岩波コラム

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新潮文庫『消された一家』(豊田 正義著) 解説(第一回)

2010-11-08 19:58:51 | 日記
 アーサー・ウィリアムズという正体不明の作家の作品に、『この手で人を殺してから』という短編ミステリがある。本書を一読して、まずこの小説が頭に思い浮かんだ。日本ではあまり知られていないが、世界の短編ミステリのオールタイム・ベスト5に入るという一編である。
 その理由はどうしてかというと、小説で描かれた犯行後の死体処理の方法が、本書の事件とよく似ていたからである。『この手で……』の舞台は、南アフリカの農場である。殺人を犯した犯人は、死体を農園の機械で肉も骨もミンチ状にし、さらにそれを飼育している鶏のエサにしてすべてを処分してしまった。
この小説は筆者が実際に犯した殺人事件をモデルにしたと言われており、短編ミステリのコンテストで入賞した後も、著者の正体は明かされなかったという曰くつきのものである。
一方で本書は、過去に例を見ない凄絶な連続殺人事件の真実を、きめ細かい取材を元に描いた類まれなドキュメンタリーである。事件の犯人である松永太が行った死体処理は、小説に描かれた内容と同様のものであった。自らはほとんど手を下さなかったとはいえ、松永は被害者の身体を細かく切り刻み、長期間煮込んだ後にミキサーにかけてからトイレなどに遺棄した。著者によれば、現場のマンションは長く異臭が漂っていたというが、この犯行の隠ぺい工作は成功し、監禁されていた少女の「脱走」がなければ、事件の真相はいまだに明らかにされなかったであろう。
死体の処理について松永は、「私の解体方法はオリジナルです。魚料理の本を読んで応用し、つくだ煮を作る要領でやりました」と、胸の悪くなるような話を自慢気に語った。二〇〇八年四月にも江東区のマンションで、二十三歳の女性が隣人によって殺害後、遺体を細かく切断されトイレなどに遺棄される事件が起きている。こうした死体の隠ぺい方法は、ヒトの身体を物のように扱える犯人にとっては、案外と容易なことなのかもしれない。
ここに記述された連続殺人は、日本の犯罪史上類を見ない残虐な事件である。著者の豊田の記述を読めば読むほど、人間というものはここまで残酷になれるものかと驚くしかない。それは単に被害者の数が多いというだけではない。密室の中で家族同士に殺し合いをさせ、子供に遺体の解体を手伝わせるなど、理解し難く特異な点が目立つのである。
 犯行の「手口」からみても、この犯罪は不可解なところがある。主犯である松永は、元来は詐欺師だ。安布団を高額で売りつけることが、元々の彼の商売であった。その後も松永は舌先三寸で「オレはいつでも松下幸之助と連絡がとれる」と自慢し、「京大卒」「ナサの学者」「東大医学部に一番で合格した」などとその場限りの出まかせを話し、結婚を餌にして女性たちから大金を巻き上げていく。これは典型的な詐欺師の手口である。
 こうした詐欺師のイメージは、サディスティックな連続殺人とは断絶がある。詐欺師は血なまぐさい殺人を好まないし、殺人愛好者であるシリアルキラーたちは、詐欺のような手間のかかる犯罪に興味は示さない。