アイに憑いたユリアは立ち上がる。左の爪先を軸にしてくるりと一回りした。
「なかなか良い感じ」ユリアは言う。「こう言う生身ならずっと憑いていても良いかな?」
「でもさぁ」さゆりが言う。「生身って重いんじゃない?」
「この娘はそうでもないわ。実戦で鍛えたって感じがする」
「そうなんだ…… でも、わたしには面倒くさそうに思えちゃうわ。まあ、せいぜい楽しむ事ね」
「あのさぁ……」ユリアが悪戯っぽい目をして言う。「この生身でさ、綾部さとみを倒しちゃってもいい?」
「それはダメだよ」さゆりが即答する。「倒すのはわたしの楽しみ、じゃなかった、定めなんだから」
二人は笑う。明るい日差しの中に冷たい風が吹く。
それを屋上の出入り扉越しに見ていたのは、祖母たちと楓だった。アイが教室に行かずに階段を上り始めたので、気になって後をつけて来たのだ。さゆりたちは気がついていないようだ。
「あの娘、なんて事をしでかしくれやがったんだい!」楓が毒づく。「ユリアが生身になっちまったじゃないか! こりゃ、手が付けられないよ……」
「あの娘なりに、さとちゃんの事を考えたのよ」冨が擁護する。「でも、厄介な事になったわねぇ……」
「これは一大事だねぇ……」珠子が眉間に皺を寄せる。「ユリアが生身を持ったとなると、わたしたちじゃ、思ったように手を出せないね」
「どうしたものか……」静が腕組みをして、思案する。「今出て行っても、さゆりに逃げられちまうだろうし。生身のユリアが相手じゃ、確かに厳しいし……」
「とにかく、屋上から出ないようにだけはしないとね」富が言う。「あのままで出て行ったら、他の生徒までどんな目に遭うか。それで、最後は霊体を抜け出させて逃げちまえば、あのお嬢ちゃんが全部の責任を取る事になってしまう」
「あの娘はアイって言ってさ」楓が言う。「なかなかの不良娘なんだ。だから、憑いたせいって思ってもらえないだろうねぇ」
「溜まった鬱屈を爆発させたって事になるのかい……」珠子がため息をつく。「そいつはいけないねぇ」
「じゃあ、どうすんだい?」静がいらいらしたように言う。「とにかく足止めしなきゃいけない。わたしが行くよ!」
「ちょい待ち!」楓が言って、静を止める。「良い事思いついたよ……」
「何だい?」静は楓を睨む。「一人でしたり顔してんじゃないよ」
「お嬢ちゃんと一緒にいる娘がいるだろう? 背のすらっと高い、綺麗な娘。……そうそう、麗子って言ったね」楓が言う。「あの娘をここに呼ぶんだ。そして、あの女侍も」
「どう言う事だい?」たかもが首をひねる。「何が何だか、さっぱりだ」
「麗子って娘、アイと同じく憑きやすいんだ。だから、女侍が憑けば、ユリアと一戦交えてくれるんじゃないかってさ」
「なるほどねぇ……」珠子が感心する。しかし、すぐに表情が曇る。「でも、そう上手く行くかい?」
「麗子ちゃんに声をかけられるのは、さとちゃんだけだけど、寝ちゃっているしねぇ」冨が言う。「それに、みつさんもどこにいるのやら……」
「でもさ、ぐずぐずしてたら、ユリアのヤツ、絶対、屋上から出ちまうよ」
「ええい!」静が出入りの扉に向かう。「わたしが何とか時間稼ぎをしておくから、その間に、段取りをするんだ!」
静は皆の返事を待たずに扉から屋上へと飛び出して行った。
「しょうがないねぇ……」珠子がため息をつく。「まあ、始まっちゃったから仕方がないか。富はさとみちゃんをお願い。楓はみつさんをお願いするわ」
「あんたは何すんだい?」楓が訊く。「ここでふんぞり返ってんじゃないだろうね?」
「ははは、それが出来りゃ楽だけどね」珠子は笑う。「馬鹿な自分の娘を助けなきゃね。……じゃあ、頼んだよ。なるったけ早くね」
珠子は言うと屋上へと出て行った。
「じゃあ、わたしは行くよ」冨が言う。「熟睡中のさとちゃんを起こすのは難儀だけどねぇ…… みつさんは頼んだよ」
富は姿を消した。
「へへへ、頼られちまったよ……」楓は嬉しそうにつぶやく。「……良いもんじゃないか、頼られるってさ。ま、どうせあいつら、あの公園にでもいるだろうさ」
楓も姿を消した。
「何だい、婆さんが雁首揃えて?」
現われた静と珠子を見て、ユリアがからかう様に言う。
「見て分かるだろ? わたしは生身だ。あんたらに手は出せないよ」
「そうかい」珠子が平然と言う。「わたしたちは、お前なんぞ相手にしてないのさ。用があるのは、さゆりだよ」
「そう言う事」静は珠子に合わせる。さすがに母子だ。「生身にゃ、用はないのさ」
「ふん!」ユリアは鼻を鳴らす。「とか何とか言って、この若い生身が羨ましいんだろ? あ、婆あに憑かれちゃ、この娘、泣いちゃうか」
ユリアの言葉にさゆりは笑う。
「そうかも知れないけどね」珠子が言い返す。「お前みたいな碌で無しの権化みたいなのに憑かれるのもイヤだろうさ」
「権化!」さゆりはさらに笑い出した。「ユリア、お前、権化だってさ!」
「何が可笑しいのよ?」ユリアは憮然とする。「全然面白さが分かんないわよ!」
さゆりは、憮然としたユリアの表情を見て、さらに笑い続けている。
「……さて、みんなどこだい?」
公園に来た楓はきょろきょろと見回す。地縛霊と浮遊霊がいつものように居た。
「おや、楓じゃねぇか」
楓はその声に振り返る。昔つるんでた正八だった。最初の頃こそ毎日つるんでいたが、正八の底の浅さにうんざりして距離を置くようになった。会わなくなってどれくらいの歳月が経ったか。
「正八かい……」楓はつまらなさそうに言う。「あんたを探しに来たんじゃないんだ。あんたには金輪際用なんかないんだよ。だから、どこかへ行っておしまいな」
「しばらくぶりに会った元思い人に冷てぇじゃねぇか」正八はにやにやしながら楓に近づく。「どうだい、ここで逢ったのも何かの縁だ。また、しっぽりと行かねぇかい?」
「お生憎様だねぇ」楓はうんざりとした顔をする。「わたしが探してるのは、あんたじゃないんだ。良いから、さっさと消えちまいなよ」
「……おい、ずいぶんと偉そうじゃねぇか?」正八は真顔になる。「昔散々世話してやったって言うのによう、ふざけんじゃねぇ!」
「何だい? 女に振られて荒れようってのかい?」楓は鼻で笑う。「そんな底の浅さがイヤんなっちまったんだ。ちっとも変っちゃいないんだねぇ」
「何だとぉぉぉ……」
「……おい、やかましいぜ」
割って入って来たのは豆蔵だった。楓は素早く豆蔵の背に身を隠した。
「……おいおい、何やってんだ、楓姐さんよぉ?」豆蔵が戸惑う。「それに、こいつは何者だ?」
「正八って、けちな男さ」楓が豆蔵の背中で言う。「今じゃ只の顔見知り、いや、それにもならないヤツだよ」
「ほう……」豆蔵は十手を取り出す。「昔の事は知ったこっちゃねぇがな、痛ぇ目見たくなかったら、失せな」
「ちっ!」
正八は舌打ちをして消えた。豆蔵に勝てないと見たのだろう。
「ありがとよ、豆蔵さん」楓は豆蔵の前に回って両手を合わせた。「助かったよ。それに、手間も省けたしね」
「おいおい、お前が礼を言うなんてよ、何だかくすぐってぇな」豆蔵は頬を掻く。「それと、手間が省けたってのは、どう言う意味でぇ?」
「みつさんにお願いがあるんだよ」
「良く寝てるねぇ……」
富は目を開けたままで寝ているさとみの前に立って、ため息をついた。授業が面白くないのか、皆眠そうだ。麗子も半分寝ているような顔をしてる。
「さて、どうやって起こそうか……」
富はさとみの顔をじっと見つめる。
つづく
「なかなか良い感じ」ユリアは言う。「こう言う生身ならずっと憑いていても良いかな?」
「でもさぁ」さゆりが言う。「生身って重いんじゃない?」
「この娘はそうでもないわ。実戦で鍛えたって感じがする」
「そうなんだ…… でも、わたしには面倒くさそうに思えちゃうわ。まあ、せいぜい楽しむ事ね」
「あのさぁ……」ユリアが悪戯っぽい目をして言う。「この生身でさ、綾部さとみを倒しちゃってもいい?」
「それはダメだよ」さゆりが即答する。「倒すのはわたしの楽しみ、じゃなかった、定めなんだから」
二人は笑う。明るい日差しの中に冷たい風が吹く。
それを屋上の出入り扉越しに見ていたのは、祖母たちと楓だった。アイが教室に行かずに階段を上り始めたので、気になって後をつけて来たのだ。さゆりたちは気がついていないようだ。
「あの娘、なんて事をしでかしくれやがったんだい!」楓が毒づく。「ユリアが生身になっちまったじゃないか! こりゃ、手が付けられないよ……」
「あの娘なりに、さとちゃんの事を考えたのよ」冨が擁護する。「でも、厄介な事になったわねぇ……」
「これは一大事だねぇ……」珠子が眉間に皺を寄せる。「ユリアが生身を持ったとなると、わたしたちじゃ、思ったように手を出せないね」
「どうしたものか……」静が腕組みをして、思案する。「今出て行っても、さゆりに逃げられちまうだろうし。生身のユリアが相手じゃ、確かに厳しいし……」
「とにかく、屋上から出ないようにだけはしないとね」富が言う。「あのままで出て行ったら、他の生徒までどんな目に遭うか。それで、最後は霊体を抜け出させて逃げちまえば、あのお嬢ちゃんが全部の責任を取る事になってしまう」
「あの娘はアイって言ってさ」楓が言う。「なかなかの不良娘なんだ。だから、憑いたせいって思ってもらえないだろうねぇ」
「溜まった鬱屈を爆発させたって事になるのかい……」珠子がため息をつく。「そいつはいけないねぇ」
「じゃあ、どうすんだい?」静がいらいらしたように言う。「とにかく足止めしなきゃいけない。わたしが行くよ!」
「ちょい待ち!」楓が言って、静を止める。「良い事思いついたよ……」
「何だい?」静は楓を睨む。「一人でしたり顔してんじゃないよ」
「お嬢ちゃんと一緒にいる娘がいるだろう? 背のすらっと高い、綺麗な娘。……そうそう、麗子って言ったね」楓が言う。「あの娘をここに呼ぶんだ。そして、あの女侍も」
「どう言う事だい?」たかもが首をひねる。「何が何だか、さっぱりだ」
「麗子って娘、アイと同じく憑きやすいんだ。だから、女侍が憑けば、ユリアと一戦交えてくれるんじゃないかってさ」
「なるほどねぇ……」珠子が感心する。しかし、すぐに表情が曇る。「でも、そう上手く行くかい?」
「麗子ちゃんに声をかけられるのは、さとちゃんだけだけど、寝ちゃっているしねぇ」冨が言う。「それに、みつさんもどこにいるのやら……」
「でもさ、ぐずぐずしてたら、ユリアのヤツ、絶対、屋上から出ちまうよ」
「ええい!」静が出入りの扉に向かう。「わたしが何とか時間稼ぎをしておくから、その間に、段取りをするんだ!」
静は皆の返事を待たずに扉から屋上へと飛び出して行った。
「しょうがないねぇ……」珠子がため息をつく。「まあ、始まっちゃったから仕方がないか。富はさとみちゃんをお願い。楓はみつさんをお願いするわ」
「あんたは何すんだい?」楓が訊く。「ここでふんぞり返ってんじゃないだろうね?」
「ははは、それが出来りゃ楽だけどね」珠子は笑う。「馬鹿な自分の娘を助けなきゃね。……じゃあ、頼んだよ。なるったけ早くね」
珠子は言うと屋上へと出て行った。
「じゃあ、わたしは行くよ」冨が言う。「熟睡中のさとちゃんを起こすのは難儀だけどねぇ…… みつさんは頼んだよ」
富は姿を消した。
「へへへ、頼られちまったよ……」楓は嬉しそうにつぶやく。「……良いもんじゃないか、頼られるってさ。ま、どうせあいつら、あの公園にでもいるだろうさ」
楓も姿を消した。
「何だい、婆さんが雁首揃えて?」
現われた静と珠子を見て、ユリアがからかう様に言う。
「見て分かるだろ? わたしは生身だ。あんたらに手は出せないよ」
「そうかい」珠子が平然と言う。「わたしたちは、お前なんぞ相手にしてないのさ。用があるのは、さゆりだよ」
「そう言う事」静は珠子に合わせる。さすがに母子だ。「生身にゃ、用はないのさ」
「ふん!」ユリアは鼻を鳴らす。「とか何とか言って、この若い生身が羨ましいんだろ? あ、婆あに憑かれちゃ、この娘、泣いちゃうか」
ユリアの言葉にさゆりは笑う。
「そうかも知れないけどね」珠子が言い返す。「お前みたいな碌で無しの権化みたいなのに憑かれるのもイヤだろうさ」
「権化!」さゆりはさらに笑い出した。「ユリア、お前、権化だってさ!」
「何が可笑しいのよ?」ユリアは憮然とする。「全然面白さが分かんないわよ!」
さゆりは、憮然としたユリアの表情を見て、さらに笑い続けている。
「……さて、みんなどこだい?」
公園に来た楓はきょろきょろと見回す。地縛霊と浮遊霊がいつものように居た。
「おや、楓じゃねぇか」
楓はその声に振り返る。昔つるんでた正八だった。最初の頃こそ毎日つるんでいたが、正八の底の浅さにうんざりして距離を置くようになった。会わなくなってどれくらいの歳月が経ったか。
「正八かい……」楓はつまらなさそうに言う。「あんたを探しに来たんじゃないんだ。あんたには金輪際用なんかないんだよ。だから、どこかへ行っておしまいな」
「しばらくぶりに会った元思い人に冷てぇじゃねぇか」正八はにやにやしながら楓に近づく。「どうだい、ここで逢ったのも何かの縁だ。また、しっぽりと行かねぇかい?」
「お生憎様だねぇ」楓はうんざりとした顔をする。「わたしが探してるのは、あんたじゃないんだ。良いから、さっさと消えちまいなよ」
「……おい、ずいぶんと偉そうじゃねぇか?」正八は真顔になる。「昔散々世話してやったって言うのによう、ふざけんじゃねぇ!」
「何だい? 女に振られて荒れようってのかい?」楓は鼻で笑う。「そんな底の浅さがイヤんなっちまったんだ。ちっとも変っちゃいないんだねぇ」
「何だとぉぉぉ……」
「……おい、やかましいぜ」
割って入って来たのは豆蔵だった。楓は素早く豆蔵の背に身を隠した。
「……おいおい、何やってんだ、楓姐さんよぉ?」豆蔵が戸惑う。「それに、こいつは何者だ?」
「正八って、けちな男さ」楓が豆蔵の背中で言う。「今じゃ只の顔見知り、いや、それにもならないヤツだよ」
「ほう……」豆蔵は十手を取り出す。「昔の事は知ったこっちゃねぇがな、痛ぇ目見たくなかったら、失せな」
「ちっ!」
正八は舌打ちをして消えた。豆蔵に勝てないと見たのだろう。
「ありがとよ、豆蔵さん」楓は豆蔵の前に回って両手を合わせた。「助かったよ。それに、手間も省けたしね」
「おいおい、お前が礼を言うなんてよ、何だかくすぐってぇな」豆蔵は頬を掻く。「それと、手間が省けたってのは、どう言う意味でぇ?」
「みつさんにお願いがあるんだよ」
「良く寝てるねぇ……」
富は目を開けたままで寝ているさとみの前に立って、ため息をついた。授業が面白くないのか、皆眠そうだ。麗子も半分寝ているような顔をしてる。
「さて、どうやって起こそうか……」
富はさとみの顔をじっと見つめる。
つづく
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