岩波コラム

精神科医によるコラムです

テクノロジーから見る! 業界アウトルック

2013-05-21 20:01:18 | 日記
 医療業界とITというテーマからまず思いつくのは、人気作家ジェフリー・ディーバーの小説である。ディーバーと言えば、首から上と左手の薬指しか動かせない安楽椅子探偵リンカーン・ライムを主人公とするシリーズが人気で、映画化された『ボーン・コレクター』がよく知られているが、同じシリーズの中に『ソウル・コレクター』という作品がある。

 犠牲者を選んで監視し、その情報を集めて罠にはめて陥れる冷酷な殺人者ソウル・コレクター。彼は電子情報を操る達人だった。ソウル・コレクターは、住所、氏名、年齢、職業、身体データ、携帯の電話番号といった基本的な情報から、趣味や交友関係、保有資産やクレジットカード情報まで、あらゆる個人情報を握って、被害者を破滅させる。ソウル・コレクターは、自分で犯した殺人事件を、まったく無垢の人物の電子データに不正にアクセスし、罠にはめて殺人者に仕立てあげることによって、彼に罪を押し付けるのである。

 探偵役のライムとソウル・コレクターの駆け引きはスリリングで手に汗握るものであるが、それにしてもこの本を読んで空恐ろしくなるのは、だだ漏れの個人情報のことだ。電子化された個人の特性は、いくらでも悪用可能だからである。

 現在、医療情報の電子化が、かなりのスピードで進められている。これは厚生労働省が推進している、まさに「国策」だ。医療のIT化に大きな利点があるのは確かだが、同時にマイナス面も少なくない。それどころか、個人の健康情報が丸裸にされてしまうという極めて恐ろしい状況も起こりうる。

 まず始めに国が病院に求めたのは、診療報酬情報の電子化だった。患者が病院を受診したとき、通常は医療費の3割が自己負担となるが、残りの7割は国民健康保険などの健康保険から支払われる。これまでこの病院への支払いに関しては、紙の書類による請求が一般的だった(これを業界用語で、「レセプト」と呼ぶ)。レセプトが提出されると、保険料の支払い基金でその内容がチェックされ、不適切とみなされた請求が除外された後、医療機関に支払いが行われていた(たとえば、規定量を上回る投薬や注射については、その部分がカットされる)。

 ところが、平成23年度より、このレセプト請求のデータをすべて電子化することが原則として義務化された。行政当局の意図は明らかである。データを電子化することによって過剰な投薬や不適切な治療法を自動的にチェックできるようにし、医療費のコストを抑えようとしたわけである。これは行政当局としては、当然の策であろう。

 レセプトデータの分析から、悪質な医療機関を発見することも容易になる。さらに生活保護の不正受給の発見にも重要な手段となる。生活保護者の多くは「病気」を理由にして保護費の受給を受けていることが多いが、きちんと治療を受けていない例、あるいは治療の必要がない例も少なくない。

 しかし、ここに大きな落とし穴がある。レセプトの電子化は、単に医療費削減に留まらない影響がある。その問題の大きさは、国民総背番号制にも匹敵すると言えるであろう。なぜなら、レセプトには、さまざまな個人情報が記載されているからだ。生年月日や住所はもちろん、病気の診断や投薬の内容まで詳しく記されているのである。

 このレセプトが電子化されると、どういうことになるのだろうか。ある個人について、受診しているすべての医療情報が、過去から現在にいたるまで、すべて一目瞭然となる。さらにすべての情報が継時的にも一元化されれば、生涯にわたる健康情報が裸にされてしまう。もしソウル・コレクターがこのデータを手に入れれば、これほどおいしいデータは存在しない。本人と場合によってはその家族のもっとも重大なウィークポイントとも言える健康情報を一手に握ることができるからだ。

 行政においても、一般の企業においても、個人情報の保護が唱えられることが多いが、建前とは別に、現実は逆の方向に進んでいることは明らかで、医療情報についても例外ではない。秘密にすべき個人の情報は、メモリーカードの中に簡単に記録できるようになりつつあし、現にレセプト情報は多くの人がアクセス可能なのである。

 もちろん、これは一般市民が簡単にのぞけるということではない。しかし、実際にレセプトの審査を行うのは、国民健康保険の担当者など責任ある立場の人物だけではなく、多くは非正規雇用の臨時職員である。悪意を持った人物が多少の手間暇をかければ、彼らを通じて、医療情報のビッグデータを得ることは可能である。厚労省の側には『国家の陰謀』のような明確な意図は存在しないのにもかかわらず、データ化は着々と進められ、それにアクセスさえすればいかようにも悪用できてしまうという事態はそら恐ろしい。

 もっとも、医療情報の電子化はプラスの面も数多くみられる。個人の疾病歴、投薬や副作用情報などが一瞬のうちに把握できれば、診断や治療の指針を素早く正確に出すことが可能になるだろう。特にMRIなどの画像データの電子化は臨床面による貢献は大きく、瞬時の内にデータのやり取りが可能となった。

 けれどもトータルでみるならば、医療のIT化によってシステムの管理者には大きなメリットがあるが、患者個人においては受ける恩恵よりも、リスクの方がはるかに高い。犯罪者ソウル・コレクターの話は夢物語かもしれないが、より現実的な脅威としては、生命保険、医療保険に関する問題がある。

 日本人の保険好きは良く知られており、複数の医療保険に加入している人も多い。特にネット生保の登場などによって、ランキング本などもよく見かけるようになり、『この保険に入ってさえいれば安心』と加入があおられている。ところが最近になり、入院治療などに対する保険料の請求の手続きにおいて、生命保険会社の調査が以前より遥かに厳密になっていることをご存じだろうか。

 会社側は専門の調査員を雇い、治療を受けた医療機関に派遣する。調査員は請求の対象となった医療機関だけでなく、その病気について治療を受けたすべての医療機関の調査を行う。それも主治医から話を聞くだけでなく、外来、入院を含めてすべての診療日のデータの提出について有無を言わさず求めてくる。

 調査員たちは、多忙な外来の時間に割り込んでくるわけで、診療で忙しくなるのであればともかく、単なる保険の調査に多くの時間をとらえることは医師にとっては苦々しい限りである。このような保険の調査を断ることも可能であるが、そうすると患者が保険料を受け取れないため、臨床医は応じざるをえない。数年にも及ぶ厚いカルテをチェックして、すべての受診日を調査用紙に書き込むことも現実に行っている。

 会社側の意図は明らかで、加入者の不正な請求を却下することが目的である。保険の加入には多くの除外基準があり、特定の疾病を持つ場合には申し込めないことが多い。たとえばうつ病の人は、団体生命保険に加入できないため、住宅ローンを組むことができない。しかし、加入時の審査はおおむね緩やかで、自己申告のみの場合も多い。このためさんざん保険料を納めさせておいて、いざとなったら保険金が下りないという事態も実際に起きているのである。

 もし生命保険会社がIT化された医療情報にアクセスすることが可能となったらどうなるであろうか。保険に加入する個人の医療情報が軽微なものまですべて明らかになり、多くの加入者の請求が不正とみなされ支払の却下が続出するようになるかもしれない。保険会社のやり口としては、簡単に契約し毎月の保険料だけはふところに入れておいて、後で不正な加入だったと支払いを拒否するという手口が横行する懸念がある。このように、健康情報の電子化はもろ刃の剣で、大きな危険性もはらんでいることは明らかである。

                                 (サイゾー 2012年12月号)

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