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怪談 青井の井戸 30

2021年10月10日 | 怪談 青井の井戸(全41話完結)
「きくの!」
 名を呼ばれました。声の方を見ますと、目を大きく見開いた父が立っておりました。しばらくぶりに見た父はますます老いぼれておりました。もはや父は鬼とはかけ離れた姿でございました。青井の血を持つ者としては情けのうございました。と共に、滑稽さに笑いが込み上げて参りました。
「ははは、お父様、何をそのようの慌てふためいているのです?」
「きくの!」
 父は再びわたくしの名を呼びます。当人は威厳を込めたつもりかもしれませぬが、わたくしには老いぼれの空威張りにもすらも見えませぬ。
「名を呼ぶだけであれば、一度でよろしいのではございませぬか?」
「……お前、乱心したのか!」父は苦渋の表情でわたくしの足元を指差します。「その白装束は、今宵の為ぞ! 何と言う事をしてくれたのだ!」
「ほほほ……」わたくしは笑いながら、さらに白装束を踏み付けます。「これは死のう者の纏うもの。死なぬ者には無意味」
「何を言っているのだ、きくの!」
「それはこちらの科白……」わたくしは父にからだを向けました。「青井の、鬼の血を継ぎながら、お役御免な事くらいで右往左往とは。鬼は最期まで鬼であるべしと存じまする」
 わたくしはそう言いながら、からだを駈け巡る鬼の血が治まりつかなくなりそうな感触に襲われておりました。
 からだが膨れ上がりそうな感触でございます。着ている物を引き千切り、解き放ちたい思いに駈られます。また、からだも熱くなってまいります。全身から炎が、それも憤怒の炎が噴き出しそうでございます。おろおろとする父の無様さが、わたくしを笑いに誘います。
「きくの……」
 今度は母が名を呼びました。ばあやと共に来た母は、わたくしの姿を見てよろけ、障子戸に背を凭れかけました。ばあやは廊下に座り込んでしまいました。
「ほほほ、皆揃うたようですね。ならば、この場でお果てになるが宜しかろうと存じまする。わたくしが見届けましょうぞ……」
 と、急に父が廊下を駈けて行きました。わたくしは無様な母とばあやを捨て置き、咲き誇る花々を眺めておりました。 
 しばらくし、廊下を駈ける音が致しました。わたくしが庭の花からそちらへ顔を向けますと、父が左手に刀を携えて立っておりました。大きく見開いて双眼を血走らせ、肩で大きく息をしています。
「ほほほ…… お父様、その刀、どうするのです? 自害でも為されるか?」
 わたくしはわざと小馬鹿にしたように言いました。父はからだを怒りに震わせ、抜刀しました。実の娘に刃を向けたのです。
「……鬼に成れぬ者が、鬼を斬れようはずが無かろう……」
 わたくしの口から、わたくしの声では無い声が出ました。低く、地の底から響いてくるような声でございました。見えているものが赤く血の色に染まっているように見えました。
「おのれ……」父が刀を構え直しました。「憑かれおったか!」
「……鬼が目覚めただけの事じゃ」
 わたくしの口が言います。わたくしの心は傍からこの様子を見ているようでございます。からだの全てがわたくしの思いとは全く別になって動いているのでございます。
 左様でございます。
 わたくしは鬼となったのでございます。
 

 つづく

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