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醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  409号  白井一道  

2017-05-26 15:20:28 | 日記

 月の満ち欠けが暦だった

句郎 「凩の荷兮(かけい)」と言われるようになった芭蕉の弟子がいた。
華女 荷兮(かけい)は「凩」を何と詠んだのかしら。
句郎 「こがらしに二日の月の吹(ふき)ちるか」と詠んだ句が元禄6年ごろ、当時の俳人の間で有名になり、「凩(こがらし)の荷兮(かけい)」言われるようになった。
華女 「二日の月」とは、何なのかしら。
侘助 そうだよね。こんな言葉、あるのかと思って広辞苑を調べてみてもない。「二日月」で検索してもない。月の満ち欠けとその名称に出てこないかなと思って、ネットで調べてみて初めて分かったんだ。旧暦では新月が朔日(ついたち)だった。晴天の夜空に月のない日がその月の一日だった。二日になると三日月よりも細い弓なりの月が出る。これが「二日の月」だった。旧暦に生きていた人々にとって「二日の月」が実質的には新しい月の始まりだったんじゃないのかな。
華女 なぜ「三日月」というのか、分からなかったけれど、新月から三日目の月のことを「三日月」と言うのね。
句郎 そうなんだ。
華女 月の満ち欠けに従ってそれぞれ固有名詞があったのかしら。
句郎 「上弦の月」という言葉があるでしょ。この月は新月から七日目の月の固有名詞のようだ。
華女 「弓張月」も月の満ち欠けの固有名詞の一つかしら。
句郎 「上弦の月」のことの別名が「弓張月」と言うようだよ。真南に向かって右半分が輝いて見える月を言うらしい。
華女 「上弦の月」があるなら「下弦の月」もあるのかしら。
句郎 もちろん、左半分が輝いて見える月が「下弦の月」。新月から数えて二十二日目か、二十三日目ぐらいの月を言う。
華女 旧暦に生きていた人々にとってお月様は暦そのものだったのね。
句郎 そうだったんだろうね。暦が今のように印刷されたものがおまけとしてもらえるようなものではなかったからね。
華女 江戸時代、暦は大変高価なものだったんでしようね。
句郎 そうだよ。神社が暦を独占していたんじゃないのかな。農事暦のようなものとして名主の家に一つあるような貴重なものだったんだろうね。
華女 農民は月を見て、今日は何日なのかを知り、農作業の日程を決めていたのね。だから当時の庶民にとっては月の満ち欠けが決定的に重要な日を知る貴重な出来事だったのね。
句郎 月の満ち欠けへの感覚が今の人々と比べて研ぎ澄まされていたんだろうね。
華女 芭蕉の弟子、荷兮(かけい)さんの句「こがらしに二日の月の吹(ふき)ちるか」。当時の人々にとって「凩」が「二日の月」を吹き散らすのか、どうか、気になったのよね。
句郎 篤農の人は、真剣に月の満ち欠けを見ていたに違いないだろうからね。
華女 農民だけじゃないと思うわ。商人にとっても明日の天気、商売の成り行きに月の満ち欠けは大事な出来事だったんじゃないかしら。
句郎 俳句というものは当時の生活を反映しているものだから、当時の生活事情が分からないと理解できないということがあるんじゃないかな。
華女 そうね。

醸楽庵だより  408号  白井一道

2017-05-25 16:41:46 | 日記

 去来抄から 凩の地にもおとさぬしぐれ哉 去来

句郎 芭蕉が偉いのは弟子たちに恵まれたということなのかな。
華女 芭蕉にはそんなにたくさん弟子がいたの。
句郎 今の俳人たちにも強い影響力を持っている著書を書き残した弟子がいるからね。
華女 『去来抄』を残した向井去来ね。
侘助 そう、俳諧の古今集と言われている「猿蓑」を編集したのも去来だからね。
華女 去来は偉い俳人だったのね。去来の人に知られた句は何なの。
句郎 『去来抄』の中に「凩の地にもおとさぬしぐれ哉」という句がある。
華女 自分で書いた著書の中で自分の句を載せているの。
句郎 師に添削された例として載せているんだ。
華女 なるほどね。どのように添削されたのかしら。
句郎 発案は「凩の地迄おとさぬしぐれ哉」だった。それを芭蕉は「凩の地にもおとさぬしぐれ哉」と添削した。「迄」を「にも」に訂正した。
華女 あぁー、「迄」だと説明になるということね。確かに「にも」になると表現になるわね。
句郎 芭蕉は説明になるとは言っていないんだ。
華女 何と言っているのかしら。
句郎 「ただ地迄とかぎりたる迄の字いやしとて、直したまいけり」と去来は書いている。
華女 迄だと「いやし」いのね。「いやし」とは「卑しい」ということね。
句郎 そう、卑しい、表現になっていないということだと思う。
華女 でも、「いやし」と言っている意味が分からないわ。
句郎 なぜ卑しいのか。ちょっと解りずらいよね。俳句は文字に書いたものを読者に読んでいただくものだよね。だから読者に著者の気持ちというか、主観というか、感情を押し付けるのは「卑しい」ことなんじゃないのかな。だから説明とは読者に押し付けるものなんだよ。だから読者は押し付けられるものは嫌なんだよ。読者は自分で句を読み、自分で鑑賞したいんだよ。著者は読者を敬うことが上品なんだよ。読者に自分の説明を押し付ける句は下品な卑しいものなんだと思うんだけどね。
華女 芭蕉は読者を敬っていたのね。確かに読者を敬ってくれる著書は楽しく読むことができるわね。
句郎 芭蕉は今から三百五十年前に人を敬うことを知っていたんじゃないのかな。だから芭蕉の周りには沢山の弟子たちにあつまってきたのじゃないのかな。
華女 去来のように私は師匠にこのように添削されましたと『去来抄』に書き残したのね。
句郎 添削の具体的な例を残しているのが現代に生きる俳人たちに大きな影響を与えているんじゃないかと思うんだ。
華女 そうよね。「凩の地迄おとさぬしぐれ哉」では、確かに凩を説明しているわね。「地迄」と限定しているものね。
句郎 「地にも」になると読者は凩に対する想像は限りなく広がっていくからね。読者の想像力を刺激するということなのかな。
華女 表現することは読者を敬うことなのね。読者を敬うと必然的に説明ではなく、表現になるのかしもしれないわね。
句郎 読者を敬うことが上品だということだよ。

醸楽庵だより  407号  白井一道

2017-05-24 15:44:20 | 日記

 うらやましおもひきる時猫の恋  越人

句郎 「うらやましおもいきる時猫の恋」。この句が句会に出てきたら華女さんは採りますか。
華女 その句、誰の句なの。
句郎 今から三百五、六十年前の芭蕉の門弟の一人、越人の句のようだ。
華女 蕉門十哲の一人ね。
侘助 そう、俳諧の古今集と言われている「猿蓑」春の部に載っている句のようだけれど。
華女 何を詠んでいるのか、今いち、ちょっと感じるものがないんだけれど。
句郎 「うらやまし」が何がうらやましいのかが分からないと言うことなのかな。
華女 そうね。何がうらやましいのかしら。
句郎 「猫の恋」は実にけたたましいからね。春の夜の猫の鳴き声を聞くとぞっとするくらい嫌なものだけれどね。
華女 そうね。まだ、鹿の妻恋の鳴き声の方がいいわ。なんとなく哀愁があるように思うわ。
句郎 あんなに声を張り上げて妻恋の声を張り上げた猫は盛りが終われるとケロッとして知らんぷりしていられる。その姿を見て越人はうらやましいと言っているんじゃないかな。
華女 なるほどね。人間の男にもそんな人がいるわよ。あんなに求めてきたのに、今は知らんぷり。あれはなんだったのと、言いたいような気持になるわよ。
句郎 そう冷淡になる男の気持ちが分からないということなのかな。
華女 女の中には、そう思う人もいるんじゃないかと思うけど。
句郎 でも男の中には、そうきっぱりと思いきれない人もいるんじゃないのかな。現に越人は後引き男だったんじゃないのかな。思いきれずにうじうじしていたんじゃないのかな。だから猫の恋を見て、あのようにきっぱりと思いきれる猫がうらやましいということなんじゃないのかな。
華女 うらやましいとは、そうことなのね。分かるわ。でも句としてはどうかしらね。私だったら、そんなハスッパな気持ちを句に詠まないだろうな。
句郎 「ハスッパ」か、どうか分からないけれど、欲情に違いはないよね。そんな欲情を詠んだが「猿蓑」に掲載されているんだから、古今集の歌に匹敵する句なんじゃないのかな。
華女 芭蕉は認めていたのね。
句郎 そのようだよ。「越人猫之句、驚入候。初而彼が秀作承候。心ざし有ものは終に風雅の口に不レ出といふ事なしとぞ被レ存候。姿は聊ひがみたる所も候へ共、心は高遠にして無窮之境遊しめ、堅(賢)愚之人共にをしえたるものなるべし。孔孟老荘之いましめ、且佛祖すら難レ忍所、常人は是をしらずして俳諧をいやしき事におもふべしと、口惜候。」と芭蕉は去来に手紙を書いているからね。越人の猫の句には驚いたよ。越人の初めての秀作だ。志(こころざし)さえあれば、いつかは口から風雅がでてくるものだ。たしかに少しひがみのようなものがあるがね。心は立派なものだよ。孔子や孟子、老子や荘子が欲情を戒めたため、その教えに従って常人が欲情を詠んだ俳句を卑しいものだと考えているのだとしたら残念なことだと芭蕉は去来に言っている。芭蕉は欲情を肯定しているんだ。

醸楽庵だより  405号  白井一道

2017-05-23 15:32:01 | 日記

   空手は日本の太極拳

 路上で転んだ老人が、その後、歩けなくなってしまった。満足に動かない手足を使い、空手の型の練習をしていくうちに歩けなかった老人は一人の力で歩けるようになった。空手の練習はリハビリの効果がある。中国の太極拳のように緩慢な動きではないが空手は体を活性化させる働きがあるという。
街の空手道場を開いて25、6年になりますが、こけまで弟子たちは一度も問題を起こしたことかありません。これが私の誇りです。空手というのは体を鍛える武道でありますが結果として心を鍛えているというふうに考えています。練習をすれば、強い子が出てくる一方、練習を積んでも良い結果が出せない子供もいます。私は結果を問題にはしてにいないのです。一人一人の生徒たちが練習を積み、今まで出来なかった技ができるようにな
るその成長の過程を尊重してにいるのです。ですから、私は厳しい練習を子供たちに課します。怠けていると厳しく叱責します。内心、もう来週から来なくなってしまうかな、という一抹の不安が心をよぎります。私も心を熱くして叱責してしまって後悔しているのです。
 次の週、叱責した子が元気一杯道場に入って来る姿を見ると胸が一杯になります。その子供の目の輝きに私は元気づけられます。空手はやめられない、そう感じています。こうして25、6年間、毎週日曜日、朝から夜まで一日中、空手をする生活が続にいてきたわけです。
 空手の練習はまず型を覚えることから始まります。型を体に覚えこますことによって技が侠えるようになります。空手は型に始まって型に終わると言えます。型、そのものが技でもあります。一人一人の子供の成長する過程を見ていくのは何とも楽しいものです。空手の試合に私の道場から弟子たちを出場させ、良い成績を上げ、道場の名をあげるような気持ちは少しもありません。一人一人の子供たちが自分の技を磨きたいという欲を出してくれるのを待つのが指導のように感じています。本当に子供たちが欲を出して練習を始めるとめきめき上達していきます。そうするともう安心です。どんな厳しい練習にもついて来てくれます。まあぁー、それまでが指導の厳しさでしょう。
こうなると心も鍛えられています。礼儀が自然と身についていくようです。特に礼儀のことについて、指導しているわけではないのですが、立派な態度を生徒たちは身につけています。そういう生徒は決して問題を起こすようなことはありません。
 空手には五つの原則があります。一つは「転身」です。これは身をかわすことです。早く言えば逃げるということでしょうか。逃げ、一点に集中して攻撃の隙を見つけるということでしょうか。欲の出てきた生徒はちはこの『転身』が身に着にいたといえます。二つ目は「流水」と言われるものです。これは相手の攻撃を流して受けることです。昔から空手に先手なし、と言われてきました。空手は先制攻撃をしません。攻撃されたときその攻撃をとのように受けるかに空手の極意があります。三つ目は「落下」といわれるものです。強い攻撃を強く受ける方法です。四つ目は「反撃」です。カウンター攻撃というものです。

醸楽庵だより  405号  白井一道

2017-05-22 11:47:16 | 日記

 「邂逅の森」を話す

暖簾をくぐると源ちゃんがにいた。
 しばらくだね。一牟ぶりくらいかな。
 よせやぁい。おとといここであったばかりじゃないか。
 そうだったかな。本当にしばらく逢ってにいないような感じがするんだけどね。
 アルツの心配はないの。若年性痴呆症が流行っているから気をつけた方がいいかも。
 源ちゃんがこの間、言っていた小説、何というんだっけ。
 「遜遁の森」かい。
 そうそう、その小説、読んだよ。
 どうだった。
 面白かったよ。「夜這い」のところなんか、面白く読んだよ。
 今でも通ずる話だと俺、思ったけどね。若い男が皆、憧れる女には男はいない。男たちが敬遠してしまう。思い切って「夜這い」をかけたら、受け入れてくれた。やはり、男は度胸だね。駄目元でアタックする。
 俺は「マタギ」の話に興味をもったよ。山の神令まは醜女(しこめ)で嫉妬深い。内の山の神も同じだ。嫉み始めたらどうにも手がつけられない。だから大事に清く貧しく美しく生きねば、と思うね。
 マタギは山の神さまの怒りをかわないよう、初めて冬山の熊狩りに参加する者は一月も前から女を断ち、禁欲生活をする。山に入ると若者は下半身を露出し、勃起させ、祈る。参加している者は皆、真剣にこの儀式を執り行う。こうして、山の神さまに祈り、猟がうまくいくと信じて疑わなにい。
 神話的な世界がつい最近まであったんだね。
 こうしたことって、とても大事なことのように思うよ。子熊を抱えた熊は絶対に捕らなにい。自然の摂理には逆らわない。こうして掟や仕来りのようなものがつくられ、それを厳格に守る。山の恵みは神様からの恵みだと村人は皆感謝する。今のような自然環境の破壊はなかった。自然に対する畏敬の念のようなものを失ったとき、自然破壊は進むのかななんてこの小説を読んで思ったけどね。
 難しいことを言うね。
 そうさ、俺は哲学者だからね。小説の中に人間の真実のようなものを見いだすから。
 こりゃ、驚いたね。哲学者ときましたか。
 源ちゃん、面白い小説があったら、また紹介してよ。
 うん、小説なんてたまにしか読まないからね。