「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」。元禄二年芭蕉四十六歳
句郎 「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」。元禄二年芭蕉四十六歳『おくのほそ道』しのぶもじずり石で詠んだ句として知られているのかな。
華女 「しのぶもじずり石」はなぜ有名なのかしら。
句郎 河原左大臣、源融が詠んだ和歌「みちのくのしのぶもぢずりたれ故に乱れそめにし我ならなくに」によって有名になったんじゃないかと、考えているんだけど。
華女 その文字摺石は今では観音となり、祭られているのでしょ。
句郎 百人一首の歌と芭蕉の『おくのほそ道』によって福島市の有名な観光スポットになっているみたいだよ。
華女 福島市は芭蕉に感謝しなくちゃ罰が当たるわ。
句郎 源融にもね。彼の詠んだ歌によって伝説が生まれたようだからね。
華女 それはどんな伝説なのかしら。
句郎 福島は当時、信夫の里と言われていた。その信夫の里の長者の家に「虎女」という美しい娘がいた。ある日、都から、陸奥出羽按察使(あぜち)として赴任して来た源融が、虎女の家に泊まった。融は美しい娘、虎女に目をとめ、虎女もまた、都の貴公子の姿に目を奪われた。融と虎女は、いつしか結びあったのもつかの間、都から融に帰任せよとの知らせが来る。やがて融は信夫の里から去っていった。融の去ったあと、虎女はもう一度、融に会いたい、と文摺石に百日の祈願をかけた。毎日、麦の穂を文字摺石にこすり、この面に恋しい源融公の顔があらわれることを祈った。
満願の百日目。石の面は鏡となり、不思議にも、その面には、恋いこがれた融の姿があらわれ、虎女は岩にすがり、泣きくずれた。虎女は病の床についた。都では、このことを知った融が、絹の織物に添えて一首の和歌を送ってよこした。
「みちのくのしのぶもちずりたれゆえにみだれそめにし われならなくに」
虎女はこの歌を抱きながら、息をひきとった。
それから文字摺石は青麦の葉でこすると意中の人の顔が浮かんでくると言う説話が生まれた。文字摺石は鏡石となり観音になってパワースポットになった。
華女 源融は実際、信夫の里に行ったとがあるの。
句郎 いや、行ったことはないようだよ。
華女 源融は行ったこともない所にある大きな石の表面の模様を写し取った布地があることを知り、想像力を働かせ、歌を詠んだのね。
句郎 そう、その結果、文字摺石は歌枕になり、芭蕉はその歌枕を訪ね、伝説に促され信夫の里を探し求めて訪ねたんだ。
華女 そして芭蕉は文字摺石を訪ね、詠んだ句が「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」だったのね。
句郎 しのぶ摺の巨石を眺め、早乙女たちが早苗を取り、田植えする姿が心に浮んだじゃないのかと思っているんだ。
華女 布地の草木染をする乙女と田仕事をする乙女の姿を思い浮かべたということよね。芭蕉は女好きの男だったのね。
句郎 そんな感じがする。
華女 するわ。当時の男たちが農婦の女に恋することはなかったんじゃないかと思うのよ。だって、ちっとも髪振り乱して働く女が綺麗なはずないでしょ。そうでしょ。