堕天使のごとくに薔薇を擁く(かいいだく) 加藤三七子
加藤三七子は、句集「戀歌」で薔薇を十句詠んでいます。
「伊豆で薔薇園をもつ原田青児さんに請われて薔薇十句を送った」
と、後に述べています。
貴種となる古き佳き薔薇育てをり
戀ひにけり薔薇音たててくだつのち
薔薇枕つくる横顔見せゐたり
薔薇百花黒天鵞絨(くろビロウド)の夜がくる
母屋へと薔薇咲く中を脱けて来し
甲冑の顎かがやかす白薔薇
薔薇の辺や少年体まげ眠る
薔薇の園馴染みの雀きてをりぬ
ももいろの薔薇を咲かせて墓標とす
薔薇が好きなひとでした。
最近、「薔薇とバーグマン」(「雪女郎」所収)という、古いエッセイを
読み返していて、こんな文章に出会いました。
「父や母や姉や兄たちにかぎりなく愛されて育った幼年期の記憶の中に、
或る中断された空白があり、その空白に渦巻く真紅の薔薇だけが としてある、
聞けば三歳の時、子に貰われて行っていた時代が少しの間だけあったらしく、
子供心に、きびしくかなしいおもいで見た薔薇だったのではないかと思う。
その薔薇は三歳のころからずっと私の心を深く捉えてはなさなかったようである」
続けて
「薔薇以外に、好きな花はあっても、やはり薔薇の気品とロマンにはくらべられない」
と。
10年前、HPでこの人の俳句を何度か取り上げたことがあります。
お弟子さんが見つけたとのことで、喜んでいただいたことを、いまでも覚えています。
主宰されていた俳誌「黄鐘(おうじき)」に何度か、
俳句の門外漢の拙い文章を転載していただいたこともありました。
2005年4月5日夜、突然の訃報が入ってきました。
心不全でした、亨年79歳。
まだ早いというのが、実感でした。
もっとも好きな俳人のひとりでした。
その後、いつしかわたしは、日々の忙しさのなかで、
HPの更新を忘れていきました。
薔薇は「万葉」F 京成バラ園芸 1988年 撮影 2002年6月5日7:15
この画像は、翌日の撮影。 2002年6月6日12:15
以下は、初めてこのひとの俳句を記した文章の再掲です。
加藤三七子の世界 第1回
俳句の本ばかりの父の書架のなかで、異彩を放つ本があった。
「戀歌 加藤三七子」とは、およそ俳句のイメージにほど遠い題名であったが、
収められた句は、まこと戀歌と呼ぶにふさわしい、「うた」であった。
花鳥風月の俳句の世界に、女性のいのちの「うた」を吹きこもうとしてきた、
女流俳人たちの息吹が一気に花咲いたような、華やぎがそこにはあった。
ためらひし一と言白き息となる 「万華鏡」 昭和50年
この句を読むたび、わたしは橋本多佳子の「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」を
思い出す。多佳子の「息のつまりしこと」から三七子の「ためらひし一と言」の間には、
深い川が流れている。俳句は男の文学であるという深い流れである。
三七子はいとも軽々と川を飛び越えたように見える。けれど、架け橋となったのは、
おそらく何十年もの間、多くの女流俳人によって綿々とうたい継がれてきた、
いのちの「うた」であった。
春愁の昨日死にたく今日生きたく 「万華鏡」
不壊の愛おもふ螢のいきづかひ
きらめきて過ぎし一語や花林檎
たまきはるいのちなりけり白牡丹
抱擁を解くが如くに冬の濤 「螢籠」 昭和57年
花すすき袂重しと思ひけり
汝の手の芒をいつか我が持つ
冬夕焼人をあやむるごとき色
修羅見せて咲くはさくらの返り花
糸桜散りつつ夜ゝのもつれかな 「戀歌」 昭和63年
どの作品からも、映画のワンシーンのような情景が浮かびあがってくる。
ことばの背後の果てしない宇宙で、ひときわ鮮やかに煌いているのは、叙情性と物語性という、
華やかで、妖しい光である。
足すものも引くものもない。すぐれた俳句は、それ自体で完結している。
これらの句もまた然りである。けれども、これらのひとつひとつをいわばモチーフとして、
短編小説を書きたいというのが、わたしのひそかな夢である。
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加藤三七子は、句集「戀歌」で薔薇を十句詠んでいます。
「伊豆で薔薇園をもつ原田青児さんに請われて薔薇十句を送った」
と、後に述べています。
貴種となる古き佳き薔薇育てをり
戀ひにけり薔薇音たててくだつのち
薔薇枕つくる横顔見せゐたり
薔薇百花黒天鵞絨(くろビロウド)の夜がくる
母屋へと薔薇咲く中を脱けて来し
甲冑の顎かがやかす白薔薇
薔薇の辺や少年体まげ眠る
薔薇の園馴染みの雀きてをりぬ
ももいろの薔薇を咲かせて墓標とす
薔薇が好きなひとでした。
最近、「薔薇とバーグマン」(「雪女郎」所収)という、古いエッセイを
読み返していて、こんな文章に出会いました。
「父や母や姉や兄たちにかぎりなく愛されて育った幼年期の記憶の中に、
或る中断された空白があり、その空白に渦巻く真紅の薔薇だけが としてある、
聞けば三歳の時、子に貰われて行っていた時代が少しの間だけあったらしく、
子供心に、きびしくかなしいおもいで見た薔薇だったのではないかと思う。
その薔薇は三歳のころからずっと私の心を深く捉えてはなさなかったようである」
続けて
「薔薇以外に、好きな花はあっても、やはり薔薇の気品とロマンにはくらべられない」
と。
10年前、HPでこの人の俳句を何度か取り上げたことがあります。
お弟子さんが見つけたとのことで、喜んでいただいたことを、いまでも覚えています。
主宰されていた俳誌「黄鐘(おうじき)」に何度か、
俳句の門外漢の拙い文章を転載していただいたこともありました。
2005年4月5日夜、突然の訃報が入ってきました。
心不全でした、亨年79歳。
まだ早いというのが、実感でした。
もっとも好きな俳人のひとりでした。
その後、いつしかわたしは、日々の忙しさのなかで、
HPの更新を忘れていきました。
薔薇は「万葉」F 京成バラ園芸 1988年 撮影 2002年6月5日7:15
この画像は、翌日の撮影。 2002年6月6日12:15
以下は、初めてこのひとの俳句を記した文章の再掲です。
加藤三七子の世界 第1回
俳句の本ばかりの父の書架のなかで、異彩を放つ本があった。
「戀歌 加藤三七子」とは、およそ俳句のイメージにほど遠い題名であったが、
収められた句は、まこと戀歌と呼ぶにふさわしい、「うた」であった。
花鳥風月の俳句の世界に、女性のいのちの「うた」を吹きこもうとしてきた、
女流俳人たちの息吹が一気に花咲いたような、華やぎがそこにはあった。
ためらひし一と言白き息となる 「万華鏡」 昭和50年
この句を読むたび、わたしは橋本多佳子の「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」を
思い出す。多佳子の「息のつまりしこと」から三七子の「ためらひし一と言」の間には、
深い川が流れている。俳句は男の文学であるという深い流れである。
三七子はいとも軽々と川を飛び越えたように見える。けれど、架け橋となったのは、
おそらく何十年もの間、多くの女流俳人によって綿々とうたい継がれてきた、
いのちの「うた」であった。
春愁の昨日死にたく今日生きたく 「万華鏡」
不壊の愛おもふ螢のいきづかひ
きらめきて過ぎし一語や花林檎
たまきはるいのちなりけり白牡丹
抱擁を解くが如くに冬の濤 「螢籠」 昭和57年
花すすき袂重しと思ひけり
汝の手の芒をいつか我が持つ
冬夕焼人をあやむるごとき色
修羅見せて咲くはさくらの返り花
糸桜散りつつ夜ゝのもつれかな 「戀歌」 昭和63年
どの作品からも、映画のワンシーンのような情景が浮かびあがってくる。
ことばの背後の果てしない宇宙で、ひときわ鮮やかに煌いているのは、叙情性と物語性という、
華やかで、妖しい光である。
足すものも引くものもない。すぐれた俳句は、それ自体で完結している。
これらの句もまた然りである。けれども、これらのひとつひとつをいわばモチーフとして、
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