沖縄の基地問題をめぐってこの間、強く感じているのは「条理を尽くして訴えても、人はなお自らの偏見に適合する虚偽の情報を探し求める」という、周囲の善良な人たちの一般的傾向だ。沖縄の問題について東京の人々が語る態度には、「沖縄の人たちが悪い」という結論に回帰したい、という潜在的な感情を感じる。多少、歪んだ情報の誤りを指摘したところで、潜在的にできあがっている選好を崩すことは困難で、すでに理屈でどうにかなることではない、という徒労感が常にある。私たちの家族や友人、職場の仲間の中にさえ「沖縄差別」が標準として存在している。普天間小学校への落下事件への「素直な」反応に、それは端的に表れている。そんな中で、重要な視点として引っ掛かり続けてきたのが池上知子さんの「差別・偏見研究の変遷と新たな展開-悲観論から楽観論へ-」だった。具体的にはまたさらに時間をおいて検討せざるを得ないのだが、検討に先だって私見の論点をのべておく。 . . . 本文を読む
映画『遺言〜原発さえなければ』と、映画『遺言〜原発さえなければ』を特別上映として『奪われた村〜避難5年目の飯舘村民』が破格の入場料で同時に見られる上映会が。6時間という長丁場だが、なかなかない機会では。 . . . 本文を読む