父はお出掛けの際はお一人でございました。が、お戻りになった今は、もう一人の姿がございました。月明りの中に見えましたのは、若い殿方でございました。わたくしは、何処かでお会いしたことがあるように思えました。
「信三郎……」父の声が致しました。殿方はそう呼ばれると、父に一礼をなさいました。父はその様子に構う事無くお続けになります。「手を貸せ……」
信三郎様…… そのお名前を聞いて、思い出しました。人付き合いのほとんどない父が、最近お近付きになった須田家の御二男様が、信三郎様とおっしゃいました。わたくしも、一、二度、お姿をお見かけした事がございました。ではございますが、話をした事はございませぬ。
「はい」
信三郎様は父に返答をいたしますと、父の横に並び立ちました。
二人はそのまま井戸までまいります。そして、井戸を塞いでいる厚板の上の大石に、二人で手を掛けました。ふむふむと言う、力の籠った息が漏れ聞こえてまいります。それに合わせて石が板の上を重々しい音を立てながら少しずつ動きました。やがて、石は、ばあやの用意した木箱の上へと移りました。
父は息つく間もなく、井戸を塞ぐ厚板の一方の端に手を掛けました。信三郎様は父の向かい側に手を掛けます。それから、その厚板を持ち上げて井戸の脇へと降ろしました。母もばあやも、黙したまま、少し離れた場所で、お二人の作業を見ておりました。
と、何やら嫌な臭いがしてまいりました。その臭いは、なんと申しましょうか、強いて言えば生温い臭いとでも申しましょうか。冷え冷えとした夜気に似合わぬものでございました。わたくしは思わず袂で鼻を覆ったものでございました。
井戸の口を開いたままにして、父と信三郎様は、無言のまま庭から出て行かれました。母とばあやは相変わらず無言のままで立っておりました。
不意に月が雲に隠れ、闇が広がりました。と、夜闇を裂くかと思われる断末魔の様な鳥の啼く声が致しました。わたくしは声を上げそうになったのを、鼻に押し当てた袂をきつく噛む事で避けられました。
再び雲が切れて月明かりが戻ってまいりました。しばらくすると、父と信三郎様の足音が聞こえてまいりました。足音と申しましても、足裏を地に擦るような音でございました。何かを運んでおいでなのでございましょうか。わたくしは音の方を見つめておりました。
すると、またもや月が陰りました。闇とまでは成りませなんだが、黒い影姿が朧にしか見えませぬ。父と信三郎様とは向かい合って歩を進めておいででした。そして、お二人の間には何やら横長なものがございました。それが何であるのか、朧な影姿からは判然といたしませぬ。ただ、お二人でそれを運んでいるのは見てとれました。お二人はそのまま井戸の所まで参りました。
月明りが戻って参りました。わたくしは再び袂を噛みました。それも千切れんばかりの強さで。
父と信三郎様が運んでいたのは、やや年配の殿方でございました。仰向けでかっと目を見開いたまま動かず、ぐったりとした殿方でございました。父が両腕を持ち、信三郎様が両脚を持っておりました。着ている物の前が大きく裂け、朱に染まっているのが月明りでも見てとれました。殿方は斬られて骸と化していたのでございます。
父と信三郎様は、その骸を持ち上げますと、井戸の中へと落としました。水音はいたしませんでした。父はしばらく井戸を覗き込むと、信三郎様に合図をし、厚板を井戸の口に乗せ、木箱の上の大石をずらして厚板の上へと戻しました。
わたくしは袂を噛み締めたまま、震える脚を何とか動かして、勝手口から自分の部屋へと戻って参りました。わたくしは部屋へ着くなり、布団の上に倒れ込み、気を失のうたのでございます。
あの井戸は、骸を放り込む穴だったのでございます。
つづく
「信三郎……」父の声が致しました。殿方はそう呼ばれると、父に一礼をなさいました。父はその様子に構う事無くお続けになります。「手を貸せ……」
信三郎様…… そのお名前を聞いて、思い出しました。人付き合いのほとんどない父が、最近お近付きになった須田家の御二男様が、信三郎様とおっしゃいました。わたくしも、一、二度、お姿をお見かけした事がございました。ではございますが、話をした事はございませぬ。
「はい」
信三郎様は父に返答をいたしますと、父の横に並び立ちました。
二人はそのまま井戸までまいります。そして、井戸を塞いでいる厚板の上の大石に、二人で手を掛けました。ふむふむと言う、力の籠った息が漏れ聞こえてまいります。それに合わせて石が板の上を重々しい音を立てながら少しずつ動きました。やがて、石は、ばあやの用意した木箱の上へと移りました。
父は息つく間もなく、井戸を塞ぐ厚板の一方の端に手を掛けました。信三郎様は父の向かい側に手を掛けます。それから、その厚板を持ち上げて井戸の脇へと降ろしました。母もばあやも、黙したまま、少し離れた場所で、お二人の作業を見ておりました。
と、何やら嫌な臭いがしてまいりました。その臭いは、なんと申しましょうか、強いて言えば生温い臭いとでも申しましょうか。冷え冷えとした夜気に似合わぬものでございました。わたくしは思わず袂で鼻を覆ったものでございました。
井戸の口を開いたままにして、父と信三郎様は、無言のまま庭から出て行かれました。母とばあやは相変わらず無言のままで立っておりました。
不意に月が雲に隠れ、闇が広がりました。と、夜闇を裂くかと思われる断末魔の様な鳥の啼く声が致しました。わたくしは声を上げそうになったのを、鼻に押し当てた袂をきつく噛む事で避けられました。
再び雲が切れて月明かりが戻ってまいりました。しばらくすると、父と信三郎様の足音が聞こえてまいりました。足音と申しましても、足裏を地に擦るような音でございました。何かを運んでおいでなのでございましょうか。わたくしは音の方を見つめておりました。
すると、またもや月が陰りました。闇とまでは成りませなんだが、黒い影姿が朧にしか見えませぬ。父と信三郎様とは向かい合って歩を進めておいででした。そして、お二人の間には何やら横長なものがございました。それが何であるのか、朧な影姿からは判然といたしませぬ。ただ、お二人でそれを運んでいるのは見てとれました。お二人はそのまま井戸の所まで参りました。
月明りが戻って参りました。わたくしは再び袂を噛みました。それも千切れんばかりの強さで。
父と信三郎様が運んでいたのは、やや年配の殿方でございました。仰向けでかっと目を見開いたまま動かず、ぐったりとした殿方でございました。父が両腕を持ち、信三郎様が両脚を持っておりました。着ている物の前が大きく裂け、朱に染まっているのが月明りでも見てとれました。殿方は斬られて骸と化していたのでございます。
父と信三郎様は、その骸を持ち上げますと、井戸の中へと落としました。水音はいたしませんでした。父はしばらく井戸を覗き込むと、信三郎様に合図をし、厚板を井戸の口に乗せ、木箱の上の大石をずらして厚板の上へと戻しました。
わたくしは袂を噛み締めたまま、震える脚を何とか動かして、勝手口から自分の部屋へと戻って参りました。わたくしは部屋へ着くなり、布団の上に倒れ込み、気を失のうたのでございます。
あの井戸は、骸を放り込む穴だったのでございます。
つづく
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