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「誰もが『差別する』ことから逃れられない」現実から始めるために

2018年02月25日 01時58分07秒 | Weblog

「誰もが『差別する』ことから逃れられない」現実から始めるために

前回の続き、ということで言えば、「人権の『思いやり』へのすり替え」について、阿久澤麻里子さんの論文を引用して書く、ということになっていたが、いろいろ考えた末、扱う順番を変えることにした。前回までは「人権教育のリバウンド効果」について、阿久澤さんの論文の次に池上知子さんの論文を引く予定だったが、池上さんの論文を先に引くことにする。そんなことをなぜ思い悩むのか、と思われるかもしれない。

前回の人権教育の歴史と課題の話に対する反響が悪かった、ということもあるが、普天間小学校へのヘリコプター窓落下事件への中傷の集中、という事態を受けて考え込んだことが大きい。昨年末、僕はそれを「私たちの家族や友人、職場の仲間の中にさえ「沖縄差別」が標準として存在している。普天間小学校への落下事件への「素直な」反応に、それは端的に表れている。課題は深刻で重い。」とした。

この厳しい現実に対し、それまでのように「自らの行動実践を通して、周囲の人々に『背中で』示す」という選択肢が失われている現在、それでも有効な方法論を模索しつつ見出せないまま時間が過ぎてきた。そんな中で、重要な視点として引っ掛かり続けてきたのが池上知子さんの「差別・偏見研究の変遷と新たな展開-悲観論から楽観論へ-」だった。具体的にはまたさらに時間をおいて検討せざるを得ないのだが、検討に先だって私見の論点をのべておく。


「潜在的にできあがっている選好」の壁

沖縄の基地問題をめぐってこの間、強く感じているのは「条理を尽くして訴えても、人はなお自らの偏見に適合する虚偽の情報を探し求める」という、周囲の善良な人たちの一般的傾向だ。沖縄の問題について東京の人々が語る態度には、「沖縄の人たちが悪い」という結論に回帰したい、という潜在的な感情を感じる。多少、歪んだ情報の誤りを指摘したところで、潜在的にできあがっている選好を崩すことは困難で、すでに理屈でどうにかなることではない、という徒労感が常にある。


「差別・偏見は、人間が獲得した正常な心理機能に根差している」という問題

池上論文は、「差別的行動や偏見に基づく思考は、人間が環境への適応のために獲得した正常な心理機能に根差している」「その機能はわれわれの意識を超えた形で働くため、これを統制することがきわめて困難である」ことを社会心理学の研究成果として指摘する。偏見の形成に少しでも掉さすような、有効な手段を見つけるためには、そこを十分に理解するところから始める必要があると、考えるようになった。


「誰もが差別から逃れられない」を認めることは、決して「差別とたたかう」ことを否定しない。

人間が環境適応のために差別的行動や偏見に基づく思考を正常な心理機能として獲得してきたとしても、「だから差別してよい」ではない。それは、人が生存のために暴力を必要としてきたからといって、社会化した人間が暴力を許さないのと同様だと考える。生物学的に獲得してきた本性だからといって、社会を形成する時には制御が必要なのだ。

「誰もが差別から逃れられない」は同時に、「誰もがこの社会では加害者でもあり被害者でもある」ということでもある。

加害-被害は個々の場合では固定的で絶対的に見えるが、一人の人間にもたくさんの社会的属性があり、その属性に規定されて、ある時は加害者、ある時は被害者である。「差別によって安心を得る」という人間の本質的な特性を認めてしまい、その上で「自分は差別や偏見を持たない」とする立場が危険で有害だ、という前提を共有したほうがよいと考える。


少し冷静に、かつ論理的に考えれば当然のこと、と僕などは思うが、一方で、「人は加害者であることへの倫理的な負債に耐えられない」という心理的規制もあり、それがまた偏見の根拠となっているから面倒だ。


加害者とみなされることへの恐怖

とりわけ、僕の先行世代は、この前提に対しては拒否的な傾向がある。その拒否の潜在的な根拠はおそらく「加害者とみなされることへの恐怖」だ。ひとたび加害者(差別者)の烙印を押されれば全ての力を失い、無限に責任追及を受ける、いわば終わりなしの袋叩きに会う、という恐怖だ。耐えられなければ逃亡しか許されない。実際そんな光景も見てきた。そうした歴史の結果、加害者認定の恐怖は、いつも自分を「被害者」に置くか、「被害者の味方」について、代理者として「加害者」を攻撃する、という生き残り戦略を選ぶ。

こうした指向性が、恣意的に加害者を設定して暴走を始める「全能感にとりつかれた『被害者』の暴走」=ヘイトを生み出してきたのでは、とも考えられる。


二極化現象を促進するもの

「誰もがこの社会では加害者でもあり被害者でもある」という前提を持たないから、不毛な二極化も進むのだと思う。「加害者Vs被害者+被害者の代理人」という構造は、法廷のような特別な場面を別として、その他の対話の場面では状況を悪化させるのだとも思う。その構造では、双方が加害の否認し、被害者の全能の権利の獲得を争うことにしかならない。


「どっちもどっち」の相殺型思考はさらに悪い

ただ、混同してはならないのは、「どっちもどっち」の相殺型思考は中立ですらない、ということ。この問題は池上論文を引用しつつ、別の機会に考えたい。



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