ゴスペルクワイヤ:シャイニングライトのページへようこそ!

2006年1月より横浜市で活動を開始したゴスペルクワイヤのページです。ただ今会員募集中!!

~一般音楽業界での生き残り III~    ジョニー・キャッシュ

2008-11-24 10:01:20 | Weblog
自殺未遂
 キャッシュはチャタヌーガ市近くのテネシー川にあるニカジャック洞窟の中にこもるという珍しい方法で、自殺を試みたりもした。
 俺は地をはって、地をはって、地をはって、2、3時間もすると懐中電灯の電池がなくなってしまったので、真っ暗やみの中で横になったまま死を待った。明かりが全くないというのはいかにも当時の俺を象徴していた。俺はかつてないほどに神から離れていたからだ。神からはなれているということ、何年間も感じていた深い孤独、それに伴う様々な喪失感は、ここにきてとうとう最高潮に達したようだった。
 しかし、それは間違いだった。自分は神から離れてしまったと、俺は思っていたんだが、神は俺から離れてはおられなかった。俺は、何らかの力が自分に臨みはじめているのを感じた。それは全き平安、頭脳の明晰さ、冷静だった。その感覚はしばらく続き、その後、俺の思いは、神にのみ向けられるようになった。 
 神は、何も語られなかった。神は一度も俺に語られたことはないし、もし、神が語られたら、俺はびっくりしてしまうだろう。しかし、神は時として、俺の心にある感覚を与えたり、またはおそらく、頭に様々な考えを浮かばせて下さることはあるだろうと、俺は信じている。
 俺は、ここニカジャック洞窟で、極めて明白で、単純な一つの事実に気がついた。俺は、自分で自分の命を絶つことも出来ない。俺は、神がお定めになった時には、この世を去ることだろうが、それを自分で決めることは出来ないんだ。俺は、洞窟の中で死にたいなどと祈りはしなかったが、そのような祈りをしても、俺の人生に対する神の働きかけがやむわけではないのさ。
 その時、キャッシュはどうやって生きて洞窟から出てこられたのか不思議でならなかった。
 「あんなに真っ暗で、どっちが上で、どっちが下で、どっちが中で、どこが外かも分からない全く複雑な迷路のような地中深い洞窟、外の世界に出る手がかりもなければ、光も、感覚も失われていて、とても外に出られそうにはなかった。どうすれば、お望みの死から逃れられるのか。答えはなかったが、なんとかせねばという思いはあった。とにかく動かなければならなかった。そこでとにかく俺は体を動かしたんだ。俺は、地をはうようにして、頭を土中に突っ込みながら、それらしき方向に手で土をかいていった。光が見えてきて、やっとのことで、洞窟の開口部が見えてきたんだ。」
 キャッシュは、その時の衰弱からは回復したものの、麻薬との悪戦苦闘は続いていた。彼は、「麻薬の使用から逃れられたものの、それは一時的なものだった。一時、何年間もアンフェタミン(覚醒剤の一種)をうたずにすんでいた時期があるが、1967年以降は、使用期間はまちまちだが、アンフェタミンや睡眠薬や処方してもらった鎮痛剤を何度も、取っ替え引っかえ使っていた。」と書いている。

日報係から練習情報です

2008-11-24 09:37:08 | Weblog
寒いですね。日報係のみほこです。
二週分まとめてお伝えします。

まず、先週から↓
「Sing」と「Joy to the World」をおさらいして、新曲「THE KING」を練習しま
した。

直喜先生のお話では、「THE KING」の訳を教えて頂きました。大まかな訳は以下
です。

全ての部族と国々
全ての王様と王国

それらの人々が立ってあなたの素晴らしさをほめます
彼の血によって全ての人々を買い戻した

天の輝きはあなたがおさめています

大地が喜び
それが天まで響く

この王様が大地に降りて来る時彼を礼拝していると人々が歌います
王様を讃美する全ての国々があなたの名前を崇めます
全てに栄光を与えてください
御座におられる方に栄光を
価値ある、イエスに生まれあると歌いなさい

永遠に座っておられる方に
以上です。
歌全体を一文でまとめると「罪から贖われた事に喜び歌いましょう」とまとめら
れるそうです。

次は、今週の日報です。
「Sing」「Joy to the World」「THE KING」を練習しました。

Woo~と歌う所、ウの入りをソフトにOooではなく WOooの感じです。2フレーズご
とにブレスをします。

sinは inの音と同じでsの音を入れてください。

coming down の downのnは(う~ぬん)な感じで。

最後から5行目からのGlory throne worthy throne のリズムはシンコペーション
です。

throneの一回目だけは少し伸ばしぎみに歌います。

キーチェンジ
Glory give God the Gloryと歌います(これはプリントには無い歌詞です。)

ざっとこれくらいのポイントの指示がありましたが、音程も難しい所があります

みなさん、レンシュ~レンシュ~レンシュ~ね~ですよ。頑張りましょう。

直喜先生のお話です。
ヘブル人への手紙 11-6と11-1です。

私たちは目に見えたり、手で触れたりなど具体的なことしか信じないけれど、神
様と友達になれる人は目に見えない存在を信じることができる人なのです。
私たちがゴスペルで歌っている神様とは、私たちを愛し報ってくださる神様です

というお話でした。

アナウンスです。
コンサートの係分担の希望を取ります。係からのメールに詳細がありますので
まだの方は、お返事をしましょう。
12月25日にクリスマス礼拝を横浜のレッスン場所で行います。夜7時~です。こ
れも詳細は先日送られた直喜先生のメールを見てください。

コンサートの歌リストですFirst set
1.I came to lift him up
2.Hallelujah
3.Because of who you are

4.Glorious

Second set
1 Sing
2 Silent Night
3 The King
4 Joy to the world

Silent Night(Japanese) 以上です。

そして二週分の日報も以上です。
みなさん、勤労に感謝しつつ、よい連休をお過ごしください。
では、また来週会いましょう。

~一般音楽業界での生き残り~ II   ジョニー・キャッシュ

2008-11-01 23:03:01 | Weblog
若いキャッシュにとって、音楽は人生の応援歌で、彼は毎日働きながら汗を流しながら、その時その時の気分にあった歌を歌っていた。彼は回想しつつこう語った。「綿花農園では、12歳になるということは、一人前に全ての仕事をこなすということを意味しているんだ。18歳まではそうしていたけれども、その後俺は家を出たんだ。俺にとって綿花栽培とは、春と夏はバラを連れて、すきと桑で畑仕事、秋と冬は袋を持って収穫ということを意味していたんだ。俺は、農園に出ていても、1度たりとも歌うことをやめなかった。俺は12時から1時までの昼の昼食時間、休息時間を除いて朝から夜まで、メンフィスのWMPS局のハイ・ヌーン・ラウンドアップを聞いていたんだ。俺の兄弟姉妹たちは、自分たちの知っている旋律にあわせて歌っていたけれども、俺は、ヒルビリ・ミュージック、ポップス、ブルースをごちゃまぜにして歌っていたんだ。午後も中盤に入って仕事がかなりきつくなってくると、俺は、ゴスペル・ソングを歌いはじめたもんだ。」
 兄の死と希望を与えてくれたゴスペル
 14歳の兄が事故に遭い死の床についている時にも、彼に希望を与えてくれたのは、ゴスペルだった。「2歳年上のジャック兄さんは、俺が12歳の時に死んだんだ。その日最後に歌った歌は、もちろん、葬式で歌われた歌だった。勘違いしないでほしい。これは悲しいお話ではないんだ。むしろ、喜びをもたらしてくれたんだ。その歌の中に、信仰の内にこそ見出すことのできる永遠の希望があったんだ。『I'll fly away』、『I won't have to cross jordan alone』、『I am bound for the promised land』などの歌だった。 」
 兄の死を見とったキャッシュは、「もし、そこに望みがありうるならば、それは、麗しい死だ。兄さんは死にながら、天国を俺たちに見せてくれたんだからね。ジャック兄さんが死に際して音楽的にしてくれたことは、葬式の時歌われたゴスペル・ソングが、俺にとって喜びの泉となったということなんだ。」
 キャッシュのゴスペル・ミュージック好きと、わが子には天からの使命が与えられているという母親の思いが一つになって、この若きシンガーは、固い決意を抱くようになった。「おふくろは、『お前には、神様の御手があるんだ。夢や賜物を無駄にしてはいけないよ』といっていてもんだ。俺は、賜物を失ってしまったという感じがしたときまで、賜物という言葉によっておふくろが何を言おうとしていたのか少しも分かっていなかったんだ。再び賜物が使えるようになった時、それは甘味なものだった。」
 音楽活動と麻薬との格闘
 キャッシュの場合、このシンガーが飲酒や麻薬常用と戦い続け、1965年には麻薬所持で逮捕されるという最悪の時を迎える過程で、何度も何度も「賜物」を失ったり再び与えられたりしている。彼は、その後も公安妨害罪で再び逮捕され拘置所にも入れられた。 
 キャッシュは1950年から1954年まで空軍で過ごした後、メンフィスへいって、臨時雇いとして働いた。彼は、2人の友人、ルーさー・パーキンスとマーシャル・グラントとともに、ジョニー・キャッシュとテネシー2というバンドを結成し、それが、サン・フィリップスの目にとまり、彼はそれがきっかけでサン・レコードと契約し、カール・パーキンス、ロイ・ロービンソ、ジェリー・リー・ルイス、エルヴァスのようなアーティストを目標に音楽の道を進むことになる。おそらく、キャッシュがフィリップスの目にとまるべく音楽活動をしていたと言った方が正確だろう。
 作家のビル・ミラーは「この若者は、フィリップスの部下に何度も門前払いされた後直接フィリップスにあたってみることにしました。彼は、フィリップスが出勤するまでその場に座ったまま待っていて、自己紹介をした後、オーディションを受けさせてくれるようにと頼みました。」と述べた。
 キャッシュはサン・レコードと契約したが、間もなく問題にぶつかった。それは、ゴスペル・アーティストがこの先何十年間も悩まされるであろうという問題であった。ミラーはこう述べた。「フィリップスによると、当初このグループの持ち歌はゴスペルしかありませんでした。彼は、その歌を気に入ってはいたけれども、ゴスペル・アーティストではレコードでは売れないとキャッシュに言いました。フィリップスは人にはまねのできない彼独特のサウンドを高く買っていて、もう一度ゴスペルでない作品を作ってみないかと、キャッシュに勧めました。」
 キャッシュは、その勧めに応じ何年か後には、『I walk the line 』、『Cry Cry! Cry!』、『Hey porter』、『Folsom Prison Blues』などのヒットを飛ばした。1960年代は覚醒剤や鎮静剤を手放せなくなり、キャッシュにとっては散々だったが、7年間麻薬と格闘した甲斐あって、後の日になってやっと束縛から自由になることができた。そして、その過程において、ジューン・カーターという素晴らしい女性に巡り会うことができた。彼女は後に彼の妻となる。キャッシュは初めはカーターの美しさとその声に引かれたが、一緒にツアーに出るようになると、彼女は鉄のように強い女性であることにも気づいた。
 キャッシュは、ツアーに同行していたルイスやパーキンスについて、「ジューン・カーターがツアーに同行するようになった時、俺たちは彼女にツアーの何たるかを教えてやることにしたんだ。どこかのモーターホテルかどこかで、俺たちはコカイン常習者を一人連れ込み、彼女の部屋に押しかけたんだ。彼女はベッドの上に立ったまま悲鳴を上げたんだ。俺たちは彼女のスーツケースを開けて、彼女の服もベッドの上のシーツもみんなはぎ取ってしまったんだ。」
 それは一つの嫌がらせに過ぎなかったが、キャッシュがだんだんと暴力を振るうようになると、ジューンは彼に対して断固として態度で臨むようになった。後に、キャッシュが飲酒や麻薬と戦うようになった時も、同様だった。
 「ある晩まで、ボトルを開けるということが、俺たちの元気のもとになっていた。ところが、その晩、アイオワの舞踏会上の楽屋でのことだ。オープニングとして、バンドがステージに立ったので、俺たちはボトルを手にとってお酒を飲みはじめた。すると、彼女はそれを取って『やめて!!』と叫んだんだ。それから、彼女はボトルを手に取ると俺に投げ付けた。俺は止めるようにと怒鳴ったが、彼女はやめなかった。そこで、俺は彼女の手をつかんで抱き寄せた。俺は『分かったよ。もうやらない』と言った。彼女は、女性これ以上ないというぐらいにいたずらなまなざしを向けて、『約束して!』と言った。このようにその晩から、彼女は俺を立ち直らせるための長く、手間のかかる道のりを行くことにしたんだ。そして、なんと甘味なこと。しかし、この悪癖から俺を立ち直らせることは並大抵のことではなかったんだ」
 どん底に落ちて
 キャッシュはどん底に落ちるまで、何年間も麻薬とお酒に溺れた生活を続けていた。彼は、その頃のことをこう回想した。「1967年の10月の初めまでには、俺はもう落ちるところまで落ちていた。何日間も眠れず、食べられず、望みは残されていなかった。もう2度と日の光など見たくなかった。俺は人生を無駄にしていた。俺は、あまりに神からはなれてしまい、生活を安定させるための原動力も内に持っていなかったために、全く望みのない状態だったんだ。」