蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す 芭蕉
侘輔 「蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す」。『野ざらし紀行』に「其日のかへさ、ある茶店に立寄けるに、てふと云けるをんな、あが名に發句せよと云て、白ききぬ出しけるに書付侍る」と書きてこの句を載せている。貞享元年、芭蕉41歳の時の句だ。
呑助 「其日のかへさ」とは、何ですか。
侘助 その日の帰り道ということなんじゃないのかな。
呑助 茶店の女に私の名前を入れた発句を詠んで下さいなと、芭蕉は頼まれて詠んだということですか。
侘助 そうなんだと思う。その事情をもっと詳しく門人の土芳(どほう)さんが『三冊子(さぞうし)』に書いている。「この句は、ある茶店の片はらに道休らひしてたたずみありしを、老翁の見知侍るにや、内に請じて、家女料紙持出て句を願ふ。其女の曰いはく、我は此家の遊女なりしを、今はあるじの妻となし侍る也。先のあるじも鶴といふ遊女を妻とし、其頃灘波の宗因此処にわたり給ふを見かけて、句をねがひ請たると也。例(ためし)おかしき事までいひ出て、しきりに望み侍ればいなみがたくて、かの難波の老人の句に、「葛の葉のおつるがうらみ夜の霜」とかいふ句を前書にして此句遺し侍るとの物がたり也。其名を蝶といへば、かく言ひ侍ると也、老人の例にまかせて書捨たり。さのみのことも侍らざりなしがたき事也と云り」、先代の女将さんも俳諧宗匠の宗因さんに発句を書いていただいてるので、私にもお願いできないかしらということで芭蕉はこの句を詠んだと土芳さんは説明している。
呑助 「てふの翅(つばさ)」とは、「てふ」という女将さんの名を蝶々に譬え、女将さんの持ってきた白い布地を蝶の翅に譬えて詠んでいるんですね。「たき物す」とは、何ですか。
侘助 当時の貴族や武士の奥方や遊女は着物の布地の香をたき込めることをしたんじゃないのかな。
呑助 香水をつけるようなことですか。
侘助 男女がつるむ際に嫌な臭いを消すような働きがあったんじゃないのかな。それは現在にあっても機能していることかもしれないけど。
呑助 蘭の香を布地にたき込めたということですか。
侘助 茶店の女将さんを称えた句なんだからね。きっと茶店の回りに蘭が咲いていたんじゃないのかな。芭蕉はその蘭の花を見て、香りがあることに気付き、「蘭の香や」とまず詠んだ。艶やかな女将さんの物腰を見て、歩くとめくれる長襦袢の裾の白さが目に残った。これだと芭蕉は思った。その白い布地に蘭の香がたきこもる幻想を見た。長襦袢の白い布地は蝶の翅だ。
呑助 「蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す」。この句は色っぽい句なんですね。芭蕉には結構、色っぽい句があるんですね。
侘助 『おくのほそ道』に「眉掃(まゆはき)を俤にして紅粉(べに)の花」なんていう句を山形尾花沢で芭蕉は詠んでいるからね。
呑助 「眉掃(まゆはき)」とは、遊女が用いた化粧道具ですか。
侘助 農民や町人の女たちが用いた化粧道具とは考えられないからなぁー。
呑助 芭蕉さんはもしかしたら色町が好きだったんですかね。