情に和解し、動かされることだけが、私たちが生命を持ってこの地上に住む間、持つべき願いであり、理念であることを知っております。


見えないところですべてを経営され、実績を現すためにご尽力される父であり、ないように見えても実在する父であり、私たちと関係がないように見えても私たちの心を主管しておられる父であり、無限の世界を管轄する父であることを私たちは知りました。


その管轄権内、その主管権内の動きに和(和)し、静(静)し、動(動)することができる本来の姿を恋しく思いますので、父よ、私たちを見捨てないでください。心の扉が閉ざされた者がいたら、その扉を開いてくださり、死の陰に捕らわれて心身的に苦しんでいる人がいたら、彼らもまた憐れんでください。 縁を探し、縁を尊重してここに集まったので、この一時間が無駄な時間にならないように導いてください。


誰のために、何のために、何を求めてこの場に来ましたか。 父よ、見捨てないで、実在の父を慕う真の心がないとしたら、天の父であり、実在の父であるあなたの前に恥ずべき者であることを自ら悟るように導いてください。


今日も父を思い、父を見据え、自分自身も知らないうちに父の賜物圏内に浸透し、父の賜物に取り憑かれることができる時間が、ここに集まったあなたの子女たちには絶対に必要でございますので、父よ、憐れみの歴史として現れ、能の権能で私たちを満たしてくださり、父が残された復帰の恨を抱いた私たちの心情を解きほぐしてくださることを切に願っております。


3


死の権威を嘲笑することができ、それに対して誇れるあなたの権威は何かと自信を持って主張することができ、すべての人の前で天の栄光を見よと言うことができ、天を誇れる勝利の姿、父の栄光を歌うことができる堂々とした息子・娘になるように導いてくださいますよう、父よ、切に願っております。


天があり、地があり、これと共に人間が存在しなければならないことを知っており、死の波が押し寄せてきて、恐怖の波が押し寄せてきても、天地は永遠に残ることを知っております。 この恐怖の世界を越えて喜びの世界に加わることができる息子・娘になるように導いてくださり、その理念の世界を開拓する先駆者になるように導いてくださいますよう、父よ、切に願っております。


今日、私たちの心がそれぞれ違っても、事情事情がそれぞれ違っても、置かれている環境と内的な慣習、あるいは心中に持っている主観と主の観念がそれぞれ違っても、本来の心情世界に和解しようとする心だけは同じであり、悪人も善人もそこに和解することができることを知っておりますので、この時間、そうなるように私たちを導いてくださることを切に願っております。すべてのことを父の前に打ち明け、無我の心情で本来の心情を見つけ、父をお迎えすることができ、御言葉を通して自分自身を再び新しく創り上げることができる賜物の時間となることを切に願っております。


伝える者の心も受ける者の心も二つにならないようにしてください。 暗い悪の条件が隙間を狙っていることを知り、私たちの心と体が父の心情に和解し、父の動きに和解し、平和の心情、愛の心情、高貴な理念の心情にとらわれることができるようにお働き下さり、新たな覚悟と新たな生命を起こすことができる時間であることを切にお願いし、すべての御言葉、主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。




<御言葉>
今日お話しするタイトルは「私たちは何のために生きるのか」です。
4


存在するすべてのものには目的があります。地もそうですし、天もそうです。 そのような天があり、地があり、その地と天を代表する私たち人間がいます。私たちは知りませんが、天は大きな目的を持っているでしょうし、地もやはり大きな目的を持っているはずです。 この天と地が置かれている位置と立場は違っても、その目的は同じでなければなりません。 なぜかというと、天は主体であり、地は対象であり、天は創造主であり、地は創造された被造物であるからです。 このように、この地が絶対者によって生まれた被造物である限り、天と地は絶対者の目的権内で同じ運命に置かれていることを否定することはできないでしょう。


天と地がそうであるならば、天と地に代わって現れた人間はどうでしょうか。 人間が天も否定できず、地も否定できない立場にあるのであれば、天も地も人間を否定することはできないでしょう。 このように見ると、天と地が人間と共に何か大きな目的を見据えていることは間違いない事実です。


だからこそ、私たちの心は天を象徴し、体は地を象徴すると言います。 体は地のものを求め、心は天のものを求めようとします。私自身は、心だけではありませんし、体だけではありません。 心と体を合わせて初めて私と言えるのですが、この「私」は何を象徴しているのでしょうか。 神を象徴していると言えます。


皆さん自身がたとえ未熟で、不完全で、未完成の段階にあるとはいえ、心と体が合わさった皆さんという個体は、どのような目的圏内に留まらなければならないかというと、神様と共にあるべきです。 天を主体とし、私はその相手となり、実在する神様を象徴する存在体として、その方と共に存続しなければならないのです。そうなって、天と地を抱きしめ、動かせるようにならなければなりません。 そのような時、そのような場所を成し遂げることが人間の最高の目的でしょう。 必然的にそうならなければなりません。 だから、天と地は人間を立てる遊びをしているのです。


神様は今まで何のために働いてきたのでしょうか? 天のためでもなく、地のためでもなく、人間のためでもなく、ただ堕落した人間を救うため、つまり、皆さん自身を救うために働いてきたということです。


5


皆さんはそのような理由も知らずに生きていますが、私のハン自体が生きるためには、天の多くの霊人が動員され、地が動員され、神様まで動員されて働いています。皆さんはこのような事実を知っていますか?


たとえ私が微々たる存在であっても、この宇宙を代表して出て行く人生の道程においては、天の多くの霊魂が私のために動き、地が私のために動き、神様が私のために働いてくださるというこの厳然たる事実の前に、私たち人間は頭を下げて「黄泉の国へ参ります」と言うことができなければなりません。 そのような心を持って生きる人は良心的な人です。神様を抱きしめ、そのような道を歩んできたのが、歴史の道のりを歩んできた宗教人たちの歩みであることを知らなければなりません。


神様をはじめ、被造物世界のすべては、今日の私の一身が何らかの目的を成し遂げて勝利することができる一つの人格者になるために総動員されていることを認識する人々がこの天地間に住んでいるはずなのに、そうしていないのです。堕落した人間たちは、これを認識できない中で生きています。


では、私は今、誰のために生きるのか、何のために生きるのかということが問題です。 これを考える時、自分自身を問題にして、私は今、何のために生きているのかということを反省しなければなりません。皆さん自身は今まで何のために生きてきましたか? 地上のために生きてきましたか? 天のために生きてきましたか? 地上で創造主の御旨を成し遂げるために完全に生きたと自信を持っている人は、今日までの歴史の歩みの中で見当たりません。


これはどうしてなのでしょうか? 宗教的に見ても、どう見ても人間が堕落したからです。 堕落したからこそ、人間は善く生きることができる本来の理念の園を離れ、全体のために生きることができる環境を離れることになりました。心はそう生きたいのに、体がそうならないのが、この地に住む堕落した人間が置かれている境遇であることを知らなければなりません。


6


このような立場に立たされて、私たちは生きています。本来は高次的な理念の世界で生きるべき人間ですが、そのような位置から落ちたことにより、尊敬すべき人間は、言うまでもなく劣悪な位置で喘いでいるのです。


しかし、皆さんはもっとよく生きたいという感情を感じるでしょう。 もっとよく生きたい、もっと大きく、もっと広く、もっと高く、もっと無限の価値を感じながら生きたいという気持ちがあることを否定する人は一人もいないでしょう。


そう生きたいという気持ちはあっても、実際にそう生きられるような生活的な内容、生涯の理念とか、そういう目的に向かって動ける内容がないのです。生きるとは言っても、皆さんが堂々と自信を持って「天よ、地よ、神よ、協力してください」と言えるでしょうか。 そんな皆さんはダメなのです。


私自身は、創造本来の人生の内容を知らず、天の御霊と地の被造物万物と創造主である神様の前で、自信を持って堂々と語ることができる存在ではありませんが、天の御霊はこの時間にも皆さんのために、地もまた皆さんのために、神様も皆さんのために働いておられます。 それにもかかわらず、人間はそのような天があり、地があり、神様がいるのかいないのかさえも知らずに、その世界を懐かしみながら彷徨いの歴史の道を歩んできたことを私たちは知っています。


さらに、ここに出てきた青年男女は、今日を起点として、自分が何のために生きるのかということを改めて考えなければならない時が来ました。 もし神様が「あなたは何のために生きたのか」と問われたら、皆さんは何と答えますか? 皆さんの中に「私は家庭のために生きた。私は愛する人のために生きた。私は国のために生きた。私は国家のために生きた。私は学問のために生きた」と自信を持って答えられる人がいるかどうか分かりません。 しかし、さらに一歩進んで、それらは誰のためにあるのかと問えば、自己のためにあるとは言えないでしょう。 その国は誰のためにあるのでしょうか? その国自体だけのためにあるのではないということを知らなければなりません。 なぜかというと、大宇宙の目的圏内に入っている国であり、民族であり、世界だからです。 ですから、どのようなものであっても、存在するものはそれ自体だけのために存在するものではないということだけは間違いありません。


7


本来、これらは本来の心情に基づいて存在するようになっているにもかかわらず、今日の人間の観念は自分中心になっています。自己中心の家庭と国家とこの世界ですべてを終結させようとするその観念は間違っています。家庭のために生きるといっても、家庭のために生きることだけが目的ではありません。 生きること、良いことです。ために生きること、それも良いのですが、そのために生きているその環境そのものが、ためになることができる究極のものではないことを知らなければなりません。


だからこそ、私たちが生きているこの場所を超えて、より高い場所を憧れるのは自然な現象です。天倫はこのように自然な現象として、皆さんを励まし、より高いところへ向かって行くように、今日この時間も皆さんの心を促しています。持てる知性を尽くして子どもを愛するのも良いですが、人はどこから来たのでしょうか。 私の一身の四肢百體は、私の一身が動機になって来たわけではありません。 深く掘り下げれば、歴代の先祖から来て、さらに深く掘り下げれば、その先祖の起源となるある主人から来たということです。


ですから、今日私たちが感じるこのような感情は歴史的な感情です。今日、私たちが願うこのような願いも歴史的な願いです。今日、私たちがどんな主義を論謂していますが、その主義は、この時代に初めて現れた主義ではありません。 私たちの先祖が知らずに、言わなかったけれど、彼らの心は本来の心情世界、すなわち今日の世界より理想的な世界を憧れてきました。


今、歴史とともに願ったその心情世界の理念が現れる時が来ました。 ですから、私たちが何のために精力を注ぐかについては、姿勢を正して改めて考えなければなりません。自分中心で、自分中心のものは真の目的にはなり得ません。 そのために自分のすべてを投入し、生命を傾けて犠牲にする価値のあるものにはならないという事実を、私たちは自動的に考えなければならないのです。


皆さんが無意識に移している歩みについて、もう一度考えなければなりません。 私は誰のために行っているのか、誰のために動いているのか、また、私のために、それはどこに行き、どこで価値を発揮するのか? その動きで私の一人自身が満足を感じ、喜びを感じたからといって、それで万宇宙の前に誇れる使命を終結させることができるかというと、そうではありません。 考え直す必要があります。考え直すべき時が来たということです。


8


精神を整えることができないほど私の心を傾け、私のすべての心血を注いでそのために動いたとしても、私自身がその動きの主体はダメだということです。 皆さん、誰を愛し、誰のために動いたとするとき、その心を創造する真の主体は自分自身だと思いますか?その主体的な心は、私にあるようで、私を通り過ぎ、私にないようで、私を通した秩序ということです。 ですから、それは皆さんを媒介にして縁を結ぶことができる環境で起こる現象です。 ですから、皆さんは自分がその主体になれず、その内容を終結させる立場にもなれないということを、生活環境で感じることでしょう。


人間には体と心があります。親からもらった体、大地から体の要素となる物質を供給され、体を備えています。 しかし、ここに心が問題になっています。神様は、その体と心を不変の心情の期待の上に立てたいのです。 そうすることが、神様が人間を創造された目的であり、堕落した人間に対する摂理の目的であることを知らなければなりません。どんなに心が良くて楽だとしても、その心は心情の家に入って休むことができないだけでなく、体もまたそうであるということです。 皆さんも現実の自分の姿を見れば、この事実を否定することはできないでしょう。


人間の身体が留まるべき場所、心が留まるべき場所、心情が留まるべき場所は必ずあるはずです。 人間はそのような場所を求めて行く過程で喘いでいます。


どうなったかわかりませんが、私は生涯の旅路を歩むことになり、出発したこと自体を取り返しのつかないところにいます。このような中で、自分が何を懐かしんで、誰のために生きるのかということが、人生の真の目的にはならないということです。 そうして生きている限り、私たちは残りの生を生きていく上でも、哀しい過程を経なければならないということを認識しなければなりません。


このようなことを知って、今まで生きてきたことを改めて考えなければなりません。 この世の中には、荷物を背負って行く旅人のように、生涯の路程で行き場も方向も分からず、喘ぎながら生きている人がたくさんいます。 ここに出席した皆さんも、自分自身を改めて考えなければなりません。 このような境遇では、自分がいくら誰のために生きたとしても、そのためには、天倫の目的とは何の関係もないことになります。


9


歴史は革命の連続です。個人を尊重する時、家庭を尊重する時、氏族を尊重する時、民族を尊重する時、国家を尊重する時、世界を尊重する時があったのです。 このように、歴史は革命の過程を経て、目的の世界に向かって進んでいくのです。


これまで数多くの主義が出てきて、数多くの種族が自己の種族を中心とした主義、あるいは自己の氏族を中心にして主張したイデオロギーも多かったのですが、それらはすべて過ぎ去ってしまいました。 今、世界に残っているのは2つの思想です。目的は一つなのに思想が二つというのは、一つに近づいたということであり、だから今日を終末というのです。


歴史の流れは、目的の世界を開拓することができる環境に流れています。 では、この目的の時が来るとき、われわれはどうすべきか、ぶつかり合わなければなりません。 衝突しなければなりません。ぶつかって割れるか、合体するかしなければなりません。ここで割れる存在たちを集めて処理するところが地獄であり、割れない存在たちを集めて置くところが天国です。目的観によって天と地、天国と地獄が分かれるのです。


皆さん、今日、歴史の流れや時代の潮流をみても息苦しい時代に突入しました。 このような時代に生きている私たちは、誰のために生きるのか、何のために生きるのか。家庭のために生きる時代は過ぎ去りました。先進国を見てください。全部バラバラです。個人主義です。 両親はどこにいるのか、妻はどこにいるのか。 信じて生きることができるすべてのものが壊れています。

私たちはこのような世界情勢に振り回されながら生きています。このような生活環境の中で、私は誰のために生きているのでしょうか。 家庭のために生きるのも良いのですが、世界思想は家庭で安楽を享受し、幸せを歌いながら生きているわけではありません。 民族がそうであり、国家がそうであり、この世界がそうなのです。目的の世界に向かって流れ出る歴史ですから、世界自体がすべてを解決することができず、それぞれがそれ自体のために生きることができないのです。 このような事実は、歴史が如実に証明しています。 ですから、この時代の人々は、何か新しい目的観、あるいは大目的で自分が和解することができる一つのその何かを切望しているのです。


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このような観点から、皆さんはどのように生きてきたのでしょうか。 家庭の垣根の中で、自分の息子・娘しか知らず、自分のことしか知らずに生きてきて、大宇宙の目的が達成されるその日に、そこに参加することができるでしょうか。 皆さんが何のために生きたのは、自分の安楽と自分の環境と自分の家庭のために生きたのであって、大目的のために生きたのではありません。 だからこそ、裏切られるのです。 誰が皆さんに対して「あなたは誰のために生きたのか」と問われた時、「私は誰のために生きたのか」と証明できる内容を持てなかったら、悔しい思いをしなければならないでしょう。


過去はともかく、今日この時間は誰のために、何のために生きているのかと問われたら、「私は世界で一番良いということを中心にして、こうして生きている」と自慢できる人がいるかどうか分かりません。 しかし、そう生きているからといって、大宇宙の目的に向かって流れる良心の世界を自分の生活の中に取り込んで、平安な生活を送ることができるかというと、そうではありません。 それでは無限の世界には行けません。


楽しみながら生きようとする心の動きは、皆さんが時と時を忘れることがあっても、忘れることなく、その目的に向かって進んでいます。 しかし、皆さんは自分の生活の中に、自分自身は言うまでもなく、家族と種族と世界と天地を抱くことができる自信がありますか? 今日、どんな主義とか、どんな主義とか言っていますが、その主義圏内に、神様を抱くことができる自分を持つ主義がありますか? 天倫を抱くことができる主義がありますか? ありません。


皆さんには心がありますが、その心は何を抱こうとしているのでしょうか。 世界を抱き、天地を抱き、後には神様まで抱こうとするのです。 それが心の目的です。 ですから、イエス様は「天国はあなたの心にある」と言われました。さらに、「私はあなたの中にいて、あなたは私の中にいて、父もあなたの中にいて、あなたも父の中にいる」と言われました。


真の芸術家あるいは真の宗教家が歌を歌うとしたら、どのような歌を歌いますか? 心の世界に神様をお迎えし、天と地を参加させた中で、人類を抱きしめ、抱きしめることができる歌を歌うでしょう。 そのような人でなければなりません。 もしそのような人がいたら、天が罰を与えるでしょうか。 そんな人が何人いるでしょうか。もしそのような人がいたら、天が罰を与えるでしょうか。 そんな人が何人いますか。 そんな人が何人いますか。 いません。 お前は誰のために、何のために生きたのか」という絶対者の問いかけに、「私はこうして生きました」と答えて、「ああ、それが私が望んでいた最高の目的だ」という賛辞を受けた人は、歴史以来一人もいなかったということです。


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どんなに偉い人でも潮流に流され、どんなに丹精込めて築いた家庭でも潮流が一度掃き飛ばせば壊れてしまいます。私と切っても切れない愛する家庭も、革命の炎にぶつかったら壊れていきます。 私が望んでいた社会も壊れていきます。私が心を込めて忠誠を尽くした国家も壊れていきます。この馬鹿げたことでしょうか。


ために生きる生活の中でも楽しいことができないのは、私たちが堕落した人間だからです。 皆さんのためにすることは、目的そのものではなく、目的に向かっていく過程的なものに過ぎません。 それをすべてとして知って行くと、行き詰まります。行く途中で大思潮の前に降伏することになります。


しかし、天倫は生きています。昼も夜も生きています。私の意識を超越して生きています。 そのような縁で、生きているこの天倫に従おうとする心、そのような精神さえ入ってくれば、私を導こうとします。 しかし、皆さんは、生きているこの天倫をどれだけ裏切ったのでしょうか。 皆さん、裏切り者であることを知らなければなりません。何がどうだとか、どうだと主張していても、裏切る立場にあることをしっかりと知らなければなりません。


私」という一身を見ると、身体があり、心があり、心情があります。 身体はこの地を代用し、心は天を代用するといいますが、心情は何に代用するのでしょうか?天倫に代わっています。 ですから、この心情は理念を支配します。 また、神様を支配します。どんなに創造主であり絶対者であっても、心情的に「父よ!」と呼べば、「おいで」と答えます。 そうやって授受し、和解し、楽しみながら生きてこそ、私たちの人生の最終的な目的が達成されるのです。


自分が何のために生きたと自慢する人たちを、その時代には素晴らしいと言えるかもしれませんが、歴史的あるいは天宙的な面から見るとそうではありません。 彼らはある一時期に当たります。 ですから、「私」ということ自体が今まで何のために生きてきたのかを解明しなければなりません。歴史的な偉人たちは、当時の家庭を新しい分野で解明し、その社会を新しい分野で解明し、その時代を新しい分野で解明した人たちです。


12


解明のためには心を傾けなければなりません。 皆さんがどんな事業をするにしても、どんな勉強をするにしても、あるいはどんな仕事をするにしても、全力を傾けて心が無限に湧き出るような位置で働かなければ失敗します。 そのような位置で自然に心が傾き、その心の前に体が自然に傾き、そこに心情が自然に傾いて仕事をすれば、間違いなく成功するでしょう。 歴史上、数多くの預言者たちが来ましたが、人生行路で完全に成功したという人は一人もいません。 みんな途中で失敗してしまいました。


では、体が傾くことができ、心が傾くことができ、心情が傾くことができる相手はどこにあり、家庭はどこにあり、社会はどこにあり、国家はどこにあり、そのような世界と天地と神はどこにあるのか? このような問題をまだ解明していません。 このような問題を私たちは人生行路でどのように探し出していくのか?精神があり、考えがある青年男女であれば、夜も眠れないでしょう。 深刻な問題です、深刻な問題です。 そのような軟膏で自分を持ち上げ、自慢することはできません。 頭を悩ませ、探したり、探したりしなければなりません。 他人がどうなろうとも、自分の行く道が忙しいのです。 越えなければならない太山峻嶺があるのに、それを越えられない群れは敗者になるしかありません。


イエス様を信じる青年男女がいるとしたら、彼らは何のために生きているのでしょうか。 天があり、地があり、神様がいるとしたら、それらは何のために存在するのでしょうか。 神様は人間のためにおられると言われたのに、人間のために動く事実がどうして私たちの環境で感じられないのでしょうか。 私たちはこのような問題を解明して、人間のために歴史的に、時代的に、未来的に働く神様を発見し、そのような天を発見し、そのような地を発見しなければなりません。そして、私たちが王子の姿で現れて、「神様、どれほどご苦労されましたか。 お望みのあなたの息子が来ます」と言えることができ、天地の前に主人の姿で現れて父を抱きしめ、心情の歌を歌うことができるその日が、天が望む日であり、人間が望む日です。 これを私たちは知らなければなりません。 宗教で再臨とか再臨とかいう名詞を叫ぶ原因がここにあります。


自分自身の一生というのは深刻なものです。一度過ぎてしまったら、もう一度生まれ変わって修習して補うことはできません。 過ごした生涯の道程は補う術がありません。 いくら立派で優秀な人であっても、過ぎ去った生を再び修習して直すことはできません。 一度過ぎ去ったら終わりです。一度過ぎてしまえば二度と取り返しのつかないその生涯を、皆さんは誰のために生きたのでしょうか? 何のために生きたのでしょうか? 自分自身のためではありません。 自分自身はその圏内で生きている体です。


どのような存在も目的なく動けば地獄行きです。動機を失っては到底目的地に行くことはできません。 では、その動機と目的はどこから始まったのでしょうか? 人間から始まりました。 ところが、人間は生活圏の中で目的も失い、動機も失った存在になってしまいました。目的も喪失し、動機も喪失したまま、過程的な生活で彷徨う人間はどこに留まるのでしょうか。


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このような人間ですから、どんなに偉そうにしていても、流されてしまうでしょう。 目的と動機を持ったある個人、あるいはある宗教人が現れたら、彼はどんなに自分が偉そうにしていても無慈悲に流すことができます。 そのような存在は、個人を流すことができ、種族も流すことができ、民族も世界も流すことができるということです。 動機と目的を失った人間ですから、流されても天法に引っかかることはありません。


イスラエルの民族史を辿ってみると、彼らが神様の祝福された動機と目的を持って出てきたなら、他の民族が侵略できなかったはずです。 しかし、彼らが祝福の基準を失ったのですから、選民は何の選民ですか? そうなってしまったので、それを条件として他の民族が飲み込んでしまうことができたのです。


人間対人間もそうですが、人間を動かして出てくる神様対人間はどうでしょうか。 天とサタンがある以上、神様に対する人間の目的観がはっきりせず、神様との関係が確固たるものでない所では、サタンが攻撃すれば神様は奪われるしかないのです。 このような運命に喘いでいる人間であることを皆さんは知らなければなりません。


ですから、哲学や宗教は、そのようなものに対する根本的な関係を探知しなければならないでしょう。 また、目的を探知しなければならないでしょう。 これまでの哲学や宗教は、時代とともに提唱し、主張していたのに、時代とともに滅んでしまったのです。 時代とともに主張し、主義とともに主張していたのに、すべて滅んでしまいました。


そして今日、この時代に至っては、二つの主義が残っているのですが、これが一方に傾いています。 そのような時代が終わると言いました。 その目的の時が近づいているに違いありません。 しかし、その目的が何であるかを解明できる内容がないのです。 動機も目的もなく、彷徨い、喘ぐことで受ける被害は言うまでもなく大きいです。昔は家庭的な被害、社会的な被害、一国的な被害にとどまりましたが、今は世界的な被害を受けることになるのです。 その世界的な被害は、皆さん一身に帰ってくるのです。 皆さん、自分の基準を持って何のためにという立場で、自分が正しいと思い、そう主張して生きてきましたが、世界的な現象は皆さん一身を狙って入ってきます。


14


過去には、アメリカやイギリス、あるいは西洋の様々な国々が私と下等な関係ではありませんでしたが、今日では彼らの生活感情が私たちの周囲にまで及んでいます。 彼らの苦痛が私たちの苦痛であり、彼らの困難が私たちの困難です。私たちは、このような環境を見て、この世界のすべての現象が私の一身を賭けて、この世界のすべての現象がひっくり返っていることを知らなければなりません。


では、このような環境において、青年男女はどのように生きるべきでしょうか? 動機と目的を片手に握って進めなければなりません。


私の心の動機と目的、私の心情の動機と目的が私の一身で押し上げていますが、私は歴史のすべての悲しみを忘れて、自然な姿で、喜びの姿で大宇宙をお造りになった絶対者の前に現れて、「あなたは一定の苦しみを負けて、多くの傷を受けましたか」そのような幻想的な姿が現れることを神様は待っておられるのです。皆さん、私たち韓民族は哀れな民族です。


今日の皆さんは、過去に何かのために生きてきましたが、皆さんのために一生懸命頑張ってくれたその対象が、実は皆さん自身を裏切るとき、皆さんはどうしますか? 私たち、その対象によってはかなり裏切られた存在です。


「この野郎、君は誰のために動いているのか?君は天と地のために動かなければ体を持っている、創造主の全体目的のために努力しなければ実体を持っているのに、君は一体のために何を動いているのか?」と。そのような人間集団、わずかなお金で踊られる安っぽい人生です。志のある私たち、そのような人間にはなりません。


15


皆さん!今の韓国の一時見てと、すべてが死んでしまいました。親が子を殺し、子が親を殴り殺し、支配者が被支配者を中傷・謀略し、死の場にやっています。このような時代において、私は誰を信じているのか、誰のために生きているのか?


皆さんがこのように受け止めながらも生きているのは、否定できないいくつかの理由があるからです。 皆さんが終わって一生を振り返る時、どんな価値のあるものが残っているでしょうか?過去も今日あり、現在もそうであるならば、未来もあり得るでしょう。


今、皆さんが見ているものは、第1の目的ではなく、第2の目的です。神様が見つめられ、歴史が広がっている第1の目的というものが存在するのです。そのため、人間には神様を中心とした理念がなければなりません。心さえあればいいと思いますが、それは違います。心は自分自身善に先導する責任は割り当てますが、自分自身を指導することはできません。心は内部的な責任は適当でも、指導的な責任は割り当てないのです。心を持って、「こうしろ、あさしろ」と指示できるでしょうか?


それでは、この心を指導できるのは何でしょうか? それは、神様を中心とした理念です。その理念とは、理想主義です。この主義が実現した理想世界では、神様が喜ばれ、天地が喜びに踊り、本心を持つ人間が歓喜の踊りを無限に踊れるのです。


皆さん、そのような世界観を持って、天を見つめた時がありましたか? 地を見つめた時がありましたか? 人類を見つめた時がありましたか?


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イエス様は、原因と動機と目的観が明確な方でした。 彼は他のことは知らなかったのです。 イエスはただ神様をつかみ、天もつかみ、地もつかみながら彼を押しつけていかれました。かしは、人間が知らない原因と動機の世界を全てしており、目的の世界を全てしていました。 当時、権限を持って動いていた人々によって彼は無念にも死を前進しましたが、彼の世界観は人類歴史とともに残されるでしょう。


イエス様はヨセフの家庭で深い傷を受けながら育ちましたが、それは一つの過程でした。 イエス様に家庭がどこにありましたか? イエス様は家庭が最終的な目的地ではないことを知っていました。 その社会も最終的な目的地ではないことを知っていました。


それゆえ、ユダヤ犯罪に向かってイエス様が立ち上がるとき、「おい、この奴よ、行くな」と言うユダヤ教徒たちに対して、「いや、あなたたちは反対しても、私は行かなければいけない」と尊り、さらに進んで、イスラエル民族が総動員して民族の反逆者として追放し行く、なと止めても、「いや、私は行かなければならなければ」 「ない」と評価したイエスでした。 彼は何生きのためにいたか? 生命をかけて「行くな」と止められても、「地上にいる生命たちのために私は行くのだ」と言いながら死を選んだ目的はどこにあったのでしょうか?動機と目的を立てるために、イエス様は段階的な世界のすべてを振り払い、堂々と乗り越えていかれたのです。


そのようなことでイエスは悲しい主です。彼は地上のどのような環境の中にあっても、天の理念と共にあり、食事をするときでさえ理念を受け入れました。念な事もありましたが、「よ父!歴史的な理念を人間の前に与えられるために、苦労しましたか?私たちを父の葛藤に同参できる立場に立ってくれ、恐れ多くを思います。天地の大目的を成すために、お一人で責任を背負われ、努力される父の心情を、心だけでも感じさせて尊敬いたしました」と評価されたイエスでした。


今日も神様はその様なを探しておられます。動機と目的を失ったままでは人間ではなく、動機と目的を所有した人が出るのを天はどれくらい待ちますか? このようなことを知らない人間に動機と目的を教えてくださる責任があるので、天は人間を捨てられずに握って出てくるのです。これらの空の苦情はどれくらい大きいでしょうか?天はどうして死亡の環境でサタンの供え物になっていく人類を勝手に処理できないと? 天のあの苦しい心情を知る者がいます。彼は激しい心の闘争をした人であり、外的にも歴史以来最大の闘争をした人であることを皆さんが知らなければなりません。


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イエスは弱者のように倒れましたが、その心の世界は、歴史が始まって以来、誰よりも神様の心情世界に近かったし、自分に反対していた世界、すなわち敵のサタンに対して誰よりも激しい闘争をして倒れたので、それを条件として起こることができました。それが復活です。


イエスは言われました。「その国とその義のために生きなさい。」と、しかしそう言われたイエス様が問題ではなく、その動機と目的が問題です。これを私たちは注意深く知る必要があります。イエス様もその動機と目的のために命を捧げました。ですからイエス様は行かれた後にも彼の理念と目的は残されたのです。人間が天輪の前に命をもって生まれた以上、必ず何のために生きなければなりません。悲しみに遭って倒れる限りがあっても、その国とその義を高めるために生きた人は滅びることはありません。


あなたはどのような環境で何のために生きていますか? 自分のために考えていますか? 自分のための時代は通り過ぎます。どんな主権を誇っていますか?その主権も世界史条の前には圧倒されるでしょう。その世界史条も目的の主体である空が現れる時には通り過ぎてしまいます。これは歴史的な運命です。堕落した人間の道はそのような道でしたので、天は人間の前に提唱されました。 「空のために生きなさい」と。これは福音の中の福音であり、ニュースの中で最も貴重なニュースです。すべてはすべて通り過ぎても天上を支配する主体は残ることを知っている天、実存そのものは永遠不変で永遠に存在することを知っている天はその主体的な内容を標榜して信じろとし、モーシと言いました。祭壇に上がって哀れな群れが良心の世界で慰めを取ることができず、宗教の扉を叩く人々であることを皆さんが知る必要があります。


歴代の多くの人々が世界を支配していましたが、良心的な人や宗教人は支配できませんでした。これからはこんな時が来ます。いかなる政治家や侵略者がいる割振隊 彼は世界的な宗教を一度に追い詰めて支配できる配布がなければならないでしょう。インドを見てください。イギリスは政治的に何百年も支配してきましたが、その民族の宗教的根は不可逆的でした。それでは、そのようなことはいつの間に行って解明されるのでしょうか。一つの大目的が行われるその日です。歴史はその日に向かって動いていることを知る必要があります。


それで宗教のない民族は滅びます。歴史を見ると、天の政治を無視し、天の政策を無視して個人を尊重した人たちは壊れていきました。今がそんな時です。ですから、私たちは歴史の路線に立派な人がいることを知っておくべきです。自分が崇拝して尊敬する人がいるなら、その人が何のために生きるのかを考えなければならないということです。自分が仕える国がある 割振帯 その国は何のために動いているのか、その世界は何のために動いているのかを知らなければなりません。世界史条が目的の世界に向かって進んでいることが分かっていないことを知る限り、私たちはその目的の世界と私たちがどの程度差があるかを知らなければなりません。そして、その差に比例して天輪の前に反逆者的なものも比例することを知らなければなりません。


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イエス様が行かれて以来、この道を行く人は世界で捨てられました。彼らはここも信じられず、あそこも信じられず、どこにも居住できず、民族の天台を受けて踏みながらも命名して出てきました。これらの人たちを捨てるなら空はないのです。これがある時、解決されることを楽しみにして、天は人間の前に「天を信じなさい、天に仕えなさい」と言われました。天を信じる心、天に仕える心は、いかなる革命的な注意も占領できません。


歴史上、多くのキリスト教徒が虐殺されましたが、キリスト教は残ります。なぜ?どんなことでも神様を占領できないからです。外的な世界は支配できますが、心世界は支配できず、しかも心世界を超えた心情世界は支配できません。心世界と心情世界は環境を超越して存続するのです。そのため、そのような理念を持って出てきたキリスト教は名実共に世界的な宗教になったのです。


そういうわけで意志を抱く私たちは、歴史路程にどんな偉人やどんな人よりも革命的な人々です。心世界と心情の世界は、罪が支配することはできません。最高の主人である神のみが支配することができるのです。これは私も知っており、皆さんも知っています。統一教会の神も皆さん、私は深刻です。歴史路程で踏んでまた踏む限りがあっても、その心と心情の世界を誰にも蹴られない人が一人でもいれば私はその一人を握っていきます。そこには新しい歴史が待っているのです。


イエスが何千人もの群衆にパンを配ったとき、彼らは喜んで歓迎されました。しかし、イエスがゲッセマネの園で祈る時、あるいは十字架を持っていたときは、3人の弟子さえも私の行く場所に行ってしまいました。そのように、イエス様はイエス様の弟子は弟子どおりに分かれたそれがハンサムということです。イエスと共に悲惨な場所を堪能できず、サタンに心が支配された弟子たちでした。これが弟子たちを扱っていたイエスの愚かな事情であり、悔しい事です。


皆さん!私たちは新しい理念を持ち出しました。新しい動機と新しい目標を持って新しい目的地に向かって行軍する列に立った。皆さんがその道を行くに当たっては歴史的な衝突もあり、時代的な事情に絡み合うこともあります。そんな苦しみの道を通って進む過程から離脱したり、心情の世界を蹂躙される人にはならないはずです。そうなると、必ず勝利の一日は来るでしょうし、解放の一日は来るでしょう。心でそして心情で楽しみにするその解放の日は、人類が共に望む願いの日です。体が楽しむことができ、心が楽しむことができ、心情が安息できる幸福の園が行われるその日が私たちが望む日だということです。


19


その日には私たちが主体になって楽しむのではありません。絶対者を主体として祀り、歓喜し、その方と和らげ、彼の喜びが私の喜びであり、私の喜びが彼の喜びであり、天の地の喜びになることができなければなりません。そんな一日を見て出て行く人がいる 割振隊 どんな何も彼を支配できないでしょう。


イエスは愛する両親が裏切っても、血を殺すような心情で待っていた民族全部が反対しても、夜を明かして祈ってくれたユダヤ教団が反対しても、飢えているかと思って自分の血を取り除いた弟子たちまで裏切る席でも、彼らを裏切る。それは何のためだったか。天を迎えていたイエスは、どんな困難な環境が散らばって、世界を失っても心情世界だけは裏切ることができなかったからです。イエスがその心情の世界を占領した人になるために行った道の十字架の道です。体では天を封じる王子ができなかったのですが、心情の世界では天を封印する王子として責任を果たされたということです。


イエスの一つは何ですか?天のために生活環境を持たなかったのです。この限りを解くために来る方が再臨州です。彼の心と心情では楽しくて天に感謝したが、彼を中心とした実体的な家庭、実体的な教会、実体的な国家、実体的な世界がなかったので、再び来なければならないということです。こういうことを探すことが救世主の目標だと言って、割振隊に戻ってくる救世主を迎えなければならない終わりの聖徒たちはどうすればいいですか?心と心情ではそのような理念を見つけたが、体ではそのような生活ができなかったので、終わりの聖徒たちは体までもそのような環境で生きなければならないのです。それで歴史の路程を経て宗教の自由を許し、言論の自由を許して出てきたのです。


天は心情的なすべての事実を勝手に語ることができず、勝手に動けない歴史的な悲しみを抱いています。それで天は罪を作っておいた人間たちを自分たちと戦うように迎えられました。この戦いを収拾できる空の新しい理念と対策を持って来られる方が終わりに来る再臨主です。


ですから、終わりにいる皆さんは、心情の目的が実体の目的になって心情の父、心の父であり、体の父であるその父と一緒に楽しむことができる一人を探すために、天が動員され、地が動員され、数多くの預言列が動員されたことを知らなければなりません。神様が今日まで犠牲になって出て来たのも、そのような方を探すためだったことを知らなければなりません。


20


今日が終わりであることを知っている皆さん、あなたの心はどこにとどまり、あなたの心情はどこにとどまり、あなたの体はどこで苦しんでいますか?過去はどうでしたか、今日はどうで、今後はどうでしょうか? 「これはこうだ」と確実に解明をして天上と地上と神様の前に認められる内容を備えない限り、審判を避けられません。


悲しみの堕落以来、歴史は悲しみが続く厄介な闘争歴史となりました。この歴史の旅路で、動機と目的の世界を切望し、落ちながら天に呼びかけ、追い込まれながら天に呼びかけ、死にながら天に証しした私たちの先祖たちの究極の目的は何だったのでしょうか。動機と目的の世界をなすことでした。このように、海原聖師の日を楽しみにして死んだ先祖たちが多いので、私たちの体には天のために闘争した歴史的な船地線列の血が流れています。その血が皆さんの心に染まっていて心情に染まっていることを知って、皆さんはそこにお答えしなければなりません。さらに神様にまでもお返しできる人にならなければならないのです。


そんな人になれば、その人は自分を何とも変えることはできません。ですから、イエスは40日の断食後にサタンが現れ、餅をジュマの世界をジュマしても嫌われました。どんな人が何を与えるとしても嫌だと言われた一歩だったので、サタンが地上のすべてをすべて与えるとしても断ったのです。果たしてメシアの資格を整えたとは見えません。世の中の何を与えてもみんな嫌だったイエス様、世のすべてをすべて占めることができましたが、この世は神様のためにあるとされたイエス様、サナダウンの告白と希望に燃える情熱を持ったイエス様であったので、天が「ダメ」とはできなかったのです。


統一教会の信徒と自負する皆さん、勇敢な気配を持って天のために素敵に戦うという覚悟をしたなら、それをその何とも変えてはいけません。人間が良いという何を与えるとしても「いいえ。」、どんな主権を与えても「いいえ。」、殺しても「いいえ。」と、ひたすら神様の御心通りにする時だけ「来る」ことができなければなりません。


ひとつで終わりがなければ熱まで、熱から終わりがなければ布まで行ってもサタンの亜性を突き抜けなければならない堕落した人間たちです。ところが人間はこれを知らない。皆さんが統一教会を訪ねてきてくれてありがとう。しかし、自分の要求と欲望は入ってきたその日から捨てなければなりません。皆さんが持っている欲望や要求は、すべて埋蔵してしまった後にこの仕事を始めなければなりません。摂理的に見てもそうです。イエスはそうし、多くの預言者が敵の窓に血を流しながらも、それを悪くして天に向かって叫んだ。 「父!恨みを押してください。


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天の皇太子であるイエスがこの地で露のように消えたその事実が幸せに歌えるのでしょうか。いいえ。万民が歓喜の声で歌い、天地が動員され、彼の栄光を高めてあげなければならないでしょう。そうして悲しみの涙を流しながら「荒れてきます。」しているのが今日のキリスト教です。


私たちは、これらの歴史的なすべての空運を超えて、私たちが望みの日を成し遂げたいと願っている天とイエス様があなたの心を知って自分自身を守らなければなりません。天が啓示を信じて、私は天のために生き、天のために死ぬという心に任せなければなりません。燃えるその心が民族観念を破り、私造を破ることができなければなりません。ここで言う人も若いです。


今日の世界から見て、私たちは貧しい人々です。しかし、暗やみの権威の下で、天の悲しい心情に代わって働くことができ、その心がどうだと言える立場に立つことを荒々しく感謝しなければなりません。 「これを何と変えることができるのか?歴史的な神様の道に参加することができ、時代的な神様の道に参加することができ、さらに一歩進んで、未来的な神様の道に参加することができますが、何と変えますか?新しい理念を助けるこの仕事を何と変えようか?


この路程には疲れることも多いでしょう。落胆することも多いでしょう。これを悪くて不変の信念を持って天地の前に誓うまで行けない道です。人間は弱いです。ために与える人が弱くなりやすい世界です。しかし、この道を行かなければならない人間なので、イエスもこの道を行って天と縁を結ぶために一晩中祈りました。


まだ戦いは終わっていません。皆さんは体の世界に混乱が起きれば広がるほど心の世界、心情の世界は鋼のような標準を持って、天の動機と目的の世界を待たなければなりません。その世界を待っている父を知って心情世界の生活感情を持った姿にならなければなりません。そうすれば誰のためにも知らずに生きるこの世界を収拾することができ、恥ずかしい歴史を収拾することができ、どんな望みもない未来を直立させることができます。皆さん、これをよく知る必要があります。


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それで天と地と神と私の関係を見てみると「天は地のために、地は天のため、天の地は人のため、天の地に住む人は神のためでなければなりません。」四位一体の心情の世界で楽しく暮らそうとするのが私たちの願いです。




<祈り>


お父様! 青春時代が通り過ぎるのがサーグルプダハオや父に向かって燃える宇宙史的な情熱を持たないことを限りなくすることはできません。


お父様、血の縁が歴史とともに時代と共にあり、未来にもつながっていくすばらしい瞬間に供物として現れた私たちであることを知らせてください。私たちはこれまで何のために生きてきましたか?過去や現在はどうでしたか、未来はどうなるでしょうか?これが単純な問題ではないことを彼らが今日の言葉を聞いて知っていたと思います。


目的を訪ねなければならない人間であり、目的を成し遂げなければならないこの時が来ます。お父様はその目的を成し遂げて人間を愛さなければならない父であり、私たちだけのためにすべき父ではありません。しかし、私たちが悲しみに遭ったら一緒に悲しみ、私たちが痛分解すると一緒に分解し、数千年の歴史的な悲しみに時代的な悲しみを加えて感じ、未来の悲しみも余裕がなければならない立場におられる父であることを知っています。お父さん!どれくらい苦労しましたか?どれくらい懐かしくて、どれくらい辛かったのか、どれくらい疲れましたか?自分が傷つけて険しい席にあるとしても、それを忘れてお父様の手間の前に自分も知らない涙流すべき人間ですが、堕落した人間たちはこの事実を知らずに生きます。


お父様、これらをそのような場所までどのように引き上げなければならないのかが問題です。私達のすべてをすべて失い、すべてが踏む限りがあってもそれのために働けるようにして下さい。そうすれば、私たちの心が傾き、体も卑劣で行きたくなる、心情がとどまりたいところを行く時が来るでしょう。そこを私たちの心が隠さなければ行けず、体が隠さなければ行けず、心情が隠さなければ行けないのは、父を知らない軟膏が来ます。歴史的なお父さん、時代的なお父さん、未来的なお父さんであることを知っている者がいる 割振台の体が千万回引き裂かれていないと思います。このようなことを感じると思う真の孝子 孝女の情熱を持った息子娘たちをお父様が楽しみにしていることを今日ここに集まったあなたの息子娘たちに知らせてくださるように願っております。


今日この教団、この教会に従う人々は悲しい場所に住んでいます。孤独な者の道をたどる人々は、孤独な行路、凄惨な行路を行かなければならず、涙をつけるべき境遇と環境にあることを知っています。この時は嬉しく生きることができる時ではなく、喜喜落楽踊って生きる時でないことをああ、私たちのすべてをすべて失い、喜びと幸せが切り捨てられても動機と目的の世界を抱きしめて身につけることを知っている人になるようにしてください。ゲッセマネの園で「私の思い通りに飲んで、父の思い通りにください」とされたイエスのような苦難の主人公になるようにしてください。


行かなければならない道は遠く、終わりは近づいてくるので、忙しい心は禁じられていません。無知な人間たちは知らなくても天は行かなければならないことを私たちに知らせてください。そうして、その目的のために生きるあなたの息子娘になってくださるように、お父様、切に願って来てほしいと思います。


眠っているこの民族を覚醒させ、悲惨な死亡世界で怯える人類を覚醒させ、さまよう人々のために天上にある億千万霊人たちが動員されていることを知らせてくださる事をお父様、切に願っております。


天を抱いて地を抱き、お父様の心情を抱いた心で、お父様を慰めることができるひとつの王子が現れることを切に願うお父様の心情を欠いているのか分かりました。お父様を受け入れて祀ることができる一人を立てて、そのような形でも備えなければならない責任が私たちにあることを知らせてください。


その仕事のために動員された私たちだから、天に対する一片断心の忠誠として天を高く賛美する場で倒れ、天のための肥料となり、材料となり、天の道具になってくださるように願っております。


すべてを引き受けて主管してください。私たちの生涯と全体の願いをお父様に委託し、お父様に従うことができる私たちとならせてくださるように願いながら、主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。

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文鮮明先生 御言葉選集 8-2

2025年03月20日 15時05分08秒 | 学習

文鮮明先生の御言葉選集 8 - 2.最後の問題は父と私 (1959年10月29日)
最後の問題は父と私
1959年10月29日(木)、ソウル市西大門区


私たちは、親の心情を持って地や万民に接することができる人にならなければなりません。 神様がアダムとエバに接するように、アダムとエバもその心情の前に感謝することができれば、神様はその上に新しいものを加えてくださったはずです。 しかし、神様は彼らが堕落したことによって、それを中断せざるを得なかったのです。そのため、人間を復帰させるために今日まで6千年の間、心血を注いで来られたのです。 悲劇の糸口が子供たちのせいではなく、サタンのせいだとみなされ、悔しくて悲しい条件はサタンに帰し、嬉しい条件だけを持って子供たちに接して来られたのです。


神様は無形の心が願うことを実体的に成し遂げてくださいます。私たちは死に、死に、また死んでも、神様が望まれた御心を成就させなければなりません。 もしそうでなければ、神様の悲しみを取り除くことができません。


聞くことも見ることもできない皆さんをこの基準まで引き上げるために、神様がどれほど苦労されたか分かりません。 ですから、私たちは父のために呼ばれ、また生まれたことを実感しなければなりません。


私たちの始祖が天使長に近く、父に近づけなかったことが堕落の原因でした。復帰をするのも、どの民族や人類のためというよりも、父のためであることを肝に銘記しなければなりません。 ですから、どんな難境でも感謝しながら民族や国家のために働かなければなりません。 そうすれば、神の息子にはなれなくとも、国家の忠臣にはなれるでしょう。


私たちはどのような困難と憤りと恨みにぶつかっても、父の歴史を思い出して「当たり前です。神様はそのような人に手を挙げて祝福してくださいます。 摂理の御旨の前には無限の苦しみ、無限の悲しみ、無限の十字架があります。神様は自分の不足に身を任せる人を探しておられます。どうか今後は、自分のせいで嘆く人にならないでください。私たちはサタンの反旗を避けたり、その前に疲れ果てて倒れてはいけません。


最後の問題は「父と私」です。父の蕩減成就がどのようなものであるかを知れば、私たちにはどんな言い訳もできません。 このような心情で伝道してこそ、真の息子・娘を見つけることができます。問題は、父の心情を知り、解怨聖事することに参加することです。 栄光の座も何もかも捨てて、「どんな仕事も、伝道も私がやります。 もう父の十字架を私に任せてください」と言えるようにならなければならないということです。


この最後の峠を越えるためには、親に対する愛の心情を持たなければなりません。父だけが願いの全体であり、価値の全体であることを知って受け止めなければなりません。さらに、「私が父の息子になるなんて」と感無量に思えるようにならなければなりません。 イエス様を死からよみがえらせた神の愛は、父と息子の関係から生まれたものです。 ですから、私たちも「父は6千年の間、労苦と悲しみと傷を受けましたが、私が労苦と傷を受け、悲しみを受けたとしても、父のそれに比べられるはずがない」という心情を持っていれば、サタンは引きずり出すことができません。


子どもを失って悲しまれた神様を考えるなら、哀れな人類を抱いて嘆くことができなければなりませんし、歴史的な悲しみを受けられた神様を抱いて嘆くことができなければなりません。たとえ私個人は全人口の27億分の1に該当しますが、神の御心に加わるという心情を持たなければなりません。 今、私たちは親の愛を受けるだけでなく、親の代わりにならなければなりません。


私が眠っている瞬間にも、父はどこかで苦労しています。哀れな人を見るとき、自分の立場で接するのではなく、彼にも彼をひどく愛する妻や夫、親と子、あるいは兄弟がいることを知って、そのような立場で接するべきです。親に十字架があるなら、心情的な十字架以上の十字架はありません。 道を通った時、かわいそうな事情を持った村人を見た時、あるいは民族がかわいそうな境遇に直面した時、父に代わって「心配しないでください。私がいますよ」という心情で生きていれば、彼は天の友人であり、兄弟であり、息子であり、娘なのです。 両親はいつも心情的な十字架を背負って、犠牲になった十字架の道を歩んでいます。


ノアより、モーセより、イエス様より、イエス様よりご苦労された方は神様です。どの個人、どの民族、または先生より、もっとご苦労された方は神様です。この時代にいけにえの立場におられる方が神様です。父がそうなので、私もいけにえの道を歩まなければならないということです。 私たちが父の前に立つ道はそれしかありません。 ですから、どの国、どの機関に接するにしても、「これは父のもの、つまり私のものです。そこで労苦する者は父の仕事をしているのだから、私の仕事をしているのだ」と考えなければなりません。 仕事場で労苦している農民を見たら、ポケットマネーでも渡して慰めることができなければなりませんし、また、「私の息子や娘があそこで働いているんだな」と祝福してあげなければ、父の息子や娘になることはできません。


草一本を見ても、「父のために育ったんだな」と涙を流すことができなければなりません。第3イスラエルの人は、そのような心情で動き、どこへ行っても「私の土地、私の仕事だ」という思いを持たなければなりません。 これから先生が目指すのは、親の心情を持ち、父の代わりに主人の役割を果たすことができる皆さんを作ることです。


この地の青年男女に望むのはこれですから、何よりもまず、父を所有する者にならなければなりません。 自分の心がこれだから、父の心情はどうだろうと考えることができるようにならなければなりません。 高く大きく見つめておられる父、また、先生も皆さんをそのように見つめておられます。


ですから、皆さんは十字架と供え物の立場を負う者にならなければなりません。 そのような心で伝道し、勉強し、働く人は滅びることができません。 裸足の供え物になることを自負してください。供物は曲ネがある時に祈ります。その立場は楽な立場ではありません。


供え物の立場に立つと良いとか悪いとかよく言われますが、皆さんはどこへ行ってもその地域のいけにえにならなければなりません。いけにえは殺しても抗議できませんが、頭を下げたいけにえは生きた権威を持って現れます。神様がそうして歩んでこられ、先生が、そして統一教会教徒がそうして歩んできました。

私たちには、自分自身の道と供え物になる道があります。自分の道を行く間は、伝道はできません。 しかし、供え物の道を3年以上6年まで行くようになれば、誰でもその前に屈服しないわけにはいきません。 私は金持ちの息子、神の息子という立場ですべてのことに対処してください。そのような心情で復帰の峠を越えれば、神様はすべてを任せてくださるでしょう。

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文鮮明先生 御言葉選集 8-1

2025年03月15日 18時50分15秒 | 学習
文鮮明先生の御言葉選集 8 - 1. 贈り物のような存在だと気づける私 (1959年10月25日)
1959年10月25日(日)、全本部教会。
創世記1:24-31


1

<祈祷>

私たちの素質が果たしてお父様の御前に捧げられるものであるかを心配せずにはいられず、許可されたお父様の賜物を受けることができる心と体になっているのか、私たち自身を見つめ直すとき、恥ずかしい気持ちで頭を下げずにはいられないので、憐れんでください。


今まで自分の行くべき道を計ることができる者を捨てたことのないお父様であり、悲しみの席でも自らを悔い改めながら生きようと奮闘するいかなる個人や民族も捨てない父であることを私たちは知っています。お父様、たとえ私たちの心と体はお父様と遠い距離にありますが、お父様は私たちの心の中におられることを楽しみにされていることを知っております。 私たちの体を直接主管することができる一日を望む父の心が大きいことを知っておりますし、心と心を通して私たちと縁を結ぶことを楽しみにされてきた歴史的なお父様であり、時代的なお父様であり、未来にも私たちを捨てることができない創造の縁を持ったお父様であることを知っております。


そのような立場に置かれている私たちであり、そのような私たちに接しなければならないお父様であります。 この縁は何によっても断ち切ることができないので、父は悲しんでも苦しくても、苦しくても、悔しくても、これらを抱きしめながら歴史の道のりを歩んでこられたことを私たちは知っております。 この時間、改めて私たちに憐れみを与えてくださることを、お父様、切に願っております。


お父様の前に敢えて立つ者が誰であり、お父様の前に立つことができると自信を持つ者が誰でありますか。 知れば知るほど、知れば知るほど、身の毛がよだつような天の悲しみを感じない者はいないと思います。 敢えて顔を上げることができず、敢えて身の置き場所を知らされないような黄昏たるお父様の聖像があり、お父様の心情があり、お父様の労苦の痕跡があることを知る者がいなかったのに、私たちがそのような事実を知ることができるように育てて下さったことを感謝いたします。


教えてもらってわかりましたし、教えてもらってわかりました。 これは誰によるものであったのでしょうか。 私たちが優れているからそうなったわけでもなく、私たちが備えるべきものを備えているからそうなったわけでもありません。 歴史的に善を慕っていた数多くの先祖が天と結ばれた縁が、私たちが知らないうちに私たちにも及んでそうなったことを知ることができるようにしてください。


2


今日のわれわれは、今日のわれわれだけではなく、その縁を尊敬することができ、その縁と共に楽しむことができる人になり、その縁を裏切る者にならないように主管してください。 その縁の中に浸透し、心中にその縁を歌い、お父様を顕現し、お父様の前に栄光を捧げることができるわれわれとなることを切に願い、願います。


お父様、私たちの心はどのような位置にあるのでしょうか。 私たちの体は何を待っているのか、何によって動いているのか、どこに置かれることを望んでいるのか、自ら考えさせます。静寂の中で、お父様はこの時間も命の価値を感じるように促しておられることを私たちの心で感じさせてくださり、人間が自分の命だけを握りしめて喘ぐ悲慘事のために、それを見て悲しむしかないお父様であることを知ってください。


私たちの心情や心の世界を支配される父よ、親身になってこの時間、私たち全体を本性的に支配してくださり、本質的に主管してくださいますように。本性の人、本質の人、本質の人と善に対して喜び、善の御言葉に和解する人となって、心と体でお父様と和解することができる立場に立たせていただき、私たちに新しい御言葉をお与えくださることを、お父様、切に願っております。


今、ここにお父様の御言葉を示そうとしますが、どのような御言葉を申し上げましょうか。 すでに多くの御言葉をおっしゃいましたが、御言葉の価値を探さなければならない使命を今日、この時点で私たちの心と体を通して知らせようとしておられることを知ると、不足を申し上げることができません。 しかし、再び生きなければならない人間であるため、同じような御言葉でも再び勧められなければならない私たちであることを知ります。お父様と断絶しないためには命の御言葉を受けなければならない私たち、卑しい心と不足した心を持ってお父様の前にひれ伏しましたので、伝えようとする心と受けようとする心が一つになるようにしてください。


優れた人がどこにあり、醜い人がどこにあるのでしょうか。 心情を通じては一つであることを知っておりますので、天の心情に同調し、決心し、和解し、応じることができるようにしてください。 そうして、お父様の栄光だけが私たち全体の生命の前に現われ、お父様の生命の賜物が私たちの心中深く深く浸透するように働きかけてくださいますように。私たちの心と心情を動かしてくださり、永遠の生涯路程を開拓し、復帰の恨を解く新たな覚悟と決心が私たちの心中から爆発するこの時間であることを許可してくださることを切に願っております。


3


この時間、韓国各地に散らばっている孤独な食口たちが民族のために切に祈っていると思いますので、お父様が彼らの友となり、彼らの前に賜物の主体となってください。親しく主管してくださり、涙を流すならお父様に代わって流すことができ、悲しいことがあるならまずお父様の恨みを考えることができ、労苦をするならばお父様に代わって労苦し、この民族の前に新しい血肉の土台を築くことができる息子・娘になることをお許しくださり、天の恩寵に接することができる祝福の時間であることを許してくださることを切に願っております。


この時間、頭を下げた億兆兆兆生の上にも生命の権限をお与えくださり、天上にいる数多くのあなたの子女たちも私たちと和合して勝利的な栄光の一つの土台を築くことに協力するようにお導きくださいますよう切にお願い申し上げながら、すべての御言葉を主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。




<御言葉>
 今日、少し考えたいタイトルは「贈り物のような存在だと気づける私たちになろう」です。「贈り物のような存在だと気づける私」このようなタイトルでお話させていただきます。


皆さんは自分をすごく大事にしています。生きていても自分を中心にして生きたいし、すべての世界が自分を中心にしてほしいといつも思っています。このように一番上の位置にいたいと思うのが私たち自身であることを否定することはできません。 それだけ自分が貴重であれば、言うまでもなく貴重なのです。 だからこそ、イエス様は人間自身の貴重な価値を知り、自分は世界を与えても変えられないと述べました。 神様も、私たち自身が無限の価値を備えた時は、私たちの一個体を神様の神殿にすると言われました。


今日、私たちが生涯の旅路で喘ぎながら信仰生活をする目的はどこにあるのでしょうか。 私自身は全体の価値と延しようとする目的観によって動いていることを私たちは否定できないのです。 このような私を見てみると、上には天があり、下には地があります。左右には私たちが生きている世界と家族、そして種族があり、前後には先祖と子孫があります。このように上下前後左右を見るとき、私という存在は厳然たる縁の圏内から逃れることができないことを自ら感じて生きてきましたが、この時、私たちはそれを改めて感じなければなりません。


4


上を向いても下を向いても、前後を向いても、左右を向いても、そのすべてが私と縁があります。 また、この縁は一時的なものではなく、生命を持って行く生涯の道程、すなわち生涯にわたる縁なのです。いや、もっと言えば、歴史以来、今まで縁があり、今日の私を越えて千秋万代の子孫まで縁があるべき、そのような縁の祭壇の上に立っている自分自身であることを私たちは考えなければならないでしょう。


このような私が破られる日には、私を中心とした天の縁が破られるでしょうし、地の縁が破られるでしょうし、世界あるいは種族と家庭のすべての縁が破られるでしょう。 だから、人を置いて、天と地を代行した小宇宙と言うのです。


私の心は空を抱きたいと思っています。また、私は天地の何物にも止められない主権者、代表者の心情によって動かそうとします。 このような私、このような縁を持つ私たちを深く解剖していくと、無限に価値のある存在であり、無限に大きな存在であることを知ることができるでしょう。


では、このような私たちはなぜ生まれてきたのか? 目的なく生まれてきたわけではありません。 あなたが朝起きて無意識に食べるご飯の一口も目的なく食べられるわけではありません。 私が一日の生活を営み、活動することも、そのような深刻な見地から見れば、重大な目的を達成するために動いているのです。


私の個体を中心にしてみてもそうですから、上には天があり、下には地があり、世界万事がありますが、その全てがどのような目的や理念を持って動いていないと言えるでしょうか。 この全ての動きは、私たち人間、つまり私自身を賭けてパンガリをしていることを知らなければなりません。 皆さん自身は、天と地、全世界の前にパンガリすることができる代表的な供物の立場にいるのです。 そのような皆さんが供物としての責任を果たせば、天と地が善を成し遂げることができます。


5


皆さんはこの地上に送られてきました。このような国自体は、天と地が擁護して一つの勝利の姿で立てるために、この地上に送られた至極崇高な贈り物であることを知らなければなりません。 天主的な見地から、種族を代表するのか、民族を代表するのか、国家を代表するのかにかかわらず、天の贈り物として送られた者がまさにあなた自身であることを考えてみてください。


自分の体、自分の心、自分の思想、自分の心情、この全てが自分のものから始まったものは一つもありません。 自分自身を掘り下げていくと先祖がつながり、この縁を掘り下げていくと今日までの人類の歴史がつきまといます。 この縁に導かれて裏切られる立場にある自分自身であることを考えるようになった時、自分を疎かに考えてはならないでしょう。


自分自身は自分のものでありながら、自分のものではありません。 この民族の前には民族のために送られた贈り物であり、家庭の前には家庭のために送られた贈り物であり、夫婦においては相手のために送られた贈り物であり、天地、全世界においては、それぞれそのために送られた一つの贈り物であることを皆さんは知らなければなりません。


個人においては自分自身を見てください。人々は、心は天を象徴し、体は地を象徴すると言います。 では、今日の天と地、この天宙は何を中心にして動くのでしょうか? 理念です。 その理念は、生活する上での観(觀)です。 この生活観は、自分中心の生活観ではなく、天と地を中心とした生活圏でなければならないのです。 つまり、天と地を中心とした生活でなければならないということです。


本来の私の一個体は、天と地を代表して造られたことを知らなければなりません。私は無意味に歩き、無意味に動いていますが、私一人を造るために天地全体が動員されたことを知らなければなりません。


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私たちには三人の親がいます。第一は、この地が私たちの親です。 身体を造り、産み、育ててくれる地が地なのです。 だからこそ、私なら国、世界なら世界が地に向かっているのです。 次に、私の肉体を産んでくれた親がいます。 そして、その次に私の心の親がいます、私の心の親。この三人の親を忘れてはならない人間であることを皆さんは知らなければなりません。 私の身体は地を象徴し、私の心は天を象徴するのですが、この心と身体はどうあるべきでしょうか。 永遠に一体を成し、お互いに抱き合っていかなければなりません。心は主体であり、体は対象であり、天は主体であり、地は対象ですから、天と地が互いに抱き合い、和合していくことが創造の原則です。


天地を創造した創造主がいるとしたら、その創造主はなぜ万象を造ったのでしょうか? ただ、離れて放っておいて見物するために造ったわけではありません。 その造られた万象を相対的な立場に置き、共に永遠に授受し、和解するために、永遠に動くために造られた世界であることを私たちは知らなければなりません。


そうすると、天と地によって造られた体と心が永遠に抱いて楽しむことができるその一つの姿はどこにあるのかを考える必要があります。どんなに賢く、どんなに権威を誇っている人がいたとしても、その体と心が相反する境地にあるのであれば、それは創造理念で与えられた天的な贈り物を遺棄した者であると言わざるを得ません。


ですから、イエス様は「父は私の中にあり、私は父の中にあり、私はあなたがたの中にあり、あなたがたは私の中にある」と言われました。 これは何を中心にしてそうなることができるのでしょうか? 体を中心にしてそうなることができるのでしょうか? そうではありません。 理念を中心にしてそうなることができるのでしょうか? そうではありません。 私たちの心と心情の世界を中心にしてそうなることができるのです。


イエス様はまた、「天国はあなたの心にある」と言われました。私たちの心の世界は無限の縁を歌い、私たちの心情は無限の甘さと無限の充足を誇ることができるようになっています。 そのような縁で、今日の私たちは天地に代わって送られた貴重な贈り物です。その貴重な贈り物が自分自身であることを皆さんは考えたことがありますか? 贈られた自分を考えたことがありますか?


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どんな宗教もいいし、どんな思想もいいし、どんな主義もいいですが、その目的がどこにあるかを知らなければなりません。


皆さん、天地に代わって贈り物として送られた自分の価値を考えてみましたか? 天が喜び、地が喜ぶことができる姿になるために送られたことを、自分はそのような姿になるために奮闘していることを皆さんは考えてみましたか?


私たちの心は天性に従うように命じ、体はこの地に対して闘争するように命じています。このように二股の相反する方向に進んでいる心と体は、歴史的な最終段階で一つに和合しなければならないのに、和合できるものがないのであれば、宗教だの創造主だの、どんな理想だの、すべて無駄だということです。 そう考えると、この地上に贈り物として送られた私たちこそ、尊いのであれば、限りなく尊いのです。 ですから、この贈り物である自分を無視した者は、天倫の法則の前に立つことができないでしょう。


人は天と地と和しています。人倫は天倫に和するようになっています。主体の前に対象、あるいは主体の前に対象は必ず和するようになっています。対象は対象の立場であるため、主体の方向性を持っています。 そのような縁で、私たちはなぜか分からないながらも、良心を中心にして生活しようとします。良心の命令から外れて生きようとする人は一人もいません。


天倫が別にあり、人倫が別にあるわけではありません。 自分の心と体が和合して動けば、天倫と人倫が和合して統一性を備えることができるのです。 しかし、人倫があり、天倫があるのは何のためでしょうか。 人間が天倫に従えないからです。 だから、再び天倫に従った生活をするためにもがくのが、堕落した世界の人間たちの生活実態です。


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皆さんはたまたまこの地上に贈り物として送られました。 では、皆さん個人をこの地上に贈り物として送られた目的は何でしょうか? 個人を立てた目的はどこにあるのでしょうか? 個人を立てて何をしようとするのでしょうか? 個人を立てて相手を抱いて夫婦を成すようにするためです。 では、夫婦を立てて何をするのでしょうか? 子供を抱くためです。 それが家庭です。家庭を立てて何をするのでしょうか? 種族を立てて何をするのでしょうか? 種族を立てて何をするのでしょうか? 氏族、部族、さらに民族を抱くためです。 民族を立てて何をするのでしょうか? 民族を立てて何をするのでしょうか? 国家を立てて何をするのでしょうか? 国家を立てて何をするのでしょうか? 世界を立てて何をするのでしょうか? ここに今日の歴史がかかっています。


人間をこの地上に贈り物として送ったのですが、その贈り物は個人に止まってはいけません。 体はたとえ一つの体であっても、心の世界、心情の世界は無限の天主を抱いて歌いながら生きたいと思っています。創造主がいるとしたら、どのように私たちを支配するのでしょうか? 心情の世界を通して、思想の世界を通して支配します。そこから私たちに向かって「来い、来い、来い」と言われるのです。 これは良心を通して促して入ってくるのです。 良心は何であるか分からない力の作用です。


個人は個人を大切にしなければなりません。個人を大切にすることができる人は、必ず家庭を大切にすることもできるはずです。家庭を大切にするだけではいけません。


原始時代は家庭単位の時代でしたが、家庭単位の時代は過ぎ去ります。なぜなら、私たち人間は天宙を抱くことによって天宙的な贈与の立場を完成させ、贈与された縁の価値を歌わなければならない責任があるからです。 そのような縁で歴史は発展していきます。 自己同士を愛し、自己の家庭だけを愛する時代は過ぎ去り、家庭を越えて氏族、氏族を越えて部族、部族を越えて民族に行くのです。 民族にとどまるだけではありません。 次は国家を立てなければなりませんが、その国家だけにとどまるわけでもありません。 国家を越えて世界的な形まで進まなければなりません。今、残されたものは何でしょうか。 私たちをこの地上に送った目的は、私の心と体が世界を抱き、世界と和解できることを願って送ったに違いないでしょう。


聖書を見ると、天はアダムとエバを創造して祝福してくださいました。アダムにはハワイアンがいて、ハワイアンにはアダムがいました。 彼らは二人ですが、一つを標準とした天の贈り物でした。 それで、二人が一つになって全被造物を主管するように天は祝福しました。 ハワイアンは体の象徴であり、地の象徴であり、アダムは心の象徴であり、天の象徴ですから、そこには全体が含まれています。 では、この二人はどうなるべきでしょうか。 一つにならなければなりません、一つです。一体です。 これが天地の原理です。


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体は二つでありながら一つ、一体と言われました。 二人が一体になって何をしろと言われたのですか? 万宇宙を主管しろと言われました。 主管しろと言われた目的は何ですか? 万象と関係を結ぶためです。創造主は個人の創造主ではなく、全天の創造主であるため、全天と縁を結ぶために、人間に万物を主管する権限まで許されたのです。


そのため、人類の歴史は、人間が全世界を主管できる基準に向かって流れています。 体と心が和合するように、この世界は心と和合し、体と和合することができる世界に向かって、この世界は波及しているのです。


今となっては、もうすぐ終わると言えます。この求動性でそう言っているのです。世界的な教団やどのような主義思想でも解決しにくい時代が来ました。今日まで人間の前に提示された主の主張では、私たちの心の世界を包括することができず、心情の世界を安息させることができないのです。 哲学も、宗教も、科学も、自ら降伏しなければならない段階に入っていることを皆さんは知らなければなりません。


ここで知っておくべき問題は何でしょうか。 それは、この世界は何を抱かなければならないのか、何を抱かなければならないのかということです。心界を越えて、天主を越えて無限のものを抱かなければなりません。 この世界が抱いている以上のその何かを抱き、その価値を歌うことが地上の何よりも尊いということを感じなければならないのです。 そうして初めてこの世界を支配することができるのです。


個人を立てたのは家庭を抱くため、家庭を立てたのは社会を抱くため、社会を立てたのは国家を、国家は世界を抱くために立てたのです。 過去にも主義や主張は多かったのですが、世界のためのものが世界的な主義になりました。 ある人が主義を持って出たとしたら、世界を抱くことができる足場を立てることによって、その主義は世界に伸びていくことができるのです。 そうなれば、氏族的な観念は全部壊れていきます。民族的な観念も全部壊れます。これは創造理念がそうなっていないからです。


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今日は世界主義の時代です。二つの陣営が対峙して世界を分ける時です。 これが喧嘩で終わってはいけません。どちらが心を象徴し、どちらが体を象徴するという内容の基準を立てて解決しない限り、この世界は混乱が起こり、自滅の道を避けられなくなります。 そうすると、創造原理で見るとき、世紀末的な終末に立っている現在の私たちはどうすべきなのでしょうか。 創造理念がこのようなものであるならば、この宇宙を抱きしめても残れる絶対者である神様がいるのであれば、人間が神様も抱くことができるのです。 ですから、人間の心は神様を抱くことができる境地まで走っているのです。


だからこそ、神様は「あなたの中にいる」と言われました。 どれほどありがたいことでしょうか。 しかし、神様があなたの体の中に入っているでしょうか?心の世界は無限大です。心情の世界も無限です。心がそのような本質を備えているからこそ、神様がその心を中心にして動くことができ、また共におられることができるのです。 皆さんの心がそうでなければ、どんな人がこの世界を自在に支配できるようになったとしても、その心が望む基準を満たす道理がないのです。 無限の世界と天倫を外れて、心で歌わせ、その心を安息させることができるものがこの世にないということです。 そのような作用をし、そのような感じを起こせる主体があれば、その主体と関係を結ぶまでは、このような願いは解決されません。


私たちは天の前に愕然としなければなりません。 卑劣で呪われて当然の堕落の子孫をここまで引きずり出した天です。今日私たちが読んだ聖書の御言葉の著者であるヨハネは、私たち人間について、すでに死んだと言いました。 「お前は生きたと言う名があったが、死んだ者である」(黙示録3:1)と記録しています。


生きているように見えますが、死の圏で苦しみながらうめき声を上げている人間です。 このような人間を修繕して、どうであれ世界の形まで引きずり出してきました。 多数の主義を通して引きずり出してきました。 個人より民族を愛する主義は民族を動かし、民族より国家を愛する主義は国家を動かし、国家より世界を愛する主義が出てきて世界を動かしました。今残っているのは、世界だけでなく、天地を愛することができる主義、そのような主義が出れば、この天地を占領することができるでしょう。 神様は、このように数え切れないほどの闘争の歴史を経て、哀れな人類を引きずり出し、今日、このような世界を作ってくださいました。


今日、この地は世界型になりましたが、本当に神様の心に似た世界があるでしょうか。 身体の形、つまり外的な面はすべて整いましたが、この身体が地を象徴したのであれば、終末に神様の心と連絡できる一つの 0ムネtヌあるかどうかが問題です。


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今日、この時代に世界的に現われるすべての現象は、天倫によって動く歴史ノートの賜物であることを私たちはよく知りません。 ですから、数多くの革命の過程で自己の主観を持ってそれらに反対したならば、彼らは天倫の逆賊だということです。 今日のこの時代は、新しい時代に移ろうとしています。天がこの時代を新しい心の世界へと導こうとするとき、世の中の数多くの人々が反抗すれば、彼らも非難されないわけにはいきません。 イエス以前のユダヤ教がそうであり、イエス以前のイスラエル民族がそうでした。


今、世界主義の時代が過ぎ去り、新しいカトリック思想の時代が到来する時に、双手を挙げて歓迎し、その時代の中心の前に全体が屈服できなければ、すべて破綻します。これがワル大審判です。 イスラエル民族が蕩減の中でも、自分の歴史的観念とすべてを忘れて、モーセの前に頭を下げ、天が共にするモーセを抱きしめながら出て行く時は、目の前に遮られた紅海も難なく渡ることができ、目の前の逆境と苦しい環境も難なく乗り越えることができました。 しかし、モーセと分かれるようになると、60万の大衆は荒野で全て倒れました。 なぜそうなったのでしょうか?


歴史を支配して出てくるものは何でしょうか? 当時の人々を導く思想や主義ではありません。 より高いところに向かって導いてくれる心なのです。 そのより高いところはどこでしょうか? 神様の心です。 ですから、歴史は最終的に神の心と連絡できる道を切り開いているのです。 歴史を支配して出てくるのは、その時代のどのような主権や組織や機関ではなく、その組織を導くことができる高い理念です。 その理念に邁進し、その理念に団結していく時、その国は栄え、そうでない時は滅びました。


そのような理念を立てるための神様の御意志があり、その理念を中心にして世界的な形に追い込み、終末まで導いてきたのであれば、今、この世界にはどのような形が出なければならないのでしょうか。 この歴史の心となるような天的な内容が人類の前に現れないのであれば、神の愛だの何だの言うことはすべて嘘になります。世界史に宗教を立てて出てくるのもそのためです。 新しい何かが出なければならないということです。


ノアの祖父は家庭的な時代に、新しいその何かを見据え、天の祝福を受けることができる日を待ち望んでいました。 神様がアブラハムを祝福する時、「あなたの子孫が天の星のように、海辺の砂のように繁栄するようになる」という願いの条件を立ててくださいました。 イスラエル民族がファラオの圧制下から飛び出す時には、カナンの福祉を贈り物としてくださいました。では、イエス様をこの地に送った時には、何を待ち望ませたのでしょうか? 望みの実体であるメシアを待ち望ませました。 しかし、イエス様がその御旨を成し遂げられずに行かれた後、2千年の間、何を望ませたのでしょうか? 新しい一日、終末を望ませました。 ですから、この望みの基準を失った民族は打ち砕かれます。


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私たちの体は天から与えられた一つの贈り物ですが、堕落によって、まだ贈り物になることができる体になっていません。 また、私たちは完全に心の本拠地を見つけられず、天と共に、地と共に楽しむことができる永遠の本拠地を見つけられず、体の本拠地と心の本拠地を探し、心情を中心にして天と共に生きることができる生活の本拠地を見つけられませんでした。


人類の歴史は再創造の歴史と言われ、人間一人を完成させるために動くということを学びました。 それで、外的な面で体の本願を世界舞台に上げるために導き出しました。 ここで問題となるのは心の本願です、心の本願です。この世界がどんなに外的に天国型を整えても、心の本拠地が整っていなければ、人間は不幸です。20世紀の文明がいくら高度に発達したことを誇り、人類の前に貢献したと大声で叫んでも、人間が安らかな眠りを得ることができ、すべてを忘れることができる心の安息の場を与えられない限り、この歴史はいつかは壊れてしまうでしょう。


人間は堕落したと言われます。堕落が死んだとすれば、人間が堕落したのですから、世界も死んだのです。世界が死んだ立場にあるため、人類はそれによる苦しみを経験しています。つまり、死の中から復活するために苦しみを受けるということです。 これが復活の苦しみです。


神様が人間を創造する時、心を先に創造されたのではなく、体を先に創造されたのです。 ですから、私たちが復活するにも、まず外的な世界から整えなければならないのです。 皆さん、原理で学んだように、この外的な世界においても、善の形と悪の形があり、それが今日の二つの陣営です。 これが対立し、最後の激戦を繰り広げています。どうせこれは一つを中心にして動かなければならないのですが、そうなるためにはどうすればいいのでしょうか? 外的な体と一緒に楽しめる一つの理念がなければなりません。 それがなければ、人類歴史は悲惨なものになるでしょう。


人類は未だに体の本家を見つけられず、私たちの体が恐怖を感じる世界に置かれているのを見ると、体の本家を見つけられないことが分かります。どんなに危険で、どんなに困難な立場にあったとしても、子供が親の腕に抱かれているときは恐怖を感じません。 同様に、私たちの体の本場が見つかったとしたら、現実の生活で心と体で喜びを感じるはずなのに、この地上では時間が経つにつれて恐怖に取り憑かれています。


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天は人間を破滅させるために、この世にあるすべてのものを造ったわけではありません。 つまり、毒の入った贈り物のように万物を造ったわけではないということです。


復活する過程を必ず経なければならないのが堕落した人間の運命です。歴史的な罪の袋が私たちにあるので、これを清算しなければならない最終段階、この罪の袋を清算して、新しい世界に向かって進まなければならない時代に直面していると見るしかありません。


それではどうすればいいのでしょうか? この体が生まれ変わり、安息することができなければなりません。この峠を越えなければなりません。今日、世界はこの峠でうめき声を上げています。解散の苦しみを経験しています。親の腕に抱かれるために、体の安息の場、体の福祉を見つけるためです。


身体は地を象徴していると言われました。 ですから、身体が安息して暮らせる福祉に向かって行くためには、生まれ変わる苦しみを経験しなければなりません。 ですから、時間が経つにつれ、ますます不安と恐怖に取り憑かれるのです。 しかし、その峠を越えたら、喜びがあるのです。 そうでしょう?妊娠している婦人たちが解産の期限が近づくにつれて、どんどん苦しみが増えますが、その苦しみを越えたら、その苦痛に伴った喜びがあるように、そのような峠が必要なのです。


人間を愛する天は、人間を造られて祝福して「私の体は地を支配し、あなたの心は天を支配する」と言われました。 皆さん、創造原理を学びましたよね? 私たちの体は地を支配し、私たちの心は天を支配しなければならないのです。


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人間の欲望の中で最高の欲望は何でしょうか? 地の塊でしょうか? いいえ、地はこの体で支配することができ、同時に心は霊界を支配し、さらに神様まで自分のものにしたいのです。 そうしてこそ、皆さんが安らぎます。 最高のものを自分のものにするその日まで安心してはいけません。 そうでなければ、聖書の御言葉はすべて空しいです。 空しいです。


神様が万物を創造された目的は何でしょうか? それは、人間に至極良い贈り物を与えるためでした。 土の塊で造られたこの体、それ以上の贈り物がどこにあるでしょうか? この体に永遠に生きることができる命を吹き込んだこと以上に大きな贈り物がどこにあるでしょうか?


神様は自分の心が宿ることができる土台を築くために、6千年の間、血を流すような闘争の歴史を経てきました。 これまで人間を抱え、犠牲と犠牲と苦痛に苦しみながら、天倫の責任者として、天情の責任者として呼び寄せ、選んで立てた群れが宗教人です。


どうせ一時は過ぎ去り、新しい一時が来るのですから、解散できる一時、肉体の世界が安息できる時が必ず来ます。 その時、新しい心の土台を築くための内容を教えてくれるのが御言葉です。今日、サタンが後押ししてくるのは、地上に安息の世界が来るからです。


皆さん、いつか一度は贈り物の価値を判断される時が来ます。天が建てようとする歴史的な体、天が求めて立てようとする天主的な心になったのかと、絶対的な基準で見守る時が来るのですが、その時が審判の日です。その時が審判の日です。


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体は万物を支配するように言われたので、この体脂肪は万物の前にぎこちなく現れることができなければなりません。万物がその体脂肪を見て「正しいです。私の所有者です。」そんな故路人類歴史は創造主が祝福された主観の目的を成し遂げるために流れてきました。


過去に人間が世界を知らなかった時は、世界は無限に遠くなりましたが、文明が発達するにつれて、今日の世界は一つの生活圏に入っています。ですから、私たちは世界主義と共に生きなければなりません。その基盤の上に、私たちの心と体が世界主義の縁を越えて天主と縁を結ぶことができなければなりません。天はそのような日を望んで出てきました。それを接触させるために人間代表として来られる方がメシアです。虚無盲になっていてはいけないということです。摂理は秩序的な法道と内容を持って基準を立ててやってきています。


今日、私たち自身は一つの民族の中の個人であり、一つの家庭の中の個人です。しかし、「私」というある存在は宇宙史的な責任を持っており、「私」というある存在は天の地の前に送られた最大の贈り物であることを忘れてはなりません。あなたはそのようなあなた自身の体をあなたにすることを知っておくべきです。 「私の体は6千年の間、天の地が総動員して見つけようとした貴重な体なのですが、貴重な歴史的な贈り物なのです」。確かに天国行きます。


私の体の一つを完結させるために、神様は歴史にフィビリンの私の跡を残されました。涙の道、血の流れる道、苦しみの道、悔しい道を歩んできたのは私一つを贈り物に立てようとしたことであることを知らなければなりません。そうして建てられた私の一体であることを知らなければなりません。そして私自身が恵みを裏切った立場になっていなかったかを見て、天主の理念のために動かなければならない天の贈り物である私の姿はどんな席にあるのか調べなければなりません。その体が不急で不足している割振台自ら頭の宿日を知っておく必要があります。そんな人、そんな心を持つ人々は間違いなく神様の息子娘になります。そんな人は間違いなく天国です。


そんなことを感じて、また自分の家庭で夫婦同士あるいは子どもを扱う時も、このような立場に立って自分がそのような理念のために送られた贈り物であり、万象を扱う時もやはり大宇宙の贈り物の目的を完結させるために送られた自分であることを感じる人、その人に良心は欠かせない。だから私の体は歴史的であり、宇宙史的な贈り物であることを知る必要があるということです。このような体を持って自分の思い通りにしてみると、上には空、下には地、前後左右にあるすべてを蹂躙してしまいました。こんなやつを天国に送ってもらえますか?すぐに地獄に入れる。そうではありませんか?


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今はわかりました、最初は知りませんでしたが。この体は、神様が窮地の間に創造された被造物の中で最高の精力と技量と最高の心血を傾けて作られた実体であることを知らなければなりません。これを眺めながら世界を夢見て、これを通して世界を治りたいと思われた神様でした。このように神様の貴重な贈り物である体を人間は失ってしまいました。この体、それ自体を回復しようとされたので、イエスは「人が万一全天下を得ても私の命を失うと何が有益でしょう。」 ( マルコ 8:36)できたことです。贈り物された自分を蹂躙し、贈り物された自分を裏切る者は滅びます。個人がそうすれば個人が滅び、家庭がそうすれば家庭が滅び、国家がそうすれば国家が滅び、世界がそうすれば世界が滅びるということです。


歴史的な終末である今日の混乱した事祖は、私たちの周りをさらって入ってきているが、ここから壊れていなくても、天の前に贈り物された私の体の価値を歌うことができる凛々しい姿はないだろうか? 「天が6千年の間この地に対して一つの人を楽しみにしていたら、私の体は父がくださった贈り物なので、この体を贈り物にします」と言う時、「来る」という答えを聞くことができるそのような体はないのでしょうか。これが今日の花嫁の理念を探し出しているキリスト教の最高の目標です。


聖霊はイエスが加わって地面に来ました。イエスは新郎であるので、天から、聖霊は花嫁の神であるので、地上で働きます。花嫁の神が降臨し、2千年間にわたって虚徳であることは何ですか?贈り物できる体になるためです。贈り物が完成できる祭壇を築こうとするのが聖神祭壇、つまり2千年のキリスト教師です。したがって、これが終わる前に新郎は来ることができません。


それでは、新郎はどのような方に来るのでしょうか?心の福祉建設、心情の福祉建設の主人公にお越しください。心の福祉、心の安息所、心情の安息先を抱いて大宇主観を持って来られる方が主です。そうしてこそ、歴史的な主になります。そうすれば歴史的な神様になり、そうすれば私たちも歴史的な勝利の息子娘になることができるのです。昔のそのような形になればいいのになりますか?


天は死亡の尾を噛んで死亡権に入る人類全体を握りたい心が切実だが、できないために一人を握るために苦労したのです。そうして堕落以来1600年ぶりに訪れたのがノア祖父でした。ところが、このような滅びる人間たちは、空があるかどうかを知りません。しかし、天はこのような人間と心情の縁を結び、それを望みにして、体を打って屈服させることをしてきました。その意味で私たちは絶対服従しなければなりません。服従するにはどのような服従をすべきですか?世界史的な理念に代わって出発する個体には、世界史的な苦痛を与えることを知ってそこに感謝しなければなりません。終わりの裁きを免れようとする者は、今日この瞬間に審判を越えることができる苦しみを経験しなければなりません。


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天は世界史的な内容を持って摂理される軟膏で、私たちの先祖が天的な使命を持って現れるようになる時、形は小さく、苦痛の時間は短いですが、そこには世界史的な苦痛の内容を内在させて持ってすべての条件をすべて歩いておいて歴史されたことを皆さんは知らなければなりません。そのため、ノアの家庭を解くと聖書66冊がすべて解放されます。


アダムの家庭を解くと、この世界史が解けます。なぜ?それは個人であり、彼らには世界的な内容を象徴的に内包し、歴史のすべての責任をクリアしたからです。アブラハムもそうで、ユダヤ民族もそうです。


終わりには、必然的に心の本郷を見つける必要があります。天が許された贈り物を受けることができる時が間違いなく来るでしょう。その時を迎えてそれを受ける準備をするために6千年間個人から家庭氏族民族国家形態を経て今世界形態まで出てきたことを皆さんは注意深く知らなければなりません。これは今日ここで話す人が通る言葉としてするのではなく、事実がそうです。


それでは、どうすればいいですか?私たちは、歴代の信仰の先祖たちが築いた伝統を尊重しなければなりません。天の血統を尊重しなければなりません。そんな時が来ました。


ノアの祖父が120年間、天のために忠実なその精神、アブラハムが葦のアウルを離れ、異邦の荒れ地を歩き回ったその精神、ヤコブがカナンの地を捨てて、愛給に入ったその精神、彼らはこの地に来て、イスラエル民族を収拾して新しいカナン福祉、新しいエデン福祉に向かって走ろうとしたその精神はどこに行きましたか。あなたは伝統を通してこの精神を継承しなければなりません。


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ノアのおじいちゃんは周囲から迫害を受けて悔しさに遭う敵ごとに、深刻には何を望んだの?神様が祝福される日を希望しました。分ければ分割するほど、神様が約束された審判の一日を見て、参考も我慢しました。アブラハムもそうで、モーセもそうでした。


まさに宮中で姫の子として育ったモーセは、個人的に何一つ羨ましいことがない幸せな環境でも、深くは「ここは私がいる場所ではなく、私が住む場所でもない!私が味わう福祉ではない。天が祝福されたイスラエル民族が住む場所でもない」と考えました。カナンの七族が占領したその地をすぐに宮中で40年間目を閉じて開いている間、父、私たち選んだイスラエル民族がカナンの地を主管しようとした約束を成し遂げるようにしてください。このように愛給で高役を受ける60万人の大衆以上燃える心が事務していたので、イスラエル民族はモーセを指導者として立てたのです。


皆さんはイエスを子羊のような姿で知っていますが,本来の姿はそれではありません。私が知っているイエスはそのようなイエスではありません。無限の天主的な基準を持っていたが子羊のようにならなければならなかったので子羊になったのです。天の皇太子であり、万民の救世主として被造万物に対して護令できる威信と権限がありましたが、その当時はそうすることができる時ではありませんでした。まさに乱視(亂時)ヨサタンがジュンドン(蠢動)する時でした。だから乞食のような哀れなお世話にならなければならなかったのです。今日、私たちはそのイエスを学んでいます。


もしイエスが先祖から4,000年にわたって伝統的に楽しみにしてきた願いの一日を経て、当時の実権を行使できたならば、今日この世界はすでに良い世界になったはずです。しかしイエスはその権限を一度も行使してみなかったまま韓を抱いて行ったのです。イエスが天から贈り物として受け取ったのは何ですか?敵と対決して敵を頭を下げて降伏させるのです。別のものではありません。イエスに天から与えられた贈り物があります。それよりも貴重な贈り物は何ですか?それは天がイエスの前に贈ることができる最高の贈り物でした。


天は私たちの心と縁を結ぶために贈り物をくださるのです。天地にはまだ心の置き場所がないので不安です。行く各所ごとに心が侵犯される不安な状態です。そうでしょ?外的に不安な世界、こんな世界が清算されなければ内的にも安息できるのです。だから、この体で恐怖が入ってくる限りがあるとしても、心では天国を歌うと思う人なら、終わりに残るのです。


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6千年間、私たちの先祖たちは贈り物を受け取りました。贈り物の目的は何ですか? 天主の祭壇に贈ることができる、天の地が歌える贈り物として最大の実を結ぶのです。その贈り物の実を見て、嘆息していた万物も喜びで歌い、恨みが侍った天もおもてなしできるはずです。皆さん自身がそうしなければなりません。そうしてこそ、神様の息子娘です。天国?私が知っている天国は違います。


天は外的にはサタンと人間と後悔する戦いを展開し、内的には人の心と神様が後悔する内外の摂理をされます。わかりますか?外的には、堕落した天使長が人間の体と溢れており、内的には神様が人間の心を中心として捧げられます。このように心を操って外的な世界を操って出てくるのです。それでは、天が望む終わりが来るようにするにはどうすればよいのでしょうか。心の基準が取れる環境が地上に現れる前には、そのような終わりが来ることはできません。何を言うのかというと、主がこの地上に来られて心が休むことができる、安息の場といえる群れが現れる前にはならないということです。


今日、私たちの心と体は神とサタンの侵略を受けています。ところが、体と心が神の方に一気に傾くと、神の戦いは終わります。サタンが支配することはできません。終わるということです。また、私たちの体を中心として体が心を完全に捕らえれば、その戦いも終わります。神様はその人を救おうとしません。このような二つの戦いの交差点にある私たちです。これを知る割振隊の皆さん、この体を活動舞台にしているサタンがいることを知る必要があります。


このように、私たちの体はサタンに向かって走り、心は天に向かって走っています。今、この外的な世界を心の権限を持って打って屈服させ、さらにサタンを屈服させる勝利者が現れなければなりません。その勝利の権限を持って来られた方がイエスです。だから皆さん、いつもイエスだけを信じて生きますか?いつまでも主だけをお迎えして生きますか?イエスを信じると同時にイエスがしたことをしなければなりません。


天は歴史の路程を経ている間、私たちの先祖と共に悲しみと苦しみと悔しさを受けました。それから4千年を経過した後、歴史的な終末時代の第2終末時代に-ノアの時が第1終末時代なら、イエスの時は第2終末時代です-空の心情と天の心を持って来られた方が誰かというとイエスです。神様が4千年の贈り物として送ってくださった人間代表、天性や地の代わりに最高の権限を持って来られた方がイエスです。こういうイエスを追ってしまったので、また来なければなりません。だから皆さんが「主よ!来てください。」ということです。


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今は体の福祉を越えて心の福祉を探さなければならない時が来ました、心の福祉。いくら内的な恐怖が押し寄せて険しい死亡の波が吹き飛ばされても、それを凄く越えることができる者、心の福祉を持つ者、これは天国民です。死の波が散らばっても、それを笑いながら進んだ過去の殉教烈士たちは天の民です。


数多くの裏切り者を前に置き、十字架にかかって血を流したイエス、哀れで凄惨な死に遭いながらも、恥ずかしくて敵のために祈られたイエスのその姿は、さわやかな気白を持った姿でした。彼の体はたとえ蹂躙されて死んだ妄想心世界の福祉を立てて行っていました。心の世界の福祉は蹂躙されないので、イエスの体が復活することができたのです。完全なプラス(+)があると、完全なマイナス(-)が生じます。その時、復活の権限を引き起こすことができるということです。皆様、お越しの再臨主を楽しみにするのも良いです。しかし、それよりも自分の体が完全なマイナスになるはずです。完全なマイナスがあれば完全なプラスはやってくるんです。


生前に主を新郎のように祀られず、自分で花嫁のように生きられず、死ぬ人は天国に行けません。個人的な天国も、家庭的な天国も同じです。ですから、イエスも生きて生きる前に個人的な人格のイエス、家庭的な人格のイエス、種族的な人格のイエス、社会的な人格のイエス、国家的な人格のイエス、世界的な人格のイエス、こうして行かなければなりませんでした。あなたはイエスが一度にダルカドの世界的な人格のイエスになったと思いますが、そうではありません。そうすることができれば死にません。個人的な人格のイエスから家庭的な人格のイエス、民族的な人格のイエス、イスラエルの国、すなわち国家的なイエス、神の子としてのイエスにはなりませんでした。そのようにすべてを達成できませんでした。だから死ぬしかありませんか?


今日、私たちを信じる聖徒たちは、30生涯の民族のために行われたイエスの人格、民族的な人格を持っていたイエスを模倣する必要があります。また、皆さんが民族的な人格を備え、新郎になったイエスを迎える勝利的な足場を立てなければ真のクリスチャンです。そうしてこそ、世界的な人格のイエスで来られる主が耐えられるのです。


国を建てたのは世界を抱くためであり、世界を立てたのは天地を抱くためだと言いました。 2千年前に理想的な実体として、私たちが望む体と心の安息の基準を立てなければならなかった方を追ってしまった以上の大きな犯罪はありません。この悲しみを何に比べることができますか?これはどのくらい不幸なことですか?


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イエスは2千年前、私たちの体の安息所、心の安息所、さらに進み、新郎新婦の理念を立て、「私があなたがたを愛する」とし、愛という名詞を残しました。体の安息所と心の安息処が建てられた後は、天の地を抱くと同時に、神様を抱える愛まで贈り物として与えようとしましたが、そのことはすべて壊れてしまいました。だから私たちはまた戻って喧嘩しています。


イエスが死んだ後、イエスのために建てられたユダヤ教はどこに行き、イスラエル民族はどこに行きましたか。昔の祭司長とパリサイ人はどこに行きましたか?彼らはイエスの大敵です。イエスのために4,000年にわたって準備された足場は、山が壊れていきました。イエスが足を踏み入れることができる教会があり、イエスが体に頼ることができる人がいましたか。なかった。


神は4千年間個人的な贈り物を送り、民族的な贈り物を送り、国家や教団的な贈り物を送りました。ところがイスラエルは、全体を支配できるイエス、天的な贈り物であるイエスを抱くことができず、裏切ることで悲惨になりました。栄光と祝福の日を楽しみにしてきた選ばれた善民が苦しみに苦しんで、流離にガラスをして出てきたのが今日までのイスラエルの歴史です。これはイエスを殺した罪の対価です。


それでも祝福をしてくださったので踏んで悔しさを受けながらも世界の前に出ることになったのです。栄光に出なければならない民族が苦しい苦難の歴史を経て出てくるのはイエスを殺した罪のためだということです。


歴史を弁証しても否定できない内容にもかかわらず、イエスが死にに来たと信じていますか?そうではありません。


22


私たちは体を練り、歴史的な犯罪を悔い改めることを知っておくべきです。アブラハムやモーセは,誤りを犯しても悔い改めればみな許しを受けることができます。彼らは使い手だからです。しかし、愛する息子を殺した民族をどうするのでしょうか?皆さん考えてみてください。皆さん、あなたが息子娘を愛する基準と、神がイエスを愛する基準を考えると、どれが高いでしょうか。


イエスが死んだとき、3時間の間、天の地は暗くなりました。そうではありませんか? 神様が4千年の歴史の間に苦労して出てきたすべての功績があっという間に壊れてしまい、愛する息子はサタンのなげなわに巻かれ、十字架に走るその瞬間、神様が「おお、救いの歴史完成するんだ、おお、勝利したんだ」。いいえ。神様は我慢できない悲痛さを感じられました。このような天の心情を知ってイエスは死んでいきました。私たちはこれらを知る必要があります。


過去のアブラハムや私たちの祖先に犯した過ちは許されます。しかし、私たちの先祖がメシアを十字架に吊り下げて血を流した罪はどうなるべきでしょうか。天の体であり、勝利的な神殿となり、「私はあなたの中にあり、あなたは私の中にあり、私は父の中にあり、父は私の中にある」罪はどうするのでしょうか?悔い改めなければなりません。悔い改めてイエスを信じなければならないのです。


2千年の歴史が過ぎた今日、私たちは再び虚徳で心と心情世界の贈り物を楽しみにしています。どのようにその贈り物を受け取ることができるかというのが、今後の世界における課題です。それでは、どうすればいいのでしょうか。過去に神様がしてくださったことを知らなければなりません。なぜこのように出てきたのかを知る必要があります。また、この時代に神様がおられることを知らなければなりません。さらに、未来に神様がなさろうとすることを知らなければなりません。つまり時を知らなければならないということです。夜なのか昼なのか、朝なのか夕方なのかをよく分間できると知らなければならないということです。


見てください。皆さん、今は歴史的に見ると秋の季節です。今の20世紀は秋の季節の文明時代です。過去の古代文明時代は夏の季節、熱帯圏文明時代であり、今日は秋の季節、温帯圏文明時代です。秋の季節文明時代が過ぎると、冬の季節の一大権的な文明時代が近づき、その後は三冬を過ぎて春の季節文明時代が来るでしょう。これが新しい時代です。


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人間が堕落した後、春の季節の文明時代を迎えませんでした。心が楽しんで、体が楽しんで、天を歌い、地を歌い、天の地の動くすべてが、空を楽しませることができるその世界に合わなかったということです。その世界を迎えるためには、皆さんが歴史的な神様を知らなければなりません。歴史的な神様を知るとともに、時代的な神様を知って未来的な神様を知らなければなりません。そうすれば、神様は全体の価値を決定するための一つの贈り物を私たちに与えられます。


今、私たちは心の福祉を成し遂げることができる一つの中心を立て、心情の福祉を成し遂げることができる限り中心を立てて、心情と心と体が通じる一つの基準を見つけなければなりません。そうして体と心が一つになった後は、世界を抱かなければなりません。ですから、今日この時代には世界主義よりも大きな天主主義の理念が出なければなりません。神様主義が出なければなりません。ですから、人間がこの地で生活する上で、その神様主義を中心として、体と心が天の心情を通じる確固たる基準を立てなければ、私たちは幸せに生きることができません。


だから私たちは生活圏内でその理念を中心に心と体が安息して楽しむことができると同時に、その理念を通して、歴史的な神様の心情、時代的な神様の心情、未来的な神様の心情をチェフェしなければなりません。そうして世界の前に宇宙史的な最後の贈り物として立たなければならないのです。それでは、この贈り物の最後の目的は何ですか?それは土地を支配するものではありません。この世界を基にして無限の世界を抱き、後には神様を抱くのです。これが最後の目的です。神様を抱くこと、神様を私のものにすることです。この目的の下で、神様が私たち人間に対して復帰摂理をしてくださることを知らなければなりません。


神様は人間の前に心世界のすべてのもの、心情世界のすべてを与え、後には神様自身までも与えるというのです。これが天が人間にくださる大きな贈り物であり、これから私たちにくださる残りの贈り物です。歴史的、時代的、未来的な神様を知る前には、その贈り物を受けられません。神様は自分まで人類の前にくださるというのです。息子をくださり、後には神様自身が来られて人間と共に生きるというのです。 「あなたが私です、私があなたであり、私があなたの父です、あなたが私の息子、私の娘です」という場所で生きるということです。心の福祉で愛を中心として神様を迎えて生きることができるのが人間として受けることができる最大の贈り物であることを皆さんは知らなければなりません。そのような目的を成し遂げるために、天はこれまで無限に頑張ってくださるのです。


個人で見る時、体は地に代わる贈り物であり、心は空に代わる贈り物であり、理念は全宇宙を抱える贈り物です。これだけも荒れていますが、後には神様自身までも皆さんに贈り物としてくださるこの感謝の意の前に皆さんが立つ資格者になることを願います。


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<祈祷>


 お父様、私たちが御言葉を聞きました。わたしたち自身がこんなにたくさんの贈り物であることを知りませんでしたし,高貴な全体価値の縁のために時間の時間生活を切除して心を命じたことがそのような贈り物をくださるためであることを知りませんでした。


不意の立場に立つときにも心が体の前に訪れる贈り物を告げ、この受け入れてくれる私たちになることをお許しください。また、心を引く理念をこっそり受けてくれる人になるようにお許しください。


神様の心情が私の理念と私の心と私の体を通して神様が自分を贈り物としていただきたい時、恥ずかしくなく出せる息子娘になることを許してくださるように願ってお願いします。


このような立体的な縁によって私たちが生きていることを知ってもらってください。生活のあらゆる部分で善と悪を分立して悪を清算し、善の実績を立てるための戦いの路程にある私たちであることを知りました。今、歴史が過ぎ去った新しい天主の時代にお父様を贈り物としてもらい、お父様の愛とお父様の理念とお父様の心を贈り物としてもらうことに不足がない私たちになってくださいますように。


贈り物を知っておられる天の息子娘になるようにしてくださり、お父様が祝福してくださり、自慢してください。満天下の責任と乳業を任せる時期に不足がない息子娘になるようにしてください。すべての御言葉を主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。




文鮮明先生 御言葉選集7-12

2025年03月08日 15時23分02秒 | 学習
文鮮明先生み言選集 7 - 12. 探し求めていたイエス様 (1959年10月18日)
1959年10月18日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 23:29-39

1
<祈祷>

お父様! 本日は、イエス様と歴史的に距離のある時代の中に生きる時間でございます。しかし、歴史には距離があれども、心情の世界には距離がない事を私達は知っております。どうか、私達が単に歴史的なイエスを信じる者とならず、心情を通じて直接イエスを知り、信じる事のできる者となれるようにお導き下さい。

すでにみ言葉を拝しましたので、このみ言葉を語られたイエス様の切なる御姿を思い描きながら、心から悲しみ、その御前に頭を垂れる事ができるようにして下さい。そして、訴えられた当時の声を聞く事のできる、深く胸に刻まれた心、切なる心、畏敬の心が、私達の身と心に満ちるようお許し下さい。

自ら知らぬ間に「父よ」と呼ぶ事ができ、気づかぬうちに主の荘厳な恩恵を感じ、感謝を捧げる事ができますように。また、あなたが遣わされたメシアの聖なるお姿は、天上が擁護し仰ぎ見るべき存在であったにもかかわらず、この地上に現れ、悲惨な道を歩まれた事を思い悲しむ事ができますように。その御苦労を気遣い、その御悔しさを共に悔しく思う事のできる者とならせて下さい。

かつての祖先達が成し得なかったすべてを、今日の私達が心情的に受け継ぎ、彼らに代わってイエス様の慰めとなり、励ましとなる事ができますように。そして、その御前に希望の相対として立つ事ができますように、お導き下さい。

イエス様はどれほど哀れな方であられたのでしょうか。民族を見つめるその心は嘆かざるを得ず、宗教指導者達を見つめるその心情には、慟哭以外に残されているものはありませんでした。天の摂理を担わなければならなかったその御事情を、人間は知る事ができませんでした。

2

共に心情を分かち合うべき人々、心を通じ合うべき宗教指導者達、共に生きるべき民族を後に残し、ただひとり、夜の山中をさまよわれたその心情を知る者はありませんでした。どうか私達が、イエス様を知らぬままに従い、イエス様を知らぬままに信じる者とならぬよう、お許し下さい。哀れなるその心情を抱きしめ、限りなく涙を流す事ができ、果てしなくその苦しみを案じ、彼の為には死をも恐れない者とならなければならない事を、私達は知っています。

本日ここに集まったあなたの息子娘達は、何の為に来たのでしょうか?ここで教えられるのは、この世の学問ではなく、知識でもありません。心の安息の場を求めて集まり、本然の心情と繋がらなければならず、頭を垂れざるを得ず、心情を打ち明けざるを得ない者となる為に、天の御前に悔い改め、清算する為に私達は集まりました。どうか、自ら「立っている」と思う者とならぬよう、お導き下さい。

憐れみの御手と憐れみの杖がなければ、私達は容赦なく倒れ、悪魔の生贄となってしまう事を知り、その事に感謝し、畏れを抱く事ができるようにして下さい。そして、**「アバ、父よ! 憐れみをお与え下さい!」と切に叫ぶ心情が溢れる息子娘となるように、この場をお許しくださった事を感謝いたします。どうか、み言葉を伝える者も、それを受ける者も、共にその心情を持つ事ができますように、お許し下さい。

歴代の先祖達との因縁を結び、新たな一日を築く為に、天がどれほど労苦されたことでしょうか。その結果として、私達は今日ここで相見えました。このことを心で感じ、心情で体感し、新たに決意する事があるならば、それは今日この瞬間に生まれたものではなく、歴史的な労苦の実績を通じて、先祖達、あるいは預言者、あるいは義人達が動員され、橋を架け、因縁をつないでくださったおかげで、私自身という実体が形成されたのだと深く感じる事ができるよう、お許し下さい。

見つめる心情や接する姿はそれぞれ異なるかもしれません。しかし、天の父との因縁を結ぶにあたっては、同じ心で動き、同じ心情で一つとなり、同じ姿へと造り上げられるように、どうかお許し下さい。どうか、み言葉を伝える者の心と、それを受ける者の心が二つに分かれる事のないようにして下さい。また、悪魔はこのような基盤を狙い、私達の前に死の壁を築こうとしている事を悟らせて下さい。

3

どうか、私達に力と能力をお与え下さい。聖三位が直接保護してくださる中で、勝利の栄光のみが、再創造の栄光のみが、尊貴の栄光のみが、誇るべきもののみが、私達自身の中から生まれ、感じられるようにして下さい。切に願い求めます。孤独な食口達が地方に広がり、この時間も膝をついて祈っているあらゆる場所に、同じ恩恵をお与え下さいますよう、心よりお願い申し上げます。

これらの事を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。


<御言葉>

少しの間、お伝えしようとするみ言葉は 「探し求めていたイエス様」 です。この 「探し求めていたイエス様」 という題目をもって、お話しさせていただきます。

私達は、イエス様が 神の独り子 であることを知っています。このイエス様こそ、神様が 4千年間もの間、探し求められたお方でありました。また、このイエス様は、選ばれたイスラエル民族が数多くの苦労を重ねる歴史の道を歩んだ末に、ついに見いだされたお方でありました。

さらに、イエス様は、天が探し求める摂理 を成就し、また 民が迎えようとする願い を実現する為に、労苦を尽くされた事を、私達は知らねばなりません。だからこそ、このイエス様お一人を中心として、天の因縁が絡み合い、神が選んだ選民イスラエルの歴史的因縁、時代的因縁、そして未来的因縁がすべて絡み合っているのです。

4

ゆえに、神がこのイエス様を完全に探し求められたとき、初めてイスラエルを選んだ目的が成し遂げられるのであり、神がこのイエス様を完全に抱かれたとき、初めて選民イスラエルを抱く事ができる のです。そして、イエス様と共に喜び、共に生きるとき、初めて神は選ばれたイスラエルの民と共に生きる事ができるのです。

従って、イエス様を完全に探し求める事が神の摂理であると言えますし、イエス様を完全にお迎えする事が、堕落した子孫である私達、救いを求める全人類の希望であるという事を、私達は知らなければなりません。この天宙的なイエス様を探し求める為に、神様は 人間が堕落して以来、イエス様が来られるその日まで、限りない労苦を重ねてこられたという事を、私達は決して忘れてはなりません。

また、このただ一人のイエス様をお迎えする為に、選ばれた選民イスラエルは、歴史の路程において言葉に尽くせぬ迫害の道、死の道を歩み、倒れては立ち上がり、立ち上がっては倒れ、再び立ち上がるという闘争の歴史を繰り返してきたのです。このような歴史の恨みを抱えた選民イスラエルは、ついにイエス様を迎え入れるとき、その恨みが解かれ、また、イエス様を地上に送る為に労苦された神様の恨みも解かれるのでありました。

イエス様はこの地に来られました。イエス様はこの地に来て、働かれました。イエス様はこの地に来て、私達の為に戦われました。天の為に耐え、戦われました。死の道までも、ただ一人で歩まれました。イエス様は、確かにその時代の為に来られ、そして未来の為に来られたお方でした。

しかし、イエス様は歴史の恨みを解く事ができず、時代の恨みを解く事もできない立場に置かれました。その為に、イエス様が来られて去られた後、2千年の歳月が流れた今日、イエス様は再び来られなければならないという事を、私達は知っています。

5

今日という時代は、再びイエス様を必要とする時代です。また、今日の後の未来においても、イエス様は必要な存在であり続けるのです。この事を考えるとき、天はイエス様を地上に送られ、御心どおりに探し求められる事を、どれほど切実に願われた事でしょうか。

また、イエス様はこの地に来られ、上は天の威信を、下は地の威信を代わって立てられる事を、どれほど切望された事でしょうか。しかし、イエス様はご自身の威信を立てる事ができませんでした。イエス様は、民族の前に現れ、すべての民を治める「万王の王」として、天の皇太子として君臨される事を望まれた事でしょう。

それを置いておくとしても、4千年間も準備されてきたイスラエル民族は、たとえ命を落とすとしても、イエス様を決して手放してはならなかったのです。また、イエス様も、たとえ死を迎えたとしても、イスラエル民族を手放してはならなかったのでした。

しかし、死を前にして互いに離れ、互いに分裂してしまったのです。その為にイエス様は民族の前から姿を消され、この地を去らなければならない立場に追い込まれてしまったのです。この事を私達は知らなければなりません。

このような使命をもって来られたイエス様は、歴史的な使命感と時代的な使命感に満ちあふれたお方 でした。さらに、死の波に呑まれ、悲鳴をあげる人類を救おうとする心情が、燃え盛るように熱かったお方でした。そのイエス様、あのようなイエス様、メシヤであり、天の独り子であられるイエス様を、果たして迎えた者がいたでしょうか? 一人もいませんでした。

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もし、天がイエス様を中心に探し求めるものがあるとすれば、それは何でしょうか? もし、イエス様を通して求めるものがあるとすれば、それは「イエス様を知る者」でしょう。真にイエス様を知る者は、神様を知る者であり、神様を知る者は、イエス様を知る者なのです。

それにもかかわらず、自らを「神を信じる者」と称していたイスラエルの民は、神が信頼する事のできるイエス様を知り、お迎えしなければならなかったのに、それができませんでした。その結果、人類はイエス様を失わねばならず、天もイエス様を失わねばならず、イエス様ご自身も、ご自身の使命を地上に残したまま、死なねばならなかった という事実を、私達は今一度、深く悟らなければなりません。

6千年の歴史が経過した今日、神様の願いは何でしょうか? それは 地上において、再びイエス様を見いだす事です。私達は、「イエス様が地上に来られ、その目的をすべて達成し、神の右に座して栄光を受け、勝利の礼拝を捧げられた」と思っていますが、それは 大きな誤解なのです。

イエス様は去られる際、聖霊をこの地に送られました。それは、天の心情を地上に代行し、神様が探し求める姿として現れ、完結できなかった使命を果たす為に、霊界で祈り続けておられるという事実を、私達は明確に知らなければなりません。

では、イエス様の祈りの内容とは何でしょうか? また、イエス様が祈られる目的とは何でしょうか? 天が4千年間の準備を経て、イエス様を地上に送られ、そのイエス様を通じて探し求められたものは、十字架の苦難の姿ではなく、勝利の姿、栄光のイエス様だったのです。

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イエス様の祈りの目的は、まさに その神様の願いを成し遂げること にあったのです。では、天が求めておられたイエス様をどのように見つめるべきか? イエス様は天をどのように見つめられたのか? 後世の人々は、イエス様が望まれた信仰をどのように受け止めるべきか? これが 問題 なのです。

信じる者が イエス様に向き合う心、イエス様が 神様に向き合う心、神様が イエス様に向き合う心、神様が イスラエル民族に向き合う心―― これらは すべて同じでなければなりません。同じ目的のもとに動き、その目的が成し遂げられる場には、悲しみも苦痛もなく、勝利と栄光があり、天と地がともに歓喜する場とならなければならないのです。

その 一日、その 瞬間 に向かって動くことのできるイエス様、誇る事のできる神様、そして、そのイエス様を最高に迎えられる民を、天は切実に求められているという事を、私達は知らねばなりません。これは、神がイエス様を地上に送られた目的であり、イエス様を信じるよう導かれた目的でしたが、いまだ地上において成し遂げられていない のです。

その為に、イエス様は再び来られなければならないのです。 もう一度、来られなければなりません。では、イエス様が勝利して築かれるはずだった栄光の園、神様が喜ばれる事のできる世界 は、どこにあるのでしょうか? それは 神の心の中、そしてイエス様の心の中にのみ残されているのです。

イエス様は 万王の王として地上に来られました。 天が立てられた選民イスラエル、ユダヤの国を限りなく愛し、彼らを抱き、彼らと切り離せない因縁を結ぶ為に来られました。 彼らが死ぬならばイエス様も死に、彼らが生きるならば イエス様も生きる という、鉄のように固い因縁を結ぶ為に来られたのです。

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その為に、イエス様は民族に向かって叫び、訴えられました。 しかし、民族はその因縁を 踏みにじり、ついには イエス様を十字架にかけてしまった のです。このような事が起こった為に、共通の目的であった神の御心は、この地上において成し遂げられる事はありませんでした。

神様はイエス様を通して生死の分岐点を定めようとされましたが、その基準が 地上で果たされなかったために、悪魔は再び人間世界を侵略する事ができるようになってしまったのです。こうして、イエス様と聖霊は、霊的にこの世界を導いてこられました。 2千年の間、無数の戦いの歴史を繰り返してこられた のです。

神様の摂理の本来の目的は、イエス様を通じて神の願いを成就する事でした。 しかし、イエス様と選ばれた民族が一つになる事ができなかった為に、イエス様を失い、イスラエル民族は天の前に捨てられる事となったのです。

そこで、神様は再び霊的なイスラエル民族を立て、メシアを約束されました。つまり、イエス様が去られた後、再び霊的なメシアを地上に送る事を約束され、失われたイスラエルを復帰するための摂理を進めてこられたのです。この2千年の歴史こそ、霊的なイスラエルの復帰運動の歴史であったのです。

終末の時代とは? では、今日という時代はどのような時代でしょうか? 「終末の時」と呼ばれています。終末とは何でしょうか? それは、天が長年願われた摂理的な希望が成就する日が近づいている時なのです。つまり、再びイエス様を立て、神様の願いを成し遂げるその日こそ、終末の時であるということです。

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神様の願いとは何か? では、神様が願われるものは何でしょうか? それは 創造本然の世界 です。神様は、イエス様を通じて、この地上に創造本然の世界が実現する事を切に願っておられます。では、この終末の時に、罪に満ちた悪魔世界に生きる私達は、神様が探し求めてこられたイエス様を、正しくお迎えする準備ができているでしょうか?

神様は、終末の時にイエス様が自由に治める事のできる世界となる事を切望しておられます。 世界は、神様がイエス様に見せたいと思われる世界とならなければなりません。もし、神様が選ばれた民族や選ばれた子女がいるとするならば、神様はその者達を通じて、イエス様の前に誇りとして捧げたいと願われているのです。その為に、神様は6千年の間、忍耐し、摂理を進めてこられました。 しかし、この地上世界は神様がイエス様の前に誇れる世界とはなっていません。

もし、この地上に再びイエス様が来られるならば、イエス様は地上の人類を導き、万王の王として君臨しなければなりません。また、神様の前に栄光をお返ししなければなりません。そして、私達人類は、歴史的な悲しみと恨みを晴らし、イエス様を勝利の王子としてお迎えし、イエス様が神の前に捧げる栄光を、私達が代わりに捧げるべきなのです。しかし、この重大な事実を地上の人類はまだ知りません。

神様の願いは何でしょうか? それは、イエス様が再び来られるときに、善なる世界が現れる事を切に願われているという事です。では、イエス様の願いは何でしょうか? それは、善なる国の勝利者として、善なる民を治め、神様が長く願われたその目的を成し遂げ、天の御前に勝利と栄光を捧げる事です。しかし、この地上に生きる私達は、そのようなイエス様と神様を正しく知っているでしょうか? 私達は、いまだそれを知らずに生きています。

イエス様が再び来られる終末の時とは、イエス様が2千年前にイスラエル民族の前に送られたその時と、何も変わらない状況であるという事を、私達は知らなければなりません。神様が4千年間も不憫な選民の為に労苦し、導き、あちらこちらへと追いやられながらも、彼らを導き、最終的にイエス様に託されたのは、彼らがイエス様を裏切る民族となるためではなかったのです。また、ユダヤ教団を立てられたのは、彼らがイエス様を排斥する先鋒となるためではなかったのです。

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イエス様が 神様の前に「羊」としてあられたように、イスラエルの民も、誰よりもイエス様の前に羊の中の羊として立つべきでした。単に教団だけではなく、イスラエルの民族全体が、イエス様が動けば共に動き、イエス様が立てば共に立ち、死んでも共に死に、生きても共に生きる民族 となるべきだったのです。

そのような民族を育てる為に、神様が2千年もの間、労苦されてきたという事を、私達は知らねばなりません。神様がイエス様の前に示したかった、選ばれたイスラエルの誇りが砕かれたとき、イエス様が見たいと願われた教団を見る事ができず、イエス様が探し求め、立てたかった愛する子女や愛する弟子達を見いだす事ができなかったとき、天はどれほど悲しみ、慟哭された事でしょうか? この事を、私達は知るべきです。

4千年もの間、耐え忍んでこられた天の憤りの心情が、ついに爆発する事となったという事を、当時のイスラエルの民は知りませんでした。

しかし、イエス様は天の心情を知っておられました。その為に、そのような状況にあるご自身を見つめ、悲しまれる神様が4千年もの間、労苦された神様である事を知っておられました。

だからこそ、追われ、排斥され、行くあてもなく、寄る辺もないその境遇の中でも、イエス様はこう祈られたのです。「父よ、私が死ぬ事を嘆かないで下さい。私の悲しみを嘆かないで下さい。私の悔しさを嘆かないで下さい。」

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そのように神様を慰められたイエス様の心情を、いったい誰が理解していたのでしょうか? イエス様が死なれるその瞬間、神様が4千年間苦労して築き上げたイスラエル民族は、一瞬にして悪魔の捕虜となってしまいました。選ばれたユダヤ教団が、悪魔の罠に落ちる瞬間であったのです。

歴史的な労苦、歴史的な功績を大切にされたイエス様は、神様の長年の苦労が無に帰してしまう事を、あまりにも嘆かれ、あまりにも悔しまれました。その身が 引き裂かれ、血を流しながらも、イエス様はなおも父なる神様の前に、赦しを乞われたのです。

しかし、その心情を誰が理解していたでしょうか?「選ばれた者」と称する人々、「神様を信じる」と言う人々は数え切れないほどいました。しかし、切に叫び、切に訴えられるイエス様の心情と事情を理解した者は、一人もいませんでした。そのように 心情を通じる事のできなかったイエス様を、私達は信じているのです。

イエス様の 引き裂かれるような胸の痛み、その痛みを抱きしめながら倒れられたという事実を知らないまま、私達は信じているのです。今こそ、終末の時代に生きる私達は、このイエス様を全世界の前に明らかにしなければなりません。

イエス様を裏切ったユダヤ教の前に示さなければなりません。 イエス様を裏切ったイスラエル民族の前に示さなければなりません。 イエス様を裏切ったカナンの七族の前に示さなければなりません。 そして、悪魔の世界の前に示さなければなりません。

これこそが、神様の切なる願いなのです。歴史上、イエス様を明らかにした者は誰でしょうか?誰もいませんでした。神様の願いは、イエス様をこの世に明らかにする事です。私達の願いは、イエス様をこの地上に勝利の王子として現し、お迎えする事です。そして、イエス様の願いも、それなのです。

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今日、多くの教団があります。「信じている」と称する人々も数多くいます。しかし、自らを誇る事はやめなさい。歴史は 矛盾の道をたどりながら進んできました。そして、歴史の流れは、冷厳な立場で裁かれながら進んできたのです。皆さんが考えている、その瞬間にも、歴史は因縁を結びながら流れています。

恐れが世界を覆い、混乱と混沌の中で中心を失うこの時代、皆さん自身は、どのような心情を持ち、どのような因縁を結び、どのような価値を抱いて、天の恨みを憂えているでしょうか?

天の怨恨を解き放つための準備をしているでしょうか?それが、今問われている問題なのです。イエス様が去られて2千年が経った今も、イスラエル民族とユダヤ教は残っています。しかし、イエス様を裏切った形は残っていても、裏切られたイエス様の姿はどこに行ったのでしょうか?消え去ってしまいました。

裏切られ、命を落としながらも、恨みに満ちたイエス様の御言葉は残っています。しかし、イエス様の心情とその御事情は、どこに行ったのでしょうか?

天に代わって戦いを指揮すべきであったイエス様、地を代表して勝敗を決すべきであったイエス様は、本来残ってはならないものが残り、残るべきであったイエス様の基盤は消え去ってしまったまま、今、再び終末の時代を迎えているのです。

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このことを、皆さんはどのように考えますか?この世界に無数に広がるキリスト教徒達は、ほんの少しの過ちによって、イスラエルが歩んだ失敗の道を繰り返すかもしれません。

「自分達はそうならない」と、誰が確信を持って言う事ができるでしょうか?「ユダヤ教と同じ轍を踏まない」と、誰が断言できるでしょうか?誰も、断言する事はできません。今は、世紀末、終末の時代であると言われています。

聖書には 「終末の日には、頭に油を塗り、密室に入り祈りなさい」 とあります。 現れた真理を探し求めてさまよう事が、天の御心にかなう事ではありません。また、形式にとらわれて祈る事が、神様を正しくお迎えする事ではありません。

かつて、神様が立てられたイエス様は、人々の知らぬ間に現れました。まるで盗人のように現れました。栄光の王子が、盗人のように来られました。豪華な宮殿に生まれたのではありませんでした。汚物の臭いが漂う馬小屋で生まれました。

そのような場に生まれたイエス様を、メシアと信じるよう勧めた東方の博士達は、どこへ行ってしまったのでしょうか?イエス様をメシアと証しした羊飼い達は、どこへ行ったのでしょうか?アンナ、洗礼ヨハネとその一行は、どこへ行ったのでしょうか?皆、去ってしまいました。

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神様が遣わされた人々が去ってしまったため、それを知らぬイスラエル民族も去らざるを得ず、ユダヤ教団も去らざるを得ませんでした。その結果、イエス様は、たった一人残されてしまいました。4千年間、神様が労苦され、戦い抜いて立てようとされたイエス様が、結局、ただ一人残されてしまったのです。

神様が抱えていた無数の天の軍勢をすべて失い、一人残されたイエス様。教団をすべて失い、一人残されたイエス様。民族をすべて失い、一人残されたイエス様だったのです。今日、皆さんが信じているこの聖書の御言葉は、裏切られたイエス様の御言葉なのです。

数多くの使徒達は、イエス様を裏切っただけでなく、その御言葉さえも裏切りました。御言葉も裏切られ、イエス様ご自身も裏切られたのです。神様が、そのように裏切られるイエス様を立てる為に、4千年間もの労苦を重ねられたのでしょうか? 決して、そうではありません!

では、私達はなぜイエス様を信じるのでしょうか? それは、神様の願いを成し遂げ、イエス様の悔しさを晴らす為に信じるのです。天国に行くか地獄に行くかは問題ではありません。たとえ地獄に落ちるとしても、イエス様の願いを成し遂げる為に信じるべきなのです。たとえ地獄の王子となるとしても、神様の願いを果たす為に信じるべきなのです。

しかし今日の信仰者達はどうでしょうか? 「イエス様がどうなろうと、天がどうなろうと、自分さえ天国に行ければいい」と言います。

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これは、強盗よりもひどい考え方です。信仰の本質が完全に誤っています。今日、この誤ったキリスト教を正しく立て直す為に、歩んでいるのが統一信徒の道なのです。私達が探し求めなければならないイエス様は、歴史的なイエス様です。そのイエス様は、時代的なイエス様です。また、そのイエス様は、未来的なイエス様です。

しかし、イエス様が展開しようとされた歴史は、断ち切られてしまいました。時代も断ち切られ、未来も断ち切られてしまいました。行くべき道を失ったイエス様となってしまったという事を、皆さんは知っていますか?

4千年間、神様が苦労して築き上げた歴史的因縁の結晶として来られたイエス様を、抱きしめ、泣き叫び、命をかけてお迎えしなければならなかったのに、すべてを失ってしまいました。本来、イスラエル民族を導いて行かれるべきであったイエス様は、その民族を失ってしまったのです。

では、イエス様の後に、イエス様が導く事のできる真の後継者達は立ったでしょうか?今日のこの時代も、イエス様を再び失いつつあります。イエス様は、過去・現在・未来の因縁を持ち、天の使命を代わって果たす為に来られた方です。

その方が地上に来られ、過去を失われただけでも、どれほど悔しい事であったかを知らねばなりません。もし今日、歴史的終末の時代に、再びイエス様が現れるとするならば、そのイエス様は、歴史的因縁を再び築かなければなりません。今日のキリスト教は、歴史的因縁を築くべきです。

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では、歴史的因縁を築く為には、どうすればよいのでしょうか? 今日のキリスト教徒達は、イスラエル民族や、あるいはイエス様を裏切ったユダヤ教団のようになってはならないのです。神様が見つめておられる基準から、イエス様を正しくお迎えする「第二イスラエル」とならなければならないのです。

キリスト教徒達は、聖書の御言葉を知っています。しかし、その御言葉が伝えようとしている根本精神が何であるかを知りません。その御言葉の奥にある心情を知りません。どのような系譜を辿ろうとも、その系譜の威信と価値を責任を持って扱う事ができなければ、その系譜を論じる資格はありません。

イエス様の真の家族とは? イエス様は、神様の威信を立てる為に来られました。また、歴史的には、4千年間、天の御旨に従いながら犠牲となった無数の預言者達の怨恨を晴らす為に来られました。

そして、時代的には、悪魔世界において悪魔の蹂躙を受けている民族の恨みを解放する為に来られました。しかし、その使命を果たす事ができず、去らざるを得ませんでした。成すべき事を果たせずに去られたのです。

解怨の為に来られたのに、それができなかったため、イエス様は再び来られなければならない運命にあるのです。この事を、私達は明確に知らねばなりません。では、神様が探し求めておられるものは何でしょうか? イエス様が切に探し求めておられるものは何でしょうか?

17

それは、「善の国」です。 勝利の国、栄光の国、喜びの国です。しかし、イエス様は、善なる人に出会われたでしょうか? いいえ、出会うことができませんでした。イエス様は、兄弟達からも追いやられました。両親からも追いやられました。

考えてみて下さい。神様がイスラエル民族を立てられたのは、イエス様をそのような境遇に追いやるためだったでしょうか? 神様がユダヤ教団を立てられたのは、イエス様をそのように扱うためだったでしょうか?

アダム以来4千年間、摂理の御旨を受け継ぎながら、ヨセフの家庭にイエス様を送られたのは、そのように扱うためだったでしょうか? 30年以上の間、イナゴと野蜜を食べながら、メシアを迎える為に準備してきた洗礼ヨハネは、そのようにイエス様を迎えるためだったでしょうか? 全て去ってしまいました。全て過ぎ去ってしまいました。

イエス様はこの地上に来られました。しかし、迎え入れるべき民族がイエス様を見捨てました。その結果、イエス様は、本来ご自身を迎える為に準備されたはずの民族の後を追ってきた悪魔と、真正面から衝突せざるを得なくなったのです。

イエス様を迎えた後に、悪魔に向かって反撃すべきであった選ばれた民は、すべて去ってしまいました。その為に、ただ一人残されたイエス様が、最前線に立って戦われ、最後には十字架の道を歩まざるを得なかったのです。

18

本来、イエス様は天の精鋭達を先頭に立て、悪魔世界に向かって進軍の命令を下すべきお方でした。しかし、そのイエス様だけが残され、迎え入れたはずの者達は、みな去ってしまいました。

東方の博士達はどこへ行ったのでしょうか? アンナはどこへ行ったのでしょうか? 羊飼い達はどこへ行ったのでしょうか? 洗礼ヨハネはどこへ行ったのでしょうか? ヨセフの家庭はどこへ行ったのでしょうか? 兄弟や親族はどこへ行ったのでしょうか? 教団はどこへ行ったのでしょうか? 民族はどこへ行ったのでしょうか? 国家はどこへ行ったのでしょうか? 全て、過ぎ去ってしまいました。

全てが去ってしまったので、イエス様は「私はあなたがたの為に死んだのだ」と、その因縁を結ぶ為に、十字架を背負われたのです。

それでも、イエス様は民族の為に祈られました。「すべては過ぎ去り、この国は滅びるであろう。しかし、天は必ず見つめておられる」と。その為に、イエス様は天上に昇られた後も、再び民族の為に祈り続けておられることを、私達は知らねばなりません。

皆さん、イエス様のこの状況を考えたとき、イエス様の願いとは何でしょうか? それは、真の弟子を探し求めることです。イエス様が探される真の弟子は、神様が探し求めておられる弟子であり、イエス様が証しできる弟子なのです。イエス様が安らかに憩うことのできる環境を、弟子達が築いて差し上げたことがあったでしょうか? イエス様に家庭はありましたか?

19

ある日、イエス様の母と兄弟達が訪ねてきたとき、イエス様は「天の父の御心を行う者こそ、私の母であり、私の兄弟である」と言われました。イエス様には、母も兄弟もいませんでした。イエス様には、親族も民族もいませんでした。イエス様には、家庭も兄弟もいませんでした。そうではないでしょうか?

だからこそ、イエス様は、その悔しさのゆえに、亡くなられた後も霊界において、母、兄弟、氏族、民族、教会、国家、世界を探し続けておられます。それが、2千年間のキリスト教の歴史なのです。イエス様は、神様が探し求めて立てられたイスラエルを失い、この地上に一片の所有物すら築く事なく去られました。

だからこそ、再び来られなければなりません。イエス様を中心とした家庭、イエス様の氏族、イエス様の民族、イエス様の国家、イエス様が夢見た世界を成し遂げることができなかったため、もう一度来られなければならないのです。

皆さん、終末の時に再び来られるイエス様が、またしても悲しみを味わわれるのではないかと、心から心配する人はいますか? イエス様の兄弟となるよう努めた事がありますか? これこそ、天が私達に問いかけたい事なのです。

年長者の方々、イエス様の母や父のような立場で、イエス様を愛したいと思った事はありますか? イエス様と同じ心情で、神様の愛する独り子を深く想い、その子を守る為に骨身を削るような心情を抱き、たとえ疲れや困難が襲いかかろうとも、それを顧みず、抱きしめながら涙を流すような信仰生活をしてきたでしょうか?

20

いつの日か、イエス様はこの地上に再び訪れます。何の為に来られるのでしょうか?それは、愛する弟子達をもう一度探し求めるためです。

歴史の道程において、イエス様を裏切った弟子達を再び探し出し、彼らに頭を下げさせ、引き寄せ、彼らを中心として天の御旨を立てていかなければなりませんでした。しかし、それが果たされなかった事こそが、神様の恨みであり、イエス様の恨みなのです。

このような恨みを残してしまった事は、私達の先祖達の恥であり、私達の歴史の恥であるという事を、私達は知らねばなりません。

今日、私達は使徒達を高く高く崇め、彼らが天から最も大きな愛を受けた者達であると思っています。しかし、決してそうではありません。よくよく知れば、決してそうではないのです。

彼らは、本来人類を代表してイエス様を慰めなければならなかった者達でした。しかし、それを果たせませんでした。彼らは、死んでから許しを乞わなければならない立場となってしまったのです。その事を、私達は嘆かねばなりません。真の天の家族とは? イエス様が復活された後に探し求めた者達は、どのような者達だったでしょうか?

21

それは、イエス様を裏切った弟子達の一団でした。救いの摂理を進める上で、彼らを許し、喜びをもって迎え入れなければならなかったイエス様の心情を、誰が理解していたでしょうか? 誰も、理解することができませんでした。 そのことが、限りなく悲しいことだったのです。

しかし、悲しくとも、イエス様は行かねばならない運命にありました。地上において、霊的な基盤を築く為には、再び彼らを訪ねるしかなかったのです。人類を迎え入れようとされたイエス様の前で、代表者として選ばれた使徒達が裏切り、人類を代表する弟子達が裏切った為に、すべてが裏切りの状態となってしまいました。

その為に、マグダラのマリアが復活されたイエス様にすがろうとしたとき、それを制されたのです。この事情を、皆さんは知らなければなりません。 彼らは、悲しみのうちにあったイエス様を裏切った者達なのです。

私達が今日、偉大な使徒として崇める者達の中で、イエス様を裏切らなかった者が、一人でもいたでしょうか?その彼らを信じる皆さんも、同じ裏切り者の子孫です。では、イエス様を裏切らなかった者がいますか? いません。

私達は、裏切り者の子孫であるがゆえに、裏切り、裏切り、裏切りを繰り返す信仰生活を送っているのです。罪悪の生活を続けているのです。

22

イエス様が再び来られるとき、そのイエス様の前に、許しを乞わなければならない群れとなるならば、天の悲しみは、いつ終わるのでしょうか? いつになれば、その悲しみは終わるのでしょうか? 私達は、イエス様を正しく知らねばなりません。イエス様は、歴史的因縁を築こうとされ、時代と未来の因縁を築こうとされた方なのです。

しかし、その悲しい運命を地上に残して去られました。その恨みを引き受けることが、新婦達の使命なのです。皆さんは、「主よ、来たりませ!」と叫びながら、「私の罪の荷をすべて背負って下さい!」と願い、「主よ、来たりませ!」と再臨を切望しています。

しかし、なぜそのように切望するのでしょうか? それは、自分がよく食べ、よく生き、楽になりたいからでしょうか? もし、自分の利益や目的の為に天を求めるならば、その人は、いつか必ず裏切る者となります。

信仰のあり方がどうであれ、思想や主義がどうであれ、神様と、天の摂理を担うすべての存在が「正しい」と判定しない限り、いかなる宗教や人物も、「私に従え」と言うことはできません。

「我々の教派を信じるべきだ。我々の教派に従わなければならない。」―― そのようなことを言うことはできないのです。皆さん、どうぞ自由に統一教会を通り過ぎて下さい。私は、そのような立場に立っています。皆さんは、イエス様の心情を知らなければなりません。

23

天が探し求めるイエス様、イエス様が探し求める存在、そして、イエス様を探し求める私達――今、私達は、自分を誇る事に心を費やすのではなく、死ぬ前に、イエス様の愛を受ける事のできる「弟」とならなければなりません。

アベルの立場に立とうとするならば、まず弟にならなければなりません。私達は、死ぬ前に、イエス様が心の内をすべて打ち明ける事のできる、胸の奥にある秘密を何一つ残さず託す事のできる、そのような愛する弟子とならなければなりません。

また、イエス様がすべてを託す事のできる弟子となり、そのすべてを引き継ぐ事のできる者とならなければなりません。聖書にあるように、イエス様は「まだあなたがたに話すべき事がたくさんあるが、今のあなたがたにはそれを耐えられない」と言い残して去られました。

今こそ、私達は来られるイエス様を待ち望まなければなりません。神様がこの終末に再び立てようとされるイエス様、天が探し求めるイエス様、私達が迎え入れなければならないイエス様、イエス様ご自身が立てようとされるイエス様――その方を知り、お迎えしなければなりません。

皆さんは、単なるイエス様の弟子となるだけではいけません。イエス様の息子・娘とならなければなりません。もし、天において勝利した息子・娘がいるとするならば、その息子・娘の前には、使徒達すらひれ伏する事になるでしょう。もし、イエス様が「愛する弟よ、愛する家族よ」と抱きしめる事のできる人がいるならば、使徒達はその人の前に仕える者となるでしょう。

24

使徒達すら膝をつき、敬拝することのできる位置にまで到達しなければなりません。このようなことを言えば、また異端視されるかもしれませんが、それは、真理を知らない人々の言葉にすぎません。皆さん、「新婦」という言葉は、使徒達の為に与えられたものではありません。

「新婦」という言葉は、使徒達に許されたものではないのです。もし、彼らにそれが許されていたのであれば、なぜイエス様は再び来られなければならないのでしょうか?「新婦」という言葉は、後の時代の人々の為に許された言葉なのです。このことを、明確に知って下さい。

また、「子女」という言葉も、使徒達の為に与えられたのではなく、天を裏切る事のない後の時代の息子・娘の為に与えられた言葉なのです。

アダム以来、今日まで、数多くの預言者が来ては去っていきました。しかし、私が知る限り、「イエス様の息子となる者」は誰一人としていません。「イエス様の真の直系子孫」となる者は、誰一人としていません。それは、イエス様が再び来られた後に初めて成される事なのです。この事を知って下さい。

では、イエス様がこの地上に再び来られるとき、誰を探し求められるのでしょうか? それは、弟達です。それは、父母です。それは、氏族です。それは、民族です。それは、国民です。それは、世界です。イエス様が探されるのは、今までのこの世ではありません。だからこそ、統一教会では「教会員」ではなく、「家族(食口)」という言葉を使っているのです。教会員ではなく、家族とならなければなりません。

25

イエス様の悲しみとは何でしょうか? ゲッセマネの園で、最も近くにいた三人の弟子達はどこへ行ってしまったのか? 愛する父母はどこへ行ってしまったのか? 愛する兄弟達はどこへ行ってしまったのか?

イエス様は、それらすべてを恋しく思われました。もし、ヨセフの家族を中心として、氏族がイエス様を迎えていたならば、イエス様は十字架にかかる事はなかったでしょう。

もし、氏族がイエス様を受け入れていたならば、イエス様は死ぬ事はなかったでしょう。しかし、家庭から追放され、天が立てられた洗礼ヨハネからも見放され、教団からも追放され、民族からも追放され、弟子達からも見放されてしまいました。

そのような状況にあって、どうして死を避ける事ができたでしょうか? この事実を知らず、今日まで「イエス様は死ぬ為に来られた」と信じてきました。しかし、ここで語られている言葉が真実であるならば、そのように信じてきた人々は、イエス様に第二の十字架を背負わせる行為をしているのです。

イエス様は探し求めておられます。愛する弟達を探し求めておられます。「私の愛する父母はどこへ行ってしまったのか?」「私の兄弟達はどこへ行ってしまったのか?」「私の親族はどこへ行ってしまったのか?」「私の氏族はどこへ行ってしまったのか?」「私の教会はどこへ行ってしまったのか?」「私の教団はどこへ行ってしまったのか?」

26

この恨みを晴らす為に、イエス様は2千年間もの間、天の父に向かって祈り続けてこられました。「父よ、再び彼らを許して下さい。私は世界の代表として来ましたが、失敗しました。私はイスラエルを導く為に来ましたが、失敗しました。私は教会を導く為に来ましたが、失敗しました。私は氏族と家庭をすべて導く為に来ましたが、すべてを失いました。どうかお許し下さい。」

――これが、イエス様の祈りなのです。事実を知れば、そうなのです。本当に、そうなのです。神様の悲しみとは? 神様の最も大きな悲しみとは何でしょうか?

それは、血を分けた兄弟が、互いに憎み争うのを見つめる事です。神様はそれをどれほど悲しんでおられるでしょうか? 最愛のわが子を長年かけて育て上げたにもかかわらず、その子がイエス様を理解できず、結局は離れてしまう姿を見られた時、神様はどれほど涙を流されたでしょうか?

何千年もかけて準備され、ヨセフの氏族を選んでイエス様を送られました。本来であれば、その氏族は歓喜し、心からイエス様を迎え入れるべきでした。しかし、その氏族がイエス様を裏切ったとき、神様の心情はどれほど悲しみに満ちた事でしょうか? ユダヤ教会がイエス様を排斥したとき、神様の心情はどれほど痛まれた事でしょうか?

イスラエル民族がイエス様を見捨てたとき、神様の心情はどれほど張り裂ける思いだったでしょうか? 個人として、兄弟として、家庭として送り出した者として、教会として、社会として、国家として、すべての立場からイエス様を拒絶した時、神様の心情は爆発しそうになられた事を私達は知らなければなりません。

27

天は、「再び送ろう」と誓われたイエス様を、必ずこの地に再び送られるでしょう。そしてそのイエス様は、この時代を責任もって導かれる事でしょう。

終末の時を迎えている皆さん、皆さんは来られるその方を迎えなければならない運命にあります。ではその方を迎える時代が近づいている今、どのような立場に立つべきでしょうか?

これまでの様に、ただ聖書を信じているだけでは、再臨のイエス様をお迎えする事はできません。イエス様が来られた時、旧約だけを信じていた者達は、イエス様を迎える事ができませんでした。

ただひたすら神様を信じるだけでは、イエス様をお迎えする事はできません。旧約時代にも、新約時代にも、同じ事が起こりました。

では、今日同じ事が起こらないと誰が断言できるでしょうか? 私達はイエス様の息子・娘の位置に立たなければなりません。「家族(食口)」のような立場に立たなければなりません。

28

そうでなければ、来られるイエス様をお迎えする事はできないのです。 今こそ歴史的な神様と息子・娘としての因縁を結び、未来の神様の心情と因縁を結ぶ立場に立たなければなりません。

そういう時代が訪れています。そのような時に、ただ聖書を抱えて教会に通えば天国に行けるでしょうか? 死んでみればわかる事です。

私は時々、そのような光景を目にします。「天国へ行く」と豪語していた牧師達が霊界に行ってみるとみじめな境遇に置かれているのです。

そのような人が多いのです。大言壮語する事をやめなさい。

現実の教会で権力を握ったからといって、神様の息子・娘になれる訳ではありません。人々から称賛され、学者として高く評価されたとしても、神様の息子・娘ではないのです。

29

既に述べたように、使徒達ですらイエス様の息子・娘となる事はできませんでした。ではこの地上の誰が、「私はイエス様の息子だ」「私はイエス様の兄弟だ」と名乗る事ができるでしょうか?

使徒達がその立場に立つ事ができなかったのはなぜでしょうか? それは歴史的なイエス様を理解していなかったからであり、時代的なイエス様を理解していなかったからです。

だからこそ私達が真の息子の立場に進む為には、6千年間にわたる歴史的な神様を知らなければなりません。歴史的なイエス様を知らなければなりません。

27億の人類を導く時代的な神様、時代的なイエス様を信じなければなりません。さらにそれを超えて、この瞬間以降、180度異なる形で展開する未来的なイエス様を信じなければなりません。

そのような立場に、主が来られたら、ただ引っ張って行かれると思いますか? とんでもありません。すべてを覆して、根本から変わらなければなりません。

30

言葉も変わり、文字も変わり、全ての事が変わるのです。 重要なのはここにあります。

使徒以上の神様の息子・娘、使徒以上の弟子、使徒以上の新婦、使徒以上の兄弟姉妹の立場に立たなければならないのです。天が探し求められるイエス様の家族歴史的なイエス様の心情を知らなかった当時の使徒達は、イエス様を裏切りました。

歴史的な使命を背負い動いていたイエス様を彼らは裏切りました。未来の使命を胸に秘め、動いていたイエス様を彼らは知らず裏切りました。だからこそ、私達がこの裏切りの歴史を断ち切り、清算する為にはイエス様の真の弟とならなければなりません。

イエス様が心から愛する事のできる新婦とならなければなりません。イエス様と永遠に共に生きる事のできる「家族」とならなければなりません。それができないのであれば、イエス様と共に戦場に出て戦うことのできる国民にでもならなければなりません。

歴史的な神様の心情を知っていますか? この時代における神様の立場を理解していますか? 今日、全世界のキリスト教は、再び裏切りの歴史を繰り返すかもしれない、極めて危険な段階にあることを知らなければなりません。

31

神様は探し求めてこられました。人類の前にイエス様を送られ、イエス様の弟となる者、イエス様の家族となる者を探し求めてこられました。天はそのことを願われ、4千年間労苦されてきました。

ヨセフの家庭はイエス様を愛し、死のうとも生きようとも、その御旨と共に生きるべきでした。ヨセフとマリアはイエス様が去られる前に、新婦の位置にまで至るべきでしたが、それができませんでした。

イエス様の兄弟の中にも、「兄上、どこへ行かれるのですか? 私が共に行きます」と言う弟がいませんでした。ヨハネによる福音書には何と書かれていますか? イエス様の兄弟達でさえイエス様を理解せず、信じなかったとあります。(ヨハネ7:1-9)

また洗礼ヨハネは、聖霊が天から鳩のように降りイエス様の頭上に留まるのを見たと証ししました。しかし、そのヨハネは「主よ!どこへ行かれ、どのように生きられますか?」と尋ねたでしょうか? 弟子達は尋ねたでしょうか? ユダヤ教徒達は尋ねたでしょうか? 選ばれたイスラエル民族は尋ねたでしょうか? そのような事はありませんでした。

だからこそ、イエス様は言葉にできない恨みを抱えたまま去られました。この恨みを解く日が、終末の日であり、解く事ができなかった恨みを清算する日が審判の日なのです。審判の日に残る事を願う皆さん、どうか心を開き、冷静な立場で自らを省みて下さい。 私は、天が探し求めておられるそのイエス様を正しく見つける事ができる者となっているのか?

32

私は、イエス様が迎え入れようとされる天国の家庭、あるいはその理想国家の民となる資格があるのか? さらに進んで、私は新婦となったのか? それができなければ、イエス様の愛する直系の息子・娘となったのか?

新婦になれなければ、息子・娘となり、息子・娘になれなければ、兄弟となり、兄弟になれなければ、家族となり、家族になれなければ、氏族となり、氏族になれなければ、民族となり、民族になれなければ、せめてその国の民となるべきではないでしょうか? このような切なる心情を抱きながら、今日も祈り続けておられるのがイエス様である事を人々は知りませんでした。ここに集まった皆さん、私達は困難な道を歩んでいます。また、その道を開拓し続けています。これまでの歴史の道程にはなかったことを私達は成し遂げようとしています。

新約聖書にも書かれていないことを、私達は語っています。どのような霊的な人々も体験したことのない事実を、私達は体験しています。このような私達の目的は何でしょうか? それは、主が地上に来られるときに、その懐に、あるいはその垣根の内に入って、家族となり、氏族となり、民となる事です。私達は、そのようになる為に集まった群れなのです。

イエス様の最も近くに立つべき者は誰でしょうか? それは、新婦であり、兄弟であり、息子・娘です。これらをまとめて言えば、「家族(食口)」です。 私達は、イエス様の家族なのです。この家族こそ、神様が切に待ち望んでこられた家族であり、イエス様が探し求められた家族です。

この家族を地上に築く事こそが、歴史的な願いであり、その願いを果たす為に、私達はイエス様の兄弟、あるいはイエス様の息子・娘となり、あるいはイエス様の新婦となるべきなのです。

33

それができなければ、少なくとも氏族圏の中には入らなければなりません。そうしてこそ、14万4千人の群れに加わることができるのです。皆さんは、14万4千人とは何かを知っていますか?

哀れな神様、哀れなイエス様でした。哀れな私達の先祖達でした。死に、また死んでいきながらも、解怨の日を迎える事ができなかった先祖達、解怨の日を失ってしまったこの地、解怨の日が何であるかを知る事もなく、命をかけて従っていった先祖達でした。

私達は、このすべての悲しい事実を知り、探し求めてこられたイエス様、立てようとされたイエス様、迎えたかったイエス様を、真にお迎えする事のできる立場へと進まなければなりません。

私達は、摂理の道程を歩んでいます。私達の韓民族の歴史を見ても、この民族は哀れな民族でした。哀れな民族でありながらも、世界の歴史はこの民族を軸に変化し続けてきました。そして今日、キリスト教の世界もまた、この民族を中心として、大きく変わろうとしているのです。

いまだに、解怨の日、願いを成就する日を迎えられずにいる天の事情を知る者が、この地上には誰もいません。天の御旨を求めて歩むと言いながらも、その心情を理解し、その御旨を支える為に努力する人が、この地にはいないのです。

34

私達は、すべてを奪われ、世の中からどれほど拒絶され、どれほど惨めな立場に置かれようとも、もし、イエス様に認められる兄弟となり、イエス様に認められる家族となり、イエス様に認められる新婦となり、イエス様に認められる息子となることができるならば、人として、それ以上の願いはないでしょう。

「私の愛する誰々よ!私は地上で、お前のような息子・娘を探し求める為に、2千年間、苦労してきたのだ。私の死も、そのためであり、私が受けた苦難や痛みも、すべてそのためだったのだ。今、ついにお前を見出したのだから、天の祝福、地の祝福を神様の御前に祈り求めよう。」

――このように祝福し、また祝福を受ける事のできる息子・娘達が、この天地の間に現れる事を、イエス様はどれほど待ち望んでこられた事でしょうか。この地上に、そのような者がいるならば、「来る」と約束されたイエス様を、その心の奥底から慕い、熱く待ち焦がれる事でしょう。

彼は、涙なくして世界を見ることはできず、悲しみと憤りと、そして悔しさに満ちた心情を抱かずには生きていけないでしょう。天を仰いでも悔しく、地を見ても悔しく、天地の憤りを晴らす責任が、自分にあるのだと覚悟し、自分のすべてを犠牲にしても、なお足りないと感じながら、「主よ!」と叫ぶ者が、天に最も近い者なのです。

イエス様が十字架を背負って歩まれたとき、その母が、胸を打ち、泣きながらついて行ったように、今なお、私達の為に労苦し続けておられる歴史的なイエス様を思うとき、涙が止まらず、骨身にまで染みる痛みを感じ、胸が締め付けられるような心情に満たされる――そんな人が、この地上に一人でもいるでしょうか? いません。

35

イエス様は、こう祈られました。「民族の罪があるならば、どうか私を犠牲としてお許し下さい。」「世界の罪があるならば、どうか私を犠牲としてお許し下さい。」イエス様は、天の御前に立ち、そのように祈られました。そのように祈る事のできる兄弟が現れる事を、今日に至るまで、天は待ち続けてこられたのです。

天は、家族と共に喜ぶイエス様の姿を見たいのです。「おお、愛する新婦よ!愛する息子・娘よ!愛する兄弟よ!愛する親族よ! 私の願いがついに成就したのだ。共に喜ぼう! 天と共に喜ぼう! 地と共に喜ぼう! 歴史と共に喜ぼう! 時代と共に喜ぼう! 未来と共に喜ぼう! 神様よ、どうか祝福して下さい!」

――このように歓喜するその場を、イエス様はどれほど恋しく思っておられるでしょうか?その場を探し求めて、再びこの地に来られなければならないのに、来る事ができず、霊界で祈り続けておられるイエス様の切なる心情を、私達は知らなければなりません。

その方は、他人ではありません。 私の為に労苦され、私の為に不当な仕打ちを受けられ、私の為に死んでいかれたのです。皆さん、世の堕落した人間でさえも、兄や弟の為に血の涙を流し、慟哭することを知っているのに、天の王子がこの地に来られ、最も卑しい人々を兄弟として迎える為に死なれたというのに、涙も流せず、慟哭する事もできない者が、果たして人間でしょうか?

イエス様は、いつになったら、「愛する私の新婦よ!愛する私の息子・娘よ!愛する兄弟よ!」――そう呼びかけながら、胸に抱えた恨みを晴らす事ができるのでしょうか?

36

その恨みが晴れるとき、天の願い、イエス様の願い、人類の願いが成就するのです。皆さん、天の家族という者がいるとするならば、彼らは世の中から孤立した者でしょう。天の息子・娘という者がいるとするならば、彼らは悪しき世界から憎まれる者でしょう。

皆さんは、敵の国、悪魔の城郭を滅ぼす為に立てられた者です。だからこそ、家庭に入れば家庭の迫害を受け、社会に出れば社会の迫害を受けるのです。イエス様もそうであり、神様もそうであり、天の為に命を捧げてきた人々も皆そうでした。だからこそ、歴史的な悲しみの峠が、私達の前にも立ちはだかっているのです。

その峠を越えてこそ、初めてお迎えする事のできるイエス様です。イエス様が探し求められる世界だからこそ、イエス様は、そのような位置に立つ人々と友となる為に来られるのです。

イエス様を無視し、イエス様を殺した罪悪感を抱きながら、「おお、主よ!この上なく畏れ多い事です」と叫び、「先祖達が血を流しながら築いた歴史的な基盤の上で、未来の道を歩む栄光を私に与えてくださることを感謝します」と誠心誠意祈る事のできる群れ、そのような教会、そのような民族、そのような国家、そのような世界を、イエス様は探し求めて来られるのです。

イエス様の心情の深さ皆さんも、愛する子を失ったときには、身を削られるような痛みを感じるでしょう。では、天の情愛を背負ってこの地に来られたイエス様の心情は、一体どれほどのものだったでしょうか? 皆さん、世の中で「最も愛している」と思う情の絆と、神様とイエス様と私の関係を比べてみて下さい。天とイエス様と私との関係が、それ以上に深くなければならないのです。

37

心情の世界は、歴史的な時間の隔たりを超越します。 時間と空間を超越するのです。どのような権力も、どれほど恐ろしい勢力も、その情愛の道を塞ぐ事はできません。

たとえ、それを阻む為に泰山(たいざん)を築き、あるいは天地万物を覆い尽くしたとしても、それを遮る事はできません。心情の往来に、障害物は存在しないのです。心情の主人公はイエス様です。

だからこそ、イエス様は「最後に残るものは愛である」と言われました。イエス様は、神様の心情を代わりに背負い、心情の世界と共に生きてこられた為に、今日、イエス様の勢力は拡大しているのです。

この心情に自らの心情を結びつけ、「彼の心が私の心であり、私の心が彼の心である」――このように一つになり、イエス様とは永遠に別れることがなく、この世のどのような条件も共に乗り越える事ができる者こそ、真のイエス様の弟子であり、家族なのです。しかし、初代教会時代のイエス様の弟子達は、家族の位置にまで進む事ができませんでした。では、今の私達はどうでしょうか?

38

その限界線を自由に越え、どのような試練も乗り越えて、イエス様の為に立ち上がる事のできる人間になれているでしょうか? それこそが、今この瞬間に解決すべき、最も重要な問題である事を、私達は知らなければなりません。

では、立てられるべきイエス様は、どこへ行くべきでしょうか? 神様が地上に送られ、立てようとされたイエス様は、どこに立つべきでしょうか? この問題を解決できなければ、イエス様の立つ場所はありません。

地上に来なければならないイエス様なのに、来られる場所がないのです。 来て働かなければならないのに、共に歩む仲間がいないのです。 また捕らえられ、また十字架に追いやられ、また嘆かれる事になるでしょう。

だからこそ、イエス様の家族としての心情を持ち、子女としての心情を持ち、新婦としての心情を持たなければなりません。 私達は、イエス様を慕い続け、その思いに満ちた心情を抱かなければなりません。

約束の日があるのですから、イエス様を慕い、狂おしいほどの心情を持たなければなりません。 私達は、自分の生活感情を抑え、あらゆる意識や観念を超越し、無限にただ一つの方向へと引っ張っていく「何か」を体験しなければなりません。

39

そのような者こそ、必ず天上世界へと入る事ができるのです。イエス様は、2千年前に来られました。地を探して来られました。しかし、イエス様に出会った者は誰でしょうか? もし出会ったと言うならば、自分個人を中心としたイエス様には出会ったかもしれません。しかし、個人を超え、家庭を超え、社会を超え、国家、民族、世界、天と地を統治するイエス様に出会った者は、誰もいなかったのです。

この問題を解決する為には、私達が心情に満ちなければなりません。 情の世界に入る前には、決して解決できる道はありません。もし、その問題を解決できる何かがあるならば、皆さんの心情を動かす何かがあるならば、それに引き込まれるべきなのです。

皆さん、もし教会に行って苦しくてもがきながら出てきた人がいるならば、そこには二度と行かないで下さい。天は、どのような人を探し求められるか?私達の心は、探し求めています。

皆さん、見て下さい。電波も、どこででも受信できるわけではありません。必ず、受信機のあるところでのみ、作用するのです。受信機があるならば、どこででも、いつでも作用します。人間も同じです。

真の良心と、真の心情的な基準、天の心情的な基盤を持つ人がいるならば、その人はどこへ行こうとも、どのようなときでも、たとえ抑圧され、悲しみに満ちた場所にいたとしても、知らず知らずのうちに生きる道が開かれるのです。

40

誤解される場においても、生きる道が開かれるのです。しかし、その生きる道は、安楽な場所ではそれほど多くは開かれません。歴史的な革命、歴史的な発見、歴史的な成功を収めた人の中に、平坦な道で成功した人はいません。死と向き合う場から始まるのです。

天は、そのような場で、皆さんを探し求めておられるのです。試練を乗り越えてこそ、天の代表者となる だからこそ、どのような人も、天の前に立とうとするならば、必ず試練にぶつかります。物質的な試練、人間関係における試練、心情的な試練にぶつかります。

しかし、その試練を乗り越え、「私の行くべき道はここだ!」と叫びながら進むとき、数多くの試練と困難に苦しむ人々を導く事のできる代表者となるのです。イエス様の歩まれた道イエス様も、そうでした。

イエス様は、大工であったヨセフの仕事を手伝いながらも、安楽な生活はされませんでした。その心情は、無限の試練と困難の道を歩まれてきたのです。

歴史的、時代的、未来的な道程において、人類が越えてきた一つひとつの峠を心の中で乗り越え、悪魔との最終決戦に勝利された基準を立てられたからこそ、「メシア」として立ち上がることができたのです。しかし、このことは、聖書には書かれていません。

41

心情の世界において、神様の心情は永遠に変わることがありません。「アルファでありオメガである」とは何を意味するのでしょうか? それは、神様が愛の実体であり、愛の中心的存在である為に、アルファ(始まり)もオメガ(終わり)もないという事です。真の愛には、始まりも終わりもありえないのです。

歴史の中に隠れた神様の心情を見つける者そのような愛の世界を目指し、復帰摂理の道を進む中で、歴史の背景を深く探求し、「ここに神様の心情が隠されていたのだ!」「おお、この道こそ、私達の民族が進むべき道だ!」――と叫びながら立ち上がる主義こそ、民族を救うのです。

世界歴史の背後に流れる神様の心情を探し求め、「これこそが、世界人類が生きる道である!」と叫び、先頭に立つ者がいれば、その者こそ、世界人類の生きる道を開拓する者となるでしょう。さらには、天上天下、天と地、霊界、そのすべての心情を「これである!」と断言し、歩む者がいるならば、その方こそ、再び来られる主でしょう。そのとき、天と地の大改革、再創造、完成の歴史が始まるのです。

だからこそ、このような世界を探し求めることこそが、私達の願いであり、私達の信仰生活なのです。私達が定めるべき心情の方向その道を進むべきならば、皆さん自身が、心情の方向を定めなければなりません。

最後の瞬間には、心情の方向を定めることが必要なのです。世の何かを愛する以上に、神様を愛する事を知り、イエス様を愛する事を知り、イエス様が愛する世界を愛する事を知り、イエス様が愛する民族を愛する事を知らなければなりません。

42

より大きなものを愛した後に、もし余裕があるならば、そのときに初めて自分自身を考えなさい、ということです。しかし、今日の世の中は、これとは反対です。「国が滅びようが、世界が滅びようが、天が悲しまれようが、自分と自分の子供さえ無事であれば、それでいい。」――これでは、本末転倒です。

イエス様は、このような考えを断ち切る為に、「お前の家族が敵となる」と言われました。公的な使命の為には、私的な感情を捨てなければならないのです。家庭よりも、自らが所属する団体の為に尽くす者は、その団体の忠臣です。さらに、団体よりも国家の為に尽くす者は、国家の忠臣です。また、国家よりも世界の為に尽くす者は、国家の反逆者と呼ばれるかもしれませんが、世界の忠臣です。

そして、世界を超え、神様のための道を歩む者こそ、最大の忠臣なのです。イエス様こそが、その代表者でした。人間に与えられた最大の幸福人間に与えられた幸福の最大の基準は、神様の真の僕となり、真の忠臣となり、真の孝子・孝女となることです。なんと畏れ多く、ありがたい言葉でしょうか。

皆さんは、どう理解していましたか? 皆さんは、天が認めることのできる忠臣、孝子、貞女となっていますか?自分の家庭を超え、自分の国家を超え、この世界を超えて、神様へと向かわなければなりません。 そして、向かうならば、堂々と向かわなければなりません。イエス様は、そのように歩まれました。

もし、家庭が反対するならば、家庭を突き抜けて進み、もし、民族が反対するならば、民族を突き抜けて進み、もし、国家が反対するならば、国家を突き抜けて進み、もし、世界が反対するならば、世界を突き抜けて進み、もし、霊界にいる無数の悪霊が反対するならば、それすらも突き抜けて進む――そのような切なる心情を持っているかどうかが、問題なのです。その心情の前では、悪魔の鉄の柵も、自然に消え去るのです。

43

「お父様! 誰よりも、あなたを愛します。世界のどの人類よりも、あなたを愛します。イエス様が愛されたように、私もあなたを愛します。」――このように告白できる息子・娘こそが、真の新婦となるのです。イエス様が待ち望まれる子女そのような息子・娘が現れるならば、イエス様はこう言われるでしょうか?「おい、お前、なぜそんな事をするのだ?」――そんなはずがありません。 イエス様は、そのような息子・娘が現れる事を、2千年もの間、待ち望んでこられたのです。

そのような家族、そのような兄弟、そのような子女を恋しがり、地上でそのような人になる為に、もがき続ける者こそ、探し求められるイエス様を立てることのできる民となり、家族となり、真の血縁者となるのです。歴史的な使命を果たせなかったとしても、愛の心情を持つならば、それを成し遂げる事ができます。だからこそ、そのような立場を探し求めなければなりません。愛は、天地万物の何とも比較する事ができません。愛する人がくれたハンカチ一枚は、億千万の金と交換しても惜しいものです。

イエス様が望まれる愛の息子・娘たとえ数は少なくとも、心情を通じてイエス様の骨の髄まで動かす事ができ、イエス様が望む希望の世界を包み込んで余りあるほどの広い愛の心を持ち、神様を安息させる事ができ、イエス様と共にひれ伏して神様に礼拝を捧げることのできる息子・娘がいたならば、どれほど素晴らしい事でしょうか。

イエス様は、神様の前に共に礼拝を捧げる事のできる家族を待ち望まれました。そして、地上にその基準を立てる為に、2千年もの間、戦われました。また、人間がそのイエス様と共に生きる姿を見て喜ぶ為に、神様がイエス様を地上に立てられたのです。

皆さん、この目的を成す為に、燃えたぎる心情を抱き、個人を超えて民族の恨みを踏み越え、世界の恨みの峠を越え、天と因縁を結ぼうとする、そのような爆発的な情熱を持っていますか?それこそが、イエス様を正しく迎えられるか、探し求められたイエス様として地上に立てる事ができるかどうかを左右するのです。これを、明確に知らなければなりません。

44

<祈祷>
お父様! 恐れ多いことです。

歩めば歩むほど、自分の足りなさを痛感し、天の抱かれる恨みに対して涙を流しながら慟哭しなければならない人間であるにもかかわらず、天の情は天の情のまま残され、民族の心情は民族の心情のまま残され、互いに争い、葛藤しながら生涯の道を歩んできたことを、どうかお許し下さい。

人間の情を超えて、天の情と共に喜び楽しむことのできる因縁をイエス様が来られて立てられたことを私達は知りました。

その因縁を探し求め、イエス様の真の弟子、真の家族、真の子女、真の新婦となる事ができるように、どうかお許し下さい。

そうしてこそ、神様が立てようとされたイエス様を地上に立てる事ができ、イエス様の歴史的な恨みを晴らす事ができ、歴代の私達の先祖達が犯してきた過ちも、私達の一世代において清算する事ができる事を知りました。

45

どうか、そのような立場でイエス様をお迎えし、共に生きる事のできる天の家族となり、天の子女となる事ができるように、お許し下さい。

お父様! 心に感じた事が、天から始まったのであるならば、決して心から消え去る事がないようにして下さい。

記憶の脳裏から消え去る事がないようにして下さい。その生命力が消え去る事がないようにして下さい。

どうか、行くべきならば、時間も空間も超越し、縦的に支配し、貫通させてくださる事を切に願い求めます。御言葉と共に、永遠に共に歩ませて下さい。

勝利のための戦いの道において、私達が足並みを揃え、努力し、忠誠を尽くすことができるように、祝福して下さい。

主の御名によってお祈り申し上げます。 アーメン。



文鮮明先生 御言葉選集 7 - 11

2025年03月01日 17時22分43秒 | 学習
文鮮明先生みことば選集 7 - 11. 愛する子どもを掲げようとする神様の手間 (1959年10月11日)
1959年10月11日(日)、元本部教会。
ヨハネによる福音書 3:11-21 伝道の書 7:28-29


1
<祈り>


お父様がおられ、私たちの事情がそれぞれ違うことを知っていて、また心情に感じる信仰の程度もそれぞれ違うと知っています。お父さん、願ってきて、私たちの事情が違って、私たちの心の背景が違っても、これは世界を中心とした事情です。


天は私たちにこの時間のような事情になることを楽しみにして、同じ心の基盤になることを楽しみにしておられることを知らせてください。お父様は私たちの事情が人間を通じた事情ではなく、天を通じる事情になることを願い、私たちの心の基盤が、人間を通じた心の基礎ではなく、天を通じた心の基礎になることを楽しみにしておられることを知る事が出来る様にしてください。


今「私」という一つの存在は二つの世界の先端に立っています。左を見てみると、世界の縁が私に迫っており、右を眺めると無限の線の動きが私を導く立場に立っています。このような状況で後悔に身をかがめている自分であることを私たちはよく知っています。このような立場に置かれている者たちに対し、天は祝福を与えることができないことを知っております。


もちろん、今私たちの事情が一方向に傾き、私たちの心の背景が一方向に傾いて、その事情その心に感じられるすべての事実は、世の中ではなく永遠に存在する天の内容として感じることができ、動くことができる私たち自身になることをお許しください。


今、私たちのお父様の前に出て来ましたので、自分の深刻さを打ち明け、父の訓戒と新しいビジョンでもう一度私を探せるようにお許しくださり、私自身の位置をもう一度悟らせてくださって、自分自身の力量をもう一度悟らせて下さい。


2


私たち自身がいかなる姿で、いかなる理念に属し、いかなる価値といかなる基準のためにもたらされてきたという事実を心に許してくださるように願っています。そうして過去の私はこうして、今日の私はこれなので、未来の私はどうなるべきかをもう一度考えられるこの時間になるようにしてくださるのを愛するお父様、切に願って来てほしいと思います。


今、人を中心とした縁と事情は日が行けば行くほど多くの縁と条件で分かれることになるのですが、天を中心としたすべての縁と事情は多ければ多いほどあればあるほど統一された形体を備え、一つのはっきりと一味違うものを成し遂げることを知っています。


今日、私たちはまたひとつになったその姿を楽しみにして捧げたので、この時間に愛の手を伸ばしてください。その姿になるように許してくださることをお父様、切に願っております。


お父様、お試しください! 今、心と心に足を置き、心情と心情をつなげてお父様の事情を理解し、お父様の心情を悟る事のきるこの時間になることをお許しくださるようにお父様、切に願っております。


歴史路程に数多くの先知先烈がおりましたが天の事情がどうかを分からなかったし、天の心情がどうであるかも知らずに行きました。


3


この問題を解決するためには、すべてを犠牲にしても楽しみの心で行く事ができ、私たち自ら覚悟して供物にならなければならないことをもう一度悟り、天の前に復帰する時間になるようにお許しくださり、父の能力を望む時間になるようにお許しくださるように、薬事して下さる様にと切に願っております。


今日、私たちだけが父の賜物に浸らないようにしてください。御心を心配して隠れた祭壇を築き、孤独で涙を流すあなたの息子の娘が多いと思いますので、この時間を委ねますので、最初から最後まであなただけが主管していただき、全体をあなたのものと認められるこの時間になることを許してくださるよう切に願っております。


天はすべての準備を備えていても、私たち自身がその準備に対応して心と体に準備の場を備えなければならないことを知っています。私たちの心の中にこれまでの何も残さないようにお許しくださり、子供の心情に戻り、お父様の恵みのある心情を通して、もう一度天と縁を結ぶことをお許しください。


たしたちが父の命じられた賜物に浸り,天と共に和えることができ,父が親しく私たちと共に相談し,わたしたちと共に新たな約束を立てることができるこの時間にさせてくださるように願っています。


そして、御言葉を語って下さる様にお父様、心情を一つにしてください。多くの御言葉が必要ないことを知っています。御言葉よりも私たちの心で悟ることが必要だという事を知っておりますので、お父様、心の入口を開いてくださり、各個の事情をご覧ください。


4


お父様と縁結んだ本然の性像がイエスだけであることを私たちは知っておりますのでお父様に向かって心を集めております。新しい約束の御言葉を通して、お父様の前にもう一度決意と誓いをすることができるこの時間になるようにお許しください。


伝える者の心や受け手の心が二つにならないようにしてくださり、一つの心情を通して一つの賜物に和合しえるこの時間になるように許してください。いままでの認識を全て捨てて、子供の心情になって心を打ち明け、この一時、お父様の声を聞くことができ、お父様の心情と縁を結ぶ事ができるように祝福してくださるよう切にお願いしながら、すべての御言葉の名を主の御名に寄ってお祈りいたします。アーメン






<御言葉>
皆さんと共に考えようとする御言葉のタイトルは 「愛する子どもを掲げようとする神様のご苦労」 です。このようなタイトルを持って申し上げます。


天や地のいかなる存在物を問わず、最も必要とするものは何かというと、それは 愛 です。天でも 一つの愛 が重要であると同時に、人間の世界でも 人間を中心とした愛 が重要であるのは事実です。キリスト教では 神様の愛 について語っています。イエス様は 人間の前に神様の愛を示された方 であると私たちは認識しています。


もし 人間世界において愛を求めて慕うべきもの があるとするならば、それは イエスの愛 であり、もし 天上において愛を求めて慕うべきもの があるとするならば、それは 神様の愛 であることを、私たちはよく知っています。このように、神様の愛とイエスの愛を通じてつながること が私たちの願いですが、その愛がどのようなものなのか ということが問題となります。人類の始祖 は 愛の園において、神様を中心に据え、その永遠の愛を生活の理念とし、人生の理念として生きることが、本来の創造の目的 でした。


5


しかし、堕落によって神様と愛の縁を結ぶことができず、神様の敵であるサタンと愛の縁を結んでしまった ということを、私たちは 原理を通してよく知っています。被造万物の生命の中心、理念の中心、価値の中心 は、まさに 神様の愛 であることを私たちは認めるべきですが、もし 神様の愛、神様の理念、神様の生命を実感できない人間 がいるならば、たとえどれほど 愛を語り、生命を語り、理念を語ったとしても、それは天と何の関係も持たない ということを、私たちは知っておかなければなりません。


人類が悲惨な姿で生きているのはなぜでしょうか? それは 神様の生命を失ってしまったから であり、それは 神様の愛を失ってしまったから であり、それは 神様の理念を失ってしまったから なのです。私たちはこのことを、もう一度、心の奥深くで強く感じ取らなければなりません。


悲しみが積もれば積もるほど、その悲しみに反して神様の生命を慕い、神様の愛を慕い、神様の理念を慕う人 がいるとすれば、その人は 復活の希望がある人 でしょう。神様の愛が断たれ、神様の生命が断たれ、神様の理念が断たれた人間を神様が救おうとされるならば、まずどのような摂理をなさるでしょうか? それは、真の生命を慕う心を起こし、愛に飢える心を呼び覚まし、理念の欠乏を痛感させることを通じて、人間を導かれる ということを、私たちは知らなければなりません。


それでは、皆さんは 神様の愛、神様の生命、神様の理念を、心の奥底からどれほど慕い求めたでしょうか? もし皆さんの心にそのような思いがないとすれば、神様の愛を求めようとしても、決して見出すことはできないでしょう。このような衝撃が 心の奥底から爆発しない 限り、たとえ 神様の生命、神様の愛、神様の理念が存在していたとしても、それらが私たちと関係を結ぶ道理はない のです。


今まさに 終わりの時が近づいています。人々は口をそろえて、「もう世界は終わった」 と言っています。しかし、誰か一人をつかまえて、「あなたこそが私の心の枯渇を満たしてくれる人であり、あなたこそが私の生命の代わりとなることのできる方だ」と言えるような人が、この世界にはいません。


6


「あなたこそが私の心情の奥底に響く方であり、あなたこそが私の憧れであり、あなたこそが神様の愛を満たしてくださる唯一の方だ」と言えるような人が 存在しないのです。さらに進んで、理念の領域においても同様である ということを、私たちはよく知っています。しかし、私たちは必ず神様の生命と神様の愛、神様の理念と関係を結ばなければなりません。もしそうならなければ、この歴史の終末時代において、真の愛の人、真の生命の人、真の理念の人にはなれない と断言せざるを得ません。


それでは、私たちが道の探求をし、宗教生活を送る目的は何でしょうか? それは、神様の生命と神様の愛、神様の理念を身につけるため です。そして、そのような姿を 神様も探しておられ、イエス様も探しておられます。その姿を持つ存在として、神様もイエス様も祝福し、認めることのできる者が現れる時、この世に真の愛、真の生命、真の理念が確立される ことでしょう。


人間を限りなく愛される神様は、人間が堕落したその日から、人類を探し求めてこられました。では、神様は どこまで人間を愛されるのでしょうか? 皆さんの観念では、それを完全に理解することは難しいでしょう。堕落した世界においても、親は子を愛しています。もし愛する子が死の淵で苦しんでいるとしたら、親はその子を救うために、苦しみや恐れを顧みず、死をも恐れず、どのような行動もいとわない でしょう。


たとえ堕落した人間であっても、子を愛する心情を持っています。また、愛する人のために 自らの命を惜しまない人もいます。


それでは、神様の愛は、親が子を愛する程度のものに過ぎないのでしょうか?もし、愛というものが いかなる逆境や死をも乗り越え、犠牲をいとわず進むものである ならば、神様の愛は一体どれほどのものでしょうか? 堕落した人間が自分の子を愛するのとは比べものにならない のです。このように、神様が本来の創造のもとで人間を愛そうとされたその愛は、堕落した世界での愛とは比べることすらできないほど偉大なものである ということを、私たちは知らなければなりません。


7


今日の人間は、愛する子が死んだとき、あるいは愛する人が亡くなったとき、深い悲しみと苦しみを感じます。そして 意識を失ってしまったり、正気を失ったりする人 もいます。さらに、悲しみのあまり自ら命を絶つ人 すらいます。この地上に生きる人間同士でも、愛する相手を失ったときに悲しみ、苦しみ、狂い、命を落とす人がいる のです。それでは、神様は一体どうでしょうか?


皆さん、一度よく考えてみてください。 神様は、天地万物を司ることのできる唯一の主人として、アダムとエバを創造されました。また、愛の根源であり、愛の動機である神様は、その愛のすべてを注ぐためにアダムとエバを創造された のです。


神様が人間を創造された目的は、単に万物を司らせるためだけではありません。 それ以上に、神様の愛を与えるために人間を創造された ということを、私たちは知らなければなりません。被造万物全体を動かす原動力が神様の愛である とするならば、アダムとエバを創造し、祝福された目的 はどこにあるのでしょうか?


それは、天から天地に流れる神様の愛を受ける対象としてアダムとエバを創造された ということです。その愛を中心に据えて、神様は私たちの先祖を創造された ということを、私たちは理解しなければなりません。理念を定め、天地を創造された神様は、創造が進むにつれて、これから創造されるアダムとエバを思い描きながら、喜びに満ちておられました。また、アダムとエバを創造し、彼らが成長していく姿を見つめる神様は、限りない喜びを感じておられました。


無限に喜ばれ、無限に楽しみ、無限に幸せを感じながら、アダムとエバを見つめておられた のです。そうではないでしょうか? それほどまでに特別な存在が、アダムとエバだったのです。創造主としての威厳も、全知全能なる神様の尊厳も、そして遍在する神様の存在性すらも忘れ、ただひたすら、アダムとエバを愛したいという思いに満ちておられたのです。そのような立場で、堕落したアダムとエバを見つめる神様の心は、一体どのようなものだったのでしょうか?


8


このことを、私たちは深く理解しなければなりません。皆さんは、たとえサタンの血統を受けて生まれた子であったとしても、無限に愛することができます。また、他の愛の対象に対しても、無限に愛することができます。もし 人間が堕落せず、地上に悪の子孫ではなく善の子孫が繁殖していたならば、皆さんが自分の子どもを見つめるとき、神様がアダムとエバを創造し、見つめられたその感情を感じ取ることができ、その愛を実感することができる というのです。


しかし、神様がアダムとエバを見つめられたその愛の心情で、この地上の息子・娘を愛した人は、歴史上ただの一人もいない のです。そのような心情とそのような感覚を共有しながら愛する夫婦も、これまで存在したことがないのです。毎日のように罪を犯し、騒ぎ立てるこの現実は、堕落した後に生じた、天使長にも満たない次元の愛なのです。そう、これは 天使長以下の愛 なのです。だからこそ、人間は 理念的主体として存在される神様の愛、そして理念そのものとして存在される神様の愛から、完全にかけ離れてしまっている のです。皆さんは、アダムとエバが堕落したという話を、ただ漠然と聞いているだけではありませんか? その内容がぼんやりとしており、聞いたことも曖昧で、それに対する 心情的な反応すら持たないのではないでしょうか?


それではいけません。アダムとエバが堕落したその瞬間、神様の心情は破裂するかのように、引き裂かれるかのように、そして発狂するかのように苦しみに満ちていたのです。ご自身の立場すら忘れるほどに混乱された神様の姿を、決して忘れてはなりません。皆さんは、そのことを一度でも考えてみたことがあるでしょうか? 地上の堕落した人間ですら、愛する子どもが死にゆく姿を目の当たりにするとき、骨の髄まで溶けるような苦しみを感じ、たとえ自分が代わりに死ぬことになったとしても、子どもを生かしたいと願うのが親の心です。それならば、堕落の道を歩み、死の境界線を越えていくアダムとエバを見つめる神様の心は、一体どれほどのものであったでしょうか? その心を知らなければ、人間は決して神様の息子・娘にはなれません。


もし、アダムとエバの堕落を見つめる神様の悲しみを身をもって体験した人 がいるとすれば、その人にとって、この人間世界のどんな問題も取るに足らないもの となるでしょう。この世にどれほど偉大な愛があるとしても、それによって神様の深い悲しみを慰めることはできないのです。私たちは蕩減復帰の歴史を知っています。


本来の世界に戻るためには、神様の心情を理解し、神様と愛の縁を結ばなければならない ということを、私たちはよく知っています。では皆さん、アダムとエバが堕落する姿を見つめながら悲しまれた神様の心情を、一度でも感じたことがありますか? 人間が堕落した後、神様の中に積もった恨みの心情、それを解き放つために、神様は六千年という気の遠くなるような歳月を経た今日この瞬間まで、休むことなく苦悩し続けてこられた のです。


9


神様はこの恨みを晴らすために、数多くの預言者を遣わされました。また、この恨みを晴らすために、愛する独り子をこの世に送られたのです。そして、その愛する子を十字架の刑場へと送り出し、さらにこの恨みを解くために、数多くの人類が苦しみ続けてきた ということを、私たちは知らなければなりません。


それでは、地上に喜びの日が訪れるとするならば、それはどのような日でしょうか? それは、堕落直後から神様の心情に積もっていた恨みが解かれる日 こそが、真の喜びの日なのです。しかし、今日に至るまで神様の心に深く刻まれた恨みは解かれておらず、天宙は悲しみに包まれたままです。そのために、私たちは悲しみの歴史の道をさまよい、苦しみの歴史の道をさまよい、そして、真の喜びを求めながらも、それを得られずに苦しんでいる のです。このことを、私たちは知らなければなりません。


では、このような悲しみをもたらした原因は何でしょうか?お金がないから悲しいのではありません。名誉がないから悲しいのではありません。愛するべき相手がいないことが、最も深い悲しみなのです。それでは、苦しみとは何でしょうか? 自分がどんな立場であれ、不当な扱いを受けることが苦しみなのではありません。愛すべき人を愛することができない立場に立つことこそが、何よりも耐え難い苦しみなのです。


真の喜びとは何でしょうか? 億万長者になったからといって、真の喜びが得られるわけではありません。 全宇宙を自分のものにしたからといって、真の喜びが得られるわけではありません。愛を見出し、神様をお迎えして生きることこそが、本当の喜びである ということを、私たちは知らなければなりません。堕落した私たちは、心の中に悲しみを抱えて生きる者たちです。堕落した私たちは、生活の中で苦しみを感じながら生きています。私たちは善の理念を六千年もの長い間、慕い続けてきましたが、未だに真の「善の理念」と呼べるものが現れていない ことを、皆さんもよく知っているはずです。


今日、私たちが生きているこの社会、私たちが見つめているこの世界の潮流が、神様の愛と神様の生命が躍動する善の理想の楽園を築くものだと、どうして考えることができるでしょうか? しかし、この世界を否定することもできない運命に置かれている私たち。これこそが、堕落の恨みなのです。この恨みの峠を越えに越えなければならないのが、私たちの人生なのです。では、この恨みの峠を越えるためには、どうすればよいのでしょうか? それは、神様の愛を通らなければなりません。そのためには、神様の心情に刻まれた傷を知り、神様を慰めなければならないのです。そうしなければ、皆さんは希望のその時を迎えることができないということを、はっきりと知らなければなりません。


10


この目的を達成するために、神は私たちを探しに来られます。昔の旧約時代には、この堕落した人間と橋渡しをするために、神は「犠牲」という条件を設けさせました。神は人間の前に万物を置いて訪れました。その時、先祖たちは真に神を迎え入れることができませんでした。歴史の中で数多くの預言者たちは、犠牲を捧げることによって神の愛の心情と縁を結ばなければならなかったにもかかわらず、それを知らずに犠牲を乱暴に扱ったことは一度や二度ではありません。神は犠牲を条件として人間を万物の前に立たせたかったのです。そして、そのようにして歴史を発展させてこられました。個人を探し、神の心情と縁を結ばせ、それを家庭的、民族的に広げていかれました。その民族の基盤の上に、神が愛することができる縁の代表者を送られたのです。神は個人から民族を立て、その上で神が愛することができる一つの実体を立て、解怨成事(誤解や恨みを解く)するために目的があり、その目的に向かって歴史の道程を握りしめて来られたのです。


堕落後、人間が何千万回裏切ろうとも、神は人間を子どもとして思われたので、そのための働きならば苦労も死の席も気にされませんでした。個人の前で裏切られ、民族の前で裏切られ、ユダヤ国家の前で裏切られながらも、反逆した者たちを見捨てることができなかった理由は何でしょうか?子どもが罪を犯し、道を外れているからといって、親がその子を見捨てることができないのと同じように、本来、人間は神の直系の息子や娘として神と心情的に縁を結んでいます。人間が天を裏切っても、この縁を断つことができない神は、人間を見捨てることができないことを皆さんは理解しなければなりません。


それを考えるとき、私たちは全世界に不孝の札を貼られ、蔑まれて当然の後継者であることに気づきます。私たちの先祖から今に至るまで、誰一人として例外はありません。国家的に見ても、神は一人の王であられます。天を王のように奉り、天の前で忠臣の中の忠臣でなければならない私たちが、その立場に立てていないのですから、反逆者の子孫という札を貼られて全世界に公開されても抗議することはできないのです。私たちはそのような種族です。人間同士の関係でこのような状況があれば、最も憎い敵の中の敵ということになるでしょうが、その最も憎い敵のような立場を超えることができる心情を持つようになった理由はどこにあるのでしょうか?人を永遠に共に苦しみ喜びを分かち合うべき子どもという心情が神の中で切れずに繋がっているから、神は今日も排斥され、明日も排斥されるとしても、この地で排斥され、あの場所で排斥されるとしても、真の子どもを探し出すその歩みを止めることはないということを理解しなければなりません。


私はこのように考えながら涙を流したこともあります。「地上の人々よ!あなたの子どもが恋しくて泣く前に、天を恋しがって泣け。何かが悔しくて地面を叩く前に、天を見上げて地面を叩き、胸を打ちなさい。もし地上の何かに心を寄せるものがあれば、この地を忘れて神に心を寄せなさい。」このように祈ったこともありました。


神は無限に悲しみを抱える方です。これは抽象的な言葉ではありません。抽象的ではないのです。悲しみのその胸を誰に訴えることができるのでしょうか?苦しみや理不尽さを誰に訴えることができるのでしょうか?そのようにできる者はこの世にはいないのです。だからこそ、神はそのような子どもたちがこの地上に現れることを待ち望んでおられるのです。神は悲しみを抱え、神の苦痛を抱え、慰めてくれる子どもたちを待っておられる。これが私たちが望むべき最高の基準であると言えるでしょう。


11


その方はどのような方でしょうか?どんな主観的な存在でもなく、皆さんがその縁を断とうとしても断てないお父様です。そのお父さんは、6000年という時間の中で及びもつかない心情を抱えて大地の上で苦しんでこられました。それにもかかわらず、人間たちはそのお父さんに対して呪いに呪い、裏切りに裏切りを重ねました。この事実を知り、今でも天に対して心を寄せることができる者がいれば、天はその者を見捨てることはないでしょう。


人間も愛する子どもが倒れるとき、その親が心を痛めて働きかけることがあるように、神も同じです。同じです。神の愛はどうでしょうか?親の愛に夫婦の愛、子どもの愛を加えた主体的な愛です。その愛を皆さんが思う前に、皆さんが憧れる前に、皆さんが恋しがる前に、皆さんが探し求めて苦しむ前に、天はこれまでずっとその愛を持ちながら探しに来ているのです。


さらにそこにサタンが嘲笑します。「子どもを抱き、愛し続けるべき神よ!子どもを置いて、ため息をつくのはどういうことか?」と。このような神であることを理解しなければなりません。これまで私たちは信仰生活の中で、神は全知全能でどこかの宮殿に座って安らかにしていると思っていましたが、それはまったくの誤りです。


神はこのような心情を抱え、歴史を通じて私たちを探しに来られました。6000年の歴史を苦しみながら歩んで来られました。キリスト教の歴史を見てください。神は私たちの先祖たちが受け入れる前にすでに受け入れ、探しに来られました。私たちの先祖が追いやられる前に追いやられ、死の峠を越えて探しに来られました。先人たちが殉教の峠を越えるたびに、天もそのような苦しみを感じておられました。愛の主体である神は、自分のために動く息子や娘と共にその苦しみを経験してこられたのです。


歴史的に私たちを探しに来られた神、その神が今日、私たちを探しに来るのを諦めることはあるのでしょうか?諦めることのできない神であるということです。すぐに審判を受けて消え去るべき地上の人間を探しに来るその足取りを止めて、振り返ることができるのでしょうか?振り返ることのできない神であるということです。


12


皆さん、それは違いますか?どんなに子どもが悪くて罪を犯し、親に対して不孝を尽くしても、その親は子どもに向かう足取りを止めることはできません。心がそのように引き寄せられるのです。過去にどんなに悪かったとしても、過去にどんなに神の前で傷を与えた人間であっても、神はその人を見捨てることができず、今日も探しに来られる神であることを理解しなければなりません。


過去に私たち人間を恋しがっておられた神の姿を見なければなりません。6000年の歴史を通じて、多くの預言者や先人たちを抱きしめながら悲しまれた神の姿を見なければなりません。今日、地上に住む27億人の人類を苦しみながら悲しまれている神の姿を見られるようにならなければなりません。


そして、私を探しに来られた神はこのような神であったのですから、明日はどうなるのでしょうか?私を探しに来られたこの神の姿を慰める方法はないのでしょうか?人間に苦しみがあるとしても、神の苦しみ以上の苦しみはなく、人間に解決すべき問題があるとしても、神の悲しみを解決すること以上の問題はないことを理解しなければなりません。


悲しみながら探しに来られた神以上に悲しい心情を持って、「お父様、どれほどご苦労されたのでしょうか?」と慰めることのできる子どもが現れることを、神は望んでおられるのでしょうか、望んでおられないのでしょうか?「お父様、どれほどご苦労され、どれほど倒れ、どれほど苦しんでおられたのでしょうか?」と言える子ども、千万回ご苦労され、千万回侮辱を受け、千万回困難を経験されながらも、悲しかった胸を開き、悔しかった胸を開き、怒りを感じた胸を開き、共感できる子どもたちを探しに来られる神であることを、皆さんは考えたことがあるでしょうか?私たちが信じている神はそのような方であり、私たちが迎えるべき神はそのような方です。


歴史の中で十字架の道を歩みながら探しに来られる神の悲しみを知る真の子どもたちは、この地上のどこにいるのでしょうか?その子どもたちが私たちに必要なのです。そのような子どもたちを中心にして、和解することのできる一つの群れ、一つの民族、一つの国家、一つの世界が、神が探し求めて成し遂げようとしている世界であり、そのような世界こそが創造理想世界であることを、皆さんはしっかりと理解しなければなりません。


13


私は神を不幸な方だと考えています。地上に不幸という名詞があるとすれば、神以外にその名詞を付けることはできません。どんなに人間が不幸であっても、神に比べればその不幸は問題ではありません。どんなに悲しみがあっても、それは問題ではありません。どんなに悔しさがあっても、それは問題ではないのです。


神はアダムとエバを創り、楽園を見つめておられました。彼らを抱きしめ、愛し、天地万物が応え合う中で喜びを感じるために創られたのです。しかし、聖書を見ても、そのようなことが書かれている箇所はありますか?アダムとエバを失った神の心情、それは一人息子を失った悲しみの心情です。唯一の娘を失った悲しみであったのです。


イエス様は独り子(ひとりこ)だと言われました。独り子とは何を指しているのでしょうか?それは、神の愛を受け、唯一神を慰めることのできる一人の子どもを指します。エデンの園で唯一存在したアダムが堕落したために神の愛を失ってしまいました。これを取り戻すために送られた方がイエスです。神の愛をかけて生まれた最初の子ども、唯一の子どもということです。だから「独り子」と呼ばれるのです。


イエスはこの地上に来て、何をすべきだったのでしょうか?神の愛がどのようなものであるかを私たちに示さなければならなかったのです。神の愛を中心にした生活がどのようなものであるか、神の愛を中心にして生きる社会がどのようなものであるか、神の愛を中心にして生きる世界がどのようなものであるかを示さなければならなかったのです。


では、イエスはこの地上に来て、神の愛がどのようなものであるかをしっかりと示したのでしょうか?示せませんでした。神が愛される家庭はこうであるということを示しましたか?神が愛される民族はこうであり、神が愛される国家はこうであり、神が愛される世界はこうであるということを示しましたか?示せなかったのです。もしアダムとエバが堕落せず、完成の地位に進んでいたならば、神は両手を広げて「おお、愛する我が子どもたちよ、あなたたちは私の遺産を受けて天上天下のすべてを支配し、永遠に永遠に私と共に生きなさい」と祝福されたでしょう。しかし、このような神の御心は壊れてしまいました。


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だからこそ神は、歴史を通じて天と地を歩き、アダムとエバのような二人を祝福する日を待ち望んでおられることを、皆さんは理解しなければなりません。救いとは何ですか?それは失われたものを再び回復することです。だからこそ神は、天の神々の助けと数多くの歴史的な曲折を経て、民族が疲れ果てて倒れそうになったときに掴んで離さず、4千年の歴史を経てイエスを送られたのです。


彼を立てて、神の4千年の悲しみを打ち明け、4千年の苦しみを打ち明けたかったのです。そして、イエスを通じて大宇宙の創造理念を復帰完成させたかったのです。その責任者として送られたのがイエスであったということです。創造理念を完成させる代表者として送られたのがイエスであったのです。


イエスは生まれて、この地上の苦難の道を全て歩まなければなりませんでした。最悪の苦難の道でさえも、死ぬことなく歩まなければならなかったのです。彼は馬小屋で生まれました。この地上でどんなに哀れで困難だと言われる人がいるとしても、歴史上馬小屋で生まれた人はありません。救いの摂理は最も低い位置から始まるのです。このように最下の位置から生まれたイエスは、育つ間も愛されることはありませんでした。キリスト教徒はこれをはっきりと理解しなければなりません。イエスの30年余りの生涯には無限の悲しみが染み込んでいたのです。イエスはヨセフの家庭に生まれましたが、ヨセフにとっては義理の子どもだったのです、義理の子ども。ヨセフとは何の血縁関係もない義理の子どもだったのです。


ヨセフとマリアは、彼らの間に生まれた子どもたちを育てる時、イエスを軽んじていたのです。よく考えてみてください。義理の子どもとして育ったイエスでした。弟妹たちからも冷遇されて育った可哀想なイエスでした。政治的にも頼るべき親がなく、家庭的にも安らぐことができなかったイエスでした。それだけではありませんでした。しかし、イエスは天の直接的な導きの下で育ちました。また、心情的には未来の希望を持っていたイエスであったため、そのような環境の中でも民族と国家を見つめ、世界を見つめる運命にあったイエスでした。


しかし、イエスはそのような立場を恨みたくても恨むことができなかったのは、なぜでしょうか? それは、神の心情を知っていたからです。自分が信じて仕える父が、4千年の間、このような理不尽な道を歩んできたことを知り、不孝の歴史を繰り返してきた先祖たちの誤りまで代わりに責任を取り、贖い戻すべき使命を自分が持っていることを知ったからです。だからこそ、反対する人々に対して恨むことができなかったのです。神の心情と等しい心情で考えたからこそ、十字架にかかって死ぬときも、反対する民族を祝福したことを、皆さんは理解しなければなりません。今日のキリスト教信者たちはイエスを死にに来た方だと考えています。結果だけを見れば簡単かもしれません。しかし、死ぬまでのイエス、死ぬ前のイエスの事情を理解していません。死ぬイエスを見守っていた神の心情を理解していません。


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皆さん、世の中でもどんな人を愛しますか? 事情を理解してくれる人を愛しますか、それとも理解しない人を愛しますか? イエスは言いました。「私は地に火を投げるために来たのだ。この火がすでに燃え始めたなら、私は何を望むだろうか?私は受けるべき洗礼があり、それが成就するまで私の苦しみはどうなるだろうか?」(ルカ12:49-50)と。誰に言ったのでしょうか? イエスは言葉を述べましたが、その言葉に相応しい相手がいなかったことを理解しなければなりません。4つの福音書の言葉を述べましたが、その言葉を受け入れる相手を見つけられなかったイエスだったのです。皆さんがイエスをよく信じれば天国に行き、主を花婿として迎えるのでしょうか?それは大きな誤りであるということを、皆さんは理解しなければなりません。言葉を信じているかもしれませんが、心情と実体を信じていないことを理解しなければなりません。


歴史的に見たとき、神の悲しみを内面的に受け止め、それを慰めてくれたのはイエスでしたが、イエスの前にその愛する息子や娘となるべき人々はいたのでしょうか?イエスは神の独り子として地上に現れましたが、そのイエスの前に独り子となるべき息子や娘はどこにいたのでしょうか? そのことを考えてみましたか?


神が堕落していない本来のアダムとエバを祝福された目的は何だったのでしょうか?それは、彼らだけがよく食べて楽しんで生きるためではありませんでした。アダムとエバの子孫たち、彼らの家庭、民族、そして世界全体を代表して祝福されたのです。イエスを送られた目的は何でしょうか?それは、神の独り子として来られたので、その前に独り子となり得る息子や娘を見つけるためでした。この息子や娘を見つけるために苦しみながら歩んだイエスであり、イエスと同じような息子や娘を探す神の心情を理解していたからこそ、滅びるべきイスラエル民族に対しても、十字架にかかりながら「父よ、彼らをお許しください」と祈ることができたのです。その心情が天から出発したことを理解しなければなりません。


信者たちはイエスの弟子になるだけではいけません。イエスの息子や娘にならなければなりません。神がイエスを抱き、神の中にあるすべてを打ち明けてこれを遺産として託し、安心できる立場にあったイエスのように、すべてを打ち明けて助け合い、すべての理念を託して祝福できる、イエスの心情に共感した息子や娘はどこにいるのでしょうか?このような息子や娘がこの地上に現れたなら、再臨はずっと前に実現していたでしょう。2000年もかかる必要はなかったのです。そのような息子や娘を見たことがありますか?イエスの言葉を信じて死んだ人はいましたが、イエスの心情を理解し、イエスの実体を信じて死んだ人は一人もいません。


ヨハネの福音書3章16節には、「神はその一人子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは彼を信じる者が一人も滅びず、永遠の命を得るためである。」と書かれています。彼を信じる者が永遠の命を得ると言っていますが、何を信じるのか?それは、神がこの世界を独り子のように愛していること、そして独り子がこの世界を愛していることを信じるのです。それさえ信じれば、天国には問題なく行けるということです。聖書66巻すべてを見ても、その内容は同じです。この世界を独り子のように愛し、独り子がこの世界を愛している神の心情を信じる者が救われるのです。


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だからこそ、「信仰、希望、愛、この三つはいつまでもある。しかしその中で一番大切なのは愛である」と言われました。永遠に残ることができるもの、永遠に勝利できるもの、永遠に栄光の主となることができるのは愛であるのです。いくら罪深いこの世界であっても、神がこの世界を独り子のように愛していると知っている者、また独り子がこの世界を愛していると知っている者は救われるのです。


イエスを信じて救われると思ってはいけません。このような人たちは盗賊です、盗賊。イエスはこの地上に来て、世界を自分の体よりも大切に見ました。神はこのように世界を愛して独り子をお与えになったと言われましたが、イエスは、世界を愛しているからこそ自分を与えたことを理解していました。歴史的な神の心情を考えると、それを否定することはできません。また、イスラエル民族の前に必要なのは神の愛の実体であり、世界の前に立つべき自分であることをイエスは理解していました。


それゆえ、イエス様の3年間の公生涯は、自分自身を立てるためのものではありませんでした。弟子たちを立てるための3年間の公生涯だったのです。3年間で、3人の弟子を自分の子どものように育て、12使徒を真の直系の子どもたちとして作り上げるために尽力されたのです。


皆さんは原理で贖い復帰の歴史を学び、理解していることと思います。アダムの家庭で失われた3人の子ども、ノアの家庭で失われた3人の子ども、アブラハム、イサク、ヤコブの3代、サウル王、ダビデ王、ソロモン王の3代を立てて神が摂理されたように、全体を代表するこの3つの数を見つけ出す天的復帰の原則に従い、信仰の3人の子どもたちを立てなければならなかったのがイエスだったのです。


だからこそ、イエスはすべてを捨ててでも、この3人の弟子たちだけは決して離れてはいけなかったのです。ゲッセマネの園まで一緒に連れて行きたかった3人の弟子たちであり、ゴルゴタの山頂まで一緒に行きたかった3人の弟子たちでしたが、彼らはゲッセマネの園で裏切ってしまいました。悲しい歴史がここで始まってしまったのです。


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もしこの3人の弟子がイエスと共に死のうとしたなら、イエスは昇天しなかったのです。地上で成し遂げることになります。聖霊が来て、信仰の子どもたちが存在するので、父と母は地上で霊的にでも基盤を築き、目的を成し遂げていくことになるのです。ある人は聖書にないことを言うかもしれませんが、それでもいいのです。


地上を取り戻しに来られたイエスがなぜ昇天し、母である聖霊がイエスに代わって地上に来るのでしょうか?裏切った地、この地は母の象徴です。エバ、つまり母によって堕落したので、この堕落した地の罪を洗い清めるのは母がしなければならないのです。この母である聖霊と今日信じる信者たちは、背を向けてサタンを超え、天にいるイエスを迎えるための場所に向かって上がって行っているのです。


神は4千年の歴史の上に愛することのできるイエスを送りましたが、彼を抱きしめて深く愛することができませんでした。また、愛するイエスを人間は迎え入れましたが、人間はイエスを抱きしめて愛することができませんでした。復活後、マグダラのマリアがイエスを抱こうとしたとき、触れてはならないと言われました。なぜそれを止めたのでしょうか?それが神の悲しみです。神が悔しさを感じるとき、イエスもまた悔しさを感じました。ここには天地の複雑な事情が絡んでいます。これを解決しない限り、動くことができない天の法則があるのです。それが絡まっていることを解決し、天と向き合う必要があるのはどれほど切なかったことでしょうか。


神は失われたアダムとエバの代わりとなる存在を探しています。コリントの信徒への手紙第1 15章45節では、イエスを「後のアダム」と言っています。アダムを命の木と呼んでいます。つまり、イエスは失われた命の木の代わりに来られた方なのです。では、神は地上で愛するそのイエスを立てておきながら、信じる人々の前で一度でも自慢してみましたか?神が愛するその一人を見つけて、家庭の前で一度でも誇ってみましたか?今日、2千年の歴史が過ぎましたが、どの民族、どの世界に対して誇ったことがあったでしょうか?できませんでした。


エデンの園でアダムとエバを追い出さなければならなかったその時も神は悔しさを感じましたが、イエスをこの地上に送り、また死なせ、再び送り出さなければならなかった神の立場は、さらに悔しいものであったことを理解しなければなりません。神はイエスを使徒として送ったのに、その使命を果たせませんでした。神とイエスが喜べるその日をイエスの時代には持てなかったため、再臨という言葉が残されたのです。神はイエスと共に喜べるその一時、6千年にわたる恨みの心情を吐き出し、神と共に、また未来に来る主と子どもたちとの縁を結ぶ日が来るのです。


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皆さん、考えてみてください。もし神の独り子イエスがこの地上に来て死ななかったとしたら、どうなったでしょうか?イエスが独り子であるならば、神はその前に独り子の娘も送られたはずです。伝道者の書7章28節には「私の心に探してもまだ得られなかったものがある。それは千人の男の中から一人を得たが、千人の女の中からは一人も得られなかった」とあります。神の2千年の歴史は花嫁を探す歴史です。花嫁を探す歴史なのです。それを否定するのでしょうか?花嫁を探す歴史です。


イエスは真の息子の姿で現れましたが、真の娘の姿がなかったので、神の御心を成し遂げることができませんでした。だからこそ、2千年の歴史は娘を探す歴史なのです。私たちの統一教会が今後戦っていかなければならないのも、この問題があるからです。聖霊は神の娘として来られました。


では、神の解怨のその日はどんな日になるのでしょうか?それは「小羊の婚宴の日」と言われています。千人の男の中で選ばれた一人の男が主として現れるなら、その一人の花嫁はどこにいるのでしょうか?聖霊が来て、2千年の間に地上でしなければならなかったことは、花嫁を準備することなのです。


エデンの園で神がアダムとエバを立てて祝福したのは、アダムとエバだけを愛するためではありませんでした。その子孫たちを愛するためでもあったのです。しかし、愛することができる子孫がいたのでしょうか?イエスが愛することのできる息子や娘がいたのでしょうか?もしイエスが「これは永遠に愛するべき私の息子たち、私の直系の子どもたちである」と言える息子や娘がいたなら、この世界はすでに神の国になっていたことでしょう。


イエスは神の息子として、神の歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情を代わりにして死んでいったのです。再び来られる主はその御心を引き継いで、地上で実践するために来られるのです。その時、地上にいる多くの聖徒たちはどうすべきでしょうか?イエスが神の前で息子となったように、皆さんは来られる主の前で真の息子や娘にならなければなりません。それができなければならないのではないでしょうか?


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地上での孝行者とはどんな人でしょうか?孝行者になるためには、まず親を大切にし、もちろん子どもも必要です。どんなに孝行者だと言っても、どんなに立派だと言っても、親の前にすべてを尽くしても、親が望む子どもを持てなければ孝行者にはなれません。イエスは神の前で歴史的な孝行者として生まれました。独り子の栄光を備え、すべてを成し遂げた立場に立っても、子どもがいなければ神の前で顔を上げることができないのです。イエスが2千年間、なぜ苦しんだか知っていますか?


イエスは神が愛する子どもを探し求め、必死に苦しむ姿を知り、イエス自身も地上の人間に対して必死に、心から願って30年余りの生涯を過ごしたのです。天の座に行っても祈り続けています。2千年間、必死に、必死に、サタンさえいなければ、すでに狂っていたかもしれません。必死にこの地上の人間を待ち望み、恋しく思っておられることを、皆さんは知っておかなければなりません。聖書の言葉をすべて忘れてしまったとしても、イエスのその心情さえ通じれば良いのです。聖書66巻すべてを熟知していたとしても、父の前に行けないのです。イエスの最も悲しいこと、最も悔しいこと、最も喜ばしいこと、この3つを解決しなければならないのです。皆さん、14万4千人の群れに入ることを誇ったり、選民だと言って誇る人たちがいますが、この3つを解決しなければならないのです。


イエスの生涯の中で最も悲しかった時、最も悔しくて切なかった時、最も喜んだ時はどこでしょうか?悲しみと悔しさの瞬間は出てきますが、喜んだ瞬間は見当たりません。友達となり、誰よりも近くで愛される人になるためには、その人の悲しみや苦しみを理解し、それを抱えて慰めてあげなければなりません。そうすることで、その人の友達になり、その人を支配することができるのです。心情を通じて愛で縁を結べば、その人が自分の思い通りに動き、また自分もその人の思い通りに動くことができるのです。


イエスは4千年の間、神の悲しみと神の喜びが何であるかを知っていました。しかし、イエスはそれを言葉にできませんでした。「もし私が世の中のことを話しても、あなたたちは信じないだろう。ましてや天のことを話したら、どうして信じるだろうか?」とイエスが言った悲しみの心情を、皆さんは理解しなければなりません。


イエスは神の悲しみ、神の苦しみ、神の喜びを知っていたので、私たちも神の悲しみ、神の苦しみ、神の喜びを理解しなければならないのです。また、2千年の間、神が苦しんでいる歴史的な努力の道程に私たちも参加しているので、私たちもその道に参加しなければならないのです。


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では、神の悲しみとは何であり、神の苦しみとは何でしょうか?子どもを失ったことが悲しみであり、子どもを探し求めて苦しむことが苦しみです。このような歴史的なすべての悲しみと苦しみを忘れてしまうほどの愛の心情で、子どもたちを愛するその瞬間から喜びが始まるのです。だからこそ、私たち信じる者はイエスのために夢中にならなければならないのです。夢中にならなければなりません。どこまでか?この世のどんな夫婦でも愛し合うように夢中にならなければなりません。自分の骨と命が何のためらいもなく尽きることになっても、その人のために忠誠心が変わらないだろうか、その人を思う心が変わらないだろうか、という心を持っている人が、本当のキリスト者です。食事をするのも、見るのも、聞くのもすべてイエスのためだという心を持つ人々がキリスト教徒なのです。それがなければならないではありませんか?


イエスを信じると言っている人の中には、見物に出かけている人も多いです。親子の間に切ない思いと波打つような悲しみがあるのに、見物に出かけていくのです。こうした人々は神とは関係がありません。直系の子どもにはなれません。直系の子どもにはなれないのです。神は何のために苦しんでいるのでしょうか?愛する子どもを探して立てるために、苦しみの歴史を繰り返してきたということを、私たちは理解しなければなりません。


皆さん、本当に神の息子になりたいですか?本当に神が愛する娘になりたいですか?本当に地上のどんな慰めでも防ぐことのできない悲しみがあなたの胸の中で動いていますか?どんな慰め、どんな愛でも防ぐことのできない悲しみがあなたの心身に動いていますか?そのようなものが必要だということです。


人間が何かを差し出したとしても、息子や娘にはなれません。父だけを思いながら生き、生活の中で争い、争いながら走りたいという気持ちが生涯の過程で消え去ることなく続くならば、皆さんがその方の息子や娘になる可能性があるということです。


そのような心情に捉えられて、一本の棒を握りしめても涙で前が見えなくなることができなければなりません。すべての存在がその解怨の一日を待ち望んで嘆いているという事実を知り、無知な人間であったことを申し訳なく思い、頭を下げて「知らなかった」と言える心がなければなりません。これは抽象的なものではありません。もしそのような道を探すために苦しむ同志を見かけたなら、その人を抱きしめて「あなたも私たちの兄弟です」と言って涙を流せる心の余裕を持った人でなければなりません。


22


皆さんの心がいくら悲しく、いくら孤独だとしても、神に比べればそれが何であるかを理解しなければなりません。山川を見れば、山川にも神の涙の跡が残っていることを知り、流れる水を見れば、そこにも神の涙が含まれていることを知り、自分が横たわっている場所も神の涙の海であり、ゴルゴタの十字架の跡が残っている場所であることを感じる者でなければなりません。天はそのような心情を持って、「ゴルゴタ山で主に十字架を背負わせなければならなかったお父様よ!」と涙を流す息子や娘を探し、「イエスは死んで地上に恨みを残して行かれましたが、私は死なず、実体としてこの恨みを解いて差し上げます」と言える息子や娘を探しておられるのです。


だからこそ、6千年の歴史は、愛する息子や娘を立てるための神の苦しみの歴史でした。それゆえ、私たちは6千年の間、苦しみ続けた神に借りがあり、6千年の神の涙の結晶であり、ゴルゴタの犠牲の代価を払って生きていることを感じる者でなければなりません。


そして、歴史的な罪を悔い、時代的な罪を贖い、未来的な希望を抱きながら父を呼び、手を広げて入るとき、父が自ら抱きしめて「おお、私の息子よ、私の娘よ」と言い、父の威厳を忘れて喜びと悲しみの涙を流す者こそが、真の息子や娘になれるのです。そのような父であり、そのようなイエスであったことを理解する者だけが、神の息子や娘になれるのです。


このような息子や娘を、神は「あなたたちが待ち望んでいた主人であり、私が探していた息子や娘だ」と言い、サタンの世界の前、天上天下のすべての存在の前に堂々と出せることができるのです。このような息子や娘が現れたときにこそ、神は6千年の苦労を忘れ、天地を任せて安息の地に入ることができるのだということを理解しなければなりません。


この悲しみの歴史を抱えてイエスは泣き、イエスは死にました。同じように、皆さんも父の御心が成し遂げられる道があるなら、静かにその道を歩む者にならなければなりません。そのような信仰生活をしなければならないことを心に留めておいてください。




23


<祈り>


お父様! 畏れ多く申し上げます。気づけば、この道は歩むには途方もない道であり、感じれば感じるほど胸を引き裂かれるような、止めることのできない悲しい道であることを理解しました。


一日ではなく、何年でもなく、6千年という長い年月をこれらを探し続けてきたお父様!お父様はどれほどお怒りの場所に置かれ、どれほど悔しさの中におられ、また私たちはどれほど不孝の場所に留まっていたかを認識するこの時間をお与えください。この縁を結ぶ前に、世の中のことをもって泣き叫びながら過ごしていた私たち、罪人の中の罪人であることを悟らせてください。


お父様、今日ここに集まったあなたの息子たち、娘たちよ、すべてを知らなくてもかまいません。私たちが信じる神はこのような神であり、私たちが迎えなければならないイエスはこのようなイエスであり、私たちはそのような息子や娘の位置に立たなければならないことを知るだけでも結構です。愛するお父様、心から切に願います。


ここに来た私たちの望みは何でしょうか?衣をよく着た人を探してきたわけでもなく、権威ある者を探してきたわけでもなく、欲望を満たすために来たわけでもありません。ただお父様の愛が恋しく、お父様の情が恋しく、お父様の縁が恋しくて来ました。お父様、もしお父様の涙があるなら、私たちにもその涙を持たせてください。お父様の苦しみがあるなら、私たちにもその苦しみを持たせてください。


喜びの歴史を求めて彷徨う王子ではなく、悲しみと苦しみの歴史を代わりに責任を持って贖う王子にならなければならないことを私たちは知っています。このような場所で勝利した息子や娘、天上天下に誇れる息子や娘を待っていることを私たちは知っています。また、神が6千年にわたり苦しんできたのは、愛する息子や娘を立てるためであることを理解しています。


24


今日、私たちに与えられた責任を果たし、与えられた義務を果たす私たちになることを切にお願い申し上げます。孝行の中の孝行、忠誠の中の忠誠となる息子や娘となることを許してください。


そして歴史的な父が私の父であり、時代的な父が私の父であり、未来的な父が私の父であって、宇宙全体を動員して喜びの歌を歌う喜びの日が来るその日まで、お父様、私たちを抱きしめ、守ってくださいと心からお願い申し上げます。


すべての御言葉を主の名前で祈ります。アーメン。


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文鮮明先生 御言葉選集7-10

2025年02月22日 16時21分51秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 7 - 10. 神の家庭で生きる家族たち(1959年9月27日)

神の家庭で生きる家族たち
1959年9月27日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 12:46-50


1

<祈り>
そのため、それぞれに異なる原因と背景があり、様々な事情が絡み合って、今日の私たち自身がそこにいるのを考えざるを得ません。

お父様、ここには善なる人もいれば、今日はない人もいるでしょう。 人の心や体の姿は千差万別であり、多種多様であります。

お父様、あなたは外見の形を求められるのではなく、心の奥深くに染み込んでいる本来の自己を目覚めさせ、お父様を慕い求める心を見つけ、それを超えておられることを、この時間、私たちが心から感じ、体験できるようにしてください。

歴史の道程と時代的に複雑な戦いの道を歩きながら、見られる希望の姿を見つけようと努力され続けたお父様の御心を思うとき、今日の私が一時自分ひとりで存在しているのではないことを感じざるを得ません。

私たちがこの地上に生まれるとき、上下・前後・左右の縁を中心として生まれました。 この縁は、私たちが何かぬぬままに、完全無欠な一つの目的の価値、あるいは全体的な対象の価値を追求するようにと捉えていることを悟らせてください。

2

このような自己の姿を中心として、上には天があり、下には善の歴史が天とともに動いていることを知ることができますように。 そして、前には希望の世界があり、左右には私たちの同志と民族、同細胞があることを感じ、本来の心情を持ってこれらすべてを観察できるようにしてください。

もし、自分のすべてを忘れて、この道を慕い求めて苦しむ者がいるなら、彼らは時代的に受け入れられず、生活の中で反対される道を歩むかもしれません。 しかし、最終的には必ず天上に与えられることを私は知っています。


私たちは真剣にお父様の心を待ち望み、敬慕いたします。 お父様、もし心を痛めることがあれば、私たちにもそれを体験させてください。

とりあえず私が悩んで、罪の鎖に縛られていたとしても、天がかかって見守っていることを感じる者とならせてください。 進めば進むほど、感じれば感じるほど、知れば知るほど、勝ちたくない現場の中であり、重荷を負う者の中で最も重い荷を負った者であることを感じざるを得ません。

お父様、ここに集まったあなたの息子・娘達、もうここへ行きました。 この歩みが無駄にならないようにしてください。 この縁によって出会った私たちの出会いが最も縁のあるものとならないようにしてください。

3

私は何を言う事ができるでしょうか。私の父の心情だけを見せてくれるのを楽しみにして、父の姿を実際に感じることができるようにしたいと願っております。

この時間、三千万民衆に代わって集まったこの子供達を祝福してください。

これまで、私たちの先祖たちが悪と対決して戦ってきたが、戦いはまだ終わっておりません。今日、私たちはこの戦いを余儀なくされていることを知り、天に代わる勇者として内的、外的装備を完全に備え、人類の前に民族の前に出ることができる息子娘になることを許してくださるようにお父様、切に願っております。

私たちは奉仕された聖書の御言葉でイエス様の苦しみを知りました。イエス様はヨセフの家庭で生まれ、親兄弟と親戚、そして同族を持っていたが親兄弟がいない、親戚と同族がない貧しい人生を歩まれました。

お父様! そのようなイエス様の悲しい事情を私たち自身と関係を築いてくださり、起きて明らかにしなければならない天的な内容をこの時間明らかにしてくださる事を切にお願いします。

4

この体の心をお父様にささげたいと思い、全体をお父様に捧げたいと思います。お父様、親しく守ってくださる事を切に願っております。
全ての御言葉を主の名前によってお祈りしました。アーメン。


<御言葉>
 私達には両親があり,兄弟がいて弟子がいます。いくらできなかった人といっても、住む家があるのです。良くも悪くも家族がいて自分の家庭があります。


皆さんはこの家庭と共に人生を歩み、最期の時を迎えることになります。 家族と共に喜びや葛藤を分かち合いながら、日々を過ごしています。 皆さんはこの家庭がずっと自分と共にあるものだと感じているかもしれませんが、時が経つにつれて、家族との関係も少しずつ変化していきます


ここに集まった多くの人々の中で、永遠の世界まで今の絆が続いていると確信している人は少ないかもしれません。 この家庭を中心に希望や幸せを描いているものの、それが人生の終わりまでずっと途切れてしまうのか、見通し新たな形でつながり、さらに大きな幸福や希望へと向かっていくのかは、誰にもはっきりとはわからないものです。

5

人間には本来の気持ちがあります。 この心は、人間が目指していくべき大いなる善の目的世界へと向かっていくように、今この瞬間も私たちを導いています

このような視点から心の働きを見てみると、この心は常に善なる人が現れることを待っていることができることがわかります。

この人も人も、皆同じ心で「今は終末の時だ」と口を考えて言うのを見て、その終末の時は確かに訪れつつあるのだと言えます。

今日、世界人類は幸福で感謝、当面不幸でしょうか?私は、幸福というよりも不幸だと考えます。この不幸な世界が終わる時こそが幸福な時だといえるでしょう


では、私たちの心は何を求めているのでしょうか? 幸福、希望に満ち、自由で平等な理想世界を求めています。 私たちの心の底では、ずっとその世界を夢見ながら今日まで生きてきたことを否定する事はできません。

6

真心から待ち望む、真心から願うすべてのものは、必ず登場されなければなりません。それが叶わないのであれば、天や神のようなものを信じることはできません。

これからにあるものすべてが、私たちの心の本当の意味で満たし、完全な幸福を考えることはできません。 私たちの周りにある幸福のように見える環境も、一時的なものに過ぎず、真に心を満たすものではないのです。

この世界が永遠に続く幸福の場所ではないことを、私たちは考えなければなりません。 それはなぜですか?宗教的な見方から言えば、世界が本来の理想の状態から離れてしまったからです。

しかし、それは一時絶望ではなく、私たちが本来目指すべき真の幸福を求め旅の途中にあることを示しています。

だから、この時代が過ぎ去ることを願うのです。これは正直な気持ちです。

7

偽りの社会が過ぎ去る、偽りの親が過ぎ去る、偽りの兄弟が過ぎ去る、偽りの夫婦が過ぎ去る、偽りの子供が過ぎ去る。 この現実を、皆さんは今この瞬間、心の奥深くでしっかりと感じ取らなければなりません。


親が子供を理解せず、親は親同士、子供は子供同士、兄弟は兄弟同士、友人や民族全般がそれぞれの都合で慎重にいるように見えても、それらはすべて壊れ去ってしまうのです。


皆さんは新聞や雑誌で、子が親を殺し、親が子を殺すという途方もない出来事を目にし、思い出していることでしょう。


おそらく可能性ってどうなるのでしょう?私たちが心の奥底で求めている本当の目的地は、天倫とともに喜びを分かち合える世界です。 天倫は、人間を本来の目的へと導くための変革の過程にあり、その過程では歴史が様々な姿へと変化していきます。

意識の革命の時代を経て、正義の革命の時代が訪れます。その結果、人々は向かう感情さえも信じられないような環境をこれからも追い続けていきます。

8

このような中で幸福を夢見る者は、いつか諦めることになることになり、この世界に安息の場を求める者も、突然、深い悲しみに襲われることになるでしょう。

覚悟のいる世界にいる皆さん、この恨み憤りの時代は過ぎ去っています。皆さんの心は、今あるものとは違う新しい何かを求めています。

皆さんは一度立ち止まり、自分の心を振り返り、これまで感じた感情を見つめ直し、自分と深く考えを待っているのか、また自分の進む道を阻んでいます。

信じることのできるたった一つの基準、誠実なことのできるたった一つの基準を、自分と直接結びつけるもの、それが宗教です。 そして、その基準を私たちの生活の中に結びつける役割があるのもまた宗教なのです。

もし、このつながりが結ばれないのであれば、神の存在はないも同じなのです。

9

私たちの心は、困難や悩みに満ちた現実から抜け出し、より理想的な世界へ向かうことを考えています。 どのような指導者であっても、この現実に向き合い、より良い未来を築こうとする努力が求められます。

この心の声に耳を傾け、それに従うことが大切です。 歴史を振り返ると、多くの偉人や予言者たちも、自らの心に忠実に生きようとし、その道をしっかりできました。

私たちは、自分自身が運命に導かれながら、その心に応じて生きる存在であることを認識しなければなりません。 そして、今の世界が理想の世界とは違う、私は本当に幸福や希望の世界を求めているのはまだ完全には気づいていないことも理解する必要があります。

しかし、それは絶望ではなく、あくまで新たな未来を生み出すための出発点です。

まずは、私たちには感情と願い、そして縁が必要となるのです。 そんな時代がこれから近づいてくることで、皆さんの心には恐怖がますます募っていきます。 このようなことを考えると、信じがたい世界であり、安心して座っていられない世界です。皆さんはこのような歩みを何十年も一緒にできました。 このようにして、人間に新たな何かを注入し、人間を新しい歴史へと追いやる天道(天の道理)があることを、私たちは認めざるを得ません。

10

その目的は何だったのか? それは善になる人であることでしょう。神の心にかなう善なる人であることでしょう。また、自由な人であることでしょう。その人は神とともに喜び、神とともに自由の園で暮らすことができる人であるはずです。

では、神の創造の目的とは何か? それは神が人間とともに理想的な家庭を築くことです。 人類は堕落したとはいえ、心の奥では神をその家庭の父として、あるいは人類の父として仰ぎ、人間がその家庭の主人として生きる日を待っています。全人類はその一つの家庭同然となり、神とともに永遠に生きることができるなら、それこそが希望本来であり、理念理念であり、生活そのものであり、幸福である神とともに永遠に生きることができるなら、私たちが望む目的は成就されるでしょう。

神様が人間をただ見物するために創造されたのなら、そのような神様は必要ありません。 神様が全神経を人間的に見て、六千年という長く厳しい試練の歳月を経ながら、人間に対して摂理を進めてこられた目的は何でしょうか? それは、直接的な天の家族、すなわち親子の縁を結ぶためです。

そのために、無数の困難の峠を越えて、今日もまたこの道を走り続けているということを、私たちは知らなければなりません。

私たち人類は堕落したために、真の父母を忘れてしまいました。 堕落した父母はありますが、本来の父母を持つことができませんでした。

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また、すべての被造物の嘆きとは何でしょうか? それは、人間が天の家庭の選択として参加できないことです。 これこそが天地の嘆きなのです。それは、神に向かって「父よ!」と呼ぶことなのです。 真の父の子女として、人類全体が兄弟姉妹となり、喜び合い、神を父と呼ぶことができる一日そのを迎えるために、神は六千年もの間、復帰摂理を進めてこられたのです。

神の目的が今日あり、私たち人間の心の中の目的もまたそうだとすると、その目的は必ず見られなければなりません。 必ずその日が訪れなければいけないのです。と主張することができず、私たちを天のものだと断定することもできません。 この縁が地上で結ばれる瞬間、天の憂いは地上で解け、天上には地上の恨みが言えることはないでしょう。 また、その瞬間、天と地を一つにつなぐ家庭的な理想世界が歩めるのです。

人間は堕落することによって、真の父母を歩み、真の母を見つめ、真の夫婦と真の子女を諦めてしまいました。

堕落した私達真の父母を求めて進む復帰の道程において、どのような責任を負わなくても、どのような覚悟と信念を持って一旦でいくべきでしょうか?私たちの心の中で本然の父母の言葉を慕わなければなりません。 さらに進んで、神と共に喜びを分かち合うことのできる本然の父母の姿を慕わなければなりません。

皆さん、考えてみましたか?

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このような天の家庭の優先としての人生を生きるために走り続ける私たちの前に、天は何を持って訪れて協力してくださるのでしょうか?

人間の願いとは何でしょうか? それは、体と心で真の父の御言葉を。 御言葉によって、体と心が行動したいと願うことです。 行動するだけでなく、父をつかみ、その父がどのようなお方なのかを見たいと願うことです。 さらに進んで、その父の理念を知りたくなった、その父の心を知りたくなるのです。

今日に至るまで、たくさんの予言者や先人たち、時代ごと、あるいは世紀ごとに新たな御言葉が伝えられてきました。 世の中はこれからあるべきであり、私が望む希望の世界はこのようにあるべきだと言われてきたのです。

神と堕落した私たち人間は遠く離れていたため、神は人間に直接御言葉を伝えることができません。 そのため、限りの予言者を立て、中間の媒介者や代理人としての役割を果たさせながら、これまで神と人間を慌ててこれられました。 旧約時代には天使を使者として遣わし、新約時代には御子を遣わしました。

そのためには、この御言葉には神の心が込められなくても、さらにこの御言葉を実体として体現することが必要なのです。

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堕落した人間はみことばを見逃す時を通過しなければなりません。天は、歴史と共にこの御言葉を中心としてみことばを実践することを知っており、父の御言葉によって生きたくなるように人間の心を促して出てきました。

御言葉を中心に生きることとはどのように生きるのでしょうか。天的な実体である天が送られた息子と共に生きるのです。その息子は人類の真の父です。そのような使命を持って来られた方がイエスでした。

イエスはどんな存在ですか? 堕落で失われた人類の真の父親になることができる存在でした。長い歴史とともに、みことばの実践的基盤の上に建てられた御言葉の実体として、お父様の代わりにこの世界に来られた方でした。それでイエスは「わたしが道であり、真実であり、命であるから、わたしに従わずに父に来る者はいない」。 (ヨハネ14:6)と言われました。イエスのみが道の中心であり、心の中心であり、心情の中心であるのです。なぜですか?

イエスが父という内容を持っているからです。ですから、イエスは万民の救い主であり、天の地を代表するのです。ですから、その御言葉を通して父の姿を、その御言葉を通して父の心を、その御言葉を通して父の愛をたどっていくのが今日キリスト教です。

イエス様はこの地上に来られました。無限の異常を抱いて来ました。彼が望んでいた願いがあったこの世界、それは神に代わる願いでした。神の願いは何ですか? 創造以上、創造目的を成し遂げることです。イエスがその願いを抱いて個人の立場として現れた当時の環境は良くありませんでした。意志の前に立たなかったユダヤ民族は、イエスに対して反意を示しました。

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イエスはそこに倒れる限りがあっても、自分の真ん中に抱いた地蔵だけは地上に残していかなければなりませんでした。それでイエスは「私はあなたがたの父であり、あなたがたは私の子供である」という親子の縁を強調しました。両親は真の父と真の母がなければなりません。イエスが亡くなった後、母親として来られた方が聖霊です。

この地上で霊肉を合わせた実体として、息子娘を祝福できる祝福の一日を持たずに行ったのがイエスの悲しみです。しなければならない事を尽くすことができず、天国家庭の基準を立てずに行ったのがイエスの悲しみの一つです。天国家庭を成し遂げることができなかったので天国家庭の家族を建てることができず、家族を中心とした種族、種族を中心とした民族、民族を中心とした国家、国家を中心とした世界を成し遂げられなかったのです。

国家的基盤を整えなければならなかったユダヤ国です。天もどうしようもない凄惨な反逆者に追い込まれたイエスでした。後には十二使徒たちにも裏切られるイエスになりました。地上に天の心情を通すことができる一つの血族も縁結びできずに行ったのがイエスの悲しみでした。

神様が願っていた「神様の家庭」を建設する前には、神様が願われる民族も建てることができず、民族を立てる前には、国でも世界も立てられない家庭を探すために戦ったイエスは、この事を成すことができずに行かれるとき、人類の前に「私は新郎です」と言われました。皆さんはそれがどういう意味なのか知っていますか? 家庭が神の国の中心だということです。

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キリスト教だという『小羊の宴』とは何でしょうか? それは、神が本来6千年前に考えるべきだった『真の父母』の姿を、終末にまた立ち、その場において兄弟の絆と親子の絆をもう一度築こうとするものです。これが、私たちが信じるイエスの願いであり、そして6千年もの間、歴史たち苦難を乗り越えながら私を導いてこの神の願いなのです。

このようなことを知った以上、私たちは何をつかっているのかを考えなければなりません。皆さんは何をつかんでいますか?

2千年前、イスラエル民族はイエスを受け入れることができる立場にありました。 ユダヤ犯罪時代はイエスを迎え入れることができるような悪意の中にありました。しかし、ユダヤの民はイエスを排斥し、ユダヤ犯罪もイエスを排斥し、選ばれた者として天の愛を受けていると自負していたすべての人々もイエスを裏切った。

それが断ち切られたことで、ユダヤの国の歴史も断ち切られ、ユダヤの国に伝えられていた旧約の言葉もすべて途絶えてしまいました。

イエスの御言葉を握って泣いき、イエスの御言葉を握って生きなければならない立場にあるのが私たちの限りであり悲しみです。キリストの御名を持って祈るのは悲しみです。皆さん祈るとき、「イエスの御名で祈ります」のでしょうか。このように、ある名詞にとらわれて生きる自分が哀れなのです。今は自分の名前で祈る時が来なければなりません。その日が希望の日です。

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皆さん、今私たちは御言葉を握り、イエスが実践された行動を自分で見つけて行い、御言葉を握って「イエスの姿がこういうことだな」ということを知らなければなりません。再発見しなければなりません。イエスの姿、十字架上で敵に釘付けられて血を流す凄惨な場所でも、敵のために祈っていたその姿、彼の真ん中にはどんな事情があったから探し出さなければならない運命に置かれていたのか。キリスト教がイエスの言葉だけで完結することを望んでいるならば、台無しです。

審判は避けられません。話すために努力していたイエスそのものと、アダルピ おっしゃったイエスの心情を握り、彼と縁を築いて世のものを清算した後にこそ、天国に入ることができるのです。

このように考えるとき、堕落した私たちは真の父母の御言葉と神様の御言葉の真実を知らなければなりません。例え話や象徴ではない事実そのままの言葉をよく知っておくべきです。聖書を2千年間研究しましたが、わかりません。わからない。今日、キリスト教徒が御言葉を通して行なわれていると言われていますが、それはイエスの行為となんらかの関係を持たない立場にあります。

御言葉の目的は行動をさせることです。御言葉に頼って生きてきたキリスト教なら、このキリスト教がなぜ今日のようになったのでしょうか。イエスが言われた御言葉の目標と御言葉を聞いたキリスト教徒の目標が異なるからです。問題はそこにあるのです。

それでは、今何をすべきか?最後に、聖霊を握り、夜を明かして祈るように言いました。終わりには頭に油を塗って密室に入って祈りなさいと言いました。主が来るのにどうやって来るのでしょうか。みことばをしながら来るのではなく、無言の中に実体を持って訪ねてきます。私たち自身が立っている場所と本来の言葉が主張して欲しい目標との距離が離れていれば離れているほど、その距離だけイエス様は再び十字架の苦しみを受けながら私たちを訪ねてくることを信者たちは知りません。

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今は、天的な革命の力が私を激動させ、死の谷も凄く越えることができる内的な衝撃の内容を備えて行動的な主体として立つことができるかを自分で判別しなければならない時です。

それでは、どうすればいいですか? 今は恋しいです。 2千年間も御言葉を逃したので、今は御言葉を見逃すと同時に、御言葉に合った行動を見逃さなければなりません。イエス様はこうやって行きました。

イエスは誰だ? 私たちの真の父母です、真の父母。彼が御言葉を話し、親しく行動されたので、それらの行動を見逃してはならないということです。御言葉を懐かしく、行動を懐かし、その後はその姿を見逃して…。そうですね。愛する親以上に恋しくて耐えられないはずです。ご飯を食べるのを忘れて寝るのも忘れて、自分の形がどうなったのかわからず、その顔を見たくなければなりません。皆さんそんな時がありましたか?

主との再会はどこで行われますか? みことばをうまくやっているということではありません。行動をうまくやるということではありません。懐かしい場所、懐かしい場所でのみ行われるのです。主の顔はどのように見え、彼の手足はどのように見えますか? 彼の目と鼻の姿はこういうもの、いつもその姿に触れたくてその姿をたどりたい心、これが最後の皆さんにとって出会うか会えないかを決めることであることを知らなければなりません。

御言葉を伝えてくださったイエスは何も関係がありません。神様とは関係ありません。会うのはイエスの名を呼んでの救いの為ではありません。イエスは救いです、イエスは救います。しかし実体的なイエスを見逃さないようにしなければなりません。

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こんなに会いたいと思っても会えないイエス・キリスト、皆さんの前にイエスはなぜ来ないのでしょうか? 使徒たちの前にも現れなかったそのイエスはどうして現れませんか。これはどんな意味があるのでしょうか? 数多くの使徒たちと数多くの人々が切実な心でイエス様を見たくて会いたいのに何故現れないでしょうか?

年が経って年月が過ぎるのを気にせず、彼の姿が懐かしくて争って求める者の気持ちで彼に再会することができるでしょう。それができる道があるのです。

私たちは孤児です。神様から見たら私たちは孤児なのです。地上でいくらよく生きる家庭環境を持っていたとしても、これを神様が見る時は孤児です。私たちは真の父母を失った者、真の兄弟を失った者、真の夫婦、真の子を失った者です。孤児のような私たちです。このような私たちなので、幸福になれているでしょうか? 私たちの本心は促します。何を促すのか? 私の本来の親、本然の兄弟、本然の妻を探すよう促します。しかし、この地球上を回ってまた回ってもこれを探せないのです。御言葉の中でも見つけることができない内容なのに、どこに行って探すのですか?

だから今、解決策は頭に油を塗って密室に入って、父を見たいという気持ちで求める者になることです。父が訪ねてくださって、主が求めてくださる道があります。イエスはそのような息子の娘を見つけるためにゲッセマネの園とゴルゴダの道を訪れました。そして見つける事が出来なかったので死の道を行きました。

本来の親に再会する一日を楽しみにする私たち、その姿を仰いで父と呼べるその日が懐かしく、皆さんは何時間も泣いて求めてみましたか。

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今、世界中のクリスチャンがこの問題を解決しなければならない時が来ました。私が生んだ息子の娘よりも、他の何よりも神様、イエスが恋しく暮らすことはできていません。

彼が私たちの父である時、私と縁が結ばれている彼に会い、身体と心を尽くし、彼の懐に抱かれ、先日有ったすべてを打ち明けて話すことができ、苦しみと苦しみを慰めることができるその一時を迎えることが私たち人間が求めていく最高の願いであることを知らなければなりません。

みことばを探すよりも、行動よりも、自分自身を探す必要があります。それ自体を懐かしく思い、その心を探さなければなりません。その心を探さなければなりません。

昔、ユダヤ教の信者たちはイエスそのものに会うことができました。しかし、失われた両親にまた会うために恋しく、また懐かしく、見てもまた見たい親のように彼に対する者が一人でもあったのでしょうか。神様が自分の独り子であるイエスをこの地上に万民の父、王の王として送られたとき、そのように天を受けいれるましたか?

歴史以来一つの中心存在として、万民の父として、万民が彼を見ても見てもまた見たい、恋しくて懐かしく、また懐かしい存在で迎えてくれるのを楽しみにしていました。これが天の悲しみであり、悔しい事の中の悔しい事です。子供のために血を流して訪ねて来ましたが、その子供が不当に扱われました。天の悲しみがあれば、イエスの死以上に悲しいことはありません。

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イエス様は天の子として遺言をしなければなりませんでした。使徒たちに御言葉を語れないと言われました。「わたしが地上のことを言っても、あなたが信じていないならば、まさに天のことを言えば、どのように信じるのでしょうか。」 (ヨハネ16:12)と言われました。

愛する使徒たちがイエスの実の息子の娘になったと言えない理由はどこでしょうか? 行かれながらも遺言ができなかったイエスでした。最も大事な秘密を打ち明けずに行かれたイエスでした。彼は私たちの父です。永遠に、これ以上の永遠はどこにありますか?

私たちはこのように歴史的に恥ずかしい罪を取り除くために悔い改めなければなりません。万民は両親を殺した罪を犯したので,みな悔い改めなければなりません。悔い改めは何をしますか? 父が殺した罪を悔い改めて悟るのです。どのような子でも、真の善のその父を私が殺したと感じたときに涙を流して悔い改めない者はどこにありますか? そうなっています。世界はどのように分かっても、私が知っているその神様とイエスはそうだということです。

本然の家庭が恋しい、その子どもとその兄弟とその家族が恋しくて6千年の間目覚めて仕事をしながらも疲れを知らずに歩んできた天の事情を誰が知っていますか?

イエス様が30年余りの生涯の間、どんな逆境にぶつかっても、孤独なゲッセマネの麓で夜を明かして祈りながらも、その心中に考えたのは本来の子どもたちでした、本来の子どもたち。十字架で運命されながらも「父よ、彼らの罪を許してください。」(ルカ 23:34)と祈りました。

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「失われた子どもを探しに来た両親の立場にある体だから、こういう道も応えて行かなければならない」と思われたイエスでした。そこからイエス様の心情を知る事です。

今日、世界中のキリスト教徒はこれらのイエスが優れていることを知り、神の子として集まっています。しかし、実際には哀れな側面のイエスでした。逆に敵として、裏切り者がいて、異端者として扱われたイエスでした。歴史に知られているイエスは素晴らしかったですが、実際には貧しいイエスだったことを知っていますか? 私たちは、歴史上に現れた素晴らしい名のイエスではなく、実体として現れたイエスを探し出さなければなりません。これが終末の聖徒の責任です。

燃える両親の心情ですべての事情を越え、すべての曲折を越えて息子娘を探すために夢中だったイエスでした。親の心情で苦しんだイエス様とその親の苦労を心配し、その姿を探すために苦しみの息子娘が再会する日は、神様がいて祝福される日です。

さて、今残されたものは何でしょうか? 言葉知覚よりも実体が重要です。 言葉は、新郎が新婦に宛てた手紙のようなものです。 言葉の本体である実体が現れたそのとき、手紙という文書を持って議論するでしょうか?

だから皆さん、他に方法はありません。イエスのもとへ行くにあたって、自分の息子や娘が障害となり、自分の周囲が障害となり、周囲のものが障害となることはあります。

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イエスが自らの血族を断っても進むとき、悲しみの涙を流されながら祝福を受け取ったように、私たち人間もこの地上で肉的な血族を断ち切るための判断を受けなければいけないのです。

そのため、その峠を越えた後にこそ、彼の心情の同伴者となることができました。 そして、彼とともに死ぬことができ、困難な時には時々遭遇したため、12人の門徒を中心として、70門徒や120門徒もイエスの前に立つことができ、死の壁を問題なく乗り越えることができたのです。

キリスト教はローマの圧政の下で数々の虐殺を受けましたが、それを乗り越えたからこそ、最終的にローマを征服することができました。

そして、今だからこそ全世界のキリスト教徒がサタンの世界に対して天の主権を打ち立てるべき時であるからです。

このように、み言葉の時代が過ぎ、実践の時代が過ぎた後に、相逢の一日が訪れるのであり、その日を迎えてこそ天国の生活が始まります。

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相逢して、彼の姿が私の姿であり、彼の意見が私の意見であり、彼の傷が私の傷であると感じる境地に至り、さらに彼の私の心心であり、彼の心情が私の心情であると言えるようになった時、初めての天国の家庭が実現されます。それなのに、イェ様を中心として、この地上で放映されなければ天国の家庭は成せません。


そうですね、イエス様が歩んだ苦難の道をともに歩み、その心感じ、その涙を知り、その痛みを分かち合うことで、私たち真の相逢の時を迎える事ができます。これは一時個人の信仰のみで達成されるものではなく、家庭、社会、国家、世界が一つとなる時に初めて達成できます。


たくさんの人々は、神は父母の立場にあり、自分はその子の立場があると自称している。


だから、皆さんは今、み言葉と行動の間で出会わなければいけません。この過程をイエスご自身も通過されました。


イエスは密室で道を歩み、山中での祈りの時間を過ごし、そして死の峠を越えてでも御子を探し求めようとされました。私たちもまた、このような覚悟を持って探していかなければいけない。皆さんは聖書を読み、そのことを深く悟らなければならないのである。


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さて、その方と相会う日には、どうすべきでしょうか。その方に対して、私たちがまずしなければいけないことは何でしょうか。罪を犯した私たち人間が、主に出会い、真の父母様に出会ったその瞬間には、「父よ!」と呼び、「主よ!」と呼びながら、「私はこのように戦ってまいりました。そして、このようなものを持ってお会いしました。私を探すために、六千年という長い歳月を乗り越えてご苦労様でした」と言いながら、まず慰めて差し上げなければなりません。


言い換えれば、私たちがしなければならないことは、心からの感謝の気持ちを持ち、「あなたはどれほど苦労したことでしょう。ここにたどり着くだけでも大変でしたでしょう。6千年にわたる歴史の旅で、あなたはどれほどの苦労をし、子どもたちを探し出したのでしょうか?」と考えることです。私たちは、神にそのような慰めを与えることができる様になる必要があります。「あなたの心はどんな気持ちだったでしょう。あなたの心は、長くて長い旅路をどんなに耐えたでしょう」と言える必要があります。


最初は称賛を求めようとは思わないでください。近づくときは、静かにしなければなりません。復活後、マグダラのマリアもイエスの前に静かに現れました。しかし、マグダラのマリアがイエスにすがろうとしたとき、イエスは彼女を止めました。それは、人間がしがみつく必要のあるものがあったからです。


これらは対処しなければならない歴史的な欠陥です。歴史をたどり、説明しなければなりません。「これはアダムの家族で起こったことであり、これはノアの家族で起こったことであり、これはアブラハム、イサク、ヤコブの家族で起こったことです。モーセを通して、これは過去の先祖や預言者に起こったことです。これはイエスが歩んだ道です。これらすべてが私の罪です。どうかお許しください」と。


会う日には、私たちはこれらの歴史的欠陥をもう一度認識しなければなりません。「私は恥ずかしいですが、あなたは私を見捨てず、私を探し出して呼んでくださったので、私の心は感謝でいっぱいです」と言わなければなりません。この後で初めて、神は「私の息子よ」と言うことができ、父と子は再び結びつくのです。これが善良な家族、天の家族に向かう信者が歩まなければならない道であることを理解しなければなりません。


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もしあなたが神に会ったら、その瞬間に何を願いますか? イエスと神は何世代にもわたる悲しみを背負っておられます。私たちはその悲しみを、6千年にわたる闘争、感情的な隔たり、そして激しい戦いによる歴史の血塗られた痕跡など、すべてさらけ出さなければなりません。これらすべてを念頭に置いて、私たちは告白しなければなりません。「これは私のため、私の民のため、私の家族のため、私の兄弟、私の配偶者、そして私の子供たちのためです。お父様、私はあなたに謙虚にお願いします、と。


さらに、神がどのように天と地を創造したか、どのように堕落が起こったか、なぜアベルの捧げ物が受け入れられたのにカインの捧げ物は受け入れられなかったのか、なぜノアの8人家族が選ばれたのか、なぜ「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という称号が与えられたのか、なぜヤコブがエサウの長子の権利を盗むために狡猾な行動をとったのか、なぜ神はヤコブの12人の息子を選び、70人の家族を創り、彼らをエジプトに送り、そこで400年間苦しませたのか、なぜ神がモーセを育てたのか、なぜカナンの地を取り戻すために戦いがあったのか、なぜイスラエルの選ばれた地位と主権を確立しなければならなかったのか、なぜイエスが来て死んだのか、なぜ再び戻って来なければならないのか、そして神の未来がどうなるのか、私たちは理解すべきではないでしょう。


皆さんはこの御旨を理解しなければなりません。そして、その御旨の前に、人類が犯したすべての歴史上の罪、この時代のすべての罪、そして未来の罪を告白しなければなりません。終末の時は告白の時であると言われています。しかし、これは単に自分の罪を告白することを意味すると思いますか?いいえ、そうではありません。自分の罪を告白するだけでは、神の家族の一員として立つには十分ではありません。


過去と現在を清算して初めて、皆さんは新しい未来の新たな中心人物として万物の前に立つことができます。神が今まで人類を求めてきた目的は、未来の新しい主人公、つまり神の家族の一員として認められる人々を確立することです。これはまた、皆さんを神の家、家族の一員として認めるためでもあることを理解しなければなりません。そのことについて考えたことがありますか?


皆さんは,自分が信じ,知っている父が歴史上の父であり,この時代の父であり,未来の父であることを証しなければなりません。この父が真実であることを証明しなければなりません。皆さんの心において真実であり,皆さんの魂において真実であり,皆さんの体において真実であり,父の言葉を調べてそれに従って行動するときに真実であることを証明しなければなりません。皆さんの証は,父の性質と教えがあらゆる意味で真実であることを示さなければなりません。


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審判の日、神様はどのような基準で裁かれるのでしょうか。裁きは、神様の歴史的、現在、未来の心情に基づいた蕩減と復帰の条件に基づいて行われます。マグダラのマリアは、復活したイエスに出会ったとき、まだこのことを理解できませんでした。そのため、イエスは彼女に抱かれることを許さなかったのです。このように書かれています。


漠然と信じるだけで天国に入ることができますか。考えるのはいいかもしれませんが、そのような信仰では、御言葉を体現するイエスとの関係を築くことはできません。御言葉に接し、実践しようとしても、神の本質に結びつくことはできません。なぜでしょうか。それは、あなたが理解していないからです。


ですから、私たちは悔い改めなければなりません。悔い改めとともに、犯した過ちを清算しなければなりません。どのような悔い改めでしょうか。それは、アダムの家庭以来6千年間、それぞれの時代に神様の摂理を果たせなかった先祖たちの罪に対して責任を負い、その罪を悔い改める中心人物として立つ悔い改めです。神様は未来の神様であるだけでなく、歴史の神様でもあります。歴史の過ちを清算しようとする神様が皆さんを呼んでいることを知って、皆さんは悔い改めなければなりません。


そして、彼はこの時代の神でもあるので、この時代の罪を清算しなければなりません。過去と現在のすべての罪を解決し、未来のための新しい基準を確立することによって、私たちは父の栄光を歌うことができる場所、つまり永遠で平和な場所に到達するでしょう。


そのとき初めて、神の長年の願いが実現する。それは、歴史の罪が夢にも見られない、神の息子と娘を中心とした天の家族を形成することである。その時点で、天の家族の息子と娘として認められた者たちは、


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希望の時が来れば、神は過去6千年の歴史を振り返ることはもうありません。歴史の悲しいページをめくる必要はもうありません。すべてが解決されたことが心と精神と魂に疑いなく明らかになる時代に入ると、もう歴史を振り返る必要はありません。


皆さん、現代は骨董品探しの時代です。なぜでしょうか。それは、本来私たちのものだったものを取り戻そうとしているからです。6千年前の最初の「骨董品」、つまり私たちの祖先アダムとイブが失った神とのつながりを取り戻さなければなりません。その後、骨董品の時代を終わらせ、新しいものを探す新しい時代に移行しなければなりません。今日の世界は、新しいものが現れると貪り食い、消費し、破滅に至ります。しかし、希望の時代はそうではありません。


しかし、心は往々にして前進する道を妨げ、私たちに引き返すよう、昔のやり方に戻るよう、過去の深淵を掘り下げるよう促します。これが仏教が瞑想を教える理由です。本来の自分と本来の心を見つけるためです。この探求に従事しなければならないのは、この地上の人生の悲しい現実ですが、一度過去に戻って解決すると、夢の中でさえそれを再訪するという考えは耐え難いものになります。神の目的は、過去から魂の種子さえも完全に消し去ることです。


私たちは新しい理想の世界と新しい希望の喜びの中で生きなければなりません。過去には、いくつかの文明がこのパターンを繰り返しました。ローマ文明はギリシャ文明の復活でした。彼らは古代文化を研究し、その精神を再導入し、それを新しい現実に合わせました。しかし、私たちはこの道をたどってはなりません。歴史を学ぶことは価値がありますが、それは私たちの希望の基盤となることはできません。これまで、私たちは古い方法と天の原則に戻る運命にありました。しかし、


統一教会の信者として、私は皆さんが容赦なく古いものを捨て去り、今日生まれた新しい王子として大胆に現れ、新しい世界で新しいことを歌う準備ができていることを望みます。そうあるべきです。考えてみてください。皆さんがサタンの世界にとらわれながら背負ってきたぼろぼろの荷物を神の天の家族に持ち込んだら、神様は喜ばれると思いますか。そのようなことを聞くのも、見るのも、考えるのさえ不快なことでしょう。そうではありませんか。これが大審判です。そのような人々、そのような考え、そのような主権と歴史、これらはどれも容認できません。これが大審判です。神様は、新しい希望に燃え、神を敬うことができる真の息子、娘を真剣に探しているということを、皆さんははっきりと理解しなければなりません。


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過去に固執することは有益であるように思えるかもしれないが、そうすることで、結局はすべての理想的な目的を破壊することになる。それがイエスの死につながった。あなたはこれをはっきりと理解しなければならない。今日の時代に民主主義や共産主義のイデオロギーの旗印に固執するのは良いことかもしれないが、それだけに固執すると、また新しい何かの可能性を破壊することになる。


したがって、これらの問題を慎重に検討し、過去を清算し、現在を清算し、未来に備えることが重要です。そうしなければ、神の希望の家に入ることはできません。そうしないと、神はあなたをサタンの世界の子供としか見なさないかもしれません。神は、ヨセフの息子であった人々がイエスを「兄弟」と呼ぶのを聞きたくありません。ヨセフの血統の誰かがなぜイエスを兄弟と呼ぶべきでしょうか。信仰の道を歩み、イエスの心、精神、行動、言葉に深くつながって初めて、本当に彼を兄弟と呼ぶことができます。神はまた、マリアがイエスを自分の息子と呼ぶことを嫌っています。必要なすべてのステップを踏んだ後にのみ、神の息子と見なされることができます。堕落した血統に関連するものを考えることさえ、神にとって完全に忌まわしいことです。


したがって、将来、独り子から新たな祝福を受けなければなりません。世界で最も愛されている花嫁が天に召されるとき、神は彼女が誰かの娘、誰かの姪、誰かの姉妹、またはそのような関係であるということを聞きたくありません。彼女が神の娘として認められれば十分です。神の視点は、「彼女は神の娘です。なぜ彼女があなたのものになるのですか?」です。その結果、古い伝統だけに固執する人は、この段階を超えることはできません。


6千年にわたる血なまぐさい闘争、神の意志を裏切り摂理を延長した結果続いてきた悲惨な歴史を考えると、神はそれを見ることさえ疲れているに違いありません。愛する子女たちよ、神の前に立つとき、「私は誰それの父だ」「私は誰それの母だ」と言ってはなりません。あなたがこの世でどのように生きたかを語ってはいけません。罪深い歴史と関係のあることは何も言ってはなりません。


歴史の神とこの時代の神は悲しみの神です。過去と現在の神は悲しみの神です。悲しみの神を認識して仕えない人は裁きを受けるでしょう。この世で本当に神を愛していると主張する人は、個人的な悲しみや苦しみを経験するとき、それを許す立場にないことを理解しなければなりません。


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もし、神様の歴史的な悲しみと現代の悲しみを知りながら、自分の苦しみを祈ることに耐えられず、ひとりで泣いている人がいるなら、神様は必ずその人たちに目を留めて下さるでしょう。「あなたの苦しみは私の苦しみよりどれほど大きいのでしょう。私が死んでも、あなたの重荷を負わせてください」と願う息子、娘にならなければなりません。祝福だけを祈る人は、ますます神様の前に頭を上げることができなくなります。神様の豊かな恵みと愛の領域に近づくほど、神様の恵みと愛は深まります。


これを信じるか信じないかはあなた次第です。私は空虚な言葉や意味のない言葉を話しているのではありません。あなたがこれを理解すればそれで結構です。理解できなくても、それでも結構です。しかし、天国はそのような構造ではないことを知っておいてください。その領域では、昇格を申し出られても、謙虚に3回か4回断り、「私はそれに値しません。受け入れられません」と言います。昇格を求める前に、まず「私はこの責任を負えません」と言います。それが、神の本質です。


権力と影響力を求めて支配者のように振る舞う信者、聖職者、宗派は崩壊するでしょう。そのようなやり方をやめるべき時が来ています。たとえ高く評価されても、認められないように努めるべきです。たとえ援助を申し出られても、謙虚に断るべきです。そうして初めて天国がやって来ます。


今日、統一教会の信者たちは外部から多くの迫害と排斥に直面していますが、落胆しないでください。主が歩まれた道もそうであり、父が歩まれた道もそうでした。価値のない罪人にとって、そのような試練は当然のことです。「私の苦しみがこの国の苦しみを軽減することができれば、私の苦悩がこの世と天国の悲しみを軽減することができれば、私は感謝します」と考える人は、サタンに打ち負かされることはありません。天国は彼らを裏切りません。皆さんはそのような信者になるために集まったのです。


この世は眠り続けています。私たちが天国、つまり神様の家族を待ち望み、その天国の家族の一員になりたいと切望する時、天国は、自分を忘れて天の父母を敬い、もし父母が現れないなら、現れた兄弟姉妹を待ち望み、涙を流すことができる人々を待っています。天国はそのような集団を熱心に待っており、あなた方はここに集まっていることを理解しなければなりません。


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もし地上にそのような集団が存在するならば、迫害がどんなに激しくなっても、どんなに状況が厳しくなっても、その集団は残るでしょう。ですから、私たちは天と地にすがりついて、涙の嘆願をしなければなりません。私たちは歴史的罪を悔い改めなければなりません。三千万の人々のために悔い改めなければなりません。天はそのような若者、そのような天の家族、そのような天の家族、そのような天の氏族を切望しています。この民族にこのような動きが現れなければ、この民族は滅びてしまうでしょう。全てを台無しにしてしまいます。


さて、友よ、友を愛し、友を恋しく思っても、それは過ぎ去ります。家族も友人も、すべて過ぎ去ります。「あの憧れの天の友はどこにいるのか、あの憧れの天の家族はどこにいるのか」という気持ちで感情を動かす道を見つけることが正しい道です。たとえ飢えても、飢えを忘れて天の家族を求めなければなりません。たとえ恨みを感じても、それを克服して、後世までも思いやる心で天に訴えなければなりません。そのような心を持つ人は滅びません。友よ、今日の国際情勢をよく知っているはずです。1959年と1960年を重要な歴史的転換点と見なす人は多くいます。


歴史的な転換期が到来しているのを感じます。特に韓国の状況を振り返ってみると、韓国ほど哀れな国はありません。皆さんはどこに安息の基準を考えていますか?世界もまた、いつかは消えていきます。社会や国家、民族もすべて通り過ぎてしまいます。我が民族は持っているものではなく、求めたくても何も見つからない民族です。


今こそ、過去に立ち戻って歴史的な罪を嘆き、時代の危機を嘆き、黙って「父なる神」と一歩の運動だけがこの民族を救うことができるのだと私は信じます。


今日の教会は、過去のものを新しいものに変えなくても歴史的な挑戦をしない限り、委員会に教会を委ねるべきではないのです。そのような時が来ると私は思います。天国は牧師や長老が行く場所ではありません。


31


むしろ、世界中に広がるばるキリスト教徒が一致団結し、皆が「私たちの教会」として尊重する運動が生まれるでしょう。


意味ある若い男女たちよ!このような時期が必ずや来るでしょう。振り返って見てください。 解放前には、牧師、この牧師と言って大決めしていました。長老ブームが吹き荒れました。その後は執事のブームがありました。今こそ平信徒のブームが訪れる時です。そのような流れが必ず消えます。もう教会をその人たちだけは守るのです。そのような思いに燃えて、この運動きを提唱して生まれたのが統一教会です。今は非難されているかもしれませんが、見てください。歴史は必ずその方向を変えるでしょう。歴史がその方向を変えるたびに、時代に変革運動が開催されました。熱い血を持つ若い男女が必ず必要であることを知るべきである。


このような思いに燃えて、心の悲しみと、歴史的なイエスと聖霊の覚悟、我々の先祖たちの、そのすべてを自分の肩に背負い、この時代全体の責任を自分の肩に背負える息子や娘、神を父と呼ぶことができる人、天の家族の威厳しさを持ち、神の息子娘としての威厳とその名を持つ娘として、宇宙全体を幻想と治めることができるその姿を、神も探しておられ、また人類も希望の光として待っていて当然を、はっきりと知らなければなりません。






<祈り>


お父様、私はあなたの言葉を届けました。お父様、あなたはこんなにも悲しみ、また悲しみ、あなたはこんなにも苦しめられ、また苦しめられ、私たちは、この地上で長い間探し求めていた息子や娘を見つけることができなかった父の苦悩を理解し、泣くことができる者とならなければなりません。しかし、私たちは、自分自身が哀れな立場に置かれ、


イエス様も、母と兄弟たちのそのような様子を見て、「天の父の御心を行う者は、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」と言われました。私たちは、本来の両親を持たなかった者です。本来の兄弟を持たなかった者です。本来の子どもを持たなかった者です。本来の配偶者になれなかった者です。


32


今、私たちが慕わなければならないのは、本然の父母、本然の兄弟、本然の子女、本然の夫婦です。お父様、私たちは、本然の父母、本然の兄弟、本然の子女を慕い、自分の身分を忘れて必死に探し求める息子、娘になることを切実に望み、願います。

父なる神よ、私たちがあなたを迎え入れ、天国の家族生活を直接できることが運動が天地の間に広がりますように。

ここに集まったあなたの息子や娘たちが、もし何かを心に感じたなら、それを人生の指針とし、生涯の転機とすることを許してください。すべてを率先してよろしくお願いいたします。

主の御名によってお祈りいたします。アーメン



文鮮明先生 御言葉選集 7-9.

2025年02月15日 18時55分56秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 7 - 9. 二つの世界を扱っている私 (1959年9月20日)

二つの世界を扱っている私
1959年9月20日(日)、元本部教会。
ローマ 7:15-25


1
<祈り>

お父様! 人生が行かなければならない道を私たちはしっかり歩かなければならないことを知りながらも、その行くべき道を知らないまま歩いている自分であることをこの時間悟らせてください。

体を中心に生きる人もいて、心を中心にして生きる人もいて、さらに進んでは身体でもいいし、心でもない天を中心に生きる人々もいることを知っています。今日この時間参謀した私たちはどの類に属しているかを明らかにしなければならないことをもう一度感じさせてください。

私が極めて大切で、万事の喜びと悲しみを解決できる中心体にならなければならないということも心の中では感じています。 「私」を回復するために、これまで勇敢に来てくれて戦ってきたさおな、まだこの戦いが終わらず、今日この時間もまた一生を歩いて戦わなければならない運命に瀕している自分であることを知らせてください。

お父様! 穏やかな中で私たちを見つけてください。お父様! 私たちに命じてください。あなたの声に魅了されるその瞬間、あなたと同行するその瞬間、あなたと一緒に楽しむことができるその瞬間を探していくことが人生の中心であり目的であることを知らせてください。歴史の路線で、あなたが私たち一人一人と楽しむことができ、私たちと楽しむことができます。

2

お父様、私を回復するためにひざまずいて双樹を合唱して天城門の前にこぼれた私たち、ほのかなお父様の心情に染み込める姿になってくださり、お父様が自分も知らないうちに私の手を握って「あ!愛する私の息子娘よ」とし、勧告できるこの時間になるように許してくださるようにお父様、切に願って来てほしいと思います。

世界で信じて生きるすべてはしばらくの間、心を信じて戦い、心を中心に歌い、心でお父様を結びつけて考えるその世界は、無限のムグンであることを私たちが感じています。わたしを立てて誇れる価値の姿を、いつの間に終結するのかと尋ねられる時、自分がいない私自身になる割振台の空はどれほど悲しいでしょうか。

この天地万物満像の前に、天の地の前に自分の姿を表すことができない凄惨な姿が来ます。これまで目的もなく感じもなく生きてきた過去を清算し、私たちの心が父の心と付き合うことができ、お父様の心情と私たちの心情が通じるこの時間になるように許してくださるように、お父様、切に願っております。

世の中で感じて生きる体験はみんなあるし、お父様を中心として感じ、生活した体験がなく、これを望んでいた私たちだったので、お父様の場中に移して再創造の歴史を起こしてくださるのを、愛するお父様、切に願っております。

みことばを通さなければ事情を知ることができないのです。ハオニ事情を通して心情を起こすことができる一つの御言葉を許してくださり、その御言葉を通して心情がひとつに導いてくださるように、愛するお父様、切に願っております。

3

穏やかな中、お父様が歌うほのかな声を聞いて楽しくて崇拝することができるこの時間が戻ってきて、みことばを聞いて心情が湧き上がるこの時間になることを許してくださるように願います。

この日、本当に空を扱う各所ごとにお父様の手先を一緒にいただき、さらに地方に広くお父様の前に崇拝する寂しい家族たちもいるので、全ての方に手を差し伸べてください。

最初の時間から終わりの時間までお父様に委ねますので、親しく主管してくださり、伝える者の心と受け手の心が一つになるように許してください。

天が動することに私たちが動いて、天が靜することに私たちが定めるこの時間になるように許してくださるように願いながら、すべての御言葉を主の名で惜しました。アーメン。


<御言葉>
地上の人間がどれほど喜びと幸福を享受しながら生きているとしても、その中には心が喜び、心が楽しみ、心が幸福だと言える立場で生きた人がいないということを、私たちは知っています。

4

このように私の心が喜びと幸福を感じることができないために、私を導いている天や、あるいは何らかの天倫といった主体的な存在もまた、喜びと幸福を感じることができないと断定することができるのです。

私たち一人ひとりが、自分を中心に据えてこの世で生きているのだと考えているならば、それは大きな誤解です。私たちの心は、生きる目的を追求し、理念としては生きたいと願う何らかの目的地を追求していることを、私たちは生活を通じてはっきりと知っています。

こうしてみると、「私」という一つの存在は、他の何らかの目的の世界と関わりを持っているという事実を否定することはできません。したがって、この「私」は、自らの目的のために、自分自身のために生きるのではなく、何らかの別の目的のために生まれ、生きなければならないということを、はっきりと理解するべきです。

このような理由から、私一人を見たとき、それが小さいといえば極めて小さい存在であり、大きいといえば極めて大きな存在なのです。そのような関連性を持って歴史が織り成されてきたことを、私たちは知っています。

この「私」が感じる感情、この「私」が観察する世界観、そしてこの「私」が営んでいるすべての社会生活には、対応するものと相反する現象が存在しており、これを私たちは無視することはできません。

5

つまり、何らかの目的のために生きる中でも、相克的であり対立する側面がある一方で、それに対応しながら生きている側面も存在することを否定することはできないでしょう。それこそが社会の現象であり、今日の世界的な潮流であり、天の何らかの摂理の現象であると見ることができます。

天倫と天的な世界観を分析するとき、それは私の観念によって感じるものではなく、また、私一人の考えによって動くものでもなく、私の観念を超えたところで、細部にわたり私を明示してくれる何らかの別の存在があるということを、私たちは否定することはできないのです。

このような観点から見れば、私が立っているこの場所、私がとどまっているこの立場は、単に一つの世界に限定されたものではなく、二つの世界にまたがる位置にあるということを、はっきりと理解する必要があります。

心が願う世界と身体が求める世界、この二つの世界が私の中で展開されているのです。したがって、私の心は喜びと幸福、そして何らかの理念を求める欲望を持っている一方で、私の身体は五感を通じて実体的に感じられる快楽や触感を求めるという事実を、否定することはできないのです。

私たちはよく、人には心があると言います。人心があると言います。さらに進んで、天心があるとも言います。

6

人心と天心に対応し、天倫の法則とその秩序を持って自らの生活を明らかにする人間でなければなりません。しかし、人心と天心が調和する生活の基準を明確にする秩序を持つことができませんでした。これこそが堕落であり、嘆きの源なのです。

人心を離れ、さらにそこに天や善なる良心を背くことを、私たちはしばしば「悪心」あるいは「物心」と呼びます。

私という存在を見つめるとき、心を中心にすれば天心が私に入り、また身体を中心にすれば悪心が私に染み込んでくるのです。古今東西のすべての聖人・賢人たちは、この葛藤の中にある自分を見て嘆いたという事実を否定することはできません。

パウロもまた、心の法と身体の法が争う中にいたため、「ああ、私はなんと惨めな人間なのか!」(ローマ7:24)と叫びました。

それでは、これまで私たちが楽しみながら生き、そしてこれからも生きようとしているこの世界は、一体どのような世界でしょうか?

7

私の心と身体が共に楽しみながら生きられる世界ではなく、私の心の理念と調和できる世界でもないということを、皆さんは否定することはできないでしょう。そうした環境の中で、苦悩し、もがき続ける私たち自身がいます。

このことを考えてみると、本来、天心が人心を動かすべき原則があるにもかかわらず、今日に至るまで、この天心が私たちの真の人心と一体となって生活の中に現れたり、私たちの人生の道のりの中で喜びとして表れた瞬間が、一度たりともなかったと断言することができます。

もし天が存在するとするならば、私たちの心を中心にして、ただ一日だけ生きたいと願うでしょうか? 私たちの心を中心にして、永遠にともに生きたいと願うはずです。しかし、現実には心と体が争うこの混乱の中に置かれているのが、まさに私自身なのです。

このような心を中心に据えて、天が共に生きることができるのかと問うならば、それは不可能だという結論に至ります。

天は善です。善は永遠であり、唯一であり、不変です。しかし、私たちは不変であり、唯一であり、永遠なる生活観念を持つことができなかったため、善に向かって進んでいこうとする心に、絶え間なく入り込むことができないのです。

8

このため、天は私たちの良心を通じて作用することはできても、私たちの生活観や人生観には直接作用することができません。宇宙的な理念のもとで人間を導くことができなかったために、これまでの歴史は悪によって支配されてきたのです。したがって、この世界は天倫と永遠の関係を結ぶことができる世界だと断定することはできません。

このような理由から、この世は裁きを受けなければなりません。そして、この世に生きる人間もまた、裁きを受けるべきなのです。人心を超えて天心を求めて進んでいく運動があります。それは何か? それが 宗教 です。宗教こそが、この天心をつかもうと努力し続けてきたのです。

人類の文化史において、宗教は偉大な功績を築いてきました。人々の良心を刺激し、天心へと向かわせる運動を起こし、新たな革命、新たな歴史を展開してきたのです。しかし、人心を中心にして悪心と物心が結びつき、天心を抑えつけようとすると、それが堕落し、破壊されてきました。このような歴史的事実を、私たちは否定することはできません。

だからこそ、「人は良心的に生きなければならない」という普遍的な言葉があります。しかし、それだけで万事が解決するのでしょうか? たとえ良心的に生きたとしても、その良心を基盤として、宇宙全体とともに楽しんで生きることができず、もし天が存在するならば、その天とともに楽しんで生きることができなかったとするならば、それは改めるべき自分自身の問題であることを知らなければなりません。そうではありませんか?

もし皆さんが本当に良心的な生活をするならば、皆さんの心を揺り動かす現象が起こるはずです。

9

人間には良心が備わっています。しかし、その良心と天倫の目的を共に楽しむことのできる立場にはいません。堕落の運命を持つ人間は、本来、天倫の目的を目指して生きるべきという願いを抱いています。しかし、堕落によって良心の目的と自由を失ってしまったのです。すなわち、良心に基づく生活の目的と自由を失ってしまったことこそが、嘆かわしく、悲しむべきことであるということを、皆さんは知らなければなりません。

もし人類の始祖が、どのような形であれ、善なる目的を中心として、その善なる場において生活し、楽しむことのできる基盤を築いていたならば、私たち子孫もまた、自らの心と天の心が共に楽しめる体験をすることができたでしょう。

しかし、人間は堕落したことによって、心の目的、生活の目的と縁を結ぶことができませんでした。そして堕落とは、まさにその「縁を断たれた」ことに他なりません。では、人間は何を中心にして堕落したのでしょうか? それは 身体を中心にして堕落した ということです。

そのために、皆さん一人ひとりの中で 心と身体が争い を繰り広げているのです。この苦悩の立場に立たされているのが、まさに皆さん自身なのです。

もし本当に「真の心」が皆さんの中にあるのならば、この問題を解決するための 一瞬 でも存在しなければならないはずです。しかし、皆さんはこれまでの歴史と何らかの縁を結んだことがありますか?

10

一年、あるいは何十年、または生涯の中で、そのような歴史と関係を結んだことがありますか? もしそうでないならば、皆さん自身は 天心に反逆する立場 に立っているということなのです。


この天心を断ち切り、身体が楽しむ方向 へと堕落していくならば、当然のことながら、人間は 自滅 してしまうのです。そのため、この世界には、身体が楽しめる方向 に理念を求めていく主義と、心が楽しめる方向 に理念を求めていく主義が存在しています。


人間は 極めて小さな存在 ではありますが、同時に 小宇宙 でもあります。そのため、人間の心の中で繰り広げられる戦いの現象も 世界規模の形態 を持っているのです。この問題を解決するための方法が生み出されなければなりませんが、いまだにその答えは見つかっていません。


さらに、個人を超えて、民族・国家・世界とともにこの問題を解決できる 一つの模範 も、いまだに現れていないのです。


私という存在を中心にして、世界がひっくり返るように押し寄せてくるため、心と体の争いが続いていくのです。この 心と体の戦い において、心を中心として勝利の凱歌を上げることができなかった者 は、決して 天の国の民 となることはできません。


11


世界を征服しようという野望を抱く者は、この世界と共に 審判を受ける ことになります。また、自らの理念を中心にして この地を支配しようとする者 は、この地と共に 滅びる ことになります。しかし、天の理念をつかみ、それを探し求め続ける者は、生き残る ことになるのです。


心の世界は不変の姿を持っており、心の世界は唯一性を持っているため、無限の世界と連結することができます。この 心だけが天心とつながることのできる基盤 となるため、それをしっかりと握りしめて生きる人は、必ず 審判の日を逃れることができる ということを、私たちは知るべきです。


イエスは言いました。「天国はあなたの心の中にある。」この 天国は無限 です。もし天倫、または天心が存在するならば、それを自らの 良心の中に引き入れ、それを生活の原動力とし、これを中心に生活を構築できる者 は、天国を築く王子となる でしょう。


天は審判の日を待っています。
審判のその日を心待ちにしています。
宇宙を裁くその日を待っているのです。
歴史的な審判もなされてきました。そして、この瞬間、あなた自身も審判を受けている ということを知るべきです。


12




終末に直面する聖徒たちは、大審判の日を恐れています。
では、大審判を 逃れることができる者 とは どのような者 でしょうか?
それは 個人の戦いにおいて、その戦いを解決し、勝利の旗を掲げて進み出る者 なのです。
しかし、人々はまだ気づいていません。
家庭においても同様の戦いがあり、民族においても戦いがあり、世界全体においてもこのような戦いが繰り広げられている ということを。


では、なぜこのようなことが起こるのか?
天心と悪心がぶつかり、決着をつけることができる時だから である。
それゆえに、私たちは大審判の権限を持つことを願って進んできたのであり、敵に対して堂々と審判の代行者となることを待ち望んでいるのである。


そのような人間になるためには、自分自身を征服することができる者にならなければならない。
心を中心に据え、身体を完全に征服しなければならない。
二度と心に逆らう動きが起こらないように、そのような要素を完全に滅ぼさなければならない。
信仰的な理念をもって身体を抑え込むことができなければ、審判の代行者にはなれない。


個人の審判で勝利する者は、家庭を審判することができ、家庭の審判で勝利する者は、社会を審判することができ、社会の審判で勝利する者は、国家を審判することができ、国家の審判で勝利する者は、世界を審判することができ、世界の審判で勝利する者は、天宙を審判することができる。
そのような権限があるのである。


13


私という存在を見たとき、この「私」は二つの世界の中間に位置している。心を中心にすれば、天国は心の上側を占領しており、その下側には地獄が占領しているため、この二つの世界が私の心の中で平行を成しているのである。すなわち、目に見えない霊的な心の世界において、心の平行線の上には天国があり、その下には地獄があるのである。


皆さん、終末に近づけば近づくほど、ある人は恐怖に囚われる一方で、別の人は喜びに満たされるようになります。このような動きが現れるのは、必然的な現象 なのです。極めて悪しき人間ばかりがいると思いきや、極めて善なる人もいる ということです。


極めて善なる人のもとには、極めて悪しきものが侵入することはできず、極めて悪しき人のもとには、極めて善なるものが関与することはできません。この社会は、神でさえも取り戻すことができない状態 なのです。どれほど霊的な人物であろうと、どれほど天からの賜物を持つ者であろうと、この二つを統合しようとしても、統合できない時がやってきます。


その時が訪れれば、極めて悪しき世界に生きている者、天と縁を結ぶことができなかった者たちは、ことごとく裁きの場に引き出されるのです。このような現象が、皆さんの心の中で現れる時がやってきます。心はこう進みたいと願うのに、体は別の方向へ進もうとする。この 心と体を結びつける条件を持たず、苦しみもがく者は、間違いなく地獄へと向かうのです。


14


では、天国へ行くのか地獄へ行くのか、それはどこで決定されるのか? それは「私自身」によって決定されるのです。 五感を通して感じる生活の中で、良心の呵責を受ける生き方をしている者は、すでに地獄にいるのです。心を中心にして、心が喜べる生活をしている者は、すでに天国にいるのです。


したがって、人は 物欲や悪しき心を捨て、良心を中心にして天倫を仰ぐことが最も正しい道であるのです。これは 皆さんもよく知っていること なのです。


歴史というものは、喜びの日から始まったのではなく、悲しみの日から始まりました。悲しみで始まったのだから、悲しみで終わり、苦痛で始まったのだから、苦痛で終わり、絶望で始まったのだから、絶望で終わる時が来るのです。穀物は蒔いた種の通りに収穫されるものです。
天心を背いた私たちの先祖は、良心の道理と天心の法則を破り、堕落して無限の悲しみを抱えることとなりました。このようにして堕落したため、この世界は 心が喜びを享受できる内容を持つことができなかった のです。


15


だからこそ、道の生活を歩もうとするならば、このすべてを打ち砕かなければなりません。このような戦いが 皆さん自身の中で起こっている ということを、はっきりと知らなければなりません。どのような行動も、その行動が善であるのか悪であるのかによって必ず決定される のです。
私が手を動かすその一つの動作、見ること、聞くこと、嗅ぐことなど、私たちのすべての感覚を通じて入ってくるものが、善を基準としているのか、それとも悪を基準としているのか、その価値を決定する歩みを、私たちは今日の生活の中で続けているのです。


道の道を歩む人もまた、自らの五感の感情世界まで、このような観念、善悪の基準が徹底して確立されていない限り、それを識別することはできません。


この世界は、まさにそのような戦いを続けています。悪が先に立ち、善なるものを打とうとする のがこの世界の戦いです。しかし、悪は長く続くことはできません。悪は長く続かず、善は長く続くものなのです。


長い歴史の過程において、この闘争は 個人から家庭へ、家庭から民族へ、民族から国家へ、国家から世界へ、そして天宙へと次第に拡大され、ついには世界的な理念時代へと接している のです。たとえ 世界主義時代が訪れたとしても、個人は個人 です。しかし、この 歴史の流れは、範囲を広げながら進んでいる のです。


16


昔も今も、良心的に生きた人の立場は変わらないが、それが関わる範囲は広がってきています。昔は 個人を中心とした生活 で満足していましたが、それでよいのでしょうか? 決してそうではありません。
では、家庭を中心とすればよいのか? それも違います。 社会を中心とすればよいのか? それも違います。国家を中心とすればよいのか? それも違います。世界を中心とすればよいのか? それも違います。


天と地を中心とした生活形態こそが、正しい生き方なのです。


歴史の潮流やその形態、範囲は広がり続けていますが、心の基準だけは決して変わることがありません。この 心の基準を中心として、天倫の方向と完全に一致させて進むならば、歴史のすべては天倫の支配下にあるため、心が目指すべき目標や方向を失うことはありません。


だからこそ、「良心的に生きよ、良心的に生きれば祝福を受ける」と言われてきたのです。しかし、審判の日が私たちの前に迫っていることを知るならば、ただ祝福を受けるということは、必ずしも保証されるものではありません。一時的に祝福を受けたように見えても、その時が訪れれば、裁きを受けることになり、結果として祝福とはならないのです。


17


地上での祝福が最終的なものではありません。真の祝福は、その時が来たときに受けるものなのです。その時に 生き残った者が祝福の基台を築くことになるため、良心的に生きれば祝福を受けると言われてきたのです。


このように考えなければなりません。


今日の時代は終末の時です。私たちが「終末」と呼んでいるこの時代は、世界主義の時代へと突入しています。この世界から離れていくのではありません。もし天心(天の心)があるならば、天心を中心とする天宙主義の時代へと進んでいくのです。


では、私たちの心はどこを目指すべきでしょうか? 自己を中心にした時代はすでに過ぎ去りました。家庭を中心にした時代も過ぎ去りました。社会を、民族を中心とした時代も過ぎ去りました。国家を中心とした時代も過ぎ去りました。今や、世界主義の時代が到来しようとしています。ある理念のもとで世界を支えなければならない段階に私たちは入ったのです。


人間には、外へ向かう道と内へ向かう道、この二つの道があります。私自身は、この二つの道に対峙する中心に立っています。この二つの道を内外から統合し、一つの道として進んでいくべき時がやってきます。その道が現れる時こそ、私たちが待ち望んでいた理念の時代なのです。


18


今こそ、天心が求める個人を見つけなければなりません。天心が求める家庭を見つけなければなりません。天心が求める民族、国家、世界、そして天宙を見つけなければならないのです。それを知らない限り、皆さんは歴史上の偉人や聖人たちの歩みを繰り返すに過ぎないのです。


だからこそ、人心の方向を天心へと高めていき、肉体の方向も天心へと向けていき、物質世界もまた天心へと接近しつつあるのです。それらが内外から互いに動きながら接近し、衝突する時がやってきます。
では、何を中心として衝突するのでしょうか? それは「この地」を中心として衝突するのです。そして次に、「人間」を中心として衝突が起こるのです。


戦いの路程において、外的な世界理念を排除し、内的な世界理念を創設するために、歴史はひっくり返るように動き続けてきました。その心情を中心に据え、左右に分かれながら混乱し続けているのが 今日の現象 です。このような現象は 皆さん自身の中でも起こっており、世界的にも起こっている ということは、疑いようのない事実 なのです。


もし神が存在し、人間を対象として摂理を進めてこられたのならば、神がこの世界主義の時代まで導くために、どれほど苦労されてきたのかを皆さんは知らなければなりません。よく考えてみてください。心と体が向き合う時、体が心に服従するのではなく、心が体に服従してしまうのが私自身であり、また私たちの祖先であったのです。


19


このような祖先たちが 心を基盤として、個人を超え、民族を超え、国家を超えて、最終的に世界主義へと導くために、天がどれほど苦労されたのかを考えなければなりません。


私たちが 歴史書を読むとき、その中に「天がどれほど苦労された戦いの歴史があったのか」 を感じながら読めなければなりません。皆さんは、そのようなことを 感じたことがありますか?


「天よ、私のこの苦しみを取り去ってください。」と祈る人は、決して栄光の国へ行くことはできません。家庭を中心にして、民族を中心にして、国家を中心にして、「父よ、祝福を与えてください」と祈る人は、その時代までしか生き残ることができません。


民族主義は、世界主義が到来すれば崩壊するでしょう。そして、世界主義もまた、天心を中心とする天宙主義が到来すれば崩壊するのです。


大いなる目的、究極の目的に向かって摂理を進めてこられたのが天であるがゆえに、私たちも最高の目標が成し遂げられる時を見据え、その時に備えなければなりません。そのために、「終末が来る」と言われてきたのです。


20


では、終末とはどのような日なのか? 天は心であり、地は体であるため、天と地が接する時、世界主義と思想が接する時、私の体と心が接する時が終末の時なのです。


では、その時に何を歌うべきなのでしょうか? 心の生活を歌い、心を通じることのできる世界を歌わなければなりません。この天宙と共に喜びの歌を歌わなければならないのです。


しかし、その日、そのような世界はまだ地上に現れていません。


天はそのような世界に向かって動き続けています。それこそが天の最高目標であり、人類の最高目標なのです。


その日、その時に生き残ることができる私になるためには、私の体と計り知れない戦いを繰り広げなければならず、一度誓ったならば、その誓いを決して変えてはならず、一度決意したならば、その決意を決して変えてはなりません。


21


そのような決意を持って前に進む人がいるならば、当然、それを打ち砕こうとするために、体が反発し、家庭が反対し、社会と国家が反発し、世界全体が反発することになるのです。そのような人に向かって、世界全体が攻撃を仕掛けてくる ということを知らなければなりません。つまり、大いなる理念を知れば知るほど、その理念に対抗する大いなる反逆者が存在するということを示しているのです。


キリスト教信者たちは「天性を目指して進んでいる」と言い、「天国を探し求めている」と自負しています。しかし、大いなる目的、大いなる理念に向かって進む者には、それに対抗する大いなる敵が存在する ということを忘れてしまいました。皆さんは、大いなる敵が存在することを肝に銘じなければなりません。


では、その敵の最終的な目標はどこにあるのか? それは 「私の体」 なのです。敵の標的は、私の肉体なのです。私の体には、生活的な脅威、社会的な脅威、国家的な脅威、あるいは天地の脅威 が押し寄せてきます。


パウロもそのような生活を経験しました。彼が 同胞の前に立てば、同胞の敵となり、異邦の地へ行けば、異邦の敵となり、教団の前に立てば、教団の敵となったのです。


22


今日、キリスト教であれ、その他の宗教であれ、どのような宗教であっても、最終的には審判を受けなければならないということです。それらの宗教が そのままの形で終末を超えていくことはできません。したがって、徹底的に自らを解明しなければならないのです。


心を中心にして個体を求める路程においても、世界的な意義と結びついているため、世界的な苦難が押し寄せてくるのです。終末が近づけば近づくほど、世界的な恐怖は一方向からではなく、四方八方から押し寄せてきます。
そのため、終末が来れば来るほど、良心的な人々は恐怖の波に巻き込まれていくという事実を、皆さんは聞いたり見たりしてよく知っているはずです。


だからこそ、良心的な人々や芸術的な人々、特に文学に関わる人々は、自らの意思で自由に生きることができない恐怖の流れに巻き込まれていく時代がやってくるのです。実際に、今の時代がそのようになっているのです。その結果として、不安障害やパニック症などの症状が現れているのです。


今日、この終末の時に立たされている私たちは、過去とは異なる立場にいるのです。今は世界主義の時代であり、すべてを世界的な視野で考えなければなりません。したがって、すべてを天心とともに背負い、外的な分野を打破して分離し、「父よ!私は勝利しました!」と言える一人の人間が現れなければならないのです。
そうではありませんか?


23


天は、そのような一人を生み出そうとしており、サタンは天の行おうとするその行動を妨害しようとしているのです。この世界は天の世界ではなく、悪の主権のもとにある世界です。したがって、そのような存在がこの悪の主権世界に現れるならば、全世界が反旗を翻し、反抗することは避けられません。


しかし、その 一人の存在を攻撃しようとすれば、逆に自らが崩れ落ちることになるのです。個人が反対すれば、その個人が屈服し、家庭が反対すれば、その家庭が屈服し、社会が反対すれば、その社会が屈服するのです。さらに、国家や世界が反対しても、最終的には国家や世界が屈服する日が来る ということを、皆さんは知らなければなりません。


このように見たとき、極めて小さな個体を全世界に展開した形が歴史の動きであるという事実を、理解しなければなりません。


24


今日の人間は、出発の時点からすでに喜びというものを味わうことができませんでした。この地上を中心として幸福を歌うことができませんでした。


太古の昔から今日に至るまで、6000年の長きにわたる歴史の中で、良心的な人間が天地を前に誇りを持ったことが一度でもあったでしょうか? そのようなことがあったでしょうか?


良心的な人ほど、苦しい生活を送り、虐げられ、裂かれ、殺され、踏みにじられる哀れな人生を歩んできました。 しかし、彼らがそのような苦難の中でも希望を持ち続けたものは何だったのか? それは、良心を中心にして永遠に喜ぶことのできる「その一日」、その「たった一日」を待ち望んでいたのです。


このようにして、私たちの祖先は血の祭壇を築いてきました。 倒れてもまた立ち上がりました。個人が倒れれば、個人を結集して民族へとつなげ、民族が倒れれば、民族を結集して世界へと広げてきたのです。
これこそが、神の摂理の歴史 でした。


25


見てください。アダムが堕落したとき、神は カインとアベル を中心にして新たに摂理を進められました。カインとアベルが崩れたとき、ノアの家庭 を中心にして摂理を進められました。さらに、アブラハム、イサク、ヤコブの三代を経て、ヤコブの家庭を中心に摂理が展開されたのです。


こうして、家庭を単位として世界的な民族へと歩みを進めたものが、イスラエル民族のエジプト苦役の歴史でした。イスラエル民族の代表者であるモーセが、その民族をまとめ、国家を回復するために、敵の地エジプトを離れ、カナンへ向かって進軍したのです。


個人は家庭を見つけるために戦わなければならず、家庭を見つけたならば、その家庭は民族を見つけるために戦い、民族を見つけたならば、その民族は国家を見つけるために戦い、国家を見つけたならば、その国家は世界を見つけるために戦い続けるのです。
このようにして、次第にその範囲は広がっていくのです。


個人が「勝利の基準」を立てることは決して簡単なことではありません。歴史的な個人となるためには、歴史的な非難と苦痛の中で勝利しなければならないのです。


26


ノアを見てください。
彼は120年間、今日の私たちが受ける以上の迫害を受けました。ノアが「人間ノア」として神の前に立つためには、120年という歳月を費やさなければならなかったのです。


ヤコブもまた同じでした。
ヤコブが祝福を成し遂げるまでの21年間、彼は苦難の中で戦い続けました。その戦いの中で、彼には友も一人もおらず、兄弟もおらず、両親もいませんでした。ただ一人で家庭を築いたのです。


そして、その家庭を基盤として民族を探し求める歩みが、エジプトへ入る路程であったのです。エジプトでの400年、それは民族が結集される期間でした。モーセが民族の代表として立ったとき、彼は民族を基盤として国家的な基盤を築かなければならなかったのです。


では、イエスとはどのような方だったのでしょうか? イエスは国家的な基盤を土台として、世界を探し求めるべき方でした。その使命を持って来られたにもかかわらず、国家と民族が彼を裏切ったため、イエスは十字架にかかられることになったのです。


27


したがって、再び個人から始まり、家庭を経て、民族を経て、国家を経て、世界的な次元にまで進まなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。


死にゆくイエスの前で、イスラエルは敵となりました。4000年間、神が苦労して選ばれたユダヤ教徒たちもまた、敵となったのです。本来、民族を基盤として世界を復帰し、世界的なカナンの地を復帰しなければならない責任があったにもかかわらず、民族の基盤が崩れたことで、4000年の歴史そのものが崩れてしまいました。


しかし、今日、全世界にキリスト教徒がどれほど多くいたとしても、イエスを中心とする家庭は存在していません。
ありますか?


イエス自身も、新郎新婦の位置を経て家庭を持つ時を迎えることができませんでした。では、この新郎新婦とは何を意味するのでしょうか? それは、天の前に立つことのできる「家庭的な第二の基準」です。


28


アダムとエバが堕落したことによって、家庭的な基準を確立することができなかったため、これを回復するための「第二の家庭的基準」が必要だったのです。その基盤の上で、イエスは天国の「家長」とならなければなりませんでした。


では、地上においてイエスは家長となられたでしょうか? 地上で最も重要な目的は、家長となることです。家長がいなければ、子供が生まれることはなく、子供がいなければ民が存在することはなく、民がいなければ民族や国家が存在することもありません。


今こそ、全世界のキリスト教徒たちは目を覚まさなければならない時です。世界のキリスト教徒たちは、どの国の民でもなく、どの民族、どの部族にも属していません。イエスが一つの家庭の家長となるためには、十二使徒たちが一つになり、イエスが地上で家庭を築くことのできる土台を準備しなければなりませんでした。
しかし、それを成し遂げることができませんでした。 そのために、世界的な救済の摂理を終結させることができなかったのです。


29


その結果、2千年間、イエスと聖霊は血と涙の試練を乗り越えてこられました。その目的はどこにあったのでしょうか? それは、「第一の基準」である家庭の基準を取り戻すことにありました。


新たなイスラエル、新たなヤコブの家庭を探し求め、その家庭的基準を民族的基準へと拡大し、民族的基準を国家的基準へ、国家的基準を世界的基準へと確立し、この世界を基盤として天国革命を起こし、天上に存在する地獄の世界までも解放しなければならないのです。


これこそが「再臨思想」です。


再臨主は、単に栄光を享受するために来られるのではありません。世界を基盤として、霊界に存在する地獄までも完全に滅ぼし、天宙的な天国を実現する使命を持って来られるのです。この使命が完遂されてこそ、神もようやく安息されるのです。


30


私たちには心があるにもかかわらず、その心の方向を知りません。混乱した主義や思想に縛られ、どちらへ行くべきか分からず、方向を見失っています。生活の中で生じる偏見によって、私たちの心は流されるままになってしまいました。


そのため、何が真実であり、何が正しいのかを見極めることができません。心の方向は本来、一つの起点から出発したはずなのに、最後には分かれてしまうのです。出発は正常であったとしても、最終的には分裂するのです。分裂するということは、折れ曲がることを意味します。
こうして、歴史は今に至るまで進んできたのです。


今日、民主主義と共産主義が対立し、戦いを繰り広げていますが、この主義だけでは世界を解決することはできません。私たちが心の方向を見つけられないのと同じように、今日の世界もまた方向を失っています。これが現在の世界の流れなのです。
そうではありませんか?


では、皆さん自身が「心の方向を決定する瞬間」とはどのような瞬間でしょうか? それは、心が天心とつながり、永遠に喜ぶことのできる縁を結ぶ瞬間です。


31


神が人間に心を与えた目的は何でしょうか? それは、神と人間が心を通じて一つとなり、共に喜びを分かち合うためです。この目的のために神は人間を創造されたのです。


方向が定まっていない私たちの心の基盤の上に、否定しようとしても否定できない、心に染み込む喜び――これが必要なのです。否定しようとしても否定できない、心の奥底から感じられる幸福感――これがまず成し遂げられてこそ、世界の幸福が実現するのです。


身体には限界があります。しかし、心には終わりがありません。したがって、心の世界には特定の枠組みがありません。宇宙観や何かしらの枠組みを超越しています。さらに、心よりもさらに大きなものが「心情の世界」です。心情の世界もまた、制約を受けることがありません。


心の世界は制約を受けることがあります。心は相対的な条件によって制約を受けますが、心情の世界は、誰にも制約されることがありません。


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親が子を愛する心を何が制約できるでしょうか? どれほど高い山のような障壁が前を塞ごうとも、その愛を止めることはできません。


心の世界は制約を受けることがあります。なぜなら、心の世界は相対的な立場にあるからです。しかし、心情の世界は主体的な立場にあります。


心は四方八方に広がるため、制約を受けます。しかし、心情の世界はそうではありません。
では、天の希望とは何でしょうか? 終末にイエスが来られるならば、このように語られるでしょう。


「天国はあなたの心の中にあり、天国はあなたの心情から成し遂げられる。」


「心の中にある。」だけで十分でしょうか?「心情から成し遂げられる。」と結論づけなければなりません。


33


皆さんが不幸を感じるのはなぜでしょうか? それは、心の中心と調和できる立場に立てていないからです。


どれほど外的な苦難が多くても、心と調和し、喜ぶことのできる立場にあるならば、その人は幸福な人です。


では、なぜ不幸を感じるのでしょうか? それは、私の心を動かすことのできる「不変の心情の中心」を持っていないからです。その原因は、まさにそこにあるのです。


皆さん、世のものをつかみ、それを喜んでみてください。いつか必ず終わりが来ます。どれほど心が良く、どれほど心情が良かったとしても、それは必ず終わる運命にあります。


心に明確な中心がない限り、そこには悲しみの感情と喜びの感情が混在します。また、身体を中心にしても、明確な中心がない限り、身体が楽しめる感情があると同時に、悲しむ感情もあります。このように、すべては相対的に成り立っています。


私たちは、心が悲しみに満ちた人生の道は歩んできましたが、心が真に楽しめる人生の道を歩んだことはありません。そのような人生の道を見つけることができない堕落した人間は、哀れな人間であり、呪われるべき人間であり、審判を受けるべき人間であることを、はっきりと知らなければなりません。


34


では、今こそ私たちは、この道を見つけるべき時です。天の目的が終末において人間を審判し、滅ぼすことにあるのではないとするならば、私たちは「本郷の主人」「本郷の家庭」「本郷の社会」「本郷の国家」「本郷の世界」「本郷の天宙」を持たなければならないのです。
もし、それを持つことができなければ、神は審判を下されるのです。


私たちが世の中を見渡すとき、身体を中心とした個人、身体を中心とした家庭、身体を中心とした社会、国家、世界はすべて存在しています。しかし、私たちの心はそこに満足を感じることができません。


心が求める世界、心が永遠に楽しめる主人と家庭、国家、世界が必要ではありませんか? もし、それが存在しないのならば、皆さんの心がなぜそう感じるのでしょうか? 


皆さんの心が善へと向かって動くのは、創造的な何らかの力を持っているからではありません。力というものは、それ単独で作用するものではありません。相対するものがなければ、力は作用しません。化学的な現象を見ても、物理的な現象を見ても、すべてがそのようになっています。


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否定できない明確な良心の作用の実態を見つめるとき、私たちは悲しみを取り除き、喜びを追い求めていることに間違いはありません。「喜ぶことのできるその時」が、人類の希望の時であり、人類の幸福の時であることを知らなければなりません。したがって、すべての問題はそこへと帰結されなければならないのです。


今日、いわゆる民主主義や共産主義が対立し、世界を支配しようとする政策を模索していますが、これではいけません。では、解決はどこでなされるべきでしょうか?


それは、堕落する前のアダムとエバの姿、すなわち、神を中心として喜び、神の声を聞きながら楽しんでいたその姿に戻ることです。


「神は私の永遠の主人であり、私の家庭の家長であり、私の民族の主であり、私の国家の主であり、私の世界の主である」と確信し、この世界の何ものとも交換することのできない、唯一絶対の私の神だと言える基準が確立されるならば、この地上に幸福の楽園が訪れるのです。


私たちの心の世界は、喜びを感じ、調和し、共鳴することはできますが、所有することはできません。互いに通じ合い、応じることはできても、それを掴み取ることはできません。


本来の愛とは、人間の愛ではなく、永遠不変なる神の愛です。神の愛に触れ、神を私の主人として迎えるその瞬間に、私は神と一つになるのです。


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神と私が共に喜びを分かち合うことのできる場に入るとき、私は世界を征服する力を持つことになるのです。私が神と共に喜ぶその場は、天上天下のすべてを所有して喜ぶこと以上の歓喜を味わう場であるのです。


もし人間がそのような体験をしたならば、この肉体の五感を通じて感じるあらゆる刺激は、もはや問題ではないのです。


では、神は私の心を中心にどのような歴史を進めてこられたのでしょうか? それは「宇宙開発の歴史」です。神は 宇宙開拓の歴史を示し、私を導いてこられた ということを、皆さんは忘れています。


では、神は どのような目標のもとで皆さんの心に命じてこられたのでしょうか? 「宇宙的な存在になりなさい。」「宇宙を抱くことのできる存在となり、宇宙のすべてを土台として成長しなさい。」


このような存在となることを求め、神は私たちを導いてこられたのです。


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だからこそ、「愛しなさい」と言われたのです。 悪しき人を愛し、善き人を愛し、万物を愛し、天地すべてを愛しなさい、と。 そうではありませんか? なんと痛快なことではないでしょうか?


しかし、人間はこの本質的な理念の内容を失ってしまいました。 今こそ、心が喜びを享受できるようにならなければなりません。心が喜ぶと同時に、身体の細胞一つ一つまで喜ぶべきであり、心が受け取ると同時に、細胞一つ一つまでそれを感じ取るべきなのです。
そして、その喜びと感覚を、自分が向き合う世界全体にまで反応させることができなければなりません。


このような内容を持ち、このような作用を生み出すことのできる人こそ、6千年間、神が探し求めてこられた人間であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。


もし、私たちに心があるならば、その心が描く理想の人間とはどのような人でしょうか? 世界が求め、国家が求め、宇宙全体が望む人間とはどのような人でしょうか?


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それこそが、先ほど述べたような人間なのです。そのような人にとっては、たとえ征服される立場に置かれたとしても、無限に感謝することができるのです。そうではありませんか?


私が無限に犠牲を払っても、それを喜んで受け入れることができるのです。そのような人々が増えれば、地上天国は実現するのです。


神の息子・娘とは、そのような人なのです。与えても与えても、無限に与え続け、また与えたくなり、無限に犠牲を払っても、さらに犠牲を払いたくなるのです。


親の愛も同じではありませんか? しかし、神の愛は、それよりも何十倍、何百倍も大きいものなのです。


皆さんの心が求め、思い描くその世界は、まだ到来していません。心情的なその世界と、地上に生きる人間の心が結びつく「その日」が訪れなければなりません。


その日を通じて、絶対的な審判の基準が地上に立つ時、すべてが終わるのです。その心情を基盤として、審判が行われるのです。


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だからこそ、キリスト教は「心の宗教」を超えた「心情の宗教」なのです。神は「心の主人」ではなく、「心情の主人」です。


どのような悪党がいたとしても、心情を通じて湧き出る神の愛を阻むことはできません。その愛の波が押し寄せるとき、誰もがそれを喜ぶのです。サタンでさえ、悪魔でさえも、その愛を喜ぶのです。


しかし、彼らはその愛を好みながらも、それを受け取ることのできない暗黒の立場に立っているのです。人類は、この立場を自らの心によって必ず開拓しなければならない運命にあります。では、どのようにしてそれを開拓するのでしょうか?

皆さんの進むべき道はすでに明らかです。皆さんのもとには、心を通じてつながる縁があるでしょう。物質を通じてつながる縁があるでしょう。人を通じてつながる縁があるでしょう。そして、言葉を通じてつながる縁があるでしょう。

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さらに、自分でも気づかぬうちに、心情を通じてつながる縁が生じるでしょう。心はこの世のすべてを超えて、そうした縁を切望しているのです。そのような縁が、ある時、ある場所で現れることを願い、探し求め、待ち望み、求める者には、神が必ずその縁を結んでくださるということを忘れてはなりません。

道の道を歩む者は、天心に向かって進む者であるため、どんな言葉にも無関心ではいられません。敵が剣を持って私を突き刺そうとするその瞬間さえも、無視することはできません。それは、そこに何かしらの縁があると考え、それを受け入れなければならないからです。

しかし、「ああ、これは……」と躊躇する者は道を歩むことはできません。この歪んだ世界において「良いもの」として現れるものは、必ずしも天のものではありません。むしろ、この歪んだ世界に「悪いもの」を持って現れる方こそが天なのです。

このような問題までも大きな心で受け止め、縁の価値を見極め、理解することのできる人こそが、心情を開発する第一歩を踏み出すことができるのです。

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すると、周囲の人々と接したり、何かを聞いたり見たり感じたりするすべてのことが、善であるか悪であるかを、心で知ることができます。何かの言葉を聞くとき、何かの縁によって誰かと出会うとき、心が自然と引き寄せられます。どのような真理、どのような教会、どのような宗教があったとしても、考えなくても自ずと心が引き寄せられます。そうではありませんか?

心は、自然界の法則と同じです。磁石の針が常に南北を指すように、私たちの心もそうなっています。心にプラスの要素が現れると、それに対して相対的なマイナスの要素がいつもそこに引き寄せられます。

もし皆さんが信じているその宗教に、身体が引き寄せられる感覚を感じたことがないならば、真の信仰者とは言えません。その道に対して、身体が引き寄せられ、心が引き寄せられ、心情が引き寄せられることを感じられなければ、その道を信じる者とは言えません。そのような人は、いつかその道を信じられなくなるでしょう。

では、今日の全世界の人類は何を探しているのでしょうか? それは「理念」を探し求めています。では、理念は何によって解明されるべきでしょうか? それは「真理」によって解明されるべきです。 では、真理とは何でしょうか? それは「御言葉」です。

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私の心が永遠に喜び、求め続けることのできる真理は、百回聞いても、千回聞いても、新しい味わいを感じるものです。皆さん、真理の中で最も本質的な真理は「食事の味」と同じです。昨日食べても、今日食べても、70年、80年同じご飯を食べ続けても美味しいと感じるように、真理もまたそうあるべきです。
これをありがたく思わなければなりません。皆さんは「言葉」を通して、人間には二つの世界があることを知っています。

イエスは言われました。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉で生きる。」したがって、身体を満たし、私の心情を満たすことのできる真理でなければなりません。そのような言葉であれば十分ではありませんか? だからこそ、皆さん、この時はじっと座っている時ではありません。方向が逆転する時が来ました。

一つの主体に向かい、一つの方向へ進まなければなりません。横を見たり、脇道へそれて進めば障害が生じるため、すべてを断ち切って進まなければなりません。それゆえに、すべてのものがこれを異端視しているのです。今は、方向が逆転する時です。天が地となり、地が天とならなければなりません。人間が主体とならなければなりません。変革の時なのです。

43

変革の時であるがゆえに、私自身もまた天と地の中心的な存在、万有宇宙の主人公とならなければなりません。万有宇宙の主人公は天ではありません。神が人間を創造された目的は、ご自身の権限を代わりに担う「万有宇宙の主人公」として人間を立てるためであったことを、皆さんはよく知っています。

皆さんがその基準に至るためには、今こそ、自らの中心から解決し、心の奥底から体感できる基盤を築かなければなりません。私の心から、私の内奥から解決できる道を探そうとするならば、一つの方向を定めなければなりません。その方向を見つけたならば、次に何をすべきでしょうか?

その方向を中心に、四方を見渡さなければなりません。四方を探り、そこがどのような状態であるかを知り、その後に天性を仰がなければなりません。このようにして初めて、自らの位置を知ることができるのです。

今の宗教、今の主義は、私の心と心情と理念の完全な基準にはなり得ません。なぜなら、新しい時代が来ると言われているからです。したがって、それらはすべて過ぎ去ることになります。

44

今の宗教や主義が、私の心と心情と理念の完全な基準になり得なかったため、今こそ新しい何かが私の中心となるべき時が来ました。
今はまさにそのような時なのです。

あなたも私も、同じ立場にいます。イエスは 「私はあなたたちを僕とは呼ばず、友と呼ぶ」 と言われたように、あなたも私も、同じ立場にいるのです。宇宙が偉大なのではありません。宇宙と私は肩を並べなければなりません。

どの宗派も、四方を備えていないため、一方的な側面を持っています。したがって、天心を中心とし、心情の中心を確立しようとする者は、自らの偏った方向性を批判し、四方を備えた人間にならなければなりません。

心と身体がいつまでも戦い続けるようではなりません。心が身体を完全に掌握し、それを四方に導くことができる基準を確立しなければなりません。そうでなければ、完全なる解決点は見出せません。

45

だからこそ、皆さんは今、じっとしている時ではありません。しかし、もし 「じっとしていろ」 と言われたら、何ができるでしょうか? 「私は優れている」 「私は学者である」 と誇ることをやめなさい。
今日、学者と呼ばれる者が多くいますが、その中でも科学者はまだ良い方です。しかし、それ以外の学者と呼ばれる者は、ことごとく逆さまにされるでしょう。大声を上げるべきではありません。そのような人ほど、大きな責任を背負っているのです。

自らの仮想的な構想のもとで人心を結びつけ、天道の前に影響を与えた者は、あの世に行けば永遠なる訴えを受けることになることを知るべきです。

皆さん、英雄になりたいでしょう?
しかし、生まれながらの英雄でない者が無理に英雄になろうとすれば、大きな雷が落ちることになります。立派に出世しようとする者もいますが、天が許さない出世を遂げたならば、結局は滅びることになるのです。
そして、その子孫も滅びてしまうのです。

だからこそ、突然の暗殺事件や、刺殺などの残忍な事件が起こるのです。「お前はその地位にふさわしくない!」という理由で……。これも天がそうさせるのです。 天法がそのようになっているのです。

46

今、私たちは欲望を捨て、自分自身を見つけなければならない時です。心と身体が共に喜び、楽しみ、歌うことのできる「私」を、神は待ち望んでおられます。

「おお、お前の手を触ってみよう!」と言って、神が手を握り、喜ばれる感覚を感じたことがありますか? ここにいる皆さんの心は、そのようになっていますか?

神は、私たちの心が活動できるようにし、身体の働きを促すために、実在の世界を創造されました。万物を前にして歌い、万人を前にして歌い、未来の世界を前にして歌い、天上の世界と地上の世界すべてを前にして歌う私。

そのように心から楽しんでいる姿を見て、神が訪れ、喜んで迎えられるような存在になってみなさい。これは空想でもなく、幻想でもありません。現実にそうなのです。

47

ここで話している若い私も、それを実感し、その感覚が間違いないことを知っているからこそ、天地が反対し、天と地がひっくり返ることがあったとしても、この道を歩んでいるのです。

今の時代は何の時代でしょうか? 「終末の時代」と言われています。しかし、その基準を確立した人間がいない限り、最終的な審判は下されません。したがって、審判の日は訪れないのです。

宗教の真理とは、どのような真理であるべきでしょうか? ただ内容を説明するだけの真理は必要ありません。身体が「そうです。」心が「そうです。」心情が「そうです。」と言えるものでなければなりません。そのような主義、そのような理念が必要なのです。

もし、そのようなものが私たちの周囲で聞こえてきたり、縁を持つようになれば、皆さんの心は自然とそこへ引き寄せられるでしょう。何かの事情があっても、「そこへ行かなければならない」と身体が求め、条件がすべて整っていたとしても、すべてを否定し、すべてを捨ててそこへ行かなければなりません。

時間と空間を超越して私たちを引きつける言葉があるならば、皆さんはすべての荷物を整理し、まるで旅人のように簡単な荷物を背負い、ただそれに従って行ってみなさい。決して滅びることはありません。その者こそ、歴史とともに残るのです。

48

そのような者になるためには、皆さんは過去の姿のままではいけません。ふさわしくない仮面を捨てなさい。宗教家は宗教家の仮面を脱ぎ捨てなさい。良心家は良心家の仮面を脱ぎ捨てなさい。宗教のあらゆる看板を取り払ってしまいなさい。

皆さんは今、統一教会に通っていますが、私は統一教会の看板を外す日を待ち望んでいます。統一教会の看板を掲げているのは、相対的な条件があるためであり、対立する者がいるために必要なのであって、本来は取り払うべきものなのです。

皆さん、心の世界に何の看板が必要でしょうか? 心情の世界に何の看板が必要でしょうか? ただそこに存在するだけで、自らが知るものなのです。ただそこに存在するだけで、自らが行うものなのです。それこそが、解決の第一基準なのです。

皆さん、今までどのような生活を送ってきましたか? 今日、皆さんはどの位置にいますか? 自分が二つの世界の狭間でもがいている存在であることを肝に銘じなければなりません。

49

ここで自分が本当に楽しむことができるのは、身体が導く方向ではなく、心が導く方向なのです。

今日の世界を見渡してみると、身体が導く方向、外的な条件は満点です。完全に整えられています。数百点分も整えられています。個人を超え、家庭を超え、世界的な形へと広がっているため、数百点分も備わっているのです。しかし、心が導く方向は、そのうちの数パーセントしか満たされていません。

これを考えるとき、天はこの世界を審判したくなるのです。そんな天の悲しみは、どれほどのものでしょうか? その悲しみを知りながらも、私たちは心が喜べる道を求めて進まなければなりません。だからこそ、過去に道を信じた人々は、首をはねられても耐え抜いたのです。

私は、皆さんが統一教会に来ることを望んでいるわけではありません。しかし、ここで語られる真理、ここで語られる言葉の前に、自分の身体がひれ伏し、心がひれ伏し、心情が屈服するならば、それが最後のものだと知るべきです。神とは、どのような方でしょうか? 私の身体の永遠なる主人です。私の心情の永遠なる主人です。

50

本然の世界では、どれほど愛し合う夫婦であったとしても、夫が妻よりも神を愛するとしても、妻はその夫を恨みません。そのようにできているのです。また、妻が夫よりも神を愛するとしても、夫は「なぜ私より神を愛するのか」と責めることはありません。むしろ、それを見て喜ぶことのできる世界こそが天国なのです。

この世のどのような愛、どのような価値をも超越した主体的な立場におられる神は、私の身体の永遠なる主人です。身体の永遠なる主人である神の懐、その楽園にいるならば、たとえ死んでも構いません。私の心の永遠なる主人、私の心情の永遠なる主人が神であるならば、それ以上、何を望むでしょうか?

では、皆さんが心情で思い描く世界とは、どのような世界でしょうか? それは、視覚や聴覚といった外界の感覚を通じて認識される世界ではありません。五感を通して認識される世界によって作られたものではありません。

それは、神の愛の世界、情の世界です。その世界では、極めて小さな微粒子を通じても、神の愛を感じることができる情の世界なのです。皆さん、それを理解しなければなりません。理解できなければなりません。

51

イエスも言われました。「耳ある者は聞くがよい。」(マタイ11:15)と。

通念的な感性では、主体的であり、本来の理念世界を感じ取ることはできないのです。私たちは身体で歌わなければなりません。そして、心で歌わなければなりません。私たちは、心情で賛美しなければなりません。

何を賛美するのか? それは、私の主人であるお方を。その方は誰でしょうか? それは、神です。その神こそが、私の父なのです。私の父であるというのです。 私たちは、その神の息子・娘です。だからこそ、私たちは神を前にしてこう言わなければなりません。

「おお!この方を、世のどんなものと交換できるだろうか?」「世の何が、この方との縁を断ち切ることができるだろうか?」

52

人間が良いとする愛も、人間が良いとする欲望も、人間が良いとする富や栄華も、問題ではありません。すべての被造物、すべての存在が、永遠に永遠に「主」として仰ぐその神を、私の父として持つことができたならば、それ以上の幸福がどこにあるでしょうか? 名もない人物の妻となるだけでも誇り、何か少しのことで大騒ぎするものです。しかし、神が私の父なのです。

この喜びは、天地のいかなるものとも交換することはできません。その境地において、「6000年の苦難の道を歩み、私を探し求めてこられた神よ、どれほど苦労されたことでしょうか?」と、父なる神を慰めることのできる息子・娘を、天は探し求めておられます。このことを知らなければなりません。

このような息子・娘を生み出すために、神は数世紀にわたり、何千万回と私たちの先祖を動かしてこられました。しかし、人間はどれほど多く、神を裏切ってきたことでしょうか?
私たちは人心を裏切り、天心を裏切った存在であることを知らなければなりません。さらに進んで、天倫、父の心情を裏切った存在なのです。

53

私たちは、この罪を悔い改めなければなりません。 何が天倫を蹂躙してきたのでしょうか? この身体が蹂躙してきたのです。だからこそ、私たちの身体は罪に染まった身体なのです。敵は、皆さんの目の前に現れる何かではありません。皆さん自身の身体こそが、敵なのです。この身体を抑え込まなければなりません。自らを裁くことができなければなりません。

だからこそ、道の道を歩む者たちは「逆理者(ぎゃくりしゃ)」なのです。説法も「逆説法」です。逆説を主張し、逆理の路程を歩み、逆理の理念を求めているのです。皆さん自身は、これまで何に命を懸けて戦ってきたのでしょうか? 統一教会に来る人々の中には、「統一教会」の名を掲げて戦っている人が多くいます。しかし、皆さんは「自分自身」を懸けて戦わなければなりません。

54

イエスは十字架を背負って歩まれるとき、女性たちが胸を打ち、悲しみながら泣いてついてきたのを見て、こう言われました。「エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろ、あなたたち自身とあなたたちの子どものために泣きなさい。」(ルカ23:28)

まず、自分自身の問題が解決されなければなりません。 問題は自分自身にあるのです。誰かを非難し、誰かを恨んではなりません。自分自身を責めなければなりません。

虚しい自分の姿を清算し、本然の心の友、本然の心情の友であるイエスを、心の父、心情の父、さらに進んで身体の父、宇宙の父として受け入れなければなりません。その道を歩まなければ、皆さんは終末の審判を免れることはできません。そのためには、世を忘れることのできる「喜びの条件」を探し求める道を進まなければなりません。

その道を行くためには、自らの心を導いてくれる「言葉」が必要です。心情が動かされる真理を持っているかどうか、そのような宗教を持っているかどうかによって、真実か偽りかが決定されるということを、はっきりと知るべきです。

55

<祈り>

お父様! どれほどのご苦労をされてこられたことでしょうか? たった一つの生命を見出し、立てるために、六千年の歳月がかかりました。

お父様、あなたは一つの家庭を築くために、そのすべての生活の準備を整えられました。今、世界のすべての外的な環境も、あなたが喜ばれることのできる楽園へと造られつつあります。主義や主張も、二つの道に分かれ、決定を迫られる立場に置かれています。

このように、私たちの心の世界においても、二つの戦いを一つに結び、決着をつけなければなりません。敵を打ち倒し、勝利の旗を掲げ、世界に向かって総進軍することのできる私たちとならせてください。

そして、天上の敵を裁くその日、「私はお父様の息子・娘である!」と誇ることのできる私たちとならせてください。どうか、父の恵みが、ここに集う息子・娘たちの心の奥深くにまで染みわたることを許してください。お父様、心から願い、求めます。

56

私たちはこれまで、敵に利用されながら生きてきました。心が喜ぶことのできる本然の理想へ向かって、本然の世界へ向かって、本然の主人へ向かって、戦い進むことのできなかった過去を清算し、この日、この時からは、天心へ向かって走ることのできる息子・娘とならせてください。お父様、心から願い求めます。


世界は、必ずやそのような一つの理念の世界へと終結することを、私たちは知っております。お父様の心情と私の心情が一つとなり、共に歌うことのできる場所こそが天国であり、理想の楽園であることを、私たちが悟ることができますように。そして、お父様の心情を讃える家庭が、全世界に現れるようにしてください。


それゆえに、自分の両親の愛に酔いしれる以上に、お父様の愛に酔いしれ、自分の子供の愛に酔いしれる以上に、お父様の愛に酔いしれ、その愛を讃え、その愛を楽しみ、その愛の幸福を感じることができますように。このような環境が実現することこそが、お父様の御旨であり、私たちの願いであることを知っております。その御旨と願いが、必ず成就されますように。


お父様が喜び、私たちも喜ぶことのできる生活環境を、私たちの人生が終わる前に必ず成し遂げなければなりません。どうか、この時からその成就が始まりますように、心から願い求めます。


すべての縁と、すべての言葉を通して、すべての人を通して、いかなる物質を通してでも、心が動かされ、心情が動かされる場を消さずに、それに従い、それを目指して走ることのできる、あなたの息子・娘となることを許してください。


お父様、共にいてくださったことを感謝いたします。すべての御言葉を、主の御名によってお祈り申し上げます。 アーメン。

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文鮮明先生 御言選集 7-8

2025年02月01日 15時07分28秒 | 学習
文鮮明先生 御言選集 7 - 8. 天を知って奉る者になろう(1959年9月13日)
天を知って奉る者になろう
1959年9月13日
マタイによる福音書 10:24-29


1
<祈祷>


今お読みしたこのみ言葉は、真理の福音を宣べ伝えるために立ったイエスが、ご自身の深い心情に秘められた事実を発表されたみ言であることを、私たちは知っていますございます。


お父様、4千年の摂理歴史を締めくくり、選ばれたイスラエルの多くの民を踏まえ、あなたの前に勝利の祭壇を見据え、大祭司の名分で栄光の祭壇を積み上げ、すべてを復帰して敬意でなければならなかったイエスでしたが、地上においてその歴史的な使命を完遂する次に去られたことも、私たちは知っております。


お父様、歴史はイエスその後2千年が経ちましたが、そのときのイエスの御姿を思い出せるこの時間となることをご容赦ください。この時を「終わりの日」と言いました。罪悪の要素を清算する時期が近づいていることを、私たちは日々の生活の中に現れる現象の間ずっと悟っております。


すべての動きを見るときも終わりであり、世の中のすべての現象を見るときも終わりであることがわかります。なければ、感じなければならぬ、誇張らなければならないものがあるとすれば、それは世のどのような権勢であっても、物質的などのようなものであっても、人格的な何かでもありませんただひたすら、2000年前に来て続いたイエス・キリストの姿に似ている者とならなければいい。


私たち自身が作らなければいけないという事実を、私たちが思いつくようにしてください。


2


その当時のイエスは、外見上は取るに足りない姿でした。 洗礼者ヨハネよりも足りない姿で現れたイエスでした。 新しい法である洗礼を受けるために群がるイスラエルの民の前に現れた洗礼者ヨハネは、ユダヤ人たちの目に非常に素晴らしく映りました。イスラエルの民は彼を予言者としてまで仰ぎました。


イエスがこのようにそのユダヤ人の前に、洗礼者ヨハネよりも時代人格が劣る者のように現れたとき、人々は彼を信じることができず、彼は行く先々で反対を受けました彼に正義者たちは、ごくわずかであり、そのほとそのことを思うとき、その時代にイエスを独り子として知り、苦しい主として信じ、主として受け入れることのできる真の天の子女がいなかったという歴史的な悲しみを感じます。


人間的にも社会的にも何の地位も持たず、厳しい環境の中にいたイエスを、神の独り子として信じ、苦しみ主として受け入れ、主として受け入れることのできる人々が必要であることを、私たちは知ってます。


この時間、当時の心情を振り返りながら、イエスの前に謙虚にひれ伏し、父なる神が直接愛し導いてくださる仲間の中で、その教えと戒めを受け入れることができる息子・娘となれるよう、心から求めたい願います。






<祈祷>


今、父の御言葉を持って語っています。語る人の心と見る人の心に隔たりがあるとすれば、この場はたまたまサタンの舞台となり、私たちの生命の門を閉ざしてしまったりそのようになるのであれば、何らかの御言葉を聞かない方が良いことを、私たちは知っています。


3


どうか、心の扉を大きく開き、自らの主張や主張をすべて捨てて、父の生命の働きに自分の体と心を真剣に、父が動けるままに動き、感じ、体験することのできる時間とならしてください。


そして、再創造の御言葉の力によって、ここに集う人々が生命の核心を自覚し、父の御旨の前に生命そのものとして立つことができる時間となるよう導いて協力してくださることを、心から願いを求めますます。


すべてをお決めいたしますので、どうか主が導いてください。愛する兄弟姉妹も、この時間、同じ恵みの場となります様に願い、主の御名によってお祈りいたします。


イタリアで最も孤独な人とは、前を見ても、左右を見ても、あるいは後ろを振り返っても、自分を冷静に考えてくれる人が一人もいない人です。いないことほど、孤独で悲しいことはないでしょう。


皆さんは、自分のことを理解しているつもりかもしれません。


4


私たちには「心」があります。その心は、より高い理念を目指し、昼も夜も、時間や空間を超えて、私たちのある方向へ向かって駆り立てています。働きを感じながらも、なぜ自分がそうした衝動を持っているのかを説明できないままでいます。


皆さんは、「私のことを理解してほしい」「私を信じてほしい」と言っていたでしょう。 そして、自分が考え、自分が主張するすべてのことが、かなり動きと注目して、意味を持つことを願いながら、これまで生きてきたという事実を否定することはできないはずです。


しかし、自分を信じてほしい、自分を理解してほしいと求めるとき、自分を確固としたものとして定める、ほんの天倫の大目的と注目した位置に自らを考えた交渉、その要求をしているはずだうか。今はありません。


このように考えるとき、今日の自分の価値はどこで決まるのでよろしくお願いします。万象を動かすことのできる主体、あるいは主導者となることを心に願い、生活においても行動においても、それを実現しようとします一歩進んだ分析し、冷静に批判する過程を経ることなく、大きな目的を見据えて


天倫の目的を果たされたとしても天があるとしても、自分がその役割を果たせなければ、天の前に堂々と立つことはできません。


5


私自身の信念、私自身の希望、私自身のは理想誰のためなのか。


それは自分自身のためのもののように思えますが、実際には自分とは関係のない立場に置かれています。が、その心の奥底では、どうしても迷いが込み上げ、苦悩の波に飲み込まれることは避けられません。


そのため、歴史上の聖賢たちは、意識する周囲「理想とともに喜び合える自分を探そう」「理想とともに生き、共鳴できる自分を知ろう」といった標語を大切にしました。しかし、彼らは求め続けたにもかかわらず、最終的にその答えを出すことができませんでした。の日が訪れることを願っているのです。


人間だけでなく、今日のすべてのものは相対的な関係を持っています。


天があれば地があり、身体があっても心があります。このような相対的な世界観を持って考えるとき、心の動きがあるなら、その心を動かすことのできる主体的な存在もそれは「絶対者」と呼ぶか、「神」と呼ぶか、「創造主」あるいは「天」と呼ぶか、その名前は問題ではありません。存在が必要であるという事実だけは、一時的に否定できないのです。


5


当事者が存在するなら絶対、その者は私の心と少数縁を結び、時の流れを超えて歴史の中で活動し続けているのです。そのためにこそ、人間は真実を求めます、より良いものを願うことができます。


何か一つの事実を批判したり判断しようとするときも、それを比較するための相対的な条件を設定しなければなりません。また、推論を行ったり、あるいは理論を展開しようとします時には、主流的な対立条件を立てずには、その論理は成り立ちません。


なぜなら、自分自身を完全に見るために、自分を犠牲にするためには、比較し判断することのできる相対的な基準が必要です。そして、それこそが、人間が信仰の対象としている者です。


この絶対者と自分が関係を持ち、その違いを比較し、論じることによって、自分がどのような存在なのかが危うくなる。支配し、動ける絶対的な存在、あるいは主体となる何かがあるという事です。


宗教や哲学が究極的に追求する目的も、これは絶対者なのです。


6


人間は、その者絶対を探し求め、自分の心と永遠の関係を結び、生活の理念、世界観、宇宙観をその絶対者の理念と一致させ、共に生き、共に喜びを分かち合うことのできる神を慕い求めながら、歴史を動かす、このような道を最大限たのできが、多くの聖賢や賢哲たちであり、また、これまでの歴史多くの幼い宗教人たちが目指してきたものでもあるのです。こそが、この絶対者との真の関係なのです。


私を知るためには、相対的な位置にある存在の価値を知らなくてもなりません。まず、どこにおいても私が相対的な存在であることを感じる立場に


天が私たちの前に来るとき、いつでも真正面から現れます。 善というものは、常に横から入ってくるのではなく、真正面から現れるのです。


では、その「知る」という基準をどこに言うべきでしょうか?間違ってくれる一つの基準であることを、私たちは知らなければなりません。


今日、多くの信仰者たちが、自ら「私は天を知っている」「私は天を信じている」「私は天に頼っている」と自負し、自らを慰めています。 「その知識はどこから生まれたのか?」「その信仰はどのような環境の中で育まれたのか?」「天を信じて生きているというその姿は、どれよう「な環境にあるのか?」と問いかけてみたとき、それが心と永遠に相対する位置で動いていないのであれば、それはすべて天が認める立場に立たず、天が信じることのできる立場にも立っておらず、天が関与できる立場にも立っていないということを、皆さんは覚えておかなければなりません。


7


神はイスラエル民族を選んで民として選ばれました。 多くの民族の中から、神だけを愛する民族を探し、立てられたのです。では、天がこのようにして一つの民族を探すとき、どれ天は真正面から向き合いながら、イスラエル民族を選び導かれました。


天は、真正面から対面距離を縮めながら、「あなたが私であり、私があなたである」と環境の歴史を導いてこられました。 天は、人間と直接関係を結ぶ、人間が天共に生きることができる環境を優先するために、歴史を導いてこられたのです。


イエスはこの地上に来られ、「私があなたの中にあり、あなたが私の中にあり、父が私の中にあり、私が父の中にあることに、父はあなたの中にもおられる」と言われました。


神が選ばれた民族を立て、導いてこられた目的は何でしょうか? それは、「あなたと私は一つである」と言える位置にまで進むためです。神はこのような「知る」という関係を求めてこられたのだということを、私たちは知らなかったのです。


人間は堕落によって、神と真正面から向き合うことのできる位置を学びました。


8


本来の人間の価値とは、神に対して希望においても、事情も、心情においても、真正面から向き合うことのできる存在です。


しかし、人間は堕落によって、その希望が正しくなく、その事情が正しくなく、その心情が正しく消えて、天から追放されました。追放されたのです。その無数の人類は、正しい希望、正しい事情、正しい心情に立って見ることができる事が出来ていません。


つまり、「私は天上天下において、天を動かす、地を動かすことの存在である」と言う人は、歴史の中にいないのです。そのため、皆さんの希望は歪み、出来事は不正確で、心情は反対の方向を向いているという事です。


「私たちはどのような後孫なのか?」と言えば、根本的にその出発点から、異なる希望、異なる事情、異なる心情が絡み合い、交わって繁殖してきた後孫であるということです。すなわち、神の前に直立して立つことができる人間にはならなかったということです。自分の希望、事情、心情がどのような曲折に縛られ、絡み合っているのかを知らないなら、それは自分自身を理解していないということです。


世界で最も孤独な人とは、前を見ても、左右を見ても、あるいは後ろを振り返っても、自分を理解できる人がいない人です。自分を理解している人がいないこと以上に、孤独で悲しいことはありません。


9


私たちには心があります。 その心は、より大きな理念に向かって、昼も夜も、時間と空間を超えて、私がある方向へ突き出しています。


皆さん、「私を理解して欲しい」「私を信じて欲しい」と言いたいでしょう。 そして、自分が考え、自分が主張するすべて自分自身が、ある程度は動機と縁を結ぶことを願いながら生きてきたという意見も否定できないはずです。


そう考えるとき今日私の価値はどこで決定されるか。万象を動かすことができる主体、あるいは主動体になることを心に願い、生活に、そして行動で動かしていこうとする自分をもう一度分析してみて、冷静に批判する過程を経る前には大目的を成し遂げることができません。天輪の目的を成し遂げようとする空がある 割振台 自分がそんなことをしなければ、空の前にもたれが立つことができません。天倫の前に頭を上げることができないことを、私たちは推理によって、あるいは論理的な立場から見ると否定できないでしょう。


自分自身の信仰、自分自身の願い、自分自身の理想は誰のためのものなのか。自分のためであるようで、自分とは無関係な立場にあります。このような悲しい境遇にあるゆえに、人間は理想と希望を抱いて生きていますが、その心中では悲しみが曲がりくねった曲折にぶつからないわけにはいかないということです。 そのため、歴史上に往来した聖賢たちは、「理想と共に楽しむことができる私を見つけよう、理想と共に動かし、決心して生きることができる私を知ろう」という標語を知らず知らずのうちに掲げ、また、これを探して立てようと彷徨ったという事実を私たちは聖書の御言葉を通してよく知っています。 このように彷徨ったが解決できなかったので、解決する日が来ることを私たちは願っているのです。


人間だけでなく、世の中のすべてのものはすべて相対的なものです。天があれば地があり、体があれば心があるのです。 このような相対的な世界観を持って考えるとき、心の動きがあれば、この心を動かすことができる主体的な何かしらの存在がなければなりません。 これを絶対者と呼ぼうが、神と呼ぼうが、創造主と呼ぼうが、あるいは神と呼ぼうが、その名詞は問題ではありません。 そのようなものがなければならないという事実だけは否定できないでしょう。


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何らかの絶対者がいるとするならば、その絶対者は私の心と何らかの縁を結び、時間をかけて歴史してきています。 そのような縁で、人間は真のもの、より良いものを願うことができるのです。


ある一つの事実を批判したり、判断しようとするときにも、比較できる相対的な条件を立てなければなりません。推理をしたり、何らかの論理を展開させる時にも、仮説的な何らかの相対条件を立てなければ、その論法は成立しないのです。


ですから、私を完全に知り、私を解明するためには、比較し、判断できる相対的な条件がなければなりません。 それが、人間が信仰の対象としている絶対者である神様なのです。 その絶対者と私が関係を結び、その違いを比較し、論破する時に、自分がどうであるかが解明されるのです。 そのような縁で、私の心があるとしたら、この心を支配し、動かす絶対的な存在、あるいは主体となるその何かがあるという事実を、皆さんはまず感じなければなりません。


宗教や哲学が探すべき究極の目的点も絶対者です。 その絶対者を探して、私の心と永遠の関係を結び、私の生活の理念、あるいは世界観・宇宙観が彼の理念と同じように動き、共に生きて共に喜ぶことができる神を慕い、探し求め、歴史を動かしてきた者たちが、数多くの聖賢現哲なのです。 さらに、数多くの宗教人たちなのです。 彼らが目的にして探すのは、そのことでしょう。


私を知るためには、相対的な位置にある存在の価値を知る必要があります。 私の心が作用するのは、私の心が自ら何らかのイデオロギー的な要素を作り出しながら動くのではありません。 まず、どこにいても私が相対的な自己であることを感じる位置に入る必要があります。


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天は私たちの前に来られる時、いつでも正面から現れます。善というのはいつも横から入ってくるのではなく、正面から現れるものです。


それでは、その知識の基準をどこに立てるのでしょうか。 正面から入ってくることが全万象を通じることができ、すべての認識を通じることができ、良心世界を動かすことができるとするならば、それが私を解明してくれる一つの基準であることを私たちは知らなければなりません。 そうすれば、人を見る時も違って見えます。


今日、信じていると自称する多くの信者たちは、自ら「私は天を知っている、天を信じている、天を頼りにしている」と自画自賛し、自信を持っていますが、知っているという「その知識はどこから来たのか、信じているその信念はどのような環境で信じているのか、天を信じて生きること自体がどのような環境にあるのか? と問われるとき、それが心と永遠に相対できる立場で動くものでない限り、それはすべて、天が認めることができる立場に立たず、天が信じることができる立場に立たず、天が干渉することができる立場に立たなかったということを皆さんは覚えなければなりません。


神様はイスラエル民族を選民として選びました。 多くの民族の中から神様だけを愛する民族を探し、立てたのです。 神様がこのように民族を探し、立てた時、どのようにされたのでしょうか。 正面から向き合いながら、イスラエル民族を探し、立てました。正面から向き合いながら、イスラエル民族を探し立てました。 天は正面から向き合う距離を短くし、「あなたと私、私とあなた」と言えるような環境に歴史を追い詰めて来られたのです。


イエス様はこの地上に来られ、「私があなたの中にあって、あなたが私の中にあり、父が私の中にあって、私が父の中にあるように、父もあなたの中にある」とおっしゃいました。 神様が選ばれた民族を立てて導いてくださる目的は何でしょうか。 あなたと私は一つである」と言える位置まで行くためです。直線上に引き寄せて、「私があなた、あなたが私」と言える条件を立てるためでした。 神様はこのような知の関係を求めて来られたことを私たちは知らなければなりません。


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人間は堕落によって、神様と正面から向き合える立場を離れてしまいました。 神様に接する上で、願いでも、事情でも、心情でも正面から接する人間が本来の価値のある人間です。


人間は堕落によって、その願いが正しくなく、事情が正しくなく、心情が正しくないために、天から追放されました。 追放されたのです。 追放されたのです。 先祖から今まで歴史の道のりを行き来してきた数多くの人類は、正しい願い、正しい事情、正しい心情に基づく冠を持てなかったということです。言い換えれば、「私は天上天下で天を動かし、地を動かせる自分を持っている」という人が歴史の道程にいなかったということです。 ですから、皆さんの願いはずれており、事情は間違っており、心情は反対の方向に向いていることを知らなければなりません。


私たちはどのような子孫なのでしょうか。 根本的に、その出発から違う願いと違う事情と違う心情に絡まって繁殖された子孫です。 つまり、神様が望む願い、神様が望む事情、神様が望む心情を持って神様の前に立つことができる人間になれなかったということです。 自分の願いと事情と心情がどのような曲折に縛られ、絡まっているという事実を知らなければ、自分を知らないということです。


ですから、堕落した人類の前に天は提示しました。 人間が願い、願うべきものは、地でもなく、地上のどのような偉大な聖人でもなく、神様だと! 天は、人間がこの世の事情に絡まって生きていることを拒否しました。 なぜかというと、それは偽りだからです。 そこで、天はこれに対する対策を立てて出て来られました。 この事情を回して天敵の事情に追い込もうという使命を、神に代わって歴史の路程で責任を持って出てきたのが宗教であり、この宗教を中心にして良心の路程を開拓してきたのが宗教人たちの生活でした。


皆さんの願いと皆さんの事情、さらには皆さんの心情を、皆さんは神様の前に向けましたか? 向けることができなかったということです。


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このようなことをご存知のイエス様は、この世界を見据え、全人類を神様の側に、つまり新しい願い、新しい事情、新しい心情の世界に回そうとされました。 そのような責任を負ってこの地上に来られたので、彼を願いの主人公、事情の主人公、あるいは心情の主人公、愛の主人公と言えるのです。


ですから、イエス様の前では、誰も堂々と私はこのような願いと心情を持っていると大声で言うことができないということです。 その願いが神様が持っている願いですか、その事情が神様がそう生きろと言われた事情ですか、その心情が神様を通して出てきた心情ですか」と問われるとき、そうではないということです。


今日、私たちにとって重要な問題は、人間の願いが何なのかということです。 これを知ってこそ、私を知ることができます。現在生きている人間の事情も知らなければなりませんし、また心情の問題もどうにかして知らなければなりません。これを知るためには、相対的な基準を探さなければなりません。 ところが、漠然とでもこれを人間の前に提示してきたのが宗教でした。堕落した人間の子孫である私たちは、天の前にどのような種族、どのような民族なのでしょうか。 天を裏切った民族です。神様の願いを妨害し、神様の事情を妨害し、神様の心情を妨害し、裏切った人間たちであることを知らなければなりません。


このような立場にある人類ですから、どのような願い、どのような事情、どのような心情の世界に住んでいるように見えますが、その心中には別の心が入り込んでいるということです。 この二つの間で争う苦しみを切実に感じる人は、死ぬか、神様を探すか、どちらかを選ぶのです。 ところが、理性的で賢く深刻な人は、死を覚悟してこのような道を探しに行ったのです。


では、私たちはどのような感覚を感じなければならないのでしょうか。 天を知り、自分を知るためにはどのような感覚を感じなければならないのでしょうか。私たちは天を裏切った反逆者の子孫です。誰がこの言葉に反対するでしょうか? 天を裏切った反逆者の子孫です。 しかし、私たちの心は本来の世界と連絡を取り合っています。時々連絡するのではなく、定期的に連絡しているのです。 あなたの体は、天を裏切った反逆者の血と骨と肉が移った体です。 これをどうするのか、これをどうするのか、これをどうするのか!


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天は私たち人類が憎くて裁くのではありません。 人類をこのように作ってしまったサタン、悪を支配して出てくる主人公、神様を裏切って出てくるその主人公を打って分立させるのが神の摂理の目的です。私たち人間を捕まえて死の大釜に入れることが目的ではなく、人間を荒らし、この地を荒らして出てくるサタンを撲滅することが神の目的なのです。


ですから、この道を去れ、この道を避けて出て戦え、敵視せよと皆さんの心に警告しているのです。良心を持っている者には、行けば行くほど、お前はここから離れなければならないと警告しているのです。 敵の魔物に捕らわれた捕虜になることが、人間がこの地上に生まれた本位ではありません。


神様が人間を創造された本来の目的は何でしょうか? 真の息子・娘、神様の息子・娘になることです。 神様と私との本来の関係は、愛を中心にして切れ目のない豊かな関係を持つことです。 このような縁を結ばなければならない今日の人類は、死のような絶望の中に捕らわれ、この事実に気づいていません。 また、自分たちがどのような立場でどのように動かなければならないのか、全く分かっていません。


このような人間の前に、本来の願望と事情と心情の世界観を持って来て、どうすればどうすれば本郷に帰れるかを教えてくれる方がいれば、彼は願望の救い主、事情の救い主、心情の救い主でしょう。 皆さん、そうではありません。 生きるためには、願望と事情と心情、この三つの要素がなければなりません。 皆さんは、どんな事情、こんな事情、あんな事情、またどんな願望、こんな願望、あんな願望、またどんな心情、こんな心情、あんな心情を持っています。人間の生活は、ある意味、願いや事情や心情に首をつないで生きる遊びです。


ですから、今、人間が望むのは、今生きていることが苦しいので、これを恨み、これを打ち破り、新しい願い、新しい事情、新しい心情の世界を求めることです。 堕落した人間が望むのは、本来の世界です。


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今日、皆さんの中に自分を立てて自慢する人がいるかもしれませんが、立ち止まって自分を冷静に批判しなければなりません。 誇る者は打たれます。 誇る者は打たれます。邪悪な世の中ですから、自分を立てて自慢しようとする人はそうなります。 ですから、良心的でなければなりません。良心に従って動こうとする人は、邪悪な者たちが動く環境が過ぎ去った後は、いつか必ず立てられるのです。 これは小さな事実ですが、歴史的な生きた証拠です。 このようなことが世界的に天地で起こる時は、悪が退き、善の時代が来る時です。


そして、私たち人間は今まで6千年の長い歳月の間、天は私たちを訪ねてきました。 そして、私たち人間は今まで6千年の長い歳月の間、天に向かって天を訪ねてきました。天が立てたその願いが真の願いだと思い、イエス様が私たちを救った事柄が完全な救いだと思い、イエス様が立てた愛が真の心情を通じることができる愛だと思い、出てきています。


それなのに、イエス様を信じたその日から、「世の願いよ遠くに行け」、「世の事情よ遠くに行け」、「世の心情よ遠くに行け」と言える自分になれませんでした。まだその限界線を越えられなかったということです。 このような罪深い地にイエス様が来てすべきことは何かというと、この罪深い地に革命を起こすことでした。 新しい希望の世界、新しい事情の世界、新しい心情の世界である理想ルウータを成し遂げなければなりませんでした。 イエス様はこのような使命を持って来られたのです。


人間は苦しみの世界に生きています。 体と心の世界において、激しい戦いをしています。 体が接する世界は実体の世界ですから、接するすべてが実体的な刺激として現れるので、心がどんなに強くても、この実体的な世界の刺激の前に囚われてしまうのです。


ですから、心は円でありながら肉体は弱いと嘆きました。 それはなぜでしょうか。 実体として感じられる感情、つまり実体を中心にして四方から入ってくる刺激が強いからです。 しかし、心の刺激は四方から来るのではなく、一方向に流れてきます。一筋の方向に入ってくるこの心の刺激よりも、外部から入ってくる実体の刺激の方が強いので、心の刺激は断たれ、踏まれてきました。 このようなことが今日、私たちの心に押し寄せていることを否定できないでしょう。


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私たちの心に刺激が来るのですが、その方向は四方から来るのではなく、後ろや左右から来るのではなく、正面から来るのです。


ですから、皆さんが悪の世界に住んでいても、自分が知らないうちに「ああ!」と何かが恋しくなることを感じる時があります。 あるいは、信仰生活をしている人も、自分が知らないうちに祈りたくなります。 それは、心に何らかの動きがあるからです。 心に扉があれば、その時々に合わせてその扉が開き、その扉を通して天の縁が動いて入ってくるとき、皆さんは心に刺激を感じ、その世界を求めるようになるということです。 私たちはこのようなことを知らなければなりません。


悪は四方八方から実体として私を攻撃してきますが、天は正面から一方向から、心の底から私を訪ねてくるのです。 しかし、私たちはこのような天を何度も荒らし続けてきました。 ですから、皆さんは天の前に立つことのできない反逆者です。 それを否定することはできないでしょう。


人間はサタンの鉄網権、つまりサタンの主管下にあります。神様の主管の下に生きるべき、天の民であるべき、天国の民であるべき私たちが、サタンの主管権の下にある捕虜のような立場にあります。捕虜のような私たちです。 私たちはこのような立場にあります。


それでいて、私たちの心の奥底には本郷の理念、本郷の事情、本郷の心情を通じることができる何らかの動きがあります。この動きが心から爆発して体まで自在に動かし、天と地のすべてを屈服させるために、天は人間を造られたのです。 皆さんもこれを知っておく必要があります。


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ですから、糸のような心の動きによって善の方向を探し、それを実現させるための闘いの生活を進めています。サタンはここに三面攻撃をしてきます。 良い物質を持って、世の中のどのような権威を持って、世の中のどのような権威を持って、三面攻撃をしてきます。 これを断ち切り、断ち切り、また断ち切りながら戦っていく道が信仰の道です。 ですから、休まず祈れと言われました。祈りの時間は戦いの時間なのです。


イエス様はこのような観点から、サタンの捕虜となった人間を見据え、サタンの主権世界を滅ぼし、潰滅させる責任を背負って来られました。サタン世界を潰滅させる基盤を構築して工作するために、先陣を悪の世界に作っておこうというのが先生のお考えです、先生のお考え。そして摂理できる先頭工作隊を作り、神様がこの世界を復帰するための一つの足場として使うために選んで立てたのがイスラエル民族でした。 ところが、その民族は知らなかったのです。 その民族は知らなかったのです。


アブラハム以後、イエス様まで2千年、神様はその間、イスラエル民族の前に信仰という条件を立て、個人が信じれば個人を越えて家庭が信じられる期待を開拓し、家庭が信じれば家庭を越えて民族が信じられる期待を開拓し、民族が信じれば民族の期待を越えて世界が信じられる期待を開拓してこられました。 皆さん、これを知っておく必要があります。


天が選んだ信仰の祖先アブラハムはどのような人でしたか? 個人として天と連絡できる、サタンの世界に対する偵察者でした。今の言葉で言えばスパイでした。 世界がサタンの世界だったので、誰も歓迎する者がいませんでした。すべてが敵であったため、彼は聞くことも遮りながら聞かなければならず、見ることも遮りながら見なければなりませんでした。 考えも分別してしなければならず、行動も見境をつけながらしなければなりませんでした。


ご飯を食べても目分量で食べ、寝ても目分量で眠り、生活も目分量で生活してきたということです。 これが、天の摂理を受け入れてきた、摂理の御心に接した私たちの信仰の先祖たちが歩んできた道でした。


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天は選ばれたアブラハムを葦原のウルから引きずり出し、そのような場所に送りました。荒れ地のようなところから追い出したのです。アブラハムはそこで、天が立てようとしていた天の主権の国が建立される日が来るのを待ちました。 天が祝福した息子たちが海の砂粒のように、天の星のように繁栄して悪の世界を打ち負かすことができるその日を待ち望みながら、私たちの先祖たちは祖国山川を捨てて出て行ったという事実を私たちは知らなければなりません。


なぜかというと、敵の国、敵の鉄の網の中に捕らわれているので、嫌になるはずです。 身体にゾクゾクすることを皆さんも感じるはずです。このようなことを感じられないなら、皆さんは天の前に完全な信仰者とは言えないということです。


天がアブラハムを立てた目的は何でしょうか。 遠くにいる人間、敵陣の中にいる人間、サタンの世界にいる人間と連絡できる一つの基盤として、これを土台にして横方向に伸びていきたいということだったのです。 しかし、下手をすると天と地の関係が切れてしまうので、仕方なく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神という直系の血統を通して動いたのです。 皆さん、これを知っておく必要があります。


イサクとアブラハムが祝福を受けた時、彼らが持っていたものは何でしたか? 選民ということしかありませんでした。 お前はサタンの世界と妥協してはならない。和合してはならない。お前は選民だから生活も違うし、感情も違うし、望む願いも違うし、お前が夢見る理想も違う。あなたは私を通して勝利の一日を見なければ、あなたの子孫が生きることができない」という観点から、神様はアブラハムを祝福されました。 ですから、アブラハムもそのような観点からイサクを祝福しなければならなかったし、イサクもそのような観点からヤコブを祝福しなければならなかったし、ヤコブもそのように彼の後代の前に祝福しなければなりませんでした。 それにもかかわらず、イスラエルがその伝統的な祝福の縁を裏切ったのです。


アブラハムを選んで個人的な信仰の環境を開拓した後、ヤコブの時代に入り、家庭を経て70家族を抱え、サタンの世界であるアベルに入らせました。 この家庭的基盤を土台にして何をしたかというと、民族を形成するためにサタンの世界へ追い出したのです。 本国ではなく、サタンの世界の一番の巣窟です。 その時代のイスラエル民族の前に、歴史的に敵であるサタンの世界であるアベルに追い出したのです。 そうでしょうか。 そうですね。


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この家庭的な土台を中心にして、どんな苦しみ、どんな死の道、どんな恨みがあっても我慢しなければなりませんでした。 辛抱するためには、いつまで我慢しなければならなかったかというと、民族が構成されるまででした。 イスラエル民族は4百年を流浪の旅をして苦痛の生活をしながらも、民族構成の願いの下で、「神様、あなたの恨みを晴らしてください。 しかし、4百年の歴史は過ぎましたが、イスラエル民族は天の伝統的な願いと事情と心情から外れるばかりでした。 そうなると、これを再修復するために来られたのがモーセでした。 このモーセは60万のイスラエル民族の指導者でした、民族の指導者。


では、神様はこの民族を土台に何をしようとされたのでしょうか。 民族を土台に世界舞台に出ようとされたのです。 そのため、選ばれた民族の前に、天はこの民族を連れて新しい王国を建設できる、万王の王となるメシアを送ると約束されました。民族に基づいて約束をされました。


これがアブラハムを基準としたものではなく、ヤコブを基準としたものではなく、モーセ以後の民族を基準としたものでした。 しかし、そのように民族を基準にして世界のサタンの主権を打ち破り、天の勝利の土台を築くために、世界的な大王として送られた方がメシヤであることを、その民族は知りませんでした。


イスラエル民族はどのような観点からメシヤを期待しましたか? メシヤが現れたら、民族全体が団結して世界舞台を開拓し、サタンの世界を征服しなければならない天の摂理の前に選ばれた民であるという確固たる信念を持って、サタンの世界に住んでいることを痛切に思い、痛切に感じていたのに、彼らがイエスを捕まえて殺すはずがないということです。


この地上にイエス様は来られました。 彼の願いは何だったのでしょうか。 個人が問題ではありませんでした。12弟子が問題ではありませんでした。イエス様が問題視した基準は、イスラエル民族全体だったのです。 選ばれた民族を統治して結束させ、新しいカナンの福祉を建設するための、世界カナンの福祉に向かって行進のラッパを吹くべきイエス様が民族の代表的な席から追い出されたその恨みに苛まれたことは、歴史の過程でイスラエルが滅びる動機になったという事実を私たちは知らなければなりません。


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これまでは死ぬために来たイエスだと知っていました。 なぜこのようなことを言うのでしょうか? 実はそうではないからです。 天倫のために戦う勇者が必要です。理にかなっていますよね?


4千年という長い歴史を経て、天がサタンの世界と連絡できる情報機関のようなもの、軍事基地のようなものを作っておいたのに、これらが全部崩壊してしまったということです。4千年苦労して作った民族の基盤にイエス様を送りましたが、彼らがイエス様を不信しました。 それで民族の基盤が崩れたので、民のない王があるでしょうか。 だから、サタンの世界で彼を捕まえて勝手にしたのが十字架の死です。王子の惨めな死刑です。 しかし、その民族は、イエスの十字架の死がイスラエル国の王子の惨めな死刑であることを知りませんでした。


どこで死にましたか? サタンの主権の下で死にました。 皆さん、ここの具体的な内容をもっと知りたければ、後で時間があれば私に会いに来てください。 そうなっています。 だから、神様は怒っているということです。 イエス様は、「私が来て死ぬのは死ぬことだが、死ぬ前に、天の通達を、秘密の約束の文書を与えよう」と言われました。 これが新約聖書です。 この秘密の文書が新約聖書ということです。


ですから、「私を信じなさい。私を信じてついて来なければ生きられない。私を信じればどこに行くのか? 解放の場所へ....。私を信じなければ生きられない、信じなさい。私があなたがたのために来て、あなたがたのために死ぬので、私を信じて、私の言ったことを信じなさい」これです。 イエス様の御言葉は、私たちが生きることができる約束の御言葉です。聖書の言葉は暗号です。天がサタンの世界に来て連絡できる暗号です。 比喩と象徴で書いたものです。 ですから、聖書はいくら読んでも分かりません。この暗号を解く日が来るのですが、そのためには忠誠を尽くし、精誠を尽くさなければなりません。 イエス様が望まれたことは何だったのか? 民族を基盤として世界復帰の理念を立てることでした。世界のどのような思想や主義主張もそれを解明することができないので、いつかこの秘密文書を解明して、私たちが行くべき方向と目的地を提示すると約束されました。


今日、キリスト教信者は消えたイスラエルの第2の基盤です。今日の世界にいるキリスト教信者は、2千年前に世界のカナン福祉に進撃するために立てようとした選民、第2のイスラエルであることを自覚しなければなりません。

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皆さん、そんな言葉を聞いたことがありますか?第2イスラエルの息子・娘であることを知って覚醒しなければなりません。 そうなれば、今、私がここで苦しみ、苦しい苦難を受けていますが、いつの日か来る日が来ますが、その日には、天の権威の前に堂々とした姿を誇れるようになります。 これが希望する再臨の日です。


それでは、今日、この世界にいる第2イスラエルはどうすべきでしょうか。 イスラエル民族が荒野を通過する時、班編成がありました。第2イスラエルの皆さんはどの班に属していますか? これを知る必要があります。 自分がどの班に属しているかを知る必要があるということです。


天上には十二の真珠の門がありますが、その十二の真珠の門の一つ一つの門には使徒の銘板がついています。 ですから、どの教派、あるいは長老派であれば、その長老派がどの部族に属しているかを知る必要があります。 部族を失った第2イスラエルです。今がまさに荒野で喘いでいるあの時と同じです。そのような時です。 ですから、皆さんの前にはアマルエクのような種族が攻撃してくる時があります。 その時は生死の分かれ目を決めなければならない時です。2つの陣営が対峙しているのですが、片方から攻撃、進撃してきます。天は先に攻めてくる日がありますが、その日には思想的に攻め、心的に攻め、身体的に攻め、生活的に攻めることになります。根本とは反対の方向から私たちに向かって進撃してくるのです。


ここで私たちは目覚めなければなりません。 世界中の第2イスラエルは結集しなければなりません。 イエスの十二使徒のように、私はどの使徒だ、私はどの階級だ、と戦えば滅びます。 そのような時代が来るということです。


イスラエル民族が出エジプトでモーセを中心にして十二支派に分派を作り、民族観念を強く持っていたように、その十二支派がモーセに接し、天の御旨に接したように、イエス様の当時もメシヤをお迎えするために反列の組織を作り、団結していたら、イエス様は死ななかったでしょう。 反列を失った民族になってしまったので、みんなそれぞれになってしまいました。自分勝手な、自分勝手な、自分勝手な、自分勝手な遊びをしていると、滅びるのです。 理屈はそうではないでしょうか?


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天は私たちを訪ねてきて、こう教えてくださいました。 個人に対しても私はあなたの父であり、家庭に対しても父であり、民族に対しても父であり、世界に対しても父であると。民族が父を持っている限り、あなたの父であり、私の父です。世界がその父を持っている限り、あなたの父は私の父であるということです。 天はそうなることを望んでおられます。


天は私たちを訪ねて来られました。 天は、サタンの主権の捕虜となった私たち人間一人一人に対して訪ねて来られました。 しかし、個人的な信仰の祖先であるアブラハムを立てられたにもかかわらず、言いたいことが言えなかったのです。家庭を立てたが、言いたいことを言い尽くせませんでした。民族的にモーセを立てられましたが、言いたいことを言い尽くせませんでした。 イエスを立てられましたが、その時もやはり言いたいことを言い尽くせませんでした。聖書にはっきり書いてあります。 言い切れませんでした。 なぜそうなったのでしょうか。


なぜそうなったかというと、イエス様は世界的な神様であり、天主的な神様を代表し、天と地全体を代表する方として来られたので、そのような足場がなければ仕事を成し遂げることができなかったということです。 だから、イエス様は終末に再び来ると言われました。


皆さん自身について考えてみてください。皆さん自身は歴史的な借りを背負っています。


天は、皆さんに知らせて教えるために、何十回、何千万回と皆さんの種族、あるいは皆さんの預言者たちを訪ねて来られました。 これを皆さんは知っていますか?


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では、イエス様は何を持って来られたのでしょうか。 イエス様は、父を中心にして、万王の王として万民を天の子として立てて、サタンの世界を裁き、幸福の園を成し遂げようとする理念を持って来られたのです。 そのような願いを持って、そのような事情を持って、そのような愛の心情を持って来られたのです。 しかし、今日、皆さん、そのような願いを持ってみたことがありますか、そのような事情を通してみたことがありますか、そのような心情を感じてみたことがありますか。 できなかったら、裁かれるしかありません。


ですから、私たちは「ああ、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセと歴代の預言者、4大預言者と12小預言者が呼んだ父、あるいはイエスが呼んだその父よ!」と叫んではいけません。 アブラハムの力の神よ、ヤコブの神よ、モーセの神よ、イエスの神よ、私の神になってください!私の神であってください」このように祈るべきです。 他人の神であってはなりません。 私の神でなければなりません。私たちはそうしなければなりません。


歴史的な神様を呼ぶ時は過ぎ去りました。 ですから、時代的な神様が私と関係なくてはならないし、未来的な神様が私と関係なくてはならないのです。 歴史的な神様よ!時代的な神様、事情はこうではないですか!未来的な神様、事情がこうではないですか、事情がこうではないですか、願いがこうではないですか」と言った時、神様が「来てください」と言えるような関係を結ばなければなりません。


そのためには、私たちはまず、サタンの世界に置かれていることを知らなければなりません。 皆さんはサタンの子孫です。神様の味方ではなく、サタンの捕虜になった捕虜の兵士たちです。 そんな皆さんを奪い返すための世界的な連絡の代表が救い主です。救い主、救ってくれるということです。救い主は捕虜の兵士たちを救うための使命を帯びて来た人です。心を励まし、行動で戦わせました。 そのため、イエス様は「私は世界を平和にするために来たのではなく、武器を与えて紛争を起こさせるために来た」と言われました。 しかし、紛争が行われていますか、行われていないのでしょうか。 一度見てください。


私たちは神様の前に行くべき民であり、天の息子・娘であり、天の家族であり、天の夫婦であり、天の真の兄弟です。 しかし、これはどういうことでしょうか。 私たちは兄弟も失いました。親もなく、家庭もなく、民もなく、相手もない哀れな人間です。 ですから、これを再び復帰しなければならないということです。 これを探さなければなりません。


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これを探すためには、心で探さなければなりません。 天は心を通して探して入ってきます。心のドアをノックして開けて入ってきます。 そして、「私はこれではいけない。この世界から離れなければならない」という気持ちを植え付け、その環境と戦うように摂理してきたのが6千年の歴史です。善を代表する人と悪を代表する人の戦いが繰り返されたのが6千年の戦争史です。 人類の歴史が戦争史だということです。


最初は邪悪な人たちが善良な一人を倒して勝ったように見えますが、その善良な一人を倒した後はまた繁殖します。死んだら繁殖するということです。一人が打たれれば、三人以上を見つけることができる天的な条件があります。 ですから、キリスト教はどの国でも先に打たれます。 神様の作戦法は、愛する息子・娘をサタンの世界に送り、彼らから打たれて殺されるようにし、その代償として、その分だけサタンの世界から奪ってくるのです。 善い人が先に打たれることはありません。 先に打たれたその代償分だけサタンの世界に損害賠償をしてやってくるのです。 天の作戦法がそうだということです。 ですから、今日までのキリスト教の歴史は殉教の歴史であり、血の歴史です。


ですから、歴史の道のりを見ても、打った者が必ず負けます。世界大戦を見てください。第1次戦争でも先に味方した側が、第2次戦争でも先に味方した側が負けました。 第3次戦争でも先に味方した側が負けました。個人的な生活でも「我慢しなさい、我慢する者に祝福があるので、打たれても我慢しなさい」ということです。 なぜなら、我慢すれば立てられる日があるからです。


神様が恨みを我慢しておられ、6千年の間、サタンの前に訴えられ、恨み、憤りを晴らすことができなかったので、「あなたも恨みだ。おいで、お前は私の味方だな」と言われる日が来るでしょう。


ですから、今日、信仰の世界では我慢しろと言います。 信じて我慢しろと言うのです。 従順、服従、犠牲と言うのです。 なぜかというと、そうすれば立てられる日が来るからです。


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天の作戦法が先に当たって奪い取るのですから、イエス様も当たって祈ったのです。サタンの世界の法則にも引っかからないということでした。敵視していると、サタンの世界の法則に引っかかります。そのような作戦法を立てて出てくるのです。


私たちはこれを知らなければなりません。 そして、今日ここに出席した皆さんの個体は、歴史の道程で何度も何度も訪ねてきた神の息子・娘であること、天国の民であることを知らなければなりません。 天国の家族であることを知らなければなりません。 天国の兄弟であることを知らなければなりません。 さらに、神の直系の息子・娘であることを知らなければなりません。


ですから、このような息子・娘、このような家族、このような人間、このような民にならなければなりません。


今日、私たち人間は神様を知りませんでした。 歴史的な神様が私のために、時代的な神様が私のために、未来的な神様が私のために見つけてくださいました。 しかし、私たちは、真の息子・娘になるように私を見つけてくださった神様であることを知りませんでした。 哀れな神様です。見てください、このように私を捜してくださった神様であることを知りましたか?


結局、私たちはその父に対する責任があるのです。6千年の間、神様はこの地上で働いてこられましたが、息子として永遠にサタンの前に自慢でき、サタンの世界に侵略されないことができる者がいますか? ありません。 この家庭は私の家庭だ」と言える家庭がありません。 この民族は私の民族だ」と言える、サタンが侵略できない民族がありません。 この地は私の土地だ」と言える土地もありません。


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天がこのような立場におられるのですから、誰がこの仕事をしなければなりません。 人間が堕落したのですから、人間がその仕事をしなければなりません。 お父様、私の家は父の家ですから、この家では絶対にサタンを許しません。 永遠に許せません」と言わなければなりません。 しかし、そう言える家がありますか?


歴史的に来られた神さま、時代的に来られた神さま、民族的に来られた神さま、国家的に来られた神さま、さらに世界的に来られた神さまの前に裏切り者になるか、それとも忠臣になるか、どちらか一方を選ぶしかありません。


そのため、綿羊と山羊を分けるというのです。忠臣になるためには、憤りと恨みを知らなければなりません。 私の父が過去にはこのように憤ったのだな。 今日の父がこのように憤るのだな。 将来の父がこのような立場にいるのだな!」その父の憤りを知らなければなりません。


今、私たちは団結しなければなりません。 天の民を求める天の前に天の民がいないのですから、私たちは旗を高く掲げ、死を覚悟して天の民を集めなければなりません。


天の民族、天の民族、天の種族、天の家庭、天の子女、天の父母を持てない神様を思い浮かべるとき、私たちは頭を上げることができません。 天の前に頭を上げることができない人間たちです。今日、皆さんがここに来て知るべきことは、天の前に頭を上げることができない人間であるということです。 私の家に寝ている兄弟が私の兄弟かと思ったら、そうではありませんでした。 私が住んでいるこの天地が私の住む国かと思ったら、そうではありませんでした。 私が連絡している人たちが私の友人かと思ったら、そうではなかったということです。


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このような視点で考えると、さすがにイエス様のお言葉は当然のことです。 彼は人間の前でできることを全部言って行かれました。できることはすべて言いましたが、その言葉を理解できない群衆を見て、イエス様は嘆かれたのです。 人のために来たイエス様、民族のために来たイエス様が、民族を捨て、反対する群衆を後ろに置いて山の中に入り、天の前に涙を流す祈りの生活をしたことを私たちは知らなければなりません。


体から心から御旨に対する願いを抱いて「お父様」と正面から走っていく、つまり、民の代わりに、民族の代わりに、種族の代わりに、兄弟の代わりに、子供の代わりに走っていく息子・娘がいるとすれば、神様はその息子・娘を抱きしめ、嘆かれることでしょう。 復活したイエス様をマグダラのマリアが抱きしめようとした時、このような原理的な内容を通せなかったので、「私を抱きしめないでください」と言われました。


歴史上の人類は、まだ神様に向かって正面から向かって走り出せませんでした。 民族や種族、兄弟の立場を越えて、子供の立場に立って父に対して父と言える立場に出た人は一人もいません。 歴史の道程において、イエス様はこのような責任を果たされたので、救い主になることができたのです。ところが、イエス様が「父よ」と言う時、神様が「おいで、もう勝利したんだね」と言うことができない境遇で、イエス様は死にました。 ですから、イエス様は全宇宙と天上天下のサタンに対する勝利の目的を終結させるために、この地に再び来なければならないということです。 しかし、雲に乗って来ればいいのでしょうか?


今、私たちは知らなければなりません。 私を知らなければなりません。 重層的に遮断された捕虜収容所にいる私の体です。 ですから、解放された自由の天地、私たちの民が住んでいるところ、私たちの兄弟が住んでいるところ、私たちの親が住んでいるところ、私たちの子女が住んでいるところを、神様はどれほど懐かしく思われたでしょうか。


神様は6千年の間、一日一時間もそのような心情の世界を忘れたことがなく、人類に対して出てきておられます。私たちはこれを知りませんでしたが、今、知ってからは、天に向かって正面から突っ走って行かなければなりません。 天の全てと地の全てが歓喜して祝福してくれるその一日に向かって、個人として人類を代表して、そのような責任を背負って走ることができる人が一人でも出てこなければならないということです。


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私たちの信仰の目標はそれです。 ただ信じて天国に行くというだけで、天国に行くことができますか? どこの官庁に行って手続き一つをする際、文字一つ間違えたらやり直すのに、天国の門をそのまますり抜けられると思いますか?千載一遇の不当な話です。どんな事情的な条件では入れません。天国は心情館を通ってこそ入ることができるのです。 心情の世界は空間と時間を超越することができるので、そこには進歩も退化もありません。 一定の觀も型もありません。 そこだけはアルファとオメガであり、始まりであり、永遠なのです。


愛の神様は愛を賭けて動いておられるのですが、私たちはどうすればよいのでしょうか。 民となった私を感じることができ、天の民を愛することができる人にならなければなりません。 天の民族を愛することができる私にならなければなりません。 天の兄弟を愛することができる私にならなければなりません。 天の家族を愛することができる私にならなければなりません。 天の子どもを自分の体のように愛することができるようにならなければならないということです。 願いや事情は過ぎても愛は残ります。このようなことを知らなければなりません。


天の願いは何でしょうか? ただ、イエス様をよく信じる人を天国に送って冠を百個くらい被せてあげるのが神の願いだと思いますか? そうではありません。 心を開いて胸を開いて愛したいのです。 私は多くの苦労をしましたが、あなた一人に会った喜びのために、その苦労をすべて忘れることができます。望んだすべてのことが成就したので、天地のすべての存在も私の息子と娘を見て喜ぶ私と同じように喜びなさい』と言えるその時、天地は喜ぶのです。


ところで、神様はそのような日を持たれましたか? 持ったならば、サタンによる恐怖がどこにあり、サタンの 8フ乎


では、神様の愛は何でしょうか? 空中に浮かんでいるものではありません。 皆さん、外国に行って自分の同胞が殴打され、迫害を受けていたら、自分が殴打されるのと同じように分かれるものです。同じように、サタン世界の捕虜収容所に入っている民を見るとき、「この民が私たちの民だ、私たちの民がこのように流されるのだな、私たちの民族がサタンの鉄の網に閉じ込められてうめき声を上げているのだな」と胸を打たなければなりません。 その鉄の網に触れるために、天の前に「父よ、力を与えてください。父よ、力を与えてください。私は父の民であり、父の血族であり、父の家族であり、父の息子・娘です」と言える者を、天は探しておられます。このような息子・娘を探すのが天の願いです。天の願いは他のものではなく、これだということです。


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このような息子・娘に会うことが神様の願いです。 そのような息子・娘と一緒に自分の事情を分かち合いたいと思っておられます。このような息子・娘をサタンの誹謗中傷を受けずに永遠に愛したいというのが神様の心情なのです。 天の心情は別のところにあるわけではありません。 天の心情はまさに私たち人間にあります。 そのような私を知るとき、アブラハムを立てられたのも私のためであり、モーセを立てられたのも私のためであり、イスラエル民族が悲惨な環境にぶつかるようになったのも私のためであり、イエス様が来られたのも私のためであり、私たちのためであり、再び来なければならないのも私のためであり、私たちのためであることを知ることができるでしょう。


このような共同理念、共同目標の下にいる私たち、兄弟が出会う時、お互いにどれだけ苦労したか、どれだけ苦労したかと涙を流すことができなければなりません。 皆さん、そのような嬉しい家族に会ったことがありますか?


8.15解放後、私たち三千万民衆には食べるものがなかった困難な時にも、私たちには物質が問題ではありませんでした。 飢えればお互いに食べさせようとし、お互いに抱き合って喜んでいました。 喜んでおられる天をお迎えして、この世界のキリスト教信者たちがお互いに抱き合って、「ああ、解放よ、解放よ」と歌える日を迎えなければなりません。 これが神様の願いです。


天の民が私だ、天の家族が私たちだ、私たちは一つの兄弟だ、一つの人類だと言って、お互いに励まし合い、お互いに先頭に立って困難を担おうとする動きがキリスト教の中に現れない限り、キリスト教は滅びます。ユダヤ教のようになります。荒野に出たイスラエル民族がそこで倒れたようになるのです。


それでは、民族的な摂理の御旨を誰が受けるのでしょうか。 キリスト教が知らなければ、異邦の人々、他宗教の人々が受けてキリスト教の祝福を成し遂げる日が必然的に来るでしょう。 ですから、歴史的摂理は、自己陶酔して自惚れる群衆に、こうしろと忠告することはありません。 人間が摂理に従って動くようになっているのであって、摂理が人間によって人間に従って動くわけではありません。


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ですから、私たちはある精誠を尽くし、ある力を尽くして、お互いがお互いが天の民、民族、あるいは家族、兄弟であることを知り、天の主権者、天の統治者を慕うべきです。 そうする時がこの時です。天の願いはそれです。 天の願いはそれです。 天が思慮を通そうとする国はそのような国です。 神様が愛そうとする理想世界はそのような世界だということです。


これを知らなくても、天の民であることを知らなければなりません。 天の種族、あるいは家族であることを知らなければなりません。 凛々しい息子と娘に、皆さんは会わなければならないのです。 これを知る者は、地上で天を知る者です。イエス様は「だれでも人の前で私を知っていると言う者は、私も天の前で私を知っていると言うであろう」と言われました。 そうではないでしょうか?


ここに来た皆さんは何を知ろうとしているのですか? 天の願いと目的を知り、天の民を知らなければなりません。 神様は人間がサタンの世界の捕虜になっていることを払拭するために、人間が哀れんでいることを皆さんが知らなければなりません。


イエス様が死を 4サ・牀、困難を 4サ・牀十字架の鉄の網を飛び越えたように、そうする者はそれを知ることができるのです。 地上でそのように実践する民族がいるとすれば、新時代の王国を建設する民族になるはずです。 また、そのような皆さんになれば、天が認める者になることをしっかりと知らなければなりません。




<祈り≫


お父様、天の願いが天にあるのではなく、お父様の事情が神にあるのではなく、お父様の心情が神のものではないことを知りました。 歴史とともに、時代とともに、未来とともに、お父様の願いがあること、お父様の事情があること、天の心情があることをどれほど待ち望んでおられたことでしょうか。 これを知らなかった私たちは、裏切り者であり、反逆者であることを知らせてください。


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サタンの網に生捕らわれている自分たちであることを知ることができるようにお許しくださり、ここに憤りの心を抱いてお父様を呼ぶ叫び声が天地に現れるようにお許しくださり、集まった人々の胸に父の心情が届くようにお許しくださいますよう、お父様、切に願っております。


これがこの民族の前に、この世界とこの人類の前に成就する日、その喜びは天地間に満ちることを知っております。民を慕い、民族を慕い、兄弟を慕い、家庭を慕い、子どもを慕いながら、お互いに十字架を背負って戦っていく私たちでなければ、このような理想世界を建設することができないことを知りました。


サタンの世界に対して無限の敵意を持ち、今日も明日も戦っていくことができる息子・娘たちであることを許可して下さることを切に願っております。


今日下さったあなたの御言葉を通して、自分が置かれているその位置を解明して、これからどこへ行くべきかを知り、お父様が認める息子・娘となり、お父様を知る息子・娘となるように導いてくださることを切にお願い申し上げながら、主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。

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文鮮明先生 御言葉選集 7-7

2025年01月25日 15時06分54秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 7 - 7. 人生の道を歩む私たち (1959年9月6日)
人生の道を歩む私たち
1959年9月6日(日)、元本部教会にて。
ペテロの手紙第一 1:21-25


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<祈り(Ⅰ)>


父なる神様、あなたは6千年という長い歳月を通して、どのような苦労も厭わず、私たちの先祖を導いてくださいました。しかしながら、私たちの先祖たちはたびたびあなたを裏切り、どの日もあなたの側に立ち、勝利と栄光の姿をもってあなたを喜ばせることができませんでした。このことを思うとき、私たちはあなたに向き合う顔がない罪人の子孫であることを認めざるを得ません。


父なる神様! 私たちの心をご憐れみください。天は、至らぬ私たちであっても再びつかまえなければならない立場におられ、至らぬ私たちは再びあなたを求めなければならない立場にあります。これをよくご存じのあなたが、至らない私たちを探し訪ねてくださり見守っておられることを思うとき、私たちはあなたに向き合う顔がありません。しかし、愛の御心をもって私たちを想い、今日も私たちを探しておられるあなたの前に、自分たちの至らなさを悔い改める心を持って集まりました。


訪れてくださり、教訓してくださるべき御言葉がどれほど多いことでしょう。しかしながら、御言葉を語ることができず、事情を伝えることもできない私たちであることが、天の無限の悲しみであることを知り、自らの未熟さを悲しむことのできる私たちとなるように導いてくださることを、父なる神様、切に願い求めます。


生命の権能をもって死の権勢を打ち砕かなければならない終末の時が、私たちの目の前に近づいていますが、私たちは生命の枯渇を感じながらも、生命を渇望する心が不足しておりました。父なる神様!このような私たちを励まし、奮い立たせてくださり、生命の全権者であるあなたをつかむことで強い力と強い心情を持ち、敵の前に立つことのできる息子娘として立ててくださることを切に願い求めます。


今や、父なる神様の御手に捉えられることが私たちの願いであり、父なる神様の姿に似ることが私たちの願いです。 このひとときだけでも、サタンによって汚されたすべての痕跡を洗い清め、父なる神様の内的な性状に似た者となり、外的な形状を整え、本来の美を現しながら、父なる神様の栄光を讃えることのできる姿としてください。そして、父なる神様が本来の御心を備え、創造の理念の実体となった私たちとともに喜び、私たちとともに語り合うことのできるこのひとときとなることを、愛する父なる神様、切に願い求めます。


2


死の波が目の前で私たちを狙い、サタンが生命の権能を奪い去ろうとあらゆる奸計を巡らせている瞬間であることを悟らせてください。 まず、私たちの心の土台を正しく整えさせてください。そして次に、私たちの体を清めて、父なる神様に向かってしっかりと立たせてください。体と心がひとつの目標に帰着し、「父なる神様のものでございます。お受け取りください。」という切なる心を持ってひれ伏す姿とならなければ、無数のサタンたちが容赦なく蹂躙するという事実を、私たちに実感させてください。


今、私たちの心と体から、私たち自身の主観的な観念や過去の意識的な考えをすべて取り除いてください。 そして、心の奥深くから湧き上がる声で天を呼び求めることのできる切なる心、切なる想いを、このひととき溢れ出させてください。それによって、天との新しい縁を結び、新しい心情を引き起こし、新しい生命の復活の歴史を起こすことのできる時間としてください。父なる神様、切に願い求めます。


今、私たちの前には戦いの壁が立ちはだかっています。 この壁を突破することのできる天の精兵となることが必要な最終決戦の段階にあることを悟らせてください。死の権能を持つ者たちに堂々と立ち向かうことのできる天の勇士となれるよう導いてください。そして、敵の陣地に向かって進撃できる父なる神様の息子娘とならせてください。死を恐れず、勝利の旗を目指して黙々と走ることのできる天の精兵となるよう導いてくださることを、父なる神様、切に願い求めます。


頭を垂れる姿勢はそれぞれ異なるとしても、目標だけは一つとなるようにしてください。 また、状況が異なるとしても、心情だけは一つとさせてください。置かれている立場が違い、感じる心が違うとしても、父なる神様に向かう心だけは同じであるようにしてください。真心から父なる神様のために尽くそうとするその心を、どうかお受け取りください。切に願い求めます。


ここに集まったあなたの息子娘たちは、孤独な場で戦い続けてきた者たちです。 この者たちは家庭からも社会からもあらゆる矢を受けながらも、天を呼び求め、一筋の生命の光を頼りに進んできました。これらすべてのことは、父なる神様が始められたことですので、勝利の栄光をあなたの前に捧げるその日まで、一人の命も疲れ果てて倒れることのないよう導いてください。父なる神様のために喜びをもって出発した私たちが、喜びの実を結び、あなたの栄光の基盤を広げることができるようお許しください。父なる神様、切に願い求めます。


3


この日は聖なる日ですので、すべての人々を祝福してください。 多くの教団を祝福してください。そして、哀れな三千万の民を祝福してください。


私たちの生命の灯火が天にあることを私たちは知っており、復帰の道を歩む運命もまた天にかかっていることを知っています。この民族の事情をよくご存じの父なる神様、韓国の教団の現状をよくご存じの父なる神様、心情と心情が結びつき、心情を通して天を誇ることのできるあなたの生きた息子娘が多く現れるべきであることを私たちは知っています。隠れた祭壇を守り、訴えている息子娘たちがいるのであれば、どうか彼らを集め、小さな群れによって大きな群れを恥じ入らせるという御言葉を成就してください。


父なる神様! バアルにひざまずかなかった七千の群れが、狡猾な悪の要素を阻んだように、サタンの狡猾さを阻むことのできる七千の善の群れがこの地に存在するようにお許しください。父なる神様、切に願い求めます。


父なる神様とともに悲しみ、父なる神様とともに議論し、考えることのできる隠された息子娘たちを速やかに父なる神様の家庭に集めてください。そして、彼らを父なる神様の家族としてつなげ、望まれる栄光の園を一日も早く復帰し、すべての恨みを解消する成事を成し遂げてくださるよう、切に願い求めます。


このひととき、ただひたすらあなたにお任せしますので、始めから終わりまで父なる神様だけが運行してください。邪心が入り込む時間とならないようお許しください。 父なる神様の栄光を慕う基準のもとで、天と地全体が順応し、一つに和合する私たちの礼拝とさせてください。これを切にお願い申し上げ、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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<祈り(Ⅱ)>


あちらこちらを彷徨いながらも、生命の道を探し求め、父なる神様の前にひれ伏した私たちであることを、否応なく感じます。


今日、父なる神様を「アバ、父よ」と呼ぶことのできる場に立たせてくださった恩恵と、 私たちが知らぬ間に、無限の労苦を惜しまず、私たちを守り、分別し、この場にまで導いてくださった恩恵の前に、何をもって報いましょうか。何一つ報いるものを備えておりません。たとえ体を捧げてもその恩恵に報いることはできず、心のすべてを捧げたとしても、父なる神様の労苦の功績の前には頭を垂れるほかない、不足した者であることを、この時間、否応なく感じます。


ここまで導いてくださった父なる神様には、私たちを生かさねばならない責任もありますが、私たちを通じて栄光の日をご覧にならねばならない父なる神様の事情があり、願いがあることを知っています。 また、このような私たちを見て慰めを得ようとしておられる父なる神様であることを思うとき、不足した私たちに希望を置き、歴史の険しい路程を耐えてこられた父なる神様の前に、顔向けできないことを感じざるを得ません。


私たちの肉と血が、父なる神様の御心を理解し、私たちの骨が一つの人格を形成する姿を備えたならば、その全体が父なる神様の不変の御姿を証する一つの構成体となることができるようにしてください。父なる神様、これを切に願い求めます。


細胞の一つ一つまでもが父なる神様に属し、栄光を捧げることのできる聖なる、そして栄光ある実体を、どれほど待ち望んでこられたことでしょうか。 歴史の過程において、私たちの先祖たちはそのような姿で父なる神様をお迎えすることができませんでした。天に従いながらも時には不満を抱き、時には天を裏切り、選民の権利を誇りながらもそれを放棄したという歴史的な事実を私たちは知っています。


5


父なる神様! このような嘆かわしい血統を受け継いだ私たちは、今日天を信じていると言いながらも、明日には天を裏切ることもあり得る、悪しき世界と近い立場にいる者たちです。このような私たちをどうか憐れんでください。父なる神様、私たちを捉えてください。私たちの渇いた心に、父なる神様の生命の御心を接ぎ木し、新しい生命の力強い復活の歴史を起こしてください。これを切に願い求めます。


これまで地上に生まれ、去っていった人は多く、現在も多くの人が来ては去っていきます。しかし、父なる神様の御事情を握りしめ、父なる神様の御心をつかみ、涙を流す者はおりません。 どうか、今日私たちが父なる神様の御事情と御心を握りしめ、涙を流す者となることができるようにしてください。天地を嘆き、人類を嘆き、歴史を嘆き、堕落した先祖を嘆きながらも、父なる神様をお迎えしたい、父なる神様のために尽くしたいという思いに満ちた息子娘たちが、この地上に多く現れることができるようにしてください。父なる神様、これを切に願い求めます。


誰を見るためにこの場にやってきたのでしょうか? それは、どんな立派な服を着た人を見るためでもなく、どんな美しい人に会うためでもありません。醜い痕跡を持ち、傷ついた体でありながら、尊厳ある父なる神様の御姿に似るためにここに集まりました。どうか私たちを見捨てることなく、抱きしめてください。私たちの心、私たちの思いが寄りかかる場所もなく、孤独であることを父なる神様がご存じであるならば、この時間、私たちを慰めてくださるよう、切に願い求めます。


このような心情を抱き、現れてくださり、永遠の生命の主体として私たちを導いてください。 私たちの体と心にしみ渡る生命の御言葉を与えてくださり、父なる神様の恩恵に感謝し、礼拝することのできるこのひとときとなることを許してください。


この時間、御言葉を通じてお話ししようとするにあたり、父なる神様、どうかここに共にいてください。 伝える者と受け取る者の間に隔たりがあるならば、それがサタンの通路となることを私たちに悟らせてください。そして、その場がサタンの狙う死の領域であることを悟らせてください。伝える者の心も受け取る者の心も一つとなり、父なる神様の御心に連なり、共鳴し、清められる時間となることを許してください。


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韓国各地に散らばり、孤独にひざまずき、嘆願するあなたの息子娘たちをどうか顧みてください。 困難に苦しむ彼らを励まし、助けてください。「最後まで耐える者が救いを得る」とおっしゃいましたように、忍耐によって父なる神様の栄光を高め、この民族の前に父なる神様の御姿を実体として証し、示すことができるよう導いてください。数多くの教団と多くの人々の上に祝福を注いでください。主の御名によって祈ります。アーメン。






<御言葉>


この時間、皆さんにお伝えしようとするテーマは、「人生の道を歩む私」、つまり「人生の道を歩む私たち」です。このテーマでお話しさせていただきます。


人々はよく「人間は来て去るものだ」と言います。昔も今も、どんなに立派な聖人や君子でもこの世に来て、そして去っていきました。この歴史の流れ、この天倫の動きは、今この瞬間、私たち自身にも連続しているということを、皆さんは心に留めなければなりません。私たちは、来て去らなければならない存在です。どのような因縁や関係でこの地に来たのかは分かりませんが、この世に現れ、無数の現象や何らかの理念的な形態の中で翻弄されて去っていく、という事実は私たちもよく知っています。


では、私たち人間は何のために生まれ、どのような目的のために生きていくのでしょうか?これを多くの哲人や宗教家たちが心血を注いで解明しようとしましたが、未だに解決できず、そのために人類の歴史は嘆きとともにここまで続いてきました。そして今なお、それは続いています。


私たちは、このような緊張した瞬間に立たされている存在です。行きたくなくても行かざるを得ない人生の行路を歩んでいる私たちであることを否定することはできません。親の血統を通して生まれ、気づけば自分が思いも寄らなかった世界で生きています。そして生きるうちに、老いていき、やがて去らなければならない運命に直面するのです。どんなに立派な人であっても、華やかな青春時代が過ぎ去るのを止めることはできませんし、自分の姿が老いていくのを防ごうとしても防ぎきれないのが現実です。


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考えると切なくなり、考えると胸が詰まり、考えると何か分からないものに対する衝動が湧き起こり、すべてをかき乱してしまいたいという気持ちを、皆さんも人生の中で何度か経験したことがあるでしょう。


「なぜ私は来たのか、なぜ私は生きるのか、どこへ行くのか?」 自分が生まれたことを、自分自身が選んで生まれたと考えてはなりません。生まれはしたものの、何が動機となって生まれたのか、何のために生まれたのかを知らない私たちです。生まれたのは自分が生まれたくて生まれたのではありません。生きているのも自分が生きたくて生きているのではありません。死ぬのも自分が死にたいと思って死ぬのではないのです。


それでは、自分自身を誇ることで何を得るのでしょうか? 自分が生まれたいと思って生まれたわけでもなく、自分自身の力で何かを成し遂げることもできず、死の道を避けることもできない存在である自分を誇ってみても、それはただ哀れに映るだけです。生まれたからには生きなければならない運命であり、そのように生きて去らなければならない運命です。


では、このように生きて去る目的は何なのでしょうか? この問いを改めて考えてみる必要があります。私たちが存在する動機が自分自身によるものではなかった以上、その目的もまた自分だけのものではないはずです。生きる上で幸福な場を嫌がる人はいませんし、華やかで立派な場所で生きたいと思わない人もいないでしょう。しかし、それを自分の思い通りにできないのが私たちの現実です。それでもなお、自分を誇りたい、自分の思い通りに生きたい、自分の思い通りに存在したいと思うのが私たちです。このような感情の交差点を抱えているのが私たちの存在です。


私たちは、自分自身によって生まれたのではないにもかかわらず、より大きな何かを求め、より良い生き方を望み、より大きな目的の価値を追い求めています。それは自分自身のためなのでしょうか、それとも何らかの相対的な目的のためなのでしょうか。この問いについて明確に理解する必要があります。生まれた時、親の血を受けて生まれた私たちは、自ら生まれたいと思って生まれたわけではありません。そして、親が私たちを生んだとしても、私たちは親が自由にできる生命体ではありません。親の思い通りに導くことも、殺すことも、生かすこともできない生命体です。


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そのような権限を誰が持っているのでしょうか? その権限の所有者を解明する日には、自分を中心として喜びを得ることができるでしょう。しかし、今日の人間たちはこの基準を超えることができず、迷い苦しんでいます。このような存在が私たち自身であることを知るべきです。


だからこそ、私たちは心の中でより大きな何かを追求しています。 また、生涯を通じて死の権限を克服し、実際により大きな生命の驚くべき世界と縁を結びたいと望んでいます。さらに進んで、人間の情的な世界を超え、永遠不変の情的な世界と接したいと願っています。それを解明したり証明したりすることはできなくても、そうした感覚に自分が絶えず引き寄せられているのを感じます。特に、良心が澄んでいるほど、その何かが矛盾した世界を捨てるよう促しているのを感じるでしょう。


そのため、この地上に生きている人間の中で、誰も自分を「善なる人間だ」と言うことはできないでしょう。 生まれてみれば、自分は善の種ではなく、悪の種であることがわかります。生まれてみれば、再創造の理念の前に立つことができ、何らかの価値を謳歌できる存在ではありません。自分自身の姿が、不肖の姿、不完全な姿、未熟な姿、不足している姿であることを否定できないのが人間です。このような人間をキリスト教では「堕落した人間」と定義しています。


人間の本心は、堕落した世界で楽しみながら生きたいとは思いません。 そのため、人間は6千年の間、この道を避け、逃げ続けてきましたが、いまだ完全に逃れたと言える基準を立てることができていないことを、私たちは理解しなければなりません。


今日、私たちは悪を避け、善を目指しながら、何らかの目的に向かって進んでいると言えます。 今日も、明日も、たとえ死んでも、悪を排除し、善を掴もうとする目的のもとで、悪の環境を避けながら進むその過程が人生の行路なのです。


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だからこそ、私たちの心は恐怖に震えています。 心の故郷に向かって動いているときはそうではありませんが、悪に傾く場所に立つときには、何かが自分を掴んでいるような恐怖を感じるでしょう。これは、私たちが罪悪の歴史、あるいは死の権威、暗黒の権力に向かって、本心を避けて進もうとしているからであることを、しっかりと記憶しなければなりません。私たちは、逃避の道程を歩んでいます。もし天が存在するとするならば、この逃亡者たちをどのようにされるのでしょうか?悪から逃れるべき人類をどのように導かれるのでしょうか?天が存在するのであれば、その導きの方法が明らかにされなければなりません。


それでは、この逃避の道程とはどのような道程でしょうか? この地上には真の指導者がいません。誰かの事情を考慮し、誰かを支えながら、自分の事情を述べる立場にはありません。多くの人類が生まれては去りましたが、人類は今なお逃れるべき運命に縛られています。それぞれが自分の道を進むのに忙しいのです。逃亡者の運命とはそのようなものです。


皆さん! ある犯罪者が鉄格子に閉じ込められていたところから逃亡するとして、その者に見えるものは何でしょうか?それは自分が生きる道、自由の世界、自分が憧れる何らかの世界であるに違いありません。自由の世界や自分が憧れる世界への思いが強ければ強いほど、置かれた環境から逃れようと全力で走るでしょう。


しかし、人類は逃亡者の運命にある中で、自分が切望する園がどこなのか、自分が望む場所がどこなのかを知りません。 そのような状況の中で、歴史は巡り巡り続けています。目的も方向も立場も分からないまま、自分を慰めながら生きてきた人間であったことを、私たちははっきりと理解しなければなりません。


私たち人間が堕落し、天の前で罪を犯したために、正義の神と不義の神が対立していることを私たちは知っています。 私という存在は不義のサタンの束縛から逃れようとしており、この世界の逃亡者です。私たちは逃避者です。では、救いとは何でしょうか?天国とはどこでしょうか?この世は逃避すべき場なのです。


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逃避にはさまざまな方法があります。 個人として立派に逃避する方法、家族全体で逃避する方法、民族的に逃避する方法、さらには世界的、宇宙的に逃避する方法があります。それらの方法を提示し、教えることができないのであれば、神を「愛の存在」や「創造主」、または「理念の絶対者」と呼ぶ資格はありません。


では、天が人間に対して逃避の方法を教え、指示する基準はどこにあるのでしょうか? それは、どんな学説でもありません。また、天上にあるわけでもありません。それは皆さんの「心」にあります。この事実をしっかりと理解してください。逃避の方向を指し示す基盤は、皆さんの心にあるのです。


心は自然の理にかなうものであり、善に向かって無限に動こうとします。 それは、磁石が南と北を指すようなものです。自然の理は方向を失い、善から外れることはありません。そのような現象は存在しません。同様に、人間の心も何らかの目的に向かって動こうとします。生命に向かって動く心、心情を通じて動く心、真理を見極める心、全体と調和しようとする心、全体の理念に適合しながら生きたいと願う心。この心こそが、天が逃避の方向を指示できる基盤であることをしっかりと理解しなければなりません。


この逃避者としての立場にある私たちが、天性に向かうこの心を守り抜くためには、戦わなければなりません。 戦いが必要です。この戦いを経て、逃避の目的を達成するか、失敗するかによって、救いを得られるかどうかが決まることをしっかりと理解してください。私たちはそのような過程を通過しています。


では、私たちはどのような姿勢で進むべきなのでしょうか? 皆さん、よく考えてみてください。この戦いの過程を進むには、天が望む姿勢で、天が望む戦術で、天が望むその地まで進まなければなりません。主体者の計画に応じて相対的な価値を築いていくことは避けられないのです。


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皆さん、ここで改めて考えてみてください。自分自身の今の姿がどのようなものかを。 どのような目的の世界の中で動き、その世界に囚われて今日も生きている自分自身であることを否定できないのなら、その自分が人生の逃避行路においてどのような立場にあるのかが問題です。


見てください。 敵が道を何重にも塞いでいるのに、目を開けることすらできない人がいます。このような状況に置かれていることを、夢の中でも気づかず、深い眠りに落ちている自分に気づかない人もいます。あるいは、走らなければならない道で疲れ果てて倒れている人もいます。その姿は千差万別です。


皆さん、自分自身を取り戻さなければなりません。 今日ここに出席した皆さんは、自分がどのような立場にいて、どのような姿をしているのか、心の基準を定めて自分を分析する必要があります。心は絶えず促しているのに、何か分からないものが胸を塞ぎ、何か分からない恐怖の圧力を感じています。そのため、「このような場所にいてはいけない」と自然に感じるだけでなく、目に見えるすべての物事を通じてそのような感覚が作用してきます。このようなことを通じてでも、自分がどのような姿でどのような立場にいるのかを知る必要があります。


もしも偶然にでも霊の目が開かれるならば、 数千年前にこの地を去った数多くの道を歩んだ人々が、多くの人々の前で叫んでいることに気づくでしょう。今日、皆さんの隣には多くの霊的存在が走り続けています。そして「一緒に行こう、敵が迫っている」と呼びかけているのです。しかし、皆さんの耳はその声を聞くことができず、目は見ることができず、体はその感覚を捉えることができないのです。この姿は哀れであり、これ以上の嘆きはありません。この嘆きは自分一人の嘆きではありません。このような状況は、存在の価値を全体の理念世界と結びつけようとする天倫の前で許されない罪となるのです。


人が道義の道を歩むには、ただ走るだけでは十分ではありません。目的を成し遂げるための必要条件と、目的とする内容を成就できる心の土台を整えて、その目的に向かって走らなければならないのです。


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人間は堕落によって、以下の4つを失いました:真理、心の故郷、生命の本体、そして愛の実体です。 この4つを失ったことで、人間は本来の状態から遠ざかり、迷いと苦しみの中で生きています。


それでは、逃避者の心に深く刻まれている願いとは何でしょうか? それは「本来の故郷に帰ること」です。その国に登録される国民となるためには、何を備えなければならないでしょうか?真理を悟る必要があります。サタンが支配する悪しき世界のすべての秘密を理解し、堕落したこの地上のあらゆる問題を解明することのできる真理を持たなければなりません。その上で走り続けなければならないのです。


今日の人間は、サタンの主権を天の主権へと結びつける目的 を胸に、真理の故郷、良心の故郷、生命の故郷、愛の故郷を慕いながら、その地を目指して走らなければならない運命にあります。


これまでの人類の6千年の歴史は、真理を探し求める道のりでした。走り続けるためには、真理という必須条件を見つけ、それを解明しなければなりません。真理を持たないままどれだけ走っても、無駄に終わるだけです。私たちが真理に基づいた目的観を持ち現れるとき、すべての価値が測定されます。真理が解明されなければ、すべては無価値となるのです。そのため、人類は今、心の方向性とともに、真理の方向を模索する段階にあります。


これまでの歴史の中で、「真理の王」や「真理の根本」と呼べるものは現れていません。 そのため、今日の世界の人類は、思想や主義に流され続けています。しかし、真理は二つ存在することはありません。それは唯一であり、永遠であり、不変です。にもかかわらず、この唯一の真理と全人類が調和できる内容を備えた真理は存在しないのです。


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今日、倫理や道徳、社会秩序を築く過程で提示されてきたものは何でしょうか?良心の基準に応える真理の基準を求めてきました。しかし、それだけではすべてを解決することはできません。人間がいかにそれを解決したとしても、自分の前に訪れる生死の問題にどう対処するのかという課題に直面します。この生命の問題をどう解決すべきでしょうか?


人間の心は無限の世界と繋がろうとしています。この心の作用を無視することはできません。この宇宙の万物には、目的なしに動くものは何一つありません。さらに、目的に基づいた価値的な縁を離れて作用する存在も存在しません。


ですから、否定できない絶対的な基準に対する絶対的な信念 を持ち、内外から侵入してくるすべての悪の条件を防ぐ必要があります。この強い意志には必ず目的地があり、その目的地では、天の前で価値ある縁を示すことができるでしょう。その時には、心の動きに従い、心が指示する通りに生きることが求められます。たとえ全体の目的を知らなくても、日常生活の中で価値的な縁を築くために、そのように生きていくべきなのです。


皆さんは自分の心に問いかけ、本来の故郷がどこなのかを尋ねたことがありますか? 歴史は進歩し、文化も発展してきました。文化や人間の知恵により、外的な環境はある程度変化し、発展しました。しかし、心の世界は変わりません。この心の世界には革命も進歩もなく、ただそのままで「永遠」であり「不変」です。


心には明確な目的があり、それが定まると無限に進み続けます。 磁石が南北を指し示し、その方向を変えるには外からの大きな力が必要なように、良心の世界も外的な力によって動かすことはできません。したがって、この動かすことのできない心の作用は、絶対的な理念の領域に属しています。心の明確な目的観が解明されると、体のすべての細胞や感情までもが巻き込まれて動くことは間違いありません。


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問題は単純です。どれだけ素晴らしい良心の作用があったとしても、その人が備えている程度以上の作用は起こせません。 自分の限界を超える行動はできないのです。心は主体的な位置にありますが、それが何千倍、何万倍にもなることはありません。心は肉体を制御しなければならない相対的な立場にあるため、相対的な関係を超えては作用できません。


このため、良心にも違いが生じます。さまざまな違いがありますが、その良心には本質に向かう方向性が備わっています。この良心の方向性を確定させるために「観」が生まれます。たとえば「人生観」「宇宙観」、あるいは主義や真理の表象などがそれに該当します。これらは相対性を持つ完全体です。


完全なマイナスがあれば、完全なプラスをある程度推測することができます。完全なプラスがあれば、完全なマイナスが成立します。これは自然現象です。したがって、天上に永遠不変の完全な主体が存在するため、私たちの心はその完全な主体を手本とし、その主体の前に相対的な基準を形成するために、今日も明日も努力を続けるのです。


神は無理やり人間の心の基準を変えることはできません。それは肉体と調和しながら進めなければならないからです。まず肉体を整え、その肉体を特定の環境に置いた後で、その心情の方向を自然の法則に合わせなければならないのです。このような真理の法則を確立することを神は望んでおられます。


もし世界を貫き、天の原則に適合する真理が現れるならば、良心は無限に広がり、活動することができるでしょう。その真理は、私たちの心を完全な方向へ導き、肉体と調和しながら、その価値を永遠に発揮させる基盤となるのです。


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そのため、人間は真理を求め続けています。 しかし、現代の20世紀文明が誇る文明世界においても、人間の心が湧き上がり求める無限の絶対者の前に、自然な相対基準を形成する姿へと促す真理は、地上に現れていません。このため、人間は堕落の悲しみから解放されることができていないのです。


神は、さまざまな形で人間に教え導き、目的に結びつけるための悲痛な歴史を歩まれていることを考えるべきです。


今日、私たちは人生の行路を進みながら、真理の方向を探し求める逃避行路にいます。その過程で、神はどれほどの労苦を積み重ねてこられたことでしょうか。人類の歴史が抱えるすべての悲しみと、惨めな状況を思い起こすと、私たちはそれが恐ろしい歴史だったと思うかもしれません。しかし、この歴史を進めてきた主体者である神の側では、それ以上に恐ろしい戦いが今も続いているのです。この戦いがなければ、私たちは安らかに眠ることも休むこともできない惨事に直面することになるでしょう。


心は始まりであり終わりであり、魂と実存的な本体と結びつくものです。 このため、その悲しみが解消されるまで、またその悲しみを完全に克服して解決するまで、同じような深い悲しみとして心に影響を与え続けます。この悲しみを引き起こしたのは人間であり、この悲しみを延長し続けてきたのもまた人間です。このような人間に対する裁きは、当然の処置と言えるでしょう。


これからの人間は、真理を手にして本来の故郷を目指して走らなければなりません。 次に、生命を探し求めなければなりません。「私の生命の主体はどこにあるのか?」「永遠不変の生命の主体はどこにあるのか?」さらに進めば、「神は愛であり、イエスも愛だと言ったが、その愛の主体はどこにあるのか?」という問いに答える必要があります。


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そして、それらに出会い、次のように宣言するのです。「私が持っている真理の価値はこれです。私が持っている良心の基準はこれです。私が備えている愛の基準はこれです。」その価値的な評価を受け入れた後に向かう場所が霊界です。


霊界には、極めて善なる天上世界がある一方で、それに反対するサタンの世界、すなわち悪しき地獄もあります。このような霊界を知り、目指すべき方向を明確にしながら、私たちは真理と愛を追求していかなければなりません。


皆さんは何を持っていますか? 今、私たちは探し求めなければなりません。心の現象を通じて、自分の心がどのような関係にあるのかを知ったのなら、次に必要なのは、自分の心を無限に高めてくれる本体の前に、自然な作用として陰的なマイナスの立場、あるいは陽的な主体の前に対象的な立場で立つことができる、歴史的・時代的・未来的な真理です。これが、私たちが真理を探し求める理由です。主義を探し求める理由でもあります。


さらに進んで、真理を求めてさまよった先祖たちをも超えられる、偉大な勇者 が現れる必要があります。歴代の聖人や賢哲たちに向かって「一体何をしてきたのか」と問い詰め、数々の道を説いた導師たちに「何を成し遂げたのか」と抗議できるような人物が、地上に現れることを私は切に願っています。それが必要ではありませんか?


このような存在が、逃避する生活を送る人間にとって必然的な条件であり、備えるべき絶対的な条件であるならば、今日の人間は、そのような人物を迎えるための運命的な状況に置かれています。人間は、自ら望んでそのような環境に生まれたわけではありません。また、自分で解決できる根本的な原因を持っているわけでもありません。そのため、常に相対的な立場で価値的な関係を持ちたいと願っても、実際にはそのような価値的な縁を結ぶことができないのです。


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人生の行路で自分の価値を誇る人を見てください。彼らがその価値で持ちこたえられるかどうか。もし不十分な姿で自慢しているなら、周囲の環境や万物ですら「こいつ!」と思うでしょう。これは、私たちが持つ良心に基づく自然な現象です。もしも不相応な者が偉ぶっているのを見たら、皆さんはどう感じますか?「素晴らしい!」と褒めたくなるでしょうか?そうではなく、「こいつ、いい加減にしろ」と叱りたくなるはずです。これは悪い心ではなく、本然の心情なのです。


このような状況にある皆さんは、自分の価値を主張する人々の姿をよく見つめるべきです。「どのような主義か?どのような観か?」という問いには、良心の世界には主義も観も存在しないことを明確に理解する必要があります。良心の世界は、主義や観が切り離されたり、解明されたりすることができない世界なのです。


それでは、今日の私たちの価値はどれほど誇れるものでしょうか?「私はこれこれの主義を持ち、私はこのような存在だ」というのは、愚かな行いにすぎません。観念の内容を中心とした真理、あるいは天理的な内容を内包する心や生命、そして愛の心情の前に立って、自分の姿が恥ずかしくないかどうかを判断してみてください。その瞬間から、自分を見つめ直す過程が始まるでしょう。


私たちはこのような運命に置かれており、行かざるを得ません。それは必然的であり絶対的です。 真理の故郷で共に喜び合える心、真理と心が一つになり動き出す生命、そして真理と心と生命が結びつき、天情(天の情愛)を呼び起こすことのできる愛こそが、人間が求める最高のものです。


今日、皆さんはどのような立場にいますか?確かに手足を持ち、感情を持っていますが、目は何を見つめ、頭は何を考え、手足は何に向かって動いているのか? この問いに向き合う必要があります。


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「手よ、お前は真理を求めるためにどれほど苦労してきたか?」「体よ、お前は真理や本体を目指して走り続ける心にどれほど協力してきたか?」こう問いかけてみるべきです。


しかし、日々「まあ、何とかなるさ」「一杯食べたからそれでいい」「一眠りしたからそれでいい」と繰り返しているうちに、人生はあっという間に過ぎ去り、死の断崖に突き当たってしまう運命に陥ります。皆さん、人間はそのような無価値な存在ではありません。無秩序で無目的な生き方をするために、宇宙の主が私たちの命をこの地に与えたわけではありません。


原因と目的に基づく関係の現象世界を通して、不変の目的を推進しようとする縁を無視することはできません。 その縁を統合し、関係と価値を論じるべき人間が、そんなに浅はかであってよいのでしょうか?皆さんはそのような人間ではありません。


もしここに賢い人が来ているなら、「私はインテリだ」と言いながら、どこかで逃避しようとしている人に言いたいことがあります。それは、この道を一度ノックしてみてください、ということです。これこそ私が伝えたいメッセージです。


今、私たちは心の方向を高める必要があります。心の世界を広げ、地面を見るのではなく、高いところを見上げるべきです。 世界だけでなく、天を見つめるべきです。もっと高く、もっと遠くを見上げなければなりません。


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今日の私たちの心の世界は、地上の生命では満足できません。 地上のいかなる目的も、良心の作用も、そこに留まろうとはしません。人生を通じて、永遠の関係を結び、心情が無限に広がる生命力を求めていることを、皆さんは否定できないでしょう。


それでは、歴史の終わりを嘲笑し、乗り越えることのできる真理はどこにあるのでしょうか? 心の姿はどこにあるのでしょうか? 生命の姿はどこにあるのでしょうか? 愛の姿はどこにあるのでしょうか? 私たちは探し求めなければなりません。


もしこの地にメシア、救世主が現れたとしたら、その人物は明確な目的観と実践的な価値を備え、 人間と神を結びつけることができなければなりません。そして、その内容を生活の過程で証明することができなければなりません。それができないのであれば、その人はメシアでも救世主でもありません。


人類の歴史が始まって以来、万人の前に新たな視点や方向性を直接的または間接的に示し、貢献してきたものがあります。それが宗教です。 宗教の中でもキリスト教は世界の文化創造において大きな貢献をしてきました。


では、キリスト教の本質とは何でしょうか? それはイエス・キリストです。信仰者たちはイエスを救世主と呼んでいます。それでは、救世主とはどのような姿であるべきでしょうか? 救世主は、真理の本体であり、心の本体であり、生命の本体であり、愛の本体でなければなりません。 もし心の本体でないのであれば、絶対者の本体に対して相対的な存在であってもよいのです。


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この観点から天の摂理を振り返ってみると、歴史の中でイエスほど痛快な言葉を残した人物はいません。たとえば、彼は「私は神の独り子である」と宣言しました。この一言だけでも堂々としており、男らしいと思いませんか? イエスが救世主という肩書きを持っていなくても、その言葉の力強さは揺るぎません。歴史の中で、これほど痛快で堂々たる表現をした人物を見たことがありますか? 仮にそれが理想的な表現であっても、その宣言の輝きを否定することはできません。


さらに、イエスは「あなたたちは誰よりも私を愛しなさい」と言いました。どんなに感情豊かな男性でも、この言葉以上に痛快で情熱的な発言を耳にしたことがあるでしょうか? イエスは男性として最高の感性を持った人物でした。


また、彼は「私は道であり、真理であり、命である。私を通してでなければ、目的とする主体のもとへ行くことはできない」と語りました。この論理に基づき、イエスの言葉が解明され、すべての条件に適合しているので、私は彼をメシアと呼びたいと思います。皆さんはどう考えますか?


イエスは、人類を罪の束縛から解放するための王子として、私たちの人生の行路を切り拓くために先頭に立って来られた方でした。天上天下にただ一人現れた「逃避の王子」 だったのです。後に残るすべての人類も、罪の束縛から逃れるべき存在ですが、その彼らの王子として地上に来られたのがイエスでした。


イエスは私たちにとってただの聖人ではありません。彼は真理、愛、生命、心のすべてを結びつけ、神の摂理を実現するための中心人物です。この視点から、彼を救世主として受け入れることができます。


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イエスをそのように感じるならば、歴史的な真理を解明されなければなりません。 イエスに繋がるとき、本来の良心の基準が明確に立たなければなりません。イエスを見るとき、生命の永遠性が明確に刻まれるべきです。イエスを見るとき、絶対的な愛の感情が湧き上がらなければなりません。それができなければ、完全な花嫁になることはできません。


イエスは、すべての万象を創られた神の独り子です。 独り子は神の皇太子であり、天の王国に永遠に存在されるお方です。この目的を見据えて立てられた方ですから、私たちが待ち望む目的の日とは、その方に再び出会える再臨の日なのです。


そのため、人間は未だに絶対的で永遠の生命の縁を結ぶことができていません。どれほどイエスを信じても、いつかは離れてしまうことがあります。イエスが私の花婿であると告白しても、裏切りや離別が起こる可能性があります。キリスト教は真理を説いていますが、人間が進むべき心の方向を完全に示すことはできていません。このため、イエスは再び来られる必要があるのです。


今日、私たちが開拓すべきことは何でしょうか?それは、ただイエスをよく信じることだけではなく、聖書に隠された真理を見つけ出すことです。 人生の行路において悲運の曲折を引き起こした歴史的なすべての内容が、どのようにして現実と未来の世界と繋がるのかを知るために、内外の黒い障壁を切り開かなければなりません。そして、その障壁を突破し、前進するための戦いに勝利できる者となる必要があります。このような資格を持つ人々が現れるとき、初めて真理の世界が開拓されるでしょう。


真理はそのようなところで連絡を取り合い、真理の基盤はそこで根を張ります。 真理は華やかで最高の文化水準の中で根付くのではありません。それは、その文化の裏通りから真理の根を張る必要があります。真理の根は天上に張るのではなく、堕落したこの地上に張られるべきです。真理の根は天国に置くのではなく、地獄の底に置くべきなのです。


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真理の根が地獄の底に張られる日、 天上と連絡できる新たな生命体が現れるでしょう。そのとき、天の新しい生命の基準が確立されるのです。このようにして、真理は最も暗い場所から輝きを放ち、天と地を繋ぐものとなるのです。


だからこそ、私たちは真理を理想的な一面として、希望の標的として掲げましたが、それを探し求める道では、その裏通りをさまよっています。 私たちは生命の象徴を目指しながら生命の裏通りをさまよい、心の裏通りをさまよい、愛の裏通りをさまよっています。これが、人間が求める最高の道を探し求める基準であることを知らなければなりません。


道の生活をする人々は、本体的な基準で喜んでいるように見えるかもしれませんが、実際には道の裏通りで苦しみながら、それを称賛しつつ生きています。これが哀れな道の生活です。


どの民族の文化でも、その民族が革新し、新しい文化を創造する動機と源泉はどこから出てくるのでしょうか? それは、不幸な人々を抱きしめて彼らのために泣くことができる心 から生まれます。この心が爆発すると、新しい希望の炎が燃え上がり、歴史的な炎が燃え広がります。


この国が豊かな国、希望のある国になるためには、不幸で哀れな人々を抱きしめ、彼らのために泣くことができる環境を作る必要があります。 そうすれば、この国は世界を支配する存在となるでしょう。


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イエスの地上での状況はどのようなものでしたか? 彼は理想的な世界の美しさを追求する空虚な立場から、万軍の主ヤハウェの価値を称賛したわけではありません。その内容はそうであっても、生活の面では「地獄の王子」でした。このことを知る必要があります。


イエスは、真理を主張し、それを切り開くために、誰よりも心を尽くして働きました。世の人々が一つの問題を解決するために一つの苦しみを感じるのに対し、イエスは一つの真理を解明するために何千もの苦しみを感じました。そのような「地獄の王子」としての生活を送ったのがイエスだったのです。


そのようなイエスだったからこそ、地獄に行っても堂々と地獄を支配する権威を持つことができたのです。 それは、何の努力もせず、遊びながら得たものではありません。もし、体験も感じることもなく人々を罰するのであれば、その神は真の神ではありません。


イエスは、このような深い心情を持って地上に来られました。そして、「私を愛しなさい」と教えました。 その背景には次のような意味がありました。「一時的な立場で愛する者たちよ!たとえ自分の姿がどんなに尊いとしても、すべてを捨てて私を愛しなさい。そうすれば、神がさらに良い場所であなたたちを愛してくださるだろう。」


イエスの外見は哀れでしたが、180度反対の大胆な言葉を語った ということを知ってください。確固たる信念と内容がなければ、そのような言葉を語ることはできません。この視点から、イエスは真にメシアとなる資格を持っていたのです。


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今日、私たちにとって、あなたと私の縁がどのような関係で結ばれているのか分からず、また皆さんと皆さんが見ている人々との間にどのような曲折があるのか分からないとしても、去ったイエスの姿を追い求めるよりも、実体的なイエスを論じることのできる栄光の価値を持てたなら、どれほど良いことでしょうか。


これまで、多くの人々が歴史的なイエスを信じ、彼を歴史的な救世主と尊称してきました。しかし、神の摂理の前で、メシアの実体的価値を論じることのできる完成の基準を持って彼に向き合った人は一人もいませんでした。


人間として生まれ、歴史的な実体を持つ人間として生まれ、そのような資格を持つことができるならば、その人は真理の王子となるでしょう。


イエスは次のように言われました。「私はまだあなたたちに言うべきことが多いが、今はあなたたちがそれを受け入れることができない。」(ヨハネ 16:12)また、「もし地上のことを話してもあなたたちが信じないなら、まして天のことを話せばどうして信じることができようか。」(ヨハネ 3:12)


イエスは、単なる真理の実体ではなく、良心の根源であり、生命の根源であり、愛の根源 でした。そのようなイエスに対して、「これはこうではありませんか?こうあるべきではありませんか?」と問うことのできる堂々とした人物が現れるなら、私たちは両手を挙げて彼を歓迎し、迎えるべきでしょう。たとえその人物がイエスよりも高く評価されたとしても、イエスはそれを叱責されないでしょう。



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メシアの基準を知った今、私たちはどうすべきでしょうか? イエスを知った今、どうすべきでしょうか? イエスは言われました。「私は道であり、真理であり、生命である。私を通してでなければ、父のもとへ行くことはできない。」また、「天国はあなたの心の中にある。」さらに、「悔い改めよ、天国は近づいている。」 とも言われました。これらはすべてイエス自身を指しての言葉です。


このイエスを聖書の中に再現することが、キリスト教徒の最大の義務です。 イエスを聖書の中に再現する必要があります。 イエスは言われました。「私はあなたの中にあり、あなたは私の中にいる。」この言葉の通り、イエスを私たちの心の中に再現しなければなりません。それができなければ、心が指し示す基準に合わなければ、すべてが崩れ去るでしょう。


心の中にイエスを再現し、生命が躍動する中でイエスを再現し、心情が動く中でイエスを再現できる者こそ、再び来られる主を迎えることができます。 私は架空の主を望みません。そのような主は必要ありません。


逃避の道程にある人間には、敵の攻撃があり、防御があるでしょう。その攻撃を打ち破る基準とは何でしょうか? それは真理です。真理は、サタン世界のすべてを解明し、神を裏切ったサタンを罪人として追い詰め、イエスを掲げ、最終的にはサタンに勝つ内容を備えるものです。


サタンとは何に例えられるでしょうか?それは検察官のようなものです。 イエスは弁護士です。神は裁判官です。そして私たちは罪人です。このような関係性にあるのです。しかし、逃避の道程では、私たちが検察官の立場に立ち、イエスを弁護士として神を裁判官にお迎えし、サタンを犯罪者として裁く必要があります。


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サタンの起源からすべてを解明し、「これこれの罪状があるので、天の処罰をお願い申し上げます」と言えたならば、イエスは「そうだ」と承認し、神がその裁きを下されるでしょう。 そのような場面において、恐れるべきものは何もありません。そのような勝利の基準を持たなければならないのです。


そのようなイエスと縁を結んだならば、その心の世界には障害がありません。 その心には恐怖が入り込むことはできません。恐怖の現象は、悪による暗雲が広がり天地を動き回るために生じます。しかし、それを解明し、その主体を追い出せる立場に立てるならば、天地を揺るがすどんなものも、その人の生命を支配することはできないのです。


皆さんが生きているこの社会には、気づかないうちに真理の波が浸透しています。 良心の世界の流れが浸透しています。生命の感触が接近しており、心情の縁が巡り巡っています。


しかし、皆さんはそれらに対して涙を流しながら、「恐れ多いことです。どうぞおいでください」と歓迎したことがありますか? それがないのであれば、天上と地上の罪人となるのです。


「真理の波よ、私の心を打ち砕いてください。神の心情の動きよ、私の心に宿ってください。神の生命の感触よ、私の心に宿ってください。神の愛の縁よ、私の心情を支配してください」 と涙を流しながら祈る人がいるならば、その人は学問博士よりも立派な人です。このような人こそ、天が歓迎し、招くことのできる貴賓であるということを、皆さんは知るべきです。


27


イエスはそのような立場におられました。 イエスは民族の罪を見つめ、次のように語り涙を流されました。「この民族よ!あなたたちは、この民族の中に神の4000年の真理の流れがあることを知らないのか。あなたたちの心の中に神の心情が湧き上がっていることを知らないのか。あなたたちの体に神の愛が宿り、今この瞬間も切ない心情と悲しい心情を抱え、困難と悲哀と絶望の心で涙を流しながら嘆き叫ぶ神がいることを知らないのか。」 と。


イエスは去られました。 イエスは来られましたが、その使命を果たしきることができないまま去られました。では、イエスが残されたその使命を誰が引き受けるのでしょうか?学ぶべきだった真理を、誰が引き継ぎ、私たちに教えてくれるのでしょうか?開拓すべき心の畑を、誰が開拓するのでしょうか?確立すべき生命の基準を、誰が立てるのでしょうか?永遠に縁を結ぶべき愛を、誰がその縁を結んでくれるのでしょうか? イエスは嘆きに嘆き、神の右手で祈らなければならない運命にあることを、私たちは知るべきです。


そのようなイエスが私たちの新郎です。どんなに冷たい心の人間であっても、その心情に浸り、世界を見つめるとき、そこにはイエスの涙と血が染みついていることを知るでしょう。そして天地を見上げるとき、神の愛がその心に染み渡るのを感じるでしょう。


「父なる神よ!イエスよ!」 と呼びかけながら、他の人々が進まない道を昼夜を問わず走り続け、天倫と共に歩む人は、神の同労者です。天はそのような人を必要としています。人類はそのような人が現れることを待ち望んでいます。


私たちの大韓民国もそのような青年男女が現れることを望んでいます。 他の人々が華やかなネオンサインの光の下で酒を酌み交わすその時間に、胸を抱きしめながら、「天よ!地よ!この運命の悲しみを私に任せてください。」 と祈る青年男女がいるならば、この国は決して滅びることはありません。


28


全ての創造物の裏通りに生命の理念の根があることを忘れれば、その国は滅びます。 高い地位に登る前に、低い場所で犠牲の供え物となり、血を流し倒れながら、「この民族よ、この国の運命よ」と 心配できる人が必要です。また、そのような心配の声を聞き、その場所を訪れることができる指導者がいれば、その国は栄えます。天の歴史はそのような歴史でした。


この地に来たどの預言者や神に選ばれた偉大な者の中で、血を流さなかった者がいるでしょうか? 血と汗を流す道を歩まなかった者がいるでしょうか?人生の裏通りで苦しみ、踏みつけられ、蹴られ、押され、倒れながらもその道を行こうとする人々が、道義の道を行く人々です。


悲しみの中にある人々を尊敬します。 彼らは死の裏通りで生命の根を張るために苦しみ、追いやられています。この民族は、自分でも気づかないうちに、歴史と生命の流れ、真理の流れ、心情の流れ、愛の流れと縁を結び、その基盤を広げてきました。このような人々を、天も無視することはできません。天もそのような人々を無視することは決してありません。


人類の裏通りで人類全体を責任持とうとされたイエスは、栄光のメシアではありませんでした。 愛と喜びと幸福を歌うメシアではありませんでした。苦しみのメシアであり、悲しみのメシアであり、死のメシアでした。人類を責任持ち、裏通りの最も屈辱的な場所で、不当に扱われ、売られたイエスだったことを、私たちは知らなければなりません。


イエスを信じるということは、簡単に飛びついて掴むようなものではありません。「どうしようもない、もうダメだ」と嘆きながら、涙とともに掴み取る行為なのです。これを否定することはできないでしょう?


29


イエスは次のように言われました。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を否定し、毎日自分の十字架を背負って私に従いなさい。」(ルカ 9:23)


ここで言う「自己」とは何でしょうか?それはサタン世界の権威を意味します。自己を中心とした個人の権威、自己を中心とした批判の基準、自己を中心とした感覚の世界は、この世の王、サタンから与えられたものです。これを断ち切り、孤独に涙を流しながら、暗く絶望的な人生の裏通りで苦しみ、肥やしとなり、そこに生命が根を下ろす基盤を築く人々こそが、道義の生活を送る人々です。


今日、キリスト教徒はそのような生活を送らなければなりません。華やかな文化の最前線で、新時代の夢を歌い、それに満足している人々がいるならば、彼らは歴史から糾弾され、この世の終わりの裁きの場に押し込まれるでしょう。


一方で、「あなたたちは皆行きなさい。私はここを守る」と言い、死の淵を自らの体で、血と涙で埋めて平地にしようとする集団があるならば、神はその集団を通して働かれるでしょう。


歴史は新しい理念と新しい形で成り立ちます。しかし、それは良い場所から始まるのではなく、悪い場所から始まるのです。このことを私たちは学び、知っているはずです。そのため、罪がある場所に恩恵が多いというのです。


30


神の歴史は、困難で低い場所から始まり、そこに根付いた人々を通して進んできました。この事実を忘れず、私たち自身もその流れに加わる準備を整えるべきです。


私たちがこれから進むべき道は、心を開き、次のように神に訴えることから始まります。「神様!イエスは来られて去られましたが、私の心は無限に高まり、絶対者の前に堂々と立つことができる相対的な価値を歌える心の基準を持つには至りませんでした。私はどうすればよいのでしょうか?」 このように神に抗議することを知るべきです。イエスに訴え、聖書を持って抗議する必要があります。他人の言葉をただ信じているだけでは失敗します。韓国の歴史も、他人の言葉を信じ続けたことで不幸な支配を受けた過去を持っています。


私たちはただの受動的な信仰ではなく、「本質的に正しいものは何か」 を問い続けるべきです。神が人類を探し求める中で、すべてのことを無条件に信じるのではなく、本質的に誤りが含まれていないかを見極める必要があります。イエスが教えられた真理や、聖書の中の言葉が結果として実現されていない場合、「なぜそのように実現されなかったのですか?」 と神に抗議する必要があります。その際、自分自身の立場を明確に証明し、神に問いかけることが必要です。神はそのような抗議を受け止められるのです。


今日、キリスト教ではイエスの再臨を、仏教では弥勒仏の降臨を、儒教では真の人の出現を語っています。これは、単に既存の教えを再現することではなく、「より高度な新しい言葉を持つ主」 の到来を示しています。そのため、私たちは天があると信じるならば、天が答えを出されるまで抗議し続けるべきです。


イエスを信じる目的とは何でしょうか?信じてその後どうするのでしょうか? 新婦になることが目的ならば、その先には何があるのでしょうか?新郎であるイエスと出会い、愛を受けることでしょう。しかし、その愛を本当に受けたことがありますか?もしそうでなければ、抗議する必要があるのではないでしょうか?


31


私は次のように考えます。「イエスが私を愛してくださるならそれでよい。もしそうでなくても、私はイエスを越えて神の愛を受ける。」 イエスは神の愛を受けるための条件であり、その役割を果たす存在です。


私たちは他人の言葉をそのまま受け入れるだけでなく、真実と本質を探し求め、神に向かって問いかけ、抗議する信仰を持つべきです。そうすることで、新しい歴史と新しい愛の基準が築かれるのです。イエスを通じて神の愛に近づき、さらなる成長を目指すことが、私たちの真の使命であると言えます。


だからこそ、パウロは「私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、誰が私を引き離すことができるだろうか」と言いました。キリストにある神の愛は、新婦という名詞的な権限の中にある愛ではありません。イエス自身も新婦を迎え、神からの祝福を受けなければ、この天の大いなる事業を引き継ぐことはできません。これを皆さんは知らなければなりません。神を中心とした愛の縁を結ぶ必要があるのです。


では、皆さんはこの内容を備えるために、心の扉を開き、真理の波が押し寄せる感覚を感じたことがありますか?清らかな良心を駆り立てたことがありますか? 良心に囁きかけてくる生命の痕跡を掴み、それを歌にしてみたことがありますか?無限の世界と縁を結び、生命の爆発力として現れる心情的な何かを感じたことがあるでしょうか?それともまだ感じたことがありませんか?


神は被造物である人間に、自己創造的な真理の面、自己創造的な心情の感性、自己創造的な生命の感性、そして自己創造的な愛の感性を、それぞれの分量に応じて感じられるように創造されました。そうでなければ、愛されることはありません。死んだような姿であれば、誰が愛するでしょうか?


32


真理的な形、心情的な形、心の形、生命的な形、愛の形、それぞれが自己の本性に基づいた自発的な活力を感じられる刺激を得た人だけが、神から「よし、私の子だ」と認められるのです。それが生きることの本質です。これを否定できるでしょうか?


少しの間違いでも誤解を招くことがあります。本性として与えられた基盤の上で、自己の生命、自己の真理、自己の心の力、自己の生命の衝撃など、自己を表現しうる原初的な内容や動機的な内容を備えることが、絶対者の前に相対的な基準を立てるために必要です。 しかし、与えられたものをただ消費し、立たせても倒れるようではいけません。


今日、逃避の砦を目指して進む人生の行路において、自分の姿はどのようなものか、神は何を求めておられるのかを知るべきです。神は、人間が語られた真理の原動力となる実体になることを期待して、6000年もの間、苦しんでこられたことをはっきりと理解しなければなりません。


その境地に入るとき、キリストがそうであったように、「私は神の中にあり、神も私の中にいる」と 自信を持って言えることを、皆さんが体験を通じて理解することができるでしょう。


そのような動機的な感覚を持ち、死の道を堂々と進もうとする「逃避の王子」を捉えることは誰にもできません。彼は真理とともに動き、私たちの心の世界と調和し、生命の原則とつながり、無限に動き続け、心情の世界と共に無限の創造の妙味を示す存在です。そのため、彼は天が絶対的に保護するのです。


33


もしそのような境地において、自分自身の価値を論じ、自分を中心に神と自分の関係を語れるようになったなら、その姿を見られる神はどれほど喜ばれるでしょうか。たとえば、自分が書いた本の中で「この人はこういう人だ」と記した際に、その人が「なぜそんなふうに書くんだ!」と怒るでしょうか?むしろ、「あなたが言わなくても、あなたの心はこうではありませんか?」と穏やかな調子で歌い上げるように伝えられたらどうでしょう?どちらの方が心に響くでしょうか?


神の創造の理想は、自らの心情に内在するすべての刺激的な感性を人間に示し、その価値を見て喜ばれることにあります。


自分を中心に生きる人は、最終的に自分を失い、滅びます。 自分の価値を100%歌い上げた人々も、死と共に消え去る運命にあります。家庭の孝子、忠節な婦人、国家の忠臣であっても、その国家が世界の潮流に流され、融合し、滅びるとき、彼らも共に消え去ります。


私たちが逃避の砦に向かって進むためには、すべての個人的なものや自己中心的な感情を断ち切らなければなりません。 6000年の歴史の中で、そのような人が現れたなら、神がその人を祝福されないはずがありません。しかし、そのような人が現れなかったために、神は嘆かれているのです。


もし韓国にそのような青年が現れるなら、神を韓国にお迎えすることができるでしょう。これは過言ではありません。受信機が強力な信号を捉え、全ての力を引き寄せ、再び発信する力を持っているならば、その原動力を備えた存在となれるのです。


34


人類はこれまで、自分を中心にして嘆き、自らの狭い価値を語り、悲しみに暮れてきました。これは実に哀れな姿です。一つの家庭や国家、世界的な主義思想に自らを縛り付けて苦しむ人類の無価値な姿を見て、「お前たち、どけ!」と叫ぶ権限を持つ者、それがメシアです。


観念的な歴史観は簡単に過ぎ去ってしまいます。もし、宇宙を認識的に解明できなければ、歴史はこのまま続くでしょう。歴史は、私たちにすべての基準と基盤を整えて解決することができませんでした。 そのため、まずこの根本的な問題から解明しなければならないのです。


外面的には歴史の流れと、内面的には心が動く方向に歩調を合わせ、堂々と進むべき分岐点で神の前に立つならば、神は「よし、勝利の王子だ」と印を押してくださるでしょう。ここで語られる人は、そのように信じています。


今や私たちは、誰かの言葉をただ聞いているだけではいけない時代に来ました。どんな真理や、どんなに優れた教師の言葉よりも、自分の心の声を聞き、それをさらに聞きたくなるように、その心を探し求めなければなりません。そうすれば、自分でも分からない無限の何かが現れます。それが創造の内容です。


偉大な科学者が高度な分子公式を解こうとする際、相応する基準を見つけられずに苦労することがあります。しかし、一つの相対的な基準を掴めば、全てが解明されることもあります。その基準を掴むためには、眠りを忘れ、食べ物を忘れ、生活上の感情すらも忘れ、これまで五感で感じていた全てを忘れて没頭する必要があります。そのように苦闘する中で、内的な体系から外的で実証的な公式が文化の軌道として現れるのです。


35


人間は、このような働きをする中間的な存在に過ぎません。このような私たち人間は、現在どのような立場にあるのでしょうか?原因の世界にも、目的の世界にもいません。私たちは関係の世界で苦闘しています。この関係の世界もまた、やがて過ぎ去るものです。数学の問題を解く際、ある公式に数値を代入して答えが得られると、答え以外のものは必要なくなるのと同じです。


関係の世界が悲惨であったならば、この関係の世界の悲惨さを解明し、神の意志と心情をつなげることができる人がいれば、その人は必ず永生します。歴史と共に裁かれることはなく、終わりの日と共に滅びることもないのです。このことをはっきりと理解してください。


結論として、問題は自分自身にあるのです。私たちが信じるイエスが、食べるものも、着るものも満足に得られず、夜も眠らず祈られたのはなぜでしょうか?それは人生の道があまりにも忙しかったからです。イエスは自らの道を解決しなければならず、民族の道を解決しなければならず、世界の道を解決しなければならなかったため、何百倍もの努力をされたのです。


私たちも、人生の道を進む中で、どれほど苦労し、努力し、この道を切り開いていくべきかを各自で考えてください。人生の道の脱落者とならず、この人生の滑走路を進む途中で墜落する者とならず、堂々と大空を飛ぶジェット機のように飛翔できる勇者の姿を目指しましょう。




<祈り>


父なる神様! 多くの人がこの地を訪れ、去っていきましたが、時間と空間を超え、生命の縁を結んでくださった方はおられなかったことを私たちは知っております。その唯一の方を人類は歴史と共に待ち望み、今日も天に向かって悲痛な叫びを上げています。


36


ここにひれ伏しているあなたの息子娘たちは、御言葉を聞いて気づきました。問題は他者にあるのではなく、自分自身にあるのだと。いかなる対象的な存在の観念が問題なのではなく、自分を中心に据えて決断できる実体的な内容こそが問題であることを理解しました。


このような内容を備え、あなたを「父」と呼べる存在をあなたがどれほど待ち望まれているかを知りました。どうか、私たちがそのような息子娘となるよう導いてください。


私たちの心が無限にあなたの前に調和し、体もあなたの前に調和し、永遠なるあなたの生命と愛の前に、自らがあるのかないのか、体の内にいるのか体の外にいるのかすら分からないほどの近い距離で、証を立てる者となること。これが変わらぬ実体として唯一の目的であることを御言葉を通じて聞きました。どうか今日、その感覚を私たちが得られるようにしてください。


私はどのような立場にあるのでしょうか。居眠りをしているのか、道を外れて迷い苦しんでいるのか、休んでいるのか、それとも眠っているのか、どのような環境にあるのかを自分で知るために戦わなければならないことを認識しております。心の戦い、生命の戦い、心情の戦いを経なければならない開拓的な道程が、私たちの前に残されていることを知りました。


そのような過程を通らなければ、私たちが目的の世界と縁を結ぶことができないということも理解しました。


37


今日、この目的に向かって進む私たちの心と体をどうか励まし、本郷に近づけるようにしてください。生命の御言葉が私たちの骨と肉の奥深くに永遠に刻まれるように導いてください。


これらすべての言葉を主の御名によってお捧げいたします。アーメン。

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御言葉選集7(6)

2025年01月11日 15時07分22秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 7−6 父のものは私のもの
1959年8月30日(日)、前本部教会にて


ヨハネによる福音書 14:11
コリント人への第一の手紙 13:1-13


1
<祈り>
私たちは、ただ御言葉としての父を信じたいのではありません。歴史的な因縁を結びながら歩んでこられた父を信じたいのです。今日の私自身と直接的な関係を結び、直接的な因縁を築いてくださる父を求めています。そして、私たちに直接御言葉をお与えくださる父を切実に求めています。


今日、人類は神様を対象的な存在として信じていますが、私たちはそのような信仰の対象としての神様を求めているのではありません。私たちは、生活的で実証可能な主体として存在される神様を望んでいます。そして、私たちの事情や生活のあらゆる事実を貫き、分かたれようとしても分かたれることなく、あらゆる時に共に生活を共にできる父を切に待ち望んでいます。このような因縁が地上で実現するその時こそ、人類が望む時であり、同時に神様が望まれる時でもあります。


今日、私たちは、父が望まれる理想の園を観念的にどこかの理想郷であると考えていましたが、実際にはそれはそうではありませんでした。私たちは、心の奥深くから染み入り、実践を通じて感じられ、現実の自分自身を通じて感じ取ることができ、自分の感情を通じて歌うことができる、そうした天国観を持たなければならない時が来ていることを知っています。


こうした関係を築き、その因縁を結ぶことこそが救いの摂理の目的であり、復帰歴史の目的であり、十字架の救いの目的であったことを私たちは理解しています。それゆえに、今日、私たちが「真の父」と呼ぶことができ、また「真の息子・娘」として自ら認め、自ら断言しても恥じることのない立場で、歌うことができ、喜びを感じ、言葉を聞くことができる、このひとときをお与えくださいますよう、父よ、心から願い、切に求めます。


歴史的な父について私たちは多くを学び、御言葉の中におられる父を多く知りました。しかし、今私たちが求めているのは、私たちの心の中で証しできるその父、私たちの身体で体感できるその父、私たちの口から発する言葉が父の御言葉となるように力を発揮できるその父、そして私たちと共にいてくださるその父です。どうか、父が実証的な感覚を起こしてくださるこのひとときとなりますよう、お父様、心から願い求めます。


2


お父様、ここに集まったあなたの息子・娘たちが、それぞれの心と体を整理し、整えられるように歴史を働きかけてください。心の主人も自分ではなく、体の主人も自分ではありません。ただ漠然と遠くを見つめ、信じ、遠くを見つめて希望を抱き、さらには何らかの絶対者に帰依し、頼ろうとする私たちですが、主体的な絶対者が認めてくださる立場にはいない私たちです。


そのため、私たちが対象的な価値の位置に立つ者として、絶対者の恵みを受けるにはまだ不足していることを自覚しています。どうか、父が主体となってくださり、私たちを相対的な位置に立たせてください。絶対者であり主体者であるあなたの理念を、相対的な私たちの理念として受け渡すことができるようお許しください。そして、私たちの心がその理念に浸り、父のすべての愛を歌えるよう導いてください。


心で動き、心で伝え、感情で体感し、感情で伝え、身体をもって屈し、身体で一体となる働きが、このひとときに起こることをお許しください。父よ、心から願い求めます。


これから御言葉を伝えようと思いますので、どうかお父様、共にいてくださいますようお願い申し上げます。私たちは人の言葉を求めているのではありません。今日まで人間たちが語る言葉を私たちは十分に聞いてきました。また、講壇で語る数多くの教職者たちの言葉もすでに十分に聞きました。しかし、それを求めているのではありません。死んでいた命を躍動させ、冷え切った心情を湧き上がらせ、曇っていた心を清らかにすることができる新しい御言葉を求めています。そして、私の父が私の心情、私の志、私の理念、私の主体であることを知り、父と私たちが永遠に一つであることを感じられる再創造の御言葉を求めています。どうかそれをお示しくださり、直接的な恵みの雨を降り注いでくださるこのひとときとなりますよう、父よ、心から願い求めます。


語る者の心と聞く者の心の間に隙間を生じさせることがサタンの働きであることを知っています。ですから、この時間、自己の力で立とうとする思いを捨て、父によって立つという立場に立ち、父の前にすべてを委ね、頼り、希望し、期待する者となれるよう導いてください。父の憐れみを受けることができる貴い時間をお許しくださいますようお願い申し上げます。このすべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


3


<御言葉>
今日、皆さんにお伝えしようと思う御言葉のタイトルは「父のものは私のもの」です。このテーマを広げるならば、「神様のものは私たちのもの」となります。このようなタイトルをもって、しばらくお話しいたします。


私たちはこれまで、自分の価値が無限であると考えてきました。しかし、価値の中身については理解せず、ただ価値を持つ存在であるということだけを認識している立場にいます。それにもかかわらず、自分自身の完全な価値を見出し、それを確立して完全に誇れる存在となり、歴史的で宇宙的な大いなる実在の前で堂々と威厳を持って誇示できる姿には至っていないということを、私たちは感じています。


このような立場にいる私たちだからこそ、価値のある存在、価値ある姿、価値ある因縁、そして価値ある世界を切実に求めているという事実を、誰も否定することはできないでしょう。私たちはそのような場所を求めて歩んでいかなければならない存在なのです。このことを認めつつ、万象を見つめ、大宇宙を見上げるとき、私たちは虚しさを感じずにはいられません。


そのため、私たちは頼るべき何かを追い求めざるを得ない運命に置かれていることを、常に良心の働きを通して、良心の作用を通して体感しています。この観点から見れば、たとえ神が存在しないとしても、仮想的な絶対者を立てなければならないのです。このような私たち、このような立場に生きる私たちが、もし感じ、楽しみ、歌い上げるような何らかの行動の過程があるとして、それが価値的な因縁を結び、感じ、楽しむことができるものであるのかと考えると、そうではないということを、私が言わずとも皆さんが確信できるでしょう。


このような状況に置かれた人間であるがゆえに、このような悲惨な事情の中に絡み取られた人間であるがゆえに、もし天が存在するならば、ここにどのような因縁を築かなければならない責任があるかを考えざるを得ません。もし天が絶対的な価値の主体であり、価値の本体であるならば、天がその価値ある因縁を探し出し、確立するために尽力しないのであれば、神に「愛」やその他の言葉を適用することはできないという事実を、私たちは論理的な観点から認めざるを得ません。


4


私たちは人間が堕落したという事実を知っています。そして本然の位置を失ったということも知っています。つまり、本来の価値を失った存在が人間なのです。このような私、このような私たちは、この世界全体を見つめて、もし天が存在するのならば「天よ」と叫ばずにはいられず、もし絶対者が存在するのならば「絶対者よ」と叫ばずにはいられません。そして、善の形を備えた何かが存在するのであれば、それが実体として現れてくれることを切に願わなければなりません。また、そのような絶対者や天、あるいは善なる存在を心から切実に求め、憧れなければなりません。


天は、このような状況、このような立場にある人間をよくご存じであるがゆえに、私たちを探し出すために、あらゆる苦労と努力、そして自己犠牲をいとわず、全人類を救おうとしてご自身を費やすことも気にせず、全体の価値を超える価値を見つけるために探し求めておられるのです。この事実を認めるならば、私たちは謹んだ心をもって両手を合わせ、その前に礼拝を捧げなければなりません。


このような全体の動き、歴史の流れ、心情の流れを見つめるとき、私たち自身は気づかなくとも、歴史の背後や私たちの心情の深い流れの背後には、何かが私たちを導き、促しているのです。私たちの心情の深い部分には、私たちをして価値を追求させる何かが存在しているということを理解する必要があります。これを偶然のもの、自然のものとして片付けてしまってはいけません。それは、私たちとの間に断ち切ることのできない何らかの因縁が結ばれているからです。


皆さんがその因縁を解き明かし、その価値を語るとき、最大の善である神の存在がそこに関わっていることを理解する必要があります。このような関係は、結ぼうとしなくても結ばれているものであり、断ち切ろうとしても断ち切れないものなのです。


このように、天はその背後でご自身の苦しみを甘受しながら、絶対的な価値を人間に付与するために、今日まで尽力してこられました。そして今後もその努力を続けざるを得ない立場におられるという事実を私たちが知るとき、天について考えるだけで、畏敬の念を抱かずにはいられず、謹んだ心で頭を垂れることしかできません。


5


このような事情から、神は人類に向かい、彼らがその内容も、意図も理解できない言葉を宣言してこられました。神は宗教を設け、深い因縁を結ぶための内的な意図をお持ちでありながら、その因縁を結ばなければならない私たちには漠然と「私を信じよ」と語りかけてこられました。その宣言の内容は曖昧なものでした。また、「私を仰ぎ見よ」と叫び、「私を愛せよ」と叫び続けてこられました。それがどのような因縁や内容に基づいているのかは分かりませんが、それを聞き、体験してみると、それは断ち切ることのできない心情的な因縁の世界に何か深く関係していることを否定できません。


人間はそのような漠然とした言葉に依存しながら信じて歩み、希望を抱いて進み、愛しながら歩んできました。しかし、信仰者たちは信じる場で倒れ、希望する場で倒れ、愛する場で倒れてきました。信仰の道を歩む中で挫折した人は非常に多かったのです。天を信じて命を落とした人の数は、ある一国の忠臣や烈士よりも何千倍、何万倍にも上ります。希望を抱きながら命を落とした人、愛を捧げながら命を落とした人もまた非常に多いのです。しかし、その中で「信仰の王者」「希望の王者」「愛の王者」と称された人は一人もいませんでした。


事実がそのようであるならば、私たちは神に対して恨みを抱くべきでしょう。事実がそのようであるならば、「信じる」という言葉も、「希望する」という言葉も、「愛する」という言葉も存在しないはずです。


6千年の摂理の歴史を振り返るとき、信仰の勝利者になろうとして倒れた人は多くいましたが、信仰の大王者となって人類の前で称えられた人は一人もいませんでした。また、希望の基盤を見つけようと彷徨った人も多くいましたが、その希望の基盤の上で天の称賛を受け、人類から称えられた人はいませんでした。愛を語った人も数多くいましたが、それも同じ結果でした。


しかし、イエス・キリストは、神が4,000年間探し求めていた信仰の実体であり、父の心情を完全に体感された方でした。そのような方であるということを、民族は知りませんでした。民族は知らなかったのです。世界中の誰一人として、それを知る者はいませんでした。それを知っていたのは、ただ一人、神だけでした。


6


だからこそ、イエス様には行くべき場所がありませんでした。信仰の歴史を創造するために来られたにもかかわらず、それを理解し受け入れる人がいなかったため、世界を背にして理解してくださる方を探し求められた道が、十字架の道でした。こうしてイエス様は神の信仰を受け継ぎ、人類の希望となる神の希望を受け継ぎ、無形の神を代わる実体的な信仰の主体、実体的な希望の主体となられたのです。イエス様は、神の相対的な信仰の主体ではなく、絶対的な信仰の主体として、無形の神に代わり地上に現れた方です。そのため、たとえ神を信じないとしても、イエス様は信じなければなりません。


聖書は「イエスを信じよ、イエスを望め、イエスを愛せよ」と教えています。なぜなら、実体を持つ人間には実体が近しい存在だからです。だからこそ、私たち人類はイエス様を実体の姿として立ててくださった神の尽力と功績の前に、頭を垂れ、何万回でも涙を流して感謝するべきです。このことを知る必要があります。しかし、信仰の基盤を築き、希望の環境を切り拓き、愛の囲いを作ろうとされたイエス様の理念は、この地上で成し遂げられることはありませんでした。


4千年の歴史は信仰の実体を立てるための歴史であり、イエスと聖霊以降の2千年の歴史は希望の実体を立てるための歴史です。主義や思想の基準もまたそれに基づいています。しかし、イエス様が望んだ世界観と、その反対の世界観が、今日の民主主義と共産主義として現れています。このように希望が最終段階に達しているため、この時代を「終末」と呼ぶのです。ただ漠然と「終末」と言っているのではありません。


イエス様はどのような「祖先」でしょうか?信仰の祖先というよりも、希望の祖先です。それも、実体として希望を与えることのできる祖先です。人間に希望があるとすれば、皆さんは何を希望するでしょうか?私たちは、身体の中で心が貴いことを知っています。そして、心の中では心情が最も貴いことを知っています。もし希望があるとすれば、それは心の実体的対象、心情の実体的対象となる方以上の希望はないのです。だからこそ、イエス様は人類に対して「あなたたちは花嫁であり、私は花婿だ」と語られました。このことをしっかりと理解してください。つまり、世界がどれほど進んだとしても、人類が希望するその範囲を超えることはできないのです。


では、希望とはどのようなものでしょうか?今日のキリスト教は、言葉としての希望の世界を求めています。しかし、今は言葉を超えて、実体を待ち望む時代に来ています。どれほど多くの信仰的名詞があろうとも、信仰の歴史が素晴らしいものであろうとも、今必要なのは一人の実体です。その一つの実体が現れなければ、言葉としての希望の世界観は行き詰まってしまいます。実体を結びつけることができなければ、その世界は歴史とともに消えてしまうでしょう。見守っていてください。


7


今日のキリスト教は、名実ともに世界的な宗教となり、民主主義を中心とした民主陣営の世界路線もキリスト教理念の一部によって動いています。しかし、それも終わりが近づいています。ここで必要なのは何でしょうか?言葉だけを持って喜ぶことが目的ではありません。実体として永遠の生活を喜び楽しむことができるものでなければなりません。


歴史は旋風のように回り続けています。このように渦巻く今日の時流の中にいる私たちは、過去の信仰の祖であるアブラハムと、その後の歴代の預言者たちの姿を仰ぎ見ます。そして、その後2,000年間の希望の王子であったイエスを見つめ、激しい闘争の歴史を振り返ります。


しかし、彼らが成し遂げようとしたのは、言葉を中心とした約束の希望であり、実体的な生活として現れる希望ではありませんでした。したがって、彼らが望んだ希望の一日が実体的に成就する時、それが終末であり、それを成し遂げることが再臨の理想です。そして、その意図を成就させるために来られる方が再臨主です。


では、今何が残されているのでしょうか? 信仰を中心とした時代は、イエスによって終わりを迎えました。イエスは信仰そのものの実体であるため、彼を信じるならば、それ以前の4,000年間で信仰してきたどの人物よりも素晴らしい価値を持つことができるのです。イエスは、信仰を持たない民の前に信仰を立てなければならず、希望を持たない民の前に希望を立てなければなりませんでした。そうではなかったでしょうか?


この聖書をご覧ください。アブラハム以降の予言を見てください。信仰を基盤とした希望とは、ただ一人のメシアを掴むことでした。しかし、再び象徴的な約束の領域内で「花婿と花嫁」という希望を持つようになりました。それはイエスが十字架で死を迎えたためです。皆さんはこのことを知らずに信じています。しかし、今はその意味を理解できなくとも、いずれ理解する時が来るでしょう。もしそれが実体的な神の働きであるならば、そうでなければなりません。それが道理にかなっているのです。


8


では、希望の実体であり信仰の実体であるその方が成し遂げようとされることは何でしょうか?言い換えるならば、希望と信仰の目的とはどこにあるのでしょうか?それは、人間が自らを見出し、愛を歌うことにあります。それ以外にはありません。主に出会う目的とは何でしょうか?それは、主を通して自分の価値を認められ、主の愛の懐で生きるためです。これこそが人類の最大の目的です。


神が信仰を立てた目的、神が希望を立てた目的、神が愛を立てた目的――それらの目的は、イエスのためでもなく、アブラハムのためでもなく、私たちの先祖の誰かのためでもなく、まさに今日の「私」のためなのです。では、私のために6,000年の間、信じ続け、探し続けてこられた方は誰でしょうか?それは神です。その方は誰でしょうか?それは私の父です。そのことにこそ、天地が覆るような深い事情があるのです。


だからこそ、信じてきた父、希望してきた父、愛してきた父、その父をあなたたちが掴むとき、イエスも「今まであなたに会うために苦労してきた。あなたのために尽力した」と言えるようになり、神もまた同じように語られるはずです。そのような立場で、あなたたちが「神様、一緒に暮らしましょう。イエス様、一緒に暮らしましょう」と言うとき、神やイエスが「そうだ、あなたと永遠に一緒に暮らそう」と言ってくださる場所が天国です。空想的な天国や架空の天国は、人類には必要ありません。私たちはこのような実体的な天国を実現するために戦わなければなりません。


イエス様は地上に来てから去られる際に、「私が成し遂げられなかったことを、私を信じる代わりに聖霊を信じなさい」と語られました。皆さん、イエスだけを信じれば救われると思っていませんか?それは大きな間違いです。聖霊を信じても救われます。聖霊は人々をして神の子を信じさせる働きをされるのですから、聖霊も信じなければなりません。


聖霊とはどのような神でしょうか?聖霊は「母の神」です。このことを今日のキリスト教徒は知りません。もし私の言葉が嘘だと思うならば、神に尋ねてみてください。私がここで語っているのは確信に基づいています。それは真実なのです。


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聖霊は母の神であり、イエスは人類の真の父です。真の父とは完成されたアダムです。アダムが堕落して人類の真の祖先となれなかったため、私たちはすべて真の祖先ではなく偽りの祖先の子孫です。この状況において、真の祖先として来られる方がメシアです。すなわち「真の父」ということです。しかし、今日のキリスト教では三位一体の神についてあれこれと言いますが、イエスは真の父であり、聖霊は母です。この父と母の愛を受けなければ、人は再び生まれ変わることはできません。子供が親の愛なしに生まれることがあるでしょうか?


だからこそ、『ヨハネの黙示録』に「御霊と花嫁が言う、『来なさい』。これを聞く者も『来なさい』と言うであろう。渇く者も来るがよい。命の水を、値なしで受けるがよい」(黙示録22:17)と書かれています。この日は聖霊が実体として現れる日です。それが再臨の時代であり、花嫁が装いを整える日です。小羊の婚宴とは、失われた真の父母を迎え入れる日なのです。このようなときには、名目的な神、信仰の対象としての神はもはや必要なくなります。名前だけの神を信じることや、外見的な信仰生活は必要ありません。私たちには実体としての神が必要なのです。


では、信仰の実体の主体は誰だったのでしょうか?それはイエスでした。希望の実体、その主体は誰だったのでしょうか?それもイエスでした。愛の実体、愛の主体は誰だったのでしょうか?それもイエスでした。このようなイエスを神は地上に送られましたが、人間は彼を認識せず、不信仰のゆえに彼は地上を去らなければなりませんでした。では、イエスはいつ再び来られるのでしょうか?一度「花婿」として来られたことを知る人がいなかったため、再び来ることができないのです。なぜなら、たとえ再び来られたとしても、また冷遇されることが目に見えているからです。このような悲しみを神は抱えておられることを、皆さんは知らなければなりません。「主が来られれば、私を探してくださるだろう」と考える信者たちが、キリスト教を衰退させ、神の意志を破壊しているのです。


神は人類を探し出しに来られるでしょう。しかし、信仰の実体、希望の実体、愛の実体がこの世に現れない限り、信仰を立てた目的、希望を立てた目的、愛を立てた目的は解決されません。それは確実なことです。ですから、皆さんは、「私自身がいなければ、神も神としての役割を果たすことができない」ということを知らなければなりません。私がいなければ、神もこの世界を動かすことができないのです。イエス様はこのような信念を持って生きられました。自分自身がいなければ、神の愛を紹介することはできないということをよく理解されていたのです。


今は「証明の時代」と呼ばれる時代です。「科学の時代」とも言われます。科学とは論理的なものです。論理的であるということは、原因と結果が体系的に一致している必要があります。その論理的な事実を生活の中で実証し、実行できるとき、それを科学的であると言います。人間は本来、そのように創造されています。生活的で実証的な立場を離れた幸せというものは存在しません。そのような基盤から離れた「民族」や「国家」もあり得ないのです。だからこそ、神もまた、実体を伴って議論しようとされるのです。


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では、終末とはどのような時代でしょうか?それは、信仰を立てるための4,000年の歴史と、希望を立てるための2,000年の歴史が終わる時代であり、信仰の王子、希望の王子、愛の王子が現れる時代です。しかし人々は、主が「雲に乗ってふわふわと空から来られる」と信じていますが、そうではありません。もしそうだとすれば、晴れ渡った雲一つない青空の日には、主は来られないことになりますよね?


私もそのような信仰生活を送ったことがあります。もどかしさと息苦しさから地を叩き、天に対して何十回も抗議したことがありました。しかし、突き進んでみると、それが本当ではないことを悟りました。そして正しいことを語るようになると、非難される者の代表となりました。「異端者」という烙印を押されながら生きています。過去にはパウロも「異端者の頭」と呼ばれましたし、真実をもたらしたメシアも「バアルゼブルの霊に取り憑かれた者」と揶揄されました。それは歴史的な悲しみでした。悲しみで始まった歴史である以上、悲しみで終わらなければならないのです。


信仰深い信徒がいるとすれば、教会の床に伏して祈る信徒を大切に見てください。教役者たちが彼らを追い出し、涙を流しながら振り返って教会を去る羊たちについて行ってみてください。そこには、新しい花園が近くにあることを感じるでしょう。冷たい風が吹きつける一瞬が過ぎれば、春の季節が訪れることを誰が予想したでしょうか?その身体は逆境の中にあっても、その心には春の季節を迎える威厳ある花嫁の姿を持つ一人、私は主がそのような人を探しに来られると思います。


大勢の人々の前で雄弁を振るう「言葉の王子」は数多くいますが、実体の主人公は存在しません。信仰の実体としての教役者はいません。希望の実体としての教役者もいません。愛の実体としての教役者もいません。このような状況で、この教団、この信徒たちはどこへ向かうのでしょうか?終末の信徒たちはどこへ行くべきなのでしょうか?


この韓国の天地で、「ムン」という一人の存在は異端者の頭として追われ、民族の反逆者とされ、命を失うことがあったとしても、この民族が祝福を受けるのであれば、私はその道を行きます。


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実際的で証拠的な祭壇がなくなった今、実体的な祭壇を築ける天の信仰の王子はどこにいるのでしょうか? 今必要なのは、そのような人です。数多くの群衆が必要なのではありません。数多くの兵士を従えて号令をかける指導者ではなく、数万の兵士のために眠れない夜を過ごす将軍が必要なのです。天はこれまで、寒くはないか、暑くはないか、空腹ではないかと人間を案じながら歴史を導いてこられたのです。


先頭に立って「私を見なさい」と叫んでいたのはパリサイ派の人々でしたが、イエスは後ろを振り返り涙を流されました。それがイエスの姿でした。先頭に立って叫ぶ人が人類を救うのではありません。歴史や時代の流れとともに倒れながらも天を掴み、「私を憐れんでください。あの人たちはどうなるのでしょうか」と涙を流した人たちのおかげで、歴史は今のような形で進んできたのです。このことを知らない人は、その報いを受ける時が来ることを覚えておかなければなりません。


だからこそ、たとえ統一教会の御言葉がいくら良いものであっても、その内容以上に実体が問題となる時が来るでしょう。「あなたは何を持っているのか?」「あなた自身はどうなのか?」と問われる時が来るのです。信仰そのものとなれる自分、希望そのものとなれる自分、愛そのものとなれる自分が必要であることをはっきりと理解しなければなりません。それだけを備えていれば、たとえ主が千年後に来られるとしても、あなたを捨てることはできません。「信仰があるところに私はおり、希望があるところに私はおり、愛があるところに私はいる」と言える自分になれば問題はありません。


いまや、歴史を実体的に解明しなければならない時代が近づいています。私たちが望む希望の一日は、実体に出会う日です。それは事実です。幻想でもなく、架空の言葉でもありません。


皆さんの中に主の花嫁となる資格がある人がいますか?誰かがそうなったと言ったことがありますか?「そうなるだろう」と言う人は多くいましたが、「そうなった」と言える人はいませんでした。それでは、私たちはどのような内容を備えなければならないのでしょうか?歴史的な信仰の内容を備え、歴史的な希望の内容を備え、歴史的な神の心情の内容を備えなければなりません。それらすべての内容を備えた実体、その実体によって6,000年の歴史を導いてこられた神の悲しみを癒す資格を持たなければなりません。そうして初めて、主をお迎えすることができるのです。


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この罪深い世の中、考えるだけで嫌気が差します。実体を見つけるために6千年の歴史を苦労して歩んできましたが、その間、数え切れないほど人間たちに裏切られてきました。夢の中でも二度と見たくない、夢に出てくるのさえ嫌な歴史です。しかし、それを掴んで再び考え、悲しみ、繰り返しながら実体を成し遂げなければなりません。その一つの実体が問題なのです。


では、結論として、皆さん自身はどうすればよいのでしょうか?「信仰も私のもの、希望も私のもの、愛も私のもの」と言える自分を持ち、皆さん自身を千年万年信じることができる資格を備えなければなりません。


何を言っているか分かりますか? 「私は信仰と希望と愛の実体です」と言い、6千年にわたり摂理を進めてこられた神を信じる以上に、自分自身を信じられるようにならなければなりません。


皆さん、自分の体を信じていますか? 自分の心を信じていますか?自分の心情を信じていますか? それを信じることができなければなりません。神は、皆さんを探し出すために、6,000年にわたって信じてきたすべてを皆さんへの贈り物として与えてくださいました。ですから、私は神に代わり、イエスに代わり、聖霊に代わり、すべての人々に代わり、罪と戦わなければなりません。そして、すべての間違ったものを打ち砕く裁き人としての資格を持つ者として、自分自身を信じられるようにならなければなりません。そのような立場に立たなければならないのです。


皆さん、イエスを信じて天国に行こうという時代は終わりました。「神を信じて天国に行こう」と言うのではなく、「神を天国にお連れしてください」と言うべきです。「天国に行ってイエスに会おう」と言うのではなく、この地上に天国を作り、イエスをお迎えしてみてください。「イエスの愛を受けよう」と思っていますか?罪に染まった皆さんが、イエスの愛を求めることができると思いますか?イエスは神の皇太子です。イエスは神の皇太子です。それは無理な話です。そのような信仰ではとても無理です。


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愛を受けたいのであれば、イエスが死に至った以上の心情を持って、「私は本当に愛したいのです」という気持ちが切実に心の奥底から湧き出てこなければなりません。しかし、今日の信仰者たちは全員が強盗のような心を持っています。自分の思い通りにしようとしていますが、それは不可能です。どれだけ霊界を探ってみても、それは成り立ちません。本質的に間違っているのです。


だからこそ、私たちは今、神を解放しなければならない運命に置かれています。「人類のために神が拘束されているのだ」「私のせいで神が拘束されているのだ」「私という一個人のせいで神がサタンの訴えを受けているのだ」「私のせいでイエスも死んだのだ」「私のせいで聖霊が血まみれの闘争の歴史を抱えて転げ回っておられるのだ」。そのように悟り、「神よ、どうか私に力をお与えください。私は父を安息の地へと解放の場へとお連れいたします。イエスも聖霊も解放の場へとお連れいたします」と言える信仰に飢えた者、希望に飢えた者、愛に燃える者を神は6,000年もの間探し求めてこられたのです。この事実を私たちは知らなければなりません。


この言葉に矛盾がありますか?そのように私たちを愛してくださらなければ、神は私の父と言える方ではありません。その境地では、山を眺めても涙が溢れ、責任を果たせない私たちは、歴史を振り返るたびに胸を叩かずにはいられません。そしてどれほど堂々と振る舞い、足を踏み出しても、結局は嘆きの王子でしかいられないのです。


皆さんは知るべきです。神は天国の玉座に安らかに座っておられる方ではありません。神は、地獄が存在することを目の当たりにされ、その神自身が地獄以上の苦痛を受けておられるということを人類は知りません。もし神が地獄以上の苦痛を受けることなく地獄を存在させているのだとしたら、その神を愛の神とは呼べません。神は6,000年の歴史の中で、地上の地獄の苦しみを一つとして経験しなかったことはありません。すべてを経験されているのです。そうして分かったのは、神は地獄の苦しみを受けておられるということです。


「そんな馬鹿げた話があるか」と言う人がいても構いません。しかし、私たちはそのような観点から神を信じ、神をお迎えしなければなりません。それでこそ、神は人類の真の神であると言えるのです。神は私を探し出すために、地獄の苦しみをすべて受けられたのです。


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イエスが十字架で亡くなられた後、陰府で過ごされた3日間とは一体何だったのでしょうか?彼は地上の救い主であると同時に、霊的な救い主であるべき存在でした。地獄にまで行き、そこで福音を伝えなければならなかったのです。だからこそ、イエスを信じる人々は、地上の地獄の最も底辺にまで降りていかなければなりませんでした。そのため、歴史の歩みの中で踏みにじられ、押しのけられることになったのです。神がそのような道を歩まれたのですから、私たちもその苦しみを共にする同伴者であり、協力者でなければなりません。そのような者たちに、天国という栄光の園を相続させるというのが復帰摂理であり、救いの摂理なのです。このことをはっきりと理解してください。


「神よ、私を地獄に送り、父の苦しみを体感させてください」と、心の奥底から湧き出る心情を持って祈る者は、地獄に行きません。しかし、「神よ、地獄は嫌なので、天国にだけ送ってください」と願う者は地獄に行きます。イエス様は十字架の上でこう祈られました。「アバ、父よ。私の思いではなく、父の思いのままにしてください。彼らの罪を彼らに負わせないでください」と。それは、4,000年間にわたり、この民族、この民を救うために地獄の苦しみを耐えられた神の心情と内的な想いを理解し、イエス様ご自身も十字架の道を避けることができないと感じられたからです。イエス様がこのような感情を持たれていたことを、しっかりと理解してください。


このような正義の基盤を築かなければならなかったキリスト教が、その基盤を失いつつあります。それを再び私たち自身の手で建て直すために、私たちは立ち上がりました。言葉なく戦い、言葉なく前進しなければなりません。その道は富と栄光の道ではありません。そのようなものを求めるならば、私たちの希望の時は訪れません。そのために力を費やし、時間を浪費している余裕はありません。世界がどうであろうと、私たちは進むべき道を進もうと決意しているのです。


皆さん、統一教会に何かも分からずに来た人や、御言葉を聞きに来た人がいますか?はっきり言っておきますが、統一教会の道は歩むのが非常に困難な道です。苦痛の壁に頭をぶつけ、体を投げ出し、血と肉が削られるような場所を通らなければなりません。私たちが進む道は平坦な道ではありません。主もその道を歩まれ、預言者たちも常にそのような道を歩みました。歴史を担った者たちは、歴史の精神を抱き、血を含んだまま戦いの勇士として立ち上がった者たちでした。そのような者たちが歴史を導いてきたのと同じように、天を掴んで進んだイエスの理念と精神を担う者もまた、そのような人々でなければなりません。皆さん、このことをはっきりと理解してください。


私は皆さんに伝えたいことがあります。盲目的な信仰の時代は過ぎ去りました。虚偽や架空の論理の基盤は無知によるものであり、その基盤には完成がないということを断言したいのです。だからこそ、今日この時点で私たちが提起しなければならない問題は、「私が私自身を信じること」です。


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神がイエスを信じ、イエスが神を信じたように、イエスが聖霊を信じ、聖霊がイエスを信じたように、私たちもまた自分自身を信じなければなりません。そして、「天倫の道理が変わったとしても、私は変わらない。天地がなくなったとしても、イエスの言葉は変わらない。天地が消え去ったとしても、私は変わらない」と言える段階にまで進まなければなりません。


しかし、皆さん一人ひとりには問題があります。皆さんは自分自身を信じていますか?天国に行こうとして奔走する皆さん、自分自身を信じていますか?口先だけの信仰、中身のない信仰は無意味です。中身のない殻や籾殻は何の役にも立ちません。だからこそ、聖書に「麦と籾殻の比喩」の言葉があるのです。中身のある信仰、中身のある希望、中身のある愛の化身となって行動するならば、この世界がどれほど広くても、アメリカがどれほど広大で先進国であっても、問題はありません。問題ありません。「あなたたちはいつか必ず屈服する」と確信を持つ者たちがいれば、彼らは世界を支配するでしょう。永遠の希望の父である神を代わる者は、永遠の希望の実体です。また、神は永遠の愛だと言われました。だからこそ、皆さんがその愛を抱き、与えるために努力し、与えるために奔走し、与えるために死ぬ場所さえ見つけられずに奔走してみてください。それでも、この国が滅びるでしょうか?


永遠に自分自身を信じ、自分自身を希望とし、自分自身を愛しながら、「神様、私の愛を受け入れてください。神様、私の希望をご覧になって喜んでください。神様、私の信仰をご覧になって喜んでください」と言えるとき、神が「そうだ」と答えてくださらなければなりません。信仰を立てた目的がそれであり、希望を探す目的がそれであり、愛を求めた目的がそれです。そのようになれば、そこで主と出会うことができるのです。そして、その主と共に生きるのです。


では、希望と信仰の目的は何でしょうか?それは、生活の中で天の愛を中心に生きるためです。宗教の名詞をすべて捨て去り、愛の歌を歌いながら生きる新しい理想世界が地上天国です。その世界は架空の世界ではありません。論理的観点から必然的な事実として現れるべきものであることを、知識の高い人々は理解するでしょう。


このような観点から考えてみると、この世界に残る民族とはどのような民族でしょうか?それは、信仰に燃える民族、希望に燃える民族、情熱に燃える民族です。歴史のすべてのページをめくり、あるいは国家の興亡を考察しながら、信仰の節操を守って戦い抜いてきた民族がどこにあるのか探してみなければなりません。希望に燃える民族、情熱に燃えて神のためであれば命を惜しまず動こうとする民族、そのような民族は天に近い民族だということです。


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社会的にも同じことが言えます。世の中で成功する人はどのような人でしょうか?それは、国への忠誠を守り、国家の理念を自分の理念として受け入れ、国家と心情を通じて結びつくことのできる人です。そうではありませんか?家庭でも同じです。家庭で信頼を得ている人、希望を持っている人、感情的な絆を持っている人、その人が継承者となるのです。そうではありませんか?これを否定しますか?


歴史的に見て、信仰心に燃えている民族とはどの民族でしょうか?神という言葉すら聞いたことがなく、預言者や先烈たちのいかなる予言も受けていなかった5,000年の歴史を持つ韓民族が、何か分からないけれども天に対する信仰心が非常に高いということを私は発見しました。皆さんが何と言おうと構いません。私はそれを発見しました。この民族、東半球の爪ほど小さなこの国が、これまで幾多の時代と時代、思想と思想を乗り越えながら5,000年の歴史を持ち続けてきたという事実は、まさに奇跡です。


韓国の歴史を見てください。数十回以上の侵略を受ける危険な歴史の道を歩んできました。侵略されては解放され、また侵略されては解放されました。そのたびに損害を受け、生き残るのがやっとの状態でした。それでも民族の精神を守り、希望の一日を夢見て歩んできました。極東の朝鮮半島を動かしてきた希望の民族精神があったからこそ、これまで戦い続けることができたのです。このような精神を持って歩んできた民族にメシアが来ないはずがないでしょう?私にはそう見えます。皆さんもこのことを理解しなければなりません。


また、感情的な面においても、極東の中で韓国人ほど情熱的な人々はいません。そして「東方礼儀の国」とも呼ばれてきました。キリスト教もまた同じです。しかし今、信仰の宗教、希望の宗教を主張してきた仏教や儒教、キリスト教もその使命を果たし終えた段階にあります。それでも残っているものは何でしょうか?それは民族精神を中心にして世界理念に燃え上がる隠れた情熱が心の中で湧き上がっていることです。若者は分からないかもしれませんが、年配の方なら理解できるでしょう。


それでは、この民族がなぜこのようになったのでしょうか?皆さん、時代的観点から考えてみましょう。すべての価値というものは、相対的な基準、比較の基準がなければその価値を決定することはできません。理解している人には分かるでしょう。主体と対象の位置を定めなければ、価値観というものを形成することはできないのです。一つの国家が世界的な指導理念を持って現れたならば、それを支持する相対的な国家が存在し、その理念を実践しなければ、その理念を提唱した国家が世界の主導権を握ることはできません。


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堕落する前の本来の文明とは何でしょうか?西洋文明は外面的な文明です。今日の統一教会の信徒たちは、アメリカのようなところに行けと言われても行きたくないと思うかもしれません。ご覧ください、すべてのものが崩れつつあります。昔の歴史を振り返ると、感情的な基盤を持つ母系中心の時代がありました。そして父系中心の時代がありました。これまで父系中心の社会が続いてきましたが、今それすらも崩れつつあります。そして夫婦中心の時代に移行しています。


そのため、今日のアメリカのような国は、自分たちの利益しか考えていません。しかし、それも崩れつつあります。次にどうなるでしょうか?兄弟関係、民族関係、世界関係、そして天の関係を中心とした感情的な世界へと展開していくのです。この言葉の意味が分かりますか?


また、主権の観点から見ると、帝国主義思想も崩壊します。なぜなら、悪しきものをそのまま放置することはできないからです。だから崩れていくのです。その結果、君主制の時代、帝国主義の時代が崩壊します。人間の堕落によって天の帝国主義の理念が壊れたのです。したがって、天使長が君主となり、天使長主権の時代へと進んできたのです。


今日の世界の思想を見てみると、帝国主義的なものはすべて崩壊しています。君主主義的な形態は崩れ去り、民主主義的な平民主義の時代へと移行しています。では、この中で何を目指すべきでしょうか?そこから、「神が我々の王であり、天の意志と善を抱いて生きる人々が私たちの家族であり、神の善のために戦う人々が私たちの国民である」と言える世界へとまとめ上げていく必要があるのです。


だからこそ、世界の流れをじっくりと見てみると、最近では怪しいものがたくさん出てきています。もう少し経つと、他人の名前を借りて王のように振る舞う行為も見られるでしょう。「女王だ」とか「何々だ」と騒がれる時代が過ぎ、さらに少し経てば、美しい男性を「この都市の王子だ」として崇める時代が来るかどうかを見ていてください。今の時代の流れは、まるで逆さまに回っているようです。年配の女性が若い男性と暮らし、若い女性が年配の男性と暮らす時代になっています。このように奇妙な状況が生じていますが、その具体的な理由を彼らは理解していません。


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そのような中で民主主義が登場しました。民主主義は平等主義です。なぜこのようなものが出てきたのでしょうか?それは、キリスト教が帝国主義から迫害され、軽蔑されてきたからです。ローマ帝国によって虐殺され、多くの信者が命を奪われましたが、それでも命脈を保ち続けました。キリスト教徒たちは逆境の中でも後継者を育ててきたのです。そして、キリスト教理念に徹した人々が平民思想を基盤として、今日の民主主義の世界に参加する権利を築き上げてきました。つまり、神の側に立つ人々が主権を動かす世界へと変革しようとしたのです。この平民主義の時代を天の主権時代へと再び方向転換させる世界運動、すなわち「天宙運動」が起こらなければなりません。


しかし今日、民主主義の行く末は行き詰まりを見せています。これからの方向性について、誰も明確な答えを持っていません。


今後の世界がどうなるかというと、外的文化の発展を成し遂げた西洋から、内的な極東に目が向けられるようになります。現在、韓国の女性たちは金髪に染め、髪をカールし、顔に何かを塗って装っていますが、やがて純朴な韓国人の姿、東洋人としての気品ある姿を懐かしむ時が来るでしょう。そのような時が来るかどうか、見守ってください。


西洋の哲学や思想の根はすべて掘り尽くされ、終焉を迎えています。一方、東洋哲学は私たちの生活観や人生観と結びつきながら、4千年、5千年にわたる歴史の中で絶え間なく続いてきました。この東洋哲学が今日、大きく注目されるようになっているのです。文化というものは総合的な理念の中に融合されていくのが歴史的な現実ですが、この時代において、一面的なキリスト教の理念だけでは十分ではありません。これからの宗教をどのように再編するかが問題となります。


ここで、極東の文化全体と西洋の文化全体を調和させる運動が起こるべきです。それは、キリスト教精神を内包しつつ、東洋の思想や宗教の形態を取り入れ、人間の精神を導いてきたすべての思想と調和するものでなければなりません。新しい時代の形を構築しながら、古い時代の良い部分を尊重し、受け入れることができる内容と体制を備えた宗教や理念が登場しなければ、今後、世界が一つにまとまって動くことはないでしょう。


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ご覧ください。太陽は西から昇るのではなく、東から昇ります。歴史的な観点から見ると、戦争はどこで多く起こりましたか? 極東よりも西洋で多かったことを私たちは知っています。


知識とは「知る」ことです。そして「知る」ことで得られるものがあります。しかし、何を得たのでしょうか? 精神的な収穫ではなく、物質的な収穫だったのです。西洋人たちは外的な自然科学と文明を通じて、物質的に豊かな世界を作り、自分たちの「天国」、つまり外的な天国の中で眠りについています。しかし、その眠りから覚める時が来ました。


東洋人は道(タオ)を尊ぶ人々です。道というものは、十のことを知ろうとすれば十のものを失わなければならず、千のことを知ろうとすれば千のものを失わなければなりません。この極東の民族たちは道を尊ぶ民族であるがゆえに、物質的な面では貧しい状態になってしまいました。道を十知れば物質を十失い、百知れば百を失ったのです。その結果、赤手空拳の哀れな姿となり、ついには物質に屈服する人間となってしまいました。しかし、これを笑い飛ばして乗り越える新たな動きが、極東に現れる時が来るということを、皆さんは予測しなければなりません。


このような点で、特別なプライドを持たなければなりません。極東において、韓国人は信仰的な観点から見ても、希望的な観点から見ても、情熱的な観点から見ても、どの民族にも引けを取りません。


人は、水、土、空気、そして太陽の光によって生命体を完成させていくというのが鉄則です。では、将来、どの国が世界最高の文化の中心地となるのでしょうか?それは、水が澄み、土地が豊かで、空気が清らかな場所です。その場所こそ韓国です。韓国は水が澄んでおり、山でも野でもどこでも冷たい水を飲んでもお腹を壊さず、元気に生きられる国です。韓国はこのように水が美しく、山が素晴らしい国、つまり山水が豊かな国です。


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次に空気が清らかです。夜の空気、朝の空気が春夏秋冬、一年中清らかです。韓国の一日をじっくり見てみると、とても面白くできています。朝は春の季節、昼は夏の季節、夕方は秋の季節、夜は冬の季節です。一日の中に創造理想世界の四季の形をすべて備えています。気候においても三寒四温のすべての要素が均等に備わっています。このような場所に住む民族が偶然の産物だと思いますか?


また信仰的に見ても、韓国の現在のキリスト教は70~80年という短い歴史を持っています。しかし、その短い伝道の歴史を持ちながらも、信仰的にどの国にも引けを取らず、世界で第1位の位置に立っています。信仰問題において、韓国は世界のどの民族にも劣らない権威を持っていると、自信を持って言えます。


信仰と希望と愛という内容を基にして考えるとき、皆さんはどのような人を友人として選びたいですか?信頼できる人、希望を持つ人、そして「味のある」人を友人にしたいと思うでしょう?そうではありませんか?神様も同じです。私たち人間は神様に似ているので、神様もそのような人を好まれるのです。信頼できる人、希望がある人、そして「味のある」人を好まれるということです。


ですから、私たち人間がこの地上で生きるとき、どのような環境に置かれても、どのような状況であっても、今日の生活の中で「味」を感じて生きる人々が地上天国に住むことができる人々であり、「味を感じて生きなさい」と教えるのが聖書の教えなのです。ですから、「天国は心の中にある」という言葉の通り、その心の天国を中心として罪悪の世界の中でも苦しみを感じず、外的世界をあざ笑うように生きる人がいれば、その人が天国の国民であるという結論が出てきます。


このように考えてみると、問題はどこに帰結するでしょうか?外的世界も良い、国内のすべてのものも良い、ということです。世界がどうなろうと、それが終わりを迎えるとしても、今日の問題解決の焦点はどこにあるのでしょうか?その解決の焦点は「私自身」です。皆さん一人ひとりです。


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ですから、これから皆さんは神をお迎えするだけでなく、神の対象的な位置に立ち、その対象的価値を高め、「父よ、私が参りました。6,000年もの間、どれほどお待ちになったのですか?」と語るべきです。一度そう言ってみたいとは思いませんか?「どれほど涙を流されましたか?私が参りました。どれほど待ち望まれましたか?私が参りました。どれほど慕われましたか?私が参りました。」この一言を神様は聞きたがっておられるのです。


神様はそのような息子娘と出会い、天と地のすべてを統治するように祝福し、6,000年の恨みを忘れて「今日は私の誕生日であり、私の歓喜の日だ」と喜びたいと願っておられるのです。6,000年の恨みを思い出すことなく、新しい天地で新しい息子娘と情緒的な歌を歌いながら生きていきたいと願っておられる方が神様であり、その神様が今日私たちの父であり、その父の息子娘がまさに私たちだということを、はっきりと理解しなければなりません。




<祈り>


話をしているうちに力が尽きていくのを感じますが、父なる神様は6千年もの間どれほどのご苦労をなさったことでしょうか? 人々を見れば信頼できない姿ばかりですが、父なる神様、どれほどご苦労をなさったことでしょうか?


ああ、哀れな方は私たちが信じているお父様であることを知りました。そして、お父様を慰めることができる真の息子娘の姿を待ち望んでおられるお父様であることを知りました。どうか今日も明日も声を立てず純粋な捧げ物を持って、あなたの傷ついた心情を癒すために奔走できるようお許しください。


信仰も良い、希望も良い、愛も良いですが、実体を失った者は永遠に父なる神様の前に立つことができないことを知りました。そして、問題は私自身であり、私たち自身であることを悟りました。


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どうか、「自分自身を信じよう」というこの信念をもって、「父なる神様、私を信じてください。私を希望として見てください。私を愛してください」と言える自分を持てるようお導きください。そして責任を果たすことができる私たちとなるよう、切に願い求めます。すべてをお委ねしますので、あなたの御心のままに成してくださいますようお願いいたします。


主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。

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