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白辰狐の私的で史的な呟き

歴史がらみの話題を書き連ねつつ、時折、歴史FLASHを公開したりもする史的ブログです。

外電:ニホン南北内戦、60年ぶりに和平合意成立

2005年10月05日 01時41分32秒 | 日本史・中世
外電

1392.10.5

複数の情報筋によると、半世紀以上、日本を南北に分断していた内戦がついに正式に終了した。
両陣営の首脳によって進められてきた和平交渉は、軍事的に優勢な北側に有利な条件で合意に達したものと思われ、実質的な北側の勝利と見る向きが多い。

和平合意によって、南側の指導者、ゴカメヤマ帝は、北側の指導者ゴコマツ帝に日本皇帝の地位を譲り、合わせて、皇位の象徴として現地人の尊崇の対象だった三種の神器が南側から北側に委譲する儀式が行われた模様。

和平合意の詳細に関して、和平交渉の実質的な北側代表だったイマガワ・リョーシュン将軍によれば、「南北が交互に皇位に就く継承方式と全国の国有直轄地コクガの南側の所有を条件として和平合意に達した」とのことだが、和平合意の履行に関して、軍事的に劣勢な南側がどれほどの影響力を行使できるか疑問視されており、実際には南側の全面降伏であるとも巷間では囁かれている。

今回の和平合意が、軍事的、政治的能力を有する北側に有利な条件で締結されたことは、近年不安定化する日本列島西部周辺海域の治安維持に神経を尖らせる周辺各国にとっても、今後の対応が期待できることから歓迎されると見られており、60年ぶりに誕生した統一政権は北側の主導下で、内外に久しぶりの安定をもたらすことになりそうだ。

(日本-キョート発 フランシスクス・ハビエール)


というような、もし現在であれば、スーダンやユーゴ発で打たれる様な外電が、日本から発せられたことでしょう。という出来事が起こったのが、700年前の今日、キリスト生誕暦1392年、北朝暦明徳3年、南朝暦元弘9年、閏十月の5日でした。

60年に渡り、日本を分裂状態に置いていた南北内戦。暦も二つ。天皇も二人、もちろん首都もふたつ。というまさに内戦だったのですが、北朝の優勢に推移する情勢下、南朝はついに和睦に応じ、南北朝動乱は終焉を迎えます。

この時、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する、という形で、すなわち、それまでは一応、南朝側が正統だった、という形で和解が図られます。
この原因のひとつが、皇位継承の象徴三種の神器が、南朝側の手にあったからだ、と言われています。事実、この時、三種の神器はようやく北朝側に手渡される事となりました。

三種の神器、というのは、テレビ、洗濯機、冷蔵庫カーでもなく、カー、クーラー、カラーテレビでも、もちろんデジカメ、DVDレコーダー、薄型テレビでもなくて、

天叢雲剣、八尺瓊勾玉、八咫鏡の三種のことです。

この三種の神器を持っていることは極めて重要な意味を持っていて、明治時代、前にも少し話題に出た南北正閏論争の時に、南朝正統説の決め手となったのがこの神器の保有であったそうです。

最も、この三種の神器、南北朝動乱の初期の段階で、北朝に一度委譲されています。でも、後醍醐帝が、後になって「あぁ、あれ?偽物渡しただけだから」とちょっとそれはどうなのか、という発言をして、実は南朝が持っているということになりました。

こんなことがあると、ほんとにほんとにそれが本物だったのかなぁ、もしかしてそれ、言い訳ってやつじゃないのかなぁ、とか思ってしまったりもするのですが、そういう問いは不毛です。
天皇が持ってれば、それが本物の三種の神器です。

そもそも、南北朝以前に壇ノ浦で安徳天皇と一緒に沈んだったじゃないか、とか、南北朝合一後、北朝側が案の定和平合意を履行せずに完全に権力を奪われた南朝側の残党がゲリラ化した「後南朝」が起こした禁闕の変で、剣は奪われたんじゃないのか、とか色々と疑惑はあるんですが、

とにかく、天皇の手元にあるのが正しい三種の神器なんです。別に無くなったり、沈んだり、壊れたりしたから作り直したって全然問題ないんです。

日本書紀にも正直に書いてあります。
「なくなっちゃったので、まずいっていうんで、(三種の神器の一つの)宝剣作り直させた。前よりも霊力が強かった。結果オーライ」

というわけで、安心して、熱田神宮(天叢雲剣を安置)、伊勢神宮(同じく八咫鏡)、皇居(同じく八尺瓊勾玉)にお参りできるわけです。



まぁ、政治利用されている、もしくはされていたご神体の類なんてたいていそういうものですよね。下手に利用されているだけ、余計に怪しくなってしまいます。

仏舎利とか聖遺物なんてまさにその典型でしょうけど。ユーゴ紛争を惹起したセルビアの英雄ラザレの遺体とかもそんな感じですね。あれが本当だったなんて、セルビア人以外ろくに信じていないと思いますが。

ちょっと時代考証というか、演出に手を抜きすぎると、前にコメントでも触れた檀君陵みたいなものになってしまうわけですが。いや、あれは本当に笑えるのでGoogleあたりで検索すると色々出てきます。

レーニンの遺体とか、そのうち絶対紛失したり摩り替わったりすると思います。聖エビータの遺体はまだアルゼンチンにあるんですかね?


天皇、その求められる才覚

2005年09月19日 17時55分20秒 | 日本史・中世
お久しぶりです。

ようやく時間が取れるようになったので、ブログも再開します。


さて、今日は、9月19日。

理系だと、「パスカル、水銀柱の実験で大気圧の存在を証明(1648)」や、「モンゴルフィ兄弟、ヴェルサイユで気球の初公開実験(1783)」とかになるんでしょうか。

でも、残念ながら白辰狐は文系です。ラヴォアジェと来て、「酸素の発見者」と来る代わりに、「フランス革命でフーキエ・タンヴィルによって刑死」と出てくるぐらいに。


そんな訳で、今日9月19日は、今から約700年前、正中元年(キリスト生誕暦1324年)に発生した「正中の変」の日です。

時は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、100年余。幕府の実権は執権北条氏に委ねられ、その権勢は、将軍・天皇を凌ぎ、次の将軍、次の天皇も彼らの意向によって決まるという時代。

天皇の兄弟どちらが次の位を継ぐかという世継ぎ問題に介入した北条氏は、兄と弟の家系が約十年ごとに交互に位に就くという方式を編み出し(両統迭立)、これを調停します。
ところが、その方式で位に就いた弟方(大覚寺統)の天皇、後醍醐天皇が、次の天皇を方式どおり、兄方(持明院統)の皇太子が成人すれば退位しなければならず、自分の子に継がせることもできないという状況に、そして、ひいては、日本の王たる天皇が、鎌倉幕府に従わなければならないという権力構造自体に不満を募らせ、鎌倉幕府倒幕を図って起こしたのが、この正中の変です。

当時、実権を握っていたのは、征夷大将軍の家来の北条氏ですらなく、政治に興味の無い執権北条高時のさらに家来の長崎家で、元寇の恩賞問題などで、武士のうちにも不満は多く、こうした世情を見抜いての倒幕運動でした。


結局、この正中の変は、密会の最中、酔った謀議参加者の一人が、へいじ(徳利に似た酒器)が倒れたのを見て「平氏(北条は平家の家系)が倒れた。打倒北条は成功する」と言ったところ、皆がその洒落に応じて浮かれ騒ぎ、そこにいた参加者の一人はこの駄洒落に呆れて、六波羅探題に密告、幕府に露見しました。幕府が朝廷監視の為に京都に於いていた機関「六波羅探題」の追求を受けて、謀議に参加した日野資朝、俊基の二名が追放処分。天皇自体は、釈明をしてなんとか罪を逃れました。

さて、この話、親父ギャグはTPOをわきまえて、という教訓もさることながら、後醍醐天皇の倒幕運動、そして、この後に続く古代日本以来の、そして以降絶後の日本分裂時代「南北朝時代」の幕開けとも言える事件となります。


後醍醐天皇は、その後の日本で敵方、北朝(持明院統)の天皇が位に就いたことから、「不徳」の天皇であったという評価が主に室町期以降の武家政権時代になされます。(朝廷の不徳→武家への政権移行の正当化というわけです)一方、明治以降は、楠木正成ら「尊皇」の武士の活躍や足利尊氏の「反逆」行為に注目が行き、天皇神聖化の動きと共に、偉大な天皇としての評価がされるようになりました。いわゆる南北朝正閏論に絡めて、非常に時代によって評価の揺れ動く天皇となりました。
現在の今上陛下は北朝・持明院統の系譜ですが、一応、「行動力、才能を備えていたが、野心(天皇専制国家の復活)が時代錯誤的だった」という評価に落ち着きつつあります。なので、その才覚には好意的評価の多いというのが現状です。

しかし、と思うのです。天皇として、あの行動力、才覚は、本当にほめられるべきだったのだろうか、と。

白辰狐は、天皇万歳ではないにしろ、天皇制存続主義者です。それは、天皇という存在が、二千年このかた、分裂すれば、資源も無く、険しい山野に阻まれて再統一も極めて困難で、そのくせ、地政学的には東アジアの要衝として、周辺国の野心の対象となりやすいこの国を統合し、衰微滅亡から守ってきた最大の要であると思うからです。
そして、そのために天皇に求められる才覚とは、目先の些細な権勢ではなく、この国全体のバランスを見極め、不満を和らげ、問題を曖昧化し、衝突を回避するというその能力にこそあると思うのです。

それを考えると、今上陛下の才覚たるや、後醍醐帝の比ではありません。昨今の嫌韓世論の隆盛に、ややかすんではしまいましたが、「桓武天皇の母方は百済王」発言は、日本側の自尊心を全く傷付けずに、韓国側の満足を引き出す見事な一言でしたし、国旗国歌法案に対して、ぎすぎすした雰囲気の中での「国旗・国歌は強制されるものではない」発言も、少し崩れかけてた天秤に、静かに手を添えるような言葉でした。

そう思うと、後醍醐天皇は、結局、時局の不満に何ら、実効的にも感情的にも効果を上げず、混乱を招き、究極には、古代以来初という日本分裂の危機を招くという醜態。これは、やはり褒むべき才覚とはいえないと思います。


そう言った意味で、天皇制について、あるいはナショナリズムについて、喧しい現下の時勢に、この国が後醍醐帝のような招嵐の人ではなく、今上陛下のような優れたバランス感覚を有する人物を帝位に迎えていることは、まさに僥倖と呼ぶべきではないでしょうか。
それとも、こうした時局にこうした人物と才覚が御位に就いていることが、天皇制一千有余年の理由なのでしょうか。

何にせよ、天皇制というものに、理屈抜きの愛着を覚えざるを得ないリベラルとしては、安心すべき時代ではあります……。