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「思いやり」Vs「人権教育」(その1)-2017年人権週間の最終日に寄せて-

2017年12月10日 02時05分21秒 | 障害者権利条約Vs障害福祉

「思いやり」Vs「人権教育」(その1)-2017年人権週間の最終日に寄せて-

1.遠ざけられる「人権」と形骸化する「啓発」の起源へ

毎年「人権週間」というのがある。12月4日から12月10日まで。
期間中、東京都ではテレビ・ラジオCMを実施しているのだそうな。東京都では「つなげよう!違いを求め、共に生きる街づくり」として、「東京都人権施策推進指針」に基づく人権施策を推進している、としている。
大田区でも区報で「人権特集号」が出される。大田区では「育てよう人権を大切にする心 東京2020オリンピック・パラリンピックに向けて」として、障害者差別解消法、ヘイトスピーチ解消法、差別解消法にふれている。
東京都、大田区、それぞれが「人権を大切にする」という時、具体的に何を大切にするのか、そのこと自体も重要だし、検討に値すると思う。

しかし、依然として憂慮することは、「人権教育」が、質・量ともに微妙な「啓発」であり、結局、一般に流布されることは「思いやり」という「心の問題」に過ぎなくなっていることだ。そのことには、おそらく多くの人が気づいているのだと思う。だが、そんなものだ、と諦めたまま数十年を過ごしているのだと思う。そんな「人権週間」を見ては不機嫌になるのは、ひねくれものなのだろうか。

ここ何年か、何人かの仲間と、「権利に基づく障害福祉」を訴えてきた。それがライフワークでもある。その中で、我々の周囲の障害福祉の世界が「権利」といかになじみにくいか、という問題に悩まされてきた。これまで多くの労力を投入して、そのことに抗い続けてはいるけれど、いまだ現実には、障害福祉という業界は、「権利」を口にすると疎んじられる界であり続けている。一方、障害者の権利の基礎になるはずの「人権」もまた、公的な建前で否定されるまでは至らないが、世間の人々の中ではすでに嫌われ者、という印象が拭えない。「人権派」という言葉が、侮蔑のレッテルとしての用語として闊歩するさますら見る。

これまで通り「人権が大切だ!」といい続けても、人権は死んでしまうのではないか?もう一歩、根源的な検討を加える必要があるだろう。

なお、今回、参照するのは石埼学・ 遠藤比呂通編『沈黙する人権』(法律文化社、2012年)、33ページ~第2章「人権教育再考」阿久澤麻里子である。


2.人権教育の意義と、日本における人権教育の変質の現状


(1)人権教育の制度化の歴史

「人権教育が急速な広がりをみせたのは1990年代以降のことである。ただし、国際社会と日本では、その背景が若干異なる。国際社会では冷戦が終結し、東西のイデオロギーの対立に終止符が打たれ、人権の普遍性と不可分性が「再認識」されたことがはずみとなった(1993年世界人権会議において採択された「ウイーン宣言及び行動計画」)。冷戦の終結によって、人々の関心は「海の外の脅威」から「身近な暮らし」に向くようになり、人権が市民にとっては日常の暮らしを点検する身近な「ものさし」と受け止められ、国家のアカウンタビリティを引き出す根拠となると、各国で民主化運動が進展した。こうした流れのなかで、民主的社会の担い手を育む教育の重要性が認識され、国連では「人権教育のための国連10年(1995年~2004年)に着手した。「10年」終了後は、「人権教育のための世界プログラム(第一段階:2005年~2009年、第二段階:2010年~2014年)」がこれを引き継ぎ、さらに2011年末の国連総会では、「人権教育及び研修に関する宣言」が採択されるなど、国連による人権教育へのとりくみは、これまで継続的・段階的に進んでいる。」(前掲書37ページ)


「一連のこうした国連のスキームの下で、各国でも人権教育に対して政策的、法的な裏付けを与え、人権教育を「制度化」する国が増えた。アジア太平洋地域だけに限っても、フィリピンが1987年の新憲法に、人権教育を実施する国家としての義務を盛り込んだことを皮切りに、各国で「人権教育に関わる国内行動計画」や「人権に関わる国内行動計画」が次々と策定され、国内人権機関が人権救済とともに人権教育に取り組み、政府の人権教育政策の立案・実施に関わるようになっている。
 これに対して日本では、同時期の国際社会の流れから影響を受けつつも、国内的な背景―問題の解決のために長年実施されてきた教育・啓発の取り組み(同和教育)を、「発展的に再構築」するという経緯―から、人権教育が政策的にスタートした。それゆえ、同和教育を引き継いだ人権教育・啓発では、問題をはじめとするマイノリティ問題の学習が重要課題として位置づけられている。たとえば「国連10年」に呼応し、日本政府が策定した「人権教育のための国連10年国内行動計画」(1998年)においては、女性、子ども、高齢者、障害者、同和問題、アイヌの人びと、外国人、HIV感染者等、刑を終えて出所した人、その他の10項目が個別課題として列挙され、これらの問題「について」学ぶ講演会や学習会が、人権教育・啓発事業としては一般的なものとなってきた。だがその一方で、人権そのもの(学習者自らの有する権利)を学んだり、意識化するという実践は弱い。」(前掲書38ページ)


「なお、日本では「人権教育のための国連10年国内行動計画」によって、国連の取り組みに呼応した計画が政府によって策定・実施されると共に、人権擁護施策推進審議会(1997年設置)によって人権政策のあり方が検討され、2000年には「人権教育及び啓発の推進に関する法律」が成立した。同法によって人権教育には国内法上の根拠が与えられるようになり、人権教育は国、自治体、市民社会の責務と位置付けられたため、各地の自治体の首長部局や教育委員会でも、人権教育・啓発に関わる基本計画や方針等の策定が進んだ。」(前掲書39ページ)

何とはなしに、フランス革命、とか日本国憲法、とかからしかイメージしてこれなかった「人権教育」の制度化が、つい最近おこなわれてきたのだ、という驚きがあった。また、日本の人権教育が国連のスキームに沿いながらも、マイノリティの問題について知る、という内容に傾斜している経緯も理解できる。
そして、「人権そのもの(学習者自らの有する権利)を学んだり、意識化するという実践は弱い。」という特性が、他の問題と結合する。


(2)「責務の保持者」の問題


「一方、国際社会と日本では、人権教育の「対象者」についての重点の置き方にも違いがある。国際社会における人権教育とは「市民を対象とする人権教育」とともに、これを実現する「責務の保持者の研修」の両者を含む概念である。権利の保持者である市民(rights-holders)が人権について学ぶだけでなく、人権を実現する責務をもつ側(duty-bearers)の意識と応答力を研修によって高めなければ、人権は「絵に描いた餅」になってしまう、との認識からである。とりわけ独裁・軍事政権による人権侵害を経験し、民主化を遂げた国々では、こうした意識は強い。というのも、こうした国々では、警察や軍隊などが人権抑圧の装置となり、人権侵害を「する側」にあったからである。したがって、ポスト民主化社会の人権教育は、「市民」と「責務の保持者の双方を対象者として実施される。
 このような考え方は、国連による「開発における権利基盤型アプローチ」(rights-based approach to development)によって強化された。権利基盤型アプローチは、開発の目的を人権の実現であるととらえ、権利の主体である市民には、それを法的に請求しうる権利があり(権利の請求者)、これに対して政府や行政機関には、それを実施する法的な義務がある(責務の保持者)と位置付ける。1997年の国連改革計画において、事務総長がすべての国連関係機関に対し、人権を活動・事業の中で主流化するよう呼び掛けたことによって(「人権の主流化」)、権利基盤型アプローチを取り入れる機関が増加した。
 ちなみにこうした枠組みによって、開発のための援助やプログラムは、慈善でも恩恵でもなく、人権=法的権利の保障である、ととらえられるようになった。もちろん、人権は法に定式化され、それを実現する「一義的」責務を有するのは国(憲法の名宛人、国際人権条約の名宛人である国)であるから、「権利基盤型アプローチ」は、何も新しい概念ではなく、人権の基本概念を確認したものにすぎない。
 ところで、こうした「権利基盤型アプローチ」の考え方は、国連による「人権教育のための世界プログラム」にも反映された。「人権教育のための世界プログラム」では5年ごとに「段階(フェーズ)」を区切り、その間、特に力を入れて取り組む重点領域を設定しているが、第一段階では「初等中等教育」、第二段階では「教員・教育者、公務員、法執行官、軍関係者」と「高等教育」が焦点化された。
 第一段階が学校に焦点を当てたのは、学校で、とりわけ義務教育段階で人権教育を行えば、将来の社会の担い手となる若い年代層すべてをカバーすることができるからである。つまり、第一段階は幅広い「市民を対象とした人権教育」に力を入れた期間であった。これに対して第二段階の主要な対象は、一定の権限を持ち「市民の人権を実現する責務の保持者」が対象である(なお、「高等教育」はやや位相が異なるので本稿では説明を割愛する)。なかでも、市民の権利を実現する一義的義務は国にあるから、その職員の研修は特に重要である。」
(前掲書39~41ページ)

人権教育における「責務の保持者」の問題は、以前も少し触れた。また、この観点から「大田区障害者権利条例素案」にはあえて1章を追加し「第5章 研修」を設けた。以下に「責務の保持者」について日本の現状が記されている。ここまでほぼ全文引用に近いが、すべてが重要と思われるので引用していく。

「ひるがえって日本をみると、一般に人権教育・啓発の対象は「市民」であると理解されており、「責務の保持者」への研修という視点は弱い。
 人権擁護推進審議会の設置を求めた「人権擁護施策推進法(1996年、5年の限時法)では「国は……人権尊重の理念に関する国民相互の理解を深めるための教育及び啓発に関する施策……を推進する責務を有する」(第二条)とあり、人権教育・啓発の推進が国の責務とされたことは評価されるが、その目的が「人権尊重の理念に関する国民相互の理解を深めるため」と限定されたことには注意が必要である。
 また「人権教育及び啓発の推進に関する法律」(2000年)は、「人権教育とは、人権尊重の精神の涵養を目的とする教育活動をいい、人権啓発とは、国民の間に人権尊重の理念を普及させ、及びそれに対する国民の理解を深めることを目的とする広報その他の啓発活動(人権教育を除く)をいう」(第二条)と教育・啓発を定義し、同法の下で策定された「人権教育・啓発に関する基本計画(2002年)の策定方針には「広く国民一人一人が人権尊重の理念に対する理解を深め、これを体得していく必要があり、そのために粘り強い取り組みが不可欠であるとの観点から、中・長期的な展望の下に策定する」と記されている。人権教育・啓発の対象とは「国民一人一人」であって、「責務の保持者」の研修についての位置づけがない。
 ただし、基本計画には、きわめて限られた量ではあるが「人権にかかわりの深い特定の職業に従事する者に対する研修等の取り組み」への言及があることを付け加えておきたい。特定職業従事者としては、検察職員、矯正施設・更生保護関係職員等、入国管理関係職員、教員・社会教育関係職員、医療関係者、福祉関係職員、海上保安官、労働行政関係職員、消防職員、警察職員、自衛官、公務員、マスメディア関係者の13業種が列挙されている。ただし、国・自治体の職員等と、マスメディアが混在しているなどの問題がある。これを整理したうえで、「責務の保持者」の研修を位置づけ、充実させることが望まれる。
 また、近年、個別法の領域では評価すべき進展もあることを付記しておきたい。2002年の名古屋刑務所での、刑務官による受刑者暴行事件を契機に設置された行刑改革会議の提言を受け、2005年の監獄法の改正以来、一連の改革が進められ、現行の『刑事収容施設および被収容者等の処遇に関する法律」では、受刑者の人権尊重とともに(第1条)、刑務官の人権研修(第13条)が明記された。
 「責務の保持者」という位置づけを明確化することは、人権問題の解決を「市民の意識だのみ」で行うのではなく、国・自治体が積極的役割を果たし、社会システムの構築によって問題解決を目指そうとする決意の表明である。人権教育が「権利の保持者」である市民と「責務の保持者」の双方に行われることによってこそ、人権は要求され、実現されるのであるから、それは幅広い人権行政の基盤を支えるものである。」
(前掲書41~43ページ)

以下は「その2」で展開することに。(3)は前掲書の続き、3.と4.は池上知子さんの論文を引く予定。
(予告して書かないことも今までしばしばあるのだが、今回は頑張りたいと思っている。)
以下次号
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(3)「思いやり」へ置き換わる「権利」
3.『「人権啓発」のリバウンド』という問題
4.人権教育の再検討への視点


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