「白洲正子能面学」と「面打ち」
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小鍛冶(こかじ) ・ 後シテ ・ 白頭 小書 (特殊演出)
稲荷明神の使いの神体で、霊狐の姿を取っている。面は「泥小飛出」
小鍛冶 ・ 後シテ ・ 赤頭
「小鍛冶」の通常出では赤頭に「小飛出(ことびで)」の面を付ける。
「面」について
尉
先回から「尉」について書き始めましたが、実のところ筆者にとって「尉」の面は苦手な分野です。若いころから老人の面は興味が薄く、痩女、痩男等も出来るだけ避けていました。お陰で一番弱い分野になってしまいました。
「尉」の面は種類が多く、且つ、面の特徴が似ているので、なかなか識別しにくい。経験を積みながら覚えるしかない。
尉の面は神の霊験を寿ぐ脇能の前シテに、神が乗り移ったり、老木の精霊として現れたりする老人として登場する。また、修羅物といわれる戦いをテーマにした能では、武者の霊が乗り移った老人として登場する。
前回もご紹介した「小尉」を今回も引き続いて書いてみたい。
高砂
代表的な能曲の「高砂」や「弓八幡」などの脇能で、
後に神が本体を表す前シテの老人に相応しい面である<小尉>
小尉 ・ 伝小牛作 ・ 金剛家蔵
世阿弥が物真似の基本に<老体・女体・軍体>の三つを挙げていることから、老人が登場する能が古くから試みられてきた重要な演目であることがわかる。
<小尉>いう面の名称の由来は
小牛清光という面打ちの名にちなんで小牛尉と呼んでいたものを略して、小尉と呼んだものと考えられている。しかし、小牛は南北朝か室町初期に活躍した面打ち師でしたが、小牛尉という名称が記録の上で最初に現れるのは江戸期の中頃です。しかも、それは観世流の書物に限られるとか。他流では小尉と記録されている。
このようなことから小尉の名称の由来は別のところにあるのかもしれないとされている。
小尉 ・ 是閑吉満 ・ 池田家伝来
「小尉」の名称の異説・・・・・・江戸時代の説として下記のようなものがある。
「そもそも、翁とは一切の舞曲の母なり。この翁より一切の舞曲を生ずるなり。是故に翁の面より又一切の面を生出したるなり。されば翁・高砂と対して、翁の脇なる故に高砂と名付く。この如く翁の面より生じたる面なる故に翁を大尉と称し、高砂の面を小尉と名付く」
「小尉は住吉大明神之御顔を打候由」として、住吉の神は翁と一体であるという、金春禅竹の説がある。
以上の二つから「翁」とその脇能である「高砂」には同じ老人が登場するので、そこには自ずから使い分けがあるといことを意味している。
小牛尉 ・ 小牛作 ・ 梅若家流蔵
喫茶店でちょっと一服
小袖
お市の方
代表的な能装束である「唐織」「縫箔」という華麗な小袖の装束は、もともと大袖物の下着であったものが、上着として昇格し、次第に様々な意匠を凝らした豪華なものへ変化した服装です。現代でいうところの着物の直接の祖先である。能装束としては最も遅く登場し、現代に最も間近い時期の服装の服飾を今に伝える装束である。
上記の小袖は「お市の方」が「段替」という意匠構成の当時流行のモードであった。 模様が大きな段に配されて、左右の身頃と袖が一段ずつずれている。
この像は立ち膝をしているが、現代でも朝鮮半島では立ち膝が正装女性の正座である。片足を引いて座るこの姿は、能の構えの一つである。
「 能装束の歴史-04」
能装束(女性)
<能装束の基本>
能装束は一番下に肌着を付け、その上に着付け、袴、上着を着る。
摺箔
着付け
縫箔
摺箔(すりはく)
着付けに用いる袷の小袖のことで、無地の平絹に金や銀の箔を置いて露芝、七宝、鱗模様を表している。
紅緑白段流水扇 菊竹模様摺箔・(東博)
紫練緯地色紙葡萄模様摺箔・(東博)
摺箔を着た状態
縫箔
着付けに用いる袷の小袖のことで、形は唐織と同じ。 刺繍と金銀の箔で模様を表した。袖は通さず腰に巻き付ける着付け方(腰巻付)をする。唐織が普及していなかった安土桃~江戸時代初期は、縫箔は最も華やかで美しい衣装であった。
茶地百合御所車文縫箔
紅白緑紫段篭目杜若模様縫箔
紺地立浪水犀桶模様縫箔
古典能装束の紹介
唐織
青海波に秋草短冊文様紅入唐織
江戸時代 ・ 井伊家
狂言面
毘沙門 作者不詳 山本東次郎家所蔵
毘沙門は仏の守護神である「毘沙門天・多聞天」のことである。狂言に登場するのは「毘沙門」、「連歌毘沙門」、「夷毘沙門」の三曲であるが、すべて鞍馬の毘沙門天として現れる。もともと軍神であるが、庶民信仰の「七福神」にも入っている。