鹿追町立鹿追中学校

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学校だより「さく風」の記事より

2008-07-10 | 「学校長より」へ


       人 生 の 流 儀 = 教職を振返って

                         校長  堀  光 生

○「教えるとは、・・共に希望を語り合うこと」
○「学ぶとは、・・・人間としての完成度を磨くこと」 
                        (宮本武蔵:五輪書より)

 「誰でも職業に就いた際は、自分の心の中にプロ意識を植え付けることが、自らの仕事に対する誇りや自信を育む源になっていくのではないか。」という想いが、歳を重ねるにつれて近頃では強くなっている。私自身、教職について37年目を迎えているが、上述のように考えると、就職当初の2年間は(※当時の子ども達には大変申し訳ないことなのだが・・)、教員としてのプロ意識は極めて薄かった。
就職1年目を終えようとしていた3月に、当時の学校長に辞表を出したことがある。それは、前年に合格内定待機通知を受けていた或る所轄官庁より、防衛施設局職員の正式採用通知と共に、沖縄防衛施設局への派遣通知が届いたためであった。結局、悩みに悩みぬいた末に、教職の道を続けることに翻意した。しかし、二年目に入ってもなかなかこの想いが断ち切れなく、暫く尾を引きずっていた。
 三年目を迎える頃になって漸く気持ちが吹っ切れた。先ず、先輩教員から酷評されていた下手なガリ切りの文字を上達させることを手始めに、学生時代苦手だった跳び箱の台上前転も、日曜日ごとに(※当時土曜日は登校日)体育館で、子ども達に模範演技指導が出来るようになるまで練習を重ねた。
 40歳で初めて中学校に転勤した時は、小学校との大きな違いにカルチャーショックを受けた。中でも一番戸惑ったのは、進路指導と生徒指導だった。何事も一からのスタート。「下問を恥じず」と心得、腹を括(くく)って年齢を問わず職場の仲間に教えを請うた。
 自分の教職人生を振返ると、成功体験より失敗体験のほうが、はるかに多く思い出される。「失敗」は確かに辛い体験ではあるが、この"辛"に一本の棒を通すことで、自分自身の肥しとなり今の自分が在ることに疑う余地はない。  
"辛抱(棒)"と言う名の棒を創る時期は若ければ若い方がいいが、私のように40歳になってからでも、その後からでも遅くはない。心がけ次第で、かけがえのない財産を得ることができる。
今日も放課後の教室や校庭の其処彼処から、顧問教師の指導の下で生徒達が躍動している風が伝わってくる。生徒下校後の職員室で、小中高一貫教育の準備に余念のない本校職員の姿に頭が下がる。私自身、残された日々、いつまでも熱い想いだけは絶やさず「一日一生」の心で務めたいと考えている。
当時(※今年47歳)の教え子達と酒を酌み交わすたびに今でも言われる「あの時、先生がもっとしっかり教えてくれていたなら、もう少しまともな人間になっていたはずだ・・・。」との苦言は、さり気なく受け流しながら・・・。  

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