第68代後一条天皇【菩提樹院陵】 第118代後桃園天皇【月輪陵】まで
第68代後一条天皇を筆頭に「後」の付く天皇が二十七名いらっしゃいます
上の【後一条天皇】も【後桃園天皇】も過去に「一条天皇」も「桃園天皇」も居られるが
この27名の中で、過去に名前が出て来ない天皇さまがいらっしゃるのです???
【後深草天皇】【後小松天皇】【後柏原天皇】【後奈良天皇】【後水尾天皇】の5名です
いわゆる【深草天皇】【小松天皇】【柏原天皇】【奈良天皇】【水尾天皇】が居ないのです
これには深い意味がありました・・・
【後深草天皇】の【深草」は第54代【仁明天皇】の事を「深草の帝」と称した事による
不思議なことに【仁明天皇】が「嵯峨天皇」の皇子である事に対して
後深草天皇が「後嵯峨天皇」の皇子で有ることだ、偶然なんかな???
【後小松天皇】の「小松」は第58代【光孝天皇】の異名である「小松帝」からである。
南朝の皇統を断つかたちから「後小松」を追号することで歴代天皇としての
正統性を顕示しようとしたものと考えられる。
【後柏原天皇】の「柏原」は第50代【桓武天皇】の事を「柏原の帝」と称した事から
また【桓武天皇】の御陵を【柏原陵】〈かしわばらのみささぎ〉と称している
【後奈良天皇】の「奈良」は第51代【平城天皇】を「奈良の帝」と称した事による
平城天皇は平安京で即位されますが、「薬子の乱」の責めを負って平城に幽閉される
結局、平城天皇は平城の地で崩御されます、ゆえに「奈良の帝」と呼ばれている
【後水尾天皇】の「水尾」は第54代【清和天皇】を「水尾の帝」と称した事による
清和天皇は退位のあと、水尾の里で仏道修行に励まれ、崩御の後に御陵が築かれている
それゆえに清和天皇は「水尾の帝」と呼ばれている
平安時代から室町時代中期にかけて天皇の追号を付けるときは、
その天皇の邸宅あるいは御陵のある場所により、「**院〈天皇〉」と呼ぶのが慣例に。
同じ条件で、天皇が別にある時、その天皇は「後**院〈天皇〉」となります。
例を挙げると、一条院と云う邸宅に住んでいた天皇は「一条天皇」で
その後、同じ一条院に住む天皇がもう一人でれば「後一条天皇」と云う事になります
ご理解頂けましたか・この他に北朝の第4代【後光厳天皇】は同じ北朝の初代【光厳天皇】
もう一人北朝の第5代【後円融天皇】はナント歴代第64代【円融天皇】です
後白河・後鳥羽・後堀河・後嵯峨
後深草・御宇多・後伏見・後二条
後醍醐・後村上・後亀山・後光厳
後円融・後小松・後花園・後土御門
後柏原・後奈良・後陽成・後水尾
後光明・後西(院)・後桜町・後桃園
余談ですが
実際に即位しなかったが、追号として皇統譜に天皇として載せられているのが後高倉天皇と後崇光天皇です。